[ばべるばいぶる]

真理子の聖書日記


このサイトを作りながら、聖書を読みながら真理子が考えたことです。
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[159] 2ニフ8章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/30(月) 10:02:44 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=2ne&chapter=8&mode=0
 イザヤ書51章と同じ。ただし例によって、新たに祭司になったヤコブ(もちろん創世記のヤコブじゃなくリーハイが荒れ野で作った子)が真鍮版に刻まれたイザヤの教えを読むという体裁になっています。

[158] 詩歌8章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/30(月) 10:00:32 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ode&chapter=8&mode=0
 昨年度の記事は[0:472]
 三人の若者の祈り。昨年度の[0:932]、および前回[137]もご参照ください。
 前回のアザリヤの祈りに続いて、炉の中で三人が祈る祈りです。前回は「燃えさかる炉に投げ込まれる寸前」と書きましたが、前回の時点でもう投げ込まれてますね。失礼しました。
 前回がアザリヤ一人の独唱で、今回は三人の合唱というわけで、非常にオペラ的ですね。
 「主をほめよ。とこしえに主をさんびし、あがめよ。」というしつこいくらいのリフレインもオペラ的です。
 ただこういうのは実際の状況としては(実際に火の中で神様に祈れるかどうかは別として)、一心不乱に神様に祈っているんでしょう。でもそれじゃオペラにならないので、くどいリフレインとして表現するのです。ヴァーグナーの『トリスタンとイゾルデ』第二幕とか『ジークフリート』第三幕とか、男女の愛のシーン、実際にあんな感じで男女がべらべらしゃべっていたらセックスになりません。実際には黙って睦み合っているんでしょうけど、歌ではそのときの二人の気持ちを全部声に出さなきゃいけないんです。

[157] 創世記28-31章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/30(月) 09:52:00 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=gen&chapter=28&mode=0
 昨年度の記事は[0:472]
 昨年作った「十二部族を覚える歌」は、改良を経て今は専用ページ
http://www.babelbible.net/mariko/bib.cgi?doc=twelve&course=bib
に書いてあります。
 さて、話の舞台になったバタンアラムというのは今のイラク、ユーフラテス川流域。いわゆる「肥沃な三日月地帯」です。で、バタンアラムというのは広い地域名で、そのうちのハランが、夢に天使が上り下りするはしごが現れ、神様がヤコブの将来を保証するという事件のあったところ。ちなみにおじいさんのアブラハムが初めて神様に出会ったのもこのハランです(生まれたのはウル)。そしてラバンの住む土地は不明ながらそこよりちょっと東ということになっています。
 地名が出てきたら必ず地図で調べましょう。口語訳聖書の聖書地図がWikisourceに載っていますが、これだと第1図のD2からE2にかけてが舞台というわけです。
http://ja.wikisource.org/wiki/%E8%81%96%E6%9B%B8%E5%9C%B0%E5%9B%B3_(JBS1956)
 著作権フリーなんでそのうち当サイトに転載して、口語訳聖書に載ってる聖書地図索引を電子化してひけるようにします。
 昨日やってたNHKスペシャル・ヒューマンによれば、人類の故郷はアフリカということらしいですが、聖書ではアブラハムの一族は肥沃な三日月地帯が故郷。いずれにせよ聖書の主人公たちは、もとからカナンの地、パレスチナにいたわけじゃないんです。

 ちなみにラバンはヤコブの母方のおじ、ですから二人の妻レアとラケルは母方のいとこにあたります。

[156] 2ニフ7章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/29(日) 09:44:41 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=2ne&chapter=7&mode=0
 約束の地についた一行。父のリーハイが死んだ後、兄のレーバンはとうとう離反。ニーファイたちは別れて別の地に定住しそこで栄えます。そして父が荒れ野でもうけたヤコブとヨセフを祭司にして神殿まで作っちゃう。そこでヤコブが長々と説教をしてるんですが、その続きです。
 今日のところはイザヤ書50章とほとんど同じ。神様はイスラエルをまったく見捨てたのではなく、必ず助けてくれるという希望をうたっています。

[155] 3イミ7章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/29(日) 09:39:59 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=3ic&chapter=7&mode=0
 昨日も言ったように謙遜が大事。カネ、モノ、人などに執着しない。自分のもつよいものに執着しない。自分は何も持たないものだという謙遜の心で頼るのが大事なんです。
 そして、執着しないということでいえば、信仰による恵みも同様。それは緒戦感情であり、感情とは一瞬のものであり、すぐに反対のものになってしまうかもしれない。
 あまりに神の恵みを求め、安全を求めると、そうでないときに落胆してダメになってしまう。
 むしろ、思い通りにならないとき、困ったとき、試練にあったときに謙遜の心をもって神に頼ることが大事なので、その意味では試練こそチャンスと言っているのです。

