| [ばべるばいぶる] |
このサイトを作りながら、聖書を読みながら真理子が考えたことです。
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[963] 雅歌3-4章、エズ・ラ10章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/24(木) 11:21:00 ここから閲覧 |
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●雅歌3-4章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=son&chapter=3&mode=0 やっぱり雅歌の作者は女かしら。でなければ、女のツボをよく心得た方のようですね。 第3章の1-5節。恋人を捜し求めて夜の街をさまよう女の話は、女の私にはとてもせつなくて、胸がジーンときます(うん、別のところもジーンとくるよ)。なお、6-11節はソロモンの婚礼の行列への賛歌で、全然違う話です。 ところが第4章の、男が愛する女をたたえる歌は、なんかすべて外してる気がする。 いや、私だけでなく主人にも聞いてみたんですが、やっぱりそう。 目が鳩で、髪がやぎの群れで、歯が羊の群れで、首がやぐらで、胸が鹿なんて化け物だぁ。 合格したのは、唇が赤い糸で、ほおがざくろってところ、それから舌に蜜があるとか、衣の香りの話とか(においフェチなんです)。あとは、泉ってあそこか?ですって。そうかもしれないわね。 やっぱり胸は「ごむまり」(萩原朔太郎『恋を恋する人』@月に吠える) http://www.aozora.gr.jp/cards/000067/card859.html じゃなきゃダメだそうです。(でも私、そんな胸ないけど) どうもこういう比喩の感覚っていうのは、時代や国境を越えるのが難しいみたいで、ぴんと来ないですよね。 ●エズ・ラ10章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezl&chapter=10&mode=0 話の切り方が悪いですね。 例の、三十年間たってやっと子宝に恵まれた女の話の続きです。 せっかく結婚したのに、息子はその夜に死んでしまったと、この母は嘆きます。 それに対してエズラが、そんな嘆きよりも国が滅んだ嘆きのほうが大きいと叱ると、女は消えて天使ウリエルが出てきて、いまの女の話はイスラエルの歴史の話だと解説をします。 ここで第四の幻の話はおしまい。60節(実質的に次章)からが第五の幻です。 |
[962] 詩編143-145編 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/23(水) 07:12:18 ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=psa&chapter=143&mode=0 今回の3編はどれも素直な祈りで、安心して読めますね。 ……と思ったら、143編の最後は「敵を断ち、あだをことごとく滅ぼせ」ですか。困ったわ。でもこのくらいは許してあげないと、詩編150編は9割がた不合格ですけどね。 まあ、こんなことにめくじらをたてるのは、詩編の正しい読み方じゃないんでしょう。し編のほとんどはダビデの詩ということになっている。ダビデは王様で、戦争が本職なんだから、どうしても戦争の話になってしまう。敵を滅ぼせうんぬんというのは単なる比喩であり、現代人は、仕事の上での困難を打開してください程度に読みかえればいいのでしょう。 |
[961] ネヘ10-13章、エズ・ラ9章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/22(火) 10:58:09 ここから閲覧 |
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●ネヘ10-13章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=neh&chapter=10&mode=0 エズラ記の最後は、異民族と結婚したカップルの強制離婚の話という、われわれ異民族にとってはなんとも後味の悪い話で終わりました。 じゃネヘミヤ記はというと、やっぱりそうなんですね(13章)。 しかもこんどは、ソロモンの例をひきあいに出して、なぜ異民族との結婚がいけないのかを語る。つまり、異民族の女たちは別の宗教を持ち込んできて罪を犯させるからというのですね。 特にアンモン人、モアブ人はダメだという(ネヘ13:1)。この規定自体は申23:4に書いてあり、すでに読んだところです。私が[953]で私生児の話をしたときです。私生児の件の次に書いてありました。 どうしてアンモン人とモアブ人だけ特別なのかというと、[858]に書きましたように、民数記22-23章で、バラムという占い師をやとったからだというのです。でもこの件は失敗し、バラムは逆にイスラエルを祝福してしまいます。そういう結末もネヘミヤは知ってるのに(ネヘ13:2)、律法を忠実に守って強制離婚をさせます。 ヘンな話よね。異民族との結婚を禁じるというなら、バラムの話ではなくその次の話をすべきなのです。[869]にも書いたように、民数記25章で、イスラエルの民がモアブの娘たちとエッチなことをしはじめて、異教の神々を拝んだ話をすればいいのに。自分たちの悪を言わず人のことばかりいうのは、フェアじゃありませんわ。 バビロン捕囚を経て、諸国の民と同化して消えてなくなっていてもおかしくなかったユダヤ人が、民族として団結するためには、このようにして異民族との結婚を厳しく禁じなければならなかった。この時代の特殊事情と読みたいところです。 ●エズ・ラ9章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezl&chapter=9&mode=0 救われる者は少数だという天使にエズラが反論する話は25節まででおしまい。 ここからは新たな話(第四の幻)になります。 エズラは、祖先たちは律法を守らなかったけれど、律法は永遠で滅びることはない、と演説のような祈りをします。すると、三十年間たってやっと子宝に恵まれた女が現れます。この話は次章に続きます。 |
[960] 申命記26-28章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/21(月) 09:59:24 ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=deu&chapter=26&mode=0 27章の「~者はのろわれる。民はみなアーメンと言わなければならない」のリフレインは、要するに「くたばっちまえ、アーメン」ね。 (http://www.youtube.com/watch?v=cd6g-kdxOvI) この曲は当時小学校4年生だった私に衝撃を与えました。キリスト教っていうのはこういう宗教なんだって、いまだに私の思考の根底を規定しているかもしれないわ。SUGARは実質的にこの1曲だけ飛ばして消えてっちゃいましたが、キリスト教の本質が愛なんかじゃなく「くたばっちまえ」なんだと鋭くえぐった功績で、宗教学史に不滅の功績を残しましたわ。 28章は要は「律法を守るといいことがある、破ると悪いことがある」ですけど、悪いほうが2倍くらい分量がありますね。これでもかこれでもかと脅してくるのは迫力というかすごみがありますね。 私の育った創価学会は、日本の仏教の中でも一番過激な日蓮宗の、さらにそのまた過激なカルト教団・日蓮正宗からスタートしてまして、ここはきわめて一神教的、キリスト教的な性格のあるところです。日蓮は絵心がなかったせいで、文字をずらずら書いた曼荼羅を本尊にして拝ませているんですが、右肩には「若脳乱者頭破七分」(この宗教を誹謗する奴は頭が七つに割れるぞ)、左肩には「有供養者福過十号」(供養する人は福がいっぱいくるぞ)という申命記28章的な標語が書かれています。いま創価の連中は日蓮正宗と別れたため、同じく日蓮正宗から離脱した栃木の浄園寺に安置されている、江戸時代の日寛という管長の書いた曼荼羅をコピーして拝んでいます。この曼荼羅は草書体なのでこの二つの標語が読みにくいですけど、でもハッキリ書かれています。 まあ、こういう罰(ばち)論を強調する宗教ははっきりいってカルトよね。信者の自由な退会を阻止しているんですもの。申命記28章もカルトっぽいわ。 ちなみに日蓮の真筆の曼荼羅は100幅ほどあるんですけど、この二つの標語はほとんど書かれていない。これを書いてるのは日蓮正宗・創価学会のものだけらしいです。 |
[959] 1ヨハ4-5章、エズ・ラ8章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/20(日) 10:58:30 ここから閲覧 |
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●1ヨハ4-5章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=1jo&chapter=4&mode=0 神は愛であると強調し、最後は「偶像を避けなさい」で終わる1ヨハは、前回も書いたようにまさにキリスト教のエッセンスが凝縮されたような手紙。分厚い聖書を読むのがめんどくさければ、とりあえず1ヨハだけ読んでおけば模範的なクリスチャンになれそうな、便利な本です。 一昨日、「神」が「紙」に聞こえるといって批判した讃美歌87B「恵みの光は」 http://www.geocities.jp/asakusa_kyokai/song87.html は、一応一ヨハ4:8に基づいているようです。 聖書のデータをパソコンで読める「J-ばいぶる」は、Accessのデータベース形式になっているのですが、一番最後のデータがGod is love.になっています。こういうふうに一番最後におしまいのしるしを入れておくというのはよくあることで、当ばべるばいぶるのデータはend of file.という味もそっけもない文を入れています。こういうのを入れておくとプログラミングが楽になるんです。たとえばマタイ福音書を全部処理しろなんていうときには、「書名がmatの間はこれこれをやれ」でいいんですが、一番おしまいの書(ばべるばいぶるの場合はモルモン経のモロナイ書になります)の場合「書名がmniの間は……」とすると、ファイルのおしまいになってエラーが起こります。そこで「ファイルがおしまいにならず、かつ書名がmniの間」というような条件判定が必要になる。おしまいに無関係なデータを1行入れておけば、「ファイルがおしまいにならず」という条件が不要になるのでラクなんです。 ●エズ・ラ8章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezl&chapter=8&mode=0 ほんの少しの人しか救われないことをよしとする天使=神にエズラは反論します。罪を犯した人のことではなく苦しみながら律法を守った人に目をとめてくれ、悪人を許してこそ神の憐れみ深さなのではないか、というわけです。種をまいたって全部発芽するわけじゃないという神に対して、人間を種扱いするのかとエズラが反論するあたりは傑作ですね。 |
