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真理子の聖書日記


このサイトを作りながら、聖書を読みながら真理子が考えたことです。
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[926] 詩編128-130編、エズ・ギ第1章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/19(水) 13:41:06 ここから閲覧

●詩編128-130編
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=skd&book=psa&chapter=128&mode=0
 今日のところではなんといっても130編「深き淵より」。どん底の状態でこそ主に切実に祈る様を簡潔に力強くうたいあげています。
 これはルターの詩によるコラールが有名で、讃美歌1-258、讃美歌21-160などに入っています。讃美歌1-258は歌い出しが「深き淵より」でないのでわかりにくいですが、MIDIファイルを作ってみました。
http://www.babelbible.net/music/muse/h01258.mid (MIDI)
http://www.babelbible.net/music/muse/h01258.mus (Muse)
 歌詞表示機能のあるMIDI再生ソフトを使うと、歌詞を表示します。

 バッハの曲ではカンタータ38番、それからオルガンコラールのBWV686、687に使われています。687の例は次で聞けます。
http://www.ayaori.net/music/portfoli/mp3/old/o410.htm

●エズ・ギ第1章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=skd&book=ezg&chapter=1&mode=0
 エズ・ギの書名については[925]をごらんください。
 エズ・ギは、ユダ王国が滅んで民がバビロンに捕囚され、そこから帰還して神殿を建設するまでの過程を描いたものですが、実は歴代誌下・エズラ記・ネヘミヤ記の内容の焼きなおし。ほとんど内容が同じなので、エズ・ギの真理子のおまけでは、歴代誌やエズラ記からコピペした部分もあるほどです。もとの3書を読むよりも内容がよくまとまっていて(たとえば今日の1章は歴代誌下では35-36章ぶんですから)、面白いエピソードも追加されているなど、こちらのほうが面白く、ヨセフスもユダヤ古代誌ではこちらのほうを参考にしているほどです。
 さて、昨日おあずけにしておいた内容です。
  ヨシヤ(南16。BC640-609)
  エホヤハズ(ヨアハズ。南17。BC609)
  エホヤキム(ヨヤキム。南18。BC609-598)
  エホヤキン(ヨヤキン。南19。BC598-597)
  ゼデキヤ(南20。BC597-587)
 ヨシヤは過越祭を復活させて盛大に祝います。また宗教浄化をします。ところが政治的には重大なミスを犯します。つまりエジプト王(エズ・ギでは名前がありませんがネコ王)と無謀な戦いをして負けてしまうのです。エズ・ギではなんとなく王の体力が弱ったことになっていますが、歴代誌のほうではエジプト軍の射手にうたれたことになっています。王はあわただしく戦地から帰還するとエルサレムで死にます。
 ところが話はこれで終わりません。エジプトは次に即位したエホヤハズを認めず廃位させエホヤキムを立て、ユダ王国に罰金を課します。
 こんどは新バビロニヤ(カルデヤ)のネブカデネザル(ネブカドネツァル)がユダ王国を攻め、エホヤキムをバビロンに連行、ついで立ったエホヤキンもバビロンに連行してしまいます。これが第一次バビロン捕囚。
 ゼデキヤの滅亡のくだりはエズ・ギや歴代誌は、宗教的に主にそむいたことをあげていますが、列王記下24章ではネブカデネザルへの服従をやぶって反抗したことをあげています。エルサレムは徹底的に破壊され、民の多くは殺され、生き残った者も多くはバビロンに連行されてしまいます。これが第二次バビロン捕囚。
 こうして七十年間、捕囚の苦しみが続きます。

 それにしても思うんですが、捕囚時代の外国での民の暮らしが聖書にほとんど書かれていないのが不満です。わずかにエゼキエル書とかダニエル書とかエステル記とかトビト記あたりで想像するしかありません。エズ・ギも2章ではいきなりペルシャ帝国になって民が解放される話になってしまいます。

[925] エズラ記をめぐる書名の話 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/19(水) 10:47:43 ここから閲覧

 新共同訳で新たに採用された旧約聖書続編(外典)の「エズラ記(ギリシア語)」「エズラ記(ラテン語)」という奇妙な名前、たしかにヘンですけど(だってどのみち日本語に訳されてるじゃないの!)、私は支持します。だってこの二書にまつわる各聖書の書名はいままで大混乱状態で、私はいまだに間違えます。
 しかもこの問題は続編のみならず正典のエズラ記、ネヘミヤ記もまきこんでいるのです。
 このさい、ちょっとまとめておきましょう。
 なお、( )つきの書名は長くなるので、以下、エズラ記(ギリシア語)はエズ・ギ、エズラ記(ラテン語)はエズ・ラと略し、この新共同訳の書名が各聖書でどうなっているかというのを聖書別にまとめます。

●BHS
 BHSはヘブライ語原典ですから当然正典しかありません。
     エズラ記=エズラ記・ネヘミヤ記(連続)
     ネヘミヤ記=〃
 ヘブライ語聖書では長らくエズラ記とネヘミヤ記というのは1巻の本でした。もともとからそうだったかどうかは異論がある(たぶん本来は別)ものの、1書のような2書のような、微妙な関係です。そんなわけでBHSのp.1430では、エズラ記のあとにいきなりネヘミヤ記が連続しています。

●LXX
 七十人訳と呼ばれるギリシア語訳聖書です。ΕΣΔΡΑΣはギリシア語としてはエスドラスと読みますが、訳すときは「エズラ」でいいと思います。また、Αʹ、Βʹみたいに右肩にʹがついているのはアルファベットじゃなく数字ですので、A(エー/アルファ)、B(ビー/ベータ)のままにするのはかえってマズいです。
     エズラ記=第二エズラ記の1-10章(ΕΣΔΡΑΣ Βʹ(1-10))
     ネヘミヤ記=第二エズラ記の11-23章(ΕΣΔΡΑΣ Βʹ(11-23))
     エズ・ギ=第一エズラ記(ΕΣΔΡΑΣ Αʹ)
     エズ・ラ=なし
 LXXではエズラ記とネヘミヤ記はまとめて第二エズラ記となっています。LXXを訳した時点でヘブライ語聖書でもこの両者が一つであった証拠です。そしてその前にエズ・ギが「第一エズラ記」として入っています。つまりはエズ・ギのほうが重要なんですね。エズ・ギはエズラ、ネヘミヤとかなり内容が共通しているので、ほとんど似たような本が二つ連続していることになりますが、まあ列王記と歴代誌、マカベア第一・第二みたいな例もあるし、いいのかもしれません。

●ヴルガタ
 ラテン語聖書です。ラテン語聖書には他のバージョンもあるのですが、いまは実質的にこれがラテン語訳聖書の代名詞ですね。なお、Ezra(e)はドイツ聖書協会のヴルガタの表記ですが、Esdra(e)とかEsra(e)と表記されることもあります。ていうか、うちを含めて、聖書を掲載しているサイトって、タイトルはいい加減だったりしますからね。
     エズラ記=第一エズラ記(Liber Ezrae I)
     ネヘミヤ記=第二エズラ記(Liber Ezrae II)
     エズ・ギ=第三エズラ記(Liber Ezrae III) ※付録
     エズ・ラ=第四エズラ記(Liber Ezrae IVないしIIII) ※付録
 エズラ記とネヘミヤ記をはっきり分けたのはヴルガタです。はっきり分けたと言っても、サムエル記の上下みたいなもので、現行のドイツ聖書協会の本では改ページなく続いているんですが、一応別物ということになっています。
 ヴルガタには付録というのがあって、新約聖書よりも後に、カトリックで偽典とされた本、マナセの祈り、エズ・ギ、エズ・ラ、詩篇151、ラオデキア人への手紙が、この順に入っています。新共同訳の旧約聖書続編にはエズ・ギ、エズ・ラ、マナセの祈り、が入っているのですが、これらはカトリックでは偽典とされているので、カトリック版の聖書、たとえばバルバロとか光明社とかフランシスコ会訳には入ってません。「新共同訳」というとプロテスタントの人はついつい「共同した相手はカトリックのみ」と思ってしまいますが、実はこれらを使っているのは聖公会(一応プロテスタント)なんですね。
 LXXとは第一、第二という付番のしかたが大きく異なります。ここからが大混乱のはじまりはじまり。

●聖公会続編
 戦前は「旧約聖書続篇」、戦後は「アポクリファ」という名前で、聖公会が出した続編のみの本。
     エズ・ギ=エズラ第一書
     エズ・ラ=エズラ第二書
 この二書はなぜか冒頭に載っているのですが、付番の仕方が似てるようで違うようで、これまた混乱のタネになっています。

●教文館・聖書外典偽典
 新共同訳聖書が出るまでは、旧約外典を読もうとすれば教文館の「聖書外典偽典」を読むしかなかった(一応聖公会のアポクリファは出てましたし、講談社から部分訳はありましたけど)のですが、これがまたヘンな流儀です。
     エズ・ギ=第一エズラ書
     エズ・ラ(3-14章)=第四エズラ書
 一、四という付番は、もともとの出典であるLXXとヴルガタに即しているといえば理屈は通りますが、問題は教文館の聖書外典偽典は最初の2章と最後の2章をカットしていること。これは、この4章が後代(キリスト教時代!)の加筆だからという理由で、学問的な訳ではまま見受けられる流儀です。しかもこのとき、最初と最後のそれぞれ2章を独立した本扱いして、しかもその言い方が、
     エズ・ラ(1-2章)=第二エズラ記
     エズ・ラ(3-14章)=第四エズラ記
     エズ・ラ(15-16章)=第五エズラ記
だったり、
     エズ・ラ(1-2章)=第五エズラ記
     エズ・ラ(3-14章)=第四エズラ記
     エズ・ラ(15-16章)=第六エズラ記
だったりと、これまた混乱のきわみになっています。

