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このサイトを作りながら、聖書を読みながら真理子が考えたことです。
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[938] 申命記16-19章、エズ・ギ7章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/31(月) 11:26:04 ここから閲覧 |
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●申命記16-19章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=deu&chapter=16&mode=0 16章。祭の話はレビ記23章なんかにも出てきました。申命記という本は、ヨシヤ王の時代に今まで忘れられかれていた律法をもう一度しっかり定着させようという意図で作られた「第二の律法」ですから、いままでどこかで読んだ話がもう一度出てくるわけです。申命記というタイトルの意味は「重ねて命じる」でしたね。「第二の律法」というのを漢文で表現したものです。ちなみにその「第二の律法」というのは、今日読む申17:18に出てくる「この律法の写し」というのの誤訳から来ていますが、誤訳とはいえ申命記の性質をよくとらえているので、意図的な誤訳かもしれません。 その「この律法の写し」という言葉が出てくる17章は、イスラエルの王はかくあるべしという話なんで、明らかに王制が始まったあと、しかも王制が乱れに乱れて、ひどい王様ばかりが出るようになってから定められた、王の理想像というわけですから、モーセの時代に書かれたはずがありません。 18章の後半も「預言者とは何か」というわけで、これも預言者がいっぱい出るようになってからの話ということになります。 その一番最後が面白いですね。真の預言者かどうかを見分けるポイントは、預言者の言葉が成就するかどうか、つまりは未来のことを予言して当たったかどうか、というわけです。あれれ、じゃ預言者っていうのは予言者って書いてもよさそうですね。 予言と預言は違うなんて知ったようなことを書いてるキリスト教の参考書は実に多いですね。予言は未来を予測、預言は神様の言葉を「預」かったんだ、なんて。でも、預かった神様の言葉というのは、たいていは未来に関することですから、実は予言と預言の境界線というのはハッキリしないんです。 しかも、もともと中国語では「預」=「予」なんですよ。うちの主人がやってる青蛙亭漢語塾が公開しているWEB支那漢 http://www.seiwatei.net/chinakan/chinakan.cgi で「預」をひいても「豫(つまり予ね)と同じ。豫備は亦た預備にも作り…」なんて書いてます。中国語だと予言と預言の区別なんて全然意味ないんです。じゃ中国語で預けるとか預かるってどういうかというと、専用の単語はなく、保管するとか置くとかいう言葉で表現するみたいです(考えてみれば、「持ってる」「保管する」「置いとく」といえばいい話ですからね)。たとえば、 金を銀行に預ける 把錢存在銀行裡 銀行は当座定期の預金を預かります 銀行可以收存定期活期的存欵 (井上翠『井上ポケット日華辞典』昭和12年 龍文書局) このことは織田昭先生も『新約聖書ギリシア語小辞典』のp.507、προφητεύωの項で喝破しています。 神の言葉を「預かって」語る者を「予言者」でなく「預言者」と訳したのは、近代日本語としては適訳であると言われる。確かに、預の字の連想から見れば、結果的に現代日本語訳聖書の知恵とも言える. しかし漢語としての預言は予言と変わりがなく、現代中国語では預の字は予の字の代わりに使われる。漢訳聖書で「預言」と訳した訳者は我々が「預」の字から受ける暗示とは無縁であった。預金、預託は現代国語が生んだ熟語である。このような「思い込み」とは別に、「預言」の文字は保存してよかろう。 このように、予言か預言かというのは日本語の問題であって中国語とは関係ないし、ブリッヂマンなどの漢訳者が預言と書いたのは単なる偶然で、それを日本人が見て「預」にブリッヂマンが考えもしなかった深い意味を見出しちゃったわけです。 織田先生は、それはそれとして「預言」というのは適切だと言ってますけど、私はそう思いません。それだったらもう「予言」でいいじゃん。普通の予言者は超自然的な怪しげな力で予言するけど、ユダヤの予言者は神様の言葉で予言するんです。 