[958] 使徒21-22章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/19(土) 08:25:42 ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=act&chapter=21&mode=0 第三次宣教旅行の続き。例によって http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fb/JBS1956-B_map12.png を頼りにたどりましょう。 いまはアジア州のエーゲ海に面したミレト(ミレトス)にいるのでした。 そこから小島のコスに渡り、さらに南側の島のロドス(これがロードス島だ、踊ってみよという、マルクスの引用(*)で有名な島です)、また大陸のパタラ、ここからピニケ(フェニキア)地方への船に乗り、クプロ(キプロス)を横目で見ながらツロ(ティルス)へ。ここから陸路でトレマイ(プトレマイス)、カイザリヤ経由でエルサレム(17節)というわけですが、註解書などでは使21:26で旅行がおしまいとするのが普通です。 (*) http://blog.goo.ne.jp/motoyama_2006/e/d81392c6d9d4772bea7cc6640dcabfa8 ツロで、カイザリヤで、人々はパウロにエルサレムへ行かないように引き止めるのですが、パウロの決意は固く、エルサレムに向かいます。 なお、21章は冒頭から「わたしたち」とあります。このように地の文に1人称が出てくるのは、1章冒頭を除けば、使16:10-17、使20:5-15、使21:1-18、使27、使28:1-16で、まるで著者のルカが同行しているかのような書き方になっています。本当に同行していたのかもしれませんし、フェイクかもしれません。 さて、エルサレムに到着したパウロは、案の定ユダヤ人たちの迫害を受けます。混乱を収拾しようとしたローマ兵にパウロは身柄を拘束されますが、パウロは民衆にヘブライ語(実際にはアラム語でしょう)で演説をします。この演説を聴いてますます民衆は激昂、ローマ兵はパウロをむちで打とうとしますが、パウロは自分がローマ市民であることを説明し、ローマ兵のパウロへの待遇が変わります。 で、この演説中の興味深い点として、パウロが自分の召命体験を語るところで、 使22:9 わたしと一緒にいた者たちは、その光は見たが、わたしに語りかけたかたの声は聞かなかった。 と言うのですが、これが 使9:7 サウロの同行者たちは物も言えずに立っていて、声だけは聞えたが、だれも見えなかった。 と矛盾するのですね。これじゃまるきり逆じゃありませんか。また、 使26:14 わたしたちはみな地に倒れましたが、その時ヘブル語でわたしにこう呼びかける声を聞きました、『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげのあるむちをければ、傷を負うだけである』。 を見ると、声を聞いたのがサウロ(パウロ)だけととれますので、これも矛盾かもしれません。 こういう矛盾に対して各註解書がどういう説明をしているか、それを点検するのが私のひそやかな楽しみなんですが、私は逆に、こういう矛盾があるからこそ、これはすべてパウロがしゃべったことそのまんまなんじゃないかというリアリティを感じるんです。あまりにつじつまがあってるとかえって作為を感じます。人間、以前のことはそんなに覚えていないものですし、そのときどきの都合や心の興奮状態に応じて微妙に違ったことを言うのが普通だと思いますから。ウソというのではないにせよ、人は自分のことを語るのも、いろいろな虚構を弄するものです。 ちなみにNIVおよび新改訳は、 使9:7 The men traveling with Saul stood there speechless; they heard the sound but did not see anyone. 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。 使22:9 My companions saw the light, but they did not understand the voice of him who was speaking to me. 私といっしょにいた者たちは、その光は見たのですが、私に語っている方の声は聞き分けられませんでした。 のように、矛盾を解決すべく、使9:7のほうでは光を見えなかったんではなくお互いを見えなかったんだとし、使22:9のほうでは声が聞こえなかったのではなく、聞き分けられなかった、聞いて理解できなかったんだと、小細工を弄しています。NIVや新改訳のような聖書無謬説では、こういう矛盾は堪えがたいのだと思いますが、パウロ自身の混乱ないし意図的な改変だとすれば、こういう小細工をすべきではないと思います。 |
[957] 黙示録1-6章、エズ・ラ7章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/18(金) 10:37:21 ここから閲覧 |
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●黙示録1-6章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=rev&chapter=1&mode=0 旧約聖書の預言書を読んできた金曜日、ネタがすべて終わってしまいましたので、残りの5回で新約聖書のヨハネ黙示録を読みます。 著者は、その昔は使徒ヨハネだとされてきましたが、もちろん違います。内容的にはキリスト教会が広くローマ帝国から迫害されていますが、キリスト教がローマ帝国の当局から迫害されるようになったのはネロ帝(在位54-68)以後です。使徒行伝に書かれている迫害はユダヤ教側からのものですからね。迫害が厳しかったドミティアヌス帝(81-96)のころの執筆だと考えられております。 だいたいヨハネの口癖は、「昔から神を見た者は一人もいない」ヨハ1:18 一ヨハ4:12ですけど、その割に黙示録の著者は神を見てるようですからね。 で、黙示録の著者が見た神のお姿は4章にいろいろ書いてありますが、黙4:7には4つの生き物があり、しし、雄牛、人、わし。これはエゼ1:10で出てきた神様の姿と同じです。ここから、四福音書の記者を描くときに「マタイ=人、マルコ=しし、ルカ=牛、ヨハネ=わし」のイメージで描く習慣ができています。 さて、黙示録にはいろいろ怖い話がいっぱい出てくるのですが、そういうのを書いていると長くなるので、ここは変化球で、今日のところをネタにした美しい曲を聴きましょう。 F.シューベルトの『ドイツ・ミサ曲』D872の5曲目、Zum Sanctus。 http://ml.naxos.jp/track/166416 の19番目で試聴できます(会員登録しないと最初の30秒だけ)。歌詞は次のとおりです。 Heilig, heilig, heilig, heilig ist der Herr! 聖なるかな×4、主は! Heilig, heilig, heilig, heilig ist nur er! 聖なるかな×4、彼こそは! Er, der nie begonnen, 彼にははじめがなく、 Er, der immer war, 彼はいつもおられた。 Ewig ist und waltet, 永遠にいらっしゃり、統治なさり、 Sein wird immerdar. いつまでもおられる。 Heilig, heilig, heilig, heilig ist der Herr! 聖なるかな×4、主は! Heilig, heilig, heilig, heilig ist nur er! 聖なるかな×4、彼こそは! Allmacht, Wunder, Liebe, 全能、驚き、愛、 Alles ringsumher! すべてが彼をとりかこむ。 Heilig, heilig, heilig, heilig ist der Herr! 聖なるかな×4、主は! これはもちろん黙4:8からとられた歌詞ですね。 「あ、聞いたことがあるぞ」という人は、プロテスタント教会に行ったことのある人でしょう。毎回の礼拝のほとんどで歌われる讃美歌546がそれですね。 (http://www.youtube.com/watch?v=7BVxxWnGd6M) シューベルトはカトリックなのになぜかプロテスタント教会の讃美歌になってるのが面白いです。カトリックのSanctusだと2音節、日本語の「聖なるかな」は6音節で、そのまま歌詞をつけるのが困難ですけど、シューベルトのドイツ・ミサ曲だとHeiligをたくさん繰り返しているので歌詞がつけやすかったんでしょうか。 ところで、讃美歌546の歌詞の「今いまし」っていうところ、中学生のときに聞いて以来、私にはいまだに「いまいまし」って聞こえるんですけど。ヤハウェくんがいかにいまいましい神かってことですね。これは作詞者がタコなんです。「今」っていうのはアクセントが最初にあるんだから、上昇音形のところに使うとおかしいんです。 同様に、讃美歌87B「恵みの光は」 http://www.geocities.jp/asakusa_kyokai/song87.html は、登場するすべての「神」が上昇音形のところに割り当てられているので「紙」のように聞こえます。これも中学生のときに聞いて以来、私はいまだに違和感があります。 作詞家っていうのはすぐれた音楽家でもなければいけません。プロの作詞家なら絶対にこういうことはせず、メロディーに矛盾しないアクセントの言葉を持ってくるものです。昔の歌謡曲は曲先(きょくせん)っていって先に曲を作ってあとから歌詞をあてはめたんで、音楽がしっかりして、歌いやすいものだった。中国語のポップスもそういうのが多いです。よく中国語は歌にすると声調が消えて理解不能になるっていいますけど、すぐれた作詞家だと、うまーくメロディーと矛盾しない声調の文字をあてはめるので、そんなことないんですね。考えてみれば中国の作詞法って宋代の詞なんかからそうですからね。一字一字全部平仄が決まってる。 讃美歌は当然ながら曲先なのに、こういう問題のある歌が多いっていうのは困ったものです。 ●エズ・ラ7章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezl&chapter=7&mode=0 怒涛の139節! 長いですね。でもその割に内容はあんまり多くないので、すっと読めます。訳は大変でしたけどね。 天使ウリエルは、川を通って海に出る例と、狭い道を通って都に行く例をあげて、救いの前には苦難があることを説きます。そしてそのさばきの日の様子をおどろおどろしく教えます。 これに対してエズラは、それじゃほんの少しの人しか救われないと反論しますが、天使は、「貴重なものは少数なのだ」と、貴金属の例をあげて教えます。 こんな感じで、死んだらどうなるかというのを段階別に示したり、人間は身代わりに病気になったりご飯を食べたりできないように、さばきのときも人のための祈りは通用しないと言ったり、いろんな話が出てきて面白いです。が、ヨハネ黙示録と違って、こっちのエズラ黙示録は、エズラがけっこう神に反論したりしているところで、単に受動的じゃないところが面白いんです。 |