 そんなわけでエズラ記をめぐる外典偽典の呼び方は混乱のきわみ。番号で呼ぶのが混乱のもとなんですね。内容に即して「エズ・ギ=エズラ記・三人の若者版」「エズ・ラ=エズラ記・黙示録版」なんていうのが誤りがないんですが、タイトルが長くなるし、タイトル捏造というそしりを受けてしまいます。ここは新共同訳のエズラ記(ギリシア語)、エズラ記(ラテン語)というのが無難だと思うので、今後はこの書名が定着することを切望します。

[924] 歴代誌下33-36章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/18(火) 10:04:43 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=2ch&chapter=33&mode=0
 今日で歴代誌は終了です。
9.アハズ、ヒゼキヤ、マナセ、アモン
ヨシヤ、エホヤハズ、エホヤキム
エホヤキン、ゼデキヤと即位して
南も滅んでしまったわ

 南北の王名を覚える歌の最後の部分。ヒゼキヤの話が前回でおしまい。
 今日はマナセ王から。ついでですから王名を列挙しておきます。
  マナセ(南14。BC687-642)
  アモン(南15。BC642-640)
  ヨシヤ(南16。BC640-609)
  エホヤハズ(ヨアハズ。南17。BC609)
  エホヤキム(ヨヤキム。南18。BC609-598)
  エホヤキン(ヨヤキン。南19。BC598-597)
  ゼデキヤ(南20。BC597-587)
 33章。マナセは南の最悪の王とされています。せっかくヒゼキヤが行った宗教浄化を無に帰し、バアルだのアシラだのを敬ったり、占いはやるわまじないはやるわ人身御供はやるわ、ありとあらゆる悪事を行います。
 基本的に王下21と同じなのですが、歴代誌のほうでは、マナセが一時的にバビロンに連行されたことが書かれています。
 次のアモンのときにクーデターが起こり、アモンは殺されてしまいますが、民はこのクーデターを支持せず、反乱した者たちを殺してアモンの子ヨシヤを即位させます。
 34章。ヨシヤは宗教浄化を行い、大祭司ヒルキヤとくんで、主の宮から律法の書が発見されたというふれこみで、律法の徹底をはかります。「ユダヤ教は三度作られた」([786])で書いたように、それまでのイスラエルの民の信仰ははっきりいってさまざまな神を信仰していたのであり、ヤハウェはそのうちの一つでしかなかった。だからマナセがやったことは決して悪いことじゃありません。それがだんだんとヤハウェ中心の一神教の形に構築されていったのであり、その最初がヨシヤ王の時代というわけです。
 ヨシヤ王の話は王下22にも書かれていますが、列王記になく歴代誌にしかない話としては、35章の「過越祭の復活」ですね。ユダヤ教の重要なお祭りである過越祭はヨシヤ王のときに盛大に執り行われ、以後つづいていくのです。
 で、歴代誌下は35章・36章とあるのですが、みなさんしっかり読んでおいてくださいね。解説のほうはここで打ち切ります。え、なんでかって、実は明日読むエズラ記・ギリシア語の冒頭1章が、ほとんどそっくり歴代誌下35-36章なんですよ。ですから話は明日にまわします。

[923] 申命記10-12章、ベルと竜 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/17(月) 13:50:55 ここから閲覧

●申命記10-12章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=deu&chapter=10&mode=0
 10章。十戒をもう一度与えられたときの話ですが、9章には、約束の地を前に一部の民がひるんだ話があったので、時間的には前後しています。
 心をつくして主に仕えることに加え、寄留の他国民を愛することを説いています。
 11-12章。そして約束の地を前にして、律法を守ることを強調しています。内容は例によって、アシラ像などの先住民の神を拝んではならないということのほか、肉は食べてもいいが血は飲むなということが強調されてます。
 血を飲むなんて野蛮で残酷なことは私はやらないですって? 私たちが肉の味だと思っている味の大半は、実は血の味なんですよね。血を全部抜き取った肉って、香りのついてないビーフジャーキーみたいなもの。ちょうど、冷蔵庫に賞味期限後数日間おいてあった肉がこんな感じになりますわ。 こんな律法をキリスト教が無効にしてくれたことを神に感謝いたします。
 しかし思うんですけど、申12:29-30で、先住民を滅ぼしつくしたんなら、ふつうはそんな先住民の宗教なんかに関心持たないでしょうに、どうしてヤハウェくんはバアルだのアシラだのに過剰なまでに警戒するんでしょう?
 そして、どうしてイスラエルの民は、何度も何度も主の前に悪とされることを行い、バアルだのアシラだのにころぶんでしょうか。
 ここは一つ発想を転換してみましょう。「イスラエルの民が悪に傾きやすい」んじゃないんです。バアルとかアシラっていうのは、うるさくて荒ぶるヤハウェくんなんかより何十倍も何百倍も魅力ある神様なんですよ。でなきゃ民が信仰するはずがありません。
 最近思うんですけど、ユダヤ人がさっさとヤハウェくんを見限ってバアルとかアシラを信じるようになっていれば、キリスト教やイスラム教のありようもずいぶん変わったものになり、世界はもっと平和になっていたかもしれない、と。こういう挑発的なことも言ってみる私。

●ベルと竜
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=dnb&chapter=1&mode=0
 ダニエル書のもう一つの補遺。ヴルガタではダニエル書14章になります。
 バビロニア人の信仰していたベル神と竜神の正体をあばく話ですが、ペルシアの支配になってからというのがミソで、たぶんバビロニアのままだったらそもそもダニエルが活躍する余地もなく、神様のカラクリが暴かれやすい環境ができあがった上での話なんですね。
 それにしてもこの話はバカですね。実際にモノを食べられないからニセモノの神だっていうなら、ヤハウェだってそうでしょうが。ヤハウェなんかモノ食べられないから燔祭のいけにえは真っ黒こげになるまで焼いて、その煙を嗅ぐことしかできないんですよ。レビ記見るといけにえのおさがりを誰が食べるかっていうことが細かく決められているじゃありませんか。
 後半、ダニエルがししの穴に投げられる話は、ダニ6と同工異曲で面白くありません。補遺をやるならもっと別の話を創作してほしかったわ。

[922] ヤコブ書4-5章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/16(日) 11:41:51 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=jam&chapter=4&mode=0
 今日のところは新約聖書の中でも過激なまでに人に行動をうながすスローガンに満ちあふれています。スローガンを書いて壁に貼っておきたい人にはとても便利なところです。適宜ことばを変えながらまとめますと、
 ・欲望から戦争が起こる。ヤコ4:1
 ・求めないから得られないのだ。 ヤコ4:2
 ・世間におもねるのは神への敵対だ。 ヤコ4:4
 ・神に従い悪魔に立ち向かえ。 ヤコ4:7
 ・笑ってないで苦しめ、喜んでないで悲しめ、泣け。 ヤコ4:9
 ・仲間の悪口を言うな。 ヤコ4:11
 ・高慢は悪だ。 ヤコ4:16
 ・やるべきことを知っててやらないのは罪だ。 ヤコ4:17
 ・金持ちにはわざわいが降りかかる。 ヤコ5:1
 ・主の来臨は近い。耐え忍べ。 ヤコ5:8
というような感じです。将来「聖書おみくじ」を作るときは、ヤコブ書からばんばんとっちゃいますわ。
 山本七平キラー、統一協会キラーの東北学院大学の浅見定雄先生、年をとるごとにどんどん左翼的・過激になっていくのを、昔の私は不思議だと思ってましたが、今の私がそうですわ。原発にしろ格差デモにしろ小沢暗黒裁判にしろ、腹立たしくてしかたない。日本なんか滅んでしまえ、金持ちはみんな滅んでしまえ、貧乏な私たちは何も失うものはないのよ、なんて思ってますもの。そういう私がヤコブ書を読むと血沸き肉踊りますわ。
 「笑ってないで苦しめ」については、この時代の人たちは笑いを敵視したみたいですね。悪魔から出るものだと。そういえば、福音書にはイエス様が笑った話が一切ないので、修道院では笑いが禁じられていたとか。でもよくよく見ると、実はイエス様って、今でいえばビートたけしみたいな感じの人で、かなりブラックユーモアのきつい人。実はキリスト教は健康的な笑いにもブラックな笑いにも満ち溢れているのです。宮田光雄『キリスト教と笑い』(岩波新書)を読みましょう。絶版みたいなんで修道会に入れてます。

[921] 使徒行伝11-12章、スザンナ 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/15(土) 13:34:50 ここから閲覧

