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2024年4月24日(水) 通読(本日=詩63-65,二マカ6,アル7 明日=箴1,ユディ8,アル8)

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節表示・修正口語訳(日本語R)+真理子のおまけ 解題
〔真理子訳〕エズラ記(ラテン語) 第7章
わたしがここまでの言葉を言い終わると、前夜に派遣された天使が再びわたしのもとに遣わされた。
天使は言った。「エズラよ、立ちなさい。そしてわたしが言いに来た言葉を聞きなさい」。
わたしは言った。「わが主よ、お話しください」。すると天使は言った。「深く果てしない海は、広い場所である。
しかし海への入口である川は、狭くなっている。
もしだれかが海を見たり航海したりするためにどうしても海に行きたいと思えば、その狭い所を通らずにどうして広い海に出られるだろうか。
もう一つ別の例をあげよう。都が平らな場所に建設されており、よいものが何でもあふれている。
しかしその入口は狭く崖のふちにあり、右に火が、左には深い水がある。
そして火と水の間にはたった一つの道しかない。しかもその道は非常に狭くて人がやっと一人通れるほどのものである。
さて、この都がある人に遺産として与えられたとして、もし相続人が目の前の危険な道を通らなかったなら、どうしてその遺産を手に入れることができるだろうか」。
わたしは言った。「主よ、その通りです」。すると天使は言った。「イスラエルの取り分も同じ話だ。
たしかにわたしは彼らのために世を作ったのだが、アダムがわたしのいましめを犯した時に、造られたこの世界はさばかれたのだ。
だからこの世の出入り口はたいへんに狭く、悲しく苦しいものとなった。また数はわずかになり、悪路になった。そして危険に満ち、通るのには大きな苦労を伴うのである。
これに対して、より大いなる世への入り口は広く安全で、不死の実を結ぶのである。
だから生きている者はこの狭くて空しいところに入らなければ、準備されたものを受け取ることはできないのだ。
それなのにどうしてあなたは、自分が朽ちねばならぬものだといって思いわずらうのか。どうして死なねばならぬものだといって不安になるのか。
そしてあなたはどうしてきたるべきことに思いを致さずに現在のことばかり考えるのか」。

そこでわたしは答えた。「統治者である主よ、ご覧ください。あなたは律法の中で、正しい人はこれらを受け継ぐが正しくない人は滅びると定められました。
だから正しい人は広いところを待ち望んで狭いところに耐えるでしょう。しかし正しくない人々は、狭いところに耐えたとしても広いところを見ることができないはずです」。
すると天使は言った。「あなたは主にまさる裁判官ではなく、いと高きお方にまさる学者でもない。
課せられた神の律法が軽んじられるより、今いる者たちがおおぜい滅びる方がましなのだ。
主はこの世に人々が生まれて来た時、何をすれば生きながらえるか、何を守れば罰せられないかを厳しく教えられた。
しかし彼らは従わずに神に逆らい、自らのために虚しいことをたくらんだ。
また邪悪な欺きを企て、あろうことか、いと高きお方は存在しないなどと言って、その道を認めなかった。
彼らはいと高きお方の律法を軽んじてその契約を拒み、そのいましめに忠実でなく、いと高きお方のみわざを行わなかった。
だからエズラよ、虚しいものには虚しさが与えられ、豊かなものには豊かさが与えられるのだ。

