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真理子の聖書日記


このサイトを作りながら、聖書を読みながら真理子が考えたことです。
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[476] 今日の通読(7/25) 投稿者=真理子 掲示日=2012/07/25(水) 13:41:11 コメントする ここから閲覧

 この通読も、ふしふしキリの編集でいったん中断しちゃったせいで、さぼり癖がついてしまってなかなか回復しない。
 当分は、昨年読んだものは単にリンクを書くことにして、昨年読まなかったものを中心に書いていきます。
 そんなわけで今日は、詩編96-98編、三マカ2章、アルマ書62章なんですけど、詩編96-98編については[0:812]を見てください。モルモン経はアルマ書を放棄、次のヒラマン書から再開します。つまりこんどの日曜日からですね。
 さて三マカ2章。
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=3ma&chapter=2&mode=0
 前章ではピロパテル(プトレミオ四世)が強引にエルサレムの神殿の至聖所に入ろうとするところで終わりました。
 今日は大祭司シモンがお祈りして、そのお祈りを神様が聞き届けてピロパテルを罰し、彼はエジプトに帰ります。しかしこの事件がきっかけで、ユダヤ人に対しては厳しい姿勢で臨むようになります。要はみんな奴隷にしちゃうぞというんですが、ちょっとは考え直して、ユダヤ人の一部がギリシャの宗教に入るならば許してやるというんです。この結果一部の人が改宗して事なきを得ますが、その一部の人を大多数のユダヤ人は敵扱いします。

[475] ヨハネ3-4章 投稿者=真理子 掲示日=2012/07/21(土) 10:58:38 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=joh&chapter=3&mode=0 昨年度の記事は[0:806]
 まだ本調子じゃなく、無断休講が多くてすみません。
 先週ご紹介した田川建三先生の国際聖書フォーラムでの講演。ヨハネはやたらに細かい事実にこだわるという話でした。今日にまつわるところをご紹介すると、

ヨハ3:22-24
22 こののち、イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らと一緒にそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。 23 ヨハネもサリムに近いアイノンで、バプテスマを授けていた。そこには水がたくさんあったからである。人々がぞくぞくとやってきてバプテスマを受けていた。 24 そのとき、ヨハネはまだ獄に入れられてはいなかった。

の、24節は、 マコ1:14の「ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、」をハッキリと否定しているというんです。つまりマルコでは、ヨハネの投獄以降にイエスが宣教開始というのに、ヨハネはそうじゃなくて同時だったというんです。
 そしてこの話をうけて ヨハ4:1-2では、

1 イエスが、ヨハネよりも多く弟子をつくり、またバプテスマを授けておられるということを、パリサイ人たちが聞き、それを主が知られたとき、 2 (しかし、イエスみずからが、バプテスマをお授けになったのではなく、その弟子たちであった)

なんて書く。つまりさっきの ヨハ3:22ではついうっかり、イエス自身が洗礼を授けたと書いちゃったけど、実際に授けたのは弟子なんだよ、と訂正しているのです。
 こんなところから、洗礼者ヨハネの教団とイエスの教団とはある時期拮抗関係にあったことがわかるというのです。

 そしてヨハネ4章ではサマリヤの女の話が出てきます(田川先生はサマリアって書くんですけどここは口語訳式にサマリヤで行きます)。
 サマリヤについてはマルコは一言も書かない。マタイは「サマリヤ人の町には入るな」と露骨に差別。ルカは、ユダヤ人でないうえ、サマリヤ差別を体験的に知らなかったと見えて、サマリヤ人の話がちょこちょこ出てくるけど、イエス自身がサマリヤ人と親しくつきあって会話をしていた事実を伝えていない。それをちゃんと伝えているのはヨハネだけというんです。

 ヨハネは事実を伝えるよりも自分の神学をイエスにべらべら語らせるというイメージが強いんですけど、イエスがサマリヤ人に対しても親しくつきあうことでサマリヤ差別を克服していたのだという、イエス様の一面をしっかり事実として伝えているというのです。ヨハネをしっかり読み返さなきゃって思っています。

[474] 3マカ1章 投稿者=真理子 掲示日=2012/07/18(水) 20:13:14 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=3ma&chapter=1&mode=0

 外典コース水曜日は今日からマカビー記(マカバイ記)三です。以下マカビーでいきます。
 新共同訳の続編つきではマカビー記は2つしかありませんが、LXXには3と4があるんです。しかし1マカと2マカが続きではなく同時代であったように、この4つは内容的な関連が1→2→3→4とはなっていないのです。
 3マカの時代は1や2よりちょっと前。1や2が紀元前2世紀の中頃(1は175~前134年)だったのに、3は紀元前217年から始まります。内容的にも1や2とは関係ありません。ピロパテルと呼ばれたエジプト王プトレミオ4世が行ったユダヤ人迫害とそれに対する抵抗を扱っています。
 冒頭、ピロパテル、プトレミオという名前が何の説明もなく出てくるので、私の訳ではプトレミオ4世というのを補いました。
 この人がエルサレムに来たときに、神殿の聖所に強引に入ろうとして、みんなで抵抗しているのが今日の第1章です。
 さて、この続きはどうなるかという感じで、なんか展開がじらされてますね。

