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真理子の聖書日記


このサイトを作りながら、聖書を読みながら真理子が考えたことです。
真理子修道会の修道女/修道士の方のみ書き込むことができます。

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[951] 使徒19-20章、エズ・ラ4章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/12(土) 09:22:56 ここから閲覧

●使徒19-20章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=act&chapter=19&mode=0
 第3次宣教旅行の続きです。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fb/JBS1956-B_map12.png
の地図を頼りに行程をたどりましょう。
 なお、パウロの生涯についてうまくまとめた年表を発見しました
http://www.asahi-net.or.jp/~zm4m-ootk/pauronenpyou.html
ので、私たちも便利に使わせてもらおうと思います。

 使18:23ではじまった第3次宣教旅行。ただしここは「ガラテヤおよびフルギヤの地方を歴訪」とあるだけで、具体的な話はありません。実質的に19章からスタートとなります。
 行程をたどると、エペソに2年間いて、マケドニヤを通ってギリシヤ本土に3ヶ月、再びマケドニヤ経由でピリピから対岸のトロアスに行き、エーゲ海の海岸をつたってアソス、キヨス、サモス、ミレトまでが本日19-20章の範囲です。

 エペソでパウロはさまざまな奇跡を行い、多くの信者を獲得します。パウロの使ったてぬぐいを病人にあてただけで悪霊が出ていくなんて、なんか怪しいカルト教団的ですけどね。
 魔術師たちが本を焼き捨てたというのは、キリスト教史上初の焚書ということになりますね。
 ところが偶像を作っていたデメテリオという職人が、パウロのしていることは営業妨害だというので、反対運動を起こし、ひと騒動持ち上がります。
 エペソを離れてエーゲ海をたどる途中、トロアスではパウロの話を聞いてる途中に転落事故を起こした青年の息をふきかえさせるということもありました。
 パウロの目的地はエルサレムです。ペンテコステまでにはエルサレムに行きたいというので急いでいます。そこでエペソの長老をミレトに呼び出して(そう距離はありませんから)、エルサレムで自分は迫害を受けることだろうと予言し、もう二度と君たちとは会えないだろうと涙の別れをします。
 律法を否定するパウロに対してはエルサレムのユダヤ教徒たちは厳しく迫害してくるでしょうし、エルサレム教会のペテロとも関係が悪化しているので、パウロをちゃんと保護してくれるかどうかもわかりません。そんな中をあえてエルサレムに向かうパウロの決意が感じられます。

●エズ・ラ4章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezl&chapter=4&mode=0
 ここからはエズラと神様との対話です。もっとも神様はじかにエズラと話をしません。話をしているのは天使ウリエルです。もっともウリエルの口ぶりはまるで神様おんみずからがしゃべっている感があり、実質的には神様と考えていいと思います。
 選ばれた民であるはずのイスラエルがなぜ苦しむのかという問いに、終末のさばきには万事が解決すると神様は答えます。ではそれはいつのことなのかというので、話は次章へと続きます。

[950] マラキ書(全) 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/11(金) 10:09:05 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=mal&chapter=1&mode=0
 十二小預言書の最後のマラキ書。3章しかないので今日で全部読んじゃいます。口語訳聖書など昔の聖書ではマラ3:19以降を4章としていますけどね。
 金曜日は預言書を読んで来ましたがこれで全部終わり、今年度の通読計画は12/11まであるので、残り5回は預言書のかわりに新約聖書のヨハネ黙示録を読むことになります。
 マラキというのは「わたしの使者」という意味なので、固有名詞ではない、あるいはニックネームであるという考え方もあります。実際、エズラ記・ラテン語の1章(日曜日に読みました)の最後エズ・ラ1:39では、十二小預言書の預言者の名前が列挙されているのですが、マラキだけは「主の使いとも呼ばれたマラキ」というヘンな言い方をしています。たぶんエズラ記・ラテン語の著者もニックネームだと思っているのでしょう。
 第2章はわかりにくいですが、妻を離縁しておきながら他の神に仕える異邦人の女と結婚するような行為を非難しています。これはエズラ記やネヘミヤ記に出てくる異邦人の妻を強制離婚させる話と関連していますので、マラキはこの時代、つまり紀元前5世紀の中ごろということになります。ハガイやゼカリヤが帰還直後、つまり紀元前6世紀末のゼルバベル・ヨシュアの二権分立時代でしたから、マラキは本当に預言者の時代の一番最後の預言者ということになります。
 マラキ書がよく引き合いに出されるのは、金の亡者と化した一部のとんでもない牧師が「什一献金しろ」というとき。マラ3:8,10を根拠にするのです。
 そして一番最後のマラ3:23-24。終末の直前に預言者エリヤをつかわす、という話。エリヤは生きながら天に上げられた人ですので、生きながらつかわすことができるのでしょう。イエス様の時代の人々はこの話が頭にこびりついていたので、洗礼者ヨハネに「あなたはエリヤですか」(ヨハ1:21)ときいてみたり、イエス様のことをエリヤだといったり(マコ8:28ルカ9:8,19)していますし、イエス様自身も自分をエリヤになぞらえるような説教をしたり(マタ11:10-14マタ17:10-12)しています。十字架上でエリ、エリ(わが神、わが神)…と言ったのを「エリヤを呼んでいる」(マタ27:47,49マコ15:36-37)と聞き取った人もいるという話もあります。
 キリスト教の旧約聖書(続編なし)ではマラキ書が旧約の一番最後に来て、次のページが新約聖書のマタイでイエス様の話になるので、なんかうまくつながっているような錯覚をします。でも実際には450年も断絶があるわけです。日本でいえば戦国時代からいきなり21世紀にとぶようなものです。この間にもユダヤ人にはいろんな事件が起こったので、旧約外典(続編)を正典と認めない立場の人も、読物としてだけでも旧約外典、特に1マカ、2マカは目を通しておくべきでしょうし、シラ書などでこの当時の人々の考え方を知っておくべきです。

[949] コヘ11-12章、エズ・ラ3章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/10(木) 09:39:37 ここから閲覧

●コヘ11-12章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ecc&chapter=11&mode=0
 コヘレトは今日でおしまいです。
 むなしいむなしいとぶつぶつつぶやいてきたコヘレト、最初は「聖書にこんな東洋的無常観みたいな本があるなんて」と新鮮なおどろきを持って読んだあなたも、このあたりまで来ると、しつこさに食傷しているかもしれません。
 なんでこんなにむなしいむなしいというのか、その真意は今までも時折示されていました。たとえば今回のところではコヘ11:5にあるように、不完全な人間には完全な神様のわざを知ることができないからです。神様の前では人間の不完全さ、無力さを思い知るしかないので、むなしさを感じるわけです。
 宮台真司がいろんなところに書いてる言葉に、日本はまかせておいてぷーたれる、というのがあります。日本人は政治家に一切をまかせてしまい自分では何もしようとしない、そのくせ文句だけは言う、というわけです。でも私にいわせれば、ぷーたれるというのはまかせていることの裏返しじゃないかと思うんですけどね。政治家が信用できない国では自分で何でもやるしかないからどんどん政治に参加するわけですからね。
 まかせておいてぷーたれることでは、エジプトを出たあとのイスラエルの民はその典型で、ヤハウェくんは何度もぶちきれてしまいましたけど、あれだって民はヤハウェくんを頼るしかないからぷーたれてたんだと私は思います。ヤハウェくんはもっと度量を示したほうがよかったのではないでしょうか。
 コヘレトもそうなんで、むなしいむなしいとぷーたれてるのは、根底に神様への信頼があるからなんで、そういう信頼はコヘレトをよく読めばにじみ出てきています。
 コヘ12:8は、冒頭の言葉のくりかえし。
   伝道者は言う、「空の空、いっさいは空である」と。
 たぶんもともとこの本はここで終わっていたんだろうと思います。最初と最後が同じ言葉なんてしゃれてるじゃありませんか。ただ、これだとあまりに救いがないと思った後の人が、そのあとの6節ぶんを付け加えちゃったんだろうと思います。なんかとってつけた感じですからね。

●エズ・ラ3章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezl&chapter=2&mode=0
 ここからがエズ・ラ本体。「都が滅んで三十年、わたしはバビロンにいた」というのは、一応バビロン捕囚から三十年めに、捕囚されたエズラがバビロンにいたという設定になっていますが、実際にはずっとずっとあと、イエス様よりもあと、AD70のユダヤ戦争でエルサレムが破壊されたあと、エズラがローマにいたということです。ヨハネ黙示録でもそうですけど、バビロンというのはローマの隠喩です。もちろん史的エズラがこんな時代に生きてるはずがないので、そういう設定ということ。
 エズラはユダヤの荒廃を見て、どうして選ばれた民であるユダヤ人がこんなめにあわなくちゃいけないのかと、神様にくってかかるように祈ります。

[948] 詩編137-139編 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/09(水) 07:01:48 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=psa&chapter=137&mode=0
 137編は、よくも悪くも、詩編を代表する詩です。
 「バビロンの流れのほとりにて」という、宗教音楽の題材としてよく使われる詩。一番有名なのは、バッハのオルガン曲『18のコラール』の第3曲め。Youtubeに複数アップされてますけど、音質がきれいなのは、

(http://www.youtube.com/watch?v=4MJO7kaOTaI)
往年のシュヴァイツァーの演奏は

(http://www.youtube.com/watch?v=SzUDhoYxuI8)
 バッハの曲は、ルター派の讃美歌のいわばカラオケです。もとのルター派の讃美歌はドイツ版Wikipedia
http://de.wikipedia.org/wiki/An_Wasserfl%C3%BCssen_Babylon
に楽譜つきで紹介されていますが、

(http://www.youtube.com/watch?v=in59Wbgrg6o)
の演奏者がコルネット(らっぱ)で吹いてるのがこのメロディーですね。
 この曲は日本の讃美歌にはとられていません。ちなみに讃美歌21の164番は全然違う曲です。これはこれで名曲だとは思いますけど。
http://yassan71.web.fc2.com/yassan.files/hym.files/hym199.files/hym164.htm
 交読文にもなぜかとられていません。
 いや、なぜかは、理由がとってもよくわかるんですけどね。
 そろそろ詩編の話に入りましょうか。
 この詩は、捕囚の民の嘆きを詠んだ詩。とても感動的な詩です。
 最後の2節さえ、なければ。

破壊者であるバビロンの娘よ、あなたがわれらにしたことを、あなたに仕返しする人はさいわいである。あなたのみどりごを取って岩になげうつ者はさいわいである。

 いくら何でも、「復讐だ。奴らの赤ん坊を岩にたたきつけて殺してやれ」って言いますか?
 私が、よくも悪くも詩編を代表するって書いたのはこれなんですよね。
 「敵を殺してやれ」みたいな言葉が臆面もなく出てくる。
 そりゃ、ウルトラマンを見るとき「ウルトラマンにやっつけられる怪獣はかわいそう」なんて思っちゃいけないんでしょうけど、でもウルトラセブンになると、たまにそういう話が出てくるみたいですね。怪獣を現代文明の被害者として描いて、怪獣は倒したけど、おれたちのやったことって正しかったんだろうかみたいに、ウルトラセブンの姿から戻った地球防衛軍の諸星隊員が自問自答するとか。
 詩編はハッキリいってウルトラセブン以下です。
 大人げなく敵愾心をむきだしにする詩が多いんで興ざめしてしまう。
 この詩が交読文に使われてない理由、讃美歌21がこの最後の部分を歌詞にしてない理由はここですね。
 でもそのくせ、ルター派の讃美歌じゃ5番でちゃんとこの部分を歌詞にしてますね。ドイツ人は怖いわ。

