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当教会の提案する死生観


 
  1. 当教会は死生観を強制しません
     死をどう見るかは宗教の一大ポイントなのですが、当教会はあえて死生観を強制しません。
     下世話なQ&A「人は死んだらどうなるの?」@三十番地キリスト教会で富田正樹先生が苦労してまとめておられるように、聖書の中でさえも死生観が統一されていないというのが実情です。ですからキリスト教の死生観というのも、時代によってさまざまな影響を受けて変化しています。「そんなことはない。お前はニケア・コンスタンチノープル信経(→「信仰告白」)を知らないのか?」とおっしゃるかもしれません。しかし、ニケア・コンスタンチノープル信経は、名前が示すとおり、4世紀に作成されたものであり、その当時の死生観と終末論をまとめたものに過ぎません。聖書に書いてあるから真実であるというわけではないのと同様、使徒信条やニケア・コンスタンチノープル信経を朗読してもそれは習慣的なものであり、必ずしもその考えにとらわれないというのが一般的なクリスチャンです。
     大事なのは、「死を恐れないこと」「自分がなぜここにいるのか、納得できる理由を見出せること」「イエス様の救いを信ずること」の3点であり、この3点を無理なく自然に納得できる考え方を見つけてください。あなたがその考えで生き生きと生きられるのであれば、当教会はそれに反した死生観をおしつけることはありません。

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  3. 一般的なキリスト教の死生観は?
     
    1. 人は死ぬと陰府(よみ)に下ります。陰府とは最後の審判のための待機場所です。ここで世の終わりにいっせいに行われる最後の審判を待ちつづけます。
    2. 最後の審判で救済されれば天国(神の国)での永遠の生命が与えられます。
    3. 救済されなければ永遠の死を迎えます。これを「地獄で苦しみ続ける」と表現する場合があります。

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  5. 当教会の提案です。
     
    1. 「最後の審判」はひとりひとり個別に随時あります。ごくまれには生きている間に救いが決定されて生きたまま神のもとに引き上げられる(エノクやエリヤのように)こともあるようですが、普通は死後すぐに行われます。
    2. 人はひとりひとり、生前の行為を総括されます。
    3. 人はこのとき弁護人を選任することができます。弁護人の候補はイエス、ムハンマド、その他いろいろいます。弁護人を選任しない自由もあります。
    4. イエス様の弁護は強力です。なにしろ全人類の罪をあがなうために十字架についたほどですから。おおかたの人はたぶん救ってもらえるのではないでしょうか。
    5. 救われた場合は次のステージに進みます。つまり人間としての新たな人生のスタートとなります。どういう環境に生まれるかは神様の判断によりますが、たぶん善行が多ければそれだけよい環境に生まれさせてくれるのではないでしょうか。ごくまれには、神様の隣の席が用意されて二度と死なない特権が与えられることもあります。
    6. 救われなかった場合は神様との関係が断たれてしまい、二度と生きることはできません。人間以外の生物への転生はできるかもしれません。
    7. なお、再び生まれるといっても前世の肉体まで復活しない(ですから死んだら遺体は焼いていいんですよ)のと同様に、前世の記憶や心も復活しません。別人格としての復活になります。

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  7. キリスト教の死生観に納得がいかない人のための提案です
     何度も言いますが、上記の死生観は提案に過ぎません。一般的なキリスト教の死生観に納得ができ、それに希望を見出すことができるのであれば、まったく問題ないですからそれを信じてください。
     しかし、日本人の多くは素朴に輪廻を信じているのではないでしょうか。つまり、「人は転生する。生前の行為によって来世にどういう環境に生まれるかが決まる」という考え方です。これだと、自分が生まれた環境は前世の自分の行いによって決定されたということになり、自分がここにいる理由が一応わかりますし、来世に幸福な人生を送れるように今いいことをしておこう、悪いことはやめようということになり、万事うまく説明された気になります。
     この両者の死生観をなんとか折衷できないかと考えたのが、上記の提案というわけです。かなりふざけて書いていますが、一応ちょこちょこと聖書に根拠を置いていますので、以下かいつまんで解説します。

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  9. 生きるとは? 死ぬとは?
     死とはもちろん生命がなくなることなのですが、聖書を読むと、放蕩息子のたとえ話に出てくる父親のセリフに「息子が死んでいたのに生き返った」ルカ15:24,32とあるように、時々奇妙な使い方をしているところがあります。この父親が神の比喩であるとすると、死とは「神との関係が絶たれること」ということになります。これは、人間の生命が神が息を吹き込むことによって与えられたとと対応しています。つまり「生まれるとは神との関係がスタートすること、生きるとは神との関係が継続すること、死とは神との関係が断たれること」ということになります。
     こういう考え方が当教会の提案する死生観に反映されています。つまり、審判で救済されれば神との関係が継続され、新たに生命の息を吹き込まれて生きるのであり、救済されなければ二度と生きることはないというわけです。

