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このサイトを作りながら、聖書を読みながら真理子が考えたことです。
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[908] 詩篇117のリフレイン 投稿者=HK. J. 掲示日=2011/10/07(金) 23:21:53 ここから閲覧 |
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ki le-olam chasdo のリフレインは、ヘブライ語のタアメ・ハミクラ(詠唱記号)を読み解くと、そのメロディーもまったく同じで、 [sol]ki le-o-[ti]lam chas-[mi]do ソ・ソ・ソ シ・シ ミ という繰り返しになります。 この囃子言葉のような繰り返しが、心地よく聞こえたのでしょう。 朗読に相応しい日本語訳として、わたしは新共同訳は好きです。 詩篇はもちろん、イザヤ・エレミヤも好きです。 ただし、日本聖書協会の朗読CDは、詩篇は女性の朗読の部分が好きではありません。聖書はやはり男声がふさわしいように思います。 |
[907] ハバクク書(全)、バルク書4章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/07(金) 10:00:13 ここから閲覧 |
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●ハバクク書(全) http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=hab&chapter=1&mode=0 ハバククがどういう人物かは、ハバクク書にはまるっきり書かれてないばかりか、旧約聖書のほかの部分にもまるっきり出て来ないのでよくわかりません。 内容から判断するに、ユダ王国滅亡寸前、第一回バビロン捕囚のころの人だと思われます。 実は、外典の『ダニエル書補遺-ベルと龍』でちらっと出てくるのですが(10/17に読みます)、時代が違いすぎるうえ、ユダからバビロンまでの空の旅をするという非現実的な話なのでシカトします。 3章ありますが、内容的にも3つの部分にわかれます。 1章はハバククと神様との対話。小見出しがついてないとどこからどこまでがハバククのセリフでどこからどこまでが神様のセリフなのかがわかりにくいですが、 ハバククハバ1:2-4:どうしてこっちが苦しんでるのに助けてくれないの! 神ハバ1:5-11:お前らに凶暴なカルデヤ人(バビロニア人)を差し向けてやる。 ハバククハバ1:12-およびハバ2:1:あんたは私たちの神じゃないか。こんなひどいやつらを差し向けるとはあんまりじゃないか! 2章は神様の答えです。ヨブ記の最終回答同様にあんまり答えらしくないのは昔からこの神様の常套手段ですね。 この長い答えの後半、「わざわいなるかな」という語がハバ2:6、ハバ2:9、ハバ2:12、ハバ2:15、ハバ2:19の五箇所に出てきます。そこを起点とした5つの嘆きの歌からなっているのです。「わざわいなるかな」というは意訳で、ホントはただの間投詞הֹוי(ホゥィ)。嘆きの間投詞ですが、直後の人の死を悼むのに使います。つまりは「~な奴らは滅びるぞ」というわけです。 3章はハバククの祈り。こういうこわい神様ですが、ハバククは信頼してほめたたえます。 七十人訳聖書(ギリシア語訳旧約聖書)には「詩歌」という書があります。日本語にはかつて一度も翻訳されたことがありません。教文館の『聖書外典偽典』にも収録されていません。それもそのはずで、旧約およびルカ福音書のうちの祈りの詩を抜粋したにすぎない本なんです(最後の14章を除く)。この翻訳は当ばべるばいぶるでしか読めません。えへん。ハバクク書3章の祈りも詩歌4章として収録されています。 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ode&chapter=4&mode=0 ●バルク書4章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=bar&chapter=4&mode=0 自業自得とはいえ捕囚されたイスラエルの民を嘆いていますが、後半では帰還を預言、希望を与えています。 |
[906] コヘレト1-2章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/06(木) 06:17:12 ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ecc&chapter=1&mode=0 コヘレトはユダヤ教のほうではメギロートと呼ばれる五つの小さな本、特定の祭のときに朗誦される本という扱いを受けています。その五つとは、 ルツ記……五旬祭(キリスト教でいうペンテコステ) 雅歌……過越祭第8日目 コヘレト……仮庵の祭 哀歌……エルサレム陥落の日(アブ月9日) エステル記……プリムの祭 ユダヤ教の聖書ではこの順番に配置されています。この順番を決定したときに考えられていた成立年代順です。 従来は「伝道の書」とか「伝道者の書」とか「説教者の書」という書名で呼ばれることが多かった本です。しかしこの本の語り手である伝道者や説教者が、ユダヤ教のどういう位置にいる人なのかがよくわからないので、今ではヘブライ語そのまま、コヘレトと呼ばれるようになりました。でもこれだと、人名のような気がしてしまうので、かえってまずい気がするんですけど。 語り手は、「ダビデの子、エルサレムの王」というわけで、普通に考えたらソロモン以外に考えられません。事実、大昔は素朴にそう信じられてきましたが、ルターがそれを否定して以来、さまざまな説が唱えられています。ルターはシラ書の実質的著者(シラの子イエス)の父つまりシラ(シラク)だとしました。その当否はともかく、時代的にはだいたいそのあたり、紀元前200年ぐらいだと思われます。 仮庵の祭りは、エジプトから導き出されたイスラエルの民が荒野で40年間放浪したことを思い出すために、7日間仮住まいをするもの。本書の全体に流れる虚無の思想が仮住まいにふさわしいと思われたのでしょうか。実際には仮庵の祭りは思い切り楽しく祝われるようですけど。 本書の思想を真理子流に解釈すると、昨日の詩編124編の考え方、「ひとつ、神の存在を疑ってみようじゃないか」ということなんだろうと思います。あらゆることをむなしいとして否定し否定し否定しまくって、その結果何が残るだろう、ということです。 第1章は、新しいものなんて何もない、つまり進歩を否定。そこから人間の仕事を否定。知恵も否定します。第2章では快楽を否定、おカネを否定します。 コヘレトには仏教の影響もあると言われています。ヘレニズム時代ですから東西交流は活発で、当時のありとあらゆる思想の影響を受けているため、「あれ、さっきはこう言ってたのに、こんどはこうかよ」という矛盾もあちこちあります。しかしそれは、語り手の自問自答、懐疑の過程をそのまま表したものととらえればいいんじゃないでしょうか。 実はコヘレトは旧約聖書中、雅歌と並んで私の大好きな本です。こうやってすべてのものを否定してくれると、妙に癒やされるんですね。いいんだよ、どうせ空なんだからさ、ってわけで。今後も楽しく読んでいきましょう。 |
[905] 詩編122-124編、バルク書3章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/05(水) 11:07:37 ここから閲覧 |
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●詩編122-124編 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=psa&chapter=122&mode=0 都もうで、ないし宮もうでの歌の続き。 どれも短い詩。119編みたいに無意味に長いのも困りものですが、短すぎるのもコメントのしようがなくなっちゃうので困ったものです。 そんななかで124編は、「主がもしわれらの方におられなかったならば」という発想が面白いです。よく、「神様がいるんだったらどうして正しい人が苦しむのか、罪もない人が津波で流されちゃうのか」なんていう議論がありますけど、ここで、もし神がいないとしたらと問うてみるといいでしょう。124編はもっとひどい結果になったろうという安直な結論を出していますが、あなたはどういう答えを出しますか? ●バルク書3章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=bar&chapter=3&mode=0 8節までが、エルサレムに残った民に対する代理の祈りのお願い。 それ以降は詩。知恵の書、シラ書と、知恵の賛美の話が続きましたが、ここも知恵の賛美です。父と子と聖霊が三位一体だというなら、ユダヤ教にとっては、ヤハウェと知恵が二位一体という感があります。 |
[904] 歴代誌下25-28章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/04(火) 05:56:35 ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=2ch&chapter=25&mode=0 7.南はアマジヤ、次ウジヤ 病気でヨタムに交代す 北はヤラベアム、次ヨタム おんなじ名前になっちゃった 8.北はゼカリヤそのあとは シャルム、メナヘム、ペカ、ホセア みんな謀反で即位して 国まで滅んでしまったわ 9.アハズ、ヒゼキヤ、マナセ、アモン ヨシヤ、エホヤハズ、エホヤキム エホヤキン、ゼデキヤと即位して 南も滅んでしまったわ この「南北の王名を覚える歌」([787])のアマジア~アハズが今回の範囲。歴代誌は北をシカトしてますが、アハズ王のときに北が滅んだことがわかりやすいように、8番も掲げておきました。 25章。アマジヤ(南9。BC800-783)。列王記では王下14。先代ヨアシはクーデターを起こされて殺され、それでアマジヤが即位したのでした。早速彼は父王を殺した家来たちを殺しにかかりますが、あくまで本人のみで、子どもは殺しませんでした。「父は子のゆえに殺されるべきではない。子は父のゆえに殺されるべきではない。おのおの自分の罪のゆえに殺されるべきである」申24:16と言う律法に従ったからだという話です。列王記のところでも言いましたが、たぶんこの時代に出来た新しい考え方なのでしょう。 ここまでの話は列王記にも書かれていますが、その後の話は(王下25:18あたりを除いて)歴代誌特有の話です。おカネで北の軍隊まで雇おうとした王をある預言者がいさめます。名前が書いてませんがどうもエリシャらしいです。この破約に怒った北の兵士たちが帰り道に略奪事件を起こしました。列王記には北との戦いの理由が書かれていませんが、こんなことだったそうです。 エドムとの戦いに勝ったはいいものの、異教の神への信仰を引き入れてしまい、このために神様の怒りを買い、クーデターを起こされて殺されてしまいます。 26章。次はウジヤ(南10。BC783-742)。王下15ではアザリヤとも呼ばれていますが歴代誌ではウジヤとしか呼ばれていません。いい政治を行いますがらい病にかかってしまいます。その理由が列王記には書かれていませんでしたが、歴代誌を読むと、祭司しかできない主への焚香を自分で勝手に行ったかららしいです。預言者イザヤが同時代人。 27章。次はヨタム(南11。BC742-735)。列王記では王下15:32-38ですがたいした話は書かれておりません。歴代誌もそうですね。だから27章はたった9節で終わります。 28章。次はアハズ(南12。BC735-715)。列王記にもありました王下16が異教の神々ばかり信仰します。北の王ペカ(北17。BC737-732)がスリヤ(アラムです。アッスリヤとはまた別です)と連合して南を攻め、南は大敗。エドムからも攻められます。このためアハズは新興国アッスリヤに貢物を送って平和をはかります。 |