[956] 雅歌1-2章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/17(木) 10:50:12 ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=son&chapter=1&mode=0 雅歌は、ユダヤ教では過越祭第八日目に読むための文書として、特定の日に読むための五つの文書・メギロート(ルツ記、雅歌、コヘレト、哀歌、エステル記)の中に入っています。 ヘブライ語ではשִׁיר הַשִּׁירִים(シェール・ハシェリーム)という雅1:1の冒頭二語がそのままタイトルとされています。歌の中の歌ということで、英訳聖書のSong of Songsというのはこれをそのまま訳したもの。日本では漢文訳聖書のタイトルの「雅歌」が定着しています。 雅1:1はそのあとに、אֲשֶׁר לִשְׁלֹמֹה(アシェル・レシェロモ。ソロモンによるところの)という語があるので、昔から著者はソロモンだとされてきました。いくらソロモンが賢い王様だってこんなエッチな詩は作れないでしょうし、時代的にももっと後の時代だと考える説が多いです(ソロモン時代という説もありますが)が、いずれにせよ、ソロモン作と考えられたことで、こんなエッチな詩が堂々と正典の仲間入りをしているわけです。顔をしかめる人も多い一方で熱烈なファンも多く、紀元2世紀のユダヤ教の指導者ラビ・アキバも大ファンで、彼の鶴の一声で最終的に正典入りしたとも言われています。 私ももちろん雅歌は大好きです。教会に行って、牧師の説教がつまんなかったりすると、必ずここを開けて読んでいました。中学高校生時代は雅歌を読んでオナニーしたこともあるほどです。いくらエロくても男性にとってはオナニーのおかずにはならないと思いますが、女性にはけっこう妄想をかきたたせてくれるんですよ。作者は女性のツボを心得ているようです。 キリスト教のほうでも雅歌の扱いには困って、キリストが花婿で教会が花嫁だとか、いろんな比喩説を持ち上げておりますが、実はけっこう雅歌ってマリア関係の聖歌のネタになってるんですよ。たとえばこれ。 (http://www.youtube.com/watch?v=XUqdpFYTatI) モンテヴェルディの『聖母マリアの夕べの祈り』の第3曲。ちょうど今日の部分ですが、歌詞は聖書どおりではありません。次のとおりです。 Nigra sum sed formosa filia Jerusalem エルサレムの娘よ、私は肌は黒いけど美しい Ideo dilexit me rex, 王は私を愛して et introduxit in cubiculum suum,et dixit nihi ご自分の部屋に呼んでこう言われました Surge,amica mea,et veni わたしの恋しい人よ、立ってこちらにおいで、 Jam hiems transiit,imber abiit et recessit, もはや冬は去り、嵐は遠ざかった flores apparuerunt in terra nostra, 地上に花は咲きみだれ tempus putationis advenit 収穫の時が訪れる マリア像もときどき真っ黒い肌のものがあるらしいですが、雅1:5の「私は黒い」に基づいているんです。 |
[955] 詩編140-142編、エズ・ラ6章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/16(水) 11:46:03 ここから閲覧 |
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●詩編140-142編 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=psa&chapter=140&mode=0 今日の部分はなんか盲点になってますね。交読文にも入ってないし、讃美歌も作られてないみたいです。 しかし、それは140-142編がつまらないということを意味しません。これら3編がどれも、敵に攻められるなど危機に陥った人が神に助けを求める祈りだという、内容的な理由じゃないでしょうか。よっぽどキリスト教が弾圧されているとかいう危機的状況でない限り、みんなで唱和する内容じゃないですよね。 でも、個々人の人生ではこんなことよくあるでしょう。むしろ、人が神を一番頼りにしたい状況じゃないでしょうか。ふつうの人は平和なとき、順風満帆なときは、神様のことなんか忘れちゃいますからね。 その意味では、ここにあげた詩はどれも切実で、何か危機に陥ったときには開けて読んでみるといいでしょう。 ●エズ・ラ6章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezl&chapter=6&mode=0 エズラ黙示録ことエズラ記・ラテン語。第二の幻(エズ・ラ5:21から)の途中です。 この世は老年期を迎えており、終末は近いのでした。 6章に入ると天使ウリエルは、神がこの世を作った最初から終末を考えていたと明かします。ではこの世がいつ終わり、次がいつからはじまるのかというエズラの問いに、ウリエルは、世の終わりと世のはじめは、ヤコブがエサウのかかとをつかんでいたように、連続していると明かします。 キリスト教に輪廻説をもちこもうと画策している私は、ここを根拠に、終末は次のステージの始まりで、円環のように時は繰り返していくのだと主張します。 そして終末のこわーい話をして第二の幻は34節でおしまい。ふたたび七日間の断食を経て、第三の幻が始まります。これはエズ・ラ9:25までなのでけっこう長いです。 とはいえ幻本体は7章以降。6章にはエズラの長々とした質問しかありません。エズラは天地創造の過程をひきあいに出しながら、この世は人間のために創造されたのに、どうして人間は世を相続できないのかと、神様(実際には天使ウリエルですが)に詰め寄ります。 |
[954] ネヘミヤ記5-9章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/15(火) 10:40:49 ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=neh&chapter=5&mode=0 時代としては前回同様にアルタシャスタ(アルタクセルクセス)王の20年で、BC445年ということになります。 8章は、「エズラ記ダイジェスト」ことエズ・ギの9章(最終章)で読みました。一部名前の異同や数字の違いがありますが基本的に同じです。 ところで、正典エズラ記とネヘミヤ記を単純に「エズラ記→ネヘミヤ記」という時代順だと思ってしまうと混乱するので整理します。 実際には、 A.神殿の建設(BC515完成) B.城壁の建設 C.エズラの帰還と律法の復興(BC445) D.異民族強制離婚 という順序になっているのです。それを、正典エズラ記およびエズ・ギはA→C、ネヘミヤ記はB→Cのように記しているのです。 今日のところ(8章)で「あれ、またエズラが出てきて律法を朗読してるぞ。この話は前に出てこなかったっけ」と混乱すると思いますが、このように考えればいいと思います。 さらに私は、実はAとBも同時進行だったと思ってます。城壁も作らないうちにごりっぱな神殿を作るなんておかしいですからね。 さて、5-7章はネヘミヤの独白体なので「わたし」とあったらネヘミヤです。苦しんでいる民のために利子を禁止したり、抵当にとられた畑を返させたり、奮闘しています。 7章の帰還者リストはエズラ記2章と同じです。 8章はすでに読んだエズ・ギ9章とほとんど同じ。 9章はエズラがイスラエルの歴史を振り返りながら祈っています。そういえばエズラ記9章もそうでしたし、ダニエル書9章もそんな感じです。みんな9章なのは偶然の一致ですが面白い現象ですね。 |
[953] 申命記23-25章、エズ・ラ5章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/14(月) 12:07:12 ここから閲覧 |
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●申命記23-25章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=deu&chapter=23&mode=0 前回の「処女の証拠」に続き、今回のも私にとっては聞き捨てならないトンデモ律法なんだわ。 そんなわけでほかを全部無視して次の一点だけ書きます。 それは申23:3(旧2節)「私生児は主の会衆に加わってはならない。その子孫は十代までも主の会衆に加わってはならない。」というやつ。 まず、冒頭の「私生児」(口語訳)は、新改訳だと「不倫の子」、新共同訳だと「混血の人」で、全然違うのにびっくりします。この混乱の原因は原語のמַמְזֵר(マムゼル)が多義語であるせい。Davidsonだと(珍しくこのままの形で載ってます)bastard; according to the Mishna(Jebamoth) the offspring if adultery or incest; De.23.3; Zec.9.6. Etymo. uncertainなんて書いてますね。Geseniusは(面倒くさいので引用しませんがp.480左下です)さらに比喩としてforeignerというのをあげています。申命記では「私生児」と訳している口語訳聖書もゼカ9:6では「混血の民」と訳していたりするので、どういう文脈であるか、とくにこの律法が定められた時代背景を考慮しないと訳せない、やっかいな単語です。 いずれにせよ、時代の社会的通念上、望ましくない生まれ方をした子は、会衆に加われない、と考えるのが一番無難ですね。 エズラ記・ネヘミヤ記時代みたいに異邦人との結婚が禁じられて強制離婚させられた時代なら「混血の人」でもいいのかもしれませんし、神殿娼婦、神殿男娼がいた時代なら、エッチの結果としてできた子つまり私生児ということになるのかもしれませんしね。 さて、私の生まれた家にはいろいろ恥ずかしい事情がございまして、私は両親を憎みながら育つことになりました。 法律的には私は何の問題もなく両親の一人娘ってことになるんですが、私の母は不倫をしていました。人づてに聞いたところ、相手は住んでいた地区の創価学会の幹部みたいです。父も女を作って家にあまりよりつかず、たまに会うと事あるごとに私に「お前はおれの子じゃない」なんて言う始末。本当にそうなのか母に問い詰めたんですが、「お前が高校を卒業したらちゃんと答えてあげる」と言ったまま、私が高校を卒業する直前に、秘密をあの世に持ってってしまいました。 私は高校卒業と同時に家を飛び出し、大学卒業と同時に父の反対をおしきって前の夫と結婚、すぐに離婚してからは、父親とも音信不通状態です。ちゃんと生きてるのかしら? まあたぶん生きてはいるんだろうな。もし死んだら新しい奥さんが遺産を相続するのに「相続人として娘の真理子というやつがいるぞ」ってことになって、絶対に連絡が来るはずだし。あ、でも結婚もせずに野垂れ死んだら、連絡が来ないかも……。 そんなわけで世が世なら私も「私生児」「不倫の子」ということで、主の会衆には加われないわけですね。 あ、だから私は教会になじめないんだ。どこの教会に行ってもケンカになってしまうのは、ヤハウェくんが行く先々の教会で妨害しているのね。ヤハウェくんにうまくしてやられましたわ。 イエス様も、マリヤの子であることは確かながら、ヨセフの子じゃないわけですから、私と同じ私生児ってことですよね。でも先日Twitterでそう主張したらぐちゃぐちゃと反論する人がいっぱい。なんでイエス様が私生児じゃいけないのかしら? そりゃ昔なら大スキャンダルでしょうが、いまどき私生児だからって差別しなくたっていいじゃありませんか。 この条文の次の申23:4には、「アンモンびととモアブびとは主の会衆に加わってはならない。彼らの子孫は十代までも、いつまでも主の会衆に加わってはならない。」ってあるのよ。てことはダビデ王だって4分の1はモアブなんだから主の会衆に加われないじゃん。 ダビデ王もイエス様も経歴に傷があるってところに、私は神様のご計画を感じるんですけどね。 ●エズ・ラ5章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezl&chapter=5&mode=0 前に言ったようにエズラ記関連の外典偽典の呼び方は混乱のきわみ、それはてんでんばらばらに番号で呼ぶからいけないので、だから私は新共同訳の「エズラ記・ギリシア語」「エズラ記・ラテン語」という呼び方を支持します。 ただ、これもそっけない言い方なんで、愛称をつけるとすれば、エズラ記・ギリシア語は「エズラ記ダイジェスト」、エズラ記・ラテン語は「エズラ黙示録」というのがいいんじゃないかしら。 そんなわけで「エズラ黙示録」の5章。 19節までが前回の続きで、天使ウリエルによって、終末のさばきに関する神の計画が示されました。 そして七日間の断食のあと、またウリエルが現れて、次の教えが示されます。 こんなふうにエズラ黙示録ことエズラ記・ラテン語は、合計7つの幻が、途中に断食(このとき、今回のように地上の人々とエズラとの話しあいがはさまることがあります)をはさんで展開されるという構成になっているのです。 第二の幻はエズ・ラ5:21からエズ・ラ6:34まで。5章では、この世がもう老年期を迎えていて、終末が近いことが示されます。 |
