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真理子の聖書日記


このサイトを作りながら、聖書を読みながら真理子が考えたことです。
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[884] 民数記33-36章、シラ書46章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/19(月) 10:27:23 ここから閲覧

●民数記33-36章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=skd&book=num&chapter=33&mode=0
 民数記は今日でおしまい。
 また最後にはなんか反乱が起こったのかと思ったら、たいした話もなく、いままでのまとめで終わります。イスラエルの民がエジプトを出発してからどういうルートをたどったか。そして各部族にどうやって嗣業の地がわりあてられたか。
 ついでながら「嗣業」っていうのは、ヘブライ語のנַחֲלָתֹ(ナハラト)、ギリシア語のκληρονομία(クリロノミーア)の訳語なんですけど、まるっきりの聖書業界用語で、一般には用いられていません。私はできる限り使わないようにしています。たとえば同時に読んでるシラ書ではうまい具合に今日のシラ46:1シラ46:8に出てくるのですが、真理子のおまけ(口語訳聖書を選ぶと出て来ます)「代々受け継ぐ」みたいに変えてしまいました。
http://blogs.dion.ne.jp/goodnews/archives/cat_341919-1.html
を読むと、聖書の「嗣業」という訳語を痛快に批判しています。やっぱり日本語と意味の異なる「知恵」をとりあげて、一律にわけのわからん語で訳すのは「知恵」(賢い決断ができる能力で、経験と知識から、人に良いアドバイスが出来る能力)が欠けている、と。
 「嗣業」っていう言葉を使い始めたのは大正改訳なんですね。明治訳では「産業」などです。新約のほうじゃ大正改訳で使ったっきり、口語訳では「遺産」だの「財産」だのそのときの状況でいろいろ訳しわけるようになっちゃった。ところが旧約のほうでは「嗣業」が生き残り、新共同訳でも使われています。こんなヘンな語は将来の訳では追放してほしいわ。
 それはそれとして、ルートの話とわりあて地の話。
 実はこれがよくわからない。今までの話にない地名が出てきたり、矛盾してたり、今のどの地なのかよくわからなかったり、ちっともまとめとして役に立たない。そういう話は注解書を見ると必ず書いてあります。

●シラ書46章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=46&mode=0
 イスラエル史のまとめの続き。ヨシュアとサムエルの話が主で、途中の士師がほとんど省略されちゃってるのが面白いです。聖書無料頒布のギデオン協会の名の由来になってるギデオンとか、もっといろいろとりあげればよかったのに。

[883] ヘブル書5-7章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/18(日) 09:09:47 ここから閲覧

●ヘブル書5-7章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=heb&chapter=5&mode=0
 今日のところはメルキゼデクという人物がさんざん言及されていますので、知らないと何のことだかよくわかりませんね。
 彼は創14に出て来ます。創世記14章は冒頭にやたらたくさんの王名が出てきて頭がオーバーフローしてしまいますが、古代の大戦争で、アブラハム(当時アブラム)の甥ロトが捕虜になってしまう。それを取り戻すためアブラムが大活躍します。このときにサレム(どうも今のエルサレムらしい)の王であり神の祭司であるメルキゼデクがやってきてアブラムを祝福するという話です。
 次に出てくるのは詩110。冒頭は口語訳聖書や新共同訳聖書だと「主が主に語った言葉」というのでとっても紛らわしいですが、神様がダビデの主人に告げた言葉というので、あなたはメルキゼデクの位にしたがって祭司である、と出て来ます。もともとこのダビデの主人って誰を指すのかよくわかりませんが、キリスト教のほうでは来るべきメシアつまりイエス様のことだとされています。イエス様はメルキゼデク・タイプの祭司だというのですね。
 もともと祭司っていうのはレビ族、しかもアロンの家系でないとなれません。ところがアロン以前の創世記を読むと、祭司にして王というすごい権力をもった人(イスラエルでは祭司が王をかねるってことはありませんでしたから)が登場する、それがメルキゼデクだっていうわけです。
 イエス様はダビデの家系つまりユダ族ですから、王にはなれても祭司にはなれません。ところがヘブル書の著者はイエス様を祭司だと言いたいので、王であり祭司であり、もちろんアロンの家系でもなんでもない人が昔いた、それがメルキゼデクだというので、イエス様はそういうタイプの祭司なんだよと言いたいわけです。
 私たちにはどうでもいいといえばどうでもいいんですけど、もともとガリラヤ出身のイエスをなんとかダビデの家系だと強弁するために人口調査だの一時的にベツレヘムに旅しただのという伝説を捏造したマタイやルカのことを考えれば、これは大問題なんでしょうね。
 まあ私たちとしては、イエス様は過去の大祭司なんかよりももっとすごい祭司だ、というメッセージを読み取っておくことにしましょう。だって私、おバカなんですもの。耳がにぶいんですもの。こういう難しい話、わかんないわ。牛乳を飲んでるのがふさわしいみたいですもの(ヘブ5:11-14)。

[882] 使徒3-4章、シラ書45章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/17(土) 07:29:33 ここから閲覧

●使徒3-4章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=skd&book=act&chapter=3&mode=0
 ペテロとヨハネが神殿に行ったところ、足の不自由な男がいました。2人は彼をいやし、彼は歩けるようになりましたが、そのあとペテロが長々と演説をぶったためにつかまってしまいます。役人、長老、律法学者、大祭司たちの前で堂々と尋問に答えるペテロのようす、足をいやされた男もそばにいたので、信じちゃう人々も多く、彼らは何もできず、せいぜい「今後はこんなことしちゃダメだ」というのみで、釈放するしかありませんでした。二人は教団に戻ってこれを報告しました。
 使徒行伝は、そのときどきの教団の運営体制、とくにおカネの話に着目しながら読むと面白いのですが、ここでは指導者がペテロとヨハネであること、けっこう教団は裕福だということに着目しましょう。みんな土地だの畑だの家屋だの、ともかく全財産を売り払って教団に参加し、一切のものを共有し、必要に応じて誰にでも分け与える体制だったからです。
 さて、この場面について千葉大学の加藤隆先生は面白い見かたを提示しています。最近ではNHKラジオ第二放送のカルチャーラジオでこの話をしていました。「新約聖書」とその時代@amazon
 足をいやされた男の件は、よく読むと、いろんな疑問がわいてきます。足をいやした話が3章なのに、途中の演説や拘留のシーンをはさんで使4:22で思い出したように「この人は四十歳あまりの人だった」と出て来ます。あらまあ、この人はペテロやヨハネと一緒に一夜を明かした、つまり一緒につかまっちゃったんですね。
 足を治してもらったんだからさっさと帰ればよかったのに、使3:11のように二人につきまとっちゃったために、一緒につかまっちゃったわけです。
 では、どうしてこの人は二人につきまとったのでしょう。
 よく読むと、この人は「足を治してくれ」なんて一言もいってません。施しを乞うた、つまり「カネをくれ」と言ったのです。ところが二人は「おカネはない」と言って足を治しちゃうんですね。でもおカネがないなんてウソですね。教団はかなり裕福だったようですから。
 これらの謎を明快に説いたのが加藤先生。
 ズバリ、ペテロとヨハネは、やんなくていい余計なことをやっちゃったんですよ。彼を困らせるようなことを。
 この人は足が治って、その瞬間はびっくりして神を賛美したのですが、たいへんなことに気づきます。もはやこの人は施しを受けることができなくなっちゃったんです。そりゃそうでしょう。歩けるようになっちゃったんですから。
 最後の「40歳あまり」がここできいてきます。平均寿命の短かった昔のこと、この人は今でいったらもう55歳くらいでしょうか。いまさら職業訓練なんかできません。施しを受けられなくなって、どうやって生活しろっていうんでしょうか。
 これが、彼が二人に長々とつきまとった理由です。
 「足を治してくれてありがとう」じゃないんです。「余計なことをしやがって、どうしてくれるんだ」なんですよ。
 最後は二人だけが教団に帰ったことになってますが、たぶんこの人を引き取らざるを得なかったんじゃないでしょうかね。
 福音書を見ると、イエス様のいやしの話がいろいろ出て来ます。最初はすばらしいと思って読むんですけど、だんだんうざったくなってきませんか? まるで身体障害が罪であるかのように(当時の人たちの感覚は実際にそうだったんでしょうけどね)、そして、身体の障害が治れば万事解決したかのように記述する福音書は読んでて本当に腹がたちます。私はどうも神様の救いのリストには入ってないようですね。
 これに痛快にパンチを浴びせてくれたのが、この使徒行伝3-4章なんですね。いやしゃいいってもんじゃないんです。いやしたらいやしたで、その後の生活も保障してあげなきゃダメなんですよ。人間は経済的な動物なんですから。
 ともかく物事をリアルに読むこと、特におカネの話としてとらえることの大切さを、使徒行伝は教えてくれます。

●シラ書45章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=45&mode=0
 モーセとアロンの話。モーセはともかく、アロンの祭服のきらびやかさをこれでもかこれでもかと強調するのが面白い。昔の人にとってきらびやかな祭服ってこういう意味があったのね。