[903] 申命記4-6章、バルク書2章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/03(月) 08:40:39 ここから閲覧 |
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●申命記4-6章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=deu&chapter=4&mode=0 今日のところは申命記の中でも重要な言葉がいくつも出て来ます。 申6:4-5「イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。」というのは、申命記の中で一番重要どころか、旧約聖書の中で一番重要、分厚い旧約聖書の内容を一言で要約するとすればこれだ、という、旧約聖書版般若心経みたいな語句です。 イスラエルではこの語句を小さな紙に書いてメズーザという筒に入れ、家の戸口につけたりします。申6:9にそうしろと書いてますものね。 日本でも、冒頭二語「シェマ・イスラエル」による呼び名が有名で、カタカナでこれを検索するだけでいろいろヒットするほど。新共同訳の文に曲をつけた人がいるのを発見しました。 http://francesco-clara.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-6a64.html 記事の中に楽譜とMIDIファイルへのリンクがありますので聞いてみてください。 5章では十戒ももう一度出て来ます。 しかし一番重要なのは、偶像崇拝の禁止を説いた4章の申4:24「あなたの神、主は焼きつくす火、ねたむ神である。」ではないでしょうか。偶像崇拝をしちゃいけないのは、つまるところ、ヤハウェくんが嫉妬しちゃうからなんですよ。しかもヤハウェくんは嫉妬すると何をしでかすかわからない、非常に危なっかしい神様だからなんですよ。 ちなみに新共同訳では「ねたむ神」ではなく「熱情の神」と書いてますね。「ねたむ神」だとさしさわりがあると思ったんでしょうか。でもごまかしちゃいけません。フラだって「妬みの神」と訳してるというのに、どの教派から横槍がはいったんでしょう? ●バルク書2章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=bar&chapter=2&mode=0 エルサレムに残った人たちに代理祈願してもらう文の続き。いま、自分たちが捕囚の身となったのは、自分たちおよび先祖が主の教えにそむいたからだとし、いまはバビロンの王に仕えるのが主の命令であり、時が来れば先祖の土地に帰ることができるだろうと言っています。 |
[902] ヘブル書11-13章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/02(日) 09:33:18 ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=heb&chapter=11&mode=0 説教でヘブル書をとりあげるとしたら90パーセント以上は11章でしょうね。この11章がなかったら、ひょっとしたらヘブル書は正典に入ってなかったかもしれません。 冒頭、口語訳聖書では「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」とありますが、後半は「見えない事実を事実と認めることである」のほうがいいです。「まだ見ていない」というと、将来見えるようになるという含みが入ってくるじゃないですか。神様が存在するなんていうのは、たぶん永久に目に見えるようにはならないでしょう。「見る」に相当するギリシア語βλεπομενωνは、βλεπωの現在分詞です。今見えないと言ってるだけで、将来見えるかどうかはまったく言ってません。 見えるものだけを信ずるのは科学ではあっても信仰ではないのです。この考え方をふまえれば、ヨハ20:29でイエス様がトマスに「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」と言った意味がわかるでしょう。お前なぁ、おいらの手と腋を見たいんなら見せてやるけど、見て信じるのは信仰じゃなく、見ないで信じるのが信仰なんだよ、ってことです。 11章は創世記~ヨシュア記の登場人物たちの信仰ぶりをとりあげていますが、ヘブ11:32では面倒くさくなったのか、「もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル及び預言者たちについて語り出すなら、時間が足りないであろう」なんて省略しちゃってますね。でも私としては、ぜひエフタだけは解説をしてほしかったわ。たしかにエフタは信仰によって戦いに勝利したけど、愛する娘を馬鹿ヤハウェに献げなくちゃいけなくなったのよ。これをどう説明するのかしら? 12章は、人間の不幸は神の試練であり、神は人々を実子だと思ってるから試練を与えるのだと言ってます。すばらしい言葉だわ。ぜひこれを東日本大震災や福島第一原発事故の被災者の前で言ってきてください。ヘブル書の著者さん。それにしてもこの発想は『巨人の星』的ですね。私はさすがにリアルでは知りませんが、去年TVKで再放送してて、面白く拝見させていただきましたわ。 |
[901] ステファノを迫害した人々 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/01(土) 21:51:21 ここから閲覧 |
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ステファノを迫害した連中の素性は、使6:9に書いてますが、ルカの手抜きギリシア語(田川・使徒行伝p.101)のためにとても難解です。いろんな訳を見るとかえって混乱するので、ひとつここは、原文と格闘してみましょう。文字化けを防ぐためアクセントは全部消しました。 NA:ανεστησαν(彼らが立ち上がった) δε(しかし) τινες(ある者たちが) των(それらの) εκ(うちの・次は「~の」という形) της(その) συναγωγης(シナゴーク=会堂の) της(その) λεγομενης(言われている) λιβερτινων(リベルティノスたちの) και(そして) κυρηναιων(キリニ人たちの) και(そして) αλεξανδρεων(アレキサンドリア人たちの) και(そして) των(それらの) απο(から・次は「~の」という形) κιλικιας(キリキヤの) και(そして) ασιας(アシアの) συζητουντες(一緒に議論をしている・現在分詞) τω(それに) στεφανω(ステファノに), ついでながら、聖書の逐語訳を掲げているサイトに http://bible.co.jp/bible/nt/index.htm があるのですが、この部分にけっこう間違いがあって使えません。人任せにはできないですね。 まず、主語はτινες(ある者たちが)、述語はανεστησαν(彼らが立ち上がった)。それから最後の「ステファノと議論している」というところなんで、全体構造は「ある者たちが立ち上がって、ステファノと議論した」。現在分詞って英語でいえば-ing形ですけど、定動詞みたいに使います。 で、文中にτων(その)とかτης(その)とかτω(それに)とか出てきてるのは全部定冠詞です。ギリシア語は「うそっ!」というくらい定冠詞をてんこもりで使います。固有名詞にだってばんばん、「赤い本」だったら「赤い」と「本」の両方につけます。そのことで、どの語がどの語にかかっているかが明白になるので、ギリシア語は語順が自由です。ここで出てきてる形は、τωが男性単数与格(~に)、τηςが女性単数属格(~の)、τωνが男性複数属格です。 さて、τινες(ある者たちが)の素性ですが、その次の定冠詞はτων。男性複数属格ですね。あれれれ、男性複数属格名詞が次にきませんね。そう思ってずっと探してみると、λιβερτινωνがそう。語尾が-ωνなんでわかりやすい。でもκαι(そして)でもう一つκυρηναιων(キリニ人たちの)、さらにκαι(そして) αλεξανδρεων(アレキサンドリア人たちの)。またκαι(そして)が続きますが、こんどはまた定冠詞των(それらの)がついてるのでこれは別物。つまり、αλεξανδρεων(アレキサンドリア人たちの)までひとまとまりで、それ全体にτινες のあとの τωνがかかってるんです。 「これは別物」以降を先に片付けちゃいましょう。απο(から・次は「~の」という形) κιλικιας(キリキヤの) και(そして) ασιας(アシアの)。κιλικιαςもασιαςも女性単数属格です。これは前置詞αποの次の語は必ず属格になるという規則のためです。でも、αποの前の定冠詞はなぜ「男性」複数属格なのでしょうか。実はこの定冠詞τωνだけで、「~という男たちの」という意味になるのです。次に「人たち」という語が省略されていると考えてもかまいません。 さて、とっておいたτων(それらの) εκ(うちの)以降の話です。συναγωγης(シナゴギス)は「シナゴーグ・会堂」という意味ですが、女性名詞で単数属格(~のという形。前置詞εκのせい)なんですね。次のλεγομενης(言われている)はλεγω(言う)の受動形現在分詞の単数女性形属格。これだけで「言われている」は「会堂」にかかることが明白です。全部定冠詞がτηςという形ですし、名詞なども語尾が-ηςなんで、文法うろ覚えでもわかりますよね。次のリベルティノスなんかにはかかりません。 しかし、シナゴーグなんていうのはごく一般的な語なんで「言われている」はおかしい。λιβερτινων(リベルティノスたちの) κυρηναιων(キリニ人たちの) αλεξανδρεων(アレキサンドリア人たちの)が修飾した形ではじめて「と言われている」が生きるのです。 整理すると、この人々とは、 1.「リベルティノス、キリニ人、アレキサンドリア人たちのためのシナゴーグ」に属する人たち 2.