| [ばべるばいぶる] |
このサイトを作りながら、聖書を読みながら真理子が考えたことです。
真理子修道会の修道女/修道士の方のみ書き込むことができます。
掲示板運営方針(必読)
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[50] 1ニフ4章 投稿者=真理子 掲示日=2011/12/25(日) 08:03:11 コメントする ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=1ne&chapter=4&mode=0 ユダ王国末期、エルサレムの滅亡を預言して迫害され荒野に脱出したリーハイ。しかしレーバンが持っているユダヤ人の歴史の書かれた真鍮板を手に入れなきゃというので息子たちをレーバンに遣わします。ところがレーマンら上の2人の息子が交渉してもてんでダメ。これが今までのあらすじでした。 さあリベンジだというので末の息子ニーファイがレーバンのところにいくと、なんとレーバンは酔っ払っていたので、聖霊の導きに助けられながらレーバンのもっていた剣で彼を殺します。そしてレーバンに化けてエルサレムを脱出、ついでにレーバンの召使ゾーラムも連れてきます。こうしてまんまと真鍮版を手にしたニーファイは、兄たちおよびゾーラムと一緒に、父リーハイの待つ荒野の天幕へと戻ります。 |
[49] 3イミ2章 投稿者=真理子 掲示日=2011/12/25(日) 07:54:18 コメントする ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=3ic&chapter=2&mode=0 人の語る言葉に精神をこめて相手に理解させ心を動かすのは神様のはたらきであると説いています。神様こそが人に語るのです。 |
[48] ロマ書3-4章 投稿者=真理子 掲示日=2011/12/25(日) 07:40:15 コメントする ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=rom&chapter=3&mode=0 昨年度の記事は[0:402] [47]のクルアーン4回同様、アブラハムがキーになっています。 クル2:140では、アブラハムがユダヤ教徒でなくキリスト教徒でなく、もちろん狭義のイスラム教徒でもなかったのに救われた、だからユダヤ教徒でなくても、キリスト教徒でなくても、イスラム教徒でなくても救われる可能性がある、ということを言っていました。 同様にパウロはロマ書4章で、アブラハムの時代には律法はなかったし、もちろん割礼という習慣もなかったのに、信仰によって義とせられたということをあげて、だから律法を守らなくても、割礼をしなくても、義とされる可能性があると説いているのです。 ただし、パウロの場合は、誰でも彼でも救われるとは言っていません。重要な条件があります。それは、イエス・キリストを信じるということです。律法も守れないようなどうしようもない悪人であるわれわれを救うべく、神様は御子イエス様を遣わし、そのイエス様が悪人のわれわれのかわりに死んでくださり、よみがえったことによってわれわれの罪は許されたという、この一連の出来事とその意味を信じる者だけが救われるのです。 要するにパウロは、イエス以後は、キリストを信じる者だけが救われると言っているのです。 だからこそパウロは、各地を回って宣教に努めたのです。 しかし私は、あえて、キリストを信じなくても救われる可能性がある、と言っておきましょう。 救われるというのは、死後に次の生を迎えられるということです。 私は、「最後の審判随時開催説」をとっていますので、人はそれぞれ死後にただちにさばきを受けます。そして、「神の国=この世説」をとっていますので、さばきに合格した人は再びこの地球のどこかで新たな人間としての生を迎えられると考えます。不合格の場合はそれっきり永遠の死、もしくは人間以外の動物への転生ということも考えられます。 神様は人間を一方的に愛してくださるので、ほとんどの人は合格、新たな生を迎えることができるでしょう。 しかし問題は、迎えることのできた新たな生に満足できるかということ。同じ生でも、それに満足できる人にとっては天国であり、満足できない人にとっては地獄だということです。 神を信じる者だけが救われるという意味はこのことでしょう。信じる人も信じない人も新たな生を迎えたとして、神を信じない人にとっては新たな生はたとえ経済的に恵まれたとしてもつらい人生に違いありません。神を信じる人にとっては新たな生は貧困ではあっても幸福なことでしょう。 |
[47] クルアーン4回 投稿者=真理子 掲示日=2011/12/24(土) 07:16:27 コメントする ここから閲覧 |
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クル-4回。第4回は第2章108-141節。 クル2:140。「アブラハム、イシマエル、イサク、ヤコブ、および諸支族が、ユダヤ人またはキリスト教徒であったと言うのか」とあります。つまり、ユダヤ教徒でなければ救われない、キリスト教徒でなければ救われないというのは間違いだというのです。なぜなら、「アブラハム、イシマエル、イサク、ヤコブ」の時代にはユダヤ教もキリスト教もなかったのですから。 もちろん、だからこそ、「イスラム教徒でなければ救われない」というのも間違い。 イスラムの教えでは、ムスリムというのを狭義のイスラム教徒とみなしておらず、もっと広いものとみなしています。たとえイスラム教をまったく知らない人でも、神様のみこころにかなった人は救われる可能性があるというのです。 神様というのは、公開収録に参加できるのは受信料を払った人だけ、なんてNHKのようなことは言わないのであり、すべての人が救われる可能性があるし、逆に、信仰を持ったからといってそれにあぐらをかいてちゃいけないと言っているのです。 NHKということでいえば、私は、有料放送をするならちゃんとスクランブルをかけて、受信料を払った人だけ受信できるようにしろというのが持論です。そういう技術のなかった昔はいざ知らず、地デジ化はその最大のチャンスだったのに。これはもちろん、本当にそれをやったら契約者ががた減りでNHKは損をしてしまう、今までのように日本に在住する人はすべからくNHKを見るべしという税金のようなものにしてしまうほうが儲かるってことなんでしょうね。まったく困った奴らです。災害時に役立つ公共放送ということでいえばラジオだけで十分。ラジオは受信料をとってないんだから、まったく矛盾してる。 でも、神様をNHKにたとえるなら、よい意味で、一方的にノンスクランブルの放送を撒き散らして、受信料を払うかどうかはみなさまのお気持ちしだい、ということでしょうか。神様は一方的にわたしたちを愛してくださる。それにこたえるかどうかはわたしたちしだいってことです。 |