[881] ヨナ書(全) 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/16(金) 10:22:08 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=jon&chapter=1&mode=0
 十二小預言書の中でヨナ書は異色の書。面白い物語の形式をとっています。今日を逃すとあとは面白い日はありません。
 ヨナ(アミッタイの子)という人物は王下14:25に出て来ます。たぶん同じ人でしょう。北王国のヤラベアム2世(北13。BC786-746)の時代の人。このときが北王国の絶頂期で、領土が一番拡大したときでした。
 ニネベというのはアッシリアの首都。世界史の教科書にも出てくるほどの有名な町です。ヨナはアッシリアの悪を告発するよう神様から命ぜられますが、ヨナはこれを嫌ってタルシシへ逃げようとします。スペインつまり西の果ての町。世界の果てまで逃げようとしたんですね。単にかったるかったわけではありません。逃げようとしたのには理由があります。それは後でわかります。
 ところが乗った船が大嵐にあいます。神様に逆らったヨナがこのわざわいの根源だというので海にほうりこまれ、大きな魚にのまれ、そこで三日三晩をすごします。これがイエス様が処刑されて三日間陰府に下ったことの象徴だとするのがマタ12:40です。
 この魚の名前はヨブ40:25(昔の章節だと41章冒頭)に出てくるלִוְיָתָןだとされています。リヴヤタン。このページで発音が聞けますね。
http://ja.forvo.com/word/%D7%9C%D6%B4%D7%95%D6%B0%D7%99%D6%B8%D7%AA%D6%B8%D7%9F/
 ふつうはわにと訳しますが大蛇だという話もありよくわかりません。ギリシア語ではδρακωνと訳されています。ドラコン、龍ですね。
 ラテン語ではleviathan。これはヘブライ語そのまんまですね。英語ではリヴァイアサンという発音になります。ホッブズ(1588-1679)の著書(1651)にそういう本がありますね。人間は自然状態だとみんなが敵対しちゃうんで、自然権を政府に譲渡してその混乱状況を避けようとするのだ、というので絶対王政を擁護した本です。その政府をこの怪物にたとえています。
 画像はleviathanで検索するといろいろ出て来ます。たとえば
http://frontiersofzoology.blogspot.com/2011/05/doctor-shukers-leviathan.html
 さて、無事に魚の腹を脱出したヨナは、40日後にニネベが滅びるぞと預言します。
 ところがニネベの人たちは改心して斎戒沐浴、沐浴はしてないかしら、ともあれそのおかげで滅亡は回避されてしまいます。
 これをヨナは不満に思い、神様に抗議したところ、神様はとうごまの奇跡をおこされてヨナをたしなめます。暑い日にとうごまの木を成長させて暑さをしのぐ陰を作ったかと思うと枯らしてしまう。お前がこのとうごまの木さえ惜しむようにわしはニネベの住人を惜しむのだ、という話で終わります。

 ヨナ書は面白いうえ、外国人であるニネベ、しかも北王国はアッシリアに滅ぼされちゃうわけですから敵ですよね。敵をも神様は救われるのだというお話です。
 アイヌに伝道したバチェラーは、聖書をアイヌ語に翻訳、新約・詩編に加えてヨナ書を翻訳しました。おとぎ話のような面白さに加え、外国人を神様が救うという話は、アイヌに読ませるのに最適だと思ったのでしょう。

 さて、ヨナ書のポイントは、おとぎ話なのか、神様の命令から逃げちゃダメということなのか、外国人をも神は救うってことなのか。
 私はヨナの不満の理由だと思います。
 ニネベが救われたことが不満だってことなんですが、外国人が救われたのが不満なんでしょうか。
 そうじゃないと思います。
 ヨナは結果的にウソつき、デマ男になってしまったんですよ。それが不満なんです。たぶん。
 破滅を予言(未来のことだから予言も預言も同じに使っちゃいますね)する人のパラドックス。
 その予言はハズレることが望ましいんです。彼はデマ男扱いされるのが望ましいんですよ。
 でも、私たちはウソつき呼ばわりされたくなくて、破滅の予言があたることを、心のどこかで望んでいませんか?
 たとえば福島第一原発の事故で、数年後に子どもたちが甲状腺ガンをいっせいに発病して、「それ見たことか、だからオレは半径80キロ以内はみんな避難しろって言ったんだ」とか。
 ホントは、ガン患者が一人も出ないのが望ましいんです。半径80キロ以内はみんな避難するというのがムダだったという結果に終わるのが望ましいんです。
 デマ男になることを恐れては、預言者になれない。まったく預言者ってつらい仕事ですよね。世界の果てまで逃げたくなるわ。

[880] 箴言28章、シラ書44章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/15(木) 10:00:27 ここから閲覧

●箴言28章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=pro&chapter=28&mode=0
 ここは個別にいろいろ面白いことわざがありますが全部略して次の話。
 8節。「利息と高利とによってその富をます者は、貧しい者を恵む者のために、それをたくわえる」。暴利をむさぼったって結局その財産は別の人に渡っちゃうよ、だから暴利をむさぼるなってことだと思いますが、逆に「世のため人のためにお金もうけをすることは吉」ととってもいいと思います。もうけることは罪じゃありません。
 それよりなにより、冒頭の「利息と高利」っていうの、私がレビ25:36でひっかかってた「利子も利息も」じゃありませんか! [849]参照。

מַרְבֶּה הֹונֹו בְּנֶשֶׁךְ [וּבְתַרְבִּית כ] (וְתַרְבִּית ק) לְחֹונֵן דַּלִּים יִקְבְּצֶנּוּ׃

ですから、レビ記で「利子」と訳していたבנשをこちらでは「利息」と、レビ記で「利息」と訳していたבתרביתをこちらでは「高利」と訳しています。こちらのほうがわかりやすいですね。
 新共同訳の引照つき聖書でレビ25:36を見ても、箴言のこの箇所への引照が入ってない。逆に箴28:8を見ると、レビ記への引照が記載されてるのよ。知ってるんならレビ記のほうにもこの引照を記載してよ。まったくいじわるね。
 聖書の翻訳って多くの人が分担してやるわけですけど、レビ記と箴言だったらまず同じ人がやることはないでしょうね。訳語の統一がなかなかはかれない。でも適切な引照があればなんとかなるわけです。
 ウェストミンスター信仰基準の第1章9項にいわく、

聖書解釈の無謬の規準は、聖書自身である。従って、どの聖句の(多様ではなくて、ひとつである)真の完全な意味について疑問のある場合も、もっと明らかに語る他の個所によって研究し、知らなければならない。二ペト1:20-21、{act15:15-16}
The infallible rule of interpretation of Scripture is the Scripture itself: and therefore, when there is a question about the true and full sense of any Scripture (which is not manifold, but one), it must be searched and known by other places that speak more clearly.

というわけで、聖書のわかんないところは聖書で調べるっていうのが鉄則、だから引照って大事なんですよね。なんでも中国にも「経を以て経を解く」という言葉があるらしく、経書の注はできるだけ同じ書物の他の箇所から取る、どうかすると文体までその書物のものに似せるっていうのが、エレガントな注の書き方らしいです。

●シラ書44章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=44&mode=0
 ここからしばらく、イスラエル史のおさらいになります。44章はエノク~ヤコブ。創世記を思い出しながら読みましょう。

[879] 詩編117-118編 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/14(水) 09:49:44 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&bible1=bhs&book=psa&chapter=118&mode=0&direction=0
 117編はあっけなく終わってしまいますね。
 その117編2節に出てくる言葉をちょっと変形した「そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」というのがリフレインされているのが118編。詩編の各詩の区切りなんてけっこういいかげんですから(実は先週の114と115はヴルガタやLXXだと一つ(113)で、逆に116が114と115に分割されるという感じです)、まとめて一つと考えてもいいかもしれません。
 ヘブライ語だと
כִּי לְעֹולָם חַסְדֹּו
キー・レオラム・ハスドー
という感じになります。最初のキーは接続詞として「なぜなら」とか、引用の「~と」とか、また「まことに」みたいにも使います。私は引用の「と」だと思いますけど、Geseniusはbecause(なぜなら)の意味にとってますね(p.392)。KJVはbecauseだしRSVはforだし、英語国民はそうとる傾向があるのかしら。
 新共同訳の文体はあんまり朗読にふさわしくないと悪評ふんぷんで、日本聖書協会は「標準訳」なんていう新しい訳の作業に入ったみたいですけど、ここを「慈しみはとこしえに」と簡潔に訳してます。結局キーの解釈を投げたんではないかと思うんですけど、朗読CDで聞いてると、これはこれでとってもきびきびしてていいです。口語訳の中では最高じゃないかしら。念のためいろいろ比較してみます。

口語訳:そのいつくしみはとこしえに絶えることがない
文語訳:そのあはれみはとこしへにたゆることなしと
新改訳:「主の恵みはとこしえまで」と。
新世界:「その愛ある親切は定めのない時にまで及ぶからである」と。
フラ:ヤーウェのいつくしみはとこしえにきわまりない。
岩波:まことに、かれの恵みはとこしえに
関根:その憐れみは永遠につづくと。
バルバロ:“その愛は永遠”(新しいほうだと最後に「と」がつく)
尾山:主の愛は永遠に続く
光明社:その御憐憫(おんあわれみ)の世々に存することを
正教:其(その)憐(あはれみ)は世世にあればなり

一つ一つ口に出してみてください。いかに新共同訳の「いつくしみはとこしえに」が口調がいいか。5・5っていうリズムがきいてますね。こんなこともあるんですね。
詩編はとくに、朗読したときの美しさを追求して訳してほしいわ。

[878] 歴代誌下11-15章、シラ書43章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/13(火) 04:25:12 ここから閲覧