[154] ロマ書13-14章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/29(日) 09:35:11 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=rom&chapter=13&mode=0
 昨年度の記事は[0:469]
 食べ物に関する禁忌をどうするか、上に立つ権威にしたがうべきかどうかなど、日常生活や世俗に関するきまりについてパウロがどう考えているか、よくまとまっているところです。
 で、思い切ってずばり一言でいえば……
 「どーでもいい」なんですよ。
 つまりパウロにとっては、キリストを信じて最後の審判で救われることのみが重大関心事。しかもその最後の審判は、自分が生きているうちにもやってくると大まじめで信じています。
 とすれば、この世でどんな矛盾があったとしてもどうせすぐに行ける天国では解決されるんだから、いま無理して解決する必要はない。だからとりあえずお上にはさからわないようにしなさい。せっかく「死なずに天国にいける」かもしれない今、ヘンにさからって処刑されちゃったら痛いでしょ?
 食べ物を食べていいかどうか心配なら、とりあえずは今までどおりの生活をしときなさい。迷ったらやめときなさい。そんなことよりキリストを信じて天国に行くことが大事。
 こんなふうに、終末が近いと信じている人にとって、現世の生活はどうでもよくなっちゃう。だから禁欲に走るし、現世の矛盾をいっこうに解決しようとしない。今のカルト教団だってそうでしょ?
 でもね、たとえ終末が明日来るとしても、人間にとっては今日どう生きるかが大事なんですよ。明日来るはずの終末を今日に前倒ししちゃダメなんです。
 だから「終末が近い」って唱える教団は邪悪なんです。終末がいつ来るかはだれにもわからない。そんなことより、今この一瞬一瞬をよりよく生きることを教えなきゃダメなんです。

[153] クルアーン14回 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/28(土) 09:33:09 コメントする ここから閲覧

 クル-14回。3章132-170節。
 昨日から話題になっているバドルの戦い。詳しくは
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%89%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
http://www.geocities.jp/ahulal_bayt/yogenshanokyoudai-ali/imam.ali-f8.html
などを見てください。イスラム暦3年(624年)、初期のイスラム教徒が経験した天下わけめの戦いで、これに勝利したことでイスラム教は生き残ったわけです。
 ただ、こういう戦争の話で、裏切り者があーだこーだいうと、イスラム教が大変キナくさい宗教だと思われてしまうんじゃないかしら。
 実はキリスト教だって人のこと言えません。詩編なんか戦争の詩がやたら多くて「敵をやっつけてくれ」みたいなのが多いじゃないですか。
 詩編を読むコツでもあるんですが、現代人としては戦争の話が出てきたら、日常生活で遭遇する苦難や試練と読み変えればいいんです。傾きかけた会社で社員が苦しい戦いをしているときとかに、人の本性がよく見えてくるものです。そういう話として読みましょう。

[152] 1イミ7章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/28(土) 09:26:19 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=1ic&chapter=7&mode=0
 モノに執着するな、カネに執着するな、人に執着するな(たとえば恋人の愛を得ようとか)。カネ、モノ、人は経済の三要素ですね。どれも執着しちゃいけないんです。そんなものはすぐなくなっちゃうわけですから。イミタチオ(キリストにならいて)ってけっこう仏教的、東洋的ですよね。
 そして執着しちゃいけないのは、健康、美貌、才能、技術など、自分のもっているよい徳目。こういうのもすぐなくなくってしまう。
 さらにいえば自分の善行。いいことをしたから救ってもらえるなんて思っちゃダメ。神様は意外に、人が善行だと思うことを喜ばないかもしれません。
 こうなると人は謙遜にならざるを得ません。自分は何一つ誇るものはないからです。イミタチオの著者があらゆるところで口をすっぱくして言ってる「謙遜になれ」が、ここでも強調されています。

[151] マタイ17-19章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/28(土) 09:19:16 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=mat&chapter=17&mode=0
 昨年度の記事は[0:467]
 昨年は天国の話を書きました。
  ・天国と地獄は実は同じところであって、天国の生活に満足できない人にとってはそこは地獄。
  ・天国には階級がないのでそれに不満な人にとってはそこは地獄。
という話でした。
 で、今年付け加えるとすれば19章の、「金持ちが天国に行くのは難しい」でしょうか。
 天国にはお金は持って行けませんから、貧しい人に施しちゃいなさいということ。

 昨年は主人のお父様がなくなって、いま喪中なんですけど、けっこうコツコツと小金をためていたし、生命保険にも入っていたので、おかげで私たち夫婦もちょっと生活に余裕ができました。でも、主人も私も普通のサラリーマンと違って退職金がありませんから、年金生活に入るまでの資金としてためておかなきゃね。
 でもこのお金は、本来はもっと貧しい人に施さなきゃいけないのかしら?
 念のためいうと、イエス様は「貧しい人に施せ」って言ってるんですよ。「教会に献金しろ」なんて言ってませんから、悪徳教会に献金しないよう十分に注意してください。
 目下判明している悪徳教会は、福音派諸教会と、日本基督教団です。いまTwitterのほうで私はしつこく糾弾していますが、「信徒の友」2012-2の特集「献金の喜び」では、「無理をせずに」など貧しい人への暖かい配慮の言葉が一言もなく、「十分の一献金をしろ」という銭ゲバ体質をむきだしにしてますからね。日本基督教団なんか万博闘争のときに滅んでしまえばよかったんだわ。