●使徒行伝11-12章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=act&chapter=11&mode=0
 使11:28に、預言者が預言したききんがクラウデオ帝のときに起こったとあります。このききん自体は特定できないようですが、クラウディウス帝の在位が41-54年。さらに、12章ではヘロデ王による迫害と王の死が語られており、このヘロデとはヘロデ・アグリッパ1世(実際には王ではありませんがユダヤ・サマリアなどの統治権があったのは41-44年)ですので、そのころの話ということになります。
 さて、今日のポイントはズバリ「クリスチャンの誕生」。つまりはキリスト教の誕生ということになります。使12:26「このアンテオケで初めて、弟子たちがクリスチャンと呼ばれるようになった」をめぐって読んでみたいと思います。
 あれ、今までの話はキリスト教の話じゃなかったのでしょうか?
 そういうことになります。
 キリスト教はある日突然できあがったのではなく、ユダヤ教の中の特異な派(ここでは便宜的にユダヤ教キリスト派と呼ぶことにします)が発展してできたものです。その発展が連続的であるために、どこからキリスト教なのかというのが非常に言いにくいのですが、せっかく聖書にこう書いてあるんですから、とりあえずここからということにしましょう。
 では、キリスト教と、ユダヤ教キリスト派との違いは何なのでしょうか。
 ズバリ、異邦人への伝道ということになります。
 6章で、弟子たちが、ヘブライ語(実際にはアラム語)をしゃべる使徒を中心としたグループと、ギリシア語をしゃべるグループとに分かれてきたという話がありました。殉教者第一号のステパノはギリシア語派であり、このときに多数の弟子が迫害されますが、実はこれはみんなギリシア語派の弟子なのであり、ペテロなど使徒を中心とするアラム語派の弟子は無害だったんです。
 そしてこれら迫害されたギリシア語派の弟子のその後が今日の使11:19にあります。彼らはピニケ(フェニキア)、クプロ(キプロス)、アンテオケなどさまざまな場所に行きましたが、そこにいるユダヤ人にしか宣教しません。ところがその中に、例外的にクプロ(キプロス)人やクレネ人がいて、彼らがユダヤ人以外のギリシア人に宣教して、異邦人信徒が増えたのです。こうした異邦人の多い教会がアンテオケに誕生、最初は例の、畑売り払いのバルナバが指導者として派遣されますが、手に余るようになり、サウロ(パウロ)を探し出して二人で指導します。
 このグループが「クリスチャン」と呼ばれるようになったというわけです。

 通俗的なキリスト教入門書には、パウロをもってキリスト教の開祖であると書くものがあります。高校の世界史や倫理の教科書、参考書類にもそういうものがあります。これに目くじらをたてて、パウロ一人が創始したのではなくほかにもキリスト教を作った人はいる、キリスト教の開祖は「教会」なんだ、ということを言う人がいます。
 ユダヤ教キリスト派がいつからキリスト教になったか、その発展が連続的であって区切りがないことにこだわってしまうと、「キリスト教はいつ生まれたかわからない」という物言いが正解になるでしょう。しかしそれは私に言わせればクソ正解であり、ハッキリいって誤答です。それでは、いつ生まれたかが本当にまるっきりわからないヒンドゥー教や神道との区別がつかなくなります。それらとは違い、キリスト教は「いつ生まれたかは厳密には言いにくいけどだいたいこのあたりから」という起源はあるんです。連続的で切れ目のないものを留保をつけてばっさりと切ってしまうということは、歴史学ではよくあることです。
 同様に、パウロ以外にもさまざまな人がキリスト教の成立にかかわったことをとらえて、パウロを開祖とすることに異を唱える意見もあります。しかしこれも私に言わせればクソ正解・誤答です。キリスト教の成立、ユダヤ教との決別にパウロが一番大きくかかわったことはパウロの書簡によって明らかです。パウロだけじゃないんだよねという留保をつけて、とりあえずビッグネームとしてパウロをキリスト教の開祖と呼ぶのは、許される適切なデフォルメです。
 そう、デフォルメなんですよね。
 このところ私は、『ふしぎなキリスト教』の橋爪大三郎を批判し続けています。間違いの多い本を出しておきながら、私の本は学術書ではなくデフォルメであり、批判する人は読む点を間違えている、とうそぶいています(キリスト新聞10/15)。
 しかしデフォルメというのは、今日私が書いたような「パウロはキリスト教の開祖」みたいな書き方のことを言うんで、真実をえぐりだすためにあえて不正確な書き方をするというものです。カエルの心臓をいきなり見せつけられても、気味が悪いだけで何がなんだかわからない。それを、動脈を赤、静脈を青、単純なポンプのような形に図示することではじめてよくわかるのです。
 これに対して事実の間違いはデフォルメというには値しないし、えぐり出されたものが本質と違うものになってしまってはデフォルメではない。橋爪はそこのところをわかっていないようです。

 さて、アラム語派の筆頭、使徒の筆頭、ペテロの話ですが……
 実はペテロも10章で異邦人コルネリオとその近親者、周囲の人たちに宣教してるんで、そのことに対する弁明を11章前半でしています。もっともこれはアンテオケ教会のように組織的なものではなかったので、やっぱり「クリスチャン第一号」の称号はパウロ・バルナバの教会の信徒に与えられるものでしょう。そのペテロがヘロデ・アグリッパ1世に捕らえられ、主のみ使いによって助け出され、逆にヘロデが死んでしまうというエピソードが12章です。

●スザンナ
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=dns&chapter=1&mode=0
 正典では12章までしかないダニエル書は、前半6章まではおとぎ話のような奇跡物語などで楽しませてくれますが、後半はよくわからない黙示文学になってしまいます。それじゃ面白くないというのか、LXX(七十人訳ギリシア語訳聖書)およびヴルガタ(ラテン語聖書)では、ダニエルにまつわる「すざんな」「ベルと龍」の二つの物語を採録しています。なお、LXXではダニエル書と別扱いでダニエル書の前にスザンナ、後にベルと龍を独立しておさめているのに対し、ヴルガタではスザンナをダニエル書13章、ベルと龍をダニエル書14章としています。
 水浴中の美女スザンナとエッチをしようとしたエロ長老2人は、拒否されて逆にスザンナを姦通の罪で告発、死刑になる寸前にダニエルが助けるという話。
 この話を描けば堂々と女性のヌードが描けるので、美術でもいろいろとりあげられています。
http://artmight.com/jap/gallery/search/(keyword)/susanna
 Googleの画像検索でSusannaを検索してみてください。
 最近、陸山会と小沢一郎さんの裁判のあまりのひどさに、日本の司法は死んだと思っています。ダニエルさん助けて。

[920] ゼパニヤ(ゼファニヤ)書(全) 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/14(金) 06:03:07 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=zep&chapter=1&mode=0
 前回のハバククと違って、ゼパニヤ(ゼファニヤ)はデータがしっかりしてますね。時代はヨシヤ(南16。BC640-609)王の時代。ゼパニヤはヒゼキヤ(南13。BC715-687)王の子の子の子の子というわけです。ヒゼキヤは今週歴代誌で読んだとおり、北滅亡直後に宗教改革をし、ヨシヤも南王国末期に宗教改革をした王様です(→[786]。ユダヤ教は三度作られた)。
 ところがヨシヤ王のあとほどなくカルデヤこと新バビロニヤが攻めてきて南も滅びエルサレムは破壊されちゃうわけですから、まったくヤハウェくんはありがたみのない神様ですね。
 この矛盾を解決するため、ヨシヤの先々代マナセ(南14。BC687-642)があまりに悪い王様だったので、この時点で南の滅亡は決定されたという理屈を立てているのが王下23:26、また、ヨシヤの宗教改革にもかかわらず、それが民になかなか浸透せず、バアルを拝み続けていた人が多かったという理屈もたてられており、それが今日読むゼファ1:4の「バアルの残党」うんぬんというところに出てきます。
 そんなわけで神様は南を滅ぼすことを決定しています。「主の日は近いぞ」というのがゼパニヤ書のテーマ。十二小預言書の中ではヨエル書同様に主の日の光景を預言した本です。
 黙示録的にこれでもかこれでもかと書かれておりますが、それでもゼファ2:1-3のように、まだ間に合うぞ、今からでも主を求めれば、怒りの日にもかくまってもらえるかもしれない、と説きます。
 ユダの民が散らされるばかりか諸国民も滅ぼされる、そういう激しい主の日にかくまってもらった結果はというと、ゼファ3:10以降、わたしが散らした人たちもまた戻ってきて、「柔和にしてへりくだる民」(ゼファ3:12)だけが残り、エルサレムは回復する、というわけです。
 こういう救いの喜びを強調するために、主の日のおそろしさが強調されているわけです。ヨハネ黙示録なんかもそうですけど、滅びの光景のおどろおどろしさばかりを見るのでなく、救いのすばらしさのほうに着目したほうがいいのでしょう。

[919] コヘレト3-4章、アザリヤ 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/13(木) 11:25:45 ここから閲覧

●コヘレト3-4章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ecc&chapter=3&mode=0
 3章1-8節は、いろいろなものに時がある、と言っています。徒然草155段の「世に従はん人は、先づ、機嫌を知るべし」
http://www.e-t.ed.jp/edotori3901/kk-tuyo3test.htm
みたいで親近感がわきますが、コヘレトのほうは結局11節の「人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない」、つまり神のわざが永遠であるのに対しすべてのものは一時的なものでむなしい、ということを言っています。チャンスを生かして活用せよとか、時機を見ることが大切だとかいうのとは違います。こんな話が15節まで。
 ついで、この世は不正だらけだという話がありますが、これも神のさばきの正しさとの対比です(16-17節)。そして、なんで不正が横行するかというと、人間は知性をもっていてもそんなものはむなしく、結局動物と変わらないということを神様から思い知らされているのだと説きます。
 4章。さばきの不正ばかりでなく、つまり社会的な差別もあり、死者のほうがうらやましい、いや、まだ生まれない者のほうがうらやましいと言います。
 そして、この世の苦労はむなしく、富もむなしく、権力もむなしく、権力者への人気もむなしい、と、世のさまざまなものを否定していきます。
 そんな中で興味をひくのは、「一人より二人がいい」と説く8-12節。最後は毛利元就の三本の矢の話みたいですね。むなしいものだらけの中でも、人と人とのつながりというのは大事らしいです。