「預言」はキリスト教業界用語としてもう定着しているんで、私も惰性で「預言」って書くと思いますけど、「予言」との違いは、そう神経質になる必要はないし、細かいところでは区別はつかないんです。 ●エズ・ギ7章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezg&chapter=7&mode=0 正典エズラ記ではエズ6:13-22 ダリヨス(ダレイオス)王第6年アダル(12)月23日、ついに神殿が完成し、翌月14日に過越祭が行われました。神殿完成の日はいまの暦でいうとBC515年4月1日。神殿が出来てこいこい幸せ、なんて覚えましょうか。 |
[937] 1ペト4-5章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/30(日) 07:06:37 ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=1pe&chapter=4&mode=0 前回(1-3章)[930]同様にキナ臭い話。 一ペト4:1「肉において苦しまれたのであるから、あなたがたも同じ覚悟で心の武装をしなさい。肉において苦しんだ人は、それによって罪からのがれたのである」 一ペト4:16「クリスチャンとして苦しみを受けるのであれば、恥じることはない」 ああ、信仰って大変なのね。迫害されなきゃ罪から解放されないのね。 前回も言ったように、こういう文書は非常時には信徒をなぐさめ勇気を与えたのかもしれませんけど、私はやっぱり「今は迫害が厳しいからひとまずおとなしくしていなさい。また状況が改善してから信仰しましょう」みたいなほうがいい指導だと思うんですけどね。牧師など宗教指導者には厳しい規範を課したとしても、一般信徒にはゆるかにしてもらいたいわ。 ともあれ、平常時においては、1ペトは取り扱い注意の危険文書ってことでおしまい。 |
[936] 使徒15-16章、エズ・ギ6章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/29(土) 18:21:31 ここから閲覧 |
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●使徒15-16章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=act&chapter=15&mode=0 さあ大変だ大変だ、事件だ事件だ。 宗教団体の内紛、お家騒動というのは第三者にとっては何が何だかよくわからないコップの中の嵐ですが、それだけに醜い泥仕合になることが多く、週刊誌のかっこうのネタですね。 キリスト教の歴史にも「異端との戦い」、いや、これは戦いに勝った側の表現ですね、「お家騒動」と言ったほうが公平でしょう、お家騒動にあふれておりますが、その第一号が今日の話です。 まず使徒15章にしたがって事件の経過をたどりますと、 パウロ、バルナバといった「ギリシア語派、国際派」の牛耳るアンテオケ教会にユダヤつまりエルサレムからやってきた人々が「ほらほら、異邦人だって改宗したからには割礼やらんかい」といちゃもんをつけてきたのです。 そこでパウロ、バルナバはエルサレムに行き、割礼は必要かという会議が開かれます。パリサイ派あがりの人たちが中心となって割礼をやれという。パウロやバルナバは反対です。 ここでペテロとヤコブが演説をして異邦人を広く受け入れようという話になり、それが会議の結論として、使15:23-29にあるような書面にまとめられます。 ポイントはとりあえず異邦人には、使15:29にあるように「偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、避ける」ということ。ヤコブの演説の中にあるとおり、モーセの律法の最低水準だけは守らせようというわけです。 この書面は一応は使15:23のように「アンテオケ、シリヤ、キリキヤにいる異邦人の兄弟がたに」という地域限定のものですけど、実質的に世界標準になっていきます。 この会議の話は実はガラテヤ2章にも書かれています。ガラ2:1の「十四年たってから、わたしはバルナバと一緒に、テトスをも連れて、再びエルサレムに上った」というのが、会議とも何とも書いてませんけど実はこの話です。経過はガラ2:3-6にありますが、こちらを読むと、割礼強要派はペテロをもまきこんでずいぶんパウロたちに圧力をかけたようですが、パウロはそれに屈せず、割礼不要を通したようです。 