 私はキリスト教に輪廻説を取り入れてますから、天国=地獄=現世と考えており、「救われる(天国に入る)」というのは「死んでもまた新たにこの地球のどこかで人間としての生をスタートできる」ことだと考えています。ちなみに救われないというのは地獄に行くことではなく(だって天国と地獄は同じところですから)、死後に新たな生をスタートできず、それっきり(あるいは動物などに生まれ変わる)ということだと思っています。
 主人のお父様は生前はけっこうお金にうるさくケチケチと暮らしてましたけど、亡くなる直前はまるで人が変わったようにお金に執着がなくなりました。たぶん普通の人は、死の直前にはそういう心になるものなんでしょう。すると天国に入るのはそう難しいことではなさそうです。
 たいていの人は、死ぬ直前にはお金への執着がなくなって、すんなり新たな生をスタートできるんじゃないかしら。

[150] クルアーン13回 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/27(金) 12:31:23 コメントする ここから閲覧

 クル-13回。3章93-131節。
 今日の前半は経典の民批判。経典の民(他の訳では啓典の民)とはユダヤ教徒やキリスト教徒。イスラム教はユダヤ教やキリスト教をアレンジしたものなので、アレンジされたほうは激しく反発してくるのです。モルモン教は自分たちをキリスト教の一派とみなすけどキリスト教のほうは異端として排撃する。それと同じです。逆にわたしたちキリスト教も、ユダヤ教に対しては一種の親近感がありますけど、ユダヤ教のほうからみればとんでもないのでしょう。そういうことを感じる訓練として、当ばべるばいぶるでは、クルアーンやモルモン経を読んでいるのです。
 後半は初期イスラム教徒が経験した最大の戦い、バドルの戦いの話ですが、メインは次の14回なので明日また書きます。

[149] 知恵の書7章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/27(金) 12:22:44 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=wis&chapter=7&mode=0
 昨年度の記事は[0:686]
  知7:2「楽しい性交により、男性の精子によって作られ、十ヵ月かかって血で固められた者」なんて何ごとだ! こんなことが外典とはいえ聖書に書いてあるはずがない。これはエロオバサンの真理子がねじまげた誤訳なんじゃないかとお思いの皆様、そんなことはありませんわ。新共同訳では「十か月、血の中で形を整えた。男性の種と夫婦の楽しみによってである」です。各国語訳もごらんあれ。RSVならwithin the period of ten months, compacted with blood, from the seed of a man and the pleasure of marriage. です。
 さて、今日の7章からの「わたし」は実はソロモンです。え、そんなの最初から知ってました? そうですね。新共同訳および当ばべるばいぶるではこの本の名前を「知恵の書」としてますけど、別の訳では「ソロモンの知恵(の書)」なんて書いていたりもしますからね。でも6章までの「わたし」というのはあんまりソロモンっぽくなく、祭司なり教師なり長老なりの言葉という感じでした。が、ここからはがぜんソロモンらしくなるのです。でも本文にはどこにもソロモンという名は出てきません。8節の「わたしは王のしゃくや王座より知恵を求めた」とか、9章の祈りの内容から考えて、「ああ、これってソロモンかな」って感じにとれるのです。
 ばべるばいぶるではカットしちゃいましたが、新共同訳聖書には小見出しがついてます。それを見ると「ソロモンの出生は皆と同じ」とあるので、ソロモンであることが一目瞭然。でもこれは映画のネタバレみたいなもので、本来は本文をじっくり読みながら「ひょっとしたらソロモンかしら」と想像して楽しむものなのです。こういう楽しみがそこなわれるので、ばべるばいぶるでは小見出しを全部カットしちゃったんですが、忙しい読者には小見出しは便利なので、ばべるばいぶるでも小見出しを表示する機能を現在作ってる最中です。ただしオンオフできるようにします。小見出しが邪魔になることは多いので。
 ソロモンは賢者の代名詞ですけど、その一方でエロ詩・雅歌の作者ともされてますし、異教徒の女たちをいっぱい妻にしちゃった人でもありますし、西洋では絶倫男のイメージもあるようです。

[148] イザヤ書34-39章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/27(金) 11:50:15 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=isa&chapter=34&mode=0
 昨年度の記事は[0:466]。なお、平行箇所である列王記について書いた[0:768]もごらんください。
 今日で第一イザヤはおしまいです。
 ずっとわけのわからない預言が続くと思いきや、36章からは突然歴史の話になります。
 ヒゼキヤ王14年とはBC701年。南北の王名を覚える歌
http://www.babelbible.net/mariko/bib.cgi?doc=kings&course=bib
をご参照ください。
 アッスリヤ(アッシリア)の王セナケリブ(センナケリブ)というのは北王国を滅ぼしたシャルマネセル(5世)の次の次。今日の話のようにエルサレムを包囲、しかし陥落させることができずに撤退します。聖書では主の使いが兵士185000人!を撃ち殺したからということになっていますが真相は不明です。なお、聖書ではこの戦いのあとすぐに暗殺されたように書いていますが、実際には20年も後のBC681年の出来事です。
 さて、イザヤ書のこの部分は、実は38章→39章→36章→37章の順に読むべきなんです。つまりヒゼキヤ王が瀕死の重病になって神様から助けてもらった話があり、その病気見舞いにバビロニアから使者がやってきて、バビロニアと手をくめばアッシリアと戦えると勇気づけられたヒゼキヤ王が無謀な戦争を始めて、それでエルサレムは包囲され、陥落寸前に神様に助けてもらったというわけです。
 預言書が読みにくい理由は、わけのわからない象徴的な表現が多いということもあるのですが、こんなふうに時間の順序がぐちゃぐちゃだというのもあります。
 どなたかイザヤ書を、いやすべての預言書を全部バラバラにして時間順に並べ替えて、簡単な時代背景を付したたものを作っていただけないかしら。そしたらとっても便利だと思います。え、お前が作れって? 将来の課題にしておきます。