キリキヤやアシアから来た人たち ってことになるのです。 代表的な訳を並べます。 口語(×):すると、いわゆる「リベルテン」の会堂に属する人々、クレネ人、アレキサンドリヤ人、キリキヤやアジヤからきた人々などが立って、ステパノと議論したが 新共同(×):ところが、キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる「解放された奴隷の会堂」に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たちが立ち上がり、ステファノと議論した。 新改訳(×):ところが、いわゆるリベルテンの会堂に属する人々で、クレネ人、アレキサンドリヤ人、キリキヤやアジヤから来た人々などが立ち上がって、ステパノと議論した。 新世界(×):しかし,いわゆる“自由民の会堂”の者たち,およびキレネ人やアレクサンドリア人,またキリキアやアジアから来た者たちのうちのある人々が,ステファノと論じ合うために立ち上がった。 塚本(○):すると解放奴隷、クレネ人、アレキサンドリヤ人の礼拝堂と言われる礼拝堂の人々や、キリキヤ(州)、(小)アジヤの人々があらわれてステパノと議論をしたが、 岩波(○):すると、「ローマの解放奴隷」、キュレネ人、アレクサンドリア人のいわゆる会堂に属する人々、キリキア〔州〕やアシア〔州〕から来た人々のある者が立って、ステファノと議論をしたが、 田川(○):そこでリベルティノイとキュレネ人とアレクサンドリア人の会堂と呼ばれる会堂の者、またキリキアやアシア出身者など何人かが立ち上がって、ステファノスに議論をしかけたのだが、 岩隈(×):すると、キュレーネー人とアレクサンドリアー人とキリキアーとアシアー出身の人との、いわゆる「解放奴隷の会堂」のある人たちが進み出て、ステファノスと議論したが、 田川先生、この話をうだうだとp.101-102にかけて書いてますけど、文法的な形だけでイッパツじゃないですか(そのことを本にはちっとも書いてない!)。結果的には正しい訳になっているとはいえ、内容を考えてあれこれ吟味するところじゃないです。まずは形式です。形式で考えておかしいときにはじめて内容を考えるんです。 田川先生の著書がどれもみんな分厚いのは、余計な説明が多すぎるから。的確な説明だけをしてあとを削れば、現在刊行中の田川訳聖書は厚さが半分くらいですみます。 「日本聖書協会の聖書訳者さんたちはもう少しギリシャ語の初級文法を勉強なさる必要がある」なんて言ってますが、このことばをそっくり田川先生に献上いたしますわ。 ステファノ迫害の状況を今の日本にたとえれば、日本語のできない日系アメリカ人であるステファノが、カルト教団にはまってしまい、やはり日本語のできないアメリカやブラジルやペルーの日系人たちにカルト教団の宣伝をしてケンカになり、ぼこぼこやられて殺されちゃったというわけでして、日本で日本語を話してる日本人にとっては、どこかよそ様の事件ねという性格のものだったと思います。 |
[900] 使徒7-8章、バルク書1章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/01(土) 11:31:34 ここから閲覧 |
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●使徒7-8章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=act&chapter=7&mode=0 殉教者第一号のステファノの話。ステファノの演説が長いのでポイントがわかりにくいですが、使7:48にあるように神殿を否定していること、そしてイスラエルの民がモーセ以来預言者にたてついてきた、先日はイエス様を十字架につけ、今回は使徒たちを迫害するのか、というところがみんなを怒らせたんですね。 ところで、ステファノに対して怒りを発した群衆はいったい何者なのでしょう。 前回6章冒頭では、弟子がギリシア語派とヘブライ語派(と書いてますが実はアラム語でしょう)に分かれてきたという話があり、ステパノはギリシア語派筆頭の弟子でした。 そしてステファノを告発したのはギリシア語を話すユダヤ人だったのです。7章冒頭には大祭司が出て来ますが、彼はステファノ殺害には手を下していません。エルサレムの宗教当局者はステファノなんかどうでもよかったんです。 8章になると、ステファノの殉教のあとにエルサレムの教会に大迫害があって、「使徒以外の者はことごとく、ユダヤとサマリヤとの地方に散らされて行った。」(使8:1)とあります。ということは、よく読んでください。「使徒は迫害を受けることなく無事だった」ってことなんですよ。使徒はアラム語派ですから。 そんなわけでここまでは、ギリシア語派のユダヤ人の間の話だったのです。 エルサレムはアラム語の町ですから、ギリシア語を話すユダヤ人というのはいろいろな地域からエルサレムにやってきた人たちです。しかも、神殿参拝のために一時的にやってきたのではなく、ここに住み着いているのです。どうしてかというと、この時代、「終末がせまっている、エルサレムにいたほうが救われやすい」という考え方があったのです。彼らはそういう、ちょっとイッちゃった人たちであり、普通のユダヤ人とは遊離した存在だったのです。 さて、ステファノなきあと、ギリシア語派の筆頭はフィリポ(ピリポ)になります。エルサレムを追われてサマリアに行って宣教して功績をあげます。12節には、男も女も信じて洗礼を受けたとありますね。 そこでペテロとヨハネは重い腰をあげてサマリアに向かいます。 どうしてでしょうか。フィリポが宣教しただけではダメなのでしょうか。 ダメなんですよ。 16-17節には、フィリポの行った洗礼は主イエスの名によるものというだけで、聖霊は下ってなかった。聖霊を下すためにはペテロとヨハネが行かなきゃいけないみたいです。しかし、聖霊って本来の神様のものというか、三位一体ですから神様そのものじゃありませんか。それをペテロやヨハネが独占してるなんて! お前らそんなに偉いのか。5章のアナニヤ夫婦をポアした事件といい、やっぱりペテロは麻原彰晃化してますね。 こんなふうに、使徒=アラム語派はエルサレムにとどまる一方、各地への宣教はギリシア語派によって行われた、ということをおさえておきましょう。 ●バルク書1章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=bar&chapter=1&mode=0 バルクというのはエレミヤ書32章以降に出てくる書記、いわばエレミヤの秘書として活躍した人です。バビロンに捕囚されたユダヤ人たちが、エルサレムに残っている人々に手紙を書き、わたしたちのかわりに祈ってくれ、という散文がバル3:8まで。そしてその後は詩になっています。 |
[899] ナホム書(全) 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/30(金) 12:23:28 ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=nah&chapter=1&mode=0 十二小預言書も後半に入りました。 聖書の書名を覚える歌(浅見定雄式) http://www.babelbible.net/mariko/bib.cgi?doc=song&course=bib の2番、 2.イザヤ、エレ、哀、エゼ、ダニエル ホセア、ヨエ、アモ、オバ、ヨナ、ミ ナホム、ハバクク、ゼファニア書 ハガ、ゼカ、マラキで39 の、ホセア~ミ(=ミカ)はアッシリア時代、ナホム~ゼファニアはアッシリア末期、ハガ(=ハガイ)~マラキはペルシア帝国時代となっています。こういうふうに預言者の時代がよくわかるのも浅見式の歌のすぐれたところです。 冒頭の「エルコシ」というのがどこにあるのかはよくわかりません。 ナホム書の内容は一言でいえばニネベの滅亡の予言です。ニネベというのはヨナ書では神様が助けようとしてヨナにデマ男になってもらった話で出てきましたが、アッシリアの都。史実としてのアッシリアの滅亡はBC612です。予言といっても実際には事後予言、つまり結果を知った上であたかも昔に予言したかのような体裁で書いたのかもしれませんし、本当に予言でも、滅亡しそうな状況が迫ってからのことでしょうから、この年(BC612)にかなり近い時代だと思われます。 今日の神様はこわいです。なにしろ冒頭ナホ1:2で「主はねたみ、かつあだを報いる神」なんて出て来ますから。なにしろ出34:14によればヤハウェさんは別名「ねたみの神(エル・カナー אֵל קַנָּא)。新共同訳の『熱情の神』なんていうのは悪質な誤訳」というくらいで、とってもこわいんです。でもそれは、アッシリアが悪いことをしたからいけないんで、悪に対しては厳しく臨むというのも神様の大切なお仕事なんですね。 翻訳の問題がある点を一つだけ指摘しておきます。 ナホ2:8(BHSによる節番号。従来は7節)の冒頭の2語 וְהֻצַּב גֻּלְּתָה (ウ・ホゥッツァブ グルラタ)っていうところは意味が不明で、みなさんがんばってます。 先頭のウはandという接続詞だからシカトして、ホゥッツァブっていのは、普通に考えると「彼はしっかり立てられる」という三人称単数男性形の動詞なんですが、次が三人称単数女性形なので、たぶん固有名詞なんでしょう。で、次のグルラタっていうのは「彼女は裸にされた」。だから、ホゥッツァブは裸にされた、が普通でしょうね。まあHuをホゥって書くのは私の流儀なんで(フって書くとみんなFuって読む)、一般には「フッツァブは裸にされた」。岩波がまさにこのとおり。 ところが問題は、グルラタのほうを裸って書いてない訳が多すぎるってことです。KJV、RVなど往年の訳がそう。新改訳も「王妃は捕らえられた」。フラも、直訳だと裸だって注にわざわざ書いてるのに読み変えて捕囚にしちゃってる。ちゃんと裸って訳しているのはRSVはits mistress is stripped.(王妃は裸にされた)で、固有名詞を訳してないけど、これが人名だというのは推測でしかありませんから、まあいいでしょう。口語訳もその流儀。新共同訳は実質的にフラの後継だけど、「衣をはがれて」と書いてますね。 |
[898] 箴言31章、シラ書51章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/29(木) 09:44:30 ここから閲覧 |
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●箴言31章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=pro&chapter=31&mode=0 冒頭にあるようにお母さんの教え。その冒頭が「あなたの力を女についやすな、王をも滅ぼすものに、あなたの道を任せるな」というのはすごいですね。 ついで「酒を飲むな」などのあと、賢い妻の話が10節以下最後までですね。 箴言はことわざ集ということで雑然としたところがあり、中には女性蔑視と思えるようなくだりもいくつかありましたが、最後は賢い女性はかくあるべしという女からの意見を載せて、めでたく終了です。 ●シラ書51章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=51&mode=0 シラ書も今日でおしまい。 冒頭の序文にあるように、シラ書の実質的な著者は、著者の祖父であるシラの子イエス、だからヘブライ語でいえば、エホシュア・ベン・シラでした。知恵を求める彼の生き方を祈りの中にまぜて、シラ書を結んでいます。 |