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  11. 始まりの前はなく、終わりの後はない
     キリスト教の時間観は、「始まりがあり終わりがあり、時間は始まりから終わりに向かって一方通行で進む」というものです。現代の科学的時間観も、始まりと終わりをどうとらえるかは別として、基本的に同じです。が、このような時間観を小林秀雄が「過去から未来に向かって飴のように延びた時間という蒼ざめた思想(ぼくにはそれは現代における最大の妄想 と思われるが)」と批判したように、キリスト教以外の文明の時間観はそうではなく、「時間には始まりも終わりもなく、同じことが何度も繰り返す」という円環的な時間観です。
     円環的な時間観では始まりや終わりを考える必要がないのですが、キリスト教の時間観ではそれを考えなければなりません。
     「天地創造、最後の審判なんて言うけど、天地創造の前はどうだったのか、最後の審判のあとはどうなのか?」 みなさん、こう疑問に思ったことはありませんか。不思議なことに、誰もこのことを説明してくれないですよね。
     答えを言うと、天地創造の前はありません。「はじめに、神は天地を創造された」 創1:1 とあります。天地創造の前があるのだったら、それは「はじめに」になりません。つまり、天地創造と同時に時間がスタートしたというわけです。
     アメリカには創造科学といって、聖書の記述をそのまま科学的事実としてしまう立場の人々がいます。この立場からすると、天地創造から現代まではせいぜい数千年でしかありません。ユダヤ教の暦は天地創造紀元といって、天地創造が紀元前3761年10月7日に行われたことになっています。正教会では紀元前5509年ということになっています。いずれにせよこの世の歴史は数千年でしかありません。こういう人たちに「それよりずっと昔の化石なんかがいっぱいあるじゃないか」とよく批判したりするのですが、天地創造と同時に時間が創造されたとするならば、見かけ上それ以前のものが存在していても関係ないことになります。
     自分の生まれる前の時間は、まあみんなが示し合わせて「あった」と言ってるので、たぶんあったんでしょうが、究極的にはそれは確かめようがない、というようなものでしょうか。
     そうすると、最後の審判のあともないわけです。最後なんだからそのあとはない。時間は止まっちゃうわけです。
     直線的な時間観では、はじめで時間がスタートし、おわりで時間がストップすると考えないと、おかしなことになるわけです。

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  13. じゃ永遠の命って意味なくない?
     しかしそうなると、永遠の命といってもはたから見ればそれは実は一瞬の命かもしれません。時間がとまっているから永遠に見えるだけ。なんかありがたみないですよね。
     もっとも真理子は、「永遠に生かされる」ことに逆に恐怖を覚えます。そんな、死なない人生なんてたぶんものの一週間で退屈しますよ。だって死なないんだから、いくらでも時間はあるんだから、すべてのことを今やる必要はないわけです。ものすごく無気力になるような気がしますね。それが永遠に続く? ぞっとします。そんなの天国じゃありません。天国という名の地獄です。
     パウロをはじめ新約聖書の使徒たちは、自分たちが生きている間に最後の審判が来て、死なずにそのまま天に上げられ、永遠に生きられるということを大真面目に信じており、そのことで慰めをもらっているんですが、現代の私たちにはそういう天国のイメージはなんとも子どもだましに感じます。天地創造以来今日までおびただしく生まれて死んだ人がみんな生き返って天国に? 天国は朝の電車のラッシュ以上にごみごみして、住み心地悪そうじゃないですか? それが永遠に? 永遠に続くラッシュアワーなんて、天国という名の地獄です。

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  15. それぞれのはじまりとおわり
     それにしても世の終わりはいつ来るんでしょうね。なかなか来ないから、死んだ人はさぞや待ちくたびれているんじゃないでしょうか。
     しかし考えてみれば、自分が死んでしまえば自分にとっての時間は終わりです。ちょうど、夜に寝て朝起きるまでの間は、何時間か経過しているのに、一瞬のこととしか感じられませんよね。だから死んでから最後の審判まで仮に1万年かかったとしても、それは死者にとっては一瞬のことなのでしょうね。最後の審判とはいっても、死者としては「死後すぐに審判がある」のと変わりないですね。みんないっせいに最後の審判をしても、それぞれの死後に個別に随時行われているとしても、死者にとってはあまり変わりのないことです。
     ひょっとしたら、最後の審判というのは世の終わりにいっせいに行われるのではなく、本当に個別にあるのかもしれませんし、死後に限らないのかもしれません。マタ12:28に、「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」という言葉によれば、神の国というのは行くのではなく来るもののようですし、イエス様が人を救うときにもう来ているもののようです。昔の人には「世の終わりにいっせいにある」と言ったほうが分かりやすかったのであって、救いのあるところでは本当はこの世も神の国なのかもしれません。
     そうすると、それぞれの死後に裁きがあり、その結果でまた生まれ変わるという輪廻転生説も、さほど非聖書的ではなさそうですね。
     どうしても非聖書的だと思うのであれば、次の生は「最後の審判」のあとの第二ステージだということにしておきましょうか? 世の終わりのあとどうなるかは、さすがに聖書にも一言も書かれていませんが、たぶん神はまた新たに天地を創造なさるのです。そしてその第二ステージの世で、適切な折に生まれることになるのかもしれません。

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  17. 要は、死の恐怖がなくなればいいんです
     何度も言いますが、以上書いたことは、当教会が提案する死生観の例です。
     要は、死の恐怖がなくなっていきいきした人生を生きられるのであれば、どういう死生観を持とうと許されるのです。私は、輪廻転生によって死んでも再び人間として生きられるのならそれで十分です。第二の人生は苦労するかもしれませんけど、生きていればいいこともあるでしょうし。できれば次も女に生まれ、そしてもうちょっと美貌であれば申し分ありません。
     みなさんも、ホンネで納得がいき、そして生き生きとした人生を送ることができ、死が恐くなくなような死生観を見つけてください。必ずしも当教会が提案するものでなくて結構です。
     そして、できればその死生観の中に、イエス様と神様をうまく登場させてみてください。

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