ほら、次のような時が来る。その時わたしがあなたに予告したしるしが来たり、目に見えない都市が現われ、今はまだ隠れている地があらわになる。
そしてわたしが予告したわざわいから救われた者はみな、わたしの驚くべきわざを見るだろう。
すなわちわが子イエスが、彼に従う者と共に現われ、地上に生き残った者に四百年間のよろこびを与えよう。
そしてこれらの年のあと、わたしの子キリストも、息をするすべての人間も死ぬだろう。
それから世は七日間、初めの時のような太古の沈黙にかえり、だれ一人生き残る者はないだろう。
そして七日の後、まだ目覚めぬ世が起こされ、過ぎゆく世は滅びるであろう。
その時地はそこで眠る者を、ちりはその中に声なく住む者を、倉は預けられた魂を返すだろう。
そしていと高きお方がさばきの座に現われる。その時憐れみは過ぎ去り、忍耐は退くだろう。
そこにはさばきがあるだけである。真理が立ち、正しさが力を得るだろう。
そしてさばきが行われ、報いが示されるだろう。正義のわざは目覚め、不義のわざは眠れないだろう。
そして責め苦の穴が現われ、その反対側には憩いの場所があるだろう。一方には地獄のかまどが、その反対側にはよろこびの天国があらわになるだろう。
その時いと高きお方は死から呼び起こされた諸国民に言われるであろう。『さあ、よく見てわきまえよ。あなたたちがだれを否定し、だれに仕えず、だれの言いつけを軽んじていたのかを。
さあ、あちらとこちらとを見るがよい。こちらにはよろこびと憩いがあり、あちらには火と責め苦がある』。彼はさばきの日、彼らにこのようにおっしゃるだろう。
その日には太陽もなければ、月もなく星もない。
雲もなく雷鳴もなく稲妻もない。風もなく水もなく空気もない。闇もなく夕方もなく朝もない。
夏もなく春もなく暑さもない。冬もなく霜もなく寒さもない。ひょうもなく雨もなく露もない。
真昼もなく夜もなく夜明けもない。輝きもなく明るさもなく光もない。ただいと高きお方が明るく輝くばかり。それによってあらゆる人は、自分たちのために準備されたものを見ることになるだろう。
その期間は一週間続くだろう。
これがわたしのさばきであり定めである。わたしはこれらをあなたにだけ教えたのだ」。

そこでわたしは答えた。「前にも言ったことですが今も申し上げます。あなたの定めを守って生きている人は幸せです。
しかしわたしが祈った人々はどうでしょう。生きている人で罪を犯さなかった人がいるでしょうか。生まれた人であなたとの契約を破らなかった人がいるでしょうか。
そして今わたしは、きたるべき世がわずかな人にとってのよろこびでしかなく、多くの者にとっては苦しみとなることがわかったのです。
というのは、われわれの中に悪い心が育ったからです。それはわれわれをあなたの定めから引き離して堕落へと導いたのです。またわれわれに死への道、滅びの道を示し、われわれを永遠の生命から遠ざけたのです。そしてこれはわずかな人だけのことではなく、創造されたほとんどすべての人がそうなのです」。

彼はわたしに答えて言った。「わたしに耳をかたむけなさい。そうしたらあなたを教え、もう一度あなたの誤りを正そう。
あなたが言ったそのことのためにこそ、いと高きお方は一つではなく、二つの世を造られたのだ。
あなたは、正しい人はたくさんいない、少ししかいない、反対に悪い人が数多いと言ったが、そのことへの反論を聞きなさい。
もしあなたがごくわずかの精選された宝石を持っていたとして、あなたは数を多くしたいからといって、鉛や土くれを宝石に加えるだろうか」。
わたしは言った。「主よ、そんなことはいたしません」。
天使は言った。「それだけではない。地に尋ねなさい。そうすれば地は答えるだろう。地におせじを言ってみなさい。そうすれば答えるだろう。
地に向かって言いなさい。『あなたは金も銀も銅もまた鉄も鉛も土くれも創り出す。
しかし金よりも銀が、銀よりも銅が、銅よりも鉄が、鉄よりも鉛が、鉛よりも土くれがたくさんある』と。
たくさんあるものと、めったにないものとでは、どちらが貴重で望ましいものか、自分で考えてみなさい」。
「統治者である主よ、たくさんあるものは価値が低いのです。めったにないものほど貴重なのですから」。
すると天使は答えた。「あなたの考えを自分でよく検討してみなさい。手に入れにくいものを手にした人はありふれたものを持っている人より喜ぶものである。
わたしが約束したさばきも同様である。わたしは救われる少数の者をよろこぶだろう。彼らは現に今わたしの栄光を優位にした者であり、今や彼らによってわたしの名がたたえられているからである。
しかしわたしは滅んでしまう群衆のことは悲しまないだろう。彼らは今でさえ霧のような者、炎や煙のようなものだから。燃えて焼かれて消えてしまったのだ」。

