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真理子の聖書日記


このサイトを作りながら、聖書を読みながら真理子が考えたことです。
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[199] 創世記36-39章 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/13(月) 13:05:15 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=gen&chapter=36&mode=0
 昨年度の記事は[0:496]
 ヤコブの物語が一段落してヨセフの物語になりますが、ヨセフ物語の途中に強引に割り込んでいる38章の話だけします。
 ヤコブの12人の息子のうちユダは子を残すのに苦労します。ホントは他の息子もいろいろあったのかもしれませんが、北王国滅亡(10部族消滅)→南王国の存続→バビロン捕囚→実質的にユダ族のみになる、というプロセスを経て編纂された聖書はユダ族を中心に書きますので、ユダの家に起こったことを詳しく書いているのかもしれません。
 ユダには3人の子がいましたが上の2人(エル、オナン)は次々と死にます。エルの妻タマルは、エルが死ぬとオナンに嫁ぎます。
 レヴィラート婚といって、子がないまま夫に先立たれた女は、夫の弟と結婚して子をもうけて、その子に死んだ夫の家系を継がせるんですね。オナンはそれがイヤだったみたいで膣外射精して神様の怒りに触れて死にます。これがオナニーの語源ですが、もともとは膣外射精だったので自慰をしたわけではありません。だから私はオナニーって聖書をよく読まない和製語なのかと思ったら英語の辞典にもちゃんと載ってますから、キリスト教国でも間違っちゃったんですかね。
 あ、そうだわ。ひょっとしてオナンは「お前とはセックスしてやらん」と言ってタマルを抱かずに目の前で自慰しちゃったのよ。そういう生々しい話は聖書にかけないんで詳しく書いてないだけよ。そうだわ、そうに違いないわ。見せつけオナニーなんて女の気持ちがわからない最低の男ね。最近私はフェミニズム神学に傾倒してるので、こういう話は女が被害者ということにしてしまいますわ。
 元にもどります。本来ならばタマルはエルやオナンの弟シラと結婚するはずだったんですが、それはダメってことでタマルは父ユダの家で飼い殺しにされてしまいます。シラが幼いというのはたぶん口実。子作りくらいはできる年だったのでしょう。実際にはシラまで死んじゃ大変だというのでけ結婚させてもらえなかったのです。タマルは不吉な女とされたようです。
 そこでタマルは神殿娼婦のふりをしてユダを誘惑してセックスしてしまい双子をもうけます。このうちぐずぐずして出てこなかったペレヅの家系がメインになり、ここからダビデやソロモンも出、イエス様も出るわけです。
 ちなみに先に手だけ出したゼラと、全身が出たペレヅのどっちが兄でどっちが弟と認定されたかは、ヘブライ語のアハというのが英語のbrother同様に兄も弟も指すのでよくわかりません。口語訳はゼラを兄としてますが、たいていの訳はどっちも「兄弟」と書いてごまかします。韓国語もそうです。中国語(和合本)はペレヅを「哥哥」(兄さん)と書いてるので口語訳と逆ですね。代上2マタ1はペレヅを先に書いているので、たぶんペレヅが兄さんなんでしょうね。
 ところで、クル4:23によれば、息子の嫁とは結婚しちゃいけないみたいなんで、イスラム教的にはこういう結婚はダメです。もっともその前の節で「過ぎ去った昔のことは問わないが」と書いてあるので、昔はこういうのはよくあったんでしょうね。
 なお、ペレヅ、ゼラ、それから幼いという口実で結婚させてもらえなかったシラは、それぞれ子孫をもうけ、ユダ族の中のペレヅびと、ゼラびと、シラびとという支族を形成します(民26:20)。シラの妻が結局だれになったのかはよくわかりません。タマルかもしれないし、別の女かもしれないし。
 以上、娼婦に化けるという強引なやり方で自己の地位を守った強い女タマルの話でした。

 ちなみに明日読むルツ記では、この話とよく似た話が出てきます。

[198] 2ニフ17章 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/12(日) 09:40:21 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=2ne&chapter=17&mode=0
 金土にクルアーンを読んでまたモルモン経に戻ってきました。ここまでのあらすじをまとめておきましょう。
 ユダ王国の末期に王国の滅亡を予言して迫害されたリーハイは、一族をつれて荒野に逃げます。4番目の息子ニーファイはいろいろな困難にあいながらも荒野を抜けて、船を作って約束の地(アメリカです)に移ります。ここで、ニーファイにずっと反対し続けてきた兄のレーマン率いる人々とその子孫がレーマン人となり、ニーファイの系統の人々とその子孫がニーファイ人となります。ニーファイ人は別の場所に移り住み、そこに神殿を立て、5番目の子ヤコブを祭司にします。
 このヤコブの説教が延々続いていて話が進んでおりません。しかもずっとイザヤ書を引用し続けています。今日はイザヤ書7章とまったく同じです。
 この話は「南北の王名を覚える歌」
http://www.babelbible.net/mariko/bib.cgi?doc=kings&course=bib
の表を見てください。南はアハズ王、北はペカ王。このとき北王国はスリヤ(アラム)と組んで南を攻めたのですが、その話をここでしています。8節のエフライムというのは北王国のこと。まもなく破れるというのは当たりましたが、65年どころか10年ちょっとで的中しちゃいます。もちろん北王国を滅ぼしたのはここにも書かれているアッスリヤ(アッシリヤ)です。
 ここで有名なインマヌエル予言、キリスト教によってイエス・キリスト誕生の予言とされているものもありますが、見てのとおり北王国がまもなく滅ぶというのを「子供が生まれて成長しないうちに」という言い方で表現してるだけのことです。

