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真理子の聖書日記


このサイトを作りながら、聖書を読みながら真理子が考えたことです。
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[262] 1コリ7-8章 投稿者=真理子 掲示日=2012/03/04(日) 08:41:01 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=1co&chapter=7&mode=0
 昨年度の記事は[0:533]
 7章は結婚に関するパウロ先生の生活指導ですけど、読んでてくらくらしてきますね。現在結婚/独身、信者/非信者、男/女、結婚/離婚といった座標軸でマトリックスを作って場合わけしないと整理できない、という気がしますが、実はそうではありません。とても単純です。
 ずばり、禁欲(独身)推奨、現状維持ってことです。
 パウロは、終末が今すぐにでも来ると信じ込んでいます。イエス様の復活は終末のプロセスが始動したということなんです。ほんのちょっとの辛抱で、永遠の安らぎが得られるのですから、わざわざ最後の審判に不合格になるようなことはしないほうがいい。
 だから禁欲(独身)推奨なんです。現在独身の人はわざわざ結婚してエッチなことばっかりしてポイントを下げちゃダメなんです。
 でも、性欲の強い人は、独身を守ることでかえってむらむらしてしまい、女を買うとか襲うとか悪事に走るかもしれない。大幅にポイントダウンするかもしれない。だったら結婚したほうがポイントダウンが少ない。そういう発想です。
 そして、終末はどうせすぐに来るんだから、今何かを新たにやる必要はない。だから結婚してるにせよ独身にせよ、今の状態を変更する必要はないし、奴隷は奴隷でいていいんです。いまちょっと辛抱すれば、どのみち私たちは主に身請けされた身、神の国に入ったあかつきには奴隷じゃなくなるんですからね。
 強烈な終末意識にとらわれた人の説教ですから、今の私たちは従う必要なんかないんですけど、それでも信者と非信者の結婚を認めているあたり、イスラム教よりはましかもしれません。

 8章の食べ物談義は、一応何でも食べている私たちには理解しかねるところがあります。
 もっとも私たちもも、犬や猫や猿や蛇は食べませんよね。私たちだって、明文化されてないだけで、食物禁忌規定に従って生きているんです。それを自覚してないだけです。韓国では犬鍋なんてあります。私も大好きです。新宿職安通りには犬鍋を出す店もあるので食べに行ったりします。だから、うちの教会では犬もOKよって言いたいとこですが、犬を食べつけてない人は、うぇって思うかもしれません。そのくらい食物禁忌の習慣って強固なんです。犬を食べなきゃ信仰できないっていうなら、信仰やめちゃう人が多いかもしれませんね。
 食べ物以外の例も出してみようかしら。仏教の葬式に出て焼香をするかどうかという話なら、切実な問題だと思う人もいるかもしれません。
 私などは、クリスチャンであろうと仏教の葬式に行ったら焼香していい、いや焼香すべきだと思っていますが、けっこう抵抗がある人が多いらしいですね。mixiなんかでは「献花はするけど焼香はしない」なんて言ってる人がうじゃうじゃいます。そうなんですか?
 そうすると、私などは平気で焼香しても、焼香に抵抗のある人には「焼香しなくていいんだよ」と言ってあげるほうが親切、というのがパウロの考え方というわけです。どんなもんかしらね。
 焼香はおろか、じゃみんなで南無阿弥陀仏と唱えてるときにお付き合いしなけりゃいけないかってなったらどうですか? 私はそんなの、しっかりした信仰を持ってればただの社交辞令だと思いますので平気で念仏でも題目でも唱えます。だってこの逆、キリスト教式の葬式では、牧師は平気で讃美歌を強要し、主の祈りを唱えることを強要するんですよ。お互いさまじゃないですか。私たちは、念仏は唱えたくないといいながら、平気で人に「主の祈り」を他宗教の人に強要している傲慢さを自覚しなければなりませんよ。だから私は唱えます。でも、イヤだという人にまでは強要しません。そういうことです。

[261] クルアーン24回 投稿者=真理子 掲示日=2012/03/03(土) 11:40:21 コメントする ここから閲覧

 クル-24回。5章54-81節。
 アラブ・イスラーム学院の
http://www.aii-t.org/j/audio/q_exegesis/61.htm
http://www.aii-t.org/j/audio/q_exegesis/62.htm
http://www.aii-t.org/j/audio/q_exegesis/63.htm
もごらんください。
 例によってユダヤ教徒とキリスト教徒への批判です。69節のサビア教徒というのはよくわかりません。ユダヤ教やキリスト教の一派らしいです。
 73節の「主なる神は三位の一つである」というのは、私は「父と子と聖霊」のうちの父ということだと思うんですけど、上の、アラブ・イスラーム学院の解説(63.htm)だと「神とイエスとマリヤ」ってことになってますね。そうなのかしら? まあ、たしかに見かけ上は、三位一体の一つとはいえ、聖霊にお祈りする人って多くない。逆にカトリックも正教会もマリヤ信仰がさかんですから、イスラム側にはそう見えるんでしょうか。

[260] 1イミ12章 投稿者=真理子 掲示日=2012/03/03(土) 11:30:49 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=1ic&chapter=12&mode=0
 1イミというのは、イミタチオ(キリストにならいて)1巻ということ。
http://www.babelbible.net/bible/help.cgi?imode=0&kaiin=1&helptext=ich
もごらんください。