●歴代誌下11-15章
 王国の南北分裂後の1-3代目、レハベアム、アビヤム、アサの治世の話です。
 [787]の「南北の王名を覚える歌」では4番の

南はユダ族、ベニヤミン
治める王様レハベアム
アビヤム、アサ、ヨシャパテと経て
北と同名ヨラム立つ

ですね。なんでいきなり4番かというと、1-3番は北の王様だからです。歴代誌は北をすっかりシカトしてますからね。
 [787]では「ユダ族、エフライム」なんて書いてますが大間違いです。エフライムは北で、ユダが南の代表ならエフライムが北の代表部族ですね。
 北の滅亡後は十部族は消滅し、実質的にユダ族がイスラエルの民全体になってしまったので、以後は「ユダヤ人」がイスラエルの民全体を表すようにもなったんですが、ベニヤミンも小さいながら一応存在します。パウロがそうですね。
http://www.logos-ministries.org/old_b/2chr11-13.html
を読むと、パウロがベニヤミンを誇りにしてるのは、ユダ族=イエス様で、ユダ族につきしたがったベニヤミン族というところに「イエス様につき従うこの私」という考えがあるからだ、みたいなことを書いてますが、フィリ3(上のページ2章って書いてますが3章の間違い)見てもそんなこと書いてないじゃん。単に自分の出自をいってるだけじゃん。
 もう一つ上のページのおバカな点。歴代誌を読めば「失われた十部族」というのが根拠がないなんて書いてますが、その根拠は十部族の人たちもごく一部は南にやってきたってことらしい。あのー、部族が失われるって、人間が消滅することじゃありません。部族としてのアイデンティティが消滅することなんですけど。私だって先日、オバデヤのところでは[874]「エドム人なんて今はいない」なんて書きましたが、もちろん昔エドム人だった人たちの子孫は、あのあたりのあちこちにうじゃうじゃいることでしょう。歴史のある時期にエドム人がいっせいにこの世から消えたなんてことじゃないんです。

 さて歴代誌下14-15章では南3代目のアサの話。宗教浄化をして国が平穏だったなんて書いてますが、あれれれ、王上15:16には、戦争が絶えなかったなんて書いてますわよ。どっちが正しいんでしょうね。普通の人は先に列王記を読んじゃいますから、「歴代誌がウソ」になるんでしょうけど、ひょうとしたら列王記のほうがウソだったのかもしれません。
 でも歴代誌のほうが旗色が悪いのは、歴代誌は基本的に「いいことをした王様の治世は平和」という虚構をできる限り貫き通そうとしている点。ソロモンはいいことをしたので平和って言ってますが、いろんな悪政や反乱の話は書いてない。南北分裂の原因はソロモンの政治に民が不満だったからでしょ? でも歴代誌は悪い王様レハベアムに責任を全部なすりつける。こういう点があるから、歴代誌は信用がおけないんですよね。

●シラ書43章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=43&mode=0
 自然の造化の妙に神様の姿を見るというのは、昔からよくある手ながら、いちばん簡単に神様を実感できる方法です。『ツリー・オブ・ライフ』でも途中長々とそういうシーンがあります。私なんか5回も見ちゃった。
 ちなみに、『ツリー・オブ・ライフ』がよくわからなかったという人は、次のページが一番するどい読みをしているのでご紹介します。ばりばりネタばれしてますのでご注意を。
http://movieandtv.blog85.fc2.com/blog-entry-264.html

[877] 民数記29-32章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/12(月) 10:30:02 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=num&chapter=29&mode=0
 29章は新年祭の話。[784]で書いたように、ユダヤ暦の新年は7月から始まるんです。
 30章は誓いの話。似たような話がレビ27申23にもありますが、実際にこういう食べ物断ちみたいなことを伴う誓いっていうのがどの程度行われていたのかよくわかりません。実は聖書にも具体例がないんですね。唯一あるのが例の士11:30-40。エフタの娘の話ですよ。私が旧約聖書中で一番ふんがいしているあれです。お父さんがバカな誓いをたてるもんだから娘が処女のまま死ななきゃいけなかった。ヤハウェもヤハウェ、お前そんなに処女がいいのかっていうあの話です。こうしてみると誓いっていうのはしょーもないですね。イエス様の言うとおり(マタ5:34)、いっさい誓うな。ミ・オモーサイ・オーロス、Do not swear at all.ですわ。なお、昔、山本七平さんの宣誓論争っていうのがありましたが、この件については、
http://www.babelbible.net/lang/lang.cgi?lang=en&doc=en_swear&mode=frame&imode=0
をごらんください。

 さて、ここからがまた民数記らしいキナ臭い話です。
 31章。ミデヤン人と戦って勝利、大虐殺をします。ここでいうミデヤン人とは25章でいうモアブ人のことで、例のハニートラップです。イスラエルの民はミデヤン娘の色香にはまって神様の怒りにふれて24000人も死んじゃった、その復讐というわけで、子どもだろうと容赦はしません。男は殺し、女も非処女は殺す。ただし処女とはこれからエッチをするので生かしておく。モーセもえげつないですね。

 でも、そんなに処女っていいのかしら。私、はじめてのとき、相手がヘタクソだったんでなかなか入らず苦労したんですけど。最後にはじれったくなって自分から相手の上に乗っかって騎乗位でやっと入りました。私らしい処女喪失でしたが、おかげで相手からは、お前処女だって言ってたのウソだろう、血も出てないじゃないかと言われる始末。そうです。世が世なら私は処女の証拠を出せずに石打ち刑になる身(申22)なの。私みたいな魔女は聖書に殺されちゃうのよ。そんなわけで、聖書で処女論議が出てくるたびに私はむかむかします。
 ついでながら源氏物語で、光源氏が正妻の葵の上と最初なかなかうちとけられなかったっていうの、あれたぶん、セックスがうまくいかなかったってことの婉曲表現なんじゃないかしら。源氏もさまざまな女性と、特に六条御息所からの性のてほどきをうけてやっと葵の上を愛せるようになって夕霧を産んだってことじゃないかしら。男も女も、はじめてのセックスは、経験豊富な人からてほどきを受けるのがその後幸せになる気がします。
 エロチャンネルのパラダイスTVでやってる「処女喪失」シリーズ、処女の素人さんが出演の応募して、経験豊富な男優さんに処女を卒業させてもらえるという番組ですけど、女の子たちがみんな本当に幸せそうな表情してて「よかったね」ってこちらも幸せな気分になれる番組です。私もああいう処女喪失をしたかったです。

 で、32章。こんどはルベン(レウベン)族とガド族がうじゃうじゃ言ってきます。家畜も多いし、ここに定住しようよ。もう約束の地なんかいいよ、というわけですね。
 こういうところ、福音派系の解説を見ると、教会でみんなで一つのことをやろうとしているときに数人のものが反逆したり挫折したりすると全体の一致を乱して教会の成長を止めるっていうんですけど、私はそういう読み方をしたくないです。人にはそれぞれ事情があるんで、途中であきらめて目標を過小修正するってことはよくあること。そういう弱い人の側にたってくれるイエス様の愛が、モーセにはちっともないのよね。

[876] ヘブ1-4章、シラ42章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/11(日) 06:14:26 ここから閲覧

●ヘブ1-4章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=heb&chapter=1&mode=0
 ヘブライ人への手紙。著者は不明。伝統的にはパウロとも言われますが、早くから疑いも多く寄せられています。だいたいパウロだったら手紙の冒頭や最後やその他あちこちに自分の名前をちりばめるはずですけど、この手紙には一つも名前が出て来ません。だからこそ聖書無謬説の方々は、今までのニセ・パウロの手紙については「パウロが書いたなんてウソだ」と言うと怒るのですが、これについては怒りません。そういうふうに言ったとしても聖書本文に間違いが出てくるわけじゃありませんから。
 題名のとおり、ヘブライ人つまりユダヤ人にイエスこそがキリストであることを説明するために、旧約聖書のあちこちを引用しながら説明した手紙です。福音書でいえばマタイみたいな感じ。4つの福音書のなかでマタイが一番読みやすいと思う人は、この手紙も読みやすいかもしれません。

 とはいえ、冒頭はなんか難しいですね。しかも4章ぶんもわりあてられているので大変。大ざっぱには、イエス様は神の御子であり、いままでの預言者や御使いよりもえらく、もちろんモーセよりもえらい、私たちを救う大祭司であるってことなんですけど、ここでは話を第4章にしぼります。
 著者は私たちが救われること、神の国に入ることを「神の安息に入る」と言ってます。でもこの約束は、私たちが悪いことをすると反故にされてしまう可能性があります。3章に書いてあるように、そして月曜日に民数記を読んできたように、イスラエルの民は砂漠の行軍が大変だ大変だとぶつぶつ言って反乱を起こしたりしたので、結局エジプトを出発した第一世代はヨシュアなどの例外を除いてみんな約束の地に入れなかった。
 では、神の安息に入れないような悪いことって何かというと、4章によれば、それは安息日を破ることらしい。ポイントはヘブ4:4-5ですが、前半の「7日目に休んだ」はもちろん創2:2、また出20:11です。後半の「彼らを安息に入らせない」は、またここでなんて書いてますけど全然違うところ、詩95:11です。この人にとっては旧約聖書に書いてあれば全部同じところなのかもしれませんが、もともとは、エジプトを脱出したイスラエルの民が四十年間さまよったあげく、約束の地に入れなかった話です。それを安息日と結びつけるのもずいぶん強引ですが、いずれにせよ著者は大まじめにこう主張しているわけです。
 神様が休んだ日に休まないようなやつは、最終的な神様の休み=救いにあずかれないぞ、というわけですね。ユダヤ人が、殺すなかれみたいな重要な十戒を平気でやぶるのに、安息日みたいなどーでもよさそーなものを守ろうとする意味が、なんとなくわかってきました。