[197] 3イミ9章 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/12(日) 09:30:43 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=3ic&chapter=9&mode=0
 3イミ(初めて読む方へ。イミタチオ=キリストにならいて=という14-15世紀ごろの本の第3巻のことです)は、キリストが直接信者に語りかけたり、それに対して信者が答えたりする形になってます。この9章は全部がキリストのセリフです。だから「わたし」と出てくるのはキリストです。
 すべてのものはキリスト=神が与えたのだから、キリストに帰しなさいと言ってます。「帰す」というのは、「キリストが与えてくださったもので、もともと自分のものではないと認識する」ということです。
 だから、これこれの能力は私が自分で努力してかちとったのだとか、だれだれ先生から教えてもらったのだと思わないこと、というわけです。もしそう思ってしまうと、自分をおごる心が現れたり、世間の人やモノやカネを追い求めるようになって心が休まらないのです。

[196] 1コリ1-2章 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/12(日) 09:21:54 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=1co&chapter=1&mode=0

 昨年度の記事は[0:494]
 コリントの位置について昨年は文章でいろいろ書きましたけど、聖書地図
http://www.babelbible.net/map/map.cgi
で調べてくださいね。ほら、ちゃんとボールを蹴ってるでしょ? そのボール側の町です。
 [26]でパウロの書簡の順序を書きましたが、1コリまでのパウロの歩みをまとめておきましょう。
 パウロの年表は次が便利です。
http://www.asahi-net.or.jp/~zm4m-ootk/pauronenpyou.html
 こういう年表もちゃんと自前で用意しなきゃダメね。のんびり作るわ。
 もともとパウロは熱心なユダヤ教徒で、キリスト教(ないしユダヤ教キリスト派)を迫害していましたが、劇的に回心してキリスト派になります。そしてしばらくはアンテオケの教会で活躍、先輩信徒のバルナバに連れられて第一回宣教旅行に出かけます(AD47-48)。異邦人の信者が増えてくると、正式にユダヤ教に改宗して割礼をしないと救われないと主張する人々が出てきたのでパウロとバルナバはそれに反対、48年のエルサレム使徒会議で、ユダヤ教への改宗は不要ということになります。しかし異邦人との共卓(一緒に食事をすること。なにしろ礼拝の聖餐だってそうですからね)に反対する保守派との間で煮え切らないペテロと激しく対立、これがアンテオケ事件です(AD49)。これ以後パウロは単独行動をするようになり、第二回伝道旅行に出かけます(49-52)。そこで滞在したテサロニケに伝道が終わった後に送ったのが1テサ。これが最古の手紙です。これを読むとパウロが当時何をふれまわっていたかがわかりますが、それは1テサを読むときに見ましょう。
 そして息つくまもなく第三回伝道旅行に出かけます(53-56)。ガラテヤを経てエペソ(エフェソ)へ。ここで二年間滞在します。そのときガラテヤに送ったのがガラテヤ書。
 エペソに二年間いたのは、パウロは投獄されたのです。ここで書かれたのがピリピ(フィリピ)書とピレモン(フィレモン)書。通称「獄中書簡」と呼ばれます。ただしこの投獄は使徒行伝には全然書いていないので異説もあり、第三回伝道旅行のあとのカイザリア拘置(56-58)時代という説も福音派を中心に根強くあります。福音派は聖書命ですからね、聖書に書いてないことは認めんのよ。
 そして出獄してから送ったのが1コリです。この後パウロは実際にコリントの教会に行きますが、この間のいろいろな手紙をまとめたのが2コリ。
 そのあとうじゃうじゃいろいろ回って、エルサレムに戻る寸前に書いたのがロマ書。
 これでパウロの書簡はすべてです。聖書に載ってるその他のパウロの手紙は全部ニセモノです。
 なお、みんなの反対をふりきりエルサレムに戻ったパウロはユダヤ教側から激しく攻撃されます。ローマの市民権を持つパウロは身の安全を確保されるためカイザリアに2年間拘置され、そのあとローマに護送されます。使徒行伝はそこでおしまいで、ローマでパウロは処刑されたらしいです(が、無事に生涯を全うしたのではという説もあります)。

 パウロはユダヤ教もキリスト教も知らない異邦人へ宣教したばかりか、伝統的なユダヤ教的考えをとる信徒とも対立しますので敵がいっぱいいます。パウロの伝道した教会にも別の宣教師がやってきて別の考えをふれまわったりします。ですからガラテヤや1コリを読むと、そういう分派対立の話がうじゃうじゃ出てきます。
 1コリも4章までは異なるセクトへの反論をしています。
 上で書きませんでしたが、コリントには第二回宣教旅行で行きました。コリントの教会はそのときにパウロが作ったものなんですね。その話が2章に出てきます。

[195] クルアーン18回 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/11(土) 09:52:27 コメントする ここから閲覧