わたしは答えた。「おお地よ、あなたは何を産み出したのか。もし理性が他の造られた物と同様にちりから造られたのなら、
ちりそのものも生じなかったほうがよかったのだ。ちりから理性が生じることもなかったのだから。
しかし現実には理性がわれわれと一緒に育った。そのためにわれわれは悩むのだ。なぜなら、われわれは滅ぶことがわかっていて滅ぶのだから。
人類は悲しみ、野獣は喜ぶがよい。生まれて来た者はみな悲しみ、四つ足や家畜は喜ぶがよい。
彼らの方がわれわれよりよほど幸せだ。なぜなら彼らはさばきを待ち望むこともなければ責め苦も知らず、死後に自らに約束された救いも知らないからだ。
恐ろしい責め苦を受けるのなら、たとえわれわれがたしかに救われるのだとしても、何の役に立とう。
すなわち生まれて来た者はみな不正に汚され、罪に満ち、そしてあやまちの重荷を背負っているのだ。
もしわれわれが死後さばきを受けないのなら、おそらくずっと幸せだったろう」。

すると天使は答えた。「いと高きお方はこの世と、アダムと、アダムから生まれたすべての者を造るに先立って、さばきとそれにかかわるものとを準備された。
さてあなたは今、あなたの言葉自体を根拠として次のことを知りなさい。なぜならあなたは、理性はわれわれと一緒に育つと言ったのだから。
すなわち地に住む者は、理性をもちながら不義をなし、いましめを受けながらそれを守らず、律法を与えられながら受けたものをないがしろにしたのだ。このため彼らは責め苦を受けるだろう。
だから彼らはさばきに際し何が言えるだろうか。また終わりの時に何と答えるだろうか。
どんなに長い期間、いと高きお方はこの世に住む者を忍耐したもうたことだろう。しかもそれは彼らのためではなく、予定された時のためなのだ」。
そこでわたしは答えた。「もしもわたしがお許しいただけるのでしたら、主よ、どうかこのこともこのしもべに示してください。死んだ後にせよ今にせよ、われわれ各々が霊をお返しする時、われわれはあなたが新しい創造を始められる時が来るまで、憩いの中にしっかりと守られるのでしょうか。それともずっと責め苦にあうのでしょうか」。
すると天使は答えた。「それも教えよう。しかしあなたは律法を嘲ける者と一緒になってはならない。また自分を処罰される人々の側だと思ってもならない。
なぜならあなたはいと高きお方のみもとに、よい行為の宝があるからである。もっともそれは終わりの日にならなければ明らかにはならないだろうが。
さて死について語ろう。いと高きお方からの最終的な決定によって人が死ぬ時、霊は肉体から離れて、それを与えたもうた方のところに帰る。まずはいと高きお方の栄光をたたえるためである。
そしてそれが、いと高きお方の道を軽んじて守らなかった者、いと高きお方の律法をさげすんだ者、また神を畏れる人を憎んだ者の霊ならば、
これらの霊は憩いの住み家に入らず、その後は歎き悲しみながら苦悩のうちに次の七つの道を通ってさまようものとなるだろう。
第一は、いと高きお方の律法を軽蔑した人のための道である。
第二は、生きるために正しい悔い改めをすることができない道である。
第三は、いと高きお方の契約に忠実であった人々のために準備された報いを見るための道である。
第四は、終わりの時に自分たちのために準備された責め苦を思い浮かべるための道である。
第五は、天使が他の人々の住み家を大いなる静けさのうちに守っているのを見るための道である。
第六は、彼らのうちのある者が責め苦の中に移って行くさまを見るための道である。
第七。これが今までのどの道よりも深刻である。彼らは生きている時、神のみ前で罪を犯し、終わりの時には神のみ前でさばかれるのだが、そのいと高きお方の栄光を見て、混乱の中に衰え、恥辱の中にやつれ果て、恐怖のうちにしおれるという道である。
一方、いと高きお方の道を守った人々が、朽ちるべき器である肉体から離れる時のありさまは次のようである。
肉体のうちにとどまっていた時、彼らは苦労していと高きお方に仕え、律法を定めたお方の律法を全うするため、絶えず危険を耐え忍んだ。
だから彼らについてはこう言える。
何よりもまず、彼らは大いなるよろこびをもって、彼らを受け入れなさるお方の栄光を見るだろう。そして七つの段階を通って憩いに至るのだ。
第一は、自らと共に造られた悪しき思いによって、生命から死へと誘われないよう、悪しき思いに打ち勝つためにとても苦労をして戦った人ために準備された段階である。
第二は、不信心の者の魂があちこちにふらふらと迷い歩くさまを見て、彼らを待ち受ける刑罰を見る段階である。
第三は、この人々は生きている時に忠実に律法を守ったと、造り主が証言してくれるのを見る段階である。
第四は、倉の中に集められ、天使に守られて、大いなる静けさのうちに憩う現在の安らぎと、彼らの終わりの時に待ち受ける栄光とを知る段階である。
第五は、朽ちてゆく運命から逃れられたことを喜び、また神の財産を相続する未来を喜び、さらに数多くの困難と苦労に満ちた世から解放されたのを見て、不死となって喜びながらゆとりをもち始める段階である。
第六は、今後は朽ちないものとされて、自分の顔が太陽のように輝き、また星の光のようになったことが示される段階である。
第七。これが今までのどの段階よりも大きなものである。自信に満ちて喜び、惑うことなく信頼し、恐れることなく楽しむという段階である。なぜなら彼らが生きている時に仕えた方、彼らに栄光を与えて報いを授けてくださる方のみ顔を仰ごうと急ぐからである。
これがやがて明らかになる義人の魂の段階である。そしてさきほど述べた道は、神のおきてを無視した者が今後受けるべき責め苦である」。