[897] 詩編120-121編 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/28(水) 16:39:18 ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=psa&chapter=120&mode=0 120編から134編までは「都もうでの歌」「都へ上る歌」などと訳されていますが、ヘブライ語ではשִׁיר הַמַּעֲלֹות、シール・ハマアロート。シールは「歌」、ハは定冠詞で、マアロートというのはעלה(アラハ。上る)の名詞形の複数にすぎません。だから「都」はないんですね。事実、新改訳でも「都上りの歌」と訳してるくせに、新聖書注解では「宮上りの歌」のほうが正しいなんて書いてます。さらには、これは都なり神殿なりに参詣するという意味ではなく、宮の階段を上りながら歌うのだとか(そしたらミサの昇階唱ですね)、内容的に前節の語句を尻取りのようにして発展していくのだとか、いろんな話があるみたいです。 私は昔から、「神殿を参詣するために都へ上る集団が歌う歌」、つまりはワーグナーの「タンホイザー」に出てくるような巡礼の合唱とか、「雪山賛歌」みたいなものだと思ってました。 こういうときの歌は、聖なる目的のために非常に清らかな感じになり、詩編にありがちな敵への呪いみたいなものはあんまり出て来ません。だから安心して読むことができます。 |
[896] 歴代誌下21-24章、シラ書50章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/27(火) 10:15:04 ここから閲覧 |
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●歴代誌下21-24章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=heb&chapter=8&mode=0 [787]で作った「南北の王を覚える歌」、4-7番を掲げておきましょう。南の最初の王レハベアムからの流れの復習です。 4.南はユダ族、エフライム 治める王様レハベアム アビヤム、アサ、ヨシャパテと経て 北と同名ヨラム立つ 5.南のアハジヤ北に行き ヨラムを見舞ってみたものの エヒウのクーデターに巻きこまれ 母のアタリヤ即位する 6.北はエヒウにエホヤハズ 南はアタリヤ殺されて ヨアシが立ってみたものの 北もヨアシが即位する 7.南はアマジア、次ウジヤ 病気でヨタムに交代す 北はヤラベアム、次ヨタム おんなじ名前になっちゃった 代下21。南の王はヨラム(南5。849-842)。北もヨラムで、在位年代も同じです。列王記でいえば王下8:17-22。歴代誌は北をシカトしますから、列王記下のほうは1-7章の北の話をびゅんびゅん通過して8章にまでなっちゃいましたね。 読み比べてみると、南ヨラムの死の状況が列王記には書かれておりません。内臓が出る病気ですか。先日、主人のお父様がヘルニアつまり脱腸で手術したという経験を持つ私には、ひとごとではありませんわ。それにしても、「お前は悪いことをしたから脱腸になって死ぬぞ」というエリヤの手紙はえげつないわ。私、こういうの見ると、昔の創価学会を思い出しますのよ。人が重い病気にかかると、それは謗法(他宗教を信仰している罪)のせいだ、題目をあげなさい、なんていうんです。いまは公的にはあんまりそういう指導しませんけど、やっぱり末端の会員は、昔とった杵柄で、そういう話をする人多いですからね。だから私は創価はイヤなのよ。創価ってあれだけカネ持っていながら、病院を一つも作らないんですよ。病気は全部宗教で治ると思っているんでしょう。 代下22。即位したアハジヤ(南6。842)は北ヨラムを見舞いに行き、スリヤ(アラム)との戦闘にも参加しますがそこで負傷、さらにエヒウのクーデターに巻き込まれて死んでしまいます。在位はたった1年。この話は王下8:24-29および王下9です。 アハジアの死後は母のアタリヤ(南7。BC842-837)が南唯一の女王として即位。お母さんということは彼女自身は王族じゃないわけですから、王族をことごとく殺そうとします。王子のヨアシだって殺そうとしますけど(孫なのに!)、エホシバにかくまわれて無事。このエホシバはアハジヤの妹であり、祭司エホヤダ(ヨヤダ)の妻。 代下23。祭司エホヤダはクーデターを起こしてアタリヤを殺し、かくまっていたヨアシが即位(南8。837-800)。列王記では王下11になります。 代下24。列王記では王下12です。ヨアシは祭司たちが献金の横領をしているのを許さず直接献金を管理して神殿を修理します。こんなにいい王様だったのに、スリヤ(アラム)に攻められるうえ、クーデターを起こされて死んじゃいます。 列王記のほうではそういう事実を単に記すだけでしたが、いい王様が不幸にあって死んだとあっては歴代誌は困りますので、一つの事件を記します。 祭司エホヤダの死後、人々はアシラと偶像を崇拝するようになります。それを祭司エホヤダ子ゼカリヤが非難すると、人々が石でうって殺します。死ぬ間際にゼカリヤがヨアシ王を呪います。これがヨアシ王の不幸の原因だというのです。 ●シラ書50章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=50&mode=0 大祭司シモンの話は旧約聖書正典の時代より後なので、聖書のほかのところにまったく話がありません。外典ならば一マカ13になります。こういう外典の引照は新共同訳続編つき引照つき聖書を見てもいい加減で、シラ50→一マカ13というのはまったく書かれていません。外典の引照情報はまだまだ蓄積がないんでしょうか。 |
[895] 申命記1-3章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/26(月) 09:54:22 ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=deu&chapter=1&mode=0 申命記というタイトルは説明が必要です。 まず「申」は、主人のサイトで公開している「WEB支那漢」(民国時代の小学生向けの字典を文語の日本語に翻訳した「支那文を読む為の漢字典」という名字典をWEB公開したもの) http://www.seiwatei.net/chinakan/chinadsp.cgi?gif=342 重なり。一再陳述するを「申説」といふが如し とありますとおり、「かさねて」という意味があるのです。つまり「再度の命令」というわけです。 [786]およびその下の785で書きましたとおり、南のヨシヤ王(南16。BC640-609)が即位しますの時代に大祭司ヒルキヤが宮殿を工事していたら昔の律法が出てきました(王下21)。読むと、あらまあ、ユダヤ人がいかに主の律法に反する政治と暮らしをしているかがよくわかりました。これは大変というので政治改革、宗教改革を行ったんですね。 もちろん実際には、この時代に創作した律法を、昔の本だと宣伝したというだけの話だと思います。 [786]で「ユダヤ教は三度作られた」と書きましたが、一度目がこの時代です。それ以前のイスラエルでは、ヤハウェなんてたくさんある神のうちの一人にすぎず、バアルだのアシェラだのと一緒に拝んでいたのです。ヨシヤ王の時代に、ヤハウェを奉ずるグループが力を得て、宗教の統一をはかり、団結を強化しようとしたのですね。 ですから、ヤハウェに関するこれまでの律法も、この時代に新たに追加されたものもこきまぜて、「もう一度命令しておくからちゃんと守りなさい」というのが申命記というわけです。 申17:18に「この律法の写しを」うんぬんとありますが、これをLXXがδευτερονόμιον(ゼフテルロノーミオン)、ヴルガタがDeuteronomium(デウテルロノミウム)、どちらも「第二の律法」と訳され、これが書名になりました。バルバロなんかは「第二法の書」なんて呼んでます。誤訳にしてはあまりにうますぎるので、意図的なものかもしれません。 今日読むところは申命記の前置きのような部分です。もうシナイ放浪の間の事件はほとんど民数記で終わってしまい、申命記の中で起こる事件の時間的長さはほんの一瞬です。砂漠を放浪してきたイスラエルの民の第一世代は、モーセを含めて、約束の土地に入れないことになってしまいました。例外はカレブとヨシュアだけでしたね。だからモーセも約束の地を前にしてもうすぐ死にます。今日読むところ(ホントは次の4章まで)はモーセの告別の説教と言えます。読むと、民数記で起こった事件の経過を振り返っていますね。 以後は来週になりますが、5-28章が律法の本体、そして29-34章が結びということになります。 |
[894] ヘブル8-10章、シラ書49章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/25(日) 10:57:28 ここから閲覧 |
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●ヘブル8-10章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=heb&chapter=8&mode=0 私たちにとって教会っていうのは手ぶらで行くところであり、そのときのふところ具合によっていくばくかのおカネを献金するところです。神社なんかも手をあわせて、小銭を入れて、パチパチ手をうって、それでおしまい。 ところがこの時代は、神様のところへ行くのは手ぶらでいってはダメなんです。シラ35:6「手ぶらで主の前に出るな」とあるとおりです。モーセ五書に記された規定にしたがっていろんな動物や鳥や穀物をいけにえとしてもっていかなきゃだめなんですね。 なんだか血なまぐさいですけど、今日読むところ(ヘブ9:16-17)でも「遺言っていうのは遺言する人が死ななきゃ有効にならない」という、なんだかわけのわからない理屈を述べて、契約っていうのは犠牲の血を流さなきゃ有効にならないと言ってます。 手紙の中には神殿破壊の話は一言もありませんから、執筆はAD70の神殿破壊の前だと思われます。いけにえをもって神殿にお参りして祭司にいけにえを殺して血を流してささげてもらうという考えを当然の前提として、イエス様の役割を説明しようとするので、とてもわかりにくいです。 さて、8-10章はいままで書いてきたわかりにくい説明のまとめです。イエス様は大祭司であり、いけにえをささげて神にとりなしをする人物です。ところが現実には祭司が別にいるのですから、イエス様は別の任務をおびた祭司ということになります。神様がいままでの契約を捨てて新しい契約を結んだのです。ヘブ8:8-12はエレ31:33の自由な引用です。 この新しい契約では、イエス様はご自分の肉体をささげることによって、私たちの罪をすべてクリアしてくださることになっています。今までの契約でも雄牛ややぎの血を流しましたが効果は限定的でした。しかしイエス様の犠牲の効果は無限、永遠だというわけです。 こんなふうに従来の「いけにえをささげるお祈りのしかた」になぞらえてイエス様の役割を説明したあと、10章後半からは、もうそういうやり方はおしまいになった(だって効果は永遠ですもの)んだから、「そんなことより信仰だ」と、信仰の大切さを説くようになります。 実は現代の説教でヘブル書がひきあいに出されるとすれば、10章後半からじゃないでしょうか。いよいよ現代人にもわかりやすい部分になります。……ということで、続きは来週。 ●シラ書49章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=49&mode=0 ヨシヤ、エレミヤ、エゼキエル、十二小預言者、ゼルバベル、エシュア、ネヘミヤと、時代が新しくなります。なぜかエズラがないんですけど。 その後、話は突然エノク、ヨセフ、アダムと、創世記の世界に逆戻りしてしまいます。ここでイスラエル史の概観が終了します。 エノクは創5:24で、(死んだのではなく)「神が彼を取られたので、いなくなった」という謎めいた書き方をされています。私は今でも、ここを読むと怖くてゾクゾクと来るんですけどね。なんか不気味じゃありませんか、まさに神隠し。でも昔から、エリヤと並んで「生きながら天にあげられた」という肯定的な評価をされています。 |
