[真理子日曜学校 - キリスト真理自由教会(フレーム表示) ]
 

信仰告白


 
  1. 1日1回唱えましょう
     当教会では信仰告白文として「使徒信条」を採用します。
     「信条(しんじょう)」とは、「信経(しんきょう)」ともいい、信徒が信仰を告白するための定型文です。できるだけ短い文の中にキリスト教のエッセンスをすべて凝縮させようと練りに練られており、真理子はよく「キリスト教版般若心経」なんて言ったりします。そういえば「心経(しんぎょう)」の部分の発音がそっくりですね。
     古来、さまざまな教会でさまざまな信条が作られてきましたが、今日よく用いられているこの「使徒信条」は、もともとは西方教会で洗礼のときに読み上げるものだったらしいです。今ではたいていの教会で礼拝のときにみんなで読み上げます。
     同種のものに、「ニケア・コンスタンチノープル信条」など、公会議のときに定められたものがありますが、「聖霊は父と子から出て」など、教会独自の神学をいろいろこめて異端を排除しようという色彩が強く(カトリックは「父と子」、東方正教会は「父」)、教派を超えた使用には問題があります。その点「使徒信条」は、ほぼすべての教派に共通する内容だけでできており、これをはずしたらちょっとキリスト教とはいえないというぐらいに最低限のキリスト教の教義がこめられています。
     ただし、やはり古代の世界観に基づいていますので、現在では「天に昇って」などといっても、本当に宇宙に飛んで行ったと思う人は(一部のファンダメンタリストを除いて)あまりいないでしょう。その意味では本当は現代人にあてはまるように修正が必要なのですが、習慣と惰性でそのまま用いられているというところです。
     とりあえずこれを1日1回、声に出して唱えましょう。
     使徒信条の条文はどの教派も大差ありませんが、ここではカトリックが用いている文をベースに、いくつか変更したものです。変更の理由は下の解説をご覧ください。みなさんが他の教会に属しておられるなら、その教会で用いている文でもかまいません。

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  3. 使徒信条
     
     わたしは、天地てんち創造主そうぞうしゅであり全能ぜんのうちちであるかみしんじます。
     わたしは、ちちのひとりでありわたしたちのしゅであるイエス・キリストをしんじます。
     しゅ聖霊せいれいによってやどり、おとめマリアからまれ、ポンティオ・ピラトのもとでくるしみをけ、十字架じゅうじかにつけられ、んでほうむられ、よみにくだり、三日目みっかめ死者ししゃのうちから復活ふっかつし、てんのぼりました。
     いま全能ぜんのうちちであるかみみぎいておられます。
     そこからきるものんだものをさばくために今後こんごられます。
     わたしは、聖霊せいれいしんじます。
     わたしは、せいなる公同こうどう教会きょうかい聖徒せいとまじわり、つみのゆるし、からだの復活ふっかつ永遠えいえんのいのちを信じます。
    ご参考までに
    1. Wikipedia
    2. カトリック版
    3. 日本基督教団版

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  5. 解説
     
    1. わたしは、
       ベースにしたカトリックの使徒信条ではなぜか「わたしは」という主語が省略されています。たしかにラテン語だとCredo一語だけなんだけど、一人称単数形だということを決してないがしろにしてはいけません。「わたしたちは」ではなく「わたしは」なのです。信仰は一人一人が神と対話することですから。
       
    2. 天地の創造主であり全能の父である神を信じます。
       この世界、宇宙は決して無秩序ではなく、まるで設計されたとしか思えないような秩序と法則に貫かれています。この世のすべてを設計した設計者をとりあえず擬人化して「神」と呼んでください。神は人にはイメージ不能ですので、とりあえず何か適当な象徴でイメージしておきます。昔の人は白ひげのおじいさんをイメージしましたが(だから使徒信条でも「父」と呼んでいます)、現代人の場合はもっと抽象的なパワーのようなものだと思ったほうが信じやすいと思います。
       
    3. わたしは、父のひとり子でありわたしたちの主であるイエス・キリストを信じます。
       神は私たち人間と和解し私たちの罪を取り除くために、ひとり子であるイエスをお遣わしになりました。キリスト教はさまざまな教派があれど、どこもイエスを唯一の救い主であるという信仰をもった宗教であり、これなくしてはもはやキリスト教とはいえません。キリストとは姓名の姓などではなく救い主という意味。ギリシア語をはじめ多くの言語では、ABと並べるだけで、AはBだという意味になります。ですから「イエス・キリスト」とは、これだけですでに「イエスはキリスト(救い主)だ」という告白文になるのです。
       