 クル-18回。4章56-87節。
 クル4:86「あなたがたは挨拶された時は、さらによい挨拶をするか、または同等の挨拶をしなさい」。一見、当たり前の教えのようですけど、こういう教えがあるってことはイスラム教は都市の宗教なんですね。
 挨拶って当たり前じゃないんですよ。農村みたいにみんなが顔なじみだと挨拶なんてしなくなります。「おーい、いるか? 起きたか」「おい、メシ食ったか」「顔色悪いな、どうした」とか、状況に応じてそのつどそのつど意味のある言葉をなげかけあうのであって、状況にかかわりなく「おはよう」「こんにちは」なんていうのは実はおかしいんですよね。、出会う人が全然知らない人ばかりという都市だからこそ、状況にかかわりない無意味な挨拶言葉をかけあうんです。
 たとえばインドだと伝統的に「ありがとう」という言葉がないらしいです。親切なことをしあうのは当然のことだからです。
 日本語の「いただきます」「ごちそうさま」も、ほとんど日本独特のあいさつで、世界的には言わないようですね。
 逆にくしゃみをした人に言葉をかける習慣は、わりと多くの言語にあるのに、日本語にはない。
 そんなわけで挨拶って意外に普遍的じゃないんです。
 で、イスラム教は都市の宗教なんで挨拶を奨励する。だからアラビア語では挨拶言葉がとても発達してる。アッサラーム・アレイクムには、同じ言葉を返すんじゃなく、ワ・アレイクム・ッサラームっていうふうに必ずちょっと違う言葉で返すっていうのは、クルアーンのここの教えから来ているようです。

[194] 1イミ9章 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/11(土) 09:43:12 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=1ic&chapter=9&mode=0
 著者が何度も強調している謙遜の美徳を実践するなら、当然ながら、人の上に立つのは謙遜じゃないわけで、人に仕えるほうがいいというわけです。
 とはいえ、何につけてもリーダーっていうのは必要ですから、この教えは万人に通用するものじゃないですけど、ホンネを言えば、確かに人を使うよりも人に使われて生きるほうが、気楽といえば気楽ですよね。これは私たち夫婦の社会的地位が低いからそう思うのかしら。
 人を使うのは大変ですから、その苦労代として給料は高く地位も高くなるんでしょうけど、そんなお金も地位も天国に持って行くことはできないむなしいものと思えば、給料が低くても生活が苦しくても、人に使われて生きるほうが楽ですわ。

[193] マタイ23-25章 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/11(土) 09:29:42 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=mat&chapter=23&mode=0
 昨年度の記事は[0:492]
 今年はマタ25:14-30の、カネを預けられたしもべたちの話をしましょう。
 おカネもうけをするしもべがほめられて、カネをそのまま温存していたしもべが怒られるという話。
 これ、すんなり受け入れられる人と、違和感を抱く人と、はっきりわかれるんじゃないかしら。
 なーんも違和感を抱かずにすんなり受け入れている牧師先生の説教の例が、タイムリーにいま配信しているFEBCの日曜礼拝、日本基督教団・西片町教会の山本裕司牧師の説教
http://www.febcjp.com/asx/120212/susv120212.asx
 たしかにここは、前章以来続いている天国の比喩の一つ、特に最後の審判の話の比喩なので、カネをもうける=いっぱいいいことをするだの、教会に献金をする(!?)だのととれば、いいことをした人ほどほめられて天国に入れるってことになって、何も違和感を抱かないのかもしれません。
 でも、あれれ? それだとおかしいんじゃありませんの? だって、 マタ25:29「おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。」つまり貧富の差が激しくなるっていうんだけど、そしたらちょっとしかいいことができなかった人は、そのごほうびをもっとたくさんいいことをした人に取り上げられちゃうのかしら?  マタ20:1-16で、ちょっとしか働かなかった人もたくさん働いた人も同じ給料だったはずでは? 後の者が先になり、先の者が後になるんでは?
 それに、おカネをもうけなかったしもべに主人が言ってる「銀行に預けとけば利子が発生したのに」っていうのも、利子をとっちゃいけないという律法に矛盾する気がするんですけど。おカネもうけという、ふつうあんまりいいことだと思われてないことにたとえてしまったので、こういうちぐはぐが起こっちゃう。
 この話に抱くと思われる違和感とは、こんなところじゃないかしら。
 たとえ話っていうのはわかりやすいようでいて、実は何を言いたいのかがわかりにくくなるのです。だからこそイエス様の弟子だってしょっちゅうたとえ話の解説を求めてるじゃないですか。そして、たとえ話の核心でない末節の部分に至ると、いろいろ矛盾が出てきてしまうものです。
 ここでは、人間はそれぞれ神様からおカネという善い種子をもらっているのだから、それをどんどん使って人に善行をすべきなのであって、ふだんからそういうことをしている人が神の国へ行く、そうでなく神様からいただいた善い種子を全然活用しない人は神の国に行けない、ととらえておきましょう。

[192] クルアーン17回 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/10(金) 10:52:00 コメントする ここから閲覧

 クル-17回。第4章24-55節。
 「男は女を支配し守る者である」クル4:34。こういうのは女としては困ったものだわ。ただしクルアーンはちゃんと、男が女を金銭的に援助するという義務と裏打ちしていってるので、これはこれで女性にやさしい宗教なのかもしれませんけどね。