[893] 使徒行伝5-6章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/24(土) 11:43:28 ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=act&chapter=5&mode=0 ペテロの率いる教団に入るためには、財産はすべて売り払ってそのおカネを教団に寄付しなければなりませんでした。 もっとも使2:44-45ではまるっきり私有財産がないかのように書かれているのに、使4:32では、「その持ち物を自分のものだと主張するものがなく、いっさいの物を共有にしていた」つまり、共有ではあるけど一応「その持ち物」はあるみたいです。これ、微妙に違う書き方で、加藤隆先生は、私有財産についての考え方がだんだん変化してきたんだと言ってますけど、よくわかりません。いずれにせよ、持ち物はあっても共有みたいです。 ところが5章に入ると、自分の資産を売ったのに一部しか教団に献金しなかったアナニヤという人物があらわれます。彼に対するペテロの追及はすさまじい限り、オウムの麻原も真っ青の恐ろしさ、なんと夫婦ともどもポアされてしまいます。こわいですね。カルトですね。 私はこの話、ヨシュ7のアカンさんという、分捕り品をちょろまかしたあかん人の話とパラレルなものを感じます。あのときもイスラエルの民は思わぬ敗戦をし、これは誰か悪いことをした奴がいるんじゃないかと内輪の犯人さがしで犠牲になった人ですね。 現在のペテロの教団もユダヤ教の体制側から攻撃をされている。4章でもペテロとヨハネは拘留されたし、5章後半でも使徒たちがつかまっちゃいます。 こういうときに内部の誰かを犠牲の羊にしてみんなで内ゲバして血祭りにあげて結束を図るというわけです。ああ、恐ろしいわ。 6章では、ギリシア語派の弟子とヘブライ語派の弟子との対立という新たな問題が起こります。内輪もめウォッチングの好きな真理子はもうどきどきよ。次回が楽しみだわ。 |
[892] ミカ書(全)、シラ書48章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/23(金) 13:25:26 ここから閲覧 |
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●ミカ書 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=mic&chapter=1&mode=0 ミカ書は全7章。一気に読んじゃいます。 7.南はアマジア、次ウジヤ 病気でヨタムに交代す 北はヤラベアム、次ヨタム おんなじ名前になっちゃった 8.北はゼカリヤそのあとは シャルム、メナヘム、ペカ、ホセア みんな謀反で即位して 国まで滅んでしまったわ 9.アハズ、ヒゼキヤ、マナセ、アモン ヨシヤ、エホヤハズ、エホヤキム エホヤキン、ゼデキヤと即位して 南も滅んでしまったわ いきなり「南北の王名を覚える歌」から始まりました。なんで7~9番を長々とあげたかというと、ミカの時代は「ユダの王ヨタム(南11。BC742-735)、アハズ(南12。BC735-715)、ヒゼキヤ(南13。BC715-687)の世」とあるわけですが、この間に北が滅んじゃうわけですね。それを知ってほしくて長々とあげました。「ユダのアハズ王のときに北が滅ぶ」と覚えておくのもいいかしら(ちょうど歌の9番冒頭です)。 ミカはミカヤと表記されることもありますが、今週の火曜日に読んだ代下18に出てくるイムラの子ミカヤとは別人です。 このように、実際に北王国の滅亡を目の当たりにしたミカですから、ベースとしては「悪いことやっとると神様が怒ってエルサレムだって滅ぼしちゃうぞ」という警告と滅亡を預言しているんですが、その一方で救いの預言もしています。それはミカ2:12-13、ミカ4、ミカ7:8-20ですね。このあたりはバビロン捕囚つまり南の滅亡後に書かれたと言われています。つまりは紀元前6世紀(500年代)ですね。そんなころまでミカが生きてるはずがないので、つまりは別人が書いたってことですね。これはほぼ定説で、福音派御用達の新聖書注解でも反論せずに書いてるほどです。人によっては4章以降すべてを「第二ミカ」としてるほどです。 ミカ書はマタ2:6で、救い主イエス様がベツレヘムから出る根拠として引照されています。また、エレ26:18ではミカの預言ミカ3:12が名指しで引用されています。また、ミカ4:1-3はイザ2と、細かい語句の違いを除いて実質的にまるきり同じです。イザヤのほうが先輩ですからミカがパクったんでしょう。いや、預言者の言葉は神様の言葉のはずですから、神様が手抜きをしたのでしょう。 こういう参照関係を知るのが「引照」なんですけど、引照情報っていうのは、単に同じような語句が出てくるっていうだけじゃなく、はっきりと引用されているっていう情報が知りたいことが多いんですよね。聖書の引照ってあれもこれもいっしょくたに書いてありますから、はっきり引用されているものは太字とか、わけてほしいです。これを知るためにはデジタルのテキストデータで「 」を検索して、そこの引照データを見ることなんで、私も早く引照データを入力しなきゃいけないって思うんですけど、引照データって文字が小さくて、急速に目がババァになった私にはつらいのよ。誰か助けて。どっかにそのままパクれる引照データないかしら? ●シラ書48章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=48&mode=0 エリヤとエリシャ、北の滅亡と、南のヒゼキヤの話。3節の「空を閉ざし」たというのは干ばつの話、「三回火をふらせた」というのは王上18:38(異教の預言者たちとの対決)と王下1:10,12(アハジヤ王の派遣した五十人隊を二度にわたって火で滅ぼしたこと)です。死者を生きかえらせたというのは{1ki;17:17-24}、太陽が逆戻りした話は王下20:11およびイザ38:8。列王記で読んだ話を思い返しながら読みましょう。 |
[891] 新通読表作成、この掲示板について 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/23(金) 12:06:12 ここから閲覧 |
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来年度以降の通読表を作成しました。 http://www.babelbible.net/bible/dspcalen.cgi で、本年12月12日以降のメニューが新しくなってます。ポイントは、 2行目(外典・イミタチオコース) 月曜日から金曜日までが外典。外典はLXXとヴルガタに入っているすべての書。 土曜日と日曜日はイミタチオ。 年末はちょっと「年末調整」。外典がちょっと足りなかったので、以下を追加。 ・アリステアスの手紙 ・ヤコブ原福音書 ・トマスによるイエスの幼児物語 ・コリントの信徒への第3の手紙 これらはばべるのデータには入れず、テキストファイル(HTML)で作成。 3行目(モルモン経、クルアーンコース) 金曜日と土曜日はクルアーン、年の後半は木曜日もクルアーン その他の曜日はモルモン経 来年度はこの通読にあわせて、外典とイミタチオは「真理子のおまけ」を作成していきますけど、クルアーンまで手が届くかどうか。モルモンは口語訳モルモン経そのまんまですし、クルアーンは大川先生の訳をそのまま掲げちゃうかもしれません。 それからこの掲示板は、本年12月12日からはデータを一新して[1]から始めます。毎年通読表のスタートとともにデータを一新します。ただし過去のデータは残します。どこかからリンクされているといけないので、今後は http://www.babelbible.net/bbs/bbs.cgi?year=2012 みたいな感じでyearオプションをつけることにしようと思います。このオプションがなければ今までのデータを表示します。 |
[890] 箴言29-30章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/22(木) 12:47:03 ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=pro&chapter=29&mode=0 いよいよ箴言もあとわずか。31章でおしまいです。 なお、LXXでは29章の次がいきなり31章。30章がどこへ行ったのかと思ったら、1-14節が箴24:23のあとに、15-31節が箴24:34のあとに割り込んでいます。印刷媒体のものだとそうなっているのですが、章・節番号はマソラのものに対応したものが振られています。そのせいで、電子媒体 http://www.bibelwissenschaft.de/online-bibeln/ などで配布しているものは、マソラの順番になっちゃってるので、このことに気づかずに終わってしまいます。 さて、分断された30章の後半の15-31節は、「~が三つある。いや四つあってそれはトンデモナイ」というレトリックが出て来ます。これはシラ26:5とかシラ50:25にも同工異曲のものが出て来ます。ユダヤ人のすきなレトリックなんでしょう。まねしてみると面白いかも。 そのうちの箴30:19の四つめ、つまりこの上なく不可思議なのは「男が女に会いに行く道」。どこをどうやっていくのか知らないけど、いつの世でも男は女を求めて塀を乗り越えたりするわけですね。 そこで使われている「女」のヘブライ語がעַלְמָה׃、アルマーと読み、若い女の意味。こうやって男が夜這いに来るくらいですから、たぶん処女ではないでしょう。しかし、イザヤが「おとめが身ごもって男の子を産む」とイザ7:14で読んだところも、このアルマーでした。これをLXXがπαρθενος(パルテノス)という「処女」という単語で訳しちゃうから、マリア様の処女懐胎伝説ができちゃったわけです。では箴30:19ではどう訳してるかというと、単数主格に直せばνεοτης(ネオティス)、ただの「若い女」です。同じLXXなのに訳語が不統一ですね。イザヤ書がこう訳しておけば、処女降誕の話ができなかったかもしれませんね。 |