●アザリヤの祈りと三人の若者の賛歌
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=dna&chapter=1&mode=0
 ここから3回はダニエル書の補遺。まず今日の部分は、正典ダニエル書のダニ3:23ダニ3:24の間にはさまります。
 カルデヤ(新バビロニヤ)の王ネブカデネザルの宮廷に仕えるユダ族のダニエル(ベルテシャザル)、ハナニヤ(シャデラク)、ミシャエル(メシャク)、アザリヤ(アベデネゴ)。彼らはカルデヤ名でそれぞれ( )内のように呼ばれています(今日の部分で、地の文ではカルデヤ名、祈りの中では本名が出てきますので、対応を知っておいてください)。ダニエルを除く3人は、ネブカデネザルの作った金の像を拝まないというので炉に投げ込まれますが、何も起こらず助かります。
 その、投げ込まれてから助かるまでが、正典では何も書かれていないのですが、そこを埋めるのがこれというわけです。
 内容的には、アベデネゴことアザリヤの祈り、それから炉に投げ込まれてからの三人の祈り、その途中につなぎの文が入っています。そのつなぎの文を除いた祈りは、詩歌7詩歌8にそのまま転載されています。
 三人の祈りのほうは、執拗なリフレインが印象的。もちろん炉の中でこんな長々とした祈りというのは非現実的なんですが、それを言ったら炉から生還するのだって非現実的なんで、ここは歌舞伎的な鑑賞法で、三人の役者の屋号でもかけながら「たっぷり!」と楽しむところです。

[918] 詩編125-127編 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/12(水) 13:18:17 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=skd&book=psa&chapter=125&mode=0
 今回のところでは何と言っても、127編の「主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい」でしょう。教会の新築とかリフォームのときに歌われるための歌が数多く作曲されています。ラテン語の歌い出し、Nisi Dominusで検索するといいです。代表的なのはモンテヴェルディのVerpro(聖母マリアの夕べの祈り)におさめられているもの。

(http://www.youtube.com/watch?v=BL_jF3AI9M8)
 例によって3節は「嗣業」っていう業界用語が入っててわかりにくいですけど、「子どもは神からさずかったたまもの」くらいに読めばいいと思います。
 交読文にも入ってますが、次の128編とセットにして、結婚式のときに読むものにしてるみたいですね。そのくせ今の「子は神から賜った嗣業」がカットされてたりします。ヘンなの。

[917] ヤコブ 投稿者=HK. J. 掲示日=2011/10/11(火) 20:47:55 ここから閲覧

ややこしい、ヤコブの件ですが、英語の中の聖書の人名は、ギリシャ語・ラテン語・フランス語経由が多い中で、ヤコブは、みょうなことに、ヘブライ語的な読み方が旧約のほうで、「擦り切れた」ような崩れた形が新約のほうで定着してしまいましたね。

フランス語だと、Jacques で、ヤコブの跡形もありません。これが、英語のJack になるわけですが、フランス語のつづりでは語尾に-sが付いているのが、わずかに、ya"aqob >> Iakobos >> Iacobus と変化する中でくっついた -s を残していて、妙です。

最近のフランス語圏での聖書翻訳では、とくに共同訳では、旧約部分の人名・地名は、ヘブライ語聖書の綴りに従って、ヘブライ語風な言い方をするようになってきているようで、Traduction Oecumenique de la Bible や、la bible en francais courant などでも、比較的ヘブライ語風に(k、q、tzを残した綴り)するのが多いようです。

その流れに追随して、ものみの塔の新世界訳フランス語版も80年代の改定の時に、旧約聖書の書名、とくに十二預言書の書名がラテン語風な Abdias などからOvadyaに変わっています。日本語版は「主権者なるエホバ」とかが手直しされただけで、ほとんど改訂らしい改訂をしていないのと対照的。訳者の力量が、フランスと日本では差があるのでしょう。

[916] 偶像 投稿者=HK. J. 掲示日=2011/10/11(火) 20:32:08 ここから閲覧

形ある人間製の「神」を大事にするというのは、神道の「依り代」(よりしろ)に近いのだと思います。

偶像それ自身には、あくまでもモノでしかないのですが、そのモノを通じて、人間と超自然の存在者とが直接コンタクトできるようになるという発想があるのだと思います。
そういうことを言うと、キリスト教の教えの、見えない聖霊によって見えない神に祈るという礼拝の仕方を否定することになるのが、異教徒との区別が付けがたいことになって、ダメということなのでしょうね。

ユダヤ人・古代イスラエル人は、聖所とその中にあるもの以外、目に見えるものに頼って、神(超自然の存在)と直接コミュニケートすることを禁じられていたのではないでしょうか?
同じ理屈で、サウル王がエンドルの霊媒師を通じてサムエルの霊と交信しようとしたのも、偶像ではないけれども、許されているやり方以外の方法で、超自然の、しかも目に見える形で現れる霊とのコミュニケーションを試みたからYHWHの神の視点では、アウトだったのでしょう。

[915] 歴代誌下29-32章、エレミヤの手紙 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/11(火) 11:03:07 ここから閲覧

●歴代誌下29-32章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=2ch&chapter=29&mode=0
9.アハズ、ヒゼキヤ、マナセ、アモン
ヨシヤ、エホヤハズ、エホヤキム
エホヤキン、ゼデキヤと即位して
南も滅んでしまったわ

 南北の王名を覚える歌の最後の部分。今回はヒゼキヤですが、なんと32章まで延々と4章ぶんこの人の話が続きます。南北の王の治績をかけ足でおいかけてる列王記でも、18-20章まで3章ぶん費やしています。非常に重要な王様というわけです。なにしろ王下18:5によれば、「彼のあとにも彼の先にも、ユダのすべての王のうちに彼に及ぶ者はなかった」というくらいですから。
 列王記のほうをかいつまんでいうと、
 ヒゼキヤの治世6年目にアッスリヤ(アッシリア)の王シャルマネセルがサマリアを落とし、北が滅びます。その後、アッスリヤの次の王セナケリブ(センナケリブ)がユダ王国を攻め、ヒゼキヤは大金を払いますが、アッスリヤは攻撃の手を休めません。ヒゼキヤがエジプトを頼りにして抵抗をしているからです。エルサレムを包囲したアッスリヤのラブシャケは投降を勧告(このときユダ王国側は、ヘブライ語で言うと民もわかっちゃうからアラム語で言え、なんていうお願いをしたりします)。ヒゼキヤは預言者イザヤに助けを依頼、お祈りをすると、主の御使いがアッスリヤの陣営で185000人も兵士を殺し(実際は疫病でも発生したのでしょうか?)、難を逃れます。ついでにセナケレブ王が謀反で殺されちゃうという落ちもつきます。
 ヒゼキヤは死ぬときもイザヤに助けを求めます。イザヤは難色を示しますが、その後イザヤに主の言葉が臨み、ヒゼキヤを助けよう、ついてはそのしるしに時間を戻らせよう、と言います。
 列王記のほうはこの2つのエピソードしかありません。
 こんどは歴代誌のほうです。
 29章。ヒゼキヤは即位するとさっそく(第一年の一月!)先代アハズ王がけがしてしまった神殿を浄化、神殿のいけにえが回復します。
 30-31章。ついでヒゼキヤは過越祭を復興します。ユダのみならずイスラエルなどからも大勢の人が参加します。
 32章。アッスリヤの攻撃の話と死に際してイザヤの助けを願う話。この章は上記の列王記の話と同じですが、日時計(時間)を戻らせた話はハッキリ書いていません。あと、治水工事をしたという話は歴代誌特有事項です。

●エレミヤの手紙
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=let&chapter=1&mode=0
 ヴルガタ(ラテン語訳聖書)ではバルク書6章。バビロンに連行されていく民に対して、あっちには偶像が多いから気をつけろと警告したエレミヤの手紙という体裁で、偶像のむなしさを延々と説きます。要は、偶像なんて人間が作ったものに過ぎず、何もできないものなんだよ、ということ。
 旧約聖書やクルアーンなどで展開されてるこの手の偶像批判ですけど、現代人にとっては逆にバカバカしすぎて批判になってないという気がします。いくら古代人だって、偶像に命があると思って祈っていたはずはありません。
 仏教徒は仏像を拝むので偶像崇拝ってことになってるらしいですが、仏像が即仏様であるなんて思っていません。以前に韓国語の勉強で見た映画『達磨と遊ぼう』、ヤクザたちが山寺に逃げ込み僧侶たちといざこざを起こすのですが、やがて信仰心に目覚め、仏像の掃除を始める。ところが不注意で仏像をこわしてしまう。若い僧侶たちが「やっぱりあいつらを追い出せ」というのに対して住職が「お前たちは仏像に魂があると思ってるのか」とたしなめるシーンがありました。偶像崇拝者だってこのくらいのことは知ってます。偶像は目に見えない神など超自然的なものを目に見える形にしたシンボルにすぎないと思ってます。ただし、だから粗末に扱っていいというわけではなく、シンボルであるがゆえに丁寧に扱う必要はあるんですけど。
 一万円札と同じ。これ自体はただの紙切れですけど、一万円という交換の機能を持つシンボルであり、紙切れだからといって粗雑に扱ってしまうとおカネに対してルーズになってしまうので丁寧に扱ったほうがいい、というようなものです。
 そんなわけでキリスト教では偶像は重要です。東では「立体的な像は禁止」ってことになってるみたいですが、西では立体的なものもOK。信仰に役立てています。