[191] 知恵の書9章 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/10(金) 10:45:03 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=wis&chapter=9&mode=0
 昨年度の記事は[0:696]
 神殿を作れという話が出てくるので、ここでこの話の語り手がソロモンであるということがわかります。もっとも新共同訳(および当サイトの標準の言い方)では「知恵の書」と呼ぶこの本は、翻訳によっては「ソロモンの知恵(の書)」なんて言ったりしますから、最初からソロモン作ってバレバレなのかもしれませんけどね。
 知恵の書とかシラ書とか箴言とかいういわゆる知恵文学では、知恵というのを神様の与えた力とし、文脈によってはどうかすると神様そのものなんじゃないかというところさえあります。もともとヤハウェはイスラエルのローカルな神なので、神様の啓示というのは本来はイスラエルの民専用です。知恵というのは、そういうイスラエル限定の神様の働きをもっと一般化したものと思えばいいでしょう。ヘレニズムの時代になって、ユダヤ人がいろんなところに移住するようになるにつれて、ギリシア文化の知恵と習合した結果といえるでしょう。また、本来のヤハウェくんは男性的なイメージばかりか女性的なイメージもあり、それが知恵という形に結実したというところもあります。

[190] イザヤ書45-50章 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/10(金) 10:18:41 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=isa&chapter=45&mode=0
 昨年度の記事は[0:490]
 48章までがクロス(キュロス。ペルシア帝国の王)の攻撃によるバビロンの陥落の予言です。もちろん実際にはバビロンの陥落以後に書かれたんでしょうけど、バビロンに捕囚されているユダヤ人たちに、ペルシアがカルデア(新バビロニア)を滅ぼして捕囚がまもなく終わるという希望を与える予言という体裁で書かれています。
 ベルとかネボ(イザ46:1)とかいうのはバビロニアの神の名前です。ベルについては外典で「ベルと竜」っていうのがありますね(ベル1)。

[189] 2ニフ16章 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/09(木) 11:10:21 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=2ne&chapter=16&mode=0
 イザヤ書6章と同じ。イザヤが神と出会うシーンで、エゼキエル書冒頭と同じくこれもオカルトな人たちによって宇宙人だのUFOだのと言われているところですね。

[188] トビト記9章 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/09(木) 11:08:17 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=tob&chapter=9&mode=0
 昨年度の記事は[0:405]
 たった6章しかありません。この旅のもう一つの目的である借金回収をラファエル(アザリヤというのはラファエルのかたった偽名です)に頼みます。

[187] ヨブ記17-18章 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/09(木) 11:05:17 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=job&chapter=17&mode=0
 昨年度の記事は[0:489]
 第二ラウンドのヨブの反論の続き(17章)と、2番目の友人ビルダデの弁論(18章)。
 今年はただ一点、 ヨブ18:20「西の者は彼の日について驚き、東の者はおじ恐れる。」(口語訳)についてです。
 ほとんどの翻訳が「西/東」とする中で、

文語:之が日を見るにおいて後に來る者は駭(おど)ろき 先に出し者は怖(おぢ)おそれん
新共同:未来の人々は彼の運命に慄然とし、過去になった人々すら身の毛のよだつ思いをする。

と「未来/過去」と訳しているのが目をひきます。
 ヘブライ語の原文は
http://interlinearbible.org/job/18-20.htm
にあるとおりで、このインターリニアだとthe west/the eastとしちゃってますけど、実は未来/過去という意味もあり、うちのサイトのヘブライ語辞典
http://www.babelbible.net/davidson/davidson.cgi
では、Davidsonは西東、Geseniusは未来・過去と解釈しているのが面白いです。
 英語のほうでは
KJV:They that come after him shall be astonied at his day, as they that went before were affrighted.
RSV:They of the west are appalled at his day, and horror seizes them of the east.
のように、KJV(RVもASVも)が未来・過去なので、日本の文語訳はそれに従って「後に來る/先に出し」としたのでしょう。後にRSVから西・東になったので、口語訳聖書その他がみんなそれにならっちゃったんでしょうね。
 新共同訳はフラの影響を強く受けていますが、フラが西・東だというのが面白いです。ちなみに幻の共同訳は新約ばかりかヨブ記もあるんですが、もう未来・過去になってます。
 実は昔の訳ほど未来・過去なんですよね。たとえばLXXは、
ἐπ᾽ αὐτῷ ἐστέναξαν ἔσχατοι, πρώτους δὲ ἔσχεν θαῦμα.
でして、ἔσχατοςは「最後」ですし、πρώτοςは「最初」ですから西、東じゃないんです。
 またヴルガタは
in die eius stupebunt novissimi et primos invadet horror
でして、novissimusは「最新・最後」、primusは「最初」。だから光明社も「彼の後に来る・彼に先立つ」です。
 ちなみにバルバロは西・東ですから、バルバロがヴルガタを訳したもんだなんていう人は許しませんよ!
 20世紀になって、誰か(RSV?)が西/東としちゃうと、わわわわわわーっとみんなそれに従っちゃったんですけど、新共同訳は先祖返りをしちゃったんですかね。
 真理子は、未来・過去を支持します。西・東じゃ単に世界中という意味にしかなりませんけど、未来の人は、もう彼(=ヨブ)の悲惨な死を知ってるわけだから「驚き」、過去(っていうかヨブより先に死んじゃった人)は、たぶん悲惨な死を迎えるだろうと「恐れ」るんですよ。