[952] 1ヨハ1-3章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/13(日) 06:17:52 ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=1jo&chapter=1&mode=0 ヨハネの手紙は3つありますが、2つめと3つめは短いうえに実にくだらない手紙で、よくもまあこんなものが正典に入ったものだと思います。実質的に1ヨハだけですね。 ヨハネ福音書同様に使徒ヨハネが書いたとは思えませんが、考え方が似ているので、同じ著者、ないしヨハネ系の教会内で作られた文書ということなのでしょう。 私ははっきりいってヨハネ福音書は苦手で、光だ闇だ真理だとなんかイッちゃってるなという気がするんですが、こういう考え方に慣れてくれば、思想が前面に押し出されているぶん、わかりやすく信仰の指針になりやすいんだと思います。マタイ、マルコ、ルカよりヨハネが好きだっていう人、けっこういますからね。相性の問題もあるかもしれません。 ヨハネの手紙も同様で、一部の極端な意見を除けば、とてもわかりやすい。 キリスト教のエッセンス(ただしヨハネ的なものだけ)が凝縮されてる感じ。聖書のほかの本は読まなくてもここだけ読めばとりあえずは間に合っちゃう感じがします。 実は私、高校時代に初めて行った教会で初めて聞いた説教が、一ヨハ3:13-16でした。「すべて兄弟を憎む者は人殺し」という言葉に、なんかずいぶん極端だなと思いながらも、妙なインパクトを受けました。「兄弟のためにいのちを捨てるべき」という、殉教をすすめているところが気に食わないものの、いまでもこの部分は懐かしく思います。 でも、ここを説教するなら、その次の一ヨハ3:17-20あたりのほうがすんなり入るような気がするんですけどね。あの牧師は過激だったからな。お祈りのなかに政治的発言が多かったし。でも今の私もそうかしら。原発だのTPPだのでずいぶん過激になってるわ。 |
[951] 使徒19-20章、エズ・ラ4章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/12(土) 09:22:56 ここから閲覧 |
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●使徒19-20章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=act&chapter=19&mode=0 第3次宣教旅行の続きです。 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fb/JBS1956-B_map12.png の地図を頼りに行程をたどりましょう。 なお、パウロの生涯についてうまくまとめた年表を発見しました http://www.asahi-net.or.jp/~zm4m-ootk/pauronenpyou.html ので、私たちも便利に使わせてもらおうと思います。 使18:23ではじまった第3次宣教旅行。ただしここは「ガラテヤおよびフルギヤの地方を歴訪」とあるだけで、具体的な話はありません。実質的に19章からスタートとなります。 行程をたどると、エペソに2年間いて、マケドニヤを通ってギリシヤ本土に3ヶ月、再びマケドニヤ経由でピリピから対岸のトロアスに行き、エーゲ海の海岸をつたってアソス、キヨス、サモス、ミレトまでが本日19-20章の範囲です。 エペソでパウロはさまざまな奇跡を行い、多くの信者を獲得します。パウロの使ったてぬぐいを病人にあてただけで悪霊が出ていくなんて、なんか怪しいカルト教団的ですけどね。 魔術師たちが本を焼き捨てたというのは、キリスト教史上初の焚書ということになりますね。 ところが偶像を作っていたデメテリオという職人が、パウロのしていることは営業妨害だというので、反対運動を起こし、ひと騒動持ち上がります。 エペソを離れてエーゲ海をたどる途中、トロアスではパウロの話を聞いてる途中に転落事故を起こした青年の息をふきかえさせるということもありました。 パウロの目的地はエルサレムです。ペンテコステまでにはエルサレムに行きたいというので急いでいます。そこでエペソの長老をミレトに呼び出して(そう距離はありませんから)、エルサレムで自分は迫害を受けることだろうと予言し、もう二度と君たちとは会えないだろうと涙の別れをします。 律法を否定するパウロに対してはエルサレムのユダヤ教徒たちは厳しく迫害してくるでしょうし、エルサレム教会のペテロとも関係が悪化しているので、パウロをちゃんと保護してくれるかどうかもわかりません。そんな中をあえてエルサレムに向かうパウロの決意が感じられます。 ●エズ・ラ4章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezl&chapter=4&mode=0 ここからはエズラと神様との対話です。もっとも神様はじかにエズラと話をしません。話をしているのは天使ウリエルです。もっともウリエルの口ぶりはまるで神様おんみずからがしゃべっている感があり、実質的には神様と考えていいと思います。 選ばれた民であるはずのイスラエルがなぜ苦しむのかという問いに、終末のさばきには万事が解決すると神様は答えます。ではそれはいつのことなのかというので、話は次章へと続きます。 |
[950] マラキ書(全) 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/11(金) 10:09:05 ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=mal&chapter=1&mode=0 十二小預言書の最後のマラキ書。3章しかないので今日で全部読んじゃいます。口語訳聖書など昔の聖書ではマラ3:19以降を4章としていますけどね。 金曜日は預言書を読んで来ましたがこれで全部終わり、今年度の通読計画は12/11まであるので、残り5回は預言書のかわりに新約聖書のヨハネ黙示録を読むことになります。 マラキというのは「わたしの使者」という意味なので、固有名詞ではない、あるいはニックネームであるという考え方もあります。実際、エズラ記・ラテン語の1章(日曜日に読みました)の最後エズ・ラ1:39では、十二小預言書の預言者の名前が列挙されているのですが、マラキだけは「主の使いとも呼ばれたマラキ」というヘンな言い方をしています。たぶんエズラ記・ラテン語の著者もニックネームだと思っているのでしょう。 第2章はわかりにくいですが、妻を離縁しておきながら他の神に仕える異邦人の女と結婚するような行為を非難しています。これはエズラ記やネヘミヤ記に出てくる異邦人の妻を強制離婚させる話と関連していますので、マラキはこの時代、つまり紀元前5世紀の中ごろということになります。ハガイやゼカリヤが帰還直後、つまり紀元前6世紀末のゼルバベル・ヨシュアの二権分立時代でしたから、マラキは本当に預言者の時代の一番最後の預言者ということになります。 マラキ書がよく引き合いに出されるのは、金の亡者と化した一部のとんでもない牧師が「什一献金しろ」というとき。マラ3:8,10を根拠にするのです。 そして一番最後のマラ3:23-24。終末の直前に預言者エリヤをつかわす、という話。エリヤは生きながら天に上げられた人ですので、生きながらつかわすことができるのでしょう。イエス様の時代の人々はこの話が頭にこびりついていたので、洗礼者ヨハネに「あなたはエリヤですか」(ヨハ1:21)ときいてみたり、イエス様のことをエリヤだといったり(マコ8:28、ルカ9:8,19)していますし、イエス様自身も自分をエリヤになぞらえるような説教をしたり(マタ11:10-14、マタ17:10-12)しています。十字架上でエリ、エリ(わが神、わが神)…と言ったのを「エリヤを呼んでいる」(マタ27:47,49、マコ15:36-37)と聞き取った人もいるという話もあります。 キリスト教の旧約聖書(続編なし)ではマラキ書が旧約の一番最後に来て、次のページが新約聖書のマタイでイエス様の話になるので、なんかうまくつながっているような錯覚をします。でも実際には450年も断絶があるわけです。日本でいえば戦国時代からいきなり21世紀にとぶようなものです。この間にもユダヤ人にはいろんな事件が起こったので、旧約外典(続編)を正典と認めない立場の人も、読物としてだけでも旧約外典、特に1マカ、2マカは目を通しておくべきでしょうし、シラ書などでこの当時の人々の考え方を知っておくべきです。 |
[949] コヘ11-12章、エズ・ラ3章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/10(木) 09:39:37 ここから閲覧 |
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●コヘ11-12章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ecc&chapter=11&mode=0 コヘレトは今日でおしまいです。 むなしいむなしいとぶつぶつつぶやいてきたコヘレト、最初は「聖書にこんな東洋的無常観みたいな本があるなんて」と新鮮なおどろきを持って読んだあなたも、このあたりまで来ると、しつこさに食傷しているかもしれません。 なんでこんなにむなしいむなしいというのか、その真意は今までも時折示されていました。たとえば今回のところではコヘ11:5にあるように、不完全な人間には完全な神様のわざを知ることができないからです。神様の前では人間の不完全さ、無力さを思い知るしかないので、むなしさを感じるわけです。 宮台真司がいろんなところに書いてる言葉に、日本はまかせておいてぷーたれる、というのがあります。日本人は政治家に一切をまかせてしまい自分では何もしようとしない、そのくせ文句だけは言う、というわけです。でも私にいわせれば、ぷーたれるというのはまかせていることの裏返しじゃないかと思うんですけどね。政治家が信用できない国では自分で何でもやるしかないからどんどん政治に参加するわけですからね。 まかせておいてぷーたれることでは、エジプトを出たあとのイスラエルの民はその典型で、ヤハウェくんは何度もぶちきれてしまいましたけど、あれだって民はヤハウェくんを頼るしかないからぷーたれてたんだと私は思います。ヤハウェくんはもっと度量を示したほうがよかったのではないでしょうか。 コヘレトもそうなんで、むなしいむなしいとぷーたれてるのは、根底に神様への信頼があるからなんで、そういう信頼はコヘレトをよく読めばにじみ出てきています。 コヘ12:8は、冒頭の言葉のくりかえし。 伝道者は言う、「空の空、いっさいは空である」と。 たぶんもともとこの本はここで終わっていたんだろうと思います。最初と最後が同じ言葉なんてしゃれてるじゃありませんか。ただ、これだとあまりに救いがないと思った後の人が、そのあとの6節ぶんを付け加えちゃったんだろうと思います。なんかとってつけた感じですからね。 ●エズ・ラ3章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezl&chapter=2&mode=0 ここからがエズ・ラ本体。「都が滅んで三十年、わたしはバビロンにいた」というのは、一応バビロン捕囚から三十年めに、捕囚されたエズラがバビロンにいたという設定になっていますが、実際にはずっとずっとあと、イエス様よりもあと、AD70のユダヤ戦争でエルサレムが破壊されたあと、エズラがローマにいたということです。ヨハネ黙示録でもそうですけど、バビロンというのはローマの隠喩です。もちろん史的エズラがこんな時代に生きてるはずがないので、そういう設定ということ。 エズラはユダヤの荒廃を見て、どうして選ばれた民であるユダヤ人がこんなめにあわなくちゃいけないのかと、神様にくってかかるように祈ります。 |