 イミタチオの言葉は本当に心にしみるものが多く、私ごときが何もつけくわえることはないのですが、今日のは例外。
 困難が人を育てるという趣旨はいいんですけど、2節の後半に、「そしてもうこれ以上生きたくないと思い、この世を去ってキリストと共にいるために自分に死が来ることを望むのである」というところがまったく承服できません。
 たしかに、この世には完全な安らぎや平和はないし、正直者がバカを見ることはいっぱいあるし、そのために嘆き祈るのもいい。でも、その結果、もう死にたいって思うか? たとえ思ったとしても、それを勧めるか?
 私が大嫌いなのは、現世を否定するあまり死を美化する考え方。死を賛美する宗教は、献金持ってこいという宗教と同様、それだけでカルトと認定します。これがキリスト教の考え方というなら、キリスト教はカルトです。邪教です。
 宗教って、生きて生きて生き抜くためのものじゃないんですか?
 仏教では浄土系がともするとあの世を美化し死の賛美に走っちゃうことがあります。キリスト教は浄土宗に似てますからね。時々暴走するとこういう考え方になっちゃうんでしょう。

 私は、「神の国はこの世」説をとっています。死んで、最後の審判(実は死後すぐに各自個別に行われます)に合格して行く先は、ふたたびこの世です。さ、もう一回がんばって、この世でさまざまな試練を受けて強くなれ、と神様に送り出されることでしょう。

[259] マルコ3-4章 投稿者=真理子 掲示日=2012/03/03(土) 11:19:36 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=mar&chapter=3&mode=0
 昨年度の記事は[0:532]
 福音書はエピソードが羅列されている形なのであらすじという形でまとめるのは困難です。そこでこちらもエピソードを羅列して、ポイントを簡単に書いておくことにしましょう。新共同訳の小見出しを釈借用します。

●手の萎えた人をいやす マコ3:1
 安息日にやっちゃったのでパリサイ人たちから目をつけられるんですが、5節でイエス様が怒っているのがポイント。イエス様って怒りっぽいんです。だいたい、 マコ1:41の「イエスは深くあわれみ」も、別写本だと「イエスは怒って」になってたりします。だって直前の「みこころでしたら、きよめていただけるのですが」って、聞きようによっては「あんたに私のらい病を治すことなんてできるのかいな?」ととれちゃいますもの。

●湖の岸辺の群衆 マコ3:7 この舟は次の4章で活躍します。

●十二人を選ぶ マコ3:13 はい、選ばれました。

●ベルゼブル論争 マコ3:20
 27節のたとえ、よりによって強盗の仕方をイエス様が説くというのが面白いです。
 28-29節で、どんな罪も、たとえ神をけがす言葉を言っても許されるのに、聖霊をけがすのだけはダメっていうのは、たぶん人の罪を許すはたらきを聖霊が担っているので、それを否定しちゃ許されるものも許されないってことだと思います。
 そんなことより、21節で、身内のものが取り押さえに来たっていうのがすごいですね。身内というのを友人ととる人もいるようですけど、ホントに身内なんでしょう。この話は次と関連します。

●イエスの母、兄弟 マコ3:31
 つまり、私生児であり、出生の秘密を知ったせいか早くに家を飛び出して洗礼者ヨハネのところに行っちゃったイエス様は、家族と仲が悪いのです。家族はイエスを気違いだとしか思ってないんですね。そんなわけでイエス様は、ホントの家族をさしおいて、信仰を持つものがみんな家族なんだと言っているのです。
 ペ・ヨンジュンでしたっけ、ファンのことを家族って言ってるのは。そんな感じかしら。

●「種を蒔く人」のたとえ マコ4:1
●たとえを用いて話す理由 マコ4:10
●「種を蒔く人」のたとえの説明 マコ4:13
●「ともし火」と「秤」のたとえ マコ4:21
●「成長する種」のたとえ マコ4:26
●「からし種」のたとえ マコ4:30
●たとえを用いて語る マコ4:33
●突風を静める マコ4:35
 こんなふうにいちいち書いてると、来年書くネタがなくなるので、4章は来年にとっておきます。
 ちなみにからし種については、
http://www.sinsei.org/bokusi/karasi.htm
のページが面白いのでごらんください。

[258] クルアーン23回 投稿者=真理子 掲示日=2012/03/02(金) 11:41:07 コメントする ここから閲覧

 クル-23回。5章27-53節。
 どろぼうをしたら手を切断だぞというこわーいイスラム法の根拠になっているのがクル5:38。アラブ イスラーム学院の解説
http://www.aii-t.org/j/audio/q_exegesis/60.htm
もごらんください。4デナリ(ディナール)以上ってことは2万円かしら。
 ケセン語聖書の山浦玄嗣先生は1デナリ5000円と計算して訳してますので、私も聖書でデナリが出てきたらそうしてます。1デナリが労働者の日給ですね。もっともいま神奈川県の最低時給は836円だから、もっと高くしなきゃいけないかしら。昔のことだから12時間くらい働かせると1万円になりますけどね。すると4万円。
 そして切るのは右手で、次にやったら左足、次は左手、次は右足ってことらしいです。
 しかも、次節に「悔い改めたら許す」というのがあるから、実際には切らなかったのかしらと思ったら、許すのは神様が許すのであり、人間には許す権利がないからちゃんと法定刑を処すんだそうな。ふーん。
 アラブ イスラーム学院の注釈は10章までできてますね。以後も随時参考にします。