 ちなみにリビングバイブルは「老人・子供」ですから未来・過去に似てますが違います。これは誤訳ですね。それから尾山さんの現代訳はまるきりシカトです。これはひどいわ。尾山さんの訳ってあらすじを書いたという感じで文学に対する畏敬の念が全然ない。

[186] 2ニフ15章 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/08(水) 09:33:19 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=2ne&chapter=15&mode=0
 イザヤ書5章と同じです。
 有名なぶどう畑の歌。農夫は神様のたとえ、ぶどう畑はイスラエルのたとえで、神様がせっかく手をかけてイスラエルを守っているのに民はよくならないので滅ぼしてしまおうというわけです。
 民がよくならないというのは、いろいろ悪い人がいるからです。それを6種類あげて「禍である」といってます(8、11、19、20、21、22)。
 そして神様は外国に呼びかけて、イスラエルを攻めさせます。

[185] 1マカ9章 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/08(水) 09:25:13 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=1ma&chapter=9&mode=0
 昨年度の記事は[0:571]
 デメトリオ(王です)はバッキデスとアルキモスに軍隊を指揮させてユダと戦います。ローマとの同盟も形ばかりだったようで、ユダは善戦もむなしく死んでしまいます。後継のヨナタンは果敢に戦い、戦争はこう着状態になります。エルサレムを占領しているアルキモスは神殿を破壊しようとしますが、神様の怒りにふれて難病にかかって死んでしまいます。
 ユダヤ人の側は決して一枚岩ではなく、バッキデスに内通する人がいて、バッキデスに戦いを懇願します。それに応じてバッキデスはヨナタンと戦いますが勝てません。結局バッキデスはヨナタンと和議を結んで引き上げます。

[184] 詩編24-26編 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/08(水) 09:13:58 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=psa&chapter=24&mode=0

 昨年度の記事は[0:486]

●詩編24編
 献堂式(教会が完成したとき)などに歌われる祈り。Q&A式のかけあいになっています。
 これは面白い動画がいっぱいありました。
 まずはヘブライ語の歌

(http://www.youtube.com/watch?v=3iybrZ7gU1c)
 変わったところでパンジャブ語(インド西北部とパキスタン。ロマ=ジプシー=の故郷です)。

(http://www.youtube.com/watch?v=taKfdtMEeWM)
 こんどはPrestonwood Choir & Orchestraというバプテスト派の歌。私はこういう派手派手なのは嫌いですが、バッハのカンタータなんかも当時はこんな感じに聞こえたんでしょうね。

(http://www.youtube.com/watch?v=-msrCjz5DuI)
 kinotoriさんの作品。なぜか木枯紋次郎。

(http://www.youtube.com/watch?v=EyBjsN6Y_TM)

●詩編25編
 困難にあったときの祈り。これはなぜかいいのがありませんでした。kinotoriさんの作品をごらんください。これは美空ひばりの「やわら」ですね。

(http://www.youtube.com/watch?v=yQLzQ3VoFG4)

●詩編26編
 神様を信頼して歩む祈り。
 ハイドンが曲をつけています。In Dulci Jubilo

(http://www.youtube.com/watch?v=ZTqYdm_TvtU)
 kinotoriさんの作品はなぜか韓国の伝統的な歌

(http://www.youtube.com/watch?v=lTp95XUfExw)

[183] 2ニフ14章 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/07(火) 09:59:03 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=2ne&chapter=14&mode=0
 イザヤ書4章と同じです。
 前章の続きでエルサレムの滅亡(BC587)の話。生き残ったユダの民のことを書いてます。
 基本的にここは第一イザヤなんで、紀元前700年代に活躍した人ですから、こんなことは知らないはずなんですけど、これはイザヤが何でもお見通しの神様の言葉を預かっているからというんじゃなく、第一イザヤの中にもよく見ると後代の人の手が加えられているということなんでしょう。

[182] シラ書9章 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/07(火) 09:54:07 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=9&mode=0
 昨年度の記事は[0:770]
 女に気をつけろということわざが並んでいます。何度読んでも大爆笑してしまうところです。
 でも今年はシラ9:10の「旧友を捨てるな。新しい友よりもはるかにましだ。新しい友なんて新しい酒と同じで、古くならなきゃおいしく飲めない」をとりあげましょう。たしかに友達づきあいは酒と同じで、古くなればなるほど熟成するものですからね。
 私はお酒が大好きですが、18年ものとか20年もののウィスキーなんて、自分の生きてきた20年間を回顧しながら飲みますもの。20年前といえば1992年。大学に入って、ずっと親しかったおじさんと死別して、いろいろ恋に生き、卒業と同時に結婚し、すぐ離婚し、仕事を転々としていろいろ辛酸をなめ、ちょっと小金が入るとすぐ海外旅行して使ってしまい、韓国の男優にはまって韓国映画を見るようになり、その兼ね合いで今の主人と知り合い……みたいなことを。
 そういえば私にはあんまり古くからの友達がいないです。住所や職場を転々としたものですから。