 正教会の礼拝に行くと、至聖所-信徒席-啓蒙者席と別れていて、信徒は至聖所に入ることができないし、正教会の洗礼を受けていない人は信徒席に入ることができません。そういうのに慣れてると、至聖所に入るというのがいかに冒瀆であるかが実感できますけど、さあ、この続きはどうなるんでしょうね。

[473] シラ書32章 投稿者=真理子 掲示日=2012/07/17(火) 14:15:16 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=32&mode=0

昨年度の記事は[0:848]
宴会の作法の話は何度読んでも面白い。シラ32:4の「余興のときにはくどくどしゃべるな」なんてそのとおりそのとおり。
昨年は、大学時代の聖書研究会の話をちらっとしましたけど、聖書研究会とはいえ学生のサークルなんで酒はいっぱい飲むわけです。昔は喫煙も当たり前だったからたばこ吸いほうだい。でも飲酒喫煙を厳しく禁じてる教派の人なんかもいたりして、コンパのときにはいつも「酒抜きにしよう」「酒抜きのコンパなんてありえない」と神学論争してましたわ。まあでも今にして思えば、酒が飲みたきゃ別の場に行けばいいんで、超教派のクリスチャンの集まりは酒抜きが無難かなと思ったりします。

[472] 歴代誌上1-4章 投稿者=真理子 掲示日=2012/07/17(火) 14:06:06 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=1ch&chapter=1&mode=0

昨年度の記事は[0:798]
旧約聖書の歴史書には、ヨシュア記~列王記という「申命記的歴史書」と、歴代誌・エズラ記・ネヘミヤ記という「歴代誌的歴史書」があります。
上村静先生は、前者を「自虐史観」、後者を「新しい歴史教科書」と呼んでいて、それがとてもわかりやすいので私も使わせていただきます。つまり前者は「イスラエルの民がいかに悪いことばかりやって国を滅ぼしたか」ということが、後者は「イスラエルの民もよいことをやった」ということが強調されているというのです。
南北王朝のうち北が先に滅んだということもあって、北は悪い王朝というイメージがあります。そこで列王記は北中心。南北並立期は南の話があんまり出てきません。逆に歴代誌は南ばっかり。だから両方あわせ読む必要があります。でも、似たような歴史書であるということもあり、ユダヤ教での歴代誌の正典編入は遅れ、現行のユダヤ教の聖書では諸書扱いで一番最後。「新しい歴史教科書」が嫌われたと同じように、歴代誌も嫌われたんですね。
さて、歴代誌の最初は長い長い系図。つまらないので飛ばし読みするにせよ、歴代誌の著者が、ちゃんと人類の始祖アダムから歴史を説き起こそうとする姿勢はくみたいと思います。

[471] ヨハネ1-2章 投稿者=真理子 掲示日=2012/07/14(土) 10:15:07 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=joh&chapter=1&mode=0
 昨年度の記事は[0:795]
 土曜日に読んでる福音書は今日からヨハネ。
 ヨハネといえば、今日の「初めに言があった」が有名。よく言えばとても哲学的、悪く言えばちょっとイっちゃったところがある。いずれにせよ共観福音書と違って、ヨハネのイエスはかなり変わっていて実際のイエスを知るには向かない福音書だというイメージがありました。
 ところが先日7/6、日本聖書協会の国際聖書フォーラム2012で、田川建三先生が講演したところによれば、ヨハネは意外に細かい事実にこだわるところがあるというのです。今日のところには出てきませんが、今後出てきたら指摘します。
 そしてそれは、ヨハネがマルコを知っていて、マルコの記述を訂正しようとしているのだと田川先生は言います。普通はヨハネは共観福音書とまるっきり独立してできたという説が多いのですが、田川先生はそうじゃないと言います。
 それから、ヨハネはペテロなどのひきいるエルサレムの教団に対して非常に批判的であり、そういうところが細部へのこだわりにあらわれていると言います。
 今日のところでいえば最初の「初めに言があった」は、ヨハネの根本思想ではなく、洗礼者ヨハネの教団の教えであって、洗礼者ヨハネを登場させるための単なるマクラにすぎない、その証拠にヨハネはこの後では「ことば」をイエス様であるといった独特な使い方をしていないというのです。最初だけだと言うんですね。
 また別の登壇者、ゲミュンデン先生は、(福音書の)ヨハネの教団は迫害を受けており、そのことによる不安、迫害への対処といった内容が読み取れると言っておりました。
 そんなわけで、今回の国際聖書フォーラムは、ヨハネに対する私のイメージを大幅に変えてしまいました。
 田川先生の訳すヨハネは今年末か遅くとも来年4月ごろまでには出るそうです。今年から来年にかけては、ヨハネに対するイメージが覆されそうでわくわくしております。

[470] エズ・ギ第1章 投稿者=真理子 掲示日=2012/07/13(金) 10:44:46 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezg&chapter=1&mode=0
 昨年度の記事は[0:926]
 すみません。まだ本調子じゃないんで、外典コースだけやります。
 