[257] 知恵の書12章 投稿者=真理子 掲示日=2012/03/02(金) 11:24:19 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=wis&chapter=12&mode=0
 昨年度の記事は[0:708]
 神様を「知恵」と置き変えた、知恵版イスラエル史の続き。今日はカナン征服の話です。ただしヨシュア記に相当するかというと、くまばちうんぬんというのが 出23:28 申7:20のことなので、実際に起こったことではなく(ヨシュア記が実際に起こったことかどうかは別として)、カナン征服のあかつきにはそういうことをしてあげようという予定の話だけのようです。
 いずれにせよ、先住民は偶像崇拝のかどで征服されるのであり、しかもあわれみをもって、悔い改めの機会を与えるべく、徐々に征服していったのだという理屈を言ってます。

[256] イザヤ書62-66章 投稿者=真理子 掲示日=2012/03/02(金) 11:02:35 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=isa&chapter=62&mode=0
 昨年度の記事は[0:531]
 なんか昨年は体調が悪いとかいってさぼってますね。実は今年も体調が悪いのよ。この時期になると体調が悪くなるのかしら。お酒の飲みすぎかしら?
 イザヤ書の最後は、希望にあふれた美しい言葉が続きます。特に62章はそうですね。捕囚が終わって故郷に帰り、祖国の再建をする人々に希望を与えているようです。
 もっとも、捕囚が終わって故郷に帰ったのは少数派で、多数はバビロンにとどまったみたいです。70年も住んでいればここに生活の手段ができてしまう。在日コリアンだって日本が朝鮮を植民地にしてたのはたかだか35年間です(よく日帝36年といいますが数え年風の計算で、満でやると35年マイナス2週間)。そのくらいでも日本に生活手段が出来てしまってとどまる人が多かったわけですから、70年もいたらなおさらです。いまさらまたあの荒野を横切って、父祖の(もう世代交替しちゃってます)故郷とはいえちゃんと生活ができるかどうかわからないところに「帰る」なんて。帰るとは名ばかりですよね。ですからほとんどモーセの出エジプトみたいな感覚です。そういえば63章ではモーセも引き合いに出されてますよね。
 ともあれ帰還組はエルサレムに着くと、町の再建より先に神殿の再建をします。城壁なんかの修復は神殿より後なんですよね。そのくらい神殿っていうのはユダヤ人の「国民統合の象徴」だったんでしょうか。
 ところがその一方で、実はヤハウェの宗教ってもともと神殿なんかなかったんです。律法には幕屋の作り方は書いてあっても神殿の作り方なんか書いてません。移動式の聖所っていうのがもともとのあり方なんですよね。神殿っていうのはソロモンの時代にヤハウェの宗教を王権の強化に利用しようとして、異教の神殿を参考に作ったわけです。実は神殿って異教的なんですよね。
 だからイザ66:1-4では、そういう神殿や祭儀に対する批判が書かれています。牛をほふる者は殺人者だ、供え物をささげる者は豚(=けがれた動物)をささげる者だ、みたいに。
 こんなふうに、神殿についてはユダヤ人みんなが賛成していたわけではなく、神殿への批判っていうのも底流に流れ続けている。イエス様が神殿で暴れん坊将軍になったのも、そういう考えにのっとったものだと考えると、わかってくるんじゃないでしょうか。

[255] 2ニフ31章 投稿者=真理子 掲示日=2012/03/01(木) 12:35:35 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=2ne&chapter=31&mode=0
 ニーファイの予言の続き。
 今日のところでは、なぜイエス様が洗礼を受けたのかという話が書かれていますが、これは実は大問題。だってイエス様が神様なら、罪を洗い流して生まれ変わる必要はないからです。
 いま土曜日に読んでいるマルコは、そういう問題意識はない。イエス様が神の子なのは、洗礼を受けたときに天から聖霊が下って、天から「あなたは私の愛する子」という声があったから、ととらえているからです。
 ところがマタイは、系図上ダビデの血統であり、しかも処女懐胎という奇跡で生まれたことからイエス様が神の子であるととらえているので、ヨハネの洗礼の話は具合が悪い。そこでマタ3:14でヨハネに「あなたは洗礼必要ないでしょ」と言わせているんです。
 ルカはまるっきりほおかむり。そもそもイエス様がヨハネから洗礼を受けたのではないかのように、イエス様の洗礼の前にヨハネの逮捕を書いています。
 ヨハネ伝に出てくる洗礼者ヨハネは、よーく読むと、イエス様のことをほめたたえているだけで、イエス様に洗礼を授けてません。このあたり、イエス様に洗礼を授けているかのような錯覚を起こさせるので、なかなか巧妙ですね。
 そんなわけでマルコを除く各福音書はけっこう苦労をしているのです。
 さてニーファイは、清いイエス様でもさらにもっともっと清くなるためには洗礼を受けなければならないのだから、まして私たちはなおさら洗礼を受けなければならないという話をしています。

[254] トビト記12章 投稿者=真理子 掲示日=2012/03/01(木) 12:21:59 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=tob&chapter=12&mode=0
 昨年度の記事は[0:419]
 ラファエルが素性を明かして二人のところから去っていきます。
 そうとしかまとめようがないんですけど、7節の「王の秘密は隠さねばなりませんが、神の業は畏敬の念をもってあらわにし声高に言い表わさねばなりません。」というのが面白い。私なんか、神様神様と声高にいうのは宗教宣伝っぽくてイヤなのですが、そうじゃないみたいです。

[253] ヨブ記23-24章 投稿者=真理子 掲示日=2012/03/01(木) 12:13:58 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=job&chapter=23&mode=0
 昨年度の記事は[0:528]
 今日は ヨブ24:20だけとりあげます。
http://interlinearbible.org/job/24-20.htm
 口語訳聖書のここの訳が他と違う。