そして、使徒に書いていない重要なこととして、ペテロ(ケパ)、ヤコブ、ヨハネといったエルサレム派がユダヤ人への伝道を、パウロ、バルナバといったアンテオケ派が異邦人への伝道をするという具合に、分裂が起こったことが書かれています。さらに、その後にアンテオケに来たペテロに対して、パウロは、「以前は異邦人と一緒に食事してたのに、ヤコブの配下の連中がやってきたら異邦人との会食をやめるようになったというのはけしからん」と非難します。これで両者の対立は決定的になります。 さらにパウロとバルナバの間にも対立が生じます。これは使徒にも使15:36-40に経緯がありますように、使13:13で脱落しちゃった「マルコと呼ばれるヨハネ」を伝道に連れていくかどうかがキッカケ。パウロが猛反対するのです。ガラテヤのほうではガラ2:13のように、異邦人との会食反対派がバルナバを引きずり込んだと書いています。 そんな感じで分裂につぐ分裂を経たのち、パウロはシラスを連れて、第二回宣教旅行に出かけます。使15:36からはじまり、使18:22までです。とりあえず16章の部分について、行程を、 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fb/JBS1956-B_map12.png を見ながらたどってください。黄色の点線ですね。出発からしばらく、第三回の赤い実線とだぶってて見にくいですが、出発地はアンテオケ。陸路でキリキヤ地方を抜け、ガラテヤのデルベ、ルステラを通り、アジアの北部を通ってムシヤ地方へ行き、トロアスというエーゲ海に面した港町からマケドニヤのネアポリスへ。そこからちょい内陸のピリピまでが16章の範囲です。 ルステラでテモテに出会ったとありますが、実はこれが初対面ではなく、第一回の旅行でもう洗礼をさずけた(一コリ4:17)みたいです。今回は同行もさせるのですが、このとき割礼を受けさせたというのはウソでしょう。ガラ2:3にあるようにエルサレムの会議のときにはテモテには割礼が強要されなかったわけですから。 ピリピで人気の女占い師から除霊をしてしまったことで、商売があがったりになった主人が訴え、パウロとシラスは投獄されます。使12でペテロが投獄されたときも奇跡がおこりましたが、こんどは地震の奇跡が起こります。 ●エズ・ギ6章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezg&chapter=6&mode=0 正典エズラ記のエズ4:24からエズ6:12とほとんど同じ。神殿工事が再開し、またしてもいちゃもんがつきますが、調査の結果、これはクロス王が出した命令であり、ダリヨス王が改めて命令を出すということで、工事の正当さが確認されます。 |
[935] ゼカ1-7章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/28(金) 06:13:07 ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=zec&chapter=1&mode=0 ひさびさに14章もある長い書にトライします。 ただし、9章以後は確実に別の著者の作なので、現在では1-8章を第一ゼカリヤ、9-14章を第二ゼカリヤと呼びます。 第一ゼカリヤは冒頭にあるようにダリヨス(ダレイオス)王の2年、つまりBC520年で、ハガイ書([928])のところにも書いたように、ハガイ書とまるきり同じ年です。神様は6・7・9月にハガイ、8・11月にゼカリヤと、二人の預言者にふたまたをかけて言葉を託しています。 預言書のように難しい内容で、しかも今日の部分は7章もあるのでさぞや大変と思いきや、読んで見るとそう難しくありません。わたしに立ち帰って神殿建設をがんばれというのと、世俗権力の長ゼルバベルと大祭司ヨシュアの二権分立体制の確立を、預言書らしい象徴的な表現で指示しているのであり、しかも何が何の象徴であるかをいちいち説明してくれてますからね。 考えてみれば、ゼルバベルもヨシュアも、武力で支配を確立したわけでなし、本来ならきわめて不安定な基盤の上で民を統治しているわけですから、このようにハガイやゼカリヤという預言者のサポートで、この支配体制こそ神様がのぞんでいることなのだ、というお墨付きをもらわなきゃならなかったわけですね。 なお、ゼカ6:11の「ヨザダクの子である大祭司ヨシュア」というのは「シャルテルの子ゼルバベル」でなければ意味が通りません。13節に「その位のかたわらに、ひとりの祭司がいて、このふたりの間に平和の一致がある」とあるわけですから、祭司のとなりに祭司がいちゃおかしいですからね。なんでゼルバベルがヨシュアに変わっちゃったかはいろんな説があるようですが、いずれにせよゼルバヘルとヨシュアの二権分立体制を描いております。 ちなみに昔、イザヤ・ベンダサンこと山本七平さんが『日本人とユダヤ人』の中でここをユダヤ人の思い描いた理想的な二権分立体制だと書いたのですが、ヨシュアがほんとうはゼルバベルであるということに気づかず、つじつまあわせの苦しい説明をしています。それを山本七平キラーの浅見定雄先生が『にせユダヤ人と日本人』の中でからかっています。 |