[46] 1イミ2章 投稿者=真理子 掲示日=2011/12/24(土) 07:06:40 コメントする ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=1ic&chapter=2&mode=0 「自分に謙遜であるべきこと」という章題ですけど、むしろ前章で強調した「知識の無用」の続きという感じです。知識が人を傲慢にさせてしまうのであり、その知識とは実は最後の審判においてはまったく役に立たず、むしろ人を傲慢にさせてしまって最後の審判に不利にはたらくマイナスのものであると言っています。 自分が無価値なものであるというを知ることこそ最高の知識、イミタチオの言葉は人の心を打ちます。 |
[45] マタイ3-4章 投稿者=真理子 掲示日=2011/12/24(土) 05:52:01 コメントする ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=mat&chapter=3&mode=0 昨年度の記事は[0:400]。 昨年も書きましたけど、イエス様を最初から神様だったとしてしまうと、「じゃなんでヨハネに入門しなきゃならないんだ」ってことになっちゃいます。 もっと言えば、洗礼っていうのは罪を告白し悔い改めて洗い流し、新しい生を迎えるという儀式ですから、「イエス様も罪を犯した」ってことになっちゃうわけです。少なくともイエス様自身には罪の意識があった。だからヨハネの洗礼を受けたわけです。 こんなふうに、ヨハネの洗礼をイエス様が受けたという意味をつきつめていくと、キリスト教の信仰上非常にまずいことになっちゃうわけなんですけど、それにもかかわらず四福音書ともヨハネのことをカットしていないってことは、それだけヨハネという人は偉大であり、ヨハネのことを書かずにはいられなかったってことなんでしょうね。もし、イエス様の宗教活動が成功しなかったら、いまごろ私たちは、ユダヤ教ヨハネ派の信徒になっていたかもしれません。 マタ4:15-16のイザヤ書の預言は昨日じっくり読みましたね。このあとに「ひとりのみどりごが生まれた」って話になるわけなんですけど、もとはヒゼキヤ王(南13。BC715-687)の即位のときの祝賀のことばであり、すでに北王国は滅んでしまいましたが、神様はこの地域にも将来には光を照らしてくれるはずだという意味でした。これが、イエス様がガリラヤ地方で宣教を始めた話になっちゃうわけですから、新約聖書の著者たちによる旧約聖書の引用の仕方がいかに前後の文脈無視、時代背景無視のむちゃくちゃかということがわかります。まあ、預言書っていうのは「何を言ってるかよくわからないけど、部分部分ではそれらしいことを言っている」本だから、そういう引用の仕方になっちゃうんでしょうけどね。いまの私たちもそんな読み方をしちゃってるかもしれません。 |
[44] クルアーン3回 投稿者=真理子 掲示日=2011/12/23(金) 15:04:09 コメントする ここから閲覧 |
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章の途中ですのでリンクはこちらから。クル-3回。2章75-107節です。 クル2:104のラーアイナー(راعنا)は当時のあいさつことばの一つですが、 http://www.babelbible.net/wehrcown/wehrcown.cgi のQrの59ページに書かれている(رعي)ように、ユダヤ人によって悪口に使われたので、もうこれからは使うなというのです。悪口の意味は代表的なアラビア語辞典Wehr-Cowanにも載ってないのですが、手元にあるAbdur Mannan Omar編のDictionary of the Holy Qur'an によればfoolish and swollen-headed and conceited person(バカで、頭がふくれて、生意気な奴)になるんだそうです。 |
[43] 知恵の書2章 投稿者=真理子 掲示日=2011/12/23(金) 14:12:37 コメントする ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=wis&chapter=2&mode=0 昨年度の記事は[0:658]。 最後では否定されますけど、2章のほとんどで書かれているのは、多くの人が考えている死についての間違った考え方です。 死んだらすべておしまいだから、その場かぎりの楽しみを追求し、力のみを信じ、うるさいことをいう老人や学者を迫害してやろう、というわけですね。 神様ご自身に形どられた人間は死ぬはずがなく、悪魔の仲間になる者が死ぬというのです。 私は輪廻説を信じているので、この場合の「死ぬ」というのは、単に今生の死ではなく、死後に新たな生を迎えられなくなることと理解します。 すべての人は死んだらすぐに神様とイエス様によってさばきを受けます。たいていの人は合格するのでこの地球のどこかで新たな生を迎えますが、さばきの結果によって幸福な環境に生まれるかつらい環境に生まれるかという違いはあります。万一不合格になるとそれっきり、究極の死です。 |
[42] イザヤ書7-11章 投稿者=真理子 掲示日=2011/12/23(金) 13:59:44 コメントする ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=isa&chapter=7&mode=0 昨年度の記事は[0:398]。 今日の範囲は、7章のインマヌエル、9章の「ひとりのみどりご」と、キリスト教徒にとっては重要な箇所です。もちろんこれはキリスト教徒が旧約聖書のあちこちを探しまくって「ほらここにイエス様のことが書いてあった」とこじつけたものなんで、だから昨年も「だったらイエス様の誕生を予告した天使は、その子をインマヌエルと名づけなさいって言えばよかったのに」なんて書いたんですけど、今年はじっくりと、本来これらの箇所が何を言ってるのかを読んで行きましょう。 まずはインマヌエル預言のイザ7:14。 時代はアハズ王(南12。BC735-715)の時代、BC734年です。 アハズ王のときに何が起こったかわかりますか? 北が滅んじゃったんですね。 例の、南北の王名を覚える歌([0:787]。ああめんどくさい。今日じゅうに専用ページを作るわ)の7~9番です。 7.南はアマジヤ、次ウジヤ 病気でヨタムに交代す 北はヤラベアム、次ヨタム おんなじ名前になっちゃった 8.北はゼカリヤそのあとは シャルム、メナヘム、ペカ、ホセア みんな謀反で即位して 国まで滅んでしまったわ 9.