[181] 士師記17-21章 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/07(火) 09:43:21 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=jdg&chapter=17&mode=0
 昨年度の記事は[0:485]
 12人の士師の話は16章までで終わりで、17章からは士師は出てきません。
 そのかわり、何度も「イスラエルには王がなかった(のでめいめい自分勝手なことをやっていた)」という語句をリフレインさせながら、この時代のさまざまな陰惨なエピソードを紹介しています。
 このうち19章の、ベニヤミン族の人たちのレイプ事件は、創19に出てくるソドムの人々の行為ととても似ています。
 最近私は、山口里子さんの『虹は私たちの間に』(新教出版社)
http://www.shinkyo-pb.com/2008/07/27/post-984.php
を読んで深い感銘を受けました。聖書の中の、同性愛を断罪したとされる箇所を精密に検討した本です。よく、「聖書では同性愛を禁じている。根拠はレビ18:22…」など、聖書をふりかざして性的マイノリティーへの差別をする人がいます。私だったら「バーカ、お前は聖書男? 神殿で動物を献げてるのか? 自分の都合のいいときだけ聖書を引用する、聖書つまみ食いはやめましょう」と一喝しておしまいですし、それは正しい対処の仕方だと思っております。しかし山口さんの本のすばらしいところは、そういう聖書の箇所をヘブライ語やギリシャ語で精密に読み解き、実はそうした箇所が禁じているのは別のことなのだということを立証している点です。
 山口さんは、創世記19章でソドムの人たちがしているのは同性愛ではないんだ(その証拠にロトは娘を差し出そうとしている。同性愛者なら女には興味ないはずなのに)ということを、士師記19章と比較しながら論証しています。簡単に言ってしまえば、よそ者を征服し辱める行為なんですね。相手の妻や娘をレイプして、お前は自分の女もちゃんと守れないひ弱なつまらない奴なんだということを示すんです。

 ともあれ士師記は、おしまいに数々の陰惨なエピソードを紹介することで、イスラエルにはぜひ王が必要なんだということを強調しています。もともとヤハウェの宗教は、神の前には人間みんな平等で、王を拒否する傾向があるのですが、ダビデやソロモンの時代に王権の権威付けにヤハウェの宗教が利用されて以来、イスラエルの救い主はダビデの血統に属する強い王であるという歴史観が生まれます。イエス様をダビデの血統と強弁するのもそういう考えです。そういう王権の正当性を示す働きを士師記はしています。王がいないとこんなになっちゃうぞというわけです。

[180] 2ニフ13章 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/06(月) 10:36:18 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=2ne&chapter=13&mode=0
 イザヤ書3章と同じ。
 エルサレムとユダの滅びを予言していますが、だからと言ってBC587年のユダ王国の滅亡を予言しているわけじゃありません(ひょっとしたらモルモン経のヤコブさん=いままさにイザヤ書を長々と引用して説教している人物=はそう解釈しているのかもしれませんが)。実際にはヨタムの治世
http://www.babelbible.net/mariko/bib.cgi?doc=kings&course=bib
を参照してください。北王国もまだ存在する時代で、アッシリアが北王国を攻撃して滅亡寸前になり、南もヤバいという状況の話です。実際にはエルサレムおよびユダ王国はあと150年ほど持ちこたえて、いままさにヤコブさんが説教しているあたりで滅んでいます。ヤコブさんたちは古代のアメリカに移住してますから確かめようがないと思いますけど。

[179] 詩歌9章 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/06(月) 10:25:34 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ode&chapter=9&mode=0
 ルカ1章に載ってるマリヤの祈り、いわゆるマニフィカトと、その直後に載ってるザカリヤの祈りの両方です。
 詩歌はLXX(七十人訳聖書。ギリシャ語訳旧約聖書)に入っているんですが、こんなふうに新約聖書から抜き出したものも入ってるんですね。ですからLXXっていうのはずいぶん後になって手が加えられているのです。

[178] 創世記32-35章 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/06(月) 10:22:28 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=gen&book=rom&chapter=32&mode=0
 昨年度の記事は[0:484]
 地名がいっぱい出てきます。宣伝になりますが、Wikisourceにアップされている口語訳聖書時代の日本聖書協会の聖書地図を索引で引けるようにしました
http://www.babelbible.net/map/map.cgi
ので、ご活用ください。濁点や半濁点を無視したりしてあいまい検索につとめてますので、いい加減に入力しても検索できます。
 ヤコブが長く逗留していたパダンアラムはユーフラテス川上流、今のイラクでしたね。図1のD~E-2。そこからがどういうルートかは不明ですが、三日月状にダマスコ(ダマスカス)あたりを通って来たんでしょうか。
 32章のマハナイム-ヤボク川-ペニエル(ペヌエル)は図8のC-2にあります。ここらへん、みんな今はヨルダン領ですね。天使と会ったマハナイムは山の上、そこから山を下ってヤボク川(今のアルカー川)の渡しを越えます。神様とケンカしたペヌエルがヤボク川のほとりにありますね。その南の山の上にもペヌエルってありますけどこれは違うようです。
 そして久しぶりにエサウと再会、エサウはセイルに戻りますがこれは図8のB-3。エルサレムの西側の山。ヤコブが家を建てたスコテはヤボク川とヨルダン川にはさまれたところにあります。
 そして「妹をレイプされた。さあ復讐だ」という事件が起こるシケムはそこから真西。図8のB-2でサマリヤって書いてるあたりですね。
 そこを離れて祭壇を作ったのはルズ(ベテル)。シケムから真南に行って図8のB-3。エルサレムよりちょっと北方です。
 そこからさらにエルサレムを通り越してベツレヘム(エフラタ。図9のC-1)で12人目の息子ベニヤミンが生まれ、そして美女妻ラケルが死んで葬られました。
 長男ルベン(レウベン)が父の側女ビルハ(ラケルの侍女)と寝たミグダル・エダルは地図にありませんが、ベツレヘムからヘブロンに行く途中のどこかでしょう。ちなみにルベンはおブスなレアの子ですから、決して実母と寝たわけではないし、実母の侍女と寝たわけでもありません。おばさんの侍女だからちょっとは縁が遠いです。ちなみにこの件はここでは問題にならず創49:4で問題にされます。
 さらに南へ行ってキリアテ・アルバ、すなわちヘブロンのマムレに行きます。地図では図10のB-3なんですが図9にも当然入るはずなんで描いてくれてるとあちこち見ずにすんだのにって感じです。ヘブロンよりちょい北ですね。ここにイサクがいます。