そこでわたしは答えた。「では肉体から離れた後の魂には、あなたがおっしゃったことを目にする時間が与えられるということなのでしょうか」。
すると天使は言った。「魂は肉体の死後、七日間自由なのだ。その七日間にさっき語ったことを見るのである。そしてその後彼らはその住み家に集められるだろう」。
そこでわたしは答えた。「もしわたしがお許しいただけるのでしたら、このしもべにどうか次の事も示してください。さばきの日に義人は不信仰の人たちのためにとりなしを行ったり、彼らのためいと高きお方に懇願することができるのでしょうか。
父は息子のため、息子は両親のため、兄弟は兄弟のため、親戚は縁の近い者のため、友達は愛する者のためにとりなせるのでしょうか」。
天使は答えた。「あなたは許されたので、この事も教えてあげよう。さばきの日は断固として厳しいもので、すべての者に真理のしるしをあらわすのだ。今だって、息子が父のため、父が息子のため、奴隷が主人のため、友が友のために、身代わりで病気になったり、眠ったり、食事をしたり、健康になったりすることはできないだろう。
同様に、さばきの時にはだれも他人のために願ったりすることはないだろう。なぜならその時は一人一人が自分の不義や義の責任を負うのだから」。

そこでわたしは答えた。「ではどうして次のような例を見つけることができるのでしょうか。アブラハムはソドムの人々のために祈りました。モーセは荒野で罪を犯した祖先のために祈りました。
そしてモーセのあとをついだヨシュアはアカンの時にイスラエルのために祈りました。サムエルはサウルの時代にイスラエルのために祈りました。
ダビデは災害のときに神のために祈りました。ソロモンは聖所にいる人々のために祈りました。
エリヤは雨を待ち望む人々のために祈りました。また死者のために祈って生き返らせました。
またヒゼキヤはセナケリブの時代に民のために祈りました。またこの他にも多くの人々が、多くの人々のために祈ったではありませんか。
ですから滅んでゆく悪人がはびこり、不義が増大したときに、義人が不信仰の者たちのために祈っているのですから、どうしてさばきの日には同じようにならないのでしょうか」。
すると天使は答えた。「今の世は最終的なものではない。この世では神の栄光は常にとどまってはいない。だから有力な者が弱い者のために祈ったのだ。
しかしさばきの日はこの世の終わりであり、きたるべき不死の時の始まりとなる。その時には腐敗は過去のものとなり、
自分勝手な行いは追放され、不信は断たれ、その一方で正義が育ち、真理が現われる。
だからその時にはだれもさばきで負けた者を憐むこともできないし、また勝ったものを滅ぼすこともできないのだ」。
そこでわたしは答えた。「これはわたしの最初の言葉であり、また最後の言葉です。大地はアダムを産み出さない方がよかったのです。あるいは産み出してしまったのなら、アダムが罪を犯さないよう引きとめればよかったのです。
実際に現在は悲しみのうちに生き、死んでからは罰を待つというのでは、すべての人にとって何のよいことがあるでしょう。