アハズ、ヒゼキヤ、マナセ、アモン ヨシヤ、エホヤハズ、エホヤキム エホヤキン、ゼデキヤと即位して 南も滅んでしまったわ 列王記でいえば15-16章近辺([0:768])、歴代誌でいえば28章あたり[0:904]です。 なお、今日の箇所では北王国はエフライムと呼ばれています。イスラエル十二部族のうち、南はユダとベニヤミンですがベニヤミンは少数派で圧倒的にユダ族。北が滅んじゃうと実質的にイスラエルの民=ユダ族になっちゃったので、後に「ユダヤ人」と呼ばれるようになったのです。同様に北の十部族のうち代表はエフライム族。もし南北の運命が逆だったらいまごろユダヤ人じゃなくエフライム人と呼ばれていたかもしれません。 8節の( )囲みで、65年後にエフライムが滅ぶとあるのが北滅亡の預言ですが、まるきり計算が合いませんね。 口語訳のスリヤというのはシリアではなくてアラムです。それが北と同盟して南を攻めて来たので、南は大パニックになったんですね。 当時の大国アッシリアは世界帝国を建設しようとしてエジプト方面への侵攻を企図しますが、途中にあるアラム、北王国、南王国には異なる対応をします。アラムや北王国には多額の朝貢を課しますが、南王国にはそういうことをしません。分断策なのでしょう。アラムと北王国は反アッシリア同盟を結びますが、南王国は同盟に参加せずアッシリアと手を組もうとします。そんなわけでアラムと北王国は即位後間もないアハズ王を廃位させて、言うことを聞く「タビエルの子」を即位させるため、エルサレムに侵攻します。 イザヤは、二国が攻めてきても大丈夫だからアッシリアと手を組むなんてやめろと言っています。11節の「主にしるしを求めよ」というのは、いざとなったら神様が助けてくれるってことです。それに対してアハズ王は12節で「それ(自主独立して戦う)を求めて主を試す(神様が助けてくれるかどうかを試す)ことはしない」と言います。やっぱりアッシリアと組もうとするんですね。 そこでイザヤがアハズ王に言ったのがこのインマヌエル預言なのです。 今インマヌエルという赤ん坊が生まれ、凝乳と蜂蜜という離乳食を食べ、悪を捨て善を選ぶ、つまり判断力がつくようになったら、つまり二~三歳ぐらいになったら、アラムも北王国もアッシリアに攻められちゃうよ、だから大丈夫ってこと。 つまりこのインマヌエルは決してユダ王国を救うために何かをしてくれるような救い主じゃないんです。単に今生まれる赤ちゃんというだけの話で、どんな名前だっていいんですよ。 さあて次は「ひとりのみどりご」イザ9:6。昔の区切り方では前章末23節からが9章で、そのほうが内容的にはすっきりします。 時期は諸説あるのですが、アハズ王の次のヒゼキヤ王(南13。BC715-687)の即位のときに述べられた預言という説をとりましょう。 すでに北王国は滅んでしまいましたが、神様はこの地域にも将来には光を照らしてくれるはずだというのです。 つまり、「ひとりのみどりご」とはヒゼキヤ王のこと。りっぱなヒゼキヤ王が即位したので、国は平和におさまる、とヒゼキヤ王をよいしょしているんです。 まあそんなわけで、インマヌエルも「ひとりのみどりご」も、イエス様とは何の関係もなかったわけですね。 |
[41] 1ニフ3章 投稿者=真理子 掲示日=2011/12/22(木) 10:03:23 コメントする ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=1ne&chapter=3&mode=0 エルサレムを脱出したリーハイ一家ですが、主のお告げがあって、エルサレムの住民レーバン(ここで初登場)が持っているユダヤ人の歴史と先祖の系図を書いた真鍮(しんちゅう)板を持っているので、それをもらって来いということになります。 ところで、ユダヤ人という言い方は、バビロン捕囚から戻って来てから言われるようになった言い方なので、いまいち時代が正しくないような気がしますが、まあおいときましょう。 息子たちはエルサレムに戻り、長男レーマンが交渉しますが、盗賊扱いされ、お礼の金銀だけ奪われて真鍮板は手に入らず逃げ帰ります。レーマンは嫌気がさして、腹いせにニーファイら弟をぼこぼこぶったたくので、天使がやってきて叱ります。 ところでちょっとこの場をかりて、イスラム教徒でもモルモン教徒でもない私・真理子がなぜばべるばいぶるでクルアーンだのモルモン経だのを扱うのかということを再確認しておきましょう。 それはずばり「ユダヤ人の気持ちになってみよう」と思うからです。 私たちはユダヤ教の聖書を「旧約聖書」と称して、それに新約聖書を付け加えたものを聖書としており、そのことをしごく当然のこととして疑いません。そのくせ、旧約聖書や新約聖書のエピソードをどんどん再構成したクルアーンを読むとうさんくさく思ったり、ましてモルモン経にはいかがわしさを感じたりします。 でもこれってフェアでしょうか。 ユダヤ人からすれば、自分たちの聖書が私たちによって勝手に「旧」約聖書と呼ばれ、勝手に新約聖書なるヘンテコな文書を付け加えて聖書にしているのを、たぶん、うさんくさく、いかがわしく思っていることでしょう。それは私たちがクルアーンやモルモン経に対してもつ感情の構図と相似形なのです。 もちろん私たちがユダヤ教の聖書を旧約としそれに新約を付け加えているのが、不当だとは言いません。それは私たちの立場なのですから。でも、私たちの立場を絶対化せず、どこかで相対化し客観視する訓練をしておかないと、私たちの信仰心はひとりよがりなものになってしまうと思うのです。 そこで私は、「訓練」として、クルアーンやモルモン経を読んでいるのです。 どうぞお付き合いください。 |
[40] トビト記2章 投稿者=真理子 掲示日=2011/12/22(木) 09:43:33 コメントする ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=tob&chapter=2&mode=0 昨年度の記事は[0:383]。 エサルハドン王は在位BC681-669。北のイスラエル王国が滅んだのがBC722ですから、41年後ということになります。南のユダ王国は、最悪の王とされるマナセ(南14。BC687-642)の時代です。 アモス書がひきあいに出されていますが、アモ8:10。アモスは紀元前7世紀ごろに北で活躍した預言者で、黙示録的な最後の審判の預言に特徴があります。[0:854]、[0:865]もご覧ください。 トビトは北のナフタリ族でした。北の10部族はアッシリアに捕囚された後に他民族と同化してなくなっちゃったことになってますが、こんなふうにイスラエルの習慣を守り、貧しい同胞を招いて食事するなんて人もいたのです。一緒に食事をするっていうのは絆を深め合うのに一番。だからこそユダヤ人は、異民族と一緒に食事をするのを禁じたので、キリスト教の時代になってこの件でひと悶着起こります。 トビトはアッシリアのニネヴェに住んでいますが、カナンの地に住んで古来の習慣を守り続けた人たちが後にサマリア人と呼ばれるようになります。南のユダ族がバビロン捕囚されて戻ってきたときに神殿建設を妨害し、それ以来ユダヤ人とは犬猿の仲になります。私たちがなじんでいる旧約聖書とその律法は、バビロン捕囚後にユダ族の立場から編纂されたもので、サマリア人にとっては「あれは違う、これは違う」というものだったのでしょう。 旧約聖書の正典は主に南の立場で書かれているので、北出身のトビトを主人公にしたトビト記なんかを、副読本としてでも読むようにしないと、いつの間にか思考が偏ってしまうことになるでしょう。 |