●シラ書42章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=42&mode=0
 前章と反対に、恥じてはいけない、やることをためらってはいけない、積極的にやりなさいという話。いろいろ面白いことが書かれてますけど、最後には言いたい放題、14節「徳のある女より悪い男のほうがましだ。女は恥辱と不評をもたらす」みたいに女を悪者にするのはなんだかなぁ。
 で、15節以降はシラ書のあらたなステージに入り、主の作った自然や過去のイスラエルの歴史を回想しながら主の偉大さをたたえるという内容に入っていきます。

[875] 使徒1-2章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/10(土) 07:58:12 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=act&chapter=1&mode=0
 土曜日は福音書を読んできましたが、今日からは使徒行伝。聖書によっては「使徒のはたらき」「使徒言行録」「初代教会」など変わったタイトルをつけています。
 著者はルカ。冒頭にあるように、ルカ福音書の第二巻というわけです。ルカ自身はこの2巻の著作を何とも呼んでいません。ということはルカ福音書を「福音書」なんて一度も呼んでいませんし、使徒行伝を「使徒なんたら」とも呼んでいないわけです。このことは田川先生がいろいろ言ってます。特に今週やっと出た使徒行伝では(p.679)、使徒行伝の著者が一度もパウロのことを「使徒」と呼んでない、呼ぶとしても例外的にバルナバと列挙して呼んでいるだけだ使14:4,14ということを指摘しています。
 いずれにせよイエス様の言行については情報源が4つもあったのですが、使徒たちのことは、書簡の一部にちらちらと出てくることを丹念に読むというのもありますが、基本的に使徒行伝を読むしかありません。

 さて、復活したイエス様はしばらく地上に滞在していたのですが、40日めに天にのぼっていってしまいます。ウルトラマンの3分間よりははるかに長いとはいえ、この地上は、一度死んだ人にとってはよっぽど住みにくいのでしょう。今でも教会ではこの日を祝いますが、木曜日になるためあんまりはでなことはしません。ここから後にいうペンテコステまでは親分がいないわけでして、弟子たちはさぞや不安だったことでしょう。カトリックではこの9泊10日間は連夜のお祈りをするらしいです。
 そんな中で欠けた12人めの弟子を選任。しかし、使1:18のペテロの発言によれば、ユダはずいぶん悲惨な死に方をしたようですね。そういえばルカ福音書ではユダの最期の話は書かれておりませんでした。あとはマタ27:3-5によれば首吊りらしいんで、かなり矛盾してますね。たった数日しかないのに、もうこうやって話には尾ひれがついてしまうようです。
 で、第2章になるとペンテコステ。弟子たちに聖霊が降臨して、いろんな言語をしゃべりはじめます。その画像は
http://mmbox.seesaa.net/article/109686664.html
だとかわいいんですけど、リアルに考えたらべろべろって汚そうですね。日本人は言語活動の象徴を「口」といいますが、あちらさんは「舌」ですからね。
 で、このいろんな言語、地名のようにも読めますが、文脈的には言語リストですね。当時の世界の言語一覧表みたいになってるんですが、ユダヤというのははあるのに、肝心のギリシア語がないっていう話を加藤隆さんが指摘しています。そのくらい、エルサレムではギリシア語のほうが当然で、むしろヘブライ語・アラム語のほうが珍しかった(ガリラヤ出身の弟子たちはなまりがひどくて標準的なことばがしゃべれなかったという意味もあると思います)ってことですね。
 さあて、これで弟子たちは力を得て宣教を始めるのですが、2章の最後によれば、当初は原始共産制。もちものは全部共有、必要に応じて分け与えたようです。財産全部出せなんてこれはカルトですねぇ。もっともこの制度はすぐに崩壊、使徒行伝の中でも少しずつ変化していきます。こういう教会の経済体制に着目しながら読むというのも面白いものです(これも加藤隆先生の視点)

[874] オバデヤ書、シラ書41章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/09(金) 07:40:59 ここから閲覧

●オバデヤ書
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=oba&chapter=1&mode=0
 旧約聖書中一番短い書。たった1章。たった21節しかありません。
 先日の日曜日は新約聖書中で一番短いフィレモンの手紙を読みました。私たちは、こんなに短いものが聖書として採録されたってことは、山椒は小粒でもぴりりと辛いみたいに、なにかすばらしいものが凝縮されているんだろうって思うわけですけど、見事に裏切られてしまいました。奴隷解放みたいに猛烈に拡大解釈しないと、何これみたいな内容でしたよね。
 今回のオバデヤ書もまさにそう。
 時代は諸説あります。新聖書注解は、エルサレムが攻撃されていたときにエドムが敵対していた時期という手がかりから、南5代目ヨラム王(849-842)のころだろうということにしています。
 で、今も見たように、イスラエルの民の宿敵エドム人に対する預言がオバデヤ書。悪いことをしたエドム人が滅びて、イスラエルの捕囚の民が解放されて王国が栄えるという話です。
 でも、エドム人なんて今はいないですし、そんな昔の民が滅びる話なんか読んでもおもしろくありません。拡大解釈したところで「悪い奴は滅びる」というような話でしかありませんからね。
 旧約聖書がつまらないときは、引照つき聖書で読んで、新約のどこで参照されているかを調べながら読むという手がありますけど、オバデヤ書はあまりにつまらなすぎて、新約でもいっさい参照されていません。
 しかたがないので、旧約聖書の他の部分との関係で読んでみたところで……
 エドム人というのはエサウの子孫ということになっています。エサウというのは創世記25章で出てきましたね。おなかがすくあまりヤコブに赤い豆スープをねだって長子権を放棄しちゃう。でもヤコブだってその後、汚い手を使って父イサクから祝福を奪っちゃうわけですから、どっちもどっちじゃん。
 エドムの中心都市はテマン。テマンといえばヨブ記のテマン人エリファズ、第一の友人として出てきました。あの人もエドム人だったわけですね。
 ……うーむ。つまらないわ。
 まあ、聖書の記述の意味がわからなかったり、反感を抱いたり、つまらないと思ったときに、一番いいのは「ほうっておく」ことです。今はつまらなくても、将来ひょっとしたら面白く読めるときが来るかもしれません。そうなるまではヘンな解釈をせずに正直に「つまらないや」と思っておけばいいんです。

●シラ書41章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=41&mode=0
 後半は次章とセットで「恥じよ」シリーズ。こういうことはやめましょうという話がいっぱい続いてます。
 個人的には「父母の前での不倫を恥じよ」がぎくっときます。いえ、私のエロぶりが父母にばれたということはないんですが、以前申しましたかしら、私、学生時代につきあっていた人と卒業とほぼ同時に、父親の反対をおしきって結婚しまして(もうこのときは母は死んでおりました)、すぐ離婚しちゃったんですね。別にこのこと自体は不倫じゃないんですけど、それまでも憎み続けていた父と、以来音信不通ですから。私にも後ろめたさがあるのかもしれません。

[873] Re:箴言26-27章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/08(木) 19:59:24 ここから閲覧

違ったわ。

Davidson(p.248)をよく見たら、 יָחַד(最初のほう)はKal動詞つまり基本動詞で、これだとto be sharp、sharpened、つまり基本形で受身になり、יַחַד(後のほう)がヒフィル体でto sharpen、つまり能動体。

だから前半が受動、後半が能動っていうのがいいってことですね。
すると合格は岩波と新世界というわけですか。

[872] 箴言26-27章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/08(木) 11:20:24 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=pro&chapter=26&mode=0
 雑多なことわざが並んでいるところはまとめようがないので、いくつか気に入ったものをとりあげるしかありません。今回は思い切って一つにしぼります。

 箴27:17 「鉄は鉄をとぐ、そのように人はその友の顔をとぐ。」(口語訳)

 ケンカなのか切磋琢磨なのか、いずれにせよそういうことですよね。
 で、なにげなく新改訳を見ると、

 鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。

 あれれ、受身になってるわ。どっちが正しいの? というわけで、今日はこの点にしぼります。
 まずはいろいろデータを並べておきます。

 BHS:בַּרְזֶל בְּבַרְזֶל יָחַד וְאִישׁ יַחַד פְּנֵי־רֵעֵהוּ׃
 文語:鐵《てつ》は鐵《てつ》をとぐ 斯《かく》のごとくその友《とも》の面《かほ》を研《とぐ》なり
 フラ:鉄は鉄を研ぎ、人は友の心を磨く。(注:「心」は文字どおりには「顔」。教育を与える方法は友人と共に切磋琢磨することである。箴13:20参照)
 新共同:鉄は鉄をもって研磨する。人はその友によって研磨される。
 岩波:鉄は鉄によって磨かれる。人はその友の顔を磨く。(注:「磨く」と訳した二つの語は、マソラ本文の母音符合を変更した結果。「切磋琢磨」の意味に解した)
 関根:鉄が鉄を鋭くするように、人はその友の機智を鋭くする。(注:機智は原文「顔」)
 新世界:鉄はまさしく鉄によって研がれる。同じように,ひとりの人が他の人の顔を研ぐ。
 リビング:鉄で鉄を打つと火花が散るように、友だち同士の熱のこもった議論は、互いの刺激となります。
 KJV:Iron sharpeneth iron; so a man sharpeneth the countenance of his friend.
 RSV:Iron sharpens iron, and one man sharpens another.