[934] コヘ7-8章、エズ・ギ5章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/27(木) 08:10:43 ここから閲覧 |
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●コヘ7-8章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ecc&chapter=7&mode=0 7章冒頭「死ぬる日は生るる日にまさる」とありますが、別に早く死んだほうがいいわけじゃなくて、葬式に列席して死としっかり向き合うと、人生をより深く洞察することができるということです。前章末の「人生は短い」からの連想でこういう話になっています。 途中にいろいろ印象的なことわざとして使える語句もありますが、ちょっととばして15-17節。正しいものが滅び、悪人が世にはびこることが多いので、あんまり正義を追求するな、一方で悪も追求するな、というところが、いろいろ悪いニュースに怒ってばかりの私には警告の言葉ですね。何事もほどほどに。 同じことが次の8章14節にも書いてあります。翻訳によってはとても読みにくいですが、要は、善人なのに悪人みたいに滅んじゃう人もいるし、悪人なのに善人のように栄えちゃう人もいるってことで、同じことですね。そこで著者が言うのは、楽しさの追求。まあ楽しみなさいということです。私は、怒ってないで笑え、茶化せ、と読んでおります。 私はテリー伊藤さんって嫌いですけど(特に震災のあと、悪徳ACの広告で「デマにまどわされないようにしよう」なんて言ってたのが猛烈に腹が立ちます。あ、腹をたてちゃいけないわね)、主人は『お笑い北朝鮮』をとても評価しています。それまで朝鮮半島の問題を論ずる人って怒ってる人ばっかりだったんですが、笑う、茶化すというのが武器になるんだと気づいたっていうんですね。そんなもんかしら。 ●エズ・ギ5章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezg&chapter=5&mode=0 エズラ記2章同様に長々と帰還者名簿が載ってますが、これが困ったことに、ちょこちょこと違うんですよね。エズ・ギの真理子訳(真理子のおまけ)を作るときは、固有名詞を口語訳聖書にあわせる方針なので、平行箇所の口語訳聖書の記述をできるだけコピペするようにしてるんですが、どうせおんなじだろうと思ってコピペしたら名前や数字がちょこちょこ違うのでけっこう大変でした。 後半のサマリヤ人の妨害の話はエズラ記4章と同じですが、エズラ記では「その地の民」というふうにぼかして書いてあるところが、サマリヤ人とはっきり書いています。ユダヤ人のサマリヤ人への蔑視は、福音書にいろいろ出てきますが、こういうところに淵源があるんですね。 |
[933] 詩編131-133編 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/26(水) 10:30:23 ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=psa&chapter=131&mode=0 なんか短かすぎて書くことがないわ。 133編。最初だけ読むと「兄弟仲良く」みたいにも読めます。まあ、局所的に聖書の語句をつまみぐいするってよくあることで、聖書のおみくじ作ったら、詩133:1だけで、「兄弟は他人のはじまりといいますが仲良く助け合いましょう、家内安全」みたいなものも作れるかもしれません。でも、アロンだのヘルモンだの出てくるし、作者はダビデということになっているので、イスラエルの民がみんな仲良く暮らすのは楽しい、というふうにとったほうがいいですし、聖書がイスラエルの民のものだけでない現代にあっては、全世界の民が仲良く、というふうに読むこともできるでしょう。 