 エズ・ギの書名については[0:925]をごらんください。
 書きたいことはほとんど昨年書いてしまったので何も書くことはありませんが、一つだけ補足します。

 歴代誌の最後とエズラ記の最初はまるっきり同じであり、ネヘミヤ記はもともとエズラ記と一緒の本だったので、この3つを「歴代誌的歴史書」と呼んだりします。この3つをいろいろ内容を補って焼き直したのがエズ・ギというわけです。元のを読むよりこっちのほうが面白いので、外典を認めないプロテスタントの方も、どうせこのあたりは礼拝じゃ読まないでしょうから、続編つき聖書を買ってエズ・ギのほうをお読みください。
 もっとも、歴代誌下とエズラ記は同じ作者かというと、最近は違うという説のほうが普通みたいです。でも史観としてはとても似ている。
 上村静先生は、申命記的歴史書(ヨシュア記~列王記)を「自虐史観」、歴代誌的歴史書を「新しい歴史教科書」と言っています。申命記的歴史書が、イスラエルの民がいかに神様の言うことを聞かずに国を滅ぼしたかを描くものだとすれば、歴代誌的歴史書は、イスラエルの民もいいことをした、ちゃんと神殿を再建したじゃないか、という美しい歴史を描くものというわけです。
 来週火曜日から歴代誌が始まるのでまたそのときに書きますけど、バビロン捕囚という未曾有の苦難を経て、ユダヤ人がいかに立ち直ったかが歴代誌(の最後)とエズラ記・ネヘミヤ記なんで、それの焼き直しであるエズ・ギも、そういう観点で読むといいでしょう。
 そんなわけでエズ・ギは、ヨシヤ王のときの過越祭復活の話からはじめます。そういう美しい歴史を描くんです。でも国は滅び、人々はバビロンに連行されてしまいます。

[469] エス・ギ1章 投稿者=真理子 掲示日=2012/07/12(木) 08:08:25 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=esg&chapter=1&mode=0
 昨年度の記事は[0:491]
 外典は今日からエステル記・ギリシア語。金曜日の外典は明日からエズラ記・ギリシア語。エス・ギとエズ・ギの違いです。紛らわしいので気をつけて。
 エス・ギのほうは昨年度の記事に長々と書きましたんでこれを見てください。
 エステル記の物語に、外国人にはもうちょっと補わないとよくわからないっていう話を補ってあるんです。ですから、ある部分はまんまエステル記ですが、ある部分は追加されてるという感じです。
 今日のところは追加分。話の主人公モルデカイが夢を見ます。これからの試練を予兆させるようなもの。謎解きは最後の15章に出てきますが、それは後のお楽しみ。

[468] 箴言14-15章 投稿者=真理子 掲示日=2012/07/12(木) 07:59:39 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=pro&chapter=14&mode=0
 昨年度の記事は[0:790]
 箴言のことわざは、前半と後半の2つの文からできている場合、「真実な証人はうそをいわない、偽りの証人はうそをつく。」 箴14:5みたいに前半と後半が逆になっているものが多いんですけど、ときどき、あれっと思うものがありますよね。
 たとえば 箴14:15
  思慮のない者はすべてのことを信じる、さとき者は自分の歩みを慎む。(口語訳)
 後半は、「賢い者はみだりに信じようとしない」みたいな話になるかと思いきや、なんかちぐはぐです。まあ、たぶん「歩みを慎む」っていうのがそういう意味で使われるんだろうなって推測ができますけどね。新共同訳なんか「熟慮ある人は行く道を見分けようとする。 」ですから、そういう観点でけっこう補ってますよね。
 ヘブライ語は
http://interlinearbible.org/proverbs/14-15.htm
で、後半は「かしこい人は、しっかり考える、自分の行く道を」ですから少しはわかりやすい。
 昔の人もこういうのは悩んだみたいで、LXX(七十人訳ギリシア語聖書)では、
πανοῦργος δὲ ἔρχεται εἰς μετάνοιαν
なんて書いてます。きもは最後のμετάνοιανつまりμετάνοια(メタニア)。七十人訳の語だと必ずしも新約聖書用のギリシア語辞典
http://www.babelbible.net/bagster/bagster.cgi
には載ってなかったりしますけど、これはちゃんと載ってます。Bagsterのp.266の右上。μετανοέωの項の中です。昔の辞書はこんなふうに、名詞も関連する動詞でひけっていうんでよけいにひきにくい。まあ、Bagsterはちゃんと変化形からひけるんですけどね。
 このμετανοέω(メタノエオ)って動詞は「考え直す」「後で気がつく」ってとこから「後悔する」って意味になる。新約では「悔い改め」の意味で出てきます。たとえば マタ3:8「だから、悔改めにふさわしい実を結べ。 」の「悔改め」がμετανοίας(メタニアス。名詞形の属格)です。
 だから七十人訳は、「でも、かしこい人は悔い改め(の道)を歩む」ってとこかしら。ギリシア語読むのがめんどくさい人はlxe(Brentonが訳した七十人訳の英訳)を読みましょう。
The simple believes every word: but the prudent man betakes himself to after-thought.
 そうすると、もとのヘブライ語は「みだりに信じない」みたいな話だったのが「悔い改めの道を歩む」だから、ちょっと変わってきますね。信じないというより、たえず反省しろっていう。
 七十人訳はもとの話をけっこう変えることが多いんで、たぶんこれはもとのヘブライ語のほうが正しいんでしょうけど、もとのヘブライ語がわかりにくいときに、昔の人がどう格闘したのかを見るのには楽しいです。
 愚か者はふしキリみたいな駄本を読むとすぐ信じちゃうけど、賢い人はみだりに信じない(ヘブライ語)、もしくは、ちゃんと確認・点検する(ギリシア語)ってことかしら。