 こうして見ると、顔をどう意訳するかというポイントもあるようですが(ちなみにKJVのcountenanceは「顔色、顔つき」)、それも無視して受身かどうかの話にします。岩波の「マソラ本文の母音記号を変更」なんてビビっときますものね。でも、そしたらちゃんと解説してほしいんだけど。訳者の勝村弘也さん。

 問題となっている動詞は、יָחַד(ヤハド)です。2番目に出てくるほうは目をよくこらして見るとיַחַד。これは最初のほうが休止形という形で、句読点が来たために母音が変化しているんです。テキストによってはיֳחַדとなっていることもあります。そっちのほうが正しいかもしれません。読み方もたいした違いはありません。
 で、יַחַדというのは、たまたま「みんなこぞって」とか「結合」という副詞として使われる名詞とまったく同形ですが、חָדַד(ハダド)のヒフィル体・未完了・3人称・単数・男性形で、「鋭くする」という意味をもった動詞です。ヒフィル体というのは、PaQaR(P,Q,Rが子音)という基本形動詞に対して、hiPQiyRという形をとる派生動詞です。
 未完了・3人称・単数・男性形ではyaPQiyRつまりヤフィールみたいな感じになりますが、今回の動詞はひとくせもふたくせもあるイヤなもの。第一子音がחつまり喉音のものはくせのある変化をし、さらに第二子音と第三子音が同じというのも悪質な変化をします。ここらへんになると簡単な文法書だと割愛されてたりします。私もうまく説明できません。Davidson(p.307)を信頼しましょう。
 この分析が正しければ、これを受身に訳すのはダメで、能動で訳さなきゃダメです。
 岩波や新世界が最初のほうを受身にしているのは、 בְּבַרְזֶל(ベ・ヴァレゼル)が「鉄によって」「鉄を用いて」だからなんでしょう。
 いずれにせよ、両方能動体にするか、前半受身・後半能動体にするかというところですね。

[871] 詩編114-116編、シラ書40章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/07(水) 20:16:38 ここから閲覧

●詩編114-116編
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=psa&chapter=114&mode=0
 114編。口語訳だとわかりにくいですが、ヨルダンというのはヨルダン川。その流れが退いたというヨシュア記での奇跡の話。海が逃げたほうは例の出エジプト記の話です。山や小山(他の訳では丘)が踊ったというのは契約をもらったときの地震の話(出19:18)です。神はわれらに契約を与え、おどろくべき奇跡をおこなってくださるという話です。
 115編は信者には大事かもしれませんがつまらない詩。偶像とわれらの神とはどう違うかという話です。偶像は人間が金属で作ったもので口があっても語れない…なんて陳腐な批判です。昔の偶像崇拝は本当にそういうくだらないものだったかもしれませんが、時代がたって人々は、偶像は神様のような目に見えないものを見えるようにするかりそめのシンボルにすぎないという理屈を編み出しましたので、いまやキリスト教でも平気で偶像使ってます。
 116編は冒頭2節を見ると神様への信頼を高らかにうたった詩なのかと思いますが、メインテーマは後から出てくるかもしれませんので注意です。どうもこの人は死を目前にして、神様に「救って下さい」と言っているらしい。私はいまわのきわにこんな祈りを祈れるかしら。

●シラ書40章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=40&mode=0
 後半、AもBもいいんだけど、もっといいのはCだ、というリフレイン。19節では名誉より妻だと言ってます。わかった? ダーリン?

[870] 歴代誌下6-10章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/06(火) 06:10:52 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=2ch&chapter=6&mode=0
 ソロモンの治世の続き。神殿が完成し、諸外国からの訪問や貢物も多く、王国は繁栄します。中でもシバの女王の訪問は有名で、これは列王記にも出てきました。
 10章からはレハベアム王の話。この時代にイスラエルは南北に分裂、北はヤラベアムが即位します。このあたりの話が12章まで続くので、次回まわしにします。
 今回のところは、外国との交流にともなうソロモンの偶像崇拝許容や大岡裁きの話がないということは、前回言ったとおり、あとは基本的に列王記上と同じです。6章のお祈りは基本的に列王記上8章12節以下の祈りと同じですからね。その意味ではつまらないところかもしれません。

[869] 民数記25-28章、シラ書39章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/05(月) 14:23:12 ここから閲覧

●民数記25-28章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=num&chapter=25&mode=0
 占い師を使ってイスラエルを弱体化しようとしたモアブ人たちの試みは失敗に終わりますが、そこはそれ、押してもだめならひいてみな、硬派でだめなら軟派です。女スパイが相手を誘惑してセックスして弱みを握って落とすというハニートラップは昔から有効な手段です。
 そんなわけでイスラエルの男はまんまとモアブの女の色香にはまってしまいました。
 でも考えてみたらルツだってモアブ人じゃありませんか。ルツはダビデのおばあさんですよ。もう少しモアブ人とは仲良くしなきゃいけないんじゃありませんの?
 おれの奥さんはモアブ人だ、友達もモアブ人だってことになると、もうモアブとは戦争できない。戦争をなくす一番いい方法は、その国の人と友達になったり恋人になったり結婚したりすることです。昔の日本人はそういう関係が少なかったからどんどん他国と戦ったけど、いまじゃ、おれの奥さんは韓国人だ、中国人だなんて、そこらにごろごろいますよね。そうなったらもう韓国や中国とも戦えなくなっちゃうでしょ? ヤハウェさんはそういうふうには考えないんでしょうかね。まったくケツの穴の小さい神様だわ。
 さて、ケツの穴の小さいヤハウェ様の怒りで疫病が発生して24000人も死んでしまったのでまた人口調査。お家断絶になったところも多く、女でも所有地を相続させよという新たな律法ができます。
 28章からはレビ記23章にも出てきた祭の話。[784]もごらんください。過越/除酵/七週祭の話で今日のところはおしまい。

●シラ書39章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=39&mode=0
 前章の最後のほうで単純労働者の話が出てきたので、それと対比して、律法の研究に心をこめる人の生きかたをたたえています。そして、どんなつまらないものでも必ず目的があって創造されたのだと、自然のさまざまなものをほめたたえます。

[868] RSVのサポート 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/04(日) 20:39:16 ここから閲覧

当ばべるばいぶるでRSVのデータの閲覧とダウンロードを開始しました。RSVは日本では著作権が切れていますが、外国では切れてない国が多く、いまいちデータが多くありません。当サイトのものが一番完全だと思います。えへん。

[867] フィレモンへの手紙 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/04(日) 10:11:38 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=phm&chapter=1&mode=0
 新約聖書中の一番短い本。
 著者はパウロ。こんどはホンモノ。というより、ホンモノのパウロの書簡はこれでもうおしまいです。
 聖書の中で短い本といえば新約の2ヨハ、3ヨハとか、旧約だとオバデヤとか。
 短いのに聖典に入ったってことはとっても重要だという気がするんですが、聖書に限ってはそうではなく、むしろ、なんでこんなものが聖書に入ったの?っていうのが多いです。
 フィレモンに関しては賛否両論。
 内容は、フィレモンのところから逃亡してきた奴隷のオネシモをパウロがかわいがっていたんですが、獄中にいるパウロはもはやオネシモを使ってあげられず、主人のフィレモンに送還する。ついては、私だと思って大事にしてやれ、なんか悪いことをしたら責任は私がとる、と弁護します。
 この手紙に奴隷解放の思想を読み取るか、単に「お前、奴隷を虐待してないか? こいつをもっと大事にしてやれ」というだけの手紙と取るか。そのあたりはそれぞれでしょうけど、私としては、パウロの意図はともあれ(たぶん馬鹿パウロのことだから奴隷解放なんていう意図はさらさらなく、単に個人的な願いでしょうし、8節じゃ「キリストの名において命令したっていいんだけどさ」とずいぶん尊大な言い方までする困ったじいさんですけど)、現代のわれわれにとって意味のある読み方、部下を大切にしなさいという読み方をしてもいいと思います。でなきゃあまりにつまらない手紙じゃありませんか。

[866] ヨハネ19-21章、シラ書38章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/03(土) 06:04:01 ここから閲覧

●ヨハネ19-21章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=joh&chapter=19&mode=0
 ヨハネ伝は今日でおしまいです。
 何度も言いますが、ヨハネではイエスの死は過越の日の前日です。19章では14、31、42節でしつこくそう書いています。ですから最後の晩餐の食事も、ヨハネはパンとかぶどう酒とか何を食べたかが書かれていませんでした(12章)が、もしパンがあったとすればイーストが入っていてもよくなります。東方教会ではこれを根拠に、聖餐でのパンにイースト入りのものを使います。
 さて、ヨハネはイエス様の行状をネタに自分の言いたいことを勝手に言うという印象がありましたが、イエス様が復活してからの話はヨハネが一番長いです。マルコなんかもともとは墓石がころがっててイエス様の遺体が行方不明になっていたということしか書かれておらず、その後の話は加筆でした。マタイとルカもあんまりリアリティの感じられない話がちょこっと載ってるだけ。ところがヨハネは2章ぶん使っていろいろ書いており、しかも、今までの話にない詳しさとリアリティがあったりします。ヨハネにとっては、復活してからのイエス様を描くのが重大な関心事だったのでしょう。
 中でも有名なのはトマスがイエス様の手のクギのあとやわき腹の傷をみないと信じないといって、それを確認した話。
 21章ではペテロに対してイエス様が「私を愛するか」という質問を3度もなさっています。しかも原文で読むとその動詞が違う。
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&bible1=nalxx&book=joh&chapter=21&mode=0&direction=0
1番目と2番目がアガパオー、3番目がフィレオーです。よく、キリスト教の愛はアガペーだっていうアガペーに由来する動詞を使ってたのに、3番目だけは友愛を意味する動詞になっちゃってるんで、いろいろヘンな解釈をする人もいるようです。が、ヨハネにとってはたぶんどちらも違いはなく、単に、3回同じ動詞を使うと単調だからということなんじゃないでしょうかね。こういう繰り返しのとき、まるきり同じ語を使うのが好きな民族もあれば(インドはそうみたい)、少しずつ違う語を使うのが好きな民族もある。現代の英語話者は同じ語を使うのを嫌うので、シソーラスなんかを使って少しずつ違う語を使います。そういう発想なんじゃないかしら。
 一番最後、イエス様のなさったことを全部書きとめたら世界もそれをおさめきれないという話。生きてる間だけの話だったらそんなのウソでしょうが、復活して今もいろんなところで人知れずいろんなことをなさっているのだとすれば、そうかもしれません。ひょっとしたらそういう意味で書いてるんじゃないかしら。文法的には「なさった」にあたるεποιησενはアオリスト(過去)ですから無理がありますけど。