 ちなみに現代の地図は、帝国書院から出てる「最新基本地図」というのが便利です。イスラエルがでっかく載ってますから。

[177] 2ニフ12章 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/05(日) 09:47:34 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=2ne&chapter=12&mode=0
 ここからまたしばらくイザヤ書の引用が続きます。今日は2章で、終末の日に主が来ると、この世の人々の栄光は無になり、偶像は力を失う、そういう光景が描かれています。

[176] 3イミ8章 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/05(日) 09:43:41 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=3ic&chapter=8&mode=0
 これも私が付け加えることはほとんどありません。著者が口をすっぱくして言ってる、自分を低めなさい、謙遜しなさいということです。自尊心を捨ててちりのように自分を思うことで、神の愛に抱かれるというのです。
 なお、この章全体が、ある信徒が神ないしキリストに呼びかけている形になっています。3章は信徒とキリストの対話か、でなければこういう形になっているものが多いです。

[175] ロマ書15-16章 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/05(日) 09:40:54 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=rom&chapter=15&mode=0
 昨年度の記事は[0:482]
 ロマ書の最後に、この手紙の執筆事情が語られます。
 (これからエルサレムに行くという話があるので、たぶん)第三次宣教旅行の途中のコリント、ガイオの家で、テルテオ(ロマ16:23)に口述筆記させて書いています。教会内の対立によって東方ではもはや活躍の場がなくなったパウロはどんどん世界に宣教をしたい。さしあたりイスパニア(スペイン)への宣教を計画します。そしてその途中に、すでに出来ているローマの教会に立ち寄りたいと思ってこの手紙を書いているのです。でもその前に、マケドニヤとアカヤ(今のギリシア本土。アカヤはコリントを含む地方です)の人々の献金をエルサレムに届けなくちゃいけないというのでエルサレムに向かいます。このあたりの事情は使21に書いてありますが、エルサレムにはパウロに反対するユダヤ人が多数いるので行くのは非常に危険であり、実際使21:12のようにみんなからエルサレムには行くな行くなと反対されるんですが、パウロの決意は固く、エルサレムに向かいます。実際、エルサレムではユダヤ人に迫害されてローマ当局に二年間も身柄を拘束され、ローマの市民権を持っているので皇帝に上訴したいというのでローマに護送されます。その途中に船が難破するなど大変苦しい行程の果てに、パウロのローマ行きは実現。イスパニアに行くことはなく終わります。
 なお、ローマの教会というとヴァチカンのイメージからずいぶん立派なところという気がしますが、この時代のローマの教会はスラム街にある個人宅を利用した集会だったらしいです。

[174] クルアーン16回 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/04(土) 09:46:57 コメントする ここから閲覧

 クル-16回。3章196節-4章23節。
 4章は「婦人」「女人」などと訳されていますが、私はシンプルに「女」で行きます。
 冒頭のほうクル4:3は、イスラム教徒の男が4人まで妻を持てるという根拠になっていますが、ここはずっと孤児のケアの話で来ているので、一般的な結婚の規定というのとはちょっと違う気がします。つまり、男性中心の社会では孤児をかかえた女性が一人で生活することができないので、男性が妻として援助してあげなきゃいけない。戦争などで男性が少なくなったら、複数の女性を妻にしてあげないと女性が余っちゃうってことですからね。
 そういう当時の特殊な状況できまった規定が、聖典に書かれてしまったために一人歩きして、社会が変化しても残ってしまったのでしょう。
 同様に、4:11-12の女性の相続配分、男性に比べて少なくて、ちょっとひどい気がしますが、なまじ聖典に書かれちゃってるので変更できない。
 こういう具体的な決まりというのは、ヘンに聖典に書かないほうがいいですね。クルアーンはこういう具体的なことまで決めているのでわかりやすいんですけど、その後の社会の変化に対応できなくなっている気がします。