[948] 詩編137-139編 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/09(水) 07:01:48 ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=psa&chapter=137&mode=0 137編は、よくも悪くも、詩編を代表する詩です。 「バビロンの流れのほとりにて」という、宗教音楽の題材としてよく使われる詩。一番有名なのは、バッハのオルガン曲『18のコラール』の第3曲め。Youtubeに複数アップされてますけど、音質がきれいなのは、 (http://www.youtube.com/watch?v=4MJO7kaOTaI) 往年のシュヴァイツァーの演奏は (http://www.youtube.com/watch?v=SzUDhoYxuI8) バッハの曲は、ルター派の讃美歌のいわばカラオケです。もとのルター派の讃美歌はドイツ版Wikipedia http://de.wikipedia.org/wiki/An_Wasserfl%C3%BCssen_Babylon に楽譜つきで紹介されていますが、 (http://www.youtube.com/watch?v=in59Wbgrg6o) の演奏者がコルネット(らっぱ)で吹いてるのがこのメロディーですね。 この曲は日本の讃美歌にはとられていません。ちなみに讃美歌21の164番は全然違う曲です。これはこれで名曲だとは思いますけど。 http://yassan71.web.fc2.com/yassan.files/hym.files/hym199.files/hym164.htm 交読文にもなぜかとられていません。 いや、なぜかは、理由がとってもよくわかるんですけどね。 そろそろ詩編の話に入りましょうか。 この詩は、捕囚の民の嘆きを詠んだ詩。とても感動的な詩です。 最後の2節さえ、なければ。 破壊者であるバビロンの娘よ、あなたがわれらにしたことを、あなたに仕返しする人はさいわいである。あなたのみどりごを取って岩になげうつ者はさいわいである。 いくら何でも、「復讐だ。奴らの赤ん坊を岩にたたきつけて殺してやれ」って言いますか? 私が、よくも悪くも詩編を代表するって書いたのはこれなんですよね。 「敵を殺してやれ」みたいな言葉が臆面もなく出てくる。 そりゃ、ウルトラマンを見るとき「ウルトラマンにやっつけられる怪獣はかわいそう」なんて思っちゃいけないんでしょうけど、でもウルトラセブンになると、たまにそういう話が出てくるみたいですね。怪獣を現代文明の被害者として描いて、怪獣は倒したけど、おれたちのやったことって正しかったんだろうかみたいに、ウルトラセブンの姿から戻った地球防衛軍の諸星隊員が自問自答するとか。 詩編はハッキリいってウルトラセブン以下です。 大人げなく敵愾心をむきだしにする詩が多いんで興ざめしてしまう。 この詩が交読文に使われてない理由、讃美歌21がこの最後の部分を歌詞にしてない理由はここですね。 でもそのくせ、ルター派の讃美歌じゃ5番でちゃんとこの部分を歌詞にしてますね。ドイツ人は怖いわ。 気分転換に名曲を聴いておわりにしましょう。 まずはパレストリーナのモテット『バビロンの流れのほとりで』。 (http://www.youtube.com/watch?v=sUp-EgsqZnw) これはビクトリア (http://www.youtube.com/watch?v=LSHPxO0Is1o) これはフォーレ (http://www.youtube.com/watch?v=vjVir4OdYE4) このほか、Youtubeにはいろいろあるので、Babylonisなんていう語で検索してみてください。 |
[947] ネヘミヤ記1-4章、エズ・ラ2章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/08(火) 08:03:23 ここから閲覧 |
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●ネヘミヤ記1-4章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=neh&chapter=1&mode=0 ネヘミヤ記はもともとエズラ記と一緒の本で、分かれたのはヴルガタ以降です。BHSでは一応別の本扱いしていますが、エズラ記とは改ページも何もなくつながっています。ネヘミヤの登場するところからざっくり切ったという感じ。 いきなり「二十年」とありますが、2章によればアルタシャスタ(アルタクセルクセス)王の20年で、BC445年。ただしキスレウ月は9月ですから2章のニサン月(1月)より前になります。ユダヤの暦はバビロン捕囚前は7月から始まってはいたのですが、それだけにキスレウとかニサンというバビロニア風月名だから、ふつうに1月から始まってるはず……このあたりちゃんぽんになっているのかもしれません。 エズラ記の最後がアルタシャスタ王7年(BC458)でしたから、それから13年後というわけです。 ところがこの年代が正しいとすれば、ペルシャの首都スサにいるネヘミヤが、何を嘆いているのかよくわかりません。エルサレムが荒れ果てたままだというのですが、もうこの時期には神殿は完成しているはずです。注釈書によれば、エズ4:7-23にあるようなサマリヤ人の妨害の話だろうというのですが、[932]で書いたように実際にはカンビセス王の時代の話です。ネヘミヤ記の年代ももっと前、BC500年代と考えないとつじつまがあいません。 そんなわけで勝手にカンビセス王時代のこととしてしまいますが、エルサレムの荒廃を嘆いたネヘミヤが王に帰還を願って許され、工事を手伝うというのが今回の話です。 ●エズ・ラ2章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezl&chapter=2&mode=0 後半に出てくる救い主、人々に冠をかぶせている背の高い若者は、明らかにイエス様をイメージしてます。ここはキリスト教徒による加筆部分ですから。もうこうなると「旧約」聖書続編とは言えませんね。時代的には新約の時代です。 |
[946] 立冬は明日でした 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/07(月) 17:58:06 ここから閲覧 |
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一日フライングしちゃったわ。 |
[945] 申命記20-22章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/07(月) 09:39:55 ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=deu&chapter=20&mode=0 今日から冬ということで背景は冬色です。冬だから白系だっていうと寒々しいので、常緑樹の緑にしてみました。 今日は何をさしおいても申22:13-21、なかんずく21節の話よ。 Twitterやmixiでさんざん書いたけど、何度でも書いてやるわ。 処女の証拠が出せない女は石打ち刑だという話。 私も出せなかったから石打ち刑だわ。 『聖書男』っていう、現代ニューヨークで一年間、聖書に忠実な生活をしてみた男のレポートが本になってますけど、私は聖書女にはなれない。なった瞬間に死刑だもの。 私は聖書に殺されるのよ。 何が「いのちのことば」よ。聖書は私を殺す、人殺しの本なのよ。 処女を卒業して(望んで初体験したので喪失なんて言いません)しばらくしたころ、ちょうど大学受験直前のころに、この部分を偶然に発見して、かなり衝撃でした。今なら「あはは、世が世なら私は石打ち刑だわ」なんて笑って書けますけど、高校3年生の多感な乙女には、心の支えにしていた聖書が私を殺す本だった、と知った衝撃ははかりしれないものがありました。 私の処女卒業体験はTwitterでちらっと書きました(そのうち「真理子の生活と意見」に詳しく書きます)が、相手の方がうまくなくて全然入らず、しびれを切らした私がリードしていろんなことをやって終えました。痛みも快感もなく、おまけに出血もない。積極的にいろいろやったものだから、相手からは「お前処女だって言ってたのウソだろ」と言われる始末。さんざんでした。本当に世が世なら、こいつに訴えられれば石打ち刑です。 この衝撃を乗り越えるために私は、聖書って文字通り信じるべき本じゃない、聖書に書いてあってもダメなものはダメ、ウソはウソ、そういう態度をとるようになったのです。 出血がなかったことは今でもちょっとひっかかってます。夫婦の夜の興奮剤としてスカパーでアダルトチャンネルを契約しているのですが、パラダイスTVの処女喪失シリーズ http://www.paradisetv.info/virgin/index.html は、私も関心を持って見ています。素人さんが応募して、手馴れたイケメン男優さんと初体験をして、その模様をAVに撮るというものです。ずばり、出血するかどうかを見てます。出血しない子が多いです。うまい男性だと無理のない挿入をするし、女の子もリラックスするしで、出血しないですむんじゃないかしら。 これに限らず、聖書のとく性倫理は首をかしげるものが多い。 申22:23-24。強姦されたとき声を上げなければ女も同罪で石打ち刑って、ヤハウェくんどういう神経かしら。電車の中で痴漢にあったときって女はなかなか声をあげられないんです。この私だってそうです。恥ずかしいからじゃない。こわいんですよ。声あげたら殺されるかもっていうくらいこわいですから。 申22:5。女装・男装禁止。私たち夫婦の共通の親友にマリナちゃん(仮名)というMtF(体は男、心は女)の子がいるんですが、キリスト教に関心があるというのでいくつか教会を紹介して連れてったら、たいていのところでダメ。いえ、実際には、牧師さんはOKでも他の信徒が白い目で見るので足が遠のくというのがほとんどですけど、中には申命記のこの箇所を持ち出して、そんな習慣はやめなさいと言った牧師さんもいたらしいです。 女装と同性愛は無関係ですけど、『聖典と現代社会の諸問題』 http://www.kirishin.com/2011/09/post-318.html の第1章、「『聖書に書いてあるから』というのが本当の理由なのだろうか ―同性愛を罪とする聖書テクストを読む(小林昭博)」という文章はこういう問題にオールマイティに対応できる結論を示してくれてます。 聖書に書いてあるから罪なんじゃない。 あなたが差別しているから罪なんです。 あなたは自分の差別を正当化するために聖書を持ち出しているにすぎないんです。 いくらコチコチの福音派でも、聖書に書いてあることを全部守って生きてる人なんていません。そんなことをしたら『聖書男』みたいに一冊の本になっちゃうほど、聖書の教えを全部守るのは珍しいことであり、難しいことであり、ナンセンスなことなんです。 どんな人でも聖書の教えを適宜選択して、これは守ろう、これは無理だからシカトしよう、ってことやってるわけです。ご都合主義と言わば言え、ご都合主義大いにけっこう。私たちはみんなご都合主義です。福音派みたいな教条的な人たちがご都合主義をやるとからかわれるかもしれませんけどね。 だからこそ、聖書に書いてあるからこれはダメ、というのは間違い。実は、あなたが気に入らないからダメなんですよ。それを聖書にかこつけてるだけなんです。 |
[944] 2ペト(全)、エズ・ラ1章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/06(日) 07:15:18 ここから閲覧 |