口語:町の広場は彼らを忘れ、彼らの名は覚えられることなく、不義は木の折られるように折られる』と。

 ところが他を見ると、

文語:これを宿せし腹これを忘れ 蛆これを好みて食ふ 彼は最早世におぼえらるること無く その惡は樹を折るが如くに折る
新改訳:母の胎は彼を忘れ、うじは彼を好んで食べ、彼はもう思い出されない。不正な者は木のように折られてしまう。
新共同:母の胎も彼を忘れ 蛆が彼を好んで食い 彼を思い出す者もなくなる 不正な行いは木のように折れ砕ける。
新世界:胎は彼を忘れ,うじは喜んで彼を吸い,彼はもはや思い出されることがない。そして不義は樹木のように折られる。
関根:母の胎も彼を忘れ うじ虫は喜んで彼につき 彼はもはや憶えられない。 不法な者は木のようにたち切られる。
フラ:母の胎も彼を忘れ、うじ虫は好んで彼を食べ、彼はもはや思い出されない。悪人は木のように折られてしまう。
岩波:胎も彼を忘れ、蛆虫どもが喜んで喰いつき、もはや、彼は思い起こされることなく、不義は木のように折り砕かれる。
リビング:生みの親さえ彼らを忘れ、うじが寄ってたかって彼らを食い尽くす。 二度と人の話題にのぼらない。 悪人は、もろに嵐を受けた木のようにへし折られる。
バルバロ旧:かれは、そのつくった胎からも忘れられ、かれの名は、もう思い出から消える。こうして、悪は、木のように裂かれてしまう。(27章の後にある)
バルバロ新:彼はそのつくった胎からも忘れられ、その名はもう思い出からも消える。こうして悪は木のように裂かれてしまう。(27章の後にある)
尾山:彼は生れて来なかった人のように、人々の記憶から無くなってしまう。不正な者は、木のように折られてしまう。
光明:憐憫(あわれみ)彼を忘れ去り、蛆その快楽(たのしみ)となれかし。願わくは彼が記憶に止(とど)まることなく、果(み)を結ばざる樹(き)の如くに打砕かれんことを。
回復:胎は彼を忘れ、うじは彼を甘いと感じ、彼はもはや思い出されず、悪い行ないは木のように折られる。

 こんなふうに、口語訳だけが「町の広場」で他がみんな「母の胎」。口語訳に準拠した「旧約聖書略解」には、「原文は不分明。口語訳は修正訳」とあるだけで根拠がわかりません。どうもこれは、

KJV:The womb shall forget him; the worm shall feed sweetly on him; he shall be no more remembered; and wickedness shall be broken as a tree
RSV:The squares of the town forget them; their name is no longer remembered; so wickedness is broken like a tree.'

みたいに、単にRSVに準拠したってことだけみたいですね。でもRSVはどうしてこんな変更をしたのかしら? その根拠がよくわかりません。

[252] Re:rev 22 14 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/29(水) 14:02:03 コメントする ここから閲覧

どうもありがとうございます。ネストレの欄外にちゃんと注がありましたね。あと岩隈先生の対訳本にも書いてありました。エラスムスの捏造じゃなくてそういう写本があるんですね。

[251] 2ニフ30章 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/29(水) 13:39:51 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=2ne&chapter=30&mode=0
 ニーファイの予言の続き。
 異邦人やユダヤ人も、悔い改めた者は許される。たとえ悪役レーマンの子孫でも悔い改めれば許されるというのですが、6節ではそのことを「皮膚の色が白くて喜ばしい民になる。」と言ってるのはなんだかな。レーマン人はその罪によって皮膚の色が黒くなったという話からすれば、悔い改めて救われれば白くなるってことなんでしょうけどね。まあ、アメリカは20世紀の中ごろまで、つまりつい最近まで、ひどい人種差別のあった国なんで、19世紀のモルモン経がこういう表現をするのもさもありなんってとこでしょうけどね。
 今のアメリカならちょっとでも人種差別的なことを言ったらたちまち社会的に抹殺されちゃいますけどね。テレビ番組なんかでも白人と黒人を均等に使うとかいろいろ配慮しなきゃいけないみたいだし。以前見た『チアーズ!(Bring it on)』という映画なんか、白人の女の子が団長をつとめるチームと、黒人の女の子が団長のチームと戦って、ああ、これ絶対黒人のほうが勝つんだろうと思ったら見事にそうなっちゃいましたからね。白人のほうが勝つ話にしたら人種差別になっちゃう。

[250] 1マカ12章 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/29(水) 13:29:13 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=1ma&chapter=12&mode=0
 昨年度の記事は[0:582]
 今回も昨年のものをそのまま転載しちゃいます。

 ヨナタンはローマとの友好条約を更新します。
 でも、ローマ帝国の全盛期を知ってる私たちは、もうこれで安泰と思っちゃいますけど、この時代のローマって成長期で、カルタゴを滅ぼしてスペインを手に入れたけど、ギリシアのほうは現在征服中ってところなんですよね。ユダヤの地から見るとまだまだ遠い国なんで、いざという時にもあてにならないんですよね。
 さて、セレウコス朝シリアのほうのおさらいをしますと、デメトリオ王とアンテオコス&トルポンの2派があったんですよね。
 ヨナタンはまずデメトリオ王の側と戦いますが、焚き火をしたまま逃げるというデメトリオ王の軍の作戦にだまされてしまいます。
 いっぽう、トルポンのほうはヨナタンと和睦を提案するんですが、これがまたワナでして、うかうかと信じて首都プトレマイスにわずかの手勢のみで入ってしまったヨナタンは、一網打尽でやられてしまいます。ついでながら、12章でヨナタンがもう死んじゃったみたいな書き方をしてますけど、ヨナタン自身はまだ生きていることが、次の13章を読むとわかります。なんだかまぎらわしいですけど、情報の混乱ぶりをそのまま表現したのかもしれません。