●シラ書38章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=38&mode=0
 最初のほうはお医者さんの話。医者にもちゃんとかかれよって。
 当たり前だと思うかもしれませんけど、信仰に熱心だと医者にかからずに信仰で治そうとする人がいます。昔は、病気が罪の結果だから病気が治ることが罪が赦されたって発想ありますからね。福音書にもそんな話がうじゃうじゃ出てきて私はなんだかなって思うんですけどね。
 信仰してたって病気にはなるんだから医者にかかればいいんです。
 でもその逆に、現代の医療はあまりに宗教的な要素を無視してますけど、なだいなださん『神、この人間的なもの』とか、一連の宗教に関する著作を見てると、実は宗教と医療って深い所でつながってるんで、それを無視しちゃいけないんですけどね。
 だから多くの宗教が病院もやってる。もちろんその病院に入ったからって信仰を強要されることはありませんけど、やっぱり宗教と医療は切っても切れない関係のはずなんですね。
 ただ、日本ではそれがそうじゃない。たとえば創価学会なんかあれだけの大きな教団で、政党まで持ってるのに、病院を一つももってない。そこらへんまだまだ「病気にかかるのは信仰が足りないから」という悪い意味で信仰と医療を混同してるような気がします。いったん、信仰は信仰、医療は医療と切り離した上で、やっぱり切り離せないっていうんならいいんですけどね。

[865] アモス書5-9章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/02(金) 08:47:32 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=amo&chapter=5&mode=0
 アモス書後半は最後の審判の預言です。まるでヨハネ黙示録そっくりの終末の光景が展開していきます。
 ところで、ヨハネ黙示録といえば苦ヨモギ。これがロシア語でチェルノブイリだというので、原発事故が起こったときにみんな終末を思い浮かべたっていうんですけど……
 実は、アモス書の今日の部分、アモ5:7アモ6:12にも出て来ます。
 ヘブライ語ではみんなלַעֲנָה(ラアナ)。黙示録はもちろんBHSの対象外ですけど、各種ヘブライ語訳ではやっぱりこう訳されてるみたいです。
 これがロシア語のいわゆるシノド聖書(聖書協会なんかでロシア語聖書として売ってるやつです)でどう訳されてるかというと、

полынь(パルイニ。ニガヨモギ)
申29:17 (オリジナルは18節) 箴5:4 エレ9:14 (オリジナルは15章) エレ23:15 哀3:15,19 黙8:11

отрава(アトラワ。毒物)
アモ5:7

горечь(ゴリチ。にがいもの)
アモ6:12

 というわけで、チェルノブイリという語はちっとも使われてないんですね。
 そもそも、チェルノブイリというのは、ホントはчернобыльник(チェルナブイリニク)みたいに、おしまいにникってつけないとヨモギの意味にならないみたいです。そもそも日本で一番使われている博友社の辞典だと載ってないわ。
 アモス書はなぜか毒とか苦味というふうに訳されていて、ヨモギですらないんですけど(公道ないし公義という抽象的なものをそれに変えるからってことだからかしら)、一般的にはヨモギ類の総称がполыньで、чернобыльникはそのうちのある品種らしいです。
 まあそれでも、一般的には、黙示録のヨモギはチェルノブイリってことで理解されてるみたいなんですけどね。
 ヨーロッパ人やユダヤ人はヨモギ食べないのかもしれませんけど、日本人には草餅のための重要な食材。日本人にとっては終末の光景もまた楽しいかもしれませんわね。

[864] 箴言25章、シラ37章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/01(木) 05:47:54 ここから閲覧

●箴言25章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=pro&chapter=25&mode=0
 ユダの王ヒゼキヤというのは、南の13代目の王様(BC715-687)。詳しくは[768]をごらんください(あんまり詳しくもないけど)。今週、民数記で読んだモーセの青銅の蛇は、その後長らく偶像崇拝の対象になっていたのですが、それをうちこわすなど、宗教浄化をしています。宗教浄化っていっても、もともと浄らかだったわけじゃありません。実際はユダヤでは昔は偶像もOK、ヤハウェさんは数ある神々のうちの一人でしかなかったんで、だんだんヤハウェさんの一神教および偶像忌避が確立していったわけです。それをいかにも、もとからそういう状態だったんだって描くのが列王記なんですね。実際にはヒゼキヤさんは、ユダヤ教をその後の偶像忌避の形に近づけていった王のうちの一人ってことなんです。そういう仕事を大々的にやるのは3代あとのヨシヤ王なんですが、その先駆者ということでしょうか。
 そんな中でこのことわざも、ソロモンのことわざという触れ込みで記録されたんでしょう。
 実際の内容は雑多なんですが、蜜に関する話が二つ出てくるのが面白い。箴25:16,27。どっちも食べすぎ注意ということですが、単に蜜の話でなく、やりすぎ注意ということになっています。

●シラ37章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=37&mode=0
 例によって、章の途中でもかまわずだんだん話題がかわっていくんですが、最初のほうの友達論は面白いです。特にシラ37:11の「めかけのことを正妻に相談するな」で始まるところが。

[863] 原発を「女」と呼んで 投稿者=真理子 掲示日=2011/08/31(水) 16:26:30 ここから閲覧

 このところ『ふしぎなキリスト教』と並んで私がTwitter上で敵意をむき出しにしてきたのが、キリスト新聞社のこの記事
http://www.kirishin.com/2011/08/201193.html
 原発を「女」と呼んで、という非常に気になる見出しを掲げておきながら、本文にはなんにも解説がなくて「詳しくは紙面で」。詳しくは紙面でったって、キリスト新聞なんか近くのコンビニで売ってるわけじゃなし、何か気になるし、そのうちだんだん腹がたってきた。
 そりゃないでしょ。何かしらヒントを書いてくれなきゃ、この見出しだけで判断するしかない。
 よく東スポがこの手を使いますよね。昔あった例では、「マイケル、妹とSEXしたいなぁと発言」のSEXの下に折り目が来るようになってて、駅の売店に並んだときには「マイケル、妹とSEX」しか見えなくなってる。買ってみたらなあんだ、という感じ。
 そういう手みたいですごくイヤ。
 あまりに頭に来たので、そのうち国立国会図書館に行ったときに調べて、もしヘンなこと書いてたら思い切りTwitterで攻撃してやろうと思ったんですが、定期購読の前に1回だけ見本紙を送ってもらう制度があるみたいなんで、それを利用して取り寄せてみました(2011/9/3号)。

 結論からいえば、やっぱり、原発を女と呼んでるのは、それ自体をとれば女性差別なんですよ。
 この記事は「雑誌を読む」というので、いろんなキリスト教系雑誌の記事の紹介。ここでとりあげられているのは、「百万人の福音」9月号。大谷心基さんという牧師が、京都のホームレスから聞いた話。顔色の悪い50代前半の男性。仲間は、こいつは悪い女にひっかかって病気をうつされた、と言う。その人がいよいよ入院した後に、実は原発で働いていたということがわかる。それで、原発を「女」と呼んで、なんです。原発で働いていたことを彼らの隠語で女と呼んでいた。
 だから、彼らの中にはやっぱり女性蔑視があるんだけど、こういう状況をふまえてはじめて、この記事は差別性のない、やりきれない現実の一つの断面をうつしとったすばらしい記事ってことになるわけです。
 紙媒体のキリスト新聞では、原発を「女」と呼んで、という見出しのすぐ隣に記事の本文が来ているので、ああそういうことかというのがわかります。しかし、記事本文を切り離してこの見出しを一人歩きさせたときに、とんでもない誤解を招くわけです。いや、誤解じゃない。形としてはこのような「女」という語の使い方はまぎれもなく女性蔑視ですから。

 だから、新聞社がWEBサイトを作るとき、記事を全部出しちゃうと紙の新聞が売れなくなるから小出しにするのはいいのよ。その「小出し」の仕方が問題なの。この記事は4つの雑誌記事を紹介して、そのうち2つぶんを見出しに書いてある。紙媒体では百万人の福音の、原発を「女」と呼んで、でも誤解はないけど、小出しにするWEBサイトでは別のものに差し替えるべきです。でなきゃこの部分だけでも全部出す。でなきゃ、最初からWEBサイトを作ることを見越して、紙媒体でも別の見出しをつけておくべきだった。
 キリスト新聞のこの号では、2面に「ホームページ作成は慎重に」なんて見出しもある。この言葉、そっくりキリスト新聞にお返しするわ。