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●2ペト(全) http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=2pe&chapter=1&mode=0 1ペトについてはさんざん危険文書と毒づいた私ですが、こっちはまとも。2章にあるように、教会の中にもヘンなことを言う人がいっぱい出てきたという中にあって書かれたので、2章だけはそういう人たちへのいささか口ぎたない批判も出てきますけど、全体としては来たるべき救いを信じて信仰生活に励めという内容で、安心して読めます。 二ペト1:5-7の「信仰に徳を加え、徳に知識を、知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心を、信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい。」というところは、いい言葉です。右に行くほど重要な徳目なのかしら。信仰、信心ってだぶってるような気がするけど、新改訳では「信心」のほうは「敬虔」になってます。この二つどう違うのかしら? これから出かけなくちゃいけないのであとでまた考えますわ。それとも思い切ってTwitterで意見を募集しちゃおうかしら。 ●エズ・ラ1章 ヴルガタでは第4エズラ記と呼ばれる書物ですが([925])、正典エズラ記やエズ・ギとは似ても似つかない文書。時代もイエス様より後なんですよ。ユダヤ人のローマへの反乱、ユダヤ戦争を経て神殿が破壊されたあと、AD75-100(BCじゃなくADよ)ごろじゃないかと言われています。しかも、1-2章と15-16章はキリスト教徒による加筆で、専門家はそれぞれ「第五エズラ記」「第六エズラ記」と読んだり、「第二エズラ記」「第五エズラ記」と呼んだり、混乱のきわみです。 ここに出てくるエズラは史実のエズラとは無関係、単に名前を借りただけ。たとえば西行法師を現代にタイムスリップさせて、東日本大震災・原発事故後の日本を予言させるとかいう趣向の、SF的、幻想的な本なんです。 1章はイスラエルが滅んだ後に神様の言葉がエズラに臨んだところ。今までのイスラエルの歴史を中心に言ってます。一番最後の39節は十二小預言書の預言者が列挙されてますが、マラキのところだけちょっとヘンな書き方してますね。今週金曜日にマラキ書を読むのでちょっと覚えといてください。 |
[943] 使徒17-18章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/05(土) 11:17:01 ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=act&chapter=17&mode=0 第二次宣教旅行の後半です。 [936]で書いたように、割礼をするかどうか、異邦人との会食を認めるかどうかで教団の中に対立が生じた後にパウロは宣教に出かけるわけです。加藤隆先生は「アンテオケ教会からパウロが追放された」と書いています。使徒行伝にはそこまで露骨に書いてませんが、実質的にアンテオケにいられなくなって、それでパウロはあちこち飛びまわるようになるのですから、追放と言っていいのかもしれません。実際、第二次宣教旅行はact:18:22までで、一応アンテオケに戻ったのですが、act:18:23ではもう第三次宣教旅行に出かけます。 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fb/JBS1956-B_map12.png を見ながら行程を追いましょう。 出発地はアンテオケ。陸路でキリキヤ地方を抜け、ガラテヤのデルベ、ルステラを通り、アジアの北部を通ってムシヤ地方へ行き、トロアスというエーゲ海に面した港町からマケドニヤのネアポリスへ。そこからちょい内陸のピリピ。ここまでが前回の範囲。 今回はピリピからアムピポリス、アポロニヤ、テサロニケという、マケドニヤの都市をまわってます。なお、昔のユーゴスラビアがいろいろ分裂して今マケドニアという国ができてますが、古代のマケドニアはもっと南で、今と違いますからご注意。 ペロポネソス半島の付け根のベレヤから、アテネ、コリント。その後コリントの南のケンクレヤから船でアジアのエペソへ。また船でアンテオケへ。これでおしまいです。 パウロとシラスはテサロニケのシナゴーグで宣教をします。使17:2に「三つの安息日にわたり」とあるので三週間弱というわけですね。が、ユダヤ人はやくざを動員して暴動を起こします。二人は逃げ、夜の間にベレヤに移動します(使17:10)。この間、宿泊先であったヤソンが迷惑をこうむります。 使徒を読むと、宣教はユダヤ人相手で迫害したのもユダヤ人ということになってますが、このときの話を伝える1テサによれば、、信徒になったのはユダヤ人ではなくギリシア人(一テサ1:9に「偶像を捨てて~」とありますから)ですし、迫害したのがユダヤ人ではなくギリシア人(一テサ2:14)。このように1テサによればむしろ異邦人相手の宣教だったようです。 使徒にもどると、ベレヤにもユダヤ人の迫害の手がせまってきたので、パウロだけ先にアテネに行きます。もっともこれも、一テサ3:2によれば、テモテはついて行ったみたいなので、くいちがいがありますね。 アテネではアレオパゴスという会堂で宣教。この地に広くみられる偶像崇拝を批判しますが、死者の復活という話については共感を得られなかったようです。 18章からコリント。一コリ2:3で「わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった」とあるのがこれです。なんで意気消沈したかというと、アテネでの宣教が失敗したからですね。もっとも使徒ではぼかされています。テモテ、シラスも後に合流。ここに一年半います。 コリントではユダヤ人に襲撃され、当局に訴えられますが、総督は不干渉を貫くという事件も起こります。 ここをたってケンクレヤ→エペソ→アンテオケということで旅行はおしまいですが、使18:18の、パウロが髪をそった話は、意味が不明なので、いろいろ論議があります。この習慣じたいは、民6:2-21にある「ナジルびと」つまり特別な誓願をしている人物が、誓願の間は髪をそらず、満願のときに髪をそるという話です。使徒を読むと、誓願をしたので髪をそったみたいに読めますが、逆でして、満願で誓願を解除する行為なんですよね。じゃどんな誓願をしていたのか。何も書かれていないうえ、この満願の儀式はエルサレムの神殿で行われるべきことなので、なんだかよくわかりません。 23節からはただちに第三回宣教旅行の話ですが、24-28節はアポロのエピソードが前後の脈絡なくはさまっているので、実質的には次の章からが第三回宣教旅行になります。 |
[942] ゼカ8-14章、エズ・ギ9章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/04(金) 07:00:56 ここから閲覧 |
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●ゼカ8-14章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ecc&chapter=9&mode=0 9章から最後(14章)までは第二ゼカリヤと呼ばれる別人の著作になります。その根拠はゼカ9:13に口語訳ではギリシヤ、新共同訳や新改訳ではヤワンと訳されていますが要するにギリシアです。第一ゼカリヤが預言したBC520年はギリシアもまだ都市国家が平民の手による民主政へとなったころで、この後にペルシアとの戦争(500-449)を経てギリシア古典文化の黄金期を経て(たとえばソクラテスは400年代末期のころ)、アレクサンドロス大王(336-323)が大遠征をするようになってはじめて、聖書の世界にギリシアがかかわるようになってくるのです。つまりは2世紀も時代が違うというわけですね。 第二ゼカリアではゼカ9:9で、救い主がろばに乗ってやってくるという話が書かれており、これをふまえて四福音書とも、イエス様がエルサレムに入城するにあたってはろばに乗せております(マタ21:1-7、マコ11:1-7、ルカ19:28-35、ヨハ12:12-16)。マタイとヨハネは、なんでイエス様がろばに乗らねばならないかというタネあかしもしています。 ついでながらマタイにはマタ23:35に「バラキヤの子ザカリヤ」という人物が出てきます。新共同訳ではゼカルヤと書いているので余計に「あ、このゼカリヤかな」と思うんですが(なにしろゼカリヤは「ベレキヤの子」ですからね)、これはマタイの間違い。エホヤダ(ヨヤダ)の子ゼカリヤ(代下24:20)でなければなりません。 第二ゼカリヤは黙示録的にイスラエルの未来を預言します。13章、終末には全地の三分の二の人が死んで三分の一だけが生き残るんだそうで、これが本当に世界の終末なら、神様に助けてもらえるいい人が三分の一もいるの? ずいぶん多く助けてもらえるのね、なんて思っちゃいます。私の感じでは三百分の一くらいかなって思ってたものですから。 昔、創価学会が「舎衛の三億」なんてことを言いました。舎衛っていうのはコーサラ国の首都シュラーヴァスティーのことでして、三分の一くらいしか仏教に帰依しなかったので、広宣流布(全世界に教えを広める)は全世界の人口の三分の一くらいが目標だなんてことを言ったんです。ナーガールジュナ(龍樹)の著とされる『大智度論』に出てくるらしいんですが、なんか似てますね。「救われるのは三分の一」っていう考えって広く古代世界にあったのかしら? ●エズ・ギ9章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezg&chapter=9&mode=0 正典エズラ記をなぞってきたエズ・ギはここでおしまい。正典エズラ記のほうは異邦人と結婚した人の強制離婚があって終わっちゃったのに、エズ・ギのほうはもう1章ありましたね。ここはネヘ7:72およびネヘ8:1-13の、エズラがみんなの前で律法を朗読した話をなぞっています。正典エズラ記のほうは強制離婚で終わるという、外国人にとってはなんとも後味の悪い終わり方をしますけど、エズ・ギのほうが律法の復興というおめでたい話で終わるので、正典エズラ記よりはるかにまとまってますね。エズ・ギの最初だって正典エズラ記より前の、ユダ王国の滅亡の話を、歴代誌下をなぞってまとめているので、エズ・ギは単独の読み物としては正典エズラ記よりはるかに便利な本です。 |
[941] コヘ9-10章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/03(木) 09:42:59 ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ecc&chapter=9&mode=0 9章を読むと、ユダヤ教・キリスト教っていうのは、ご利益宗教じゃないんだなってことが、つくづくわかります。 なにしろ、いい人にも悪い人にも、平等に悪いことがおきる(コヘ9:2-3)っていうんですから。能力は必ずしも結果につながらないけど、災難だけは平等にやってくる(コヘ9:10)っていうんですから。 ではどうするのがいいかというと、楽しむこと。楽しく食事をすればいいんです(コヘ9:7)。悪いこともあるかもしれないけど、生きてる限り望みだってあります。死んだら悪いことも起きないかわり、いいことも起きません。死んだライオンより生きてる犬のほうがいいんです(コヘ9:4)。 悪いことが起きたら「くよくよしないで、まずごはん食べよっ」。これですね。 10章は政治論。悪い君主は昔からいます。悪い上司も昔からいます。そんなの昔からそうなんですから、批判はしないほうがいい。批判をするとすぐに聞かれちゃうからっていうのが、ecc:10:20の結論です。 なお、コヘ10:8の「穴を掘る」は、他人を落としいれることじゃなく、ホントにただ単に穴を掘るってことらしいです。ここから11節までは、仕事上の事故がいろいろ起こるってことで、ここも、工事をしてると事故にあいやすいということ。でも、原文の意味を離れて、「人を落としいれようとしちゃいけない」みたいに読んでも、格言として役立つならそれはそれでいいかもしれません。 それからコヘ10:10の前半は、新共同訳では「なまった斧を研いでおけば力が要らない」とありますが、意訳のしすぎ。他の多くの訳、たとえば口語訳の「鉄が鈍くなったとき、人がその刃をみがかなければ、力を多くこれに用いねばならない」みたいに、磨かないと力がいる、なんです。もちろん裏返せば「磨けば力は不要」なのかもしれませんが、ここはみんな、仕事上のトラブルを言ってるわけですから、裏返して訳しちゃいけないところです。 |