[467] 詩編90-92編 投稿者=真理子 掲示日=2012/07/11(水) 12:01:53 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=psa&chapter=90&mode=0
 昨年度の記事は[0:789]
 通読を再開するといいながら昨日はさぼっちゃいました。ふしふしキリ(今度出す『ふしぎなキリスト教』の批判本『ふしぎな「ふしぎなキリスト教」』)のことで突発的事態があって朝から国立国会図書館に行ったりしてて、帰ってからも疲れてぐったりしておりました。まだまだリハビリ中です。
 今日はこれ以外に2マカとモルモン経のアルマ書を読まなきゃならないんですけど、すみません、詩編だけにします。
 ついでながら本来であれば2マカはおしまい。来週から3マカになります。こんなふうに今週から来週にかけてうまいぐあいに区切りを迎えるものが多いので、リハビリには最適のタイミングかしら。

 詩編もうまい具合に今日から第4巻。
 90編は「モーセの祈り」です。120歳まで生きたはずのモーセが「一生は70年」なんていってるという話は昨年言いましたけど、うちは早死にの家系なんで、主人も私も、あと20年生きられれば十分ってとこかしら。苦労の多い人生、ぱっと散りたいわ。
 で、モーセさんによれば、人は死ぬとちりに帰るわけですね。こういうのが伝統的なユダヤ教の死生観みたいです。ちりから作られたんだからちりに帰る。西側の神学だと、アダムの堕落によって人の命が有限になったみたいに考えますけど、本来はそんなことじゃなく、最初からちりに帰るものとしてつくられたわけですね。でもいいのよ、ちりに帰って、またちりから作られればいいんですもの。

[466] レビ記22-24章 投稿者=真理子 掲示日=2012/07/09(月) 11:34:33 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=lev&chapter=22&mode=0
 昨年度の記事は[0:784]。ユダヤ教のお祭りの話をまとめてますので参考にしてください。

 ずっと律法の話ばっかりかと思いきや、レビ24:10-23のところでは、こわい話が書かれていますね。エジプト人とイスラエル人の間に生まれた子が、なにかのケンカの際に神様を呪っちゃった。それで石打ち刑です。
 出エジプト記の後半もときどきこういう具体的なエピソードがあがってましたが、レビ記でもそうなんですね。
 ところがその最中に、「人を撃ち殺したものは必ず殺されなければならない」とか、例の「目には目、歯には歯」なんて話もあるわけですから、なんかミスマッチな感じです。

[465] 通読を再開します 投稿者=真理子 掲示日=2012/07/09(月) 09:52:29 コメントする ここから閲覧

 [464]でお話ししましたとおり、「ふしぎなキリスト教」への批判行動として、「ふしぎな「ふしぎなキリスト教」」という批判本の発行と、「いのりフェスティバル2012」への出展を大きな柱とする戦いをしてきました。そのため一時、聖書の通読をお休みしていましたが、「ふしぎな「ふしぎなキリスト教」」の原稿が一応完成したので、聖書の通読のほうを再開します。
 とはいえ、1ヶ月半も休んでしまったのでリハビリをしながらじゃなきゃダメですね。聖典はともかく、外典のほうは通読にあわせて独自訳「真理子のおまけ」を作成してきましたが、それも全部さぼってきましたから。
 さしあたりこんな感じで再開します。

正典コース=通常に戻します。
外典コース=月曜日のソロモン詩編はこのまま放棄、後日あらためて訳を掲載します。イミタチオは中断部分の訳を放棄して別の機会に訳します。カレンダーどおりにまた訳をしていきます。
異教コース=クルアーンは中断部分の訳を放棄して別の機会に訳します。モルモン経も動揺です。もっともモルモン経はモルモン教会57年訳そのまんまですけど、誤入力の点検とルビふりをやってきました。中断部分のその作業を放棄して別の機会にまわし、カレンダーどおりに再開しますが、すみません来週からにします。

[464] 当分お休みします 投稿者=真理子 掲示日=2012/05/16(水) 10:11:17 コメントする ここから閲覧

 えっと、Twitterのほうでは私と主人とで「ふしぎなキリスト教問題を考えるツイッター市民連合」を立ち上げて、9/29の「いのりフェスティバル2012」 http://www.inofest.com/ に向けて活動を始めました。
 当初は、この日までに「ふしキリWiki」http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/ を印刷して、この日一日で配ろうと思っていたのですが、事態が予想外に進展し、この日を待たずにもっと大量に印刷して各教会にばらまかないと、日本のキリスト教界がみんな「ふしぎなキリスト教」に汚染されてしまう危機に直面しています。
 そこで、当分この仕事に従事したいので、こちらのほうの連載を休ませていただきます。
 なお、通読表にしたがってクルアーンやイミタチオのデータの入力は続けていきます。