[249] 詩編33-35編 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/29(水) 13:09:17 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=psa&chapter=33&mode=0
 昨年度の記事は[0:527]
 なんか昨年は小島慶子を持ち上げましたね。その後は彼女の政治的立場が嫌いになっちゃって今は全然キラ☆キラ聴いてませんけど、なんでもこの3月で降板するらしいんで、最後くらいは聴いてみようかな。

●33編
 新しい歌を主にむかって歌えって、とても有名な詩、と思いきや、それはたぶん96編のほう。33編ってなんか影がうすい。いい詩だと思うんだけど、それぞれの部分部分がみんなほかの詩に出てくる、つまりは寄せ集めってことだからかしら。
 そのせいかYoutubeでもいい音楽がありません。kinotoriさんもこれは作ってないみたい。psalm 33で検索して、これはって思ったものは、実はみんな次の34編だったりする。

●34編
 アヒメレク(アビメレクじゃありません)というのは、サウルに追われているダビデをかくまった祭司。 サム上21に出てきます。聖別されたパンをダビデに与え(このネタはイエス様が マタ12:3で引き合いに出します)、さらに武器も与えます。そのせいでアヒメレクは殺されてしまいます。
 いっぽうダビデはアヒメレクのところを出た後、ガテの王アキシのところに行きますが警戒される。そこでダビデは狂人のふりをしてそこを逃げるという話です。
 ですから34編の前書きはアヒメレクとアキシがごっちゃになっているばかりか、ア「ビ」メレクなんていう間違いも書いている。さらに内容を見るとこの話とはあんまり関係ありそうにない。だから サム上21の話は関係ないということにしましょう。
 ダビデと無関係に、正しい者が苦難にあうという祈りが、正しいダビデが苦難にあった話と関連づけられただけというわけです。
 さて、Youtubeではなぜか正教会関係が多いです。33編と書いてますが34編です。
これは教会スラブ語かしら?

(http://www.youtube.com/watch?v=v_PzSHwwaMk)
ルーマニア正教会

(http://www.youtube.com/watch?v=ylshIHFirFU)
これは正教会じゃありませんが、ギリシア語のきれいな曲がありました。

(http://www.youtube.com/watch?v=jxl-x8LMnbQ)
kinotoriさんの作品

(http://www.youtube.com/watch?v=ngmoebKyvkQ)

●35編
 これも逆境にあり敵に苦しめられている人の祈り。
 たびたびご紹介してきたSons of Korah。

(http://www.youtube.com/watch?v=s-Ua-3bOqyk)
kinotoriさんの作品。韓国語だわ。

(http://www.youtube.com/watch?v=g6_uNiYjclg)

[248] rev 22 14 投稿者=HKJ 掲示日=2012/02/29(水) 08:47:37 コメントする ここから閲覧

ギリシャ語聖書の筆記・写本作りは、ユダヤ人のヘブライ語聖書の作成ほど、綿密には行なわれていなかったそうです。場合によっては、誰かが朗読したものを、複数の人間が書き取る形で写本を作ったこともあったそうです。

この箇所は、そんな例ではないでしょうか。
poiountes tas entolas /// plunontes tas stolas
たぶん、西暦2世紀以降のギリシャ語では、-nt- は -nd-に変わり、oi / u はどちらもドイツ語のウムラウトUの発音だったらしいので、「ピュウンデス」「プリュノンデス」と、似た発音になります。

となると、どちらがより原典に近いのか、古い写本(アレクサンドリア系列)に従うのか、majority text (ビザンティン系列)に従うのかってことなんでしょうね。
決め手はなんでしょうかね?

Stephanus Textus Receptus (1550, with accents)
----------
Makarioi
hoi poiountes tas entolas autou,
hina estai hH exousia autWn epi to xulon tHn zWHs
kai tois pulWsin eislthWsin eis tHn polin

Westcott/Hort with Diacritics
-------------
Makarioi
hoi plunontes tas stolas autWn,
hina estai hH exousia autWn
epi to xulon tHs zWHs kai tois pulWsin
eiselthWsin eis tHn polin.

[247] 2ニフ29章 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/28(火) 10:08:44 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=2ne&chapter=29&mode=0
 ニーファイの予言の続き。
 今日はキリスト教徒批判でしょうかね。「すでに聖書があるんだ。これで全部足りてる」というのは大間違いで、神様のおしごとはこれでおしまいなんてことはなく、終末まで絶えず続いているので、モルモン経みたいなものも出てくるんだよというわけです。
 それはそれとして、ニーファイが異邦人(ヨーロッパ人たちのこと)に「ユダヤ人から聖書をもらったのにユダヤ人に何も礼をしていない。そればかりか憎み呪ってるじゃないか」と批判するのは、まったくそのとおりですね。キリスト教の痛いところをついております。

[246] シラ書12章 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/28(火) 10:03:50 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=12&mode=0
 昨年度の記事は[0:789]
 悪人に注意。だれかれかまわず助けりゃいいってもんじゃありません。敬虔な人や謙遜な人に親切をおこなえば報いられますが、悪人に親切にしてもむだになるばかりです。
 こちらが逆境になると友まで去っていきます。人を友にするときには注意しましょう。
 こういう教えは、イエス様の「敵を愛せ」 マタ5:43-48なんかとはずいぶん違うなという気がしますが、それだけに正直な処世術という感じです。イエス様の「敵を愛せ」に至る前の段階で、こっちのイエス様(シラ書の作者もイエスでしたよね)の段階を目指すことにしましょうか。
 シラ12:13「へびに手をかまれたへびつかいや、猛獣におそわれた猛獣つかいを、誰が同情してくれるだろうか。」、これ、面白い表現ね。