[39] ヨブ記3-4章 投稿者=真理子 掲示日=2011/12/22(木) 09:24:19 コメントする ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=job&chapter=3&mode=0 昨年度の記事は[0:398]。 リビングバイブルのヨブ記もあわせてお読みください。 http://www.biblica.com/uploads/pdf-files/bibles/japanese/ot/job.pdf 2章までは、どんなに不幸に見舞われても愚痴一つ言わなかったヨブも、3章になると突然に恨み節を言い始めます。いったい何があったんでしょう? それを考えるには、前回分の2章をもう一度読み返さねばならないかもしれません。 ヨブは妻の前では愚痴を言っていなかったのですが、三人の友人が来ると愚痴を言い始めたわけです。妻の前では強がっていたヨブも、友人たちの前ではホンネが言えたってことなんでしょうか? そういえばこの妻はヨブ2:9ではずいぶんひどいこと言ってますね。「神をのろって死になさい」ですよ。神を呪うほうはいいとしても「死になさい」はないでしょう? この奥さんはあんまりいい奥さんではなかったのかしら? ひょっとしてヨブの財産目当てで結婚したのかしら? あとは、2章最後に、この三人の友人が「七日七夜、彼と共に地に座していて、ひと言も彼に話しかける者がなかった」。七日間も無言の対面をしていたっていうのもすごい話ですね。この長い長い時が、ヨブに口を開かせるきっかけになったのかしら? ヨブ記を読むごとに、私は、2章までの優等生のヨブと、3章以後のホンネを言うヨブとがつながらないなって思うんです。ひょっとして1-2章って、後から加筆されたのかしら? あら、こんなことを長々と書いていたら、3-4章の話に入りませんでしたね。 一つだけ書くと、第一の友人エリパズの「テマン人」というのは、エドムの都市です。イスラエルの民が住むカナンの地の南東にモアブという異民族がありますが、そのまた南にエドムがあります。そもそもヨブの住むウヅというのが、どこなのかよくわからないのですが、やっぱりエドムのあたりなんじゃないかと言われています。 だからこの話は、イスラエルがオリジナルじゃなくて、こういう周辺民族の間に伝わった話、もしくは広くオリエントに伝わっていた話がネタなんじゃないかと言われています。 |
[38] 1ニフ2章 投稿者=真理子 掲示日=2011/12/21(水) 10:33:24 コメントする ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=1ne&chapter=2&mode=0 エルサレム滅亡を予言してユダヤ人から迫害されたリーハイは妻子を連れて紅海近くの荒野へと旅をします。彼には4人の子どもがいたんでしたよね。上からレーマン、レミュエル、サーム、ニーファイ。このうち上の2人が不平を言います。下の2人、特に末のニーファイは父に従い、熱心に神様に祈ったところ、「約束の地に導いてあげよう。兄たちがそむいたら呪ってやるぞ」というお告げがありました。 すると、リーハイっていうのはアブラハム的な役割みたいですね。悪いお兄さんの子孫がレーマン人、いい弟の子孫がニーファイ人ってことになるのかしら? 私もまだモルモン経は読んでいないので楽しみですわ。 |
[37] 1マカ2章 投稿者=真理子 掲示日=2011/12/21(水) 10:26:37 コメントする ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=1ma&chapter=2&mode=0 昨年度の記事は[0:553]。 アンテオコス・エピパネスによるギリシア文化の強制という危機の中、祭司マタテヤは戦いに立ち上がります。安息日を守るあまり玉砕してしまうという悲劇的な戦いの中、マタテヤは死期を迎え、マカビオ(マカベウス)と呼ばれるユダら、息子たちを前に、しっかり戦って律法を守れと遺言して死にます。 バビロン捕囚や、ギリシア系王朝の支配という民族の危機に際して、ユダヤ人は自分たちの宗教文化をよくいえば強固に、悪くいえば偏屈に守りぬくことで、民族のアイデンティティを確立しようとします。バビロン捕囚後に故郷に帰還したユダヤ人たちが、異民族との結婚の禁止・強制離婚をしたなんていうのもその一例ですが、今日読む箇所のように、異教の祭壇にささげものをしようとしたユダヤ人を殺したり、安息日を守るあまりまったく戦わずに玉砕したりなんていうことがあったのです。この苦い経験の後、いくら安息日でも戦争は別というきまりが確立されます。 なお、マカビオというのはユダのギリシア語名です。この時期のユダヤ人は在日朝鮮人みたいに本名と通名とがあるんです。ですが、書名がマカビーなのにこちらはマカビオというのは困ったものですね。実はこれ、聖公会が戦前に出した続編の表記にあわせているんで、仕方ありません。新共同訳ではどちらもマカバイになっています。 |
[36] 詩編3-5編 投稿者=真理子 掲示日=2011/12/21(水) 09:42:21 コメントする ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=psa&chapter=3&mode=0 昨年度の記事は[0:397]。 昨年度も書いたようにこのあたりは6編まで一つの詩とも解釈されるほどで、苦難にあったときに救いを求める祈りです。 いろいろ音楽化されており、Youtubeに動画がアップされているのでご覧ください。今日は音楽の時間です。 第3編 (http://www.youtube.com/watch?v=pRsNWuiGv5U) 第4編 (http://www.youtube.com/watch?v=9YRmil6MoeI) 第5編 (http://www.youtube.com/watch?v=1y_R7DnMc2I) |
[35] [22] 'allah 投稿者=HK.J. 掲示日=2011/12/20(火) 20:43:35 コメントする ここから閲覧 |