政治権力の長ダビデにそそがれたあぶらが、ダビデだけでなく、宗教権力の長であるアロンの子孫の祭司にも流れる。権力者を権力者たらしめる力が特定の王だけでなく全世界の王に、また政治の王だけでなく宗教指導者やいろいろな人にふりそそぎ、みんなが平和に共存する。 ヘルモンの露がシオンの山にというのは、地理的にいって、富士山の露が穂高連峰にみたいな感じで、実際にはありえないんですが、ヘルモン山に下りる露というのは独特の重い露らしく、そういうものがシオンの山にふるっていう意味みたいです。あぶらみたいなどろっとした露なのかしら。とすると、これも、2節と同じように、あぶらがいろんな指導者に流れてみんなが平和的に共存するってことなのかしら。 |
[932] エズラ記1-5章、エズ・ギ4章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/25(火) 05:17:59 ここから閲覧 |
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●エズラ記1-5章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezr&chapter=1&mode=0 エズラ記とネヘミヤ記は、捕囚から解放されたユダヤ人たちがエルサレムに帰還して神殿を再建する話です。[925]で書いたように本来は1つの本であり、さらに偽典にはエズラ記という名を冠した本がいろいろあって混乱のきわみになっています。 エズラというのは神殿の再建を指導した人物ですが、エズラ記の7章以後に登場。それまではハガイ書のところで([928])説明したように、総督ゼルバベルと祭司ヨシュアのいわば二権分立体制になっています。この二人の名を覚えておけと書きましたが、実はエズラ記ではヨシュアはエシュア(イェシュア)と呼ばれています。またエズラ記1章に出てくる「ユダのつかさセシバザル」とは実はこのゼルバベルです。そのくせ2章からはゼルバベルですからね。新約聖書ではこの人はゾロバベルと呼ばれていたりもします。固有名詞なのに呼び方が違うというのはいままでもままありましたけど(たとえばウジヤ王がアザリヤと呼ばれていたりとか、ネブカデネザルがネブカデレザルと呼ばれたりとか)困ったものですね。なお、新改訳聖書ではエズラ記でもヨシュアに統一しています。そういうのも一つの便利なやりかたでしょうし、脚注にちゃんとことわってはいますけど、原文の不統一をおおい隠してしまうのはいかがかと思います。 それから、エズラ記の説明にはウソがいろいろあります。ペルシャの王名は クロス(キュロス) BC550-530 カンビセス(カンビュセス) 530-522 ダリヨス(ダレイオス)1世 522-486 アハスエロス(クセルクセス)1世 486-464 アルタシャスタ(アルタクセルクセス) 464-423 ダリヨス(ダレイオス)2世 423-404 のとおりですが、エズラ記冒頭、クロス王がユダヤ人を解放して神殿を再建させることを許したのは元年(550)となっていますが、実際には538年の話です。 2章は帰還者名簿。ゼルバベルとエシュア(ヨシュア)の指導のもとに神殿が再建されますが、その規模が小さかったので、喜びの声と同時に往時の神殿を知る人の嘆きの声も大きかったというのが3章。で、ここからがまたエズラ記のウソなんですが、4章ではサマリア人たちの妨害の話が出てきますが、アハスエロス(クセルクセス)とかアルタシャスタ(アルタクセルクセス)というのは後代の王の名。実際にはカンビセス王の時代の話です。ここらへん、ヨセフスの『ユダヤ古代誌』11巻では改めてあります。 ハガイとゼカリヤの預言に力づけられて再建工事が再開するのが5章。ここでクロス王時代の手紙が引き合い出されますが、ここでもゼルバベルはセシバザルになってますね。ペルシャ語だとそうなるのかしら? ●エズ・ギ4章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezg&chapter=4&mode=0 「この世で一番強い者は?」というクイズに三人の若者が答える話の続き。二人目は王。三人目は「女と真理」で、この答えが人々の心をうって三人目の人が優勝。実はこの人こそゼルバベルであって、ダリヨス王から神殿再建工事の再開の許可を得る、という話で神殿再建の話につながるわけです。 それにしてもゼルバベルの答えの前半は傑作ですね。王は強いかもしれないけど、エッチの最中に王をひっぱたく側室のほうがもっと強い、なんて。聖書でこんなに色っぽい話が読めるとは思いませんでしたわ。 |