[147] 2ニフ6章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/26(木) 11:23:27 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=2ne&chapter=6&mode=0
 ここからストーリーは再び足踏み。ニーファイの民たちへのヤコブの教えです。
 ヤコブは5章でニーファイによって祭司に任命されたんですよね。さっそくイザヤ書( イザ49:22-23)を引用して、ユダヤ人はいったんは苦難の日々を迎えるが、主は異邦人に手をあげて(つまり撃退して)、ふたたびユダヤ人をもとに戻してくれる、と教え始めます。

[146] トビト記7章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/26(木) 11:14:15 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=tob&chapter=7&mode=0
 昨年度の記事は[0:400]。それにしても無内容ですね。だって話が全然進展しないんですもの。
 ですから今まで言い忘れた話を書きます。
 トビトの息子がトビヤ、トビトの父はトビエルでしたね。
 すごく名前が似てますね。
 実は、実質的に同じ名前なんですよ。トビトというのはトビヤの省略形で、「主は私によくしてくださる」という意味になります。もちろんトビエルのエルは「神」ですからおんなじ意味です。
 その証拠にWikipediaで「トビト」をあけて、左側にあるヘブライ語ページのリンクをたどってごらんなさい。ספר טוביהとなってます!トビヤ記というわけです。
 ラテン語訳であるヴルガタではトビトもトビヤも(トビエルは訳してない!)どっちもTobiasとなってますが、決して誤訳とはいいきれません。同じ名前だと解釈してるんですね。どっちも登場する文ではたとえば トビ5:1は「トビヤは父に」みたいな感じにしてまぎらわしくないように工夫しています。
 父と子が同じ名前っていうのはヨハン・シュトラウスとかモルモン教の教祖ジョゼフ・スミスみたいによくあることで、彼らもそうなんですね。

[145] ヨブ記13-14章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/26(木) 10:59:52 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=job&chapter=13&mode=0
 昨年度の記事は[0:464]
リビングバイブルのヨブ記もあわせてお読みください。
http://www.biblica.com/uploads/pdf-files/bibles/japanese/ot/job.pdf
 3人目の友ゾバルへの反論の続き。つまりここで第一ラウンドが終了です。
 ヨブ記は翻訳の性格さよりも劇的な感じが重要です。この場面だったらヨブのいらいら感をどれだけうまく訳しているかです。でないと気の抜けたビールみたいで読むに堪えません。
 ヨブ13:1-3を比べてみると(長いので全部の訳を掲げられませんけど)、

口語:見よ、わたしの目は、これをことごとく見た。わたしの耳はこれを聞いて悟った。あなたがたの知っている事は、わたしも知っている。わたしはあなたがたに劣らない。しかしわたしは全能者に物を言おう、わたしは神と論ずることを望む。
新改訳:見よ。私の目はこれをことごとく見た。私の耳はこれを聞いて悟った。あなたがたの知っていることは私も知っている。私はあなたがたに劣っていない。だが、私は全能者に語りかけ、神と論じ合ってみたい。
新共同:そんなことはみな、わたしもこの目で見この耳で聞いて、よく分かっている。あなたたちの知っていることぐらいはわたしも知っている。あなたたちに劣ってはいない。わたしが話しかけたいのは全能者なのだ。わたしは神に向かって申し立てたい。
リビング:あんたが引き合いに出したような例は、山ほど見てきたさ。 言いたいことはよくわかる。わしはばかじゃない。 あんたと同じくらい道理はわきまえているつもりだ。ああ、全能者とじかに話してみたい。 この問題を直接、話し合ってみたい。

 こうしてみると、やっぱり口語訳は失格だなって思います。リビングバイブルみたいに訳してくれなきゃ、ヨブがどれだけいらいらしているかがわからない。
 でも、新共同訳もいいせん行ってますね。けっこういらいら感が出ています。

 昨年の震災では、ヨブ記のテーマ「なぜ罪もない人が苦しまなきゃいけないのか」が問われたわけですが、「なぜ罪もない人が苦しまなきゃいけないのか」というのは、もっと突き詰めれば、「正しいと思っていた神が信じられなくなったらどうするか」ということです。原発事故で明らかになったことは、この社会がいかに原発推進の方向で動いており、産業界ばかりか立法も司法も行政も原発推進であり、反原発の意見はあらゆる点で抑圧されているということです。誰にも訴えることができない。裁判所だって絶対に反原発の判決を出してくれないわけで、これではどうしようもない絶望を抱かざるを得ません。
 それと同じで、困ったことがあったら神様が助けてくれるはずなのに、ヨブ記ではなんとその神様がサタンと共犯だったというわけですからね。
 さあ、第二ラウンドではどうなるんでしょうか。まあどうにもならないんですけどね。