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中国語訳では、「真主」というのが、'Allah の定訳となっています。 聖書の中国語共同訳で、YWHWを「上主」と訳しているのと、対照的ですね。 |
[34] 1ニフ1章 投稿者=真理子 掲示日=2011/12/20(火) 07:53:53 コメントする ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=1ne&chapter=1&mode=0 モルモン経は書の冒頭や章の冒頭にあらすじが書かれているので助かります。忙しい人はあらすじだけ斜め読みすればいいわけですからね。こういう点は聖書も見習ってほしいものです。 ただし、あらすじをしっかり読んでしまうとネタバレになってしまって面白くありませんから、1ニフことニーファイ第一書のあらすじは、「リーハイ(Lehi)、妻はサライア(Sariah)、息子はレーマン(Laman)、レミュエル(Lemuel)、サーム(Sam)、ニーファイ(Nephi)」という登場人物のまとめと、著者はニーファイだということだけおさえましょう。 第一章の話は約BC597年ごろです。それは、4節の「ユダヤの王ゼデキヤの治世第一年」っていうところからわかります。ゼデキヤは南20代目の王。在位BC597-587。っていうか、南の最後の王でしたね。南北の王を覚える歌([0:787])は覚えてましたか? でも実は、印刷媒体のモルモン経を見ると、欄外に「紀元前約六百年」って書かれているのです。 モルモン経の「真理子のおまけ」は私が訳したのではなく、57年版のモルモン経そのままです。これは信徒の有志の方が電子化したテキストをいただいたのですが、実は印刷媒体のモルモン経には、欄外に年代が書かれているんですね。こういうのも補ったほうがわかりやすいのかもしれませんけど、とりあえずはいただいたテキストを改変することなく、この「真理子の聖書日記」で書くことにします。 ただしこの年代には文句を言いたい。「約六百年」なんていただけません。正確にBC597ですよ。 南のユダ王国の滅亡の年は覚えてますよね。BC587。「だから言わな(587)いこっちゃない」って覚えるんです。あれだけいろいろ預言者が警告したのに言うことを聞かないから、言わないこっちゃない、国はほろんでバビロン捕囚、というわけです。 でもバビロン捕囚は2回あるんです。第1回はBC587のちょうど10年前。エホヤキム、エホヤキンの2代の王が連行されて、それで立ったのがゼデキヤです。 だから1ニフ1章の時点でもうバビロン捕囚の1回目が行われているんです。 そんなわけでリーハイさんは、エルサレムの滅亡を予言して警告をするんですが、ユダヤ人たちは逆にリーハイさんを殺そうとする、というお話しでした。 あと、ニーファイ第一書のあらすじの中で「イシメル」というのはイシマエルのことです。こういうのは口語訳聖書にあわせたいんですけど、モルモン経の「真理子のおまけ」は一応末日聖徒イエス・キリスト教会さんが訳したそのまんまを採録していますんで、仕方ありませんね。 |
[33] シラ書2章 投稿者=真理子 掲示日=2011/12/20(火) 04:09:38 コメントする ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=2&mode=0 昨年度の記事は[0:734]。 昨年は、試練を覚悟しろっていうのは殉教の美化であぶないと言いましたので、今年は逆に、ピンチに陥ったら主に頼れというのを強調しておきましょう。大丈夫、大丈夫。困難にぶちあたっても主がついているさ、というのは、だから死をも恐れるなという方向に進むと危ないですけど、楽天的に積極的に困難に立ち向かおうという方向に進めば大いに慰めになり、希望と勇気がわいてきます。 |
[32] ヨシュア記6-10章 投稿者=真理子 掲示日=2011/12/20(火) 03:44:38 コメントする ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=jos&chapter=6&mode=0 昨年度の記事は[0:394]。 勝って勝って勝ちまくるのはいいんですけど、ちょっとヤハウェくん、ヨシュアくん、残虐すぎやしませんこと? 殺して殺して殺しまくるなんて。十戒で「殺すなかれ」って言ったの、ヤハウェくんじゃなかったっけ? 日本聖書協会から出ている新共同訳の朗読MP3は、ヨシュア記を女性のかわいらしい声で朗読してるんですけど、そういう声で「つるぎにかけて殺した」なんていうのを延々と聞かされるとげんなりしてきます。とってもシュールな感じ。 今の私たちなら、人間を殺したんじゃなくて、異教を殺して神様の正しい教えを広めたことの象徴って思えばいいのかしら? それにしても自分たちと異なる思想を撲滅するのは野蛮よね。 どう考えても、ヨシュア記は読むのがつらい。 でも大丈夫。これだけ殺して殺して殺しまくったからには、周辺民族はみんないなくなったのかと思いきや、その後の歴史を見てもイスラエルは絶えず異民族の圧迫を受けっぱなしじゃありませんか。 宗教だってそう。これだけヤハウェくんの一神教を広めても、バアルだのアシラ(アシェラ)だの異教の神への信仰はちゃんと生き残ってるし、それどころかイスラエルの民はヤハウェくんへの信仰を捨ててバアルだのアシラだのを拝んじゃう。求心力はどう考えてもバアルの勝ち、ヤハウェの負け。 私は、ヤハウェくんがあれだけ「他の神を拝むな」って言うのは、ヤハウェくんの自信のなさのあらわれだって思います。ヤハウェくんは弱い神なのよ。ほうっておくとみんなヤハウェくんから離れちゃうもんだからさびしいのよ。さびしいからいきがってるのよ。 同じように、ヨシュア記にこれだけ殺しまくる話が書かれているのは、弱い弱いイスラエルの民のうさばらしなんだと思います。 そう思うとヨシュア記も安心して読めるようになりません? |
[31] モル序6章 投稿者=真理子 掲示日=2011/12/19(月) 10:41:55 コメントする ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ibm&chapter=6&mode=0 序文類もここでおしまい。 ここではモルモン経の全体構造が説明されています。 1 ニーファイ小版から翻訳 1ニフ、2ニフ、ヤコ・モ、イノ、ジェロ、オム 2 ニーファイ小版と大版から モル言 3 ニーファイ版からモルモンが抄録 モサ、アル、ヒラ、3ニフ、4ニフ、モル(7章まで) 4 モロナイ作 モル(8章以降)、イテ、モロ |