    4. 主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、
       4.~9.はイエス様に関する具体的な信仰です。構造を明らかにするため上の「使徒信条」では字下げしました。
       イエス様は人間としてお生まれになるためにマリア様という人間の女の体を借りましたが、神が父なのですから、性交ではなく聖霊の力でできたことになります。信じがたくてもこれはお約束として信じなければ「神の子である」ことを信じたことになりません。
       なお、他教会はともかく、当教会は性交を罪悪視しませんので、マリア様に性経験があったかどうかはどうでもいいことです。処女だから清いわけではなく、主の母だから清いのです。「おとめ」というのは「性経験がない」かどうかは無関係に「人間の女」という意味に解釈しています。
       
    5. ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、
       別にピラトを恨んでいるわけではなく、一種の年代表記です。「ピラトがユダヤ総督の時代に」ということです。年代表記だということは、イエスの受難が神話ではなく現実に起こった歴史的事実であることを認めているわけです。
       
    6. 十字架につけられ、死んで葬られ、よみに下り、
       イエスは私たち全人類の罪を背負い私たちの身代わりとして十字架上で死にました。本当に死んだのであり、仮死状態だったわけでもなければ十字架からただちに天に昇ったわけでもありません。「よみ」はもともと日本では黄泉と書いて死者の世界を指しますが、キリスト教では通常は「陰府」と書き、世の終わりの審判まで死者がいる待機場所です。ここらへんは昔の人の死生観に基づく象徴にすぎず、本当に死んだという意味で理解すれば十分です。
       
    7. 三日目に死者のうちから復活し、天に昇りました。
       イエス様は復活なさるによって、死つまり私たちの罪を滅ぼしました。
       復活のあり方については後の13.をご覧ください。信じられなければ信仰的事実として理解すれば十分です。歴史のイエス様はひょっとしたら死んだきりだったかもしれませんが、弱かった弟子たちが猛然と奮い立って宣教し、現在まで私たちの生きる希望となるキリスト教を作り上げたのですから、何かが起こったのです。それが復活です。どのような形にせよ復活を信じなければ私たちの信仰はありません。
       
    8. 今は全能の父である神の右の座に着いておられます。
       カトリックや教団版とは違うところで切って、「今は」なんて補った意図はおわかりでしょうか? ラテン語の原文では今までは動詞の過去形が使われていたのにここだけ動詞の現在形が使われているのです。ラテン語がわからないなら英訳をごらんなさい。どんな訳でも現在完了形や現在形で訳してます。ヨーロッパの言語を訳すときには時制には神経質になったほうがいいです。時制が変わったのならそのことに重要な意味があることが多く、不用意に前とつなげて読んではいけません。
       4.から7.までは過去の歴史的あるいは信仰的事実ですが、ここは「今でも」なのです。つまりイエス様は今でも神のお隣にすわり、神と私との仲介人、私の弁護人としておられることを信じてください。前項の「天に昇り」は昔の人の宇宙観に基づくものであり、神はけっして天の上ではなく、どこにでも存在します。ですからイエス様も、ほら、あなたのすぐ隣にいるんですよ。
       
    9. そこから生きる者と死んだ者をさばくために今後来られます。
       こんどは未来形(未来分詞)なのでまた区切ります。現在神の右にいらっしゃるイエス様は、世の終わりにそこから再びいらっしゃって、死んだすべての人たちと、その時点で生きているすべての人たち一人一人をさばき、救われれば永遠の生命が、救われなければ永遠の死が与えられます。これについては13.を参照のこと。
       
    10. わたしは、聖霊を信じます。
       2.と3.と10.とで、神様の3つのあり方が示されています。神様は父(天地の設計者であり世のすべてを統率するもの)、子(愛によって私たちの罪をゆるすもの)、聖霊(目に見えない力で私たちに働きかけるもの)であられます。
       
    11. わたしは、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、

    12.  教会は1名以上の信徒の集まる場であり、聖霊はその場におり、そして教会に集まる聖徒一人一人に働きかけます。
       
    13. 罪のゆるし、
       許されない罪はありません。イエス様の犠牲により、どんなに重い罪でも許されます。もし、唯一許されない罪があるとすれば、この許しを信じないという罪です。
       
    14. からだの復活、永遠のいのちを信じます。
       世の終わりには死者はすべてイエス様同様に復活し、9.で書いたようにさばきを受け、永遠の生命、永遠の死、どちらが与えられるかが決まります。
       昔の人は大真面目に生前の肉体が復活して永遠に生きられる(生きているうちに最後の審判が来るとすれば死ななくてすむ)と信じたようですが、これも象徴的理解をしてください。生前の肉体を保存しておく必要はありませんから火葬は当然OKです。永遠のいのちのほうはよくわかりませんが、イエス様のことですから悪いようにはならないでしょう。要は「私たちの生は死で終わりにならず、さばきのあとに何らかの形で生きられる」と思ってください。
       

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