[144] 2ニフ5章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/25(水) 09:36:57 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=2ne&chapter=5&mode=0
 ついに不信仰な兄たちはニーファイを殺そうと反乱を起こすので、ニーファイは自分の妻子たちを伴って荒野に逃げ、ある場所にニーファイという名をつけてそこに定住します。
 このあたりから、ニーファイ人、レーマン人という言い方が出てきます。つまり、ニーファイの一族および彼に賛同する人が一つの民族となり、また兄レーマンの一族と賛同者が一つの民族となったわけです。
 ニーファイ人の構成は、ニーファイの一族のみならず、一つ上の兄サームの一族、それからゾーラムの一族です。ゾーラムって覚えてますか? 真鍮版を手に入れるためにエルサレムのレーバンと交渉したけど断られたので、レーバンを殺して剣を手に入れたんですよね。そのときについてきたレーバンの召使です。
 それからお父さんリーハイが荒野で作ったヤコブとヨセフ。この二人は祭司になります。そう、ニーファイ人は荒野を豊かな実りの地にかえ、ソロモンの神殿のような神殿まで作っちゃったんですね。
 一方レーマン人のほうは主の呪いで肌が黒くなります。このあたりがモルモン教に対して人種差別だという非難が浴びせられるところですね。

[143] 1マカ7章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/25(水) 09:27:35 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=1ma&chapter=7&mode=0
 昨年度の記事は[0:567]
 昨年度も書きましたが、プリムの祭の本当の起源はたぶんこれ。新しい王デメトリオスに対する苦しい戦いに勝利した記念です。今回は裏切り者がいっぱい出る中の苦しい戦いでした。
 引用されている詩編は79編。バビロン捕囚のときのエルサレムの荒廃を嘆き、主よ、いつまでなのですかと叫ぶ詩です。

 マカバイ記は毎週水曜日に1章ずつ読んでますけど、人名辞典がないとつらいですよね。これから1年間かけて読みながら、出てきたことがらをまとめて、人名辞典を作ろうかしら。

[142] 詩編18-20編 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/25(水) 09:18:37 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=psa&chapter=18&mode=0
 昨年度の記事は[0:462]
 今日も音楽の時間です。今年は全150編これでいきます。「詩編音楽選」っていう専用ページ作ろうかしら。

●18編
  サム下22:2-51に全文掲載されている詩。ダビデがあらゆる敵に勝利してイスラエルの王権をしっかり確立して詠んだもの。勝利の喜びと神への確信に満ちあふれた詩です。人間は苦しい時にも神頼みしますが、こうやって成功したあかつきにも信仰心がくすぐられるものなんですね。
 音楽はまずゴスペル歌手Clint Brownの歌。

(http://www.youtube.com/watch?v=7JJ68RMH4-Y)
 kinotoriさんのプレゼンは2つにわかれてます。

(http://www.youtube.com/watch?v=VajXeLlqI1g)

(http://www.youtube.com/watch?v=tQlpT18vBq4)

●19編
 背景は不明ですが、やっぱり18編同様に勝利、確信の祈りです。
 日本語で歌ってるのを見つけました。

(http://www.youtube.com/watch?v=hoVQhupNzIs)
 次にVineyard Music。これけっこう有名なのか、複数件アップされてます。Youtubeのほうにいくと歌詞も見られるので、画像下のリンクからどうぞ。

(http://www.youtube.com/watch?v=OHQa4t7pSuI)
 kinotoriさんのプレゼン

(http://www.youtube.com/watch?v=ENxWSdxOd-4)

●20編
 自分のことを祈るのではなく「あなたが守られますように」という、いわば牧師の立場の祈りです。でもクリスチャンってあいさつのように、あなたのために祈りますっていうおせっかいなことをよく言いますからね。
 これはオランダの某教会の素人合奏&合唱というもので、一部お聞き苦しい箇所がありますけどお聞きください。

(http://www.youtube.com/watch?v=0MdI_WAZ-3w)
 次のBantus Reggaeというのはよくわかりませんが、変り種でレゲエを。

(http://www.youtube.com/watch?v=H1aR7GBCcro)
 kinotoriさんのプレゼン

(http://www.youtube.com/watch?v=MogiuAPE7zA)

[141] 2ニフ4章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/24(火) 10:38:14 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=2ne&chapter=4&mode=0
 長々と訓戒をしたあと、お父さんリーハイは死にます。まるで創世記のヤコブの死をほうふつとさせます。
 さて、リーハイの息子のうちレーマンら上の二人は悪役でしたね。お父さんが死ぬと、自分たちのお嫁さんの家であるイシマエル家の息子たちと一緒に反乱をくわだてますが、具体的な話は次の章へ。