 気分転換に名曲を聴いておわりにしましょう。
 まずはパレストリーナのモテット『バビロンの流れのほとりで』。

(http://www.youtube.com/watch?v=sUp-EgsqZnw)
 これはビクトリア

(http://www.youtube.com/watch?v=LSHPxO0Is1o)
 これはフォーレ

(http://www.youtube.com/watch?v=vjVir4OdYE4)
 このほか、Youtubeにはいろいろあるので、Babylonisなんていう語で検索してみてください。

[947] ネヘミヤ記1-4章、エズ・ラ2章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/08(火) 08:03:23 ここから閲覧

●ネヘミヤ記1-4章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=neh&chapter=1&mode=0
 ネヘミヤ記はもともとエズラ記と一緒の本で、分かれたのはヴルガタ以降です。BHSでは一応別の本扱いしていますが、エズラ記とは改ページも何もなくつながっています。ネヘミヤの登場するところからざっくり切ったという感じ。
 いきなり「二十年」とありますが、2章によればアルタシャスタ(アルタクセルクセス)王の20年で、BC445年。ただしキスレウ月は9月ですから2章のニサン月(1月)より前になります。ユダヤの暦はバビロン捕囚前は7月から始まってはいたのですが、それだけにキスレウとかニサンというバビロニア風月名だから、ふつうに1月から始まってるはず……このあたりちゃんぽんになっているのかもしれません。
 エズラ記の最後がアルタシャスタ王7年(BC458)でしたから、それから13年後というわけです。
 ところがこの年代が正しいとすれば、ペルシャの首都スサにいるネヘミヤが、何を嘆いているのかよくわかりません。エルサレムが荒れ果てたままだというのですが、もうこの時期には神殿は完成しているはずです。注釈書によれば、エズ4:7-23にあるようなサマリヤ人の妨害の話だろうというのですが、[932]で書いたように実際にはカンビセス王の時代の話です。ネヘミヤ記の年代ももっと前、BC500年代と考えないとつじつまがあいません。
 そんなわけで勝手にカンビセス王時代のこととしてしまいますが、エルサレムの荒廃を嘆いたネヘミヤが王に帰還を願って許され、工事を手伝うというのが今回の話です。

●エズ・ラ2章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezl&chapter=2&mode=0
 後半に出てくる救い主、人々に冠をかぶせている背の高い若者は、明らかにイエス様をイメージしてます。ここはキリスト教徒による加筆部分ですから。もうこうなると「旧約」聖書続編とは言えませんね。時代的には新約の時代です。

[946] 立冬は明日でした 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/07(月) 17:58:06 ここから閲覧

一日フライングしちゃったわ。

[945] 申命記20-22章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/07(月) 09:39:55 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=deu&chapter=20&mode=0
 今日から冬ということで背景は冬色です。冬だから白系だっていうと寒々しいので、常緑樹の緑にしてみました。

 今日は何をさしおいても申22:13-21、なかんずく21節の話よ。
 Twitterやmixiでさんざん書いたけど、何度でも書いてやるわ。
 処女の証拠が出せない女は石打ち刑だという話。
 私も出せなかったから石打ち刑だわ。
 『聖書男』っていう、現代ニューヨークで一年間、聖書に忠実な生活をしてみた男のレポートが本になってますけど、私は聖書女にはなれない。なった瞬間に死刑だもの。
 私は聖書に殺されるのよ。
 何が「いのちのことば」よ。聖書は私を殺す、人殺しの本なのよ。
 処女を卒業して(望んで初体験したので喪失なんて言いません)しばらくしたころ、ちょうど大学受験直前のころに、この部分を偶然に発見して、かなり衝撃でした。今なら「あはは、世が世なら私は石打ち刑だわ」なんて笑って書けますけど、高校3年生の多感な乙女には、心の支えにしていた聖書が私を殺す本だった、と知った衝撃ははかりしれないものがありました。
 私の処女卒業体験はTwitterでちらっと書きました(そのうち「真理子の生活と意見」に詳しく書きます)が、相手の方がうまくなくて全然入らず、しびれを切らした私がリードしていろんなことをやって終えました。痛みも快感もなく、おまけに出血もない。積極的にいろいろやったものだから、相手からは「お前処女だって言ってたのウソだろ」と言われる始末。さんざんでした。本当に世が世なら、こいつに訴えられれば石打ち刑です。
 この衝撃を乗り越えるために私は、聖書って文字通り信じるべき本じゃない、聖書に書いてあってもダメなものはダメ、ウソはウソ、そういう態度をとるようになったのです。
 出血がなかったことは今でもちょっとひっかかってます。夫婦の夜の興奮剤としてスカパーでアダルトチャンネルを契約しているのですが、パラダイスTVの処女喪失シリーズ
http://www.paradisetv.info/virgin/index.html
は、私も関心を持って見ています。素人さんが応募して、手馴れたイケメン男優さんと初体験をして、その模様をAVに撮るというものです。ずばり、出血するかどうかを見てます。出血しない子が多いです。うまい男性だと無理のない挿入をするし、女の子もリラックスするしで、出血しないですむんじゃないかしら。

 これに限らず、聖書のとく性倫理は首をかしげるものが多い。
 申22:23-24。強姦されたとき声を上げなければ女も同罪で石打ち刑って、ヤハウェくんどういう神経かしら。電車の中で痴漢にあったときって女はなかなか声をあげられないんです。この私だってそうです。恥ずかしいからじゃない。こわいんですよ。声あげたら殺されるかもっていうくらいこわいですから。
 申22:5。女装・男装禁止。私たち夫婦の共通の親友にマリナちゃん(仮名)というMtF(体は男、心は女)の子がいるんですが、キリスト教に関心があるというのでいくつか教会を紹介して連れてったら、たいていのところでダメ。いえ、実際には、牧師さんはOKでも他の信徒が白い目で見るので足が遠のくというのがほとんどですけど、中には申命記のこの箇所を持ち出して、そんな習慣はやめなさいと言った牧師さんもいたらしいです。
 女装と同性愛は無関係ですけど、『聖典と現代社会の諸問題』
http://www.kirishin.com/2011/09/post-318.html
の第1章、「『聖書に書いてあるから』というのが本当の理由なのだろうか ―同性愛を罪とする聖書テクストを読む(小林昭博)」という文章はこういう問題にオールマイティに対応できる結論を示してくれてます。
 聖書に書いてあるから罪なんじゃない。
 あなたが差別しているから罪なんです。
 あなたは自分の差別を正当化するために聖書を持ち出しているにすぎないんです。
 いくらコチコチの福音派でも、聖書に書いてあることを全部守って生きてる人なんていません。そんなことをしたら『聖書男』みたいに一冊の本になっちゃうほど、聖書の教えを全部守るのは珍しいことであり、難しいことであり、ナンセンスなことなんです。
 どんな人でも聖書の教えを適宜選択して、これは守ろう、これは無理だからシカトしよう、ってことやってるわけです。ご都合主義と言わば言え、ご都合主義大いにけっこう。私たちはみんなご都合主義です。福音派みたいな教条的な人たちがご都合主義をやるとからかわれるかもしれませんけどね。
 だからこそ、聖書に書いてあるからこれはダメ、というのは間違い。実は、あなたが気に入らないからダメなんですよ。それを聖書にかこつけてるだけなんです。

[944] 2ペト(全)、エズ・ラ1章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/06(日) 07:15:18 ここから閲覧

●2ペト(全)
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=2pe&chapter=1&mode=0
 1ペトについてはさんざん危険文書と毒づいた私ですが、こっちはまとも。2章にあるように、教会の中にもヘンなことを言う人がいっぱい出てきたという中にあって書かれたので、2章だけはそういう人たちへのいささか口ぎたない批判も出てきますけど、全体としては来たるべき救いを信じて信仰生活に励めという内容で、安心して読めます。
 二ペト1:5-7の「信仰に徳を加え、徳に知識を、知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心を、信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい。」というところは、いい言葉です。右に行くほど重要な徳目なのかしら。信仰、信心ってだぶってるような気がするけど、新改訳では「信心」のほうは「敬虔」になってます。この二つどう違うのかしら? これから出かけなくちゃいけないのであとでまた考えますわ。それとも思い切ってTwitterで意見を募集しちゃおうかしら。

●エズ・ラ1章
 ヴルガタでは第4エズラ記と呼ばれる書物ですが([925])、正典エズラ記やエズ・ギとは似ても似つかない文書。時代もイエス様より後なんですよ。ユダヤ人のローマへの反乱、ユダヤ戦争を経て神殿が破壊されたあと、AD75-100(BCじゃなくADよ)ごろじゃないかと言われています。しかも、1-2章と15-16章はキリスト教徒による加筆で、専門家はそれぞれ「第五エズラ記」「第六エズラ記」と読んだり、「第二エズラ記」「第五エズラ記」と呼んだり、混乱のきわみです。
 ここに出てくるエズラは史実のエズラとは無関係、単に名前を借りただけ。たとえば西行法師を現代にタイムスリップさせて、東日本大震災・原発事故後の日本を予言させるとかいう趣向の、SF的、幻想的な本なんです。
 1章はイスラエルが滅んだ後に神様の言葉がエズラに臨んだところ。今までのイスラエルの歴史を中心に言ってます。一番最後の39節は十二小預言書の預言者が列挙されてますが、マラキのところだけちょっとヘンな書き方してますね。今週金曜日にマラキ書を読むのでちょっと覚えといてください。

[943] 使徒17-18章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/05(土) 11:17:01 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=act&chapter=17&mode=0
 第二次宣教旅行の後半です。
 [936]で書いたように、割礼をするかどうか、異邦人との会食を認めるかどうかで教団の中に対立が生じた後にパウロは宣教に出かけるわけです。加藤隆先生は「アンテオケ教会からパウロが追放された」と書いています。使徒行伝にはそこまで露骨に書いてませんが、実質的にアンテオケにいられなくなって、それでパウロはあちこち飛びまわるようになるのですから、追放と言っていいのかもしれません。実際、第二次宣教旅行はact:18:22までで、一応アンテオケに戻ったのですが、act:18:23ではもう第三次宣教旅行に出かけます。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fb/JBS1956-B_map12.png
を見ながら行程を追いましょう。
 出発地はアンテオケ。陸路でキリキヤ地方を抜け、ガラテヤのデルベ、ルステラを通り、アジアの北部を通ってムシヤ地方へ行き、トロアスというエーゲ海に面した港町からマケドニヤのネアポリスへ。そこからちょい内陸のピリピ。ここまでが前回の範囲。
 今回はピリピからアムピポリス、アポロニヤ、テサロニケという、マケドニヤの都市をまわってます。なお、昔のユーゴスラビアがいろいろ分裂して今マケドニアという国ができてますが、古代のマケドニアはもっと南で、今と違いますからご注意。
 ペロポネソス半島の付け根のベレヤから、アテネ、コリント。その後コリントの南のケンクレヤから船でアジアのエペソへ。また船でアンテオケへ。これでおしまいです。