[245] サム上6-10章 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/28(火) 09:55:31 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=1sa&chapter=6&mode=0
 昨年度の記事は[0:526]
 まずはあらすじをおさえましょう。いや、今日はあらすじだけおさえておしまいにしちゃおうかしら。

 移動式原発のようなおそるべき神の箱をペリシテ人はもてあまし、イスラエルの民に返すことになりました。ついでながら、箱を引かせた雌牛がベテシメシの方向へ行ったらこの間の災いは神がやったことであり、そうでなきゃ偶然だった、という占いをしたところ、ちゃんとベテシメシの方向へ向かったという話もあります。ところがベテシメシの人たちは、こんな怖い箱なんか管理できないと拒否、箱はキリアテ・ヤリムに移ります(6章)。
http://www.babelbible.net/map/9.png
の地図ではベテシメシはB-1。エルサレムの真西、川沿いの低地です。キリアテ・ヤリムは今のヘブロン(C-1)で山の上です。
 サムエルは人々に、他の神々を捨ててヤハウェにのみ仕えるならばペリシテに勝てるぞと言い、実際にペリシテ人の侵略を撃退します(7章)。
 とはいえイスラエルはまだまだ弱体。核兵器を持つアメリカにゲリラ戦で抵抗するようなもんです。おまけに指導者サムエルの子たちはそろいもそろって悪い奴ら。「こんなんじゃまとまれない。王が必要だ」と人々はサムエルにねだります。サムエルはしぶりますが、神様におうかがいをたてたところ、OKだということになります(8章)。
 ベニヤミン族のサウルが、いなくなったろばを探してツフまで来ます。このあたりに出てくる地名はどこなのかよくわかりません。ともあれこの町にえらい人がいるというので行くとそれがサムエル。サムエルは「あなたこそ主が使わされた王だ」というのでサウルに油をそそいで王にします(9章)。
 サウルはいったん家に戻りますが、その後サムエルがミヅパ(上図C-1)で仰々しく、くじびきで王を決める儀式をします。どういうからくりかは知りませんが、サウルが指名されます。一応みんなは「王ばんざい」と歓呼しますが、一部にぶつぶつ言うひとが現れ、後の混乱を暗示しています(10章)。

[244] 2ニフ28章 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/27(月) 10:47:02 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=2ne&chapter=28&mode=0
 ニーファイの予言の続き。世の終わり、具体的には19世紀のアメリカを想定した光景です。
 「神様はほんの少しの罪なら許してくれるから大丈夫。みんな救ってもらえるさ」などといって人々を欺く教会が多いと言ってます。あらまあ、私もそういうことを言ってますね。汗汗。こういう人たちは死、地獄、悪魔にとらえられたものであり、硫黄の湖に永久に入らねばならなくなるので、悔い改めなさいと教えています。

[243] 詩歌12章 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/27(月) 10:41:45 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ode&chapter=12&mode=0
 いわゆる「マナセの祈り」です。新共同訳では続編に入っています。
 昨年度の[0:979]もご覧ください。
 マナセというのは部族名じゃなく王様の名前。
http://www.babelbible.net/mariko/bib.cgi?doc=kings&course=bib
を見てください。ヒゼキヤの次の王で、一時的にバビロンに連行され、そこで主に祈ったために帰還が許されたという話が代下33:11-13に出てきます。その祈りです。
 列王記が自虐史観なら歴代誌は「新しい歴史教科書」だとは、上村静先生がおっしゃってること。ひたすら先人の罪を糾弾する列王記にくらべ、こんないいこともやったんだよというのが歴代誌。悪い悪いとされるマナセ王にもこんなすばらしい祈りの心があったのだというのです。

[242] 創世記44-47章 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/27(月) 10:35:39 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=gen&chapter=44&mode=0
 昨年度の記事は[0:525]
 ヨセフはついに兄弟たちに正体を明かし、劇的な兄弟の再会と和解が達成します。そしてききんがまだまだ続く中、ヨセフはお父さんヤコブを含めて一家をエジプトに呼び寄せます。
 具体的にどのあたりに呼び寄せたのかというのは、
http://www.babelbible.net/map/2.png
のB-Cの2を見てください(ゴセン地方)。
 ヨセフ物語では私はどうも後半のねちねちイジメぶりが嫌いなのですが、せっかくですから、この話をどう解釈すればありがたい話になるのかを考えてみましょう。
 ヨセフが正体を明かしたきっかけは何でしょう? ベニヤミンに盗みの嫌疑がかけられ、それを兄弟たち、特にユダがかばったからです。
 もともとヨセフ物語の発端は、兄弟たちがヨセフを憎んで殺そうとしたことに始まります。兄弟は他人の始まり。激しく憎み合うこともあります。まして異母兄弟ですからね。
 が、時が経ち状況が変わり、こんどはベニヤミンが窮地に陥る。ヨセフとベニヤミンは同じラケルから生まれた子だというのにも注意しましょう。かつてヨセフを殺そうとした兄弟たちが、こんどは同じ母から生まれたベニヤミンをかばうまでに成長した、これこそがヨセフが兄弟と和解するトリガーになったのだと思います。