[140] シラ書7章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/24(火) 10:31:34 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=7&mode=0
 昨年度の記事は[0:757]
 善悪関係のことわざが並んでいますが、4節の「主に王の地位を求めるな。王に名誉ある地位を求めるな」っていうのが面白い。神様は王様じゃないんですね。王様は政治をするわけですけど、政治ってどうしてもダーティな面がありますから、王様って汚れ役なんですね。いまなら総理大臣です。総理大臣はみんなからいろいろ言われる汚れ役を甘受しなきゃいけません。韓国だと大統領ですね。韓国の大統領も最後が悲惨な人が多いですからね。ピストルで撃たれたり、自殺したり。
 で、神様は王様じゃないっていうのは、具体的な政策を神様にお願いしてもしょうがないってことです。神様にお祈りするのは「私を強めてください」ってことだけ。自分でやらなきゃダメなのね。

[139] 士師記7-11章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/24(火) 10:23:43 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=jdg&chapter=7&mode=0
 昨年度の記事は[0:460]
 この範囲ではどうしてもエフタの娘の話を書かざるを得ないわ。「処女であることを嘆かせてください」 士11:37なんて泣けてくる。この娘はそんなにセックスしたかったのね。聖書がここまで女性が性欲をむき出しにしてる発言を書くっていうのはよっぽどのことよ。だって、性は生。性欲は生きるあかしですもの。
 と、この話をすると非常に長くなるので、今年はここまで出てきた士師について簡単にまとめていきましょうか。
 士師を覚える歌はもう覚えていただけましたか。とりあえず専用ページも作りました。
http://www.babelbible.net/mariko/bib.cgi?doc=judges&course=bib
オテニエル、エホデ、シャムガル、
デボラ、ギデオン、トラ、ヤイル、
エフタ、イブザン、エロ(ン)、アブドン、
サムソン加えて十二人

 ページがつまらないので、以下の「士師のまとめ」が全部完成したあかつきにはこのページに転載しますわ。

オテニエル。オトニエルとも。 士1:13初登場。ここはユダ族の話なのでたぶんユダ族。主な業績は士3:9-11。イスラエルを支配していたメソポタミヤの王クシャン・リシャタイムと戦って勝つ。

エホデ。エフドとも。 士3:15-30。ベニヤミン族。イスラエルと対立していたモアブの王エグロンを暗殺。左利きなので左手につるぎを隠し持ったというワザ。

シャムガル。 士3:31のみ。部族不明。牛のむちでペリシテ人を六百人殺す。

デボラ。 士4および 士5。ラビドテ(ラビドト)の妻で女預言者。ナフタリ族のバラクと共闘しているのでたぶんナフタリ族。ナフタリ族とゼブルン族から一万人を率いて、イスラエルを支配していたカナン王ヤビンと戦う。その軍の長シセラは敗走中、ケニ人(ミデアン人と近い遊牧民らしい)ヘベルの天幕で休息中、妻のシセラに殺される。5章のデボラの歌は旧約聖書最古の歌。

ギデオン。 士6士7士8。マナセ族。イスラエルを苦しめていた遊牧民ミデアン人、アマレク人と戦う。バアルの祭壇やアシラ像を破壊、エルバアルとも呼ばれる。子供をたくさん生むが、子のひとりアビメレクに全部殺されてしまう。アビメレクは士師のうちに入れない。

トラ。 士10:1-2。イッサカル族。

ヤイル。 士10:3-5。ギレアテ人(マナセ族)。

エフタ。 士11。ギレアテ人(マナセ族)。遊女の子なので家を追放されやくざな生活。武勇をみこまれてアンモン人と戦うが、勝たせてくれたら帰宅したときに最初に私を迎えた者を燔祭にささげるというバカな誓いをしてしまったために娘を真っ黒こげにしてしまうはめに。

[138] 2ニフ3章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/23(月) 11:22:47 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=2ne&chapter=3&mode=0
 リーハイは最後に荒野の中で新たに生まれた末子ヨセフをさとします。ヨセフといえば、創世記に出てくるエジプトで活躍した人物ですが、ここでは創世記のヨセフはモーセの出現を予言したとされ、さらに子孫から自分と同じ名前を持つ人物が聖見者として登場すると予言したとされています。それが今いるヨセフというわけです。そんなことを言った後、リーハイは、兄のニーファイの言うことを聞いて自分が説いたように聖見者になれとさとします。

[137] 詩歌7章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/23(月) 11:16:22 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ode&chapter=7&mode=0
 アザリヤの祈り。昨年度の[0:932]もご参照ください。
 もともとはダニエル書で燃えさかる炉に投げ込まれる寸前にアベデネゴことアザリヤが祈った祈りです。律法を守ろうとしなかったイスラエルの民を、神は邪悪な王、カルデヤ(新バビロニヤ)の王ネブカデネザルにわたすという非常に厳しい罰を与えましたが、どうかあわれみをもって助けてくださいと祈っています。