 パウロとシラスはテサロニケのシナゴーグで宣教をします。使17:2に「三つの安息日にわたり」とあるので三週間弱というわけですね。が、ユダヤ人はやくざを動員して暴動を起こします。二人は逃げ、夜の間にベレヤに移動します(使17:10)。この間、宿泊先であったヤソンが迷惑をこうむります。
 使徒を読むと、宣教はユダヤ人相手で迫害したのもユダヤ人ということになってますが、このときの話を伝える1テサによれば、、信徒になったのはユダヤ人ではなくギリシア人(一テサ1:9に「偶像を捨てて~」とありますから)ですし、迫害したのがユダヤ人ではなくギリシア人(一テサ2:14)。このように1テサによればむしろ異邦人相手の宣教だったようです。
 使徒にもどると、ベレヤにもユダヤ人の迫害の手がせまってきたので、パウロだけ先にアテネに行きます。もっともこれも、一テサ3:2によれば、テモテはついて行ったみたいなので、くいちがいがありますね。
 アテネではアレオパゴスという会堂で宣教。この地に広くみられる偶像崇拝を批判しますが、死者の復活という話については共感を得られなかったようです。
 18章からコリント。一コリ2:3で「わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった」とあるのがこれです。なんで意気消沈したかというと、アテネでの宣教が失敗したからですね。もっとも使徒ではぼかされています。テモテ、シラスも後に合流。ここに一年半います。
 コリントではユダヤ人に襲撃され、当局に訴えられますが、総督は不干渉を貫くという事件も起こります。
 ここをたってケンクレヤ→エペソ→アンテオケということで旅行はおしまいですが、使18:18の、パウロが髪をそった話は、意味が不明なので、いろいろ論議があります。この習慣じたいは、民6:2-21にある「ナジルびと」つまり特別な誓願をしている人物が、誓願の間は髪をそらず、満願のときに髪をそるという話です。使徒を読むと、誓願をしたので髪をそったみたいに読めますが、逆でして、満願で誓願を解除する行為なんですよね。じゃどんな誓願をしていたのか。何も書かれていないうえ、この満願の儀式はエルサレムの神殿で行われるべきことなので、なんだかよくわかりません。
 23節からはただちに第三回宣教旅行の話ですが、24-28節はアポロのエピソードが前後の脈絡なくはさまっているので、実質的には次の章からが第三回宣教旅行になります。

[942] ゼカ8-14章、エズ・ギ9章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/04(金) 07:00:56 ここから閲覧

●ゼカ8-14章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ecc&chapter=9&mode=0
 9章から最後(14章)までは第二ゼカリヤと呼ばれる別人の著作になります。その根拠はゼカ9:13に口語訳ではギリシヤ、新共同訳や新改訳ではヤワンと訳されていますが要するにギリシアです。第一ゼカリヤが預言したBC520年はギリシアもまだ都市国家が平民の手による民主政へとなったころで、この後にペルシアとの戦争(500-449)を経てギリシア古典文化の黄金期を経て(たとえばソクラテスは400年代末期のころ)、アレクサンドロス大王(336-323)が大遠征をするようになってはじめて、聖書の世界にギリシアがかかわるようになってくるのです。つまりは2世紀も時代が違うというわけですね。
 第二ゼカリアではゼカ9:9で、救い主がろばに乗ってやってくるという話が書かれており、これをふまえて四福音書とも、イエス様がエルサレムに入城するにあたってはろばに乗せております(マタ21:1-7マコ11:1-7ルカ19:28-35ヨハ12:12-16)。マタイとヨハネは、なんでイエス様がろばに乗らねばならないかというタネあかしもしています。
 ついでながらマタイにはマタ23:35に「バラキヤの子ザカリヤ」という人物が出てきます。新共同訳ではゼカルヤと書いているので余計に「あ、このゼカリヤかな」と思うんですが(なにしろゼカリヤは「ベレキヤの子」ですからね)、これはマタイの間違い。エホヤダ(ヨヤダ)の子ゼカリヤ(代下24:20)でなければなりません。
 第二ゼカリヤは黙示録的にイスラエルの未来を預言します。13章、終末には全地の三分の二の人が死んで三分の一だけが生き残るんだそうで、これが本当に世界の終末なら、神様に助けてもらえるいい人が三分の一もいるの? ずいぶん多く助けてもらえるのね、なんて思っちゃいます。私の感じでは三百分の一くらいかなって思ってたものですから。
 昔、創価学会が「舎衛の三億」なんてことを言いました。舎衛っていうのはコーサラ国の首都シュラーヴァスティーのことでして、三分の一くらいしか仏教に帰依しなかったので、広宣流布(全世界に教えを広める)は全世界の人口の三分の一くらいが目標だなんてことを言ったんです。ナーガールジュナ(龍樹)の著とされる『大智度論』に出てくるらしいんですが、なんか似てますね。「救われるのは三分の一」っていう考えって広く古代世界にあったのかしら?

●エズ・ギ9章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezg&chapter=9&mode=0
 正典エズラ記をなぞってきたエズ・ギはここでおしまい。正典エズラ記のほうは異邦人と結婚した人の強制離婚があって終わっちゃったのに、エズ・ギのほうはもう1章ありましたね。ここはネヘ7:72およびネヘ8:1-13の、エズラがみんなの前で律法を朗読した話をなぞっています。正典エズラ記のほうは強制離婚で終わるという、外国人にとってはなんとも後味の悪い終わり方をしますけど、エズ・ギのほうが律法の復興というおめでたい話で終わるので、正典エズラ記よりはるかにまとまってますね。エズ・ギの最初だって正典エズラ記より前の、ユダ王国の滅亡の話を、歴代誌下をなぞってまとめているので、エズ・ギは単独の読み物としては正典エズラ記よりはるかに便利な本です。

[941] コヘ9-10章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/03(木) 09:42:59 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ecc&chapter=9&mode=0
 9章を読むと、ユダヤ教・キリスト教っていうのは、ご利益宗教じゃないんだなってことが、つくづくわかります。
 なにしろ、いい人にも悪い人にも、平等に悪いことがおきる(コヘ9:2-3)っていうんですから。能力は必ずしも結果につながらないけど、災難だけは平等にやってくる(コヘ9:10)っていうんですから。
 ではどうするのがいいかというと、楽しむこと。楽しく食事をすればいいんです(コヘ9:7)。悪いこともあるかもしれないけど、生きてる限り望みだってあります。死んだら悪いことも起きないかわり、いいことも起きません。死んだライオンより生きてる犬のほうがいいんです(コヘ9:4)。
 悪いことが起きたら「くよくよしないで、まずごはん食べよっ」。これですね。

 10章は政治論。悪い君主は昔からいます。悪い上司も昔からいます。そんなの昔からそうなんですから、批判はしないほうがいい。批判をするとすぐに聞かれちゃうからっていうのが、ecc:10:20の結論です。
 なお、コヘ10:8の「穴を掘る」は、他人を落としいれることじゃなく、ホントにただ単に穴を掘るってことらしいです。ここから11節までは、仕事上の事故がいろいろ起こるってことで、ここも、工事をしてると事故にあいやすいということ。でも、原文の意味を離れて、「人を落としいれようとしちゃいけない」みたいに読んでも、格言として役立つならそれはそれでいいかもしれません。
 それからコヘ10:10の前半は、新共同訳では「なまった斧を研いでおけば力が要らない」とありますが、意訳のしすぎ。他の多くの訳、たとえば口語訳の「鉄が鈍くなったとき、人がその刃をみがかなければ、力を多くこれに用いねばならない」みたいに、磨かないと力がいる、なんです。もちろん裏返せば「磨けば力は不要」なのかもしれませんが、ここはみんな、仕事上のトラブルを言ってるわけですから、裏返して訳しちゃいけないところです。

[940] 詩編134-136編、エズ・ギ8章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/02(水) 06:19:47 ここから閲覧

●詩編134-136編
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=psa&chapter=134&mode=0
 120編以来続いてきた「都もうでの歌」は134編でおしまい。都もうでの歌はどれも短編でしたが、135編からは普通の長さに戻ります。
 136編は「あれ、どこかで読んだことがあるわ」という強烈なデジャヴ感におそわれますが、118編と同じように「そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」というリフレインが印象的だからです。ここはやはり新共同訳の「いつくしみはとこしえに」という5・5というリズムをきかせた訳に軍配をあげたいところ。ヘブライ語だと כִּי לְעֹולָם חַסְדֹּו(キー・レオラム・ハスドー)。[908]でHK. J.さんが美しさの秘密を解き明かしてくださってましたね。『新聖書注解』によれば、このリフレインはほかにもエズ3:11代下7:3,6に出てくる、きまりきった合いの手で、前半をプロの聖歌隊がうたって、この合いの手をみんなで唱和したらしいです。
 今回はさらに「~に感謝せよ」もリフレインしてますが、ヘブライ語を見ると、3節まではたしかにהֹודוּ(ホドゥー。感謝せよ)という語がありますが、そのあとは最後の26節に出てくるのみなんで、これは訳文だけのことですね。ちなみに神様のことをヤハウェくんと呼んでいるのは最初だけ。こういうのは新改訳とか新世界訳がわかりやすいです。ちなみに新改訳や新世界訳は「感謝せよ」もちゃんと3節でうちどめにしています。

●エズ・ギ8章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezg&chapter=8&mode=0
 昨日読んだ、正典エズラ書の残りの部分をエズ・ギでは一気に8章で片付けちゃってます。つまり、エズラが登場してエルサレムに帰還、異民族と結婚した人を強制離婚させたところまでですね。
 長々と帰還者名簿が書かれていますが、例によってこれが正典エズラ書と微妙に違うので、コピペしてるとハマるところです。

[939] エズラ記6-10章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/01(火) 10:09:04 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezr&chapter=6&mode=0
 通読表ではいまちょうど平行して旧約外典(続編)のエズ・ギを読んでいます。エズ・ギはほとんどエズラ記のコピーですので、どちらがどちらだかわかんなくなりますね。
 前回書き忘れましたが、エズ4:8からはエズ6:18までとエズ7:12-26はアラム語です。
 6章は昨日読んだエズ・ギ7章と同じ。ついに神殿が完成し、翌月14日に過越祭が行われました。ところがよく見ると、神殿完成の日が違います。エズ・ギのほうではダリヨス(ダレイオス)王第6年アダル(12)月23日でしたがこちらは3日ですね。いまの暦でいうと、エズ・ギのほうがBC515年4月1日でしたから、こちらは3月12日ということになりますね。曜日を計算すると、エズ・ギのほうが金曜日で正典エズラ記のほうは土曜日になるらしいです。土曜日といえば安息日。こんな日に神殿を完成させたらヤハウェくんが怒ってしまいますので、たぶんエズ・ギのほうが正しいんでしょう。聖書無謬説に立つ福音派の愛用する『新聖書注解』ですらそれを認めてます。わたしたちも、神殿完成記念日は4月1日ってことにしておきましょう。それとも復活祭みたいに「金曜日」を優先するなら、アダル月23日だと、春分の直前の満月のあとになりますから、「春分の前の満月(春分と重複したら一ヶ月前)のあとの第一金曜日(満月と重複したらその次)」にしましょう。来年だとちょっと早くて3月16日になるはずです。
 7章でいよいよ主役のエズラが登場します。時代はアルタシャスタ王7年(BC458)。ですから6章からは57年も時間がたっているのです。神殿が完成したというのはいわば箱物行政、ハードができただけ。ソフトとしての律法を整備したのがエズラです。
 アルタシャスタ王の許可と援助を受けてエルサレムに帰還した律法学者エズラは、異邦人と結婚した民があまりに多いことを嘆き、強制的に離婚をさせます。もちろんこれらの結婚は、帰還後、つい最近の話です。帰還から57年もたつと、異民族と結婚して子どもまでできちゃってる人も多いわけですね。
 ユダヤ教には教祖・開祖にあたる人はいませんが、あえていえばエズラかもしれません。エズラがエルサレムから持ち帰った律法がいまのモーセ五書とほぼ同じものであると言われています。
 昔はヤハウェくんはたくさんある神の一つでしかなく、王国の分裂、北王国の滅亡、南王国の衰退という危機を経て、しだいにヤハウェくんへの信仰が主となり、ウジヤ王のときに申命記を作って断片的だった律法を整備しようとした。これがユダヤ教の成立の第一段階。そしてバビロン捕囚期にイスラエルの民は異国の地にあってアイデンティティが強化されて律法が整備され、それを持ち帰ったのがエズラ。これが第二段階。あとはイエス様の時代のあとに神殿が破壊されユダヤ人が諸国に散らされ、いっぽうでキリスト教というヘンなやつらが出てきたという危機を経て、旧約聖書が最終的に整備され、ユダヤ教がいまある形になったというのが第三段階。これが「ユダヤ教は三度作られた」([786])という話でした。
 この第二段階のところでユダヤ人はガンコに律法を守るようになり、一マカ2にあるみたいに安息日に戦いをしかけられると無抵抗で玉砕してしまうまでになったのですから、エズラがユダヤ教の開祖ということになるでしょう。
 そもそも、ユダヤ人というのはエズ4:12で初めて出てくることばですからね。
 しかし、エズラ記によればエズラのやったことって結局のところ強制離婚だけなんじゃないかと思うんですけど。そもそも、けがれた異民族との結婚を禁止して強制離婚なんていうのは今の私たちの感覚からすればなんとも偏屈な話ですよね。昔はルツ記にあるように異民族との結婚なんて当たり前、そもそもモアブ人のルツってダビデのおばあさんじゃありませんか。
 人類って時代がたてばたつほどだんだん国際的になっていくのかと思ったら、むしろ排他的になっていく傾向があるんじゃないかしら。