[30] 詩歌2章 投稿者=真理子 掲示日=2011/12/19(月) 10:31:19 コメントする ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ode&chapter=2&mode=0 詩歌は今年から初めて読むので昨年の記事はありません。 先週も言ったように詩歌と言うのはLXXにのみ存在する旧約外典で、旧約と新約の有名な詩を抜き出した、いわば讃美歌集みたいなものです。新約からもとられているので「旧約」外典というと正しくないかもしれません。 今日の詩は申32:1-43にあるモーセの歌。モーセが死を前にして、いざこれから約束の地に入ろうとするイスラエルの民に向かって詠んだ詩です。主は真実なるお方だ、偶像を拝むなよ、とうたっております。 |
[29] 創世記4-7章 投稿者=真理子 掲示日=2011/12/19(月) 10:27:12 コメントする ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=gen&chapter=4&mode=0 昨年度の記事は[0:390]。 先週は通読年度第1週だったので各記事とも重厚長大になってしまいました。今週からは軽く行きます。 創世記4-7章は、 ・カインがアベルを殺す話。 ・エノクが死なずに天にあげられた話。 ・神の子たちによる人間女子とのエッチ事件。 ・洪水とノアの方舟・前半 というところが主な話です。今年の話題は何にしましょうか? やっぱり「人間女子とのエッチ事件」ですかしら? たしか五島勉さんが、ヤハウェくん-イエスは第五惑星人という説を唱えてました。火星と木星との間には小惑星が無数にありますが、もともとは大きな惑星・第五惑星があって高等な生物が住んでいたんですが、第五惑星が粉々になってしまうと、彼らが地球へと避難してきた。それがヤハウェくん一味だったわけで、地球の人間の女がかわいいのでエッチをしてしまって混血児が出来たのがいまの人間。でもだんだん第五惑星人の血は薄れていったんだけど、うまーく第五惑星人の血の濃い人たちが結婚してできた、きわめて第五惑星人的な人間こそがイエス様だった……、とか。 でも、こんな珍説が出てきてもおかしくないほど、「人間女子とのエッチ事件」はショッキングですよね。 フラ訳によれば、カトリックではこう解釈してるみたいです。つまり「神の子」というのは天使とかじゃなくて、セトの血統のよい人間たちのこと。そして人間女子はカインの血統の人たち。セトの血統は最初は道徳的に善だったのに堕落しちゃって、悪い女とエッチするようになっちゃって、みーんな悪くなっちゃったもんだから、人間の寿命はマックス120年になるわ、ヤハウェくんがブチキレて洪水で滅ぼしちゃうわということになっちゃった、ということらしいです。 さあ、みなさんはどう考えますか? |
[28] モル序5章 投稿者=真理子 掲示日=2011/12/18(日) 18:36:53 コメントする ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ibm&chapter=5&mode=0 モルモン経がどのようにして生まれたかは、すでにいままでの序文でわかっていますが、ここではより詳しく説明されています。 つまり、1823年9月21日の夜にジョゼフ・スミス・ジュニアのところにモロナイが現れて、モルモン経が埋められていることを告げられ、1827年に引き渡され、それから翻訳を始めて1830年に出版されたという経緯です。 なお、ウリムとトンミムというのは出28:30にある、古代イスラエルの祭服の胸当てにつけられるものです。実際にどういうものかはよくわかっていませんが、モルモン教のほうでは特別な意味があり、ジョゼフ・スミス・ジュニアがモルモン経の金版を翻訳するのに使った翻訳機ということになっています。 |
[27] 3イミ1章 投稿者=真理子 掲示日=2011/12/18(日) 18:24:37 コメントする ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=3ic&chapter=1&mode=0 外典コース、日曜日はイミタチオの3巻です。 ここは信者とキリストの対話形式になっています。翻訳の中にはこのことが明記されていないものもあるので気をつけてください。 深く黙想して心の中に語りかけてくる神のことばを聴こうとする信者に、この世の一時的なものを捨てて永遠不滅の造り主のみこころに忠実なものとなれ、とキリストは説きます。 |
[26] ロマ書1-2章 投稿者=真理子 掲示日=2011/12/18(日) 18:18:38 コメントする ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=rom&chapter=1&mode=0 昨年度の記事は[0:389] 正典コース、日曜日は新約聖書の手紙類を読んで行きます。 これからしばらくは、パウロが書いた、ローマ人への手紙(ローマの信徒への手紙)。 よく「ロマ書」と略されます。 パウロの手紙の中でも最後の手紙になります。 そう、最後に書かれた手紙が最初に収められているわけなんですね。 福音書は、マタイ-マルコ-ルカ-ヨハネという順番に収録されていますが、実はマルコのほうが先です。ですから学問訳では、マルコ-マタイ-ルカ-ヨハネという順で掲載しているものもあります。岩波の新約聖書合本版はさらに徹底して、福音書はもちろんマルコ-マタイ…の順ですけど、書簡類も成立年代順に並べ替えているほどです。 わざわざ成立年代順に読む理由なんてあるのかと思っていましたが、実は理由が大ありなんですね。 というのは、初期のキリスト教団は年を追うごとに考え方が劇的に変化しているからなんです。 イエス様が復活・昇天してしばらくは「もう終末は近いぞ、この世のことなんかどうでもいい」っていうんで、きわめてカルト的な危ない新興宗教だったんです。それが、「あれ、いつまで待っても終末は来ないぞ。この世の生活もまだまだ長そうだ」というので、この世での倫理も大事だという穏健的な考え方に変化していったのです。また、この間にはユダヤ戦争の敗北によるエルサレム神殿破壊を経て、ユダヤ教からの完全な脱皮をもせまられていきました。 そんなわけで、年代順に読むと、そういう温度差の変化がよくわかってくるし、逆にそう読まないと、パウロが書簡の中で表現している非常に切迫した終末意識がわかってこないということになります。 書簡も何も全部まとめて、新約聖書の書ってどういう順番で書かれたかというのは、いろいろ異説がありますけど、ここでは最近出た上村静『旧約聖書と新約聖書』(新教出版社)にしたがって並べ替えてみました。ですから岩波合本とも順序が違います。 