[136] 創世記24-27章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/23(月) 11:09:05 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=gen&chapter=24&mode=0
 昨年度の記事は[0:459]
 昨年もちらっと書きましたが、イサクの祝福の話。
 祝福というのは、それ自体は単なる挨拶です。いまの教会では、聖餐式のときに未受洗者は聖体(パンとワイン)を受けられない教会がほとんどですが、そのかわりに神父/牧師は祝福をしてくれます。未受洗者の頭の上に手をかざして何やらつぶやく形式です。
 ですから祝福だけだったら何回でもできるはずなんですが、ここは 創27:37「わたしは彼をあなたの主人とし、兄弟たちを皆しもべとして彼に与え、また穀物とぶどう酒を彼に授けた」というのがポイント、つまり神様の前で、ヤコブに一族の支配権と収穫をすべて与えると誓ったというのが祝福の内容なのであって、いったん神様の前で誓ったものを反故にできないという意味があります。
 エサウはエドム人、イスラエルの民の地より南に住む民で、エドム人はイスラエルの民と何かにつけて争いますが、その原因を説いた神話です。突っ込みどころがいろいろありますけど(たとえば、長子の権利が奪われた以上もう実質的に祝福もヤコブのものだとか)、神話ですからそういうものだと受け入れておきましょう。

 それから前回[115]創22:14のところですけど、アブラハムがイサクをささげようとしたところの地名は、יְהוָ֣ה יִרְאֶ֑הと言います。ヤハウェという神様の名前が入っています。ユダヤ人はこれをアドナイと読みかえますし、キリスト教の聖書のほうでも「主(the LORD)」と読みかえたり、あるいはエホバ、ヤハウェなどと読んだり、さまざまです。ではこのように、他の固有名詞の中に入ったものはというと、さすがに「主」には変えられないので、新共同訳やフラではヤーウェ・イルエですが、口語はアドナイ・エレ、新改訳はアドナイ・イルエと、アドナイに変えているのが面白いです。普通にヱホバを使っている文語はヱホバエレ、新世界はエホバ・イルエです。

[135] 2ニフ2章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/22(日) 09:19:36 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=2ne&chapter=2&mode=0
 ここまでのあらすじ。紀元前600年、ユダ王国滅亡を予言して迫害されたリーハイは荒野に逃れます。苦難の旅に息子たちはぶつくさ言い、時に激しい対立も起こりますが、四男ニーファイの強い信仰に支えられて、一行は荒野から船を作って約束の地へと渡りました。

 さて、リーハイが息子たちに順々にさとす場面の続きです。
 リーハイの息子たちの名を復習すると、レーマン、レミュエル、サーム、ニーファイ。そして荒野の旅の途中でもヤコブ、ヨセフという子をもうけます。苦しい旅の途中でもやることはやるのね。
 で、1章はレーマン、レミュエル、サームに。そして2章はヤコブに語っています。ちなみに次の3章はヨセフに語ります。
 で、ヤコブへの話ですが、まるでモルモン経版の陰陽説という感じで、すべてのことには反対のものがある。善があれば悪がある。救いのためには罪がなきゃいけない。あれれ、これって今日読んだロマ書の話に似てますね。[133]をごらんください。ひょっとしてこれってユダヤ教→キリスト教→イスラム教・モルモン教を流れる根本的な発想なのかしら?
 そしてアダムとイブの堕落についても、伝統的なキリスト教では、アダムの堕落によって人間は死ぬようになった(でも、まだ生命の木の実を食べてないからどのみち死ぬはずなんですけど)と否定的にとらえてますけど、「罪からの救済」というシナリオには不可欠のことだったのであり、むしろ人間の自由意志という積極的なとらえ方をしているのが面白い。そして、救済を選ぶか滅びを選ぶかも自由意志なんです。救済されるためには自由意志がなきゃいけないわけですね。

[134] 3イミ6章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/22(日) 08:52:02 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=3ic&chapter=6&mode=0
 イミタチオ3巻は、キリストと信者の対話になっている章が多く、ここもそうです。(キリスト)とか(信者)というのは原文にはありません。よく読めばそのことがわかるのでこうやって補う必要もないのですが、多くの訳本で補っているので私も補いました。
 修行をしていると、悪魔はさまざまな試練をしてきます。祈りなんかやめよう、聖書なんか読みたくない、信仰告白なんかテキトーに、ミサなんかばかばかしい…… そういう試練に立ち向かい戦いなさいと言っています。
 その一方で3節にあるように、信仰的な興奮・歓喜も実は幻想なので、こういうのにもしっかり抵抗しなきゃいけないんです。実はこれも試練なんですね。
 多くの教派では洗礼を受けたいといってもなかなか受けさせてもらえず、いろいろ勉強させたり、長い間教会に通わせたりしますけど、一時の興奮で信仰を始めた人は棄教してしまうことが多いということのようです。信仰をしているといいことも悪いことも起きますけど、そういうことを一通り経験してからでないとダメというわけですね。

[133] ロマ書11-12章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/22(日) 08:43:54 コメントする ここから閲覧