[938] 申命記16-19章、エズ・ギ7章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/31(月) 11:26:04 ここから閲覧

●申命記16-19章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=deu&chapter=16&mode=0
 16章。祭の話はレビ記23章なんかにも出てきました。申命記という本は、ヨシヤ王の時代に今まで忘れられかれていた律法をもう一度しっかり定着させようという意図で作られた「第二の律法」ですから、いままでどこかで読んだ話がもう一度出てくるわけです。申命記というタイトルの意味は「重ねて命じる」でしたね。「第二の律法」というのを漢文で表現したものです。ちなみにその「第二の律法」というのは、今日読む申17:18に出てくる「この律法の写し」というのの誤訳から来ていますが、誤訳とはいえ申命記の性質をよくとらえているので、意図的な誤訳かもしれません。
 その「この律法の写し」という言葉が出てくる17章は、イスラエルの王はかくあるべしという話なんで、明らかに王制が始まったあと、しかも王制が乱れに乱れて、ひどい王様ばかりが出るようになってから定められた、王の理想像というわけですから、モーセの時代に書かれたはずがありません。
 18章の後半も「預言者とは何か」というわけで、これも預言者がいっぱい出るようになってからの話ということになります。
 その一番最後が面白いですね。真の預言者かどうかを見分けるポイントは、預言者の言葉が成就するかどうか、つまりは未来のことを予言して当たったかどうか、というわけです。あれれ、じゃ預言者っていうのは予言者って書いてもよさそうですね。
 予言と預言は違うなんて知ったようなことを書いてるキリスト教の参考書は実に多いですね。予言は未来を予測、預言は神様の言葉を「預」かったんだ、なんて。でも、預かった神様の言葉というのは、たいていは未来に関することですから、実は予言と預言の境界線というのはハッキリしないんです。
 しかも、もともと中国語では「預」=「予」なんですよ。うちの主人がやってる青蛙亭漢語塾が公開しているWEB支那漢
http://www.seiwatei.net/chinakan/chinakan.cgi
で「預」をひいても「豫(つまり予ね)と同じ。豫備は亦た預備にも作り…」なんて書いてます。中国語だと予言と預言の区別なんて全然意味ないんです。じゃ中国語で預けるとか預かるってどういうかというと、専用の単語はなく、保管するとか置くとかいう言葉で表現するみたいです(考えてみれば、「持ってる」「保管する」「置いとく」といえばいい話ですからね)。たとえば、
  金を銀行に預ける  把錢存在銀行裡
  銀行は当座定期の預金を預かります  銀行可以收存定期活期的存欵
    (井上翠『井上ポケット日華辞典』昭和12年 龍文書局)
 このことは織田昭先生も『新約聖書ギリシア語小辞典』のp.507、προφητεύωの項で喝破しています。

神の言葉を「預かって」語る者を「予言者」でなく「預言者」と訳したのは、近代日本語としては適訳であると言われる。確かに、預の字の連想から見れば、結果的に現代日本語訳聖書の知恵とも言える. しかし漢語としての預言は予言と変わりがなく、現代中国語では預の字は予の字の代わりに使われる。漢訳聖書で「預言」と訳した訳者は我々が「預」の字から受ける暗示とは無縁であった。預金、預託は現代国語が生んだ熟語である。このような「思い込み」とは別に、「預言」の文字は保存してよかろう。

 このように、予言か預言かというのは日本語の問題であって中国語とは関係ないし、ブリッヂマンなどの漢訳者が預言と書いたのは単なる偶然で、それを日本人が見て「預」にブリッヂマンが考えもしなかった深い意味を見出しちゃったわけです。
 織田先生は、それはそれとして「預言」というのは適切だと言ってますけど、私はそう思いません。それだったらもう「予言」でいいじゃん。普通の予言者は超自然的な怪しげな力で予言するけど、ユダヤの予言者は神様の言葉で予言するんです。
 「預言」はキリスト教業界用語としてもう定着しているんで、私も惰性で「預言」って書くと思いますけど、「予言」との違いは、そう神経質になる必要はないし、細かいところでは区別はつかないんです。

●エズ・ギ7章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezg&chapter=7&mode=0
 正典エズラ記ではエズ6:13-22
 ダリヨス(ダレイオス)王第6年アダル(12)月23日、ついに神殿が完成し、翌月14日に過越祭が行われました。神殿完成の日はいまの暦でいうとBC515年4月1日。神殿が出来てこいこい幸せ、なんて覚えましょうか。

[937] 1ペト4-5章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/30(日) 07:06:37 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=1pe&chapter=4&mode=0
前回(1-3章)[930]同様にキナ臭い話。
  一ペト4:1「肉において苦しまれたのであるから、あなたがたも同じ覚悟で心の武装をしなさい。肉において苦しんだ人は、それによって罪からのがれたのである」
  一ペト4:16「クリスチャンとして苦しみを受けるのであれば、恥じることはない」
 ああ、信仰って大変なのね。迫害されなきゃ罪から解放されないのね。

 前回も言ったように、こういう文書は非常時には信徒をなぐさめ勇気を与えたのかもしれませんけど、私はやっぱり「今は迫害が厳しいからひとまずおとなしくしていなさい。また状況が改善してから信仰しましょう」みたいなほうがいい指導だと思うんですけどね。牧師など宗教指導者には厳しい規範を課したとしても、一般信徒にはゆるかにしてもらいたいわ。
 ともあれ、平常時においては、1ペトは取り扱い注意の危険文書ってことでおしまい。

[936] 使徒15-16章、エズ・ギ6章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/29(土) 18:21:31 ここから閲覧

●使徒15-16章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=act&chapter=15&mode=0
 さあ大変だ大変だ、事件だ事件だ。
 宗教団体の内紛、お家騒動というのは第三者にとっては何が何だかよくわからないコップの中の嵐ですが、それだけに醜い泥仕合になることが多く、週刊誌のかっこうのネタですね。
 キリスト教の歴史にも「異端との戦い」、いや、これは戦いに勝った側の表現ですね、「お家騒動」と言ったほうが公平でしょう、お家騒動にあふれておりますが、その第一号が今日の話です。
 まず使徒15章にしたがって事件の経過をたどりますと、
 パウロ、バルナバといった「ギリシア語派、国際派」の牛耳るアンテオケ教会にユダヤつまりエルサレムからやってきた人々が「ほらほら、異邦人だって改宗したからには割礼やらんかい」といちゃもんをつけてきたのです。
 そこでパウロ、バルナバはエルサレムに行き、割礼は必要かという会議が開かれます。パリサイ派あがりの人たちが中心となって割礼をやれという。パウロやバルナバは反対です。
 ここでペテロとヤコブが演説をして異邦人を広く受け入れようという話になり、それが会議の結論として、使15:23-29にあるような書面にまとめられます。
 ポイントはとりあえず異邦人には、使15:29にあるように「偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、避ける」ということ。ヤコブの演説の中にあるとおり、モーセの律法の最低水準だけは守らせようというわけです。
 この書面は一応は使15:23のように「アンテオケ、シリヤ、キリキヤにいる異邦人の兄弟がたに」という地域限定のものですけど、実質的に世界標準になっていきます。

 この会議の話は実はガラテヤ2章にも書かれています。ガラ2:1の「十四年たってから、わたしはバルナバと一緒に、テトスをも連れて、再びエルサレムに上った」というのが、会議とも何とも書いてませんけど実はこの話です。経過はガラ2:3-6にありますが、こちらを読むと、割礼強要派はペテロをもまきこんでずいぶんパウロたちに圧力をかけたようですが、パウロはそれに屈せず、割礼不要を通したようです。
 そして、使徒に書いていない重要なこととして、ペテロ(ケパ)、ヤコブ、ヨハネといったエルサレム派がユダヤ人への伝道を、パウロ、バルナバといったアンテオケ派が異邦人への伝道をするという具合に、分裂が起こったことが書かれています。さらに、その後にアンテオケに来たペテロに対して、パウロは、「以前は異邦人と一緒に食事してたのに、ヤコブの配下の連中がやってきたら異邦人との会食をやめるようになったというのはけしからん」と非難します。これで両者の対立は決定的になります。

 さらにパウロとバルナバの間にも対立が生じます。これは使徒にも使15:36-40に経緯がありますように、使13:13で脱落しちゃった「マルコと呼ばれるヨハネ」を伝道に連れていくかどうかがキッカケ。パウロが猛反対するのです。ガラテヤのほうではガラ2:13のように、異邦人との会食反対派がバルナバを引きずり込んだと書いています。

 そんな感じで分裂につぐ分裂を経たのち、パウロはシラスを連れて、第二回宣教旅行に出かけます。使15:36からはじまり、使18:22までです。とりあえず16章の部分について、行程を、
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fb/JBS1956-B_map12.png
を見ながらたどってください。黄色の点線ですね。出発からしばらく、第三回の赤い実線とだぶってて見にくいですが、出発地はアンテオケ。陸路でキリキヤ地方を抜け、ガラテヤのデルベ、ルステラを通り、アジアの北部を通ってムシヤ地方へ行き、トロアスというエーゲ海に面した港町からマケドニヤのネアポリスへ。そこからちょい内陸のピリピまでが16章の範囲です。
 ルステラでテモテに出会ったとありますが、実はこれが初対面ではなく、第一回の旅行でもう洗礼をさずけた(一コリ4:17)みたいです。今回は同行もさせるのですが、このとき割礼を受けさせたというのはウソでしょう。ガラ2:3にあるようにエルサレムの会議のときにはテモテには割礼が強要されなかったわけですから。
 ピリピで人気の女占い師から除霊をしてしまったことで、商売があがったりになった主人が訴え、パウロとシラスは投獄されます。使12でペテロが投獄されたときも奇跡がおこりましたが、こんどは地震の奇跡が起こります。