[463] 火曜日までお休みします 投稿者=真理子 掲示日=2012/05/10(木) 22:23:32 コメントする ここから閲覧

この「真理子の聖書日記」、今週末に主人の死んだ父の納骨に北海道に行くため、聖書通読表を追いかけて入力しているイミタチオやクルアーンの入力を不在中のぶんもしなければならず(ちょうどGW進行、年末進行みたいなものです)、火曜日までお休みします。不在中の内容は後日まとめて書きます。

[462] アルマ書7章 投稿者=真理子 掲示日=2012/05/09(水) 10:59:50 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=alm&chapter=7&mode=0
 ギデオン市に行ったアルマは、人々にイエス・キリストの出現を予言します。でもまだ80年も先の話なんですけど……

[461] 2マカ6章 投稿者=真理子 掲示日=2012/05/09(水) 10:57:07 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=2ma&chapter=6&mode=0
 昨年度の記事は[0:617]
 アンテオコス・エピパネス王がギリシャの習慣をユダヤ人に押し付ける話。
 神殿には神殿娼婦が出入りし、禁じられたものがささげられ、割礼を息子にほどこした母親が殺され、安息日を洞穴でこっそり守っていた人たちが焼き殺され……おどろおどろしいですね。あげくの果てには、90歳のエレアザル老人が、禁じられたものを食べるくらいならと死を選ぶ。こういうおぞましい話をこれでもかこれでもかと書くのが2マカの特徴です。

[460] 詩編63-65編 投稿者=真理子 掲示日=2012/05/09(水) 10:23:26 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=psa&chapter=63&mode=0
 昨年度の記事は[0:648]

●詩編63編
 冒頭の「わたしは切にあなたをたずね求め、わが魂はあなたをかわき望む。水なき、かわき衰えた地にあるように、わが肉体はあなたを慕いこがれる」が美しい。本当に神様の助けが必要だと思ったときの気持ちってまさにこんな感じです。
 音楽のほうはアングリカン(英国国教会)の聖歌
Psalm 63 - Anglican Chant, Jones

(http://www.youtube.com/watch?v=pfXjealcw3o)

●詩編64編
 これも「苦しいときの神頼み」ですけど、敵の描写が実にいやらしく描けてますね。つるぎのようにとがれた舌で敵はおそってくる。しかし神はその舌のゆえに彼らを滅ぼす。ネットで人から攻撃を受けているときの祈りに最適です。
 音楽のほうはダンスによる祈りです。私はあんまりこういうの好きじゃないけど。
Dance Prayer

(http://www.youtube.com/watch?v=3JFK0Y_vdHg)

●詩編65編
 冒頭近く「われらのとががわれらに打ち勝つとき、あなたはこれをゆるされる」、ふつうは私たちががんばって罪を克服した結果許されるって発想になるところですが真逆ですね。私たちが罪に征服され負かされてしまうそのときにこそ神様は許してくださる、というのが、ユダヤ教・キリスト教的発想です。人間はもともと悪いんです。自分で罪を克服できるなら神様なんかいらないんです。自分では何もできない弱い存在だからこそ神様に助けてもらわなきゃならないんです。
 音楽のほうはケンブリッジ大学をバックにまたしてもアングリカンの聖歌。
King's College Cambridge Psalm 65 Thou O God art praised in Sion (Chant: Atkins)

(http://www.youtube.com/watch?v=K35KXs5gjiI)

[459] アルマ書6章 投稿者=真理子 掲示日=2012/05/08(火) 14:28:29 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=alm&chapter=6&mode=0
 あら、すごく短いわ。
 アルマはゼラヘムラの改革を終えると、ギデオン市に宣教に出かけます。

[458] シラ書22章 投稿者=真理子 掲示日=2012/05/08(火) 14:17:31 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=22&mode=0
 昨年度の記事は[0:818]
 愚か者、怠け者に関することわざの続き。10節「愚か者に語るのは、うとうとしている者に話しかけるようなもの。話し終わっても、今なんて言ったのかと聞かれるだけ。」なんていうのは面白いですね。
 ……こんなふうに、断片的なことわざ集についての感想は、やっぱり断片的にしか言えない。