[914] 申命記7-9章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/10(月) 11:30:59 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=deu&chapter=7&mode=0
 7章はヤハウェくんの「荒らぶる神」ぶりをよく示してますね。これから入る土地には7つの民がいるから殺して殺して殺しまくれ。何の憐れみも示してはならない。おいらがこいつらをお前たちの手に渡したんだから、「かわいそうだから助けてあげよう」なんていうのはヤハウェくんへの裏切りになるのです。情け容赦なく殺しまくらねばならないのです。ああ怖いわ。
 そして8章では、これから入る土地がいかにすばらしいかの宣伝になるのですが、申8:3の「人はパンだけでは生きず」というのが、例のイエス様の荒野での試練のときのセリフ(マタ4:4)の出典になってます。この言葉は普通、芸術とか文化とか腹のふくれないものだって必要だ、という話で使われますけど、もともとは「人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるため」に「マナをもって、あなたを養われた」という文脈で使われているのです。佐藤優は、「稼ぎに追いつく貧乏なし」つまり「パンがなくったっていざとなれば神様はマナをふらせて救ってくださるさ」という意味だとしてますが、それもちょっと違う気がする。その前には、おまえたちが本当においらの命令を守るかどうか、神様は40年間おまえたちを試みたっていう話があるじゃないですか。だから生かすも殺すも神様しだい、神様が生きろといえばわれらは生き、死ねといえば死ぬ。パンによって生きるんじゃなく、神様の命令・意志によって生きるんだってことです。
 9章は、モーセが律法を賜ったときに民が裏切って偶像を作っちゃったことの回想ですが、「四十日四十夜、主の前にひれ伏し、パンも食べず、水も飲まなかった」っていうのは、都合3回なんですね。律法を賜る前(申9:9)、民が偶像を作っちゃった後(申9:18)、そしてずっと下って、約束の地を前にして民がひるんで裏切っちゃったとき(申9:25)というわけです。イエス様の四十日の試練というのも、こういうモーセの試練の延長にあるんですね。

[913] Re[2]:詩篇117のリフレイン 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/09(日) 18:45:13 ここから閲覧

そういえば、新共同訳朗読CDの詩編はFEBCの吉崎恵子さんです。
http://www.febcjp.com/main/index.html
新共同訳朗読CDは、朗読者名を明かすと諸方面にさしさわりがあるのか、みんな匿名ですけど、吉崎さんは昔FEBCの放送中にリスナーから突っ込まれて告白していました。
たぶん列王記も吉崎さんだと思います。

[912] ヤコブ書1-3章、バルク書5章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/09(日) 07:39:35 ここから閲覧

●ヤコブ書1-3章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=jam&chapter=1&mode=0
 今まで読んできた手紙はパウロの作ったもの。もちろん中には、現在の聖書学ではパウロ作でないとされるものも半数ほどありましたし、ヘブル書みたいに当初からパウロ作というのが疑われ続けてきたものもありましたが、そういうものも含めて何かしらパウロ作ということになっていたものでした。
 ここからは、100%パウロの作ではない手紙です。
 「ここからは」と言いましたが、東方正教会では新約聖書の順序が違い、使徒行伝の次がヤコブの手紙で、ユダの手紙のあとにローマ人への手紙などパウロ作とされる手紙が来ます。パウロ作→非パウロ作が西方の流儀、非パウロ作→パウロ作が東方の流儀です。順番なんてどうでもいいじゃないかというかもしれませんが、パウロの活躍を記した使徒行伝のあとにパウロ作の手紙を読むと、パウロの偉大さがかなり強調されるのに対し、東方の流儀ではパウロの役割がかなり相対化されます。
 では西方も一枚岩かというとそうではありません。ルターが順序をいじくったのです。ルター訳聖書では新約の最後のほうは、1ヨハ→2ヨハ→3ヨハ→ヘブル→ヤコブ→ユダ→黙示録という順序になっています。最後の4書をルターが嫌ったのです。ルターは「聖書のみ」なんて言うくせに、けっこう聖書に批判的で、彼の考えでつまらない、くだらないとされる書を最後に持ってっちゃったのです。
 ヤコブ書をルターが嫌ったのは、ヘブル書と同じく、イエス様をあまりに強引に旧約の枠組みにあてはめてしまってちっとも福音的でないということです。ヘブル書は、11章がよく説教ネタになりますが、そこまではイエス様を大祭司としたいあまり、じゃなんでイエス様はレビ族じゃなくユダ族なのか、ユダ族から大祭司が出ていいのか、という、どーでもいい話を延々としていました。ヤコブ書は、律法重視、行い重視の姿勢が強すぎて(ヤコ2:24みたいに)嫌ったみたいです。

 ヤコブ書は、英語圏ではThe General Epistle of Jamesのように「ジェームズ書」になります。ヤコブがなんでジェームズになるのか、一応言語学的な発音変化で説明がつくらしいんですが、あまりに違うのでびっくりします。じゃ旧約に出てくるヤコブはというとJacobなので、英語では、旧約(新約で引用されたものも含む)=Jacob、新約=Jamesという使い分けがなされています。
 来年度(本年12/12)の通読からは、ばべるばいぶるでサポートしているすべての書。イミタチオとかクルアーンとかモルモン経も読みます。モルモン経にはThe Book of Jacobっていうのがあるんですね。日本語ではモルモンのThe Book of Jacobを「ヤコブ書」と訳すのでたいへん紛らわしく、新約のほうを「新ヤコブ書」なんて言ってます。紛らわしい書名にしやがって、しかも聖書のほうを「新」とするなんてけしからん、と思いますけど、英語民にとってみれば、JacobとJamesは全然違うので、そんな意識はまるでないでしょう。

●バルク書5章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=bar&chapter=5&mode=0
 最後はかなり短いですが、エルサレムに民が帰還して栄光が回復したさまを高らかに歌い上げて、バルク書は終了。もっともカトリックでは、あさって読む「エレミヤの手紙」をバルク書6章としています。

[911] Re:詩篇117のリフレイン 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/08(土) 18:49:20 ここから閲覧

117って、ヴルガタやLXXの番号でいう117ですよね。BHSだと118ですよね。
あ、HK.J.さんってたしかカトリックの大学でしたっけ。なら117と言ったほうが親しみがあるわけですね。

[910] 使徒9-10章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/08(土) 14:38:31 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=act&chapter=9&mode=0
 9章はパウロの回心。キリスト教徒を迫害し続けてきたパウロ(当時はサウロという名前ですけど)にイエス様が現れ、目が見えなくなります。そしてこんどはアナニヤの所にイエス様が現れ、彼の手引きによって目が見えるようになります。「目からうろこが落ちた」という表現の出所です。
 アナニヤというのは5章で麻原ペテロにポアされてしまった人物と同じ名前ですが、特にそのこととの関連はなさそうです。逆に、パウロのもとの名のサウロというのはちょっと意味ありげ。ダビデ王の前の王と同じ名前ですね。二人ともベニヤミン族でした。
 ところでパウロは後になってこのときの体験をべらべらしゃべるのですが、そのたびごとにちょっと違ったことを言ってます。それは出てきたときに指摘しますが、とりあえずここでは使9:7の、同行者たちはイエス様の声を聞いたが姿を見なかった、ということを覚えておいてください。
 ちょっと前まで迫害をしていた人物を仲間と認めるにはさぞや抵抗があったと思いますが、使9:27のバルナバ(使4:36で畑を売り払って教団に献金した人物)の手引きで受け入れられます。
 9章後半はペテロのいやしの行為が2件書かれていますが、最初のほうのアイネヤは中風。これって差別語なんですかね。「ちゅうぶ」でも「ちゅうふう」でも変換できないわ。DHCから出ている聖書『聖書から差別表現をなくす試行版』では、「体が麻痺し」になってるわ。

 10章はコルネリウスへの伝道の話。彼はローマ人で、ユダヤ教への改宗者でもなく、割礼も受けておらず、まるっきりの異邦人。そういう人物への伝道ということで、キリスト教が単なるユダヤ教イエス派から独立した宗教へと発展していきますが、食事の問題や交際の問題など、今後出てくるいろいろな問題の前兆がここで出てきます。

 

[909] ハバクク 投稿者=HK. J. 掲示日=2011/10/07(金) 23:27:54 ここから閲覧

mixiに「ハバクク書がみつからない!」というコミュがありますが、わたしの場合、聖書すべての中でもっとも好きな聖句は、ハバクク3:17,18です。

クリスチャンでも、「ハバクク」という名前を知らない人もいるようですが、マルティン・ルターが再発見した「義人はその信仰(誠実さ)のゆえに生きる」というローマ人への手紙の中での引用部分が、実質、宗教改革のきっかけになったことを知ったら、ハバクク書の重要さが見直されてもよいのではないかと思います。

[908] 詩篇117のリフレイン 投稿者=HK. J. 掲示日=2011/10/07(金) 23:21:53 ここから閲覧

ki le-olam chasdo のリフレインは、ヘブライ語のタアメ・ハミクラ(詠唱記号)を読み解くと、そのメロディーもまったく同じで、

[sol]ki le-o-[ti]lam chas-[mi]do
ソ・ソ・ソ シ・シ ミ
という繰り返しになります。

この囃子言葉のような繰り返しが、心地よく聞こえたのでしょう。
朗読に相応しい日本語訳として、わたしは新共同訳は好きです。
詩篇はもちろん、イザヤ・エレミヤも好きです。
ただし、日本聖書協会の朗読CDは、詩篇は女性の朗読の部分が好きではありません。聖書はやはり男声がふさわしいように思います。

[907] ハバクク書(全)、バルク書4章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/07(金) 10:00:13 ここから閲覧

●ハバクク書(全)
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=hab&chapter=1&mode=0
 ハバククがどういう人物かは、ハバクク書にはまるっきり書かれてないばかりか、旧約聖書のほかの部分にもまるっきり出て来ないのでよくわかりません。
 内容から判断するに、ユダ王国滅亡寸前、第一回バビロン捕囚のころの人だと思われます。
 実は、外典の『ダニエル書補遺-ベルと龍』でちらっと出てくるのですが(10/17に読みます)、時代が違いすぎるうえ、ユダからバビロンまでの空の旅をするという非現実的な話なのでシカトします。
 3章ありますが、内容的にも3つの部分にわかれます。

 1章はハバククと神様との対話。小見出しがついてないとどこからどこまでがハバククのセリフでどこからどこまでが神様のセリフなのかがわかりにくいですが、
  ハバククハバ1:2-4:どうしてこっちが苦しんでるのに助けてくれないの!
  神ハバ1:5-11:お前らに凶暴なカルデヤ人(バビロニア人)を差し向けてやる。
  ハバククハバ1:12-およびハバ2:1:あんたは私たちの神じゃないか。こんなひどいやつらを差し向けるとはあんまりじゃないか!