●エズ・ギ6章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezg&chapter=6&mode=0
 正典エズラ記のエズ4:24からエズ6:12とほとんど同じ。神殿工事が再開し、またしてもいちゃもんがつきますが、調査の結果、これはクロス王が出した命令であり、ダリヨス王が改めて命令を出すということで、工事の正当さが確認されます。

[935] ゼカ1-7章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/28(金) 06:13:07 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=zec&chapter=1&mode=0
 ひさびさに14章もある長い書にトライします。
 ただし、9章以後は確実に別の著者の作なので、現在では1-8章を第一ゼカリヤ、9-14章を第二ゼカリヤと呼びます。
 第一ゼカリヤは冒頭にあるようにダリヨス(ダレイオス)王の2年、つまりBC520年で、ハガイ書([928])のところにも書いたように、ハガイ書とまるきり同じ年です。神様は6・7・9月にハガイ、8・11月にゼカリヤと、二人の預言者にふたまたをかけて言葉を託しています。
 預言書のように難しい内容で、しかも今日の部分は7章もあるのでさぞや大変と思いきや、読んで見るとそう難しくありません。わたしに立ち帰って神殿建設をがんばれというのと、世俗権力の長ゼルバベルと大祭司ヨシュアの二権分立体制の確立を、預言書らしい象徴的な表現で指示しているのであり、しかも何が何の象徴であるかをいちいち説明してくれてますからね。
 考えてみれば、ゼルバベルもヨシュアも、武力で支配を確立したわけでなし、本来ならきわめて不安定な基盤の上で民を統治しているわけですから、このようにハガイやゼカリヤという預言者のサポートで、この支配体制こそ神様がのぞんでいることなのだ、というお墨付きをもらわなきゃならなかったわけですね。
 なお、ゼカ6:11の「ヨザダクの子である大祭司ヨシュア」というのは「シャルテルの子ゼルバベル」でなければ意味が通りません。13節に「その位のかたわらに、ひとりの祭司がいて、このふたりの間に平和の一致がある」とあるわけですから、祭司のとなりに祭司がいちゃおかしいですからね。なんでゼルバベルがヨシュアに変わっちゃったかはいろんな説があるようですが、いずれにせよゼルバヘルとヨシュアの二権分立体制を描いております。
 ちなみに昔、イザヤ・ベンダサンこと山本七平さんが『日本人とユダヤ人』の中でここをユダヤ人の思い描いた理想的な二権分立体制だと書いたのですが、ヨシュアがほんとうはゼルバベルであるということに気づかず、つじつまあわせの苦しい説明をしています。それを山本七平キラーの浅見定雄先生が『にせユダヤ人と日本人』の中でからかっています。

[934] コヘ7-8章、エズ・ギ5章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/27(木) 08:10:43 ここから閲覧

●コヘ7-8章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ecc&chapter=7&mode=0
 7章冒頭「死ぬる日は生るる日にまさる」とありますが、別に早く死んだほうがいいわけじゃなくて、葬式に列席して死としっかり向き合うと、人生をより深く洞察することができるということです。前章末の「人生は短い」からの連想でこういう話になっています。
 途中にいろいろ印象的なことわざとして使える語句もありますが、ちょっととばして15-17節。正しいものが滅び、悪人が世にはびこることが多いので、あんまり正義を追求するな、一方で悪も追求するな、というところが、いろいろ悪いニュースに怒ってばかりの私には警告の言葉ですね。何事もほどほどに。
 同じことが次の8章14節にも書いてあります。翻訳によってはとても読みにくいですが、要は、善人なのに悪人みたいに滅んじゃう人もいるし、悪人なのに善人のように栄えちゃう人もいるってことで、同じことですね。そこで著者が言うのは、楽しさの追求。まあ楽しみなさいということです。私は、怒ってないで笑え、茶化せ、と読んでおります。
 私はテリー伊藤さんって嫌いですけど(特に震災のあと、悪徳ACの広告で「デマにまどわされないようにしよう」なんて言ってたのが猛烈に腹が立ちます。あ、腹をたてちゃいけないわね)、主人は『お笑い北朝鮮』をとても評価しています。それまで朝鮮半島の問題を論ずる人って怒ってる人ばっかりだったんですが、笑う、茶化すというのが武器になるんだと気づいたっていうんですね。そんなもんかしら。

●エズ・ギ5章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezg&chapter=5&mode=0
 エズラ記2章同様に長々と帰還者名簿が載ってますが、これが困ったことに、ちょこちょこと違うんですよね。エズ・ギの真理子訳(真理子のおまけ)を作るときは、固有名詞を口語訳聖書にあわせる方針なので、平行箇所の口語訳聖書の記述をできるだけコピペするようにしてるんですが、どうせおんなじだろうと思ってコピペしたら名前や数字がちょこちょこ違うのでけっこう大変でした。
 後半のサマリヤ人の妨害の話はエズラ記4章と同じですが、エズラ記では「その地の民」というふうにぼかして書いてあるところが、サマリヤ人とはっきり書いています。ユダヤ人のサマリヤ人への蔑視は、福音書にいろいろ出てきますが、こういうところに淵源があるんですね。

[933] 詩編131-133編 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/26(水) 10:30:23 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=psa&chapter=131&mode=0
 なんか短かすぎて書くことがないわ。
 133編。最初だけ読むと「兄弟仲良く」みたいにも読めます。まあ、局所的に聖書の語句をつまみぐいするってよくあることで、聖書のおみくじ作ったら、詩133:1だけで、「兄弟は他人のはじまりといいますが仲良く助け合いましょう、家内安全」みたいなものも作れるかもしれません。でも、アロンだのヘルモンだの出てくるし、作者はダビデということになっているので、イスラエルの民がみんな仲良く暮らすのは楽しい、というふうにとったほうがいいですし、聖書がイスラエルの民のものだけでない現代にあっては、全世界の民が仲良く、というふうに読むこともできるでしょう。
 政治権力の長ダビデにそそがれたあぶらが、ダビデだけでなく、宗教権力の長であるアロンの子孫の祭司にも流れる。権力者を権力者たらしめる力が特定の王だけでなく全世界の王に、また政治の王だけでなく宗教指導者やいろいろな人にふりそそぎ、みんなが平和に共存する。
 ヘルモンの露がシオンの山にというのは、地理的にいって、富士山の露が穂高連峰にみたいな感じで、実際にはありえないんですが、ヘルモン山に下りる露というのは独特の重い露らしく、そういうものがシオンの山にふるっていう意味みたいです。あぶらみたいなどろっとした露なのかしら。とすると、これも、2節と同じように、あぶらがいろんな指導者に流れてみんなが平和的に共存するってことなのかしら。

[932] エズラ記1-5章、エズ・ギ4章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/25(火) 05:17:59 ここから閲覧

●エズラ記1-5章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezr&chapter=1&mode=0
 エズラ記とネヘミヤ記は、捕囚から解放されたユダヤ人たちがエルサレムに帰還して神殿を再建する話です。[925]で書いたように本来は1つの本であり、さらに偽典にはエズラ記という名を冠した本がいろいろあって混乱のきわみになっています。
 エズラというのは神殿の再建を指導した人物ですが、エズラ記の7章以後に登場。それまではハガイ書のところで([928])説明したように、総督ゼルバベルと祭司ヨシュアのいわば二権分立体制になっています。この二人の名を覚えておけと書きましたが、実はエズラ記ではヨシュアはエシュア(イェシュア)と呼ばれています。またエズラ記1章に出てくる「ユダのつかさセシバザル」とは実はこのゼルバベルです。そのくせ2章からはゼルバベルですからね。新約聖書ではこの人はゾロバベルと呼ばれていたりもします。固有名詞なのに呼び方が違うというのはいままでもままありましたけど(たとえばウジヤ王がアザリヤと呼ばれていたりとか、ネブカデネザルがネブカデレザルと呼ばれたりとか)困ったものですね。なお、新改訳聖書ではエズラ記でもヨシュアに統一しています。そういうのも一つの便利なやりかたでしょうし、脚注にちゃんとことわってはいますけど、原文の不統一をおおい隠してしまうのはいかがかと思います。
 それから、エズラ記の説明にはウソがいろいろあります。ペルシャの王名は
   クロス(キュロス) BC550-530
   カンビセス(カンビュセス) 530-522
   ダリヨス(ダレイオス)1世 522-486
   アハスエロス(クセルクセス)1世 486-464
   アルタシャスタ(アルタクセルクセス) 464-423
   ダリヨス(ダレイオス)2世 423-404
のとおりですが、エズラ記冒頭、クロス王がユダヤ人を解放して神殿を再建させることを許したのは元年(550)となっていますが、実際には538年の話です。
 2章は帰還者名簿。ゼルバベルとエシュア(ヨシュア)の指導のもとに神殿が再建されますが、その規模が小さかったので、喜びの声と同時に往時の神殿を知る人の嘆きの声も大きかったというのが3章。で、ここからがまたエズラ記のウソなんですが、4章ではサマリア人たちの妨害の話が出てきますが、アハスエロス(クセルクセス)とかアルタシャスタ(アルタクセルクセス)というのは後代の王の名。実際にはカンビセス王の時代の話です。ここらへん、ヨセフスの『ユダヤ古代誌』11巻では改めてあります。
 ハガイとゼカリヤの預言に力づけられて再建工事が再開するのが5章。ここでクロス王時代の手紙が引き合い出されますが、ここでもゼルバベルはセシバザルになってますね。ペルシャ語だとそうなるのかしら?

●エズ・ギ4章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezg&chapter=4&mode=0
 「この世で一番強い者は?」というクイズに三人の若者が答える話の続き。二人目は王。三人目は「女と真理」で、この答えが人々の心をうって三人目の人が優勝。実はこの人こそゼルバベルであって、ダリヨス王から神殿再建工事の再開の許可を得る、という話で神殿再建の話につながるわけです。
 それにしてもゼルバベルの答えの前半は傑作ですね。王は強いかもしれないけど、エッチの最中に王をひっぱたく側室のほうがもっと強い、なんて。聖書でこんなに色っぽい話が読めるとは思いませんでしたわ。

[931] 申命記13-15章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/24(月) 07:20:54 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=deu&chapter=13&mode=0
 14-15章はレビ記や出エジプト記で出てきた規定の焼きなおし、再確認。もともと申命記自体が、ヨシヤ王時代に民が忘れていたヤハウェくんの律法を徹底するための文書ですからね。
 で、13章は結局「ほかの神を拝むな」ということなんですけど、言い方がなんともあわれじゃありませんか。しつこくしつこく何度も繰り返し、果ては、(ニセ)預言者や夢占い師が奇跡を起こしたとしても信ずるなよ、ですからね。奇跡を起こしたんならそいつらはすごいじゃありませんか。そんなこと言うならヤハウェくんも奇跡を出し惜しみしないでばんばん出してくれれば、こんなにしつこく言わなくったって、民は自然とヤハウェくんを信じようというものです。
 前にも言ったように、イスラエルの民が何度も何度も警告をされたのに結局バアルだのアシラだのを信じるようになったっていうの、民が罪深いってとらえるんじゃなく、発想を転換、視点を転換してみましょうよ。ヤハウェくんがバアルやアシラより頼りない、役に立たない神だってことじゃありませんか。
 そういう考え方に立ってみると、13章のヤハウェくんの言い方っていうのが、「ごめんね、ぼくは役に立たない神様でさ。お願いだよ、頼むから、ほかの神に浮気しないでくれよ」と哀願しているように読めませんか?