[173] 1イミ8章 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/04(土) 09:40:09 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=1ic&chapter=8&mode=0
 短いけど(短いがゆえに)鋭い言葉で、私がつけくわえることは何もありません。
 しいていえば、「人と付き合うな」について。イミタチオの著者は修道士ですからホントに「人と付き合うな」という意味で言ったのかもしれませんが、世俗の日常生活を生きる私たちは、人と付き合わないわけにもいきません。会うなとか話をするなとかいうんじゃなくて、「人との付き合いを第一に考えるな」という理解をすればいいと思います。つまり、人との付き合いのために浪費をしてしまうとか、教会でお祈りをしなくなってしまうとか、ふしだらな生活をしてしまうとか言うんじゃなくて、神を求める生活に支障がない範囲で人と付き合えと読めばいいでしょう。

[172] マタイ20-22章 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/04(土) 09:31:41 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=mat&chapter=20&mode=0
 昨年度の記事は[0:480]
 いろいろ書きたいことはあるんですが、今年はマタ22:45の「このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるなら、キリストはどうしてダビデの子であろうか」をとりあげましょうか。
 4つの福音書のなかでもマタイは一番ユダヤ教的色彩の強い福音書で、なにしろ冒頭には「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図」なんてあります。これと決定的に自己矛盾してる気がするんですけどね。
 実は、これがマタイ福音書の特徴。だんだん後半になるにつれて、ユダヤ教的だった内容が非ユダヤ教的になり、最後のほうマタ27:25ではついに、イエスの死の責任をユダヤ人とその子孫全員におっかぶせるまでに至ります。
 上村静先生は『旧約聖書と新約聖書』(新教出版社)の中で、マタイ福音書を書いた教会(福音書はみんな、それぞれの教会が自己の立場に都合のいいことを集団で編集したのです)が、ユダヤ人への宣教をめざしたのにそれに失敗したので、ユダヤ人のみならず全世界への宣教をめざすようになった。そこで、当初のユダヤ教的色彩が後半でうすれていったのだとしています。
 今日の場面のマタ22:1-10の結婚の宴会の話はまさにこのこと、来ようとしなかった人たちというのはユダヤ人であり、だれかれかまわずというのは異邦人なんです。当初はマタ10:5のように、「異邦人の道に行くな。またサマリヤ人の町にはいるな」、つまりユダヤ人のみでサマリヤ人も排除していたのが、マタ28:19「すべての国民を弟子として」に変わっちゃってますよね。
 イエスがキリスト(メシア)だというのはいろんな意味があり、ユダヤ人は「政治的救済者」でありそれゆえ「ダビデの子孫のはず」と考えたので、ガリラヤのナザレで生まれたイエスを何とかダビデゆかりのベツレヘムで生まれたことにするためヘンな神話(マタイは「ホントはベツレヘムで生まれたのだが、迫害によってエジプト経由でナザレに逃げた」、ルカは「たまたま人口調査のためベツレヘムに旅行中だった」)を捏造までしたのですが、22章あたりに来ると、ダビデの子というのはどーでもよくなっちゃったみたいですね。

[171] クルアーン15回 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/03(金) 11:35:02 コメントする ここから閲覧

 クル-15回。3章171-195節。
 前の部分に引き続き、神の道に戦った人に大きな報いがあることを述べています。例によって戦争の話は、日常生活で起こるさまざまなトラブルや苦労と読み変えましょう。
 サタンを恐れず神様を恐れよというのは、こわい敵(トラブルの相手)を恐れるなと読みましょう。
 どんな困難があっても神様を信じて突き進めば道が開けます。真に恐れねばならないのは人ではなく神様です。人を恐れるのではなく、間違ったことをせずに常に正攻法で進みましょう。それが「神を恐れよ」ということだと思います。

[170] 知恵の書8章 投稿者=真理子 掲示日=2012/02/03(金) 11:28:17 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=wis&chapter=8&mode=0
 昨年度の記事は[0:690]
 「知恵と結婚する」という表現の話は昨年しちゃいましたね。
 今回はあんまり本筋と関係なさそうですけど、知8:19-20でいきましょう。
「わたしは生まれがよかったので、よい魂にめぐり合えた。いや、よい魂だったから生まれがよかったというべきか。」
 ここが私にとって読み捨てならないのは、私のかねがね主張する「キリスト教輪廻説」の根拠になりそうだからです。だって、「よい魂だった」(前世)から「よい生まれになった」(来世)んでしょ?
 私の考えでは、人は死ぬと即時に審判を受け、合格するとまた人間の生をスタートできます。これが「神の国」です。神の国はこの世です。だってこの世は神の支配を受けてるんでしょ?
 そして、グレードの高い合格をした人は幸福な環境に生まれ、ぎりぎりで合格した人は苦労する環境に生まれます。ただ、それは出発点の話であって、一般的に幸福と思われる環境に生まれた人でも不幸になることは十分ありえますし、逆も真なり。

 こういう考え方が正統的なキリスト教の考え方でないことは百も承知ですが、昔の人が昔の感覚で表現した「歴史に介入する神」「神のみことばとしての聖書」「イエス・キリストの復活」などという神話をそのまま信じるのはばからしいことです。だって現代人はこれらのことをそのまま信ずることができなくなっているじゃありませんか。それなのに昔の人の言うとおりに信じようとするのは無理です。むしろ現代人のわれわれが魂の救いと希望を見出せるような形で昔の神話を解釈しなおして、それを信じるようにすればいいんです。
 昔の人の神学を研究するのもそれはそれで面白いことですが、むしろ私は、自分なりの新しい神学を作りたいです。