 ところでヨセフの政策は必ずしも仁政ではありません。ききんをうまく利用して人々から土地を収奪し、奴隷状態におき、王権を中央集権的に強化しています。こんなところも見逃さないようにしないと、人気者の仮面をかぶった独裁者をのさばらせてしまいますよ。大阪みたいに。

[241] パウロが断罪しているもの 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/27(月) 10:19:02 コメントする ここから閲覧

 [238]で、一コリ6:9-10

  不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、(1)男娼となる者、(2)男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。

のようにパウロが断罪しているのは、実は同性愛ではない、ということを山口里子さんが論証していると書きました。
 では何なのかというのが、実はかなり微妙でして、これはぜひ『虹は私たちの間に』をお読みになって考えていただきたいと思いまして、それで[238]では答えを書きませんでした。が、これじゃちょっと不親切かなとも考え直し、私の理解するところを書くことにします。

 (1)は、自律心、自制心の欠如した女々しい奴。この言葉はさまざまに解釈されており、12世紀以後は「オナニーしてる奴」(男性です)と解釈されてきたほどですが、女性はともかく男性のオナニーなんて当たり前になる一方で、同性愛に対する偏見が強まり、さらに聖書が広く頒布されるようになると「女々しい」という女性蔑視の訳語が女性信者に反発されるのではと嫌われて、同性愛と解釈されるようになったのだということです。
 (2)は、経済的に搾取する形で男の奴隷を性欲の対象としている奴。ギリシア文化圏では男の同性愛、特に少年愛はごく当たり前だったのであり、暴力的に、カネで奴隷を支配する形で同性愛をする者を断罪しているのです。同性愛がポイントなのではなく、暴力的、経済的支配が問題なのです。

 そして、(1)と(2)をこのように解釈すると、パウロが1コリで強調している「共同体の一致」のために「不道徳な者を排除せよ(黙認するな)」という趣旨にかなうとしています。つまり、自制心の欠落した根性ナシや、性暴力をするような奴は、共同体を破壊してしまうのだというのです。

[240] 2ニフ27章 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/26(日) 09:19:07 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=2ne&chapter=27&mode=0
 ここまでのあらすじ。
 ユダ王国末期、王国の滅亡を予言して迫害されたリーハイは一家もろとも荒野に逃れます。4人の息子のうち、長男レーマンは悪役、末のニーファイは善玉。度重なる対立や争いも経ながら、一行は海を越えて新天地アメリカに着きます。ここでニーファイはレーマンと決定的に対立、ニーファイたちは独自の町を作り、リーハイが荒野でもうけた息子ヤコブとヨセフを祭司にして生活します。
 ここでニーファイはイザヤ書を延々と引用したりしながら、自分たちの末裔の運命を予言します。私たちの子孫も滅んでしまい、アメリカは異邦人、つまり旧大陸からやってきたヨーロッパ人たちに支配されてしまうというのです。

 そして今日の話、ニーファイの予言が続きます。
 神様はある書物を作ったのですが封じられており、一般には見せられない。でもある男に授け、その男が別の男に授け、されにこれが神様からの本だという証人を3人立てられたというのです。もうおわかりですね。いま私たちが読んでいるモルモン経の話です。

[239] 3イミ11章 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/26(日) 04:04:19 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=3ic&chapter=11&mode=0
 例によって最初は信者とキリストとの対話形式になっていますが、ほとんどはキリストの教えです。
 願望というのは一種の欲望ですから、イミタチオの著者にとっては当然避けるべきところでしょうけど、よいと思った努力や願望も含まれることに注意しなければなりません。正義の行動なんていうのも本当に神様とのかかわりで生じたのかどうか、神様の意思なのかどうかを省察しなければなりません。でも、そういうことはなかなかわかりにくいことですから、自分のやっていることが本当に正しいのか、自己満足に陥っていないか、また、やりたくないいやなことでも、それはひょっとしたら神様の意思なのではないかと、絶えず問いかけることだと思います。そして、何事もやりすぎない、何事も頭から避けない、ということなのでしょう。

[238] 1コリ5-6章 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/26(日) 03:45:00 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=1co&chapter=5&mode=0
昨年度の記事は[0:523]
 4章までは派閥争い対策でしたが、ここからは悪い信者をパージしようというわけです。
 悪い信者はまるでパンの酵母のように、パン全体を膨らませて悪いパンを作ってしまう。だからそんなものは取り除け。
 非信者で不道徳なことをしている奴はまあ当然、どうせ神様が罰してくれるので、ほどほどにつきあっておけばいいんですが、信者で不道徳なことをしている奴は大変有害なので交際するな、それどころか摘み取ってしまえ。
 そして、信者の間にトラブルがあったら、それは自分たちの力で解決しなきゃいけない。非信者の裁判官がとりおこなう裁判なんかにまかせちゃダメ。
 不道徳なことをしたら神の国に入れません。「そんな、何をやろうとおいらの自由じゃないか」というかもしれませんが、信者というのはキリストに買い取られた、身請けされた体なのであって、自分の体はすでに自分のものではありません。何でも自由じゃないんだよ。
 こういったところが、パウロ様の教えというわけです。何だかなあ。