 申13:1は、以前の聖書では12章末になってたりしますけど、「これにつけ加えてはならない。また減らしてはならない」。どこかで聞きましたね。あ、そうだ、サントリーの山崎のコマーシャルじゃありませんか? 「何も足さない。何も引かない」でしたっけ。こういうのも視点を転換するんですよ。てことは、サントリーの酒っていうのは、いろんなものを足したり引いたりしてるってことなんです。こういうコマーシャルを作るってことは、サントリーの数々の悪行の後ろめたさの現れです。
 そうやってみると、ここもヤハウェくんの後ろめたさかもしれませんね。いろいろうるさいことを言ってごめんよ。これだけは守ってくれよ。もうこれ以上いろんなこと言わないからさ、みたいにも読めます。

[930] 1ペト1-3章、エズ・ギ3章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/23(日) 10:17:59 ここから閲覧

●1ペト1-3章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=1pe&chapter=1&mode=0
 著者はイエス様の弟子の筆頭ペテロ(ペトロ)ということになっていますが、昔から疑義も出されています。ガリラヤの一介の漁師にすぎないペテロがこんな流暢なギリシア語を書けるわけがないうんぬん……私は著者説はどうだっていいんですが、一ペト1:20の「キリストは天地が造られる前から知られていた」みたいにヨハネ福音書=ギリシア的発想が濃厚だし、逆にペテロならもっと律法うんぬんという話になるだろうし、私は「なりすましペテロ」説をとります。
 で、なんで私が著者説に関心がないかというと、誰が著者であれそいつは大ばかやろうだからです。新約聖書中では1ぺトはクリスチャンにけっこう人気のある書だと思いますが、私に言わせればとんでもない危険・反動文書です。ヨハネ黙示録なみの毒入り文書です。まだヨハネ黙示録のほうがいかにも毒入りだという感じがするのでまし。1ペトは一見、一ペト1:25「主の言葉はとこしえに残る」とか、一ペト2:1-2「悪意を捨てて乳飲み子のように霊の乳を求めなさい」とか、美しい言葉に満ち溢れているだけに、その間にこめられた毒に気がつかなくなってしまう、よけいに悪質な文書です。
 何に私が怒っているかというと、 一ペト2:13-14「王だろうと長官だろうとすべておカミには従え」、 一ペト2:18「悪い主人にも従順に仕えろ」のような猛烈な反動性、権威への服従を説くところです。
 著者はハッキリ言って世俗の権威には無関心であり、イエス様の神の国にしか関心がない。だからこの世でどんなに苦しもうと、神の国に入る前段階の試練でしかない。むしろ、正義のために苦しめば苦しむほど、神の国に入るに際して高い評価が得られるのでいいんですよ。
 迫害と殉教を肯定する思想です。
 もちろんこういう思想は、現実に迫害を受けている信徒に対しては慰めと勇気を与えるものです。同じく毒入り文書のヨハネ黙示録も、現実に迫害を受けている人には希望を与える薬なんです。ただし薬というのは、処方を守って正しく服用しないと毒になるのであって、1ペトは黙示録同様に、当時の時代背景を離れて一人歩きさせてはならない文書だと思います。
 今にもライオンの餌食になってしまう人には、苦しみは一瞬であり、この苦しみが救いにつながるんだという教えも有効ですが、もしライオンの餌食にならずにすむ方法があれば、それを選択させてあげるのがいいんです。踏絵を踏めば助かるのなら「踏みなさい」と指導するのがよい神父・牧師だと思います。だって、神の国の生活も大事ですが、神の国に入るまでの今の生活だって大事じゃありませんか。
 私はこういうふうに考えるので、いかなる形であれ、信徒に殉教を強いる教えは邪教だと思っているのです。その意味では初期キリスト教団は邪教。キリシタン時代のイエズス会も邪教です。

 私はクリスチャンでありながら霊魂の輪廻説をキリスト教に持ち込んでいる異端者なんですが、輪廻説が便利なのは、神義論をうまく説明できちゃうことです。ヨブのような義人がどうして苦しめられるのか、それはヨブが前世で悪いことをしたむくいなんです。正しいことをしているのに苦しむことによって前世の悪業といううみを出しててるんです。たぶん来世はよい暮らしができるでしょう。逆に自暴自棄になって悪いことをやると、また来世で苦しむことになります。……というぐあい。
 ところがこの思想の欠点は、現実の社会の矛盾にまるきり無力だということ。社会の矛盾に苦しむ人がいても全部そいつの前世の悪業なんですから、社会を改革しようという話にならない。
 ユダヤ教やキリスト教はこういう意味での前世・来世を否定するから、現実の社会の悪を改革しようという思想も生まれてくるんですが、一歩間違って、神の国の話ばっかりしちゃうと、現世に無関心になってしまって、輪廻説同様の欠点が出てきちゃう。その典型が1ペトだと思います。

●エズ・ギ3章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezg&chapter=3&mode=0
 歴代誌、エズラ、ネヘミヤからのコピペでほとんどできているエズ・ギの中で、唯一正典エズラ記にない話が3-4章です。ここを楽しまないとあとは楽しい話は出てきません。
 ダリヨス(ダレイオス)はユダヤ人を解放したクロス王より2代あとの王。ユダヤ人はせっかく解放されたのに、サマリア人たちの妨害にあって神殿建設が中断していました。これを打開するエピソードが3-4章の話。
 王の身辺警護にあたっていた三人の若者が「この世で一番強い者は誰か」というクイズに答えます。
 エズ・ギでは三人の若者が自発的にこのクイズを考えたことになってますが、でもクイズの正解者がさまざまな賞や特権を得られるわけですから、ちょっとおかしいですね。
 この話はヨセフスの『ユダヤ古代誌』11巻にも入っていますが、ヨセフスはこの設定を改作して、ダリヨス王がこのクイズを出題して眠ったことになってます。これならツジツマがあいます。
 最初の若者はお酒と書いて、みんなの前でその理由を説明します。酒は人間の理性を乱すことができるので強いというわけです。

[929] 使徒13-14章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/22(土) 11:28:06 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=act&chapter=13&mode=0
 今日のところは「パウロの第一次宣教旅行」です。
 パウロの宣教旅行の地図は聖書地図なら必ず載っています。聖書のうしろのほうについていることも珍しくありません。口語訳聖書のもの(当時は別売り)は著作権が満了しておりWikisourceにアップされています。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fb/JBS1956-B_map12.png
 まず行程だけたどりましょう。出発地はシリアのアンテオケ(以下、地名は全部口語訳聖書のもの)。そこから港町セルキアに出ます。セルキアというのは新共同訳聖書だとセレウキア。「セレウコス朝」の名前の由来の町です。
 ここから船に乗ってクプロ(キプロス)に渡ります。島全体を巡回しますが、特に東海岸のサラミス、西海岸のパポス(パフォス)が言及されています。
 さらに船でペルガ、今のトルコ南岸の港町に着きます。このあたりの地方はパンフリヤと言います。内陸に行ってアンテオケ。あれれ、出発地の名と同じですね。区別するためにピシデヤのアンテオケと言います。ここまでが13章。
 さらに東へ行ってイコニオム。そこで迫害にあってルステラ(リストラ)、デルベへと逃げます。
 使14:24では「ピシデヤを通過してパンフリヤにきた」とありますが、ピシデヤというのは「もう一つのアンテオケ」のあった地方名でしたし、パンフリヤというのはトルコ南岸の港町ですから、結局は今来た道を引き返したことになります。地名をいうときに都市名で言ったり地方名で言ったりしますから、土地勘がないとまるきり別の地名のように思ってしまいます。
 そしてペルガの隣の港町アタリヤから船に乗ってシリアのアンテオケに戻って、これでおしまい。
 今の国名でいえば、シリア→キプロス→トルコ→シリアというわけです。

 旅行に出かけたのは、アンテオケ教会のバルナバたち、およびパウロです。パウロはこのときからサウロではなくパウロと呼ばれます。つまりはギリシア語派ユダヤ人たち、別の言い方をすれば、ペテロなどのイエス直弟子ではない人たちというわけです。
 13章の最初ばかりか、この宣教旅行の最後つまり使14:26にもわざわざ「このアンテオケからであった」と強調されているのは、この功績はギリシア語派がやったことなのだということを強調しているのでしょう。
 ただし、ギリシア語派とはいってもやっぱり彼らもユダヤ人です。基本的に彼らはユダヤ教の会堂で主にユダヤ人相手に宣教しているのです。ユダヤ教の会堂では安息日に礼拝して聖書を朗読して…という集会があったのです。まるでキリスト教の日曜日の礼拝ですね。というか、今のキリスト教の日曜日の礼拝って、ユダヤ教のこの形をまねたわけですけど。
 そういう場がパウロは長々と演説するんですが、これって今のキリスト教の日曜日の礼拝に乗り込んでエホ証だの統一教会だのの話をするようなものですから、度胸がありますよね。ですから信じる人も多かったかもしれませんが反対する人も当然に多いので、迫害にあうというわけです。
 彼らの武器は演説だけでなく、魔術師退治とか足の不自由な人のいやしなどであり、こういう奇跡はユダヤ人だけでなくギリシア人にもよくわかるので、信者が増え、彼らの話を聞こうとギリシア人もユダヤ教の会堂にかけつけるという形になっています。
 ところで、使13:13で、パポスからペルガへ、つまりキプロスからトルコに渡ったときに、ヨハネという人物が脱落します。ヨハネという人は多いので区別するために使15:37では「マルコというヨハネ」と言ってます。このヨハネの脱落が後で(もう使15:37だって書いちゃいましたけど)問題になるので、ちょっと覚えておいてください。

 キリスト教徒への迫害というと、クォ・ヴァディスに出てくるようなローマ帝国による競技場でライオンのえじきにさせるなどのイメージがありますけど、実は使徒行伝に出てくる迫害のほとんどはユダヤ人によるものです。こういうものが一人歩きすると、ユダヤ人はイエスを十字架につけたばかりかキリスト教徒を迫害した悪い奴らということになっちゃうのですが、今の私たちだって、礼拝のあいだに変な人たちが立ち上がって変な話をしたらやっぱり追い出すでしょう。そういうふうに私たちの立場を相対化して、視点を変えてみることができないと、聖書がユダヤ人差別文書になってしまうわけです。

 使14:12で、ギリシア人たちがバルナバをゼウス、パウロをヘルメスと言ったというのは、英語聖書ではRSVからはZeus、Hermesになってますが、それ以前の聖書ではローマ神話の神名Jupiter、Mercuriusになってるので注意してください。Hermesは英語だとハーミーズ、フランス語だとエルメスと読むのでわかりにくいですがみんな同じです。こんどからエルメスみたらパウロと呼んであげましょう。

[928] ハガイ書(全)、エズ・ギ2章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/21(金) 11:09:05 ここから閲覧