[457] 列王記上1-4章 投稿者=真理子 掲示日=2012/05/08(火) 12:43:53 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=skd&book=1ki&chapter=1&mode=0
 昨年度の記事は[0:647]
 サムエル記と内容が続いていますが今日から新しく列王記に入ります。なお、「記」は「紀」とも書かれますが、どっちでもいいことにします。
 1章。いきなり色っぽい話ですが、うちはこの話、人ごとじゃなくなっちゃいました。主人の生殖能力がなくなっちゃったんです。それでもエッチはやってます。勃起だの射精だのにこだわることなく、裸でいちゃいちゃしているだけでも幸せなんです。大事な夫婦のコミュニケーションです。最近、週刊現代だのプレイボーイだの週刊大衆だの、おじさま向けの週刊誌じゃ、老夫婦のセックスの特集が多いですね。いまこれをニヤニヤしながら読んでるそこのあなた、これ人ごとじゃないと思うわよ。その日が来たときのためにちゃんと考えておきなさい。
 それはともかく、ハギテとの間にできたダビデの四男アドニヤがクーデターを起こして王を称します。将軍ヨアブ、祭司アビヤタルをはじめ、ユダ族はみんなアドニヤを支持しちゃったみたいです。大変大変。ダビデはバテシバ(ソロモンのお母さん)を呼んで相談、ここで王位をソロモンに譲って後継体制をしっかりします。アドニヤに招かれた人は、これはやばいと退散。
 2章。ダビデが死んでソロモンが即位。アドニヤは何を思ったか、上で話した老年のダビデがいちゃいちゃしていたアビシャグを妻にほしいとバテシバに相談。これを謀反ととったソロモンはアドニヤを殺し、アドニヤを支持していたヨアブも殺し、アビヤタルを追放します。後継将軍にはヨアブを殺した功績でベナヤ、祭司はザドクになります。
 また、ダビデがアブサロムから逃げていたときにダビデを侮辱したシメイは、許されてはいましたが、謀反の動きを見せたので死刑に処せられます。
 3章。ソロモンはエジプトのパロ(ファラオ)の娘をめとって同盟関係を強化します。これがソロモン流のやり方なんですが、後のユダヤ教の立場からは、このような異国人との結婚は激しく批判されることになります。
 そしてソロモン版大岡裁きの話。ソロモンは知恵あることが特徴ですが、面目躍如ですね。
 4章。ソロモン体制の名簿。なお、BHS(および新共同訳)では切り方がかわって、21章以後を次の5章とします。

[456] アルマ書5章 投稿者=真理子 掲示日=2012/05/07(月) 18:27:58 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=alm&chapter=5&mode=0
 なんかずいぶん長いですね。
 ニーファイハに判事職を譲って自分は祭司専門になったアルマが人々に説いた教えというわけですが、時代は紀元前83。イエス様の時代に近づいたとはいえ、まだイエス様は登場していないわけですから、そんな時代の説教の中にキリストはともかくイエスという固有名詞が出てくるのはおかしいと思うんですけど。

[455] ソロモンの詩篇8章 投稿者=真理子 掲示日=2012/05/07(月) 18:25:00 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=pss&chapter=8&mode=0
 内容的には、罪を犯した民が神様の怒りに触れて捕囚されたり離散させられたりしたことに対して、そのさばきは正しかった、私たちが悪かったと悔い改め、もう悪いことはしませんからあわれんでください、見捨てないでくださいと祈る詩です。前半のところでは、外国人に攻められるさまを、神様がわざわざ導いたのだととらえています。
 ところで14節に、「水で割らないぶどう酒」とありますね。ということはこれが書かれた時代(紀元前1世紀)のぶどう酒は、水で割って飲んでいたってことです。今の相場はワインが8-9度、日本酒が12度くらい。これ以上度数を増すと酵母が死んでしまうので蒸留しないと無理ですから、この時代のぶどう酒は今と大して度数はかわらないと思います。とすると本当に水代わりの飲料という感じです。そんなことが、丹下和彦『食べるギリシア人』(岩波新書)にも書いてありました。この本、基本的に古典時代の話ですけど、ワインの水割りの件に関してはローマ時代も同様だとあるので、イエスやパウロの時代のワインもそうだったというわけです。
  一テモ5:23に、「水を飲まずぶどう酒を飲め」とあるのは、食中毒の危険があるので水が飲むとやばい(今でも世界的には生水は飲めない土地のほうが普通です)からぶどう酒を飲めってことでしょうが、禁酒を説く教派はこの部分がひっかかるらしい。聖書っていうのは文字通りに読むのではなく、ぶどう酒というのが当時の人にとってどういうものであったかをとらえて解釈しないと、困った話になると思います。

[454] 出エジプト記33-36章 投稿者=真理子 掲示日=2012/05/07(月) 18:05:43 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=exo&chapter=33&mode=0
 昨年度の記事は[0:646]
 前回32章でモーセが怒り狂って契約の書かれた板をこわしちゃった話が出てきましたが、33章では神様は、「さっさと約束の地へ行け、でもオレは行かん」とだだをこねますが、人々はこれを悲しみ、モーセの懸命のとりなしによって、わかったよ、行くよといわせます。でも、「あなたがたは、かたくなな民だ」( 出33:5)なんてヤハウェくんこそ、「実にあらぶる神だ」と私は思います。ここぞというときに登場してくれれば、ふだんは一緒にいないほうがいいんじゃないかしら。
 34章ではまた契約の板を作って十戒を書きます。ただし聖書の本文はポイントをしぼって、ほかの神を拝むなっていうのと、安息日の話とお祭りの話をメインにしています。そして、ふたたび契約をもらったモーセの顔が光っているというのが、 出34:29-30にありますが、これをヒエロニムスが「角がはえている」と誤訳したのがラテン語訳ヴルガタです。
 35章では安息日の話をちらっと繰り返した後、ささげものを持ってこさせた話。
 36章は幕屋聖所の建設の話。

[453] アルマ書4章 投稿者=真理子 掲示日=2012/05/06(日) 07:31:59 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=alm&chapter=4&mode=0
 通読計画では異教コースとしてモルモン経とクルアーンを読んでいます。私は別にモルモン教徒でもイスラム教徒でもありませんが、聖書を発展させた宗教書を読むことで、クリスチャンとしての自分の立場を相対化し客観視する訓練になると思っています。聖書にこんな変な物語を付け加えやがってと憤慨する人は、新約聖書だってユダヤ教徒から見ればそう見えるっていうことに気づきましょう。だからといって私たちはやっぱり新約聖書を大事にしますけど、それはそれとして、自分たちを相対化、客観視する訓練も必要だってことです。