 さあて、どうしようかしら。キリスト新聞って高いのよね。1部250円もするわ。3ヶ月3700円。今後もこういう問題記事が載るかもしれないから、批判的に購読してみようかしら。Twitterのフォロワーが必ずしも支持者とは限らず、不穏なツィートをしてないかどうか監視する意味でフォローする人だっているのと同じよ。とりあえず監視の意味で購読してみるわ。

[862] ネットの『ふしぎなキリスト教』批判に対する著者2氏の見解 投稿者=真理子 掲示日=2011/08/31(水) 07:04:24 ここから閲覧

 8/30の夜、池袋ジュンク堂で、『ふしぎなキリスト教』の著者、橋爪大三郎、大澤真幸氏のトークイベントがありました。このところこの本に関してはTwitterで間違いが多いとかなり批判がよせられており、
http://togetter.com/li/150577
アマゾンの書評でも批判がよせられています。
http://www.amazon.co.jp/%E3%81%B5%E3%81%97%E3%81%8E%E3%81%AA%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%A9%8B%E7%88%AA-%E5%A4%A7%E4%B8%89%E9%83%8E/dp/4062881004
 このことについてどう思うのか、私が行って問いただしてみようと思ったのですが、急病でダウン、かわりに私の愛する主人が聞いてきてくれました。以下は両氏の見解です。


橋爪大三郎
 ネットでの批判がたくさんあるということなのですが、私個人の一般的な立場で申し上げると、この本の中にもいろいろなタイプミスとかいい間違いとかがいくつかありました。それは第2刷、第3刷そのほかで訂正ております。今後もそういう、明確な誤りが発見されれば、機会をとらえて訂正いたします。
 次に、たくさんあると言われている誤りの種類なんですけど、もし、考え方の違い、意見の違いということをもって誤りだとおっしゃるのであれば、それは誤りにはならないのではないかと思います。意見の違いと誤りは違います。もし誤りに類するものであれば、ご指摘いただければ個別に考えるんですけど、私が見ている限り、誤りに類するものはもうあんまりないはずです。
 もうちょっと言うと、これはどういうものかというと、今までみんなが印象派の絵をかいていたところに、例えばゴッホが女の絵をかいたら、目がまがってるじゃないかとか、鼻がこんなわけないとかいう印象をお持ちの方もいるかもしれないけど、それも真実の姿です。真実の姿を伝えるために、今までの表現方法や論理と違ったものをあえてデフォルメして、デフォルメっていうのは基準があるからデフォルメっていうけど、より正しく提示していくということなんですね。
 それを楽しんでくださる方もいるかもしれないし、それを困ったことだとお考えの方もいるかもしれない。そういう問題ではないかと私は思っております。

大澤真幸
 率直にいうと私はネットをほとんど見ていません。若干は知ってます。教えてくださる方もいるので。でも体系的に研究して見てはおりません。ただ、知ってる限りでいうと、本の趣旨を勘違いなさっているんじゃないかなと思うこともあります。でもそれもちゃんと見てからでないでないと申しませんが、結論からいえばそういうことです。
 ある意味でうれしいですよ。ネットで評判にしてくださるということは。1997年でしたか、加藤典洋さんの『敗戦後論』という本が出たとき、ものすごく批判する人がいて、ぼくもそれなりに異論もあったし感動したところもあるし両方だったんですけど、ぼくが予想している以上に反論や批判がたくさんあった。加藤さんがそれで不愉快な思いをされた可能性もあるんだけど、ぼくははたから見ていてちょっとうらやましくて。
 どうしてかというと、そこまで反論するということは、よほどその人たちの琴線にふれたってことなんですよね。そうじゃなかったらぼくなんか無視しますから。そんなに熱心に反論してくるなんて、いいなって思いました。ぼくはだから加藤さんの本が出たときに、加藤さんの本ってぼくが予想しているよりもっと偉大なんだって、改めて思ったんですね。だからそうやっていろいろ(批判が)出るのはいいんじゃないですかね。ぼくの知ってる限り、重要な本はほとんどたいてい批判のほうが多いです。集中砲火的に批判されなかった本で偉大な本ってまずないです。だからそれはそれでちょっとうれしいんですが。
 ただですね、やっぱり基本は、この本に対して本当にご不満のある場合は、ご自身もちゃんとした本とか論文とかを書いて、これより説得的なものになればこんなものは退けられるに決まっているんですから、これ以上の内容を書けばいいんじゃないかと思います。そういうものが出てきたら私もそれを読んで、ああ、この本の歴史的使命は終わったんだなと思うときもあるのではないかと、そうなれば非常にうれしい、よりいっそううれしいと思います。

[861] 詩編111-113編 投稿者=真理子 掲示日=2011/08/31(水) 06:05:07 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&bible1=bhs&book=psa&chapter=111&mode=0
 今日の詩は3つとも「主をほめたたえよ」で始まります。「主をほめたたえよ」ってハレルヤです。新共同訳や新改訳だとそう訳してますが、口語訳はなぜかそう訳してませんね。
 ハレルヤって聖書にいっぱい出て来そうで、実は詩編と黙示録にしか出て来ません。新共同訳や新改訳はどちらもそう訳しているのに、口語訳は、黙示録はハレルヤと訳し、詩編はそう訳してません。旧新約の連絡がうまくできてないみたいです。
 ついでながら新世界訳ではハレルヤって訳さないんですね。旧新約とも「あなた方はヤハを賛美せよ!」です。なんででしょう?
 今日は右側にヘブライ語のBHSをつけました。111編と112編は実はいろは歌なんですね。各行の冒頭がヘブライ語の22の子音、
א
ב
ג
ד
ה
ו
ז
ח
ט
י
כ
ל
מ
נ
ס
ע
פ
צ
ק
ר
ש
ת
で始まるのです(各行つなげちゃうと右から左に流れるのでとりあえずこのままにしておきます)。
 哀歌もそうでしたね。でも哀歌みたいに22節になってると「もしや」と思いますけど、今回みたいに複数行がまとめて一つの節になってると、翻訳で読んでる限り絶対に気づきませんよね。いや、ぼけっとしてるとヘブライ語で読んでても気づかないかもしれません。いろは歌になってるところは全部そう書いてほしいですね。
 いろは歌については、前に哀歌のところで書きましたけど([672])、こういう形式にのっとるからこそ感情が強まるってことがあるようです。形式的なものは感情にとぼしく、自由な形式のものこそが自然な感情の吐露だって現代人は考えますけど、そうじゃないみたいです。
 3つとも交読文にはとられてませんけど、内容的にはこういうものこそ交読文に入れるべきじゃないでしょうか。111編の最後「主を恐れることは知恵のはじめ」って箴言にもあったような名文句もあるし、3つとも主は私たちを守り幸せにしてくれるっていう、おめでたい内容じゃありませんか。13編の最後「子を産まぬ女」ってところは私はギクっとしますけどね。早く私をお母さんにしてちょうだい。

[860] 歴代誌下1-5章、シラ書36章 投稿者=真理子 掲示日=2011/08/30(火) 07:22:48 ここから閲覧

●歴代誌下1-5章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=2ch&chapter=1&mode=0
 歴代誌は下に移り、今週と来週でソロモンの治世の話です。
 すでに見たように歴代誌は王様ばんざいで、スキャンダルは一切報じません。王上3には、政略結婚で異教の女とも結婚したとか、例のソロモン版大岡裁き(っていうかこちらが本家のはず)の遊女の争いとかがありました。王上11には偶像崇拝も許容したとか、反乱がいろいろ起きたとかありますが、そんなものは一切書きません。ダビデの計画した神殿の建設を実行にうつした話を中心に、ひたすらいい王様として描きます。今日のところはほとんどこの話しかありませんね。

●シラ書36章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=36&mode=0
 31章以来ギリシア語写本の章節がぐちゃぐちゃしていてやっと36章で正常化します。その関係で、ゲッチンゲン版LXXでは14節と15節がありません。うちのLXXはドイツ聖書協会のラーフルズ版なのでこのあたりの処理がちょっと違います。外典は底本によって章節がまちまちでなかなかうまく対応しません。
 ただ、シラ書は同じ章の中で突然内容が変わったりします。
 22節まではお祈りですが、そのあとは食べ物の話や女の話。「食べ物だったら何でもいいとはいえおいしいものとそうでないものとがある」という23節と対応して、「女はどんな男にも身を任せるがいい女とそうでない女の違いはある」っていうの、意図はわからないでもないですが、ちょっとひどくないですかね。え、お前はどんな男とも寝るじゃないかって? そんなことないわ。私にも選択権はあるのよ。

[859] うつたふvsうたふ 投稿者=真理子 掲示日=2011/08/29(月) 20:07:39 ここから閲覧

 明治訳新約、使徒まで校正おわってアップしました。
 明治訳は明治37年版を底本とし、明治14年版と異同があるときに〔37|14〕みたいな形で入力してます。具体的には明治訳を|(全角)で検索していただくといいでしょう。マタイの主の祈りが14年と37年とで違いますからね! ときどきそういう重大な翻訳の改訂があるんですけど、たいていは仮名遣いとか表記の問題。
 使徒では「訴」とか「訟」を、明治37年では「うつたふ」と読んでるのに、明治14年では「うたふ」と読んでます。言海をひくと
http://www.babelbible.net/genkai
どっちもあるみたいですね。使徒は後半でやたらこの語が出てくるのでそのたびにこういう形で入力したんでうざったくて仕方なかったです。
 じゃ福音書はというと、こっちは明治14年でも「うつたふ」とふってます。担当者が違ったのかしらね。それを明治37年では統一したんだ。
 こういうのって、誤りとして訂正しちゃってもいいんでしょうけど、誤りも一つの言語的事実だと思うと、おいそれと直せなくなります。これだけ大々的に違うものは、残しておこうと思います。