 2章は神様の答えです。ヨブ記の最終回答同様にあんまり答えらしくないのは昔からこの神様の常套手段ですね。
 この長い答えの後半、「わざわいなるかな」という語がハバ2:6ハバ2:9ハバ2:12ハバ2:15ハバ2:19の五箇所に出てきます。そこを起点とした5つの嘆きの歌からなっているのです。「わざわいなるかな」というは意訳で、ホントはただの間投詞הֹוי(ホゥィ)。嘆きの間投詞ですが、直後の人の死を悼むのに使います。つまりは「~な奴らは滅びるぞ」というわけです。

 3章はハバククの祈り。こういうこわい神様ですが、ハバククは信頼してほめたたえます。
 七十人訳聖書(ギリシア語訳旧約聖書)には「詩歌」という書があります。日本語にはかつて一度も翻訳されたことがありません。教文館の『聖書外典偽典』にも収録されていません。それもそのはずで、旧約およびルカ福音書のうちの祈りの詩を抜粋したにすぎない本なんです(最後の14章を除く)。この翻訳は当ばべるばいぶるでしか読めません。えへん。ハバクク書3章の祈りも詩歌4章として収録されています。
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ode&chapter=4&mode=0

●バルク書4章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=bar&chapter=4&mode=0
 自業自得とはいえ捕囚されたイスラエルの民を嘆いていますが、後半では帰還を預言、希望を与えています。

[906] コヘレト1-2章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/06(木) 06:17:12 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ecc&chapter=1&mode=0
 コヘレトはユダヤ教のほうではメギロートと呼ばれる五つの小さな本、特定の祭のときに朗誦される本という扱いを受けています。その五つとは、
  ルツ記……五旬祭(キリスト教でいうペンテコステ)
  雅歌……過越祭第8日目
  コヘレト……仮庵の祭
  哀歌……エルサレム陥落の日(アブ月9日)
  エステル記……プリムの祭
 ユダヤ教の聖書ではこの順番に配置されています。この順番を決定したときに考えられていた成立年代順です。
 従来は「伝道の書」とか「伝道者の書」とか「説教者の書」という書名で呼ばれることが多かった本です。しかしこの本の語り手である伝道者や説教者が、ユダヤ教のどういう位置にいる人なのかがよくわからないので、今ではヘブライ語そのまま、コヘレトと呼ばれるようになりました。でもこれだと、人名のような気がしてしまうので、かえってまずい気がするんですけど。
 語り手は、「ダビデの子、エルサレムの王」というわけで、普通に考えたらソロモン以外に考えられません。事実、大昔は素朴にそう信じられてきましたが、ルターがそれを否定して以来、さまざまな説が唱えられています。ルターはシラ書の実質的著者(シラの子イエス)の父つまりシラ(シラク)だとしました。その当否はともかく、時代的にはだいたいそのあたり、紀元前200年ぐらいだと思われます。
 仮庵の祭りは、エジプトから導き出されたイスラエルの民が荒野で40年間放浪したことを思い出すために、7日間仮住まいをするもの。本書の全体に流れる虚無の思想が仮住まいにふさわしいと思われたのでしょうか。実際には仮庵の祭りは思い切り楽しく祝われるようですけど。

 本書の思想を真理子流に解釈すると、昨日の詩編124編の考え方、「ひとつ、神の存在を疑ってみようじゃないか」ということなんだろうと思います。あらゆることをむなしいとして否定し否定し否定しまくって、その結果何が残るだろう、ということです。
 第1章は、新しいものなんて何もない、つまり進歩を否定。そこから人間の仕事を否定。知恵も否定します。第2章では快楽を否定、おカネを否定します。
 コヘレトには仏教の影響もあると言われています。ヘレニズム時代ですから東西交流は活発で、当時のありとあらゆる思想の影響を受けているため、「あれ、さっきはこう言ってたのに、こんどはこうかよ」という矛盾もあちこちあります。しかしそれは、語り手の自問自答、懐疑の過程をそのまま表したものととらえればいいんじゃないでしょうか。
 実はコヘレトは旧約聖書中、雅歌と並んで私の大好きな本です。こうやってすべてのものを否定してくれると、妙に癒やされるんですね。いいんだよ、どうせ空なんだからさ、ってわけで。今後も楽しく読んでいきましょう。

[905] 詩編122-124編、バルク書3章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/05(水) 11:07:37 ここから閲覧

●詩編122-124編
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=psa&chapter=122&mode=0
 都もうで、ないし宮もうでの歌の続き。
 どれも短い詩。119編みたいに無意味に長いのも困りものですが、短すぎるのもコメントのしようがなくなっちゃうので困ったものです。
 そんななかで124編は、「主がもしわれらの方におられなかったならば」という発想が面白いです。よく、「神様がいるんだったらどうして正しい人が苦しむのか、罪もない人が津波で流されちゃうのか」なんていう議論がありますけど、ここで、もし神がいないとしたらと問うてみるといいでしょう。124編はもっとひどい結果になったろうという安直な結論を出していますが、あなたはどういう答えを出しますか?

●バルク書3章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=bar&chapter=3&mode=0
 8節までが、エルサレムに残った民に対する代理の祈りのお願い。
 それ以降は詩。知恵の書、シラ書と、知恵の賛美の話が続きましたが、ここも知恵の賛美です。父と子と聖霊が三位一体だというなら、ユダヤ教にとっては、ヤハウェと知恵が二位一体という感があります。

[904] 歴代誌下25-28章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/04(火) 05:56:35 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=2ch&chapter=25&mode=0
7.南はアマジヤ、次ウジヤ
病気でヨタムに交代す
北はヤラベアム、次ヨタム
おんなじ名前になっちゃった

8.北はゼカリヤそのあとは
シャルム、メナヘム、ペカ、ホセア
みんな謀反で即位して
国まで滅んでしまったわ

9.アハズ、ヒゼキヤ、マナセ、アモン
ヨシヤ、エホヤハズ、エホヤキム
エホヤキン、ゼデキヤと即位して
南も滅んでしまったわ

 この「南北の王名を覚える歌」([787])のアマジア~アハズが今回の範囲。歴代誌は北をシカトしてますが、アハズ王のときに北が滅んだことがわかりやすいように、8番も掲げておきました。
 25章。アマジヤ(南9。BC800-783)。列王記では王下14。先代ヨアシはクーデターを起こされて殺され、それでアマジヤが即位したのでした。早速彼は父王を殺した家来たちを殺しにかかりますが、あくまで本人のみで、子どもは殺しませんでした。「父は子のゆえに殺されるべきではない。子は父のゆえに殺されるべきではない。おのおの自分の罪のゆえに殺されるべきである」申24:16と言う律法に従ったからだという話です。列王記のところでも言いましたが、たぶんこの時代に出来た新しい考え方なのでしょう。
 ここまでの話は列王記にも書かれていますが、その後の話は(王下25:18あたりを除いて)歴代誌特有の話です。おカネで北の軍隊まで雇おうとした王をある預言者がいさめます。名前が書いてませんがどうもエリシャらしいです。この破約に怒った北の兵士たちが帰り道に略奪事件を起こしました。列王記には北との戦いの理由が書かれていませんが、こんなことだったそうです。
 エドムとの戦いに勝ったはいいものの、異教の神への信仰を引き入れてしまい、このために神様の怒りを買い、クーデターを起こされて殺されてしまいます。
 26章。次はウジヤ(南10。BC783-742)。王下15ではアザリヤとも呼ばれていますが歴代誌ではウジヤとしか呼ばれていません。いい政治を行いますがらい病にかかってしまいます。その理由が列王記には書かれていませんでしたが、歴代誌を読むと、祭司しかできない主への焚香を自分で勝手に行ったかららしいです。預言者イザヤが同時代人。
 27章。次はヨタム(南11。BC742-735)。列王記では王下15:32-38ですがたいした話は書かれておりません。歴代誌もそうですね。だから27章はたった9節で終わります。
 28章。次はアハズ(南12。BC735-715)。列王記にもありました王下16が異教の神々ばかり信仰します。北の王ペカ(北17。BC737-732)がスリヤ(アラムです。アッスリヤとはまた別です)と連合して南を攻め、南は大敗。エドムからも攻められます。このためアハズは新興国アッスリヤに貢物を送って平和をはかります。

[903] 申命記4-6章、バルク書2章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/03(月) 08:40:39 ここから閲覧

●申命記4-6章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=deu&chapter=4&mode=0
 今日のところは申命記の中でも重要な言葉がいくつも出て来ます。
 申6:4-5「イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。」というのは、申命記の中で一番重要どころか、旧約聖書の中で一番重要、分厚い旧約聖書の内容を一言で要約するとすればこれだ、という、旧約聖書版般若心経みたいな語句です。
 イスラエルではこの語句を小さな紙に書いてメズーザという筒に入れ、家の戸口につけたりします。申6:9にそうしろと書いてますものね。
 日本でも、冒頭二語「シェマ・イスラエル」による呼び名が有名で、カタカナでこれを検索するだけでいろいろヒットするほど。新共同訳の文に曲をつけた人がいるのを発見しました。
http://francesco-clara.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-6a64.html
 記事の中に楽譜とMIDIファイルへのリンクがありますので聞いてみてください。

 5章では十戒ももう一度出て来ます。

 しかし一番重要なのは、偶像崇拝の禁止を説いた4章の申4:24「あなたの神、主は焼きつくす火、ねたむ神である。」ではないでしょうか。偶像崇拝をしちゃいけないのは、つまるところ、ヤハウェくんが嫉妬しちゃうからなんですよ。しかもヤハウェくんは嫉妬すると何をしでかすかわからない、非常に危なっかしい神様だからなんですよ。
 ちなみに新共同訳では「ねたむ神」ではなく「熱情の神」と書いてますね。「ねたむ神」だとさしさわりがあると思ったんでしょうか。でもごまかしちゃいけません。フラだって「妬みの神」と訳してるというのに、どの教派から横槍がはいったんでしょう?