●ハガイ書(全)
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=hag&chapter=1&mode=0
 ハガイ書は時代がハッキリしています。冒頭、ダリヨス(ダレイオス)王の二年というのは、BC520にあたります。
 ソロモン王以後のイスラエルの歴史は、
   BC922 南北分裂(く(9)に(2)は2つに分裂す、と覚える)
   BC722 北滅亡(北はちょうど200年間存続)
   BC587 第二次バビロン捕囚で南滅亡(だからい(5)わ(8)な(7)いこっちゃない、と覚える。
            ちなみに第一次はこの10年前のBC597)
   BC538 捕囚が解かれる(バビロン捕囚は第一次から数えて70年間)
と覚えるといいでしょう。
 日本の朝鮮半島支配は、1910/8/29-1945/8/15なので、35年よりちょっと短いんですが、開始年を1と数える数え年方式だと36年間になるので、韓国ではよく「日帝36年」なんて言ったりします。その伝でいえば、バビロン捕囚はエレミヤの預言(エレ25:11-12またエレ29:10エズ・ギ1:55にもありましたね)に従ってよく「七十年」と呼ばれるので、第一次から数えたほうがいいでしょう。
 捕囚が解かれたのは、捕囚をおこなった新バビロニアが(アケメネス朝)ペルシャ帝国に滅ぼされたからですが、聖書に出てくる王たちの名前は、
   クロス(キュロス) BC550-530
   カンビセス(カンビュセス) 530-522
   ダリヨス(ダレイオス)1世 522-486
   アハシュエロス(クセルクセス)1世 486-464
   アルタシャスタ(アルタクセルクセス) 464-423
   ダリヨス(ダレイオス)2世 423-404
です。例によって聖書がウソをついていることがあるので(たとえばエズ1:1によれば捕囚の解除はクロス王元年=550のはずですが、実際は538年ですから)、聖書の記述とは矛盾することがあります。そもそもエズラ記って、またそのときに言いますけど、王の順序を間違えてたりしますからね。
 また、元年を含める含めないという流儀の違いで1年ズレることは珍しくありません。
 で、ハガ1:1に戻りますが、捕囚が解除されて人々が帰還してしばらくは、政治的にはユダ(ユダヤ)総督ゼルバベル、宗教的には祭司ヨシュアという、二権分立的な指導体制になります。この二人の名前はビッグネームなので覚えておいてください。ゼルバベルはシャルテル(シャルティエル)の子、ヨシュアのほうはヨザダク(ヨツァダク、エホツァダク)の子という父称がよくつきます。オサマ・ビンラディンの「ビンラディン」に相当するものです。ビンラディンって「ラディンの子」ですから姓じゃないんですよ。
 イエス様のご先祖の名前がマタイ冒頭とルカ3章に延々と書いてますけど、ゼルバベル(ゾロバベル)って出てきますよね。これがこの人です。だからゼルバベルはダビデの家系ということになります。ソロモンの家系かどうかはマタイとルカで違いますけど。

 そろそろハガイ書の話。1章では神殿建設がなかなか進まないので、神様がじれったく思って催促しております。ハガイ、ゼカリヤ前半、マラキは基本的にこういう内容なので、浅見定雄先生はまとめて「歯がゆい(=ハガイ)ぜ(=ゼカリヤ)、まだか(=マラキ)!」と覚えさせています。
 これが6/24(現在の暦で8/29)。2章では一ヵ月後の7/21の預言。出エジプトのときのことをあげながらゼルバベルとヨシュアをせっついています。そして9/24(12/18)。この日はダブルです。昔の民はけがれていたが、これからは今日以後のことだけ考えろ、と言ってます。昔の罪はチャラにしてくれるみたいです。そしてこんどは総督ゼルバベル向けに、お前をフォローしてやるぞと激励して終わります。
 なお、次のゼカリヤ書の冒頭は、まるっきり同じ年の8月ですから、神様は6・7・9月にハガイ、8月にゼカリヤと、ふたまたをかけて言葉を託していることがわかります。

●エズ・ギ2章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezg&chapter=2&mode=0
 平行箇所はエズ4。神殿建設が敵の妨害にあって中断されるという話。正典エズラ記のほうでは敵の正体が不明ですが、エズ・ギのほうではサマリヤ人のせいにしています。

[927] コヘレト5-6章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/20(木) 10:12:54 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ecc&chapter=5&mode=0
 今日の5-6章は大きく入れ子になっています。
 5章。最初は言葉のむなしさ。学生時代、キリスト教に関心をもっていた私が、どうしてもなじめなかったのが、人前でのお祈り。どうしてみんなあれだけ心のうちをべらべらと口に出して言えるんだろう。私なんかとても恥ずかしくてできない。キリスト教系のサークルや教会での集まりで、みんなで順繰りにお祈りする機会も多かったんだけど、祈れば祈るほど「適当に言っておけばいいや」と、ウソつきになってしまう自分に気がついて、教会とも縁遠くなってしまいました。そんなときに見つけて支えにしていたのが、マタ6:7-13のような「異邦人のように長々と祈るな。祈るときには主の祈り」だったんですけど、もう一つはコヘレトのこの言葉です。
 7節(旧8節)からは富のむなしさ。お墓におカネは持って行けないっていう言葉がありますが、そのコヘレト版がコヘ5:14。人間は裸で生まれ、裸で死んでいくんです。
 6章は今の話の続きといえます。どんなに財産を与えられ、地位を与えられても、病気になったり死んでしまったりすれば、結局その財産や地位を自分が享受することはできず、人のものになってしまいます。
 そして6章最後はまた、言葉が多ければむなしいことも多い、と、ふたたび言葉のむなしさ。

 結局言葉がむなしいというのも財産がむなしいというのも、神様の前では人は有限なものなのだということにつきています。どんな言葉を言っても人間は不完全なので実行できずに終わってしまったり、財産も使えずに寿命を終えてしまうということです。

[926] 詩編128-130編、エズ・ギ第1章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/19(水) 13:41:06 ここから閲覧

●詩編128-130編
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=skd&book=psa&chapter=128&mode=0
 今日のところではなんといっても130編「深き淵より」。どん底の状態でこそ主に切実に祈る様を簡潔に力強くうたいあげています。
 これはルターの詩によるコラールが有名で、讃美歌1-258、讃美歌21-160などに入っています。讃美歌1-258は歌い出しが「深き淵より」でないのでわかりにくいですが、MIDIファイルを作ってみました。
http://www.babelbible.net/music/muse/h01258.mid (MIDI)
http://www.babelbible.net/music/muse/h01258.mus (Muse)
 歌詞表示機能のあるMIDI再生ソフトを使うと、歌詞を表示します。

 バッハの曲ではカンタータ38番、それからオルガンコラールのBWV686、687に使われています。687の例は次で聞けます。
http://www.ayaori.net/music/portfoli/mp3/old/o410.htm

●エズ・ギ第1章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=skd&book=ezg&chapter=1&mode=0
 エズ・ギの書名については[925]をごらんください。
 エズ・ギは、ユダ王国が滅んで民がバビロンに捕囚され、そこから帰還して神殿を建設するまでの過程を描いたものですが、実は歴代誌下・エズラ記・ネヘミヤ記の内容の焼きなおし。ほとんど内容が同じなので、エズ・ギの真理子のおまけでは、歴代誌やエズラ記からコピペした部分もあるほどです。もとの3書を読むよりも内容がよくまとまっていて(たとえば今日の1章は歴代誌下では35-36章ぶんですから)、面白いエピソードも追加されているなど、こちらのほうが面白く、ヨセフスもユダヤ古代誌ではこちらのほうを参考にしているほどです。
 さて、昨日おあずけにしておいた内容です。
  ヨシヤ(南16。BC640-609)
  エホヤハズ(ヨアハズ。南17。BC609)
  エホヤキム(ヨヤキム。南18。BC609-598)
  エホヤキン(ヨヤキン。南19。BC598-597)
  ゼデキヤ(南20。BC597-587)
 ヨシヤは過越祭を復活させて盛大に祝います。また宗教浄化をします。ところが政治的には重大なミスを犯します。つまりエジプト王(エズ・ギでは名前がありませんがネコ王)と無謀な戦いをして負けてしまうのです。エズ・ギではなんとなく王の体力が弱ったことになっていますが、歴代誌のほうではエジプト軍の射手にうたれたことになっています。王はあわただしく戦地から帰還するとエルサレムで死にます。
 ところが話はこれで終わりません。エジプトは次に即位したエホヤハズを認めず廃位させエホヤキムを立て、ユダ王国に罰金を課します。
 こんどは新バビロニヤ(カルデヤ)のネブカデネザル(ネブカドネツァル)がユダ王国を攻め、エホヤキムをバビロンに連行、ついで立ったエホヤキンもバビロンに連行してしまいます。これが第一次バビロン捕囚。
 ゼデキヤの滅亡のくだりはエズ・ギや歴代誌は、宗教的に主にそむいたことをあげていますが、列王記下24章ではネブカデネザルへの服従をやぶって反抗したことをあげています。エルサレムは徹底的に破壊され、民の多くは殺され、生き残った者も多くはバビロンに連行されてしまいます。これが第二次バビロン捕囚。
 こうして七十年間、捕囚の苦しみが続きます。

 それにしても思うんですが、捕囚時代の外国での民の暮らしが聖書にほとんど書かれていないのが不満です。わずかにエゼキエル書とかダニエル書とかエステル記とかトビト記あたりで想像するしかありません。エズ・ギも2章ではいきなりペルシャ帝国になって民が解放される話になってしまいます。

[925] エズラ記をめぐる書名の話 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/19(水) 10:47:43 ここから閲覧

 新共同訳で新たに採用された旧約聖書続編(外典)の「エズラ記(ギリシア語)」「エズラ記(ラテン語)」という奇妙な名前、たしかにヘンですけど(だってどのみち日本語に訳されてるじゃないの!)、私は支持します。だってこの二書にまつわる各聖書の書名はいままで大混乱状態で、私はいまだに間違えます。
 しかもこの問題は続編のみならず正典のエズラ記、ネヘミヤ記もまきこんでいるのです。
 このさい、ちょっとまとめておきましょう。
 なお、( )つきの書名は長くなるので、以下、エズラ記(ギリシア語)はエズ・ギ、エズラ記(ラテン語)はエズ・ラと略し、この新共同訳の書名が各聖書でどうなっているかというのを聖書別にまとめます。

●BHS
 BHSはヘブライ語原典ですから当然正典しかありません。
     エズラ記=エズラ記・ネヘミヤ記(連続)
     ネヘミヤ記=〃
 ヘブライ語聖書では長らくエズラ記とネヘミヤ記というのは1巻の本でした。もともとからそうだったかどうかは異論がある(たぶん本来は別)ものの、1書のような2書のような、微妙な関係です。そんなわけでBHSのp.1430では、エズラ記のあとにいきなりネヘミヤ記が連続しています。

●LXX
 七十人訳と呼ばれるギリシア語訳聖書です。ΕΣΔΡΑΣはギリシア語としてはエスドラスと読みますが、訳すときは「エズラ」でいいと思います。また、Αʹ、Βʹみたいに右肩にʹがついているのはアルファベットじゃなく数字ですので、A(エー/アルファ)、B(ビー/ベータ)のままにするのはかえってマズいです。
     エズラ記=第二エズラ記の1-10章(ΕΣΔΡΑΣ Βʹ(1-10))
     ネヘミヤ記=第二エズラ記の11-23章(ΕΣΔΡΑΣ Βʹ(11-23))
     エズ・ギ=第一エズラ記(ΕΣΔΡΑΣ Αʹ)
     エズ・ラ=なし
 LXXではエズラ記とネヘミヤ記はまとめて第二エズラ記となっています。LXXを訳した時点でヘブライ語聖書でもこの両者が一つであった証拠です。そしてその前にエズ・ギが「第一エズラ記」として入っています。つまりはエズ・ギのほうが重要なんですね。エズ・ギはエズラ、ネヘミヤとかなり内容が共通しているので、ほとんど似たような本が二つ連続していることになりますが、まあ列王記と歴代誌、マカベア第一・第二みたいな例もあるし、いいのかもしれません。