 昨年度の記事は[0:458]
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=rom&chapter=11&mode=0
 ロマ11:32「神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである。」
 信ずるものは救われる。正しいものは救われるといいますけど、実はそれだけじゃなく、いったん不信仰、不従順な状態にならなくちゃいけない、いったん罪ある状態にならなくちゃいけないんですね。
 福音書では人の罪を許すことの象徴として、病気のいやしの話が出てきます。目の見えない人を見えるようにするとか。でも、考えてみれば、いくら神様イエス様だって、目の見える人の目を見えるようにすることはできません。目を見えるようにするためには、いったん目が見えなくなってくれなきゃ困るわけです。
 だから、人はいったん不信仰にならなきゃいけないんですね。
 特にそのために選ばれたのがユダヤ人であって、ユダヤ人が不信仰なのは、「いったん不信仰になる」役割を積極的に演じさせられている、というわけです。
 まあそんなわけで、世の人が不信仰なのも、神様の偉大なご計画。信ずる者は救われるから、愛を実践し、祈りなさい……というわけです。
 愛が大事よ、復讐なんかしちゃダメよというので、例の「復讐するは我にあり」 ロマ12:19という言葉も出てきます。
 これは、愛が大事という話もあるんですけど、パウロは終末がいますぐにでも来ると大まじめに信じていますので、そのときに神様がみーんな審いてくれるから、人間は何もやらなくていい、神様にまかせておけという発想でもあります。終末終末とさわいでいる人は、この世のことには無頓着になっちゃうんです。

[132] クルアーン12回 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/21(土) 11:39:28 コメントする ここから閲覧

 クル-12回。3章54-92節。
 「経典の民」(他の翻訳では「啓典の民」とも)とは、ユダヤ教徒やキリスト教徒のこと。
 イスラム教はユダヤ教やキリスト教を改良したものなので、イスラム教からはユダヤ教やキリスト教に親近感があるのですが、逆にユダヤ教やキリスト教の側からは「何だ?あいつらは!」とけむたがられます。
 それはちょうど、キリスト教とモルモン教の関係も同じです。モルモン教は自分たちをキリスト教の一派とみなしていますが、キリスト教のほうは絶対にこれを認めないでしょう。新たなものをつけくわえてできた宗教では、新しい宗教は「おれたちは古い宗教を改良した(つまり古いものを必ずしも否定しない)」のに、古い宗教のほうは頑強に新しい宗教を否定する。それはユダヤ教とキリスト教の関係だって同じです。
 私がこのサイトで、クルアーンやモルモン経を読んでいるのは、ユダヤ人の気持ちを味わう訓練なんです。われわれがイスラム教やモルモン教に感じているうさんくささを、たぶんユダヤ教はキリスト教に対して感じているんです。

 今日のところで言ってる議論は、ユダヤ教やキリスト教がイスラムに対してぐちゃぐちゃ言っていることへの反論ですが、67節にあるように「アブラハムはユダヤ教徒ではないしキリスト教徒ではない」というところが面白い。
 ではアブラハムは何かというと「服従者」なんです。そこのルビを見ればわかるように、服従者とはムスリム、つまりイスラム教徒なんですね。この場合のムスリム=イスラム教徒とは、イスラム教成立以後のイスラム教徒という意味ではなく、もっと広い意味で用いられています。イスラムの教えを聞いたことのない人でもイスラム教徒である可能性があるような、「神を信じるもの」みたいな意味で用いているのです。

[131] 1イミ6章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/21(土) 11:29:20 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=1ic&chapter=6&mode=0
 短いですが味読すべき文章です。
 「情愛にふける」とタイトルにありますが、実際には「欲望のままに生きる」ことです。人に対する愛でもモノに対する愛でもカネに対する愛でも、愛=執着が欲望を生むわけですから。
 たとえ欲望が満たされたとしても、心の平和には少しも役に立ちません。というのは、新たな欲望が必ず生まれるからです。その意味では「欲望は決して満たされることがない」と読み変えてもいいでしょう。
 だからこそ欲望に従うのではなく欲望をおさえることこそ、真の平和を得る道だというのです。

[130] マタイ14-16章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/21(土) 11:24:48 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=mat&chapter=15&mode=0
 昨年度の記事は[0:455]
 いろいろ書きたいことがあるのですが、とりあえず16章を中心に書きます。
 イエスは病人の癒やしを中心としたさまざまな奇跡を行いますがそんなものは余技でしかありません。イエスにとってしるしとは「ヨナのしるし」つまり自分が死んで三日後によみがえることによって人々の罪を救うということです。
 しかし、人々はイエスの癒やしを見て、彼はヨハネの再来(14章でヨハネは死んでいます)とかエリヤとか預言者だとか評しています。それは当の弟子たち、ペテロもそうだったのです。
 ペテロが「あなた(=イエス)はキリストだ」と告白したのでイエスは喜び、天国のかぎを授けようとか、教会を建て(てその長にし)ようとか言うのですが、イエスが「私は迫害されて死んで三日後によみがえる」と説くと、ペテロはそれに反対します。つまりペテロにとっては、イエスは単に病人の癒やしをするからキリストであったのに過ぎず、なぜイエスがキリストなのかを全然理解していなかった。そこでイエスは「サタンよ下がれ」と一喝し、オレの弟子になるなら迫害を恐れてはならないと教えるのです。
 でも、イエスの死と復活によって世の人すべての罪が許されたんなら、弟子までが十字架を背負う(迫害・殉教を覚悟する)必要なんかないじゃんと思うのですが、マタイ福音書が書かれた当時の教会は、ユダヤ教側のみならずローマ帝国からの迫害も始まっていましたから、それでこんなセリフをイエスに言わせているんです。
 福音書というのはイエスの言行を忠実に記録したものではなく、イエスの言行という体裁で当時の教会が信徒に言いたいことを表明しているものだということを絶えず念頭に置いて読むことです。