[889] ちなみにクルアーンとモルモン経の章数は 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/22(木) 12:16:03 ここから閲覧 |
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ちなみにクルアーンとモルモン経の章数は、クルアーンが114章、モルモン経が245章あります。ですから足すと359で、これを1日1章読めば、ほぼ一年間でまわせます。 ただしクルアーンは長い章と短い章の差がはげしいので、昔からjuz'という単位で読んでいくのが普通です。それはWikipediaの http://en.wikipedia.org/wiki/Juz' に書いてあります。これが30とか60という単位なので、あんまりよろしくない。 あ、60日周期のHizbをさらに2分すれば120章ぶんになって、モルモン経とあわせると365。これはすばらしいわね。どこかで1つまけば、364になるわ。ちょっとこれは考えておきます。まあ、再来年の課題にしようかしら。 |
[888] 来年からの通読表リニューアル 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/22(木) 12:06:53 ここから閲覧 |
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いま当サイトで使用している聖書通読表は http://www.bible-reading.com/bible-plan.html のサイトのものをそのまま借用しています。旧新約聖書(外典除く)を364日で読むというプログラムで、1996/1/1からスタートして毎年1-2日ずつ開始がずれて、次回は2011年12月12日から始まります。 外典は、新共同訳にのってる書が合計で181章、これは2倍すると362なので、2日に1章読むことにすれば、最後に1回だけ休むとちょうどこのサイクルにのっかります。現在はそのようにスケジュールを組んでいます。だから外典は1日おきに1章ずつとなっています。 ところが聖書の外典は新共同訳に載ってるもののほか、LXXやヴルガタには マカ3、マカ4、詩歌(Odes)、詩編151編、ソロモン詩編、ラオデキア人への手紙 があり、これが合計59章あります。これも何とか読んで行きたいところです。 今年は、外典の通読にあわせて、真理子独自訳(真理子のおまけ)を作成してきました。独自訳というと聞こえはいいですが、実は既存のいろんな訳のつぎはぎです。えへ。 来年は、上記のマカ3~ラオデキアも通読スケジュールに入れて、「真理子のおまけ」を作成していきたいと思います。 さてそうすると、新共同訳収録外典が181章、その他の外典が59章ですから240章。364日ぶんにするためにはあと124章ぶん、どこかから持ってこなきゃいけません。 当サイトでは聖書以外に、クルアーン、イミタチオ(キリストにならいて)、モルモン経をサポートしていますが、クルアーンやモルモン経をメニューにいれると抵抗のある人も多そうなので、キリスト教の参考書としてイミタチオを入れることにしましょう。これが全114章ですから10日あまりますが、そこで何を読むかはその時期が来てから考えることにします。 そんなわけで来年からの通読表は、外典は毎日になり、上記マカ3~ラオデキアと、イミタチオが入ってきます。 |
[887] 二人じゃない!!!! 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/21(水) 08:31:45 ここから閲覧 |
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[882]で、ついうっかりしてしまったことがあるので、補足しておきます。 使徒行伝3-4章で、足を癒やされた男がその後もペテロとヨハネにつきまとい、一緒につかまっちゃう話。釈放された後について私が、 最後は二人だけが教団に帰ったことになってますが、たぶんこの人を引き取らざるを得なかったんじゃないでしょうかね。 と書いたのは間違い、というより、使4:23を多くの日本語訳が「二人」と訳しているのに私がひっかかってしまったことです。 実はこれ、原文は「二人」って書いてない。単に動詞に三人称複数語尾がついてるだけ。ついでながら21節に2回出てくる「二人を」もαυτουςですから単に「彼らを」です。 だから、これは二人ではなく三人である可能性も高いんです。 文語訳では「彼ら」と訳しているのを、口語訳、新共同訳、新改訳はわざわざ「二人」と、解釈をまじえた訳にしちゃってるんですね。 この点を加藤隆先生も指摘しておられるんですが、私はつい忘れてしまいました。 少なくとも、23節は「彼ら」と訳しちゃダメ。演説から拘留のシーンなら、二人と訳すのもいいかなってところです。19節の「ペテロとヨハネ」は原文もそうなってますからね。 ついでに他の訳を見ておくと、 彼ら(○)……正教、新世界、田川(21節は「ペテロたち」だけどそれなら合格)、岩隈、新和訳(21節の「脅しをかけられた」ほうは「二人」だけどまぁいいか)、宮平 二人(×)……ラゲ、バルバロ、塚本、フラ、岩波、リビング、柳生、現代 その他……エマオ(21節は彼ら、23節は二人。それじゃダメじゃん) |
[886] 詩編119編、シラ書47章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/21(水) 07:49:19 ここから閲覧 |
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●詩編119編 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=psa&chapter=119&mode=0 今日は1つだけ、と思ったら、これがやたらに長い詩。 いままでの詩編(112、113編)や哀歌など、アルファベットで始まる詩というのがありましたが、今回もアルファベットによる詩。しかも各22文字で始まるものが実質的に別の詩になっている、つまり119編は、これ自体が22編の詩集になっているのです。 ですからまとめて通読するというより、気にいったところだけを読むというほうがいいのではないでしょうか。 たとえば、あなたのお名前の頭文字で始まるところだけを読むというのはどうでしょう。ここをあなたのお守り歌にするのです。 ア行=アレフ[A,O](詩119:1-8)またはアイン[E](詩119:121-128) ※「い」の人はヤ行へ。「う」の人はワ行へ。 カ行=カフ[K](詩119:81-88)またはコフ[Q](詩119:145-152) ガ行=ギメル[G](詩119:17-24) サ行=サメク[S](詩119:113-120) ※「し」の人はシン(詩119:161-168) ザ行=ザイン[Z](詩119:49-56) タ行=テス[T](詩119:65-72)またはタウ[T](詩119:169-176) ※「つ」と[C]の人はツァデー(詩119:137-144) ダ行=ダレス[D](詩119:25-33) ナ行=ヌン[N](詩119:105-112) ハ行=ヘ[H](詩119:33-40)またはヘス[H](詩119:57-64) バ行=ベス[B](詩119:9-16) パ行(F含む)=ペ[P](詩119:129-136) マ行=メム[M](詩119:97-104) ヤ行=ヨード[Y](詩119:73-80) ラ行=レシ[R](詩119:153-160)またはラメド[L](詩119:89-) ワ行=ワウ[W](詩119:41-48) ※Vの人はバ行またはワ行へ。 ※Xの人はその発音に従ってカ行、ガ行、ザ行などへ。 そんなわけで私・真理子のお守り歌はメム(詩119:97-104)というわけですね。律法と戒めを守っていきたいと思いますわ(性生活関係を除く)。 ●シラ書47章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=47&mode=0 ダビデ、ソロモン、レハベアムの話。便利ですね。シラ書を読んでおけばサムエル記や列王記を読む必要がないですね。 |
[885] 歴代誌下16-20章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/20(火) 17:17:48 ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=2ch&chapter=16&mode=0 前回に続きアサ王の話と、次のヨシャパテ王の話。 16章に出てくるラマというのは何かと思ったら都市の名前。都市を築くことで防衛の拠点にしようというわけです。 前回の14-15章では、王上15によればアサの治世は戦争が絶えなかったとあるのに、歴代誌のほうでは国が平穏だったという矛盾がありました。面倒でもしっかり列王記と読み比べて、書かれていることをそのまま鵜呑みにしないことです。 今日のところでは、いい王だったはずのアサが、気に入らない預言者ハナニを投獄したこと。これは列王記にはまったくありません。それから、足の病気の話は列王記にありますが、そのときに「主を求めず医者を求めた」ことを非難するのは歴代誌だけ。病気になったら医者よりもお祈りって、昔の創価学会じゃあるまいし、歴代誌の編者はとんでもない奴ですね。 17章以降は次のヨシャパテ(南4。在位BC873-849)。この王様もいい王様ということになっていて、代下17:6では「高き所とアシラ像をユダから除いた」とあるんですけど、そのわりに代下20:33では「高き所は除かず」とあります。同じ本の中で矛盾があるっていうのは困ったものですね。王上22:44では除かなかったとあるので、やっぱり除かなかったのでしょう。 列王記ではアサの話が15章、ヨシャパテの話が22章ととんでいるのは、その途中に北の話が入っているからです。歴代誌は北をまったくシカトしているのでしたね。そのおかげで重要なエリアやエリシャの話がすっぽり抜けてしまっています。 さて、メインの話は、ラモテ・ギレアデをめぐる戦い。すでに王上22で読みましたけど、復習の意味でもう一度読みましょう。 この時代、北はアハブ王でした(預言者エリアとアハブ王はセットにして覚えましょう)。アハブ王はヨシャパテに、一緒にラモテ・ギレアデを攻撃しようと持ちかけます。ラモテ・ギレアデというのはもともとガド族の土地。ガド族・ルベン族・マナセ族の半分は、イスラエルが約束の地に入る直前に、もうここでいいやというのでフライングして土地を得ちゃったわけですね。だからヨルダン川の東部の辺境地帯です。申4:41-43では、うっかり殺人を犯した人が逃げ込む町に指定されています。 http://bit.ly/rhHwyl この時代はアラム(口語訳聖書ではスリヤ)に支配されているのですね。 御用学者ならぬ御用預言者がどんどん攻めろというのに対し、ミカヤは消極策。このあたりは今も変わらないなって思います。 結局この戦いで北のアハブ王は戦死。しかも誤発弾じゃなかった誤発矢で死ぬという情けない死に方をします。 19章のヨシャパテ王の治世は新しい話。りっぱな裁判官を置いたという話です。 20章の話も列王記にありませんでした。モアブ、アンモン人に大勝利したという話です。 |