ああアダムよ、あなたは何ということをしたのだ。あなたが罪を犯した時、堕落したのはあなただけではない、あなたから生まれたわれわれすべてもそうなのだ。
われわれに不死の時が約束されていても、罪を犯してしまったのが実状では、それがわれわれに何の益になるでしょう。
またわれわれに永遠の希望が約束されていても、われわれは悪いことをしているのが実状なのです。
また健康で安全な住み家が準備されていても、われわれはよこしまな生を送ってしまったのが実状なのです。
またいと高きお方の栄光が純潔に生きた人々を守ることになっていても、われわれがたいへん悪い道を歩んでしまったのが実状なのです。
また楽園があらわれ、その果実は朽ちることなく保たれ、満足を与え、体のためになるとしても、
われわれは汚らわしい場所に親しんでいたのだから、そこに入ることができないというのが実状なのです。
また節制した人々の顔が星より明るく輝くとしても、われわれの顔は闇よりも暗いというのが実状なのです。
というのは生前、われわれが不正を働いていた時には、死後どんな苦しみを受けることになるか考えてもみなかったからです」

すると天使は答えた。「地上に人と生まれて戦った者の戦いの意義はこうである。
すなわちもし負けたならば、その人はあなたが言った苦しみを受けるだろう。一方でもし勝ったならば、彼はわたしが言うものを受け取るだろう。
なぜならこれこそがモーセが生きていた時に民に向かって告げた道だからである。『あなたは命を選べ、生きるために』と。
しかし彼らはモーセをも、彼の後の預言者たちをも、さらに彼らに語ったわたしをも信じなかった。
だから彼らの滅亡を悲しむ者はないであろう。それは救いを信じた人々の上に将来喜びが臨むのと同じように」。

わたしは答えた。「主よ、わたしは次のことを知っております。いと高きお方は今、憐み深い方と呼ばれています。それはまだこの世に生まれていない者を憐れまれるからです。
また恵み深い方とも呼ばれています。それは悔い改めて律法に立ち帰る者を恵まれるからです。
また忍耐強い方とも呼ばれています。それは罪を犯した者をもご自分の造られた物として、彼らに忍耐を示されるからです。
また気前のよい方とも呼ばれています。それは要求するより与えることを好まれるからです。
また憐れみに富む方とも呼ばれています。それは現在、過去、未来の人に対してますます憐れみを増し加えられるからです。
というのは、もし憐れみを増し加えられなかったら、この世はそこに住む人ともども、生かされることはないでしょうから。
また与える方とも呼ばれています。なぜなら、もし不義を行った者がその不義から解き放たれるようにといと高きお方が善をわかち与えなければ、人々の一万分の一も生かされることはあり得ないでしょうから。
また赦す方とも呼ばれています。もしそのみみ言葉によって創造された人の罪を赦し、また律法への数多くの軽視を消しなさらなければ、おそらくは無数の群のうちのごくわずかな者しか生き残れないでしょう」。

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