 さて、モルモン経になじみのない人のために、日曜日はいままでのあらすじから入ります。
 紀元前600年ユダ王国滅亡直前、王国の滅亡を予言したリーハイは迫害されてエルサレムを脱出、一族もろとも新大陸アメリカに移ります。リーハイの死後、それまでもちょくちょく対立してきた長男レーマン(悪玉)と四男ニーファイ(善玉)の対立が激化。ニーファイらは別の地に住みます。ところがニーファイの子孫も堕落、モーサヤが脱出してゼラヘムラに逃れます。ベニヤミン王の治世を経て、息子モーサヤ(おじいさんと同名)はかつてのニーファイを探検すべく、アンモンらを遣わします。ニーファイ人のリムハイ王に謁見したアンモンは、ニーファイ人がレーマン人の奴隷になっている事実を知らされます。彼らはアンモン探検隊と一緒にこの町を棄ててゼラヘムラに移住、さらにリムハイ王の先代の悪王ノアに反対して逃亡していた祭司アルマもゼラヘムラに移住、ここにめでたく、ニーファイ人のうちの宗教的に正しい人々のグループがすべてゼラヘムラに集まるようになります。
 彼らはアルマの子のアルマJr(以下単にアルマ)の時代に共和政に移行しますが、やはり堕落は世の常、堕落した人々のうちアムリサイは王を自称して悪玉レーマン人と組んでニーファイ人と戦い、多くの犠牲が出ます。
 ここまでが今までのあらすじ。

 それやこれやで時代はBC83。やはり堕落の芽があちこちで芽吹き、危機的な状況です。祭司アルマはニーファイハ(へんな名前。英語ではNephihah)を大判事に命じ、自分は判事の職をしりぞきます。

[452] 3イミ21章 投稿者=真理子 掲示日=2012/05/06(日) 05:56:34 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=3ic&chapter=21&mode=0
 イミタチオ(とは何かについては[449])の第3巻は、信者(ないし著者)とキリストとの対話になっています。訳本の中には(主)(信徒)のような形でどちらの発話であるかを明記しているものが多いのですが、そんなものは読めばわかるので、真理子のおまけ(口語訳聖書を選んだときに表示される文。上のリンクです)では割愛しました。今日のところでは、5節の「わたしはここにある」~「来させたのである」だけがキリストのせりふで、あとは信徒のせりふ。
 *真理子のおまけとは=当サイトでは、デフォルト聖書である口語訳聖書を選べば、取り扱っているすべての文書を読めるようにしたいので、口語訳聖書に入っていないクルアーンやイミタチオや外典類は、私の独自訳を「真理子のおまけ」としてぶちこんでいます。ちなみに著作権はフリーです。著作者人格権を含めて放棄します。

 この世のすべてはむなしく、神こそが慰めであるというのを延々とたたえています。言葉に言葉を重ねるリフレインが多く、祈りというより詩になっています。

[451] 2コリ11-13章 投稿者=真理子 掲示日=2012/05/06(日) 05:46:48 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=2co&chapter=13&mode=0
 昨年度の記事は[0:643]
 最後までB、いわゆる「涙の手紙」です。2コリの構成については[388]を、パウロの年表については
http://www.asahi-net.or.jp/~zm4m-ootk/pauronenpyou.html
をご覧ください。
 11章の話だけ書きます。冒頭に「わたしが少しばかり愚かなことを言うのを、どうか、忍んでほしい」ですって。「愚かなこと」と前置きすればいくらでも愚かなことが書けます。「失礼ながら」といえばいくらでも失礼なことが書けます。「忍んでほしい(お許しください)」と書けばなおさらです。パウロはなんと直後で「もちろん忍んでくれるのだ」ですって。
 こんなふうに11章は突っ込みどころ多数。 二コリ11:5では、使徒たちに比べても私はひけをとらないなんて豪語するかと思うと、 二コリ11:6では「話はへただ」といっている。本当に話がへただったのかもしれません。
  二コリ11:9では、あなたがたのためにカネ集めもがんがんやったなんて書いてありますね。
 そんなことを言いながら、ニセの使徒たちに注意といい、16節以後ではパウロ自身の苦労と迫害のさまをいろいろ書いてあります。そのなかで 二コリ11:25の「一昼夜海上にただよった」って、 使27に書いてあるあれでしょうか。でもそれだと年代的につじつまが合いません。あれ、パウロの難破はこれだけじゃなかったのでしょうか。ずいぶん難破に合う人ですね。引照つき聖書でも、ここはつじつまが合わないので引照書いてないと思います。たぶんこれは、後の人の手が入ったんじゃないでしょうか。ローマ行の途中に遭難してマルタに上陸した話を知っている人がここにぶちこんじゃったんだと思います。