[884] 民数記33-36章、シラ書46章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/19(月) 10:27:23 ここから閲覧 |
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●民数記33-36章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=skd&book=num&chapter=33&mode=0 民数記は今日でおしまい。 また最後にはなんか反乱が起こったのかと思ったら、たいした話もなく、いままでのまとめで終わります。イスラエルの民がエジプトを出発してからどういうルートをたどったか。そして各部族にどうやって嗣業の地がわりあてられたか。 ついでながら「嗣業」っていうのは、ヘブライ語のנַחֲלָתֹ(ナハラト)、ギリシア語のκληρονομία(クリロノミーア)の訳語なんですけど、まるっきりの聖書業界用語で、一般には用いられていません。私はできる限り使わないようにしています。たとえば同時に読んでるシラ書ではうまい具合に今日のシラ46:1、シラ46:8に出てくるのですが、真理子のおまけ(口語訳聖書を選ぶと出て来ます)「代々受け継ぐ」みたいに変えてしまいました。 http://blogs.dion.ne.jp/goodnews/archives/cat_341919-1.html を読むと、聖書の「嗣業」という訳語を痛快に批判しています。やっぱり日本語と意味の異なる「知恵」をとりあげて、一律にわけのわからん語で訳すのは「知恵」(賢い決断ができる能力で、経験と知識から、人に良いアドバイスが出来る能力)が欠けている、と。 「嗣業」っていう言葉を使い始めたのは大正改訳なんですね。明治訳では「産業」などです。新約のほうじゃ大正改訳で使ったっきり、口語訳では「遺産」だの「財産」だのそのときの状況でいろいろ訳しわけるようになっちゃった。ところが旧約のほうでは「嗣業」が生き残り、新共同訳でも使われています。こんなヘンな語は将来の訳では追放してほしいわ。 それはそれとして、ルートの話とわりあて地の話。 実はこれがよくわからない。今までの話にない地名が出てきたり、矛盾してたり、今のどの地なのかよくわからなかったり、ちっともまとめとして役に立たない。そういう話は注解書を見ると必ず書いてあります。 ●シラ書46章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=46&mode=0 イスラエル史のまとめの続き。ヨシュアとサムエルの話が主で、途中の士師がほとんど省略されちゃってるのが面白いです。聖書無料頒布のギデオン協会の名の由来になってるギデオンとか、もっといろいろとりあげればよかったのに。 |
[883] ヘブル書5-7章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/18(日) 09:09:47 ここから閲覧 |
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●ヘブル書5-7章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=heb&chapter=5&mode=0 今日のところはメルキゼデクという人物がさんざん言及されていますので、知らないと何のことだかよくわかりませんね。 彼は創14に出て来ます。創世記14章は冒頭にやたらたくさんの王名が出てきて頭がオーバーフローしてしまいますが、古代の大戦争で、アブラハム(当時アブラム)の甥ロトが捕虜になってしまう。それを取り戻すためアブラムが大活躍します。このときにサレム(どうも今のエルサレムらしい)の王であり神の祭司であるメルキゼデクがやってきてアブラムを祝福するという話です。 次に出てくるのは詩110。冒頭は口語訳聖書や新共同訳聖書だと「主が主に語った言葉」というのでとっても紛らわしいですが、神様がダビデの主人に告げた言葉というので、あなたはメルキゼデクの位にしたがって祭司である、と出て来ます。もともとこのダビデの主人って誰を指すのかよくわかりませんが、キリスト教のほうでは来るべきメシアつまりイエス様のことだとされています。イエス様はメルキゼデク・タイプの祭司だというのですね。 もともと祭司っていうのはレビ族、しかもアロンの家系でないとなれません。ところがアロン以前の創世記を読むと、祭司にして王というすごい権力をもった人(イスラエルでは祭司が王をかねるってことはありませんでしたから)が登場する、それがメルキゼデクだっていうわけです。 イエス様はダビデの家系つまりユダ族ですから、王にはなれても祭司にはなれません。ところがヘブル書の著者はイエス様を祭司だと言いたいので、王であり祭司であり、もちろんアロンの家系でもなんでもない人が昔いた、それがメルキゼデクだというので、イエス様はそういうタイプの祭司なんだよと言いたいわけです。 私たちにはどうでもいいといえばどうでもいいんですけど、もともとガリラヤ出身のイエスをなんとかダビデの家系だと強弁するために人口調査だの一時的にベツレヘムに旅しただのという伝説を捏造したマタイやルカのことを考えれば、これは大問題なんでしょうね。 まあ私たちとしては、イエス様は過去の大祭司なんかよりももっとすごい祭司だ、というメッセージを読み取っておくことにしましょう。だって私、おバカなんですもの。耳がにぶいんですもの。こういう難しい話、わかんないわ。牛乳を飲んでるのがふさわしいみたいですもの(ヘブ5:11-14)。 |
[882] 使徒3-4章、シラ書45章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/17(土) 07:29:33 ここから閲覧 |
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●使徒3-4章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=skd&book=act&chapter=3&mode=0 ペテロとヨハネが神殿に行ったところ、足の不自由な男がいました。2人は彼をいやし、彼は歩けるようになりましたが、そのあとペテロが長々と演説をぶったためにつかまってしまいます。役人、長老、律法学者、大祭司たちの前で堂々と尋問に答えるペテロのようす、足をいやされた男もそばにいたので、信じちゃう人々も多く、彼らは何もできず、せいぜい「今後はこんなことしちゃダメだ」というのみで、釈放するしかありませんでした。二人は教団に戻ってこれを報告しました。 使徒行伝は、そのときどきの教団の運営体制、とくにおカネの話に着目しながら読むと面白いのですが、ここでは指導者がペテロとヨハネであること、けっこう教団は裕福だということに着目しましょう。みんな土地だの畑だの家屋だの、ともかく全財産を売り払って教団に参加し、一切のものを共有し、必要に応じて誰にでも分け与える体制だったからです。 さて、この場面について千葉大学の加藤隆先生は面白い見かたを提示しています。最近ではNHKラジオ第二放送のカルチャーラジオでこの話をしていました。「新約聖書」とその時代@amazon 足をいやされた男の件は、よく読むと、いろんな疑問がわいてきます。足をいやした話が3章なのに、途中の演説や拘留のシーンをはさんで使4:22で思い出したように「この人は四十歳あまりの人だった」と出て来ます。あらまあ、この人はペテロやヨハネと一緒に一夜を明かした、つまり一緒につかまっちゃったんですね。 足を治してもらったんだからさっさと帰ればよかったのに、使3:11のように二人につきまとっちゃったために、一緒につかまっちゃったわけです。 では、どうしてこの人は二人につきまとったのでしょう。 よく読むと、この人は「足を治してくれ」なんて一言もいってません。施しを乞うた、つまり「カネをくれ」と言ったのです。ところが二人は「おカネはない」と言って足を治しちゃうんですね。でもおカネがないなんてウソですね。教団はかなり裕福だったようですから。 これらの謎を明快に説いたのが加藤先生。 ズバリ、ペテロとヨハネは、やんなくていい余計なことをやっちゃったんですよ。彼を困らせるようなことを。 この人は足が治って、その瞬間はびっくりして神を賛美したのですが、たいへんなことに気づきます。もはやこの人は施しを受けることができなくなっちゃったんです。そりゃそうでしょう。歩けるようになっちゃったんですから。 最後の「40歳あまり」がここできいてきます。平均寿命の短かった昔のこと、この人は今でいったらもう55歳くらいでしょうか。いまさら職業訓練なんかできません。施しを受けられなくなって、どうやって生活しろっていうんでしょうか。 これが、彼が二人に長々とつきまとった理由です。 「足を治してくれてありがとう」じゃないんです。「余計なことをしやがって、どうしてくれるんだ」なんですよ。 最後は二人だけが教団に帰ったことになってますが、たぶんこの人を引き取らざるを得なかったんじゃないでしょうかね。 福音書を見ると、イエス様のいやしの話がいろいろ出て来ます。最初はすばらしいと思って読むんですけど、だんだんうざったくなってきませんか? まるで身体障害が罪であるかのように(当時の人たちの感覚は実際にそうだったんでしょうけどね)、そして、身体の障害が治れば万事解決したかのように記述する福音書は読んでて本当に腹がたちます。私はどうも神様の救いのリストには入ってないようですね。 これに痛快にパンチを浴びせてくれたのが、この使徒行伝3-4章なんですね。いやしゃいいってもんじゃないんです。いやしたらいやしたで、その後の生活も保障してあげなきゃダメなんですよ。人間は経済的な動物なんですから。 ともかく物事をリアルに読むこと、特におカネの話としてとらえることの大切さを、使徒行伝は教えてくれます。 ●シラ書45章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=45&mode=0 モーセとアロンの話。モーセはともかく、アロンの祭服のきらびやかさをこれでもかこれでもかと強調するのが面白い。昔の人にとってきらびやかな祭服ってこういう意味があったのね。 |