●バルク書2章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=bar&chapter=2&mode=0
 エルサレムに残った人たちに代理祈願してもらう文の続き。いま、自分たちが捕囚の身となったのは、自分たちおよび先祖が主の教えにそむいたからだとし、いまはバビロンの王に仕えるのが主の命令であり、時が来れば先祖の土地に帰ることができるだろうと言っています。

[902] ヘブル書11-13章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/02(日) 09:33:18 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=heb&chapter=11&mode=0
 説教でヘブル書をとりあげるとしたら90パーセント以上は11章でしょうね。この11章がなかったら、ひょっとしたらヘブル書は正典に入ってなかったかもしれません。
 冒頭、口語訳聖書では「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」とありますが、後半は「見えない事実を事実と認めることである」のほうがいいです。「まだ見ていない」というと、将来見えるようになるという含みが入ってくるじゃないですか。神様が存在するなんていうのは、たぶん永久に目に見えるようにはならないでしょう。「見る」に相当するギリシア語βλεπομενωνは、βλεπωの現在分詞です。今見えないと言ってるだけで、将来見えるかどうかはまったく言ってません。
 見えるものだけを信ずるのは科学ではあっても信仰ではないのです。この考え方をふまえれば、ヨハ20:29でイエス様がトマスに「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」と言った意味がわかるでしょう。お前なぁ、おいらの手と腋を見たいんなら見せてやるけど、見て信じるのは信仰じゃなく、見ないで信じるのが信仰なんだよ、ってことです。
 11章は創世記~ヨシュア記の登場人物たちの信仰ぶりをとりあげていますが、ヘブ11:32では面倒くさくなったのか、「もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル及び預言者たちについて語り出すなら、時間が足りないであろう」なんて省略しちゃってますね。でも私としては、ぜひエフタだけは解説をしてほしかったわ。たしかにエフタは信仰によって戦いに勝利したけど、愛する娘を馬鹿ヤハウェに献げなくちゃいけなくなったのよ。これをどう説明するのかしら?
 12章は、人間の不幸は神の試練であり、神は人々を実子だと思ってるから試練を与えるのだと言ってます。すばらしい言葉だわ。ぜひこれを東日本大震災や福島第一原発事故の被災者の前で言ってきてください。ヘブル書の著者さん。それにしてもこの発想は『巨人の星』的ですね。私はさすがにリアルでは知りませんが、去年TVKで再放送してて、面白く拝見させていただきましたわ。

[901] ステファノを迫害した人々 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/01(土) 21:51:21 ここから閲覧

 ステファノを迫害した連中の素性は、使6:9に書いてますが、ルカの手抜きギリシア語(田川・使徒行伝p.101)のためにとても難解です。いろんな訳を見るとかえって混乱するので、ひとつここは、原文と格闘してみましょう。文字化けを防ぐためアクセントは全部消しました。
NA:ανεστησαν(彼らが立ち上がった) δε(しかし) τινες(ある者たちが) των(それらの) εκ(うちの・次は「~の」という形) της(その) συναγωγης(シナゴーク=会堂の) της(その) λεγομενης(言われている) λιβερτινων(リベルティノスたちの) και(そして) κυρηναιων(キリニ人たちの) και(そして) αλεξανδρεων(アレキサンドリア人たちの) και(そして) των(それらの) απο(から・次は「~の」という形) κιλικιας(キリキヤの) και(そして) ασιας(アシアの) συζητουντες(一緒に議論をしている・現在分詞) τω(それに) στεφανω(ステファノに),
 ついでながら、聖書の逐語訳を掲げているサイトに http://bible.co.jp/bible/nt/index.htm があるのですが、この部分にけっこう間違いがあって使えません。人任せにはできないですね。
 まず、主語はτινες(ある者たちが)、述語はανεστησαν(彼らが立ち上がった)。それから最後の「ステファノと議論している」というところなんで、全体構造は「ある者たちが立ち上がって、ステファノと議論した」。現在分詞って英語でいえば-ing形ですけど、定動詞みたいに使います。
 で、文中にτων(その)とかτης(その)とかτω(それに)とか出てきてるのは全部定冠詞です。ギリシア語は「うそっ!」というくらい定冠詞をてんこもりで使います。固有名詞にだってばんばん、「赤い本」だったら「赤い」と「本」の両方につけます。そのことで、どの語がどの語にかかっているかが明白になるので、ギリシア語は語順が自由です。ここで出てきてる形は、τωが男性単数与格(~に)、τηςが女性単数属格(~の)、τωνが男性複数属格です。
 さて、τινες(ある者たちが)の素性ですが、その次の定冠詞はτων。男性複数属格ですね。あれれれ、男性複数属格名詞が次にきませんね。そう思ってずっと探してみると、λιβερτινωνがそう。語尾が-ωνなんでわかりやすい。でもκαι(そして)でもう一つκυρηναιων(キリニ人たちの)、さらにκαι(そして) αλεξανδρεων(アレキサンドリア人たちの)。またκαι(そして)が続きますが、こんどはまた定冠詞των(それらの)がついてるのでこれは別物。つまり、αλεξανδρεων(アレキサンドリア人たちの)までひとまとまりで、それ全体にτινες のあとの τωνがかかってるんです。
 「これは別物」以降を先に片付けちゃいましょう。απο(から・次は「~の」という形) κιλικιας(キリキヤの) και(そして) ασιας(アシアの)。κιλικιαςもασιαςも女性単数属格です。これは前置詞αποの次の語は必ず属格になるという規則のためです。でも、αποの前の定冠詞はなぜ「男性」複数属格なのでしょうか。実はこの定冠詞τωνだけで、「~という男たちの」という意味になるのです。次に「人たち」という語が省略されていると考えてもかまいません。
 さて、とっておいたτων(それらの) εκ(うちの)以降の話です。συναγωγης(シナゴギス)は「シナゴーグ・会堂」という意味ですが、女性名詞で単数属格(~のという形。前置詞εκのせい)なんですね。次のλεγομενης(言われている)はλεγω(言う)の受動形現在分詞の単数女性形属格。これだけで「言われている」は「会堂」にかかることが明白です。全部定冠詞がτηςという形ですし、名詞なども語尾が-ηςなんで、文法うろ覚えでもわかりますよね。次のリベルティノスなんかにはかかりません。
 しかし、シナゴーグなんていうのはごく一般的な語なんで「言われている」はおかしい。λιβερτινων(リベルティノスたちの) κυρηναιων(キリニ人たちの) αλεξανδρεων(アレキサンドリア人たちの)が修飾した形ではじめて「と言われている」が生きるのです。
 整理すると、この人々とは、
 1.「リベルティノス、キリニ人、アレキサンドリア人たちのためのシナゴーグ」に属する人たち
 2.キリキヤやアシアから来た人たち
ってことになるのです。

 代表的な訳を並べます。
口語(×):すると、いわゆる「リベルテン」の会堂に属する人々、クレネ人、アレキサンドリヤ人、キリキヤやアジヤからきた人々などが立って、ステパノと議論したが
新共同(×):ところが、キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる「解放された奴隷の会堂」に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たちが立ち上がり、ステファノと議論した。
新改訳(×):ところが、いわゆるリベルテンの会堂に属する人々で、クレネ人、アレキサンドリヤ人、キリキヤやアジヤから来た人々などが立ち上がって、ステパノと議論した。
新世界(×):しかし,いわゆる“自由民の会堂”の者たち,およびキレネ人やアレクサンドリア人,またキリキアやアジアから来た者たちのうちのある人々が,ステファノと論じ合うために立ち上がった。
塚本(○):すると解放奴隷、クレネ人、アレキサンドリヤ人の礼拝堂と言われる礼拝堂の人々や、キリキヤ(州)、(小)アジヤの人々があらわれてステパノと議論をしたが、
岩波(○):すると、「ローマの解放奴隷」、キュレネ人、アレクサンドリア人のいわゆる会堂に属する人々、キリキア〔州〕やアシア〔州〕から来た人々のある者が立って、ステファノと議論をしたが、
田川(○):そこでリベルティノイとキュレネ人とアレクサンドリア人の会堂と呼ばれる会堂の者、またキリキアやアシア出身者など何人かが立ち上がって、ステファノスに議論をしかけたのだが、
岩隈(×):すると、キュレーネー人とアレクサンドリアー人とキリキアーとアシアー出身の人との、いわゆる「解放奴隷の会堂」のある人たちが進み出て、ステファノスと議論したが、