[940] 詩編134-136編、エズ・ギ8章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/02(水) 06:19:47 ここから閲覧 |
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●詩編134-136編 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=psa&chapter=134&mode=0 120編以来続いてきた「都もうでの歌」は134編でおしまい。都もうでの歌はどれも短編でしたが、135編からは普通の長さに戻ります。 136編は「あれ、どこかで読んだことがあるわ」という強烈なデジャヴ感におそわれますが、118編と同じように「そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」というリフレインが印象的だからです。ここはやはり新共同訳の「いつくしみはとこしえに」という5・5というリズムをきかせた訳に軍配をあげたいところ。ヘブライ語だと כִּי לְעֹולָם חַסְדֹּו(キー・レオラム・ハスドー)。[908]でHK. J.さんが美しさの秘密を解き明かしてくださってましたね。『新聖書注解』によれば、このリフレインはほかにもエズ3:11や代下7:3,6に出てくる、きまりきった合いの手で、前半をプロの聖歌隊がうたって、この合いの手をみんなで唱和したらしいです。 今回はさらに「~に感謝せよ」もリフレインしてますが、ヘブライ語を見ると、3節まではたしかにהֹודוּ(ホドゥー。感謝せよ)という語がありますが、そのあとは最後の26節に出てくるのみなんで、これは訳文だけのことですね。ちなみに神様のことをヤハウェくんと呼んでいるのは最初だけ。こういうのは新改訳とか新世界訳がわかりやすいです。ちなみに新改訳や新世界訳は「感謝せよ」もちゃんと3節でうちどめにしています。 ●エズ・ギ8章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezg&chapter=8&mode=0 昨日読んだ、正典エズラ書の残りの部分をエズ・ギでは一気に8章で片付けちゃってます。つまり、エズラが登場してエルサレムに帰還、異民族と結婚した人を強制離婚させたところまでですね。 長々と帰還者名簿が書かれていますが、例によってこれが正典エズラ書と微妙に違うので、コピペしてるとハマるところです。 |
[939] エズラ記6-10章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/01(火) 10:09:04 ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezr&chapter=6&mode=0 通読表ではいまちょうど平行して旧約外典(続編)のエズ・ギを読んでいます。エズ・ギはほとんどエズラ記のコピーですので、どちらがどちらだかわかんなくなりますね。 前回書き忘れましたが、エズ4:8からはエズ6:18までとエズ7:12-26はアラム語です。 6章は昨日読んだエズ・ギ7章と同じ。ついに神殿が完成し、翌月14日に過越祭が行われました。ところがよく見ると、神殿完成の日が違います。エズ・ギのほうではダリヨス(ダレイオス)王第6年アダル(12)月23日でしたがこちらは3日ですね。いまの暦でいうと、エズ・ギのほうがBC515年4月1日でしたから、こちらは3月12日ということになりますね。曜日を計算すると、エズ・ギのほうが金曜日で正典エズラ記のほうは土曜日になるらしいです。土曜日といえば安息日。こんな日に神殿を完成させたらヤハウェくんが怒ってしまいますので、たぶんエズ・ギのほうが正しいんでしょう。聖書無謬説に立つ福音派の愛用する『新聖書注解』ですらそれを認めてます。わたしたちも、神殿完成記念日は4月1日ってことにしておきましょう。それとも復活祭みたいに「金曜日」を優先するなら、アダル月23日だと、春分の直前の満月のあとになりますから、「春分の前の満月(春分と重複したら一ヶ月前)のあとの第一金曜日(満月と重複したらその次)」にしましょう。来年だとちょっと早くて3月16日になるはずです。 7章でいよいよ主役のエズラが登場します。時代はアルタシャスタ王7年(BC458)。ですから6章からは57年も時間がたっているのです。神殿が完成したというのはいわば箱物行政、ハードができただけ。ソフトとしての律法を整備したのがエズラです。 アルタシャスタ王の許可と援助を受けてエルサレムに帰還した律法学者エズラは、異邦人と結婚した民があまりに多いことを嘆き、強制的に離婚をさせます。もちろんこれらの結婚は、帰還後、つい最近の話です。帰還から57年もたつと、異民族と結婚して子どもまでできちゃってる人も多いわけですね。 ユダヤ教には教祖・開祖にあたる人はいませんが、あえていえばエズラかもしれません。エズラがエルサレムから持ち帰った律法がいまのモーセ五書とほぼ同じものであると言われています。 昔はヤハウェくんはたくさんある神の一つでしかなく、王国の分裂、北王国の滅亡、南王国の衰退という危機を経て、しだいにヤハウェくんへの信仰が主となり、ウジヤ王のときに申命記を作って断片的だった律法を整備しようとした。これがユダヤ教の成立の第一段階。そしてバビロン捕囚期にイスラエルの民は異国の地にあってアイデンティティが強化されて律法が整備され、それを持ち帰ったのがエズラ。これが第二段階。あとはイエス様の時代のあとに神殿が破壊されユダヤ人が諸国に散らされ、いっぽうでキリスト教というヘンなやつらが出てきたという危機を経て、旧約聖書が最終的に整備され、ユダヤ教がいまある形になったというのが第三段階。これが「ユダヤ教は三度作られた」([786])という話でした。 この第二段階のところでユダヤ人はガンコに律法を守るようになり、一マカ2にあるみたいに安息日に戦いをしかけられると無抵抗で玉砕してしまうまでになったのですから、エズラがユダヤ教の開祖ということになるでしょう。 そもそも、ユダヤ人というのはエズ4:12で初めて出てくることばですからね。 しかし、エズラ記によればエズラのやったことって結局のところ強制離婚だけなんじゃないかと思うんですけど。そもそも、けがれた異民族との結婚を禁止して強制離婚なんていうのは今の私たちの感覚からすればなんとも偏屈な話ですよね。昔はルツ記にあるように異民族との結婚なんて当たり前、そもそもモアブ人のルツってダビデのおばあさんじゃありませんか。 人類って時代がたてばたつほどだんだん国際的になっていくのかと思ったら、むしろ排他的になっていく傾向があるんじゃないかしら。 |
[938] 申命記16-19章、エズ・ギ7章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/31(月) 11:26:04 ここから閲覧 |
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●申命記16-19章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=deu&chapter=16&mode=0 16章。祭の話はレビ記23章なんかにも出てきました。申命記という本は、ヨシヤ王の時代に今まで忘れられかれていた律法をもう一度しっかり定着させようという意図で作られた「第二の律法」ですから、いままでどこかで読んだ話がもう一度出てくるわけです。申命記というタイトルの意味は「重ねて命じる」でしたね。「第二の律法」というのを漢文で表現したものです。ちなみにその「第二の律法」というのは、今日読む申17:18に出てくる「この律法の写し」というのの誤訳から来ていますが、誤訳とはいえ申命記の性質をよくとらえているので、意図的な誤訳かもしれません。 その「この律法の写し」という言葉が出てくる17章は、イスラエルの王はかくあるべしという話なんで、明らかに王制が始まったあと、しかも王制が乱れに乱れて、ひどい王様ばかりが出るようになってから定められた、王の理想像というわけですから、モーセの時代に書かれたはずがありません。 18章の後半も「預言者とは何か」というわけで、これも預言者がいっぱい出るようになってからの話ということになります。 その一番最後が面白いですね。真の預言者かどうかを見分けるポイントは、預言者の言葉が成就するかどうか、つまりは未来のことを予言して当たったかどうか、というわけです。あれれ、じゃ預言者っていうのは予言者って書いてもよさそうですね。 予言と預言は違うなんて知ったようなことを書いてるキリスト教の参考書は実に多いですね。予言は未来を予測、預言は神様の言葉を「預」かったんだ、なんて。でも、預かった神様の言葉というのは、たいていは未来に関することですから、実は予言と預言の境界線というのはハッキリしないんです。 しかも、もともと中国語では「預」=「予」なんですよ。うちの主人がやってる青蛙亭漢語塾が公開しているWEB支那漢 http://www.seiwatei.net/chinakan/chinakan.cgi で「預」をひいても「豫(つまり予ね)と同じ。豫備は亦た預備にも作り…」なんて書いてます。中国語だと予言と預言の区別なんて全然意味ないんです。じゃ中国語で預けるとか預かるってどういうかというと、専用の単語はなく、保管するとか置くとかいう言葉で表現するみたいです(考えてみれば、「持ってる」「保管する」「置いとく」といえばいい話ですからね)。たとえば、 金を銀行に預ける 把錢存在銀行裡 銀行は当座定期の預金を預かります 銀行可以收存定期活期的存欵 (井上翠『井上ポケット日華辞典』昭和12年 龍文書局) このことは織田昭先生も『新約聖書ギリシア語小辞典』のp.507、προφητεύωの項で喝破しています。 神の言葉を「預かって」語る者を「予言者」でなく「預言者」と訳したのは、近代日本語としては適訳であると言われる。確かに、預の字の連想から見れば、結果的に現代日本語訳聖書の知恵とも言える. しかし漢語としての預言は予言と変わりがなく、現代中国語では預の字は予の字の代わりに使われる。漢訳聖書で「預言」と訳した訳者は我々が「預」の字から受ける暗示とは無縁であった。預金、預託は現代国語が生んだ熟語である。このような「思い込み」とは別に、「預言」の文字は保存してよかろう。 このように、予言か預言かというのは日本語の問題であって中国語とは関係ないし、ブリッヂマンなどの漢訳者が預言と書いたのは単なる偶然で、それを日本人が見て「預」にブリッヂマンが考えもしなかった深い意味を見出しちゃったわけです。 織田先生は、それはそれとして「預言」というのは適切だと言ってますけど、私はそう思いません。それだったらもう「予言」でいいじゃん。普通の予言者は超自然的な怪しげな力で予言するけど、ユダヤの予言者は神様の言葉で予言するんです。 「預言」はキリスト教業界用語としてもう定着しているんで、私も惰性で「預言」って書くと思いますけど、「予言」との違いは、そう神経質になる必要はないし、細かいところでは区別はつかないんです。 ●エズ・ギ7章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezg&chapter=7&mode=0 正典エズラ記ではエズ6:13-22 ダリヨス(ダレイオス)王第6年アダル(12)月23日、ついに神殿が完成し、翌月14日に過越祭が行われました。神殿完成の日はいまの暦でいうとBC515年4月1日。神殿が出来てこいこい幸せ、なんて覚えましょうか。 |