【】=福音書 〈〉=パウロ書簡 {}=パウロの名による書簡 []=その他の書簡 50ごろ 〈1テサ〉 53-54 〈ガラ〉〈1コリ〉〈2コリ〉 〃 獄中で〈フィリ〉〈フィレ〉 55-56 〈ロマ〉 60年代 {2テサ} 70年代 【マル】{コロ}[ヤコ] 80年代 【マタ】{エフェ} 90年代前半 [ヘブ][1ペト]黙示録 90年代後半 【ルカ】【ヨハ】{1テモ}{2テモ}{テト} 100- [ユダ][1ヨハ][2ヨハ][3ヨハ] 150ごろ {2ペト} ごらんのように、真正パウロ書簡が最初。それから福音書だの、パウロの名をかたった書簡だのが書かれたという感じになっています。 そんなわけで、パウロ書簡を読むときには、新約聖書の他の書以上に終末意識が切迫していることに注意しなければなりません。たとえば「女は教会では黙ってろ」「お上の権威には従え」などの噴飯ものの考え方は、私はよく「馬鹿パウロ」なんて揶揄しているのですが、「どうせすぐに神の国が来て新しい秩序になるんだから地上の不合理はとりあえずどうでもいい」という考え方があるのです。 長くなったので今日の範囲にはほとんど触れられなくなりましたが、ペテロの率いるエルサレムの教団とケンカしたパウロは、ひたすら小アジアからギリシアへと新天地に宣教を始めます。さらにローマへ、さらにイスパニヤ(スペイン)へと考えていたパウロは、まだ見ぬローマの信徒たちにあてて、自分の思いをまとめます。 パウロの書簡の中では一番パウロの考え方がまとまっているものです。 |
[25] クルアーン2回 投稿者=真理子 掲示日=2011/12/17(土) 16:48:27 コメントする ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?book=qur&chapter=2§ion=34&mode=0&imode=0&secmark=34#sec34 2回の範囲は第2章34-74節です。 第2章「雌牛」は怒涛の286節。猛烈に長いので、イスラム教徒の30日通読プランでさえ正味4日かけます。当ばべるばいぶるの120回通読プランでは正味9回です。 雌牛というのは今日の範囲の最後、67-73節に書かれている逸話に基づいています。聖書のほうでは民19:2-10や申21:1-9に出てきますが、聖書のほうが単なる律法の規定であるのに対し、クルアーンはそれを物語化して、神様の命令にしぶしぶ従って雌牛をほふる民の姿を描いています。 真理子がクルアーンを初めて読んだ中学時代は、聖書でもないクルアーンに聖書の話がやたらと出てくるのにびっくりしたものです。今ではそんなものだと知ってますから感動も何もないですけど、同じ話を裏から眺めた、まるでパラレルワールドにいるような感覚を覚えたものです。 |
[24] 1イミ1章 投稿者=真理子 掲示日=2011/12/17(土) 15:41:58 コメントする ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=1ic&chapter=1&mode=0 外典コース、土曜日と日曜日で『イミタチオ』を読みます。 『イミタチオ』とは、『キリストにならいて』『キリストにならう』『基督のまねび』など、いまいち邦題の統一がとれてないので、ばべるばいぶるではイミタチオでいきます。 著者は伝統的にトマス・ア・ケンピス Thomas a Kempis (1380-1471)という、ドイツに生まれオランダに没した神秘思想家とされていますが、実はヘーラルト・ホロート Gerard Groote という、トマスが所属していた教団の教団長であり、トマスはそれをラテン語に訳した訳者グループの一人というのが真相のようです。 原著は中世オランダ語であり、その系統に基づいた翻訳(由木康訳『キリストにならいて』教文館(1973)。オランダ語原本の英訳に基づく翻訳)もありますが、現在一般に出回っているカトリック公定のラテン語本とはずいぶん異なります。実質的には1418年ごろに匿名で出版されたラテン語訳に基づく本がカトリック公定本すなわち原著とされており、ばべるばいぶるでもこの系統の本を扱います。 イミタチオは全4巻あり、 第1巻 霊の生活に益ある勧め(25章) 第2巻 内なる生活についての勧め(12章) 第3巻 内なる慰めについて(59章) 第4巻 聖餐について(18章) という内容になっています。第3巻だけやたら章が多いのでこれを日曜日に、その他は土曜日に読みます。それでも1年間52週ではおさまりきらないので、年の後半では金曜日にも読むことにします。なお、ばべるばいぶるでは第1巻、第2巻、第3巻、第4巻をそれぞれ1イミ、2イミ、3イミ、4イミと呼ぶことにします。 聖書は必ずしも信仰生活に役立つとは限りません。何が書いてあるかよくわからない本も多いですし、信仰のつまずきになってしまうような地雷や不発弾があちこちに残留していたりします。むしろ、イミタチオのようなストレートに信仰生活を書いた随筆のほうが役立つのです。そんなわけでイミタチオは、ひょっとしたら聖書よりもよく読まれたかもしれないと思うほど、多くの人に愛されてきました。 日本でもキリシタン時代に翻訳が作られた(こんてむつすむん地)ほどです。キリシタン時代は聖書の翻訳はついぞ行われませんでしたが(行われたけど残ってないという説あり)、イミタチオは翻訳されたというのが、イミタチオの実用性を物語っています。 ただし、もともとこれはカトリックの修道士向けに書かれたものです。もちろんカトリックといっても、プロテスタントのない時代のカトリックですから、プロテスタントの人にも十分役立つことでしょう。でも、万人祭司のプロテスタントとは違い、カトリックでは聖職者には猛烈に厳しい戒律を課するのに対して一般信徒にはそれほどでないという事情があり、イミタチオに書かれたことすべてを一般信徒に課するのは無理というものです。いや、プロテスタントにしたところで、15世紀の人の意見がそのまま21世紀のわれわれに役立つとは到底思えません。 そんなわけでイミタチオを読むときは、いまの自分にできそうなことだけを教訓とし、できそうにないところは適宜無視していくような読み方をしたほうがいいと思います。 1イミ1章は、知識・学識よりも、キリストが言ったことやしたことを深く黙想してそれを自分もまねることが大事だということを説いています。「空の空」という無常観あふれるコヘレトの言葉を知的活動にあてはめ、そんなことより実践だというわけですね。 |