●ヴルガタ
 ラテン語聖書です。ラテン語聖書には他のバージョンもあるのですが、いまは実質的にこれがラテン語訳聖書の代名詞ですね。なお、Ezra(e)はドイツ聖書協会のヴルガタの表記ですが、Esdra(e)とかEsra(e)と表記されることもあります。ていうか、うちを含めて、聖書を掲載しているサイトって、タイトルはいい加減だったりしますからね。
     エズラ記=第一エズラ記(Liber Ezrae I)
     ネヘミヤ記=第二エズラ記(Liber Ezrae II)
     エズ・ギ=第三エズラ記(Liber Ezrae III) ※付録
     エズ・ラ=第四エズラ記(Liber Ezrae IVないしIIII) ※付録
 エズラ記とネヘミヤ記をはっきり分けたのはヴルガタです。はっきり分けたと言っても、サムエル記の上下みたいなもので、現行のドイツ聖書協会の本では改ページなく続いているんですが、一応別物ということになっています。
 ヴルガタには付録というのがあって、新約聖書よりも後に、カトリックで偽典とされた本、マナセの祈り、エズ・ギ、エズ・ラ、詩篇151、ラオデキア人への手紙が、この順に入っています。新共同訳の旧約聖書続編にはエズ・ギ、エズ・ラ、マナセの祈り、が入っているのですが、これらはカトリックでは偽典とされているので、カトリック版の聖書、たとえばバルバロとか光明社とかフランシスコ会訳には入ってません。「新共同訳」というとプロテスタントの人はついつい「共同した相手はカトリックのみ」と思ってしまいますが、実はこれらを使っているのは聖公会(一応プロテスタント)なんですね。
 LXXとは第一、第二という付番のしかたが大きく異なります。ここからが大混乱のはじまりはじまり。

●聖公会続編
 戦前は「旧約聖書続篇」、戦後は「アポクリファ」という名前で、聖公会が出した続編のみの本。
     エズ・ギ=エズラ第一書
     エズ・ラ=エズラ第二書
 この二書はなぜか冒頭に載っているのですが、付番の仕方が似てるようで違うようで、これまた混乱のタネになっています。

●教文館・聖書外典偽典
 新共同訳聖書が出るまでは、旧約外典を読もうとすれば教文館の「聖書外典偽典」を読むしかなかった(一応聖公会のアポクリファは出てましたし、講談社から部分訳はありましたけど)のですが、これがまたヘンな流儀です。
     エズ・ギ=第一エズラ書
     エズ・ラ(3-14章)=第四エズラ書
 一、四という付番は、もともとの出典であるLXXとヴルガタに即しているといえば理屈は通りますが、問題は教文館の聖書外典偽典は最初の2章と最後の2章をカットしていること。これは、この4章が後代(キリスト教時代!)の加筆だからという理由で、学問的な訳ではまま見受けられる流儀です。しかもこのとき、最初と最後のそれぞれ2章を独立した本扱いして、しかもその言い方が、
     エズ・ラ(1-2章)=第二エズラ記
     エズ・ラ(3-14章)=第四エズラ記
     エズ・ラ(15-16章)=第五エズラ記
だったり、
     エズ・ラ(1-2章)=第五エズラ記
     エズ・ラ(3-14章)=第四エズラ記
     エズ・ラ(15-16章)=第六エズラ記
だったりと、これまた混乱のきわみになっています。

 そんなわけでエズラ記をめぐる外典偽典の呼び方は混乱のきわみ。番号で呼ぶのが混乱のもとなんですね。内容に即して「エズ・ギ=エズラ記・三人の若者版」「エズ・ラ=エズラ記・黙示録版」なんていうのが誤りがないんですが、タイトルが長くなるし、タイトル捏造というそしりを受けてしまいます。ここは新共同訳のエズラ記(ギリシア語)、エズラ記(ラテン語)というのが無難だと思うので、今後はこの書名が定着することを切望します。

[924] 歴代誌下33-36章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/18(火) 10:04:43 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=2ch&chapter=33&mode=0
 今日で歴代誌は終了です。
9.アハズ、ヒゼキヤ、マナセ、アモン
ヨシヤ、エホヤハズ、エホヤキム
エホヤキン、ゼデキヤと即位して
南も滅んでしまったわ

 南北の王名を覚える歌の最後の部分。ヒゼキヤの話が前回でおしまい。
 今日はマナセ王から。ついでですから王名を列挙しておきます。
  マナセ(南14。BC687-642)
  アモン(南15。BC642-640)
  ヨシヤ(南16。BC640-609)
  エホヤハズ(ヨアハズ。南17。BC609)
  エホヤキム(ヨヤキム。南18。BC609-598)
  エホヤキン(ヨヤキン。南19。BC598-597)
  ゼデキヤ(南20。BC597-587)
 33章。マナセは南の最悪の王とされています。せっかくヒゼキヤが行った宗教浄化を無に帰し、バアルだのアシラだのを敬ったり、占いはやるわまじないはやるわ人身御供はやるわ、ありとあらゆる悪事を行います。
 基本的に王下21と同じなのですが、歴代誌のほうでは、マナセが一時的にバビロンに連行されたことが書かれています。
 次のアモンのときにクーデターが起こり、アモンは殺されてしまいますが、民はこのクーデターを支持せず、反乱した者たちを殺してアモンの子ヨシヤを即位させます。
 34章。ヨシヤは宗教浄化を行い、大祭司ヒルキヤとくんで、主の宮から律法の書が発見されたというふれこみで、律法の徹底をはかります。「ユダヤ教は三度作られた」([786])で書いたように、それまでのイスラエルの民の信仰ははっきりいってさまざまな神を信仰していたのであり、ヤハウェはそのうちの一つでしかなかった。だからマナセがやったことは決して悪いことじゃありません。それがだんだんとヤハウェ中心の一神教の形に構築されていったのであり、その最初がヨシヤ王の時代というわけです。
 ヨシヤ王の話は王下22にも書かれていますが、列王記になく歴代誌にしかない話としては、35章の「過越祭の復活」ですね。ユダヤ教の重要なお祭りである過越祭はヨシヤ王のときに盛大に執り行われ、以後つづいていくのです。
 で、歴代誌下は35章・36章とあるのですが、みなさんしっかり読んでおいてくださいね。解説のほうはここで打ち切ります。え、なんでかって、実は明日読むエズラ記・ギリシア語の冒頭1章が、ほとんどそっくり歴代誌下35-36章なんですよ。ですから話は明日にまわします。

[923] 申命記10-12章、ベルと竜 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/17(月) 13:50:55 ここから閲覧

●申命記10-12章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=deu&chapter=10&mode=0
 10章。十戒をもう一度与えられたときの話ですが、9章には、約束の地を前に一部の民がひるんだ話があったので、時間的には前後しています。
 心をつくして主に仕えることに加え、寄留の他国民を愛することを説いています。
 11-12章。そして約束の地を前にして、律法を守ることを強調しています。内容は例によって、アシラ像などの先住民の神を拝んではならないということのほか、肉は食べてもいいが血は飲むなということが強調されてます。
 血を飲むなんて野蛮で残酷なことは私はやらないですって? 私たちが肉の味だと思っている味の大半は、実は血の味なんですよね。血を全部抜き取った肉って、香りのついてないビーフジャーキーみたいなもの。ちょうど、冷蔵庫に賞味期限後数日間おいてあった肉がこんな感じになりますわ。 こんな律法をキリスト教が無効にしてくれたことを神に感謝いたします。
 しかし思うんですけど、申12:29-30で、先住民を滅ぼしつくしたんなら、ふつうはそんな先住民の宗教なんかに関心持たないでしょうに、どうしてヤハウェくんはバアルだのアシラだのに過剰なまでに警戒するんでしょう?
 そして、どうしてイスラエルの民は、何度も何度も主の前に悪とされることを行い、バアルだのアシラだのにころぶんでしょうか。
 ここは一つ発想を転換してみましょう。「イスラエルの民が悪に傾きやすい」んじゃないんです。バアルとかアシラっていうのは、うるさくて荒ぶるヤハウェくんなんかより何十倍も何百倍も魅力ある神様なんですよ。でなきゃ民が信仰するはずがありません。
 最近思うんですけど、ユダヤ人がさっさとヤハウェくんを見限ってバアルとかアシラを信じるようになっていれば、キリスト教やイスラム教のありようもずいぶん変わったものになり、世界はもっと平和になっていたかもしれない、と。こういう挑発的なことも言ってみる私。

●ベルと竜
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=dnb&chapter=1&mode=0
 ダニエル書のもう一つの補遺。ヴルガタではダニエル書14章になります。
 バビロニア人の信仰していたベル神と竜神の正体をあばく話ですが、ペルシアの支配になってからというのがミソで、たぶんバビロニアのままだったらそもそもダニエルが活躍する余地もなく、神様のカラクリが暴かれやすい環境ができあがった上での話なんですね。
 それにしてもこの話はバカですね。実際にモノを食べられないからニセモノの神だっていうなら、ヤハウェだってそうでしょうが。ヤハウェなんかモノ食べられないから燔祭のいけにえは真っ黒こげになるまで焼いて、その煙を嗅ぐことしかできないんですよ。レビ記見るといけにえのおさがりを誰が食べるかっていうことが細かく決められているじゃありませんか。
 後半、ダニエルがししの穴に投げられる話は、ダニ6と同工異曲で面白くありません。補遺をやるならもっと別の話を創作してほしかったわ。

[922] ヤコブ書4-5章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/16(日) 11:41:51 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=jam&chapter=4&mode=0
 今日のところは新約聖書の中でも過激なまでに人に行動をうながすスローガンに満ちあふれています。スローガンを書いて壁に貼っておきたい人にはとても便利なところです。適宜ことばを変えながらまとめますと、
 ・欲望から戦争が起こる。ヤコ4:1
 ・求めないから得られないのだ。 ヤコ4:2
 ・世間におもねるのは神への敵対だ。 ヤコ4:4
 ・神に従い悪魔に立ち向かえ。 ヤコ4:7
 ・笑ってないで苦しめ、喜んでないで悲しめ、泣け。 ヤコ4:9
 ・仲間の悪口を言うな。 ヤコ4:11
 ・高慢は悪だ。 ヤコ4:16
 ・やるべきことを知っててやらないのは罪だ。 ヤコ4:17
 ・金持ちにはわざわいが降りかかる。 ヤコ5:1
 ・主の来臨は近い。耐え忍べ。 ヤコ5:8
というような感じです。将来「聖書おみくじ」を作るときは、ヤコブ書からばんばんとっちゃいますわ。
 山本七平キラー、統一協会キラーの東北学院大学の浅見定雄先生、年をとるごとにどんどん左翼的・過激になっていくのを、昔の私は不思議だと思ってましたが、今の私がそうですわ。原発にしろ格差デモにしろ小沢暗黒裁判にしろ、腹立たしくてしかたない。日本なんか滅んでしまえ、金持ちはみんな滅んでしまえ、貧乏な私たちは何も失うものはないのよ、なんて思ってますもの。そういう私がヤコブ書を読むと血沸き肉踊りますわ。
 「笑ってないで苦しめ」については、この時代の人たちは笑いを敵視したみたいですね。悪魔から出るものだと。そういえば、福音書にはイエス様が笑った話が一切ないので、修道院では笑いが禁じられていたとか。でもよくよく見ると、実はイエス様って、今でいえばビートたけしみたいな感じの人で、かなりブラックユーモアのきつい人。実はキリスト教は健康的な笑いにもブラックな笑いにも満ち溢れているのです。宮田光雄『キリスト教と笑い』(岩波新書)を読みましょう。絶版みたいなんで修道会に入れてます。