[937] 1ペト4-5章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/30(日) 07:06:37 ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=1pe&chapter=4&mode=0 前回(1-3章)[930]同様にキナ臭い話。 一ペト4:1「肉において苦しまれたのであるから、あなたがたも同じ覚悟で心の武装をしなさい。肉において苦しんだ人は、それによって罪からのがれたのである」 一ペト4:16「クリスチャンとして苦しみを受けるのであれば、恥じることはない」 ああ、信仰って大変なのね。迫害されなきゃ罪から解放されないのね。 前回も言ったように、こういう文書は非常時には信徒をなぐさめ勇気を与えたのかもしれませんけど、私はやっぱり「今は迫害が厳しいからひとまずおとなしくしていなさい。また状況が改善してから信仰しましょう」みたいなほうがいい指導だと思うんですけどね。牧師など宗教指導者には厳しい規範を課したとしても、一般信徒にはゆるかにしてもらいたいわ。 ともあれ、平常時においては、1ペトは取り扱い注意の危険文書ってことでおしまい。 |
[936] 使徒15-16章、エズ・ギ6章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/29(土) 18:21:31 ここから閲覧 |
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●使徒15-16章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=act&chapter=15&mode=0 さあ大変だ大変だ、事件だ事件だ。 宗教団体の内紛、お家騒動というのは第三者にとっては何が何だかよくわからないコップの中の嵐ですが、それだけに醜い泥仕合になることが多く、週刊誌のかっこうのネタですね。 キリスト教の歴史にも「異端との戦い」、いや、これは戦いに勝った側の表現ですね、「お家騒動」と言ったほうが公平でしょう、お家騒動にあふれておりますが、その第一号が今日の話です。 まず使徒15章にしたがって事件の経過をたどりますと、 パウロ、バルナバといった「ギリシア語派、国際派」の牛耳るアンテオケ教会にユダヤつまりエルサレムからやってきた人々が「ほらほら、異邦人だって改宗したからには割礼やらんかい」といちゃもんをつけてきたのです。 そこでパウロ、バルナバはエルサレムに行き、割礼は必要かという会議が開かれます。パリサイ派あがりの人たちが中心となって割礼をやれという。パウロやバルナバは反対です。 ここでペテロとヤコブが演説をして異邦人を広く受け入れようという話になり、それが会議の結論として、使15:23-29にあるような書面にまとめられます。 ポイントはとりあえず異邦人には、使15:29にあるように「偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、避ける」ということ。ヤコブの演説の中にあるとおり、モーセの律法の最低水準だけは守らせようというわけです。 この書面は一応は使15:23のように「アンテオケ、シリヤ、キリキヤにいる異邦人の兄弟がたに」という地域限定のものですけど、実質的に世界標準になっていきます。 この会議の話は実はガラテヤ2章にも書かれています。ガラ2:1の「十四年たってから、わたしはバルナバと一緒に、テトスをも連れて、再びエルサレムに上った」というのが、会議とも何とも書いてませんけど実はこの話です。経過はガラ2:3-6にありますが、こちらを読むと、割礼強要派はペテロをもまきこんでずいぶんパウロたちに圧力をかけたようですが、パウロはそれに屈せず、割礼不要を通したようです。 そして、使徒に書いていない重要なこととして、ペテロ(ケパ)、ヤコブ、ヨハネといったエルサレム派がユダヤ人への伝道を、パウロ、バルナバといったアンテオケ派が異邦人への伝道をするという具合に、分裂が起こったことが書かれています。さらに、その後にアンテオケに来たペテロに対して、パウロは、「以前は異邦人と一緒に食事してたのに、ヤコブの配下の連中がやってきたら異邦人との会食をやめるようになったというのはけしからん」と非難します。これで両者の対立は決定的になります。 さらにパウロとバルナバの間にも対立が生じます。これは使徒にも使15:36-40に経緯がありますように、使13:13で脱落しちゃった「マルコと呼ばれるヨハネ」を伝道に連れていくかどうかがキッカケ。パウロが猛反対するのです。ガラテヤのほうではガラ2:13のように、異邦人との会食反対派がバルナバを引きずり込んだと書いています。 そんな感じで分裂につぐ分裂を経たのち、パウロはシラスを連れて、第二回宣教旅行に出かけます。使15:36からはじまり、使18:22までです。とりあえず16章の部分について、行程を、 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fb/JBS1956-B_map12.png を見ながらたどってください。黄色の点線ですね。出発からしばらく、第三回の赤い実線とだぶってて見にくいですが、出発地はアンテオケ。陸路でキリキヤ地方を抜け、ガラテヤのデルベ、ルステラを通り、アジアの北部を通ってムシヤ地方へ行き、トロアスというエーゲ海に面した港町からマケドニヤのネアポリスへ。そこからちょい内陸のピリピまでが16章の範囲です。 ルステラでテモテに出会ったとありますが、実はこれが初対面ではなく、第一回の旅行でもう洗礼をさずけた(一コリ4:17)みたいです。今回は同行もさせるのですが、このとき割礼を受けさせたというのはウソでしょう。ガラ2:3にあるようにエルサレムの会議のときにはテモテには割礼が強要されなかったわけですから。 ピリピで人気の女占い師から除霊をしてしまったことで、商売があがったりになった主人が訴え、パウロとシラスは投獄されます。使12でペテロが投獄されたときも奇跡がおこりましたが、こんどは地震の奇跡が起こります。 ●エズ・ギ6章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezg&chapter=6&mode=0 正典エズラ記のエズ4:24からエズ6:12とほとんど同じ。神殿工事が再開し、またしてもいちゃもんがつきますが、調査の結果、これはクロス王が出した命令であり、ダリヨス王が改めて命令を出すということで、工事の正当さが確認されます。 |
[935] ゼカ1-7章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/28(金) 06:13:07 ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=zec&chapter=1&mode=0 ひさびさに14章もある長い書にトライします。 ただし、9章以後は確実に別の著者の作なので、現在では1-8章を第一ゼカリヤ、9-14章を第二ゼカリヤと呼びます。 第一ゼカリヤは冒頭にあるようにダリヨス(ダレイオス)王の2年、つまりBC520年で、ハガイ書([928])のところにも書いたように、ハガイ書とまるきり同じ年です。神様は6・7・9月にハガイ、8・11月にゼカリヤと、二人の預言者にふたまたをかけて言葉を託しています。 預言書のように難しい内容で、しかも今日の部分は7章もあるのでさぞや大変と思いきや、読んで見るとそう難しくありません。わたしに立ち帰って神殿建設をがんばれというのと、世俗権力の長ゼルバベルと大祭司ヨシュアの二権分立体制の確立を、預言書らしい象徴的な表現で指示しているのであり、しかも何が何の象徴であるかをいちいち説明してくれてますからね。 考えてみれば、ゼルバベルもヨシュアも、武力で支配を確立したわけでなし、本来ならきわめて不安定な基盤の上で民を統治しているわけですから、このようにハガイやゼカリヤという預言者のサポートで、この支配体制こそ神様がのぞんでいることなのだ、というお墨付きをもらわなきゃならなかったわけですね。 なお、ゼカ6:11の「ヨザダクの子である大祭司ヨシュア」というのは「シャルテルの子ゼルバベル」でなければ意味が通りません。13節に「その位のかたわらに、ひとりの祭司がいて、このふたりの間に平和の一致がある」とあるわけですから、祭司のとなりに祭司がいちゃおかしいですからね。なんでゼルバベルがヨシュアに変わっちゃったかはいろんな説があるようですが、いずれにせよゼルバヘルとヨシュアの二権分立体制を描いております。 ちなみに昔、イザヤ・ベンダサンこと山本七平さんが『日本人とユダヤ人』の中でここをユダヤ人の思い描いた理想的な二権分立体制だと書いたのですが、ヨシュアがほんとうはゼルバベルであるということに気づかず、つじつまあわせの苦しい説明をしています。それを山本七平キラーの浅見定雄先生が『にせユダヤ人と日本人』の中でからかっています。 |
[934] コヘ7-8章、エズ・ギ5章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/27(木) 08:10:43 ここから閲覧 |
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●コヘ7-8章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ecc&chapter=7&mode=0 7章冒頭「死ぬる日は生るる日にまさる」とありますが、別に早く死んだほうがいいわけじゃなくて、葬式に列席して死としっかり向き合うと、人生をより深く洞察することができるということです。前章末の「人生は短い」からの連想でこういう話になっています。 途中にいろいろ印象的なことわざとして使える語句もありますが、ちょっととばして15-17節。正しいものが滅び、悪人が世にはびこることが多いので、あんまり正義を追求するな、一方で悪も追求するな、というところが、いろいろ悪いニュースに怒ってばかりの私には警告の言葉ですね。何事もほどほどに。 同じことが次の8章14節にも書いてあります。翻訳によってはとても読みにくいですが、要は、善人なのに悪人みたいに滅んじゃう人もいるし、悪人なのに善人のように栄えちゃう人もいるってことで、同じことですね。そこで著者が言うのは、楽しさの追求。まあ楽しみなさいということです。私は、怒ってないで笑え、茶化せ、と読んでおります。 私はテリー伊藤さんって嫌いですけど(特に震災のあと、悪徳ACの広告で「デマにまどわされないようにしよう」なんて言ってたのが猛烈に腹が立ちます。あ、腹をたてちゃいけないわね)、主人は『お笑い北朝鮮』をとても評価しています。それまで朝鮮半島の問題を論ずる人って怒ってる人ばっかりだったんですが、笑う、茶化すというのが武器になるんだと気づいたっていうんですね。そんなもんかしら。 ●エズ・ギ5章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezg&chapter=5&mode=0 エズラ記2章同様に長々と帰還者名簿が載ってますが、これが困ったことに、ちょこちょこと違うんですよね。エズ・ギの真理子訳(真理子のおまけ)を作るときは、固有名詞を口語訳聖書にあわせる方針なので、平行箇所の口語訳聖書の記述をできるだけコピペするようにしてるんですが、どうせおんなじだろうと思ってコピペしたら名前や数字がちょこちょこ違うのでけっこう大変でした。 後半のサマリヤ人の妨害の話はエズラ記4章と同じですが、エズラ記では「その地の民」というふうにぼかして書いてあるところが、サマリヤ人とはっきり書いています。ユダヤ人のサマリヤ人への蔑視は、福音書にいろいろ出てきますが、こういうところに淵源があるんですね。 |