[450] クルアーン42回 投稿者=真理子 掲示日=2012/05/05(土) 14:41:51 コメントする ここから閲覧

 クル-42回。10章1-25節。
 10章はヨナの章。ただしヨナはまだ出てきません。
 井筒訳では、「ユーヌス(平安その上にあれ)」なんて書いてあります。これってなんだかなあ。
 ユーヌスというのはヨナのことですが、「平安その上にあれ」っていうのは、アレイヘ・アッサラームって言いまして、ヨナという名の後ろの上、アラビア語は右から左に書くので左上になります。そこに小さくアレイヘの最初の2つの子音を書くんです。こんなふうに、預言者などの名前に短いお祈りの言葉をつける習慣っていうのがあるんです。ちなみにこれ、Unicodeにもちゃんと定義されていまして、16進数表記で0611になります。お手元のIMEの文字コード表で出してみるか、
http://www.unicode.org/charts/PDF/U0600.pdf
で見てください。その0611です。このゴミのような小さい文字を左肩につけるんですね。
 こういうのは普通は無視します。が、井筒訳は他の箇所は訳してないのに、ここだけなぜか訳してるんですね。ちょっと意図が不明です。

[449] 1イミ21章 投稿者=真理子 掲示日=2012/05/05(土) 14:28:21 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=1ic&chapter=21&mode=0
 1イミというのは「イミタチオ第1巻」。イミタチオというのは15世紀に書かれた修養書、イミタチオ・クリスティ。『キリストにならいて』という訳で有名です。伝統的にトマス・ア・ケンピスの著とされてきましたが今ではヘーラルト・ホロートという人の作とされています。もちろんこれは聖書ではありませんし外典ですらありませんが、うちのサイトの聖書通読(外典コース)では、外典だけだと1年間ぶんに足りないので、土曜日と日曜日にこの本を読んでいっております。

 さて第1巻21節は、悔い改めについて。自分が罪深いものであると徹底的に自覚することが信仰のはじめです。罪深いからこそこの世ではさまざまな危険にあう可能性がある。するとこの世の楽しみを追うのがむなしく、神により頼む姿勢が出てくるのです。
 2節の後半「習慣を克服するのは習慣だ」というのは、悪い習慣をなくそうと思ったら、よいことをする習慣を身に着けて、悪いことをする暇をなくしてしまえということです。面白い言葉ですね。

[448] ルカ5-6章 投稿者=真理子 掲示日=2012/05/05(土) 14:17:24 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=luk&chapter=5&mode=0
 昨年度の記事は[0:641]
 今みたら、昨年はあがいて変なことを書いてますね。でも今年もあがかざるを得ないわ。だって、すべてのエピソードが、どこかでコメントしたおぼえがあるものばかりですもの。
 まあいいわ、一番最初の話を書きます。
 後にペテロ(ペトロ)と呼ばれる漁師のシモンとイエス様の出会いのシーン、イエス様が「ここに網をおろすと魚がとれるぞ」という言うので、半信半疑網をおろしたら、たしかにいっぱい魚がとれた。これでペテロはイエス様に従う。魚がとれたあとペテロは「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」といいました。最初に疑っちゃったのを恥じたんでしょう。
 でもペテロのこのような半信半疑の態度こそが望ましい信仰なのではないかしら。
 だって、最初からはいはいと言ってすぐに網を下ろしたらただのバカです。ペテロはプロの漁師で、イエス様は素人、しかも初対面です。「ばかいっちゃいけねぇ」と一笑に付すことこそが普通の反応だと思います。むしろ私はペテロが最初に「しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」と言って、疑いながらも網を下ろした時点で、ペテロの信仰はただものでないと思います。ペテロをこのように動かしたのは何だったのでしょう。
 前に、『Meak's Cutoff』sという映画の話をしました([350])。開拓者たちがインディアンの襲撃を避けて移動。近道を知っているという白人ミークにだまされて迷ってしまう。そんな中、道を知ってそうなインディアンの男に出会う。さてこの男を信用してよいか…
http://www.junglecity.com/event/moviereviews/meekscutoff.htm
 もう瀕死の状態(実際死者も出てる)で、これ以上トライ&エラーをしている余裕なんかないってときに、このインディアンを信用してついていくかどうか。信仰っていうのはそういう賭けなんじゃないかしら。誰も100%の信頼感をもってから信仰をする人なんていない。90%の不信の中にも10%くらい、「この人についていけば大丈夫かも」みたいなものがあって、ついていくのが信仰じゃないかしら。そのときに「ついていきなさい」とふっと背中を押すのが、キリスト教業界用語でいう聖霊ってものなのでしょう。たぶんペテロも、聖霊にふっと背中を押されたのではないかしら。

[447] クルアーン41回 投稿者=真理子 掲示日=2012/05/04(金) 10:22:17 コメントする ここから閲覧

 クル-41回。9章93-129節。
 ここも訳すのがとてもかったるかった。だって本当にワンパターンなんだもの。
 イスラムでは、622年にムハンマドがマッカ(メッカ)での布教をあきらめます。ここはクライシュ族が支配していたんですが激しく迫害されたからです。そこでキリスト教徒の王の治めるアクスム王国のヤスリブに移住、ここをマディーナ(メディナ)と改称します。これがイスラム教の教団のスタートということでここかイスラム暦が始まります。クル9:100で、「移住した者」「援助した者」というのはこのときのことを言っているのです。

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