 ところで一コリ6:9-10「不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。」を根拠に、聖書は同性愛を禁じている、と主張するクリスチャンが非常に多く、キリスト教による性的マイノリティへの差別を生んでいます。
 私などはそういう手合いには「あんたら旧約聖書に書いてあること全部守ってるの? 幕屋でいけにえをほふってるの? 新約聖書に書いてあること全部守ってるの? 馬鹿パウロが『女は教会では黙ってろ』って言ってるの、守ってるの?」と一喝しておしまいなんで、馬鹿パウロが同性愛について何を言おうと、そんなのは時代によって変化するんだから守んなくてかまわない、と思っているのですが、それでも一応聖書にこんなことが書かれていると、やっぱり気になっちゃいますよね。
 ところが最近、山口里子さんの『虹は私たちの間に』(新教出版社)を読んで感心したんですが、山口さんは聖書の原文を精密に読むことによって、パウロが禁じているのは同性愛そのものではないんだということを論証しています。詳しく紹介する余裕がありませんが、この箇所が気になっている方はぜひお読みください。

[237] クルアーン22回 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/25(土) 11:08:09 コメントする ここから閲覧

 クル-22回。5章1-26節。
 5章は「食卓」と名づけられています。最初のほうに食物禁止規定があるからでしょう。
 イスラム教というと「豚を食べちゃいけない」とか、やたら食物禁止規定が厳しいようなイメージがありますが、実はユダヤ教よりはましなのです。律法だと豚はおろかさまざまなものが禁止されていて、特に水産物は日本人やギリシア人の好きなタコなんかがダメになります。それよりははるかに緩和されたんですね。じゃ豚もOKにすりゃよかったのに。豚はおいしいもの。

[236] 1イミ11章 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/25(土) 11:03:45 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=1ic&chapter=11&mode=0
 イミタチオ(=キリストにならいて)1巻11章。いままで1巻の各章はとても短かったのですが、今日はちょっと長いです。
 心の安らぎを求めようと欲えば、情欲や邪念を捨て、心にわだかまりをなくし、神を思うこと。
 そのためにはまずは情欲を捨てよ、しかも最初が肝心だというのです。少しずつ情欲を捨てることができればいいのですが、実際には修道生活の最初に比べて時間が経つにつれて心が不純になって行くからです。一番最初に、悪い性癖を捨てるのが大事です。
 ……ああ、私なんか全然ダメだわ。

[235] マルコ1-2章 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/25(土) 10:57:28 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=mar&chapter=1&mode=0
 昨年度の記事は[0:519]
 マルコ福音書は2番目に置かれていますが、実はマタイより先にできています。マタイとルカは、マルコの記事を参考に、別の本も参考にしてできあがっています。
 ですからマルコとマタイ/ルカとで共通した話があるときは、マルコのほうが元の形であったと考えるべきです。今日のところなら、 マコ1:11では、天からの声が(イエス様には)「聞こえた」とあるのに、 マタ3:17では「天から声があって言った」となっているのは、マルコのほうが元。マルコはリアリストなのて、客観的には声がしていない含みを持たせている(声がしておらず、たとえイエス様の幻聴であってもこの記述は正しくなる)のに、それだと有難いと思えなかったのか、マタイはハッキリ「声があった」としちゃっています。
 マタイやルカにあるようなイエス様の系図も、処女懐胎伝説も、マルコにはありません。
 それは、マルコの段階ではそういう伝説がなかったのかもしれませんが、たぶん、マルコにとってはどうでもいいことだったんでしょう。
 マタイやルカにとっては、イエス様が救い主だというのはダビデの家系であるがゆえであり、だからこそ系図を載せねばならなかった。またイエス様が「神の子」だというのは、文字通り「神の」子であり「ヨセフの子」ではないので、処女懐胎伝説を載せねばならなかった。それに対してマルコにとっては、ヨハネの洗礼とそのときに天から聖霊と声が降ってきたことこそが、イエス様が神の子であり救い主であることの証明だったということなのでしょう。
 そして、マタイは最初と最後が対応していました。最初にイザヤ書のインマヌエル預言をかかげ、あれれれ、じゃなんでインマヌエルという名じゃなくイエス(ヨシュア)という名前だったの?と思うと、一番最後に「わたしは~あなたがたと共にいる(=インマヌエル)」とイエス様にしゃべらせて落ちをつけてるわけです。
 同様に、実はマルコも、最初と最後が対応しているんです。最終章を読むときに書きますので、とりあえずはマコ1:10-11で起こった出来事をしっかり覚えておきましょう。

[234] クルアーン21回 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/24(金) 12:14:21 コメントする ここから閲覧

 クル-21回。4章148-176節。4章はこれでおわりです。
 ここはイスラム教の見るイエス様とキリスト教徒。イエス様はイスラム教でも重要人物ですが、あくまで預言者であり、神の子ではありません。171節にあるとおり、「三位一体」なんて言っちゃダメというわけです。
 面白いのは、イエス様の十字架上の死をも否定していること。人々の目にそういうふうに見えただけというのですね。十字架で死んだのは身代わりだということらしいです。

 176節でなぜか、4章の最初にあったような遺産分割法の補足が出てきます。こんなの前とまとめちゃえばよかったのにと思うのですが、こんなふうにごちゃごちゃしていると、かえってクルアーンがホントに神から啓示されたものっぽく見えます。あまりに整ってるとウソっぽいですから。

[233] 知恵の書11章 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/24(金) 12:07:20 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=wis&chapter=11&mode=0
 昨年度の記事は[0:705]
 「知恵」を主人公としたイスラエルの歴史。今日はモーセの話です。
 砂漠を進んだとか、天幕を張ったとか、敵と戦ったとか、出エジプトの話が語られています。が、18節にあるような、未知の新しい獣を送ったなんていう話は聖書にありませんので、まるきり出エジプト記をなぞっているわけではありません。
 5節の「彼らの敵を滅ぼした水が、こんどは苦しむ彼らに恵みをもたらした」という表現は面白い。水っていうのは人を殺しもし、人を生かしもしますからね。まるで神様です。