 田川先生、この話をうだうだとp.101-102にかけて書いてますけど、文法的な形だけでイッパツじゃないですか(そのことを本にはちっとも書いてない!)。結果的には正しい訳になっているとはいえ、内容を考えてあれこれ吟味するところじゃないです。まずは形式です。形式で考えておかしいときにはじめて内容を考えるんです。
 田川先生の著書がどれもみんな分厚いのは、余計な説明が多すぎるから。的確な説明だけをしてあとを削れば、現在刊行中の田川訳聖書は厚さが半分くらいですみます。
 「日本聖書協会の聖書訳者さんたちはもう少しギリシャ語の初級文法を勉強なさる必要がある」なんて言ってますが、このことばをそっくり田川先生に献上いたしますわ。

 ステファノ迫害の状況を今の日本にたとえれば、日本語のできない日系アメリカ人であるステファノが、カルト教団にはまってしまい、やはり日本語のできないアメリカやブラジルやペルーの日系人たちにカルト教団の宣伝をしてケンカになり、ぼこぼこやられて殺されちゃったというわけでして、日本で日本語を話してる日本人にとっては、どこかよそ様の事件ねという性格のものだったと思います。

[900] 使徒7-8章、バルク書1章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/01(土) 11:31:34 ここから閲覧

●使徒7-8章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=act&chapter=7&mode=0
 殉教者第一号のステファノの話。ステファノの演説が長いのでポイントがわかりにくいですが、使7:48にあるように神殿を否定していること、そしてイスラエルの民がモーセ以来預言者にたてついてきた、先日はイエス様を十字架につけ、今回は使徒たちを迫害するのか、というところがみんなを怒らせたんですね。
 ところで、ステファノに対して怒りを発した群衆はいったい何者なのでしょう。
 前回6章冒頭では、弟子がギリシア語派とヘブライ語派(と書いてますが実はアラム語でしょう)に分かれてきたという話があり、ステパノはギリシア語派筆頭の弟子でした。
 そしてステファノを告発したのはギリシア語を話すユダヤ人だったのです。7章冒頭には大祭司が出て来ますが、彼はステファノ殺害には手を下していません。エルサレムの宗教当局者はステファノなんかどうでもよかったんです。
 8章になると、ステファノの殉教のあとにエルサレムの教会に大迫害があって、「使徒以外の者はことごとく、ユダヤとサマリヤとの地方に散らされて行った。」(使8:1)とあります。ということは、よく読んでください。「使徒は迫害を受けることなく無事だった」ってことなんですよ。使徒はアラム語派ですから。
 そんなわけでここまでは、ギリシア語派のユダヤ人の間の話だったのです。
 エルサレムはアラム語の町ですから、ギリシア語を話すユダヤ人というのはいろいろな地域からエルサレムにやってきた人たちです。しかも、神殿参拝のために一時的にやってきたのではなく、ここに住み着いているのです。どうしてかというと、この時代、「終末がせまっている、エルサレムにいたほうが救われやすい」という考え方があったのです。彼らはそういう、ちょっとイッちゃった人たちであり、普通のユダヤ人とは遊離した存在だったのです。

 さて、ステファノなきあと、ギリシア語派の筆頭はフィリポ(ピリポ)になります。エルサレムを追われてサマリアに行って宣教して功績をあげます。12節には、男も女も信じて洗礼を受けたとありますね。
 そこでペテロとヨハネは重い腰をあげてサマリアに向かいます。
 どうしてでしょうか。フィリポが宣教しただけではダメなのでしょうか。
 ダメなんですよ。
 16-17節には、フィリポの行った洗礼は主イエスの名によるものというだけで、聖霊は下ってなかった。聖霊を下すためにはペテロとヨハネが行かなきゃいけないみたいです。しかし、聖霊って本来の神様のものというか、三位一体ですから神様そのものじゃありませんか。それをペテロやヨハネが独占してるなんて! お前らそんなに偉いのか。5章のアナニヤ夫婦をポアした事件といい、やっぱりペテロは麻原彰晃化してますね。
 こんなふうに、使徒=アラム語派はエルサレムにとどまる一方、各地への宣教はギリシア語派によって行われた、ということをおさえておきましょう。

●バルク書1章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=bar&chapter=1&mode=0
 バルクというのはエレミヤ書32章以降に出てくる書記、いわばエレミヤの秘書として活躍した人です。バビロンに捕囚されたユダヤ人たちが、エルサレムに残っている人々に手紙を書き、わたしたちのかわりに祈ってくれ、という散文がバル3:8まで。そしてその後は詩になっています。

[899] ナホム書(全) 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/30(金) 12:23:28 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=nah&chapter=1&mode=0
 十二小預言書も後半に入りました。
 聖書の書名を覚える歌(浅見定雄式)
http://www.babelbible.net/mariko/bib.cgi?doc=song&course=bib
の2番、
2.イザヤ、エレ、哀、エゼ、ダニエル
 ホセア、ヨエ、アモ、オバ、ヨナ、ミ
 ナホム、ハバクク、ゼファニア書
 ハガ、ゼカ、マラキで39
の、ホセア~ミ(=ミカ)はアッシリア時代、ナホム~ゼファニアはアッシリア末期、ハガ(=ハガイ)~マラキはペルシア帝国時代となっています。こういうふうに預言者の時代がよくわかるのも浅見式の歌のすぐれたところです。
 冒頭の「エルコシ」というのがどこにあるのかはよくわかりません。
 ナホム書の内容は一言でいえばニネベの滅亡の予言です。ニネベというのはヨナ書では神様が助けようとしてヨナにデマ男になってもらった話で出てきましたが、アッシリアの都。史実としてのアッシリアの滅亡はBC612です。予言といっても実際には事後予言、つまり結果を知った上であたかも昔に予言したかのような体裁で書いたのかもしれませんし、本当に予言でも、滅亡しそうな状況が迫ってからのことでしょうから、この年(BC612)にかなり近い時代だと思われます。
 今日の神様はこわいです。なにしろ冒頭ナホ1:2で「主はねたみ、かつあだを報いる神」なんて出て来ますから。なにしろ出34:14によればヤハウェさんは別名「ねたみの神(エル・カナー אֵל קַנָּא)。新共同訳の『熱情の神』なんていうのは悪質な誤訳」というくらいで、とってもこわいんです。でもそれは、アッシリアが悪いことをしたからいけないんで、悪に対しては厳しく臨むというのも神様の大切なお仕事なんですね。

 翻訳の問題がある点を一つだけ指摘しておきます。
 ナホ2:8(BHSによる節番号。従来は7節)の冒頭の2語
וְהֻצַּב גֻּלְּתָה (ウ・ホゥッツァブ グルラタ)っていうところは意味が不明で、みなさんがんばってます。
 先頭のウはandという接続詞だからシカトして、ホゥッツァブっていのは、普通に考えると「彼はしっかり立てられる」という三人称単数男性形の動詞なんですが、次が三人称単数女性形なので、たぶん固有名詞なんでしょう。で、次のグルラタっていうのは「彼女は裸にされた」。だから、ホゥッツァブは裸にされた、が普通でしょうね。まあHuをホゥって書くのは私の流儀なんで(フって書くとみんなFuって読む)、一般には「フッツァブは裸にされた」。岩波がまさにこのとおり。
 ところが問題は、グルラタのほうを裸って書いてない訳が多すぎるってことです。KJV、RVなど往年の訳がそう。新改訳も「王妃は捕らえられた」。フラも、直訳だと裸だって注にわざわざ書いてるのに読み変えて捕囚にしちゃってる。ちゃんと裸って訳しているのはRSVはits mistress is stripped.(王妃は裸にされた)で、固有名詞を訳してないけど、これが人名だというのは推測でしかありませんから、まあいいでしょう。口語訳もその流儀。新共同訳は実質的にフラの後継だけど、「衣をはがれて」と書いてますね。

[898] 箴言31章、シラ書51章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/29(木) 09:44:30 ここから閲覧

●箴言31章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=pro&chapter=31&mode=0
 冒頭にあるようにお母さんの教え。その冒頭が「あなたの力を女についやすな、王をも滅ぼすものに、あなたの道を任せるな」というのはすごいですね。
 ついで「酒を飲むな」などのあと、賢い妻の話が10節以下最後までですね。
 箴言はことわざ集ということで雑然としたところがあり、中には女性蔑視と思えるようなくだりもいくつかありましたが、最後は賢い女性はかくあるべしという女からの意見を載せて、めでたく終了です。

●シラ書51章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=51&mode=0
 シラ書も今日でおしまい。
 冒頭の序文にあるように、シラ書の実質的な著者は、著者の祖父であるシラの子イエス、だからヘブライ語でいえば、エホシュア・ベン・シラでした。知恵を求める彼の生き方を祈りの中にまぜて、シラ書を結んでいます。

[897] 詩編120-121編 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/28(水) 16:39:18 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=psa&chapter=120&mode=0
 120編から134編までは「都もうでの歌」「都へ上る歌」などと訳されていますが、ヘブライ語ではשִׁיר הַמַּעֲלֹות、シール・ハマアロート。シールは「歌」、ハは定冠詞で、マアロートというのはעלה(アラハ。上る)の名詞形の複数にすぎません。だから「都」はないんですね。事実、新改訳でも「都上りの歌」と訳してるくせに、新聖書注解では「宮上りの歌」のほうが正しいなんて書いてます。さらには、これは都なり神殿なりに参詣するという意味ではなく、宮の階段を上りながら歌うのだとか(そしたらミサの昇階唱ですね)、内容的に前節の語句を尻取りのようにして発展していくのだとか、いろんな話があるみたいです。
 私は昔から、「神殿を参詣するために都へ上る集団が歌う歌」、つまりはワーグナーの「タンホイザー」に出てくるような巡礼の合唱とか、「雪山賛歌」みたいなものだと思ってました。
 こういうときの歌は、聖なる目的のために非常に清らかな感じになり、詩編にありがちな敵への呪いみたいなものはあんまり出て来ません。だから安心して読むことができます。