 あとは、明治37年で「船具」、明治14年で「舟具」となってて、さっそく〔船具|舟具〕としようとして、虫の知らせで明治37年の他の版を見ると「舟具」となってる。たまたま見ていた版だけ違ってたみたいです。こういうこともあるんで気が抜けないです。

[858] 民数記21-24章 投稿者=真理子 掲示日=2011/08/29(月) 06:52:00 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=num&chapter=21&mode=0
 エドム人が通行を許可してくれなかったために迂回するイスラエルの民。でもその割には、このあたりとの部族との戦いで勝ったりもしてるんですね。
 エドム人には勝ち目のなかった彼らも、モアブ人にはずいぶん脅威だったみたいです。
 そこでモアブの王バラクは、占い師バラムを呼び寄せます。こいつらを呪ってくれというわけですね。ところが神様がバラムのところにあらわれて、行っちゃいかんという。それでもバラクからぜひ来いと乞われたので向かおうとすると、ろばがなかなか動こうとしない。ろばをぶったたいているうち、神様の使いがバラムの前に現れる。ここまで来たんだから(とは書いてないけど)、どうせだからちゃんとバラムのところへ行って、彼らを呪うことなんてできませんとか言わせようってわけですね。実際、バラムはバラクの前で、イスラエルを呪うどころか祝福し、今後の周辺諸国の運命を預言して帰っていきます。
 なあんかばかばかしい話。くだらない作り話ね。もちろん神話なんて全部作り話なんだけど、もっとましな話を作りなさいよって感じです。

 でも今日の話は、一箇所、まったく読み過ごせない重大問題があるんですね。
 21章でエドムを迂回していた民がぶつぶつ言うので神様が蛇を放って民を殺し始める。あわてた民がモーセにとりなしを依頼、神様はなんと、蛇の像を鋳造して仰ぎ見させたら民は助かる、と指示し、そのとおりになります。
 何これ? これって偶像崇拝っていうもんじゃないの? 神様がじきじきに十誡破らせちゃダメじゃないの? いくつか注解見ても、神様のこの指示の問題性を誰も言わないのよね。神様が言ったから何でもいいわけ?
 実際この青銅の蛇は、その後も長くイスラエルの民の守護神になります。代下18:4を読むと、南王国のヒゼキヤ王(南13。BC715-687)の宗教浄化のときにアシェラ像なんかと一緒にうちこわされています。
 実のところは、イスラエルの民が昔から信仰していた、蛇よけの蛇の像の話を、あとから聖書に取り込んだんでしょうけど、まったくヘンな話だわ。

[857] テトス(全)、シラ書35章 投稿者=真理子 掲示日=2011/08/28(日) 07:42:54 ここから閲覧

●テトスへの手紙1-3章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=tit&chapter=1&mode=0
 1テモ、2テモ、そして今回のテトスで「牧会書簡」がおしまいです。いずれも、初期キリスト教団の運営に関する話題が主となった書簡。著者はパウロということになってますが、すべてなりすましです。
 テトスは短いので今日1日ですべて読んでしまいます。
 他の信者を指導する立場にある監督は生活をしっかりしろ、異端に注意しろ、信者にはこう応対せよ……、言ってることは今でも通用するような教えで、それだけに、人によってはとてもつまらなく思うかもしれません(わざわざ聖書に書いてなくたって誰でもこう思うしね)。ただ、当たり前のことを当たり前に言うっていうのも大事なことですからね。だって人間、当たり前のことがえてして出来なかったりするものですから。
 しかし今日のテトスは、著者の意図しなかったところでとても有名になってしまった部分がある、その意味ではトンデモ本の定義どおりのトンデモ本と言えるでしょう。トンデモ本の定義はWikipedia参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%A2%E6%9C%AC
 テト1:12-13。クレタ人はみんなうそつきだ、とクレタ人の預言者が言ってるのは正しい、というくだりです。ここがいわゆる「クレタ人のうそつき」という自己言及のパラドックスとして論理学関連の本で非常に有名になっています。
 テトスのいう預言者とは、BC600ごろのクレタ人哲学者エピメニデスのことです。だから預言者といってもユダヤ教・キリスト教関係じゃありません。昔のえらい人がこういう有名なことばを言った、程度に読みましょう。
 私たちはついつい、「絶対の真理は存在しない」とか言っちゃいます。私も「わかりやすい教えはすべてうさんくさい」とか言っちゃいますけど、それが自分自身にもふりかかってくるとパラドックスになっちゃいます。聞き手は心の中で、こいつおバカなことを言ってる、とあざ笑っていることでしょう。
 私たちは人のことしか見えず、自分のことはついつい見落としてしまうので注意、というふうに思っておきましょう。

●シラ書35章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=35&mode=0
 神様に祈るときはてぶらではいけません。ちゃんと献金をしましょう。すばらしい言葉ですね。何かというと献金献金、十分の一持ってこいっていう牧師、あちこちにいますよね。そういう牧師はマラ3:8なんかを根拠にするんですけど、もっと直接的にズバリ書いてるのがシラ書35章じゃありませんか。マラキ書なんかよりシラ書35章を全部週報に書いたらいかがですか。あ、もっともこういう牧師さんはたいていプロテスタントの単立教会とか弱小教派で、しかもこちこちの聖書無謬だったりしますから、外典なんか読ませないかもしれませんけどね。残念でした。

[856] 明治訳の入力状況 投稿者=真理子 掲示日=2011/08/27(土) 22:24:05 ここから閲覧

 今年はヘボン没後100年という記念の年なので、ヘボンさんのかかわった明治訳新約のテキスト化にとりくんでいます。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネときて、ちょっと頓挫していましたが、やっと使徒が終わりました(19章以降の校正がまだですけど)。やっと半分を越えたというところですね。なんとか年末までには全部できるかしら。
 なお、ヘボンさんの個人訳のマタイ、マルコ、ヨハネっていうのがありますが、これは別の方がテキスト化にとりくんでWikisourceにアップずみです。そのうち拝借します。

[855] ヨハネ16-18章 投稿者=真理子 掲示日=2011/08/27(土) 07:15:08 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=joh&chapter=16&mode=0
 いよいよ受難のシーンに入ります。
 受難といえば、バッハの受難曲。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと作ったらしいんですが、今残ってるのはマタイとヨハネだけ。エヴァンゲリスト(福音史家)と呼ばれるナレーター役の歌手が福音書を原則として省略したり改変したりせず歌い(せりふの部分は別の歌手がうたったりします)、要所要所でオリジナルの歌詞に基づくアリアや合唱曲が入るという構成の曲ですね。
 演奏時間はマタイがおよそ3時間、ヨハネがおよそ2時間。長い曲ですが、音楽がすばらしいので、あんまり長さは感じません。
 さて、ヨハネがどうして短いかというと、逮捕・裁判・処刑の話しかないからです。
 マタイだとその前に、香油大量ふりかけ事件とか、最後の晩餐の話があります。
 ところがヨハネでそれらを含めようとすると、12章から始めなきゃいけません。途中に大演説がありますからね。この大演説を全部マタイ受難曲ののりでうたったら、4時間半くらいかかっちゃうかしら。その大演説だって、何言ってるんだかよくわからない、ドラマ性の全然ない説教ですから、アリアもはさめない。たぶん聴衆はみんな眠っちゃうんじゃないでしょうか。
 ですからヨハネでは、香油事件も、それから晩餐の話もナシです。まあ、ヨハネの場合は何を食べたかという話がなく、足を洗うという話だったわけですけどね。
 ちなみに、当時の食事ってみんな寝ころがって食べたんです。自分の口や食べ物のすぐ隣にお隣さんの足がごろん。だから足を洗わなきゃいけなかったんですね。

 さて、今日は大演説が2章ぶん、そして逮捕・裁判の話。
 逮捕・裁判の話はマタイ、マルコ、ルカで読んだから、やっぱり大演説の内容書かなきゃいけないかしら。
 でも、私バカだから、ヨハネ先生の話がちっともわからないわ。
 この大演説って、いま読んでる旧約の箴言とか、外典のシラみたいに、ぶつぶつ区切って短い標語、警句、み教えとして壁にでも貼っておくのに便利な語句がちりばめられてるんですけど、全体としては何を言ってるかよくわかんない。
 それなら、ぶつぶつ区切って、部分的にとりあげましょうかしら。
 じゃやっぱり産みの苦しみの話かしらね。ヨハ16:20-22。私は子を産んだことはないし、将来的にも産むことはないと思うんですけど……
 産みに限らず、人間、いろんな不安や困難に立ち向かうことってあります。たとえば不始末をしでかして、怒ってる相手の家に謝りにいかなきゃいけない、とか。その時が来るまではどうしようどうしようって悩むんですけど、ええいと開き直っていくと、案外すんなりいくことも多い。そして終わったら、ビールがおいしいんです。だからイエス様も、マタイでは「明日のことで思いわずらうな」マタ6:34みたいに言ってくださるんです。これは私の最大の信条です。
 そのヨハネ版がここかしらね。苦労はあってもそれは一時的で、乗り越えれば楽しみがある。そう考えてお気楽に生きましょう。