[23] マタイ1-2章 投稿者=真理子 掲示日=2011/12/17(土) 14:45:17 コメントする ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=mat&chapter=1&mode=0 昨年度の記事は[0:388]。 正典コース、土曜日は四福音書および使徒行伝を読んでいきます。 福音書は、少なくとも正典に採用された四種類に限っては、イエス様の言行を伝記ふうにまとめたものです(偽典の中にはみことばの単なる断片みたいなものもあります)。 ただし、福音書は伝記ふうではあっても、伝記そのものではありません。イエス様の死と復活は四福音書すべてに書かれていますが、イエス様の誕生のエピソードはマタイとルカにしかありません。さらに幼時のエピソードはほとんどありません。言行の部分もいまいち時期が不明確だったりします。もっともイエス様の宣教は約1年しかありませんから、時期もへったくれもないかもしれませんけど。 福音書の大きな執筆目的は、イエス様をキリストであると証言することです。キリストとはメシアの訳語です。メシアはユダヤ人の救い主なのですから、かつての栄光あるダビデ王の家系から出るとされました。ダビデはベツレヘム出身ですから、当然ベツレヘムから生まれるはずです。その一方で、キリスト教の考え方によればキリストは人々を救うために神様が人間の歴史に介入して送り込んできた「神の子」でなくてはならず、神の子である以上、マリヤの肉体を借りるにせよ人間のセックスによって出来た子であるはずがありません。 こんなふうに、キリスト(メシア)に対して当時の人々が思い描いたさまざまなイメージのすべてを強引にイエス様にあてはめた結果が、「イエス様の系図を長々と記しておきながら、そんなの関係ないよと言わんばかりに聖霊によってみごもった」という、なんとも矛盾したお話がマタイ第1章にほかならず、ナザレで生まれたはずのイエス様を強引にベツレヘムで生まれたことにしてしまうための伝説がマタイ第2章にほかなりません。 マタイ冒頭に書かれたイエス様の誕生伝説は、突っ込みどころ満載の矛盾に満ちたできの悪いお話(マタ1:17ではバビロン捕囚からキリストまで14代という大ウソをつく。13代しかないじゃないの!)ですけど、こんな完成度の低い話をでっちあげてまでもマタイが言いたかったことが何なのかを味わいながら読んでいくことにしましょう。 |
[22] クルアーン1回 投稿者=真理子 掲示日=2011/12/16(金) 06:24:06 コメントする ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=qur&chapter=1&mode=0 リンクは第1章しか表示されませんが、今日の範囲は第2章の33節までです。 異教コース、金曜日と土曜日はクルアーンを読んで行きます。 クルアーンとはイスラム教の聖典です。昔はコーランと読んでいましたが、今ではクルアーンという言い方もだいぶ定着してきたようなので、ばべるばいぶるではクルアーンでいきます。 クルアーンは全114章。各章の長さはかなりバラツキがあり、おおむね長い章から短い章へという順になっています。このため、通読は章ごとではなく、まるきり別の単位で行います。タイトルが「1章」ではなく「1回」となっているのはそのためです。 イスラム圏では30日で通読するプランが一般的です。30日というのはイスラム暦の9月つまりラマザーン(ラマダーン)月の日数です。この月は断食をしながらクルアーンを全部読んじゃおうというわけですね。この30日の通読プランの区切りをジュズと言います。また60日通読プランもあり、これをヘズブと言います。具体的な区切り方は次のとおりです。 http://www2.dokidoki.ne.jp/islam/quran/quran000.htm 当ばべるばいぶるでは60日プランの各ヘズブをさらに機械的に2等分した120日プランを作成し、これを金曜日と土曜日(年の後半16週は木曜日も)に読むことにします。 この区切りは、「真理子のおまけ」のクルアーン(口語訳聖書でクルアーンを指定したときに出てくるテキスト)では【Reading-1】などのように書いてあります。 Reading-1は第1章および、第2章の1-33節です。 ここでは第2章の話は明日まわしにして、第1章の話だけ書きます。 第1章は非常に短く、イスラム教徒は毎回の祈りで必ず唱えます。もちろんアラビア語でです。ひとつ私たちも、アラビア語で覚えてしまいましょう。 (http://www.youtube.com/watch?v=Xgq-3QzZxj8) この動画は、13人の詠唱者によって第1章を朗読しています。 こんな感じに聞こえることでしょう。 1 びすみっらーひ・らふまーに・らひーむ 2 あるはむど・りっらーひ・らっびる・あーらみーん 3 あるらふまーにっらひーむ 4 まーりき・やうみっ・でぃーん 5 いーやーかな・あぶどぅわ・いっやーかな・すたいーん 6 いふでぃなっせらーたる・むすたくぃーむ 7 せらーたっでぃーな・あんあむた・あれいひむ がいりる・まふどぅーび・あれいひむ・わらっ・だーりーん あーみーん なお、「真理子のおまけ」のクルアーンは、大川周明先生の文語訳古蘭の現代訳をしたじきに、ちょこちょことアラビア語を眺めながら作成しています。 アルラーハ(アッラー)というところは、いろいろ考えた末、「主なる神」として、ルビにアッラーと記すことにしました。「真理子のおまけ」はできる限り口語訳聖書の流儀にあわせています。口語訳聖書ではヤハウェと書いてあるところを「主」と訳していますから、主でもよかったんですが、その一方でアッラーって要するにThe Godでして、主じゃなく神です。ルビを参照できない環境でも、一般名詞としての主(たとえばクル1:2の「三界の主」のように)じゃなく、アッラーという意味の主なんだということがわかるように、アッラーというルビつきの「主なる神」という表現にしてみました。 |
[21] 知恵1章 投稿者=真理子 掲示日=2011/12/16(金) 06:19:01 コメントする ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=wis&chapter=1&mode=0 昨年度の記事は[0:652]。 外典コース、金曜日は文学2ということで、月曜日と一緒に文学的(韻文的)な書を読んで行きます。しばらくは知恵の書、別名「ソロモンの知恵の書」を読みます。外典にはこれとは別に「ソロモン詩編」というのがあるので気をつけてください。 火曜日に読んでいるシラ書同様に、紀元前1世紀ごろの外地(エジプトのアレクサンドリアとか)に住むユダヤ人対象に、あるいは本当に外国人対象に、ユダヤ教の考え方をわかりやすく教えるための本です。 シラ書のところでも書きましたが、知恵というのは信仰心のようなもの。それをギリシア文化にどっぷりつかった人に受け入れやすいように、知恵という表現を使っているのであって、実際には頭のはたらきというよりも心のはたらきです。だから、邪悪な思いを持たず、何も疑わないことを推奨しています。そういう人にこそ主は現れる、と。 |