[881] ヨナ書(全) 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/16(金) 10:22:08 ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=jon&chapter=1&mode=0 十二小預言書の中でヨナ書は異色の書。面白い物語の形式をとっています。今日を逃すとあとは面白い日はありません。 ヨナ(アミッタイの子)という人物は王下14:25に出て来ます。たぶん同じ人でしょう。北王国のヤラベアム2世(北13。BC786-746)の時代の人。このときが北王国の絶頂期で、領土が一番拡大したときでした。 ニネベというのはアッシリアの首都。世界史の教科書にも出てくるほどの有名な町です。ヨナはアッシリアの悪を告発するよう神様から命ぜられますが、ヨナはこれを嫌ってタルシシへ逃げようとします。スペインつまり西の果ての町。世界の果てまで逃げようとしたんですね。単にかったるかったわけではありません。逃げようとしたのには理由があります。それは後でわかります。 ところが乗った船が大嵐にあいます。神様に逆らったヨナがこのわざわいの根源だというので海にほうりこまれ、大きな魚にのまれ、そこで三日三晩をすごします。これがイエス様が処刑されて三日間陰府に下ったことの象徴だとするのがマタ12:40です。 この魚の名前はヨブ40:25(昔の章節だと41章冒頭)に出てくるלִוְיָתָןだとされています。リヴヤタン。このページで発音が聞けますね。 http://ja.forvo.com/word/%D7%9C%D6%B4%D7%95%D6%B0%D7%99%D6%B8%D7%AA%D6%B8%D7%9F/ ふつうはわにと訳しますが大蛇だという話もありよくわかりません。ギリシア語ではδρακωνと訳されています。ドラコン、龍ですね。 ラテン語ではleviathan。これはヘブライ語そのまんまですね。英語ではリヴァイアサンという発音になります。ホッブズ(1588-1679)の著書(1651)にそういう本がありますね。人間は自然状態だとみんなが敵対しちゃうんで、自然権を政府に譲渡してその混乱状況を避けようとするのだ、というので絶対王政を擁護した本です。その政府をこの怪物にたとえています。 画像はleviathanで検索するといろいろ出て来ます。たとえば http://frontiersofzoology.blogspot.com/2011/05/doctor-shukers-leviathan.html さて、無事に魚の腹を脱出したヨナは、40日後にニネベが滅びるぞと預言します。 ところがニネベの人たちは改心して斎戒沐浴、沐浴はしてないかしら、ともあれそのおかげで滅亡は回避されてしまいます。 これをヨナは不満に思い、神様に抗議したところ、神様はとうごまの奇跡をおこされてヨナをたしなめます。暑い日にとうごまの木を成長させて暑さをしのぐ陰を作ったかと思うと枯らしてしまう。お前がこのとうごまの木さえ惜しむようにわしはニネベの住人を惜しむのだ、という話で終わります。 ヨナ書は面白いうえ、外国人であるニネベ、しかも北王国はアッシリアに滅ぼされちゃうわけですから敵ですよね。敵をも神様は救われるのだというお話です。 アイヌに伝道したバチェラーは、聖書をアイヌ語に翻訳、新約・詩編に加えてヨナ書を翻訳しました。おとぎ話のような面白さに加え、外国人を神様が救うという話は、アイヌに読ませるのに最適だと思ったのでしょう。 さて、ヨナ書のポイントは、おとぎ話なのか、神様の命令から逃げちゃダメということなのか、外国人をも神は救うってことなのか。 私はヨナの不満の理由だと思います。 ニネベが救われたことが不満だってことなんですが、外国人が救われたのが不満なんでしょうか。 そうじゃないと思います。 ヨナは結果的にウソつき、デマ男になってしまったんですよ。それが不満なんです。たぶん。 破滅を予言(未来のことだから予言も預言も同じに使っちゃいますね)する人のパラドックス。 その予言はハズレることが望ましいんです。彼はデマ男扱いされるのが望ましいんですよ。 でも、私たちはウソつき呼ばわりされたくなくて、破滅の予言があたることを、心のどこかで望んでいませんか? たとえば福島第一原発の事故で、数年後に子どもたちが甲状腺ガンをいっせいに発病して、「それ見たことか、だからオレは半径80キロ以内はみんな避難しろって言ったんだ」とか。 ホントは、ガン患者が一人も出ないのが望ましいんです。半径80キロ以内はみんな避難するというのがムダだったという結果に終わるのが望ましいんです。 デマ男になることを恐れては、預言者になれない。まったく預言者ってつらい仕事ですよね。世界の果てまで逃げたくなるわ。 |
[880] 箴言28章、シラ書44章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/15(木) 10:00:27 ここから閲覧 |
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●箴言28章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=pro&chapter=28&mode=0 ここは個別にいろいろ面白いことわざがありますが全部略して次の話。 8節。「利息と高利とによってその富をます者は、貧しい者を恵む者のために、それをたくわえる」。暴利をむさぼったって結局その財産は別の人に渡っちゃうよ、だから暴利をむさぼるなってことだと思いますが、逆に「世のため人のためにお金もうけをすることは吉」ととってもいいと思います。もうけることは罪じゃありません。 それよりなにより、冒頭の「利息と高利」っていうの、私がレビ25:36でひっかかってた「利子も利息も」じゃありませんか! [849]参照。 מַרְבֶּה הֹונֹו בְּנֶשֶׁךְ [וּבְתַרְבִּית כ] (וְתַרְבִּית ק) לְחֹונֵן דַּלִּים יִקְבְּצֶנּוּ׃ ですから、レビ記で「利子」と訳していたבנשをこちらでは「利息」と、レビ記で「利息」と訳していたבתרביתをこちらでは「高利」と訳しています。こちらのほうがわかりやすいですね。 新共同訳の引照つき聖書でレビ25:36を見ても、箴言のこの箇所への引照が入ってない。逆に箴28:8を見ると、レビ記への引照が記載されてるのよ。知ってるんならレビ記のほうにもこの引照を記載してよ。まったくいじわるね。 聖書の翻訳って多くの人が分担してやるわけですけど、レビ記と箴言だったらまず同じ人がやることはないでしょうね。訳語の統一がなかなかはかれない。でも適切な引照があればなんとかなるわけです。 ウェストミンスター信仰基準の第1章9項にいわく、 聖書解釈の無謬の規準は、聖書自身である。従って、どの聖句の(多様ではなくて、ひとつである)真の完全な意味について疑問のある場合も、もっと明らかに語る他の個所によって研究し、知らなければならない。二ペト1:20-21、{act15:15-16} The infallible rule of interpretation of Scripture is the Scripture itself: and therefore, when there is a question about the true and full sense of any Scripture (which is not manifold, but one), it must be searched and known by other places that speak more clearly. というわけで、聖書のわかんないところは聖書で調べるっていうのが鉄則、だから引照って大事なんですよね。なんでも中国にも「経を以て経を解く」という言葉があるらしく、経書の注はできるだけ同じ書物の他の箇所から取る、どうかすると文体までその書物のものに似せるっていうのが、エレガントな注の書き方らしいです。 ●シラ書44章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=44&mode=0 ここからしばらく、イスラエル史のおさらいになります。44章はエノク~ヤコブ。創世記を思い出しながら読みましょう。 |
[879] 詩編117-118編 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/14(水) 09:49:44 ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&bible1=bhs&book=psa&chapter=118&mode=0&direction=0 117編はあっけなく終わってしまいますね。 その117編2節に出てくる言葉をちょっと変形した「そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」というのがリフレインされているのが118編。詩編の各詩の区切りなんてけっこういいかげんですから(実は先週の114と115はヴルガタやLXXだと一つ(113)で、逆に116が114と115に分割されるという感じです)、まとめて一つと考えてもいいかもしれません。 ヘブライ語だと כִּי לְעֹולָם חַסְדֹּו キー・レオラム・ハスドー という感じになります。最初のキーは接続詞として「なぜなら」とか、引用の「~と」とか、また「まことに」みたいにも使います。私は引用の「と」だと思いますけど、Geseniusはbecause(なぜなら)の意味にとってますね(p.392)。KJVはbecauseだしRSVはforだし、英語国民はそうとる傾向があるのかしら。 新共同訳の文体はあんまり朗読にふさわしくないと悪評ふんぷんで、日本聖書協会は「標準訳」なんていう新しい訳の作業に入ったみたいですけど、ここを「慈しみはとこしえに」と簡潔に訳してます。結局キーの解釈を投げたんではないかと思うんですけど、朗読CDで聞いてると、これはこれでとってもきびきびしてていいです。口語訳の中では最高じゃないかしら。念のためいろいろ比較してみます。 口語訳:そのいつくしみはとこしえに絶えることがない 文語訳:そのあはれみはとこしへにたゆることなしと 新改訳:「主の恵みはとこしえまで」と。 新世界:「その愛ある親切は定めのない時にまで及ぶからである」と。 フラ:ヤーウェのいつくしみはとこしえにきわまりない。 岩波:まことに、かれの恵みはとこしえに 関根:その憐れみは永遠につづくと。 バルバロ:“その愛は永遠”(新しいほうだと最後に「と」がつく) 尾山:主の愛は永遠に続く 光明社:その御憐憫(おんあわれみ)の世々に存することを 正教:其(その)憐(あはれみ)は世世にあればなり 一つ一つ口に出してみてください。いかに新共同訳の「いつくしみはとこしえに」が口調がいいか。5・5っていうリズムがきいてますね。こんなこともあるんですね。 詩編はとくに、朗読したときの美しさを追求して訳してほしいわ。 |