[931] 申命記13-15章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/24(月) 07:20:54 ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=deu&chapter=13&mode=0 14-15章はレビ記や出エジプト記で出てきた規定の焼きなおし、再確認。もともと申命記自体が、ヨシヤ王時代に民が忘れていたヤハウェくんの律法を徹底するための文書ですからね。 で、13章は結局「ほかの神を拝むな」ということなんですけど、言い方がなんともあわれじゃありませんか。しつこくしつこく何度も繰り返し、果ては、(ニセ)預言者や夢占い師が奇跡を起こしたとしても信ずるなよ、ですからね。奇跡を起こしたんならそいつらはすごいじゃありませんか。そんなこと言うならヤハウェくんも奇跡を出し惜しみしないでばんばん出してくれれば、こんなにしつこく言わなくったって、民は自然とヤハウェくんを信じようというものです。 前にも言ったように、イスラエルの民が何度も何度も警告をされたのに結局バアルだのアシラだのを信じるようになったっていうの、民が罪深いってとらえるんじゃなく、発想を転換、視点を転換してみましょうよ。ヤハウェくんがバアルやアシラより頼りない、役に立たない神だってことじゃありませんか。 そういう考え方に立ってみると、13章のヤハウェくんの言い方っていうのが、「ごめんね、ぼくは役に立たない神様でさ。お願いだよ、頼むから、ほかの神に浮気しないでくれよ」と哀願しているように読めませんか? 申13:1は、以前の聖書では12章末になってたりしますけど、「これにつけ加えてはならない。また減らしてはならない」。どこかで聞きましたね。あ、そうだ、サントリーの山崎のコマーシャルじゃありませんか? 「何も足さない。何も引かない」でしたっけ。こういうのも視点を転換するんですよ。てことは、サントリーの酒っていうのは、いろんなものを足したり引いたりしてるってことなんです。こういうコマーシャルを作るってことは、サントリーの数々の悪行の後ろめたさの現れです。 そうやってみると、ここもヤハウェくんの後ろめたさかもしれませんね。いろいろうるさいことを言ってごめんよ。これだけは守ってくれよ。もうこれ以上いろんなこと言わないからさ、みたいにも読めます。 |
[930] 1ペト1-3章、エズ・ギ3章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/23(日) 10:17:59 ここから閲覧 |
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●1ペト1-3章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=1pe&chapter=1&mode=0 著者はイエス様の弟子の筆頭ペテロ(ペトロ)ということになっていますが、昔から疑義も出されています。ガリラヤの一介の漁師にすぎないペテロがこんな流暢なギリシア語を書けるわけがないうんぬん……私は著者説はどうだっていいんですが、一ペト1:20の「キリストは天地が造られる前から知られていた」みたいにヨハネ福音書=ギリシア的発想が濃厚だし、逆にペテロならもっと律法うんぬんという話になるだろうし、私は「なりすましペテロ」説をとります。 で、なんで私が著者説に関心がないかというと、誰が著者であれそいつは大ばかやろうだからです。新約聖書中では1ぺトはクリスチャンにけっこう人気のある書だと思いますが、私に言わせればとんでもない危険・反動文書です。ヨハネ黙示録なみの毒入り文書です。まだヨハネ黙示録のほうがいかにも毒入りだという感じがするのでまし。1ペトは一見、一ペト1:25「主の言葉はとこしえに残る」とか、一ペト2:1-2「悪意を捨てて乳飲み子のように霊の乳を求めなさい」とか、美しい言葉に満ち溢れているだけに、その間にこめられた毒に気がつかなくなってしまう、よけいに悪質な文書です。 何に私が怒っているかというと、 一ペト2:13-14「王だろうと長官だろうとすべておカミには従え」、 一ペト2:18「悪い主人にも従順に仕えろ」のような猛烈な反動性、権威への服従を説くところです。 著者はハッキリ言って世俗の権威には無関心であり、イエス様の神の国にしか関心がない。だからこの世でどんなに苦しもうと、神の国に入る前段階の試練でしかない。むしろ、正義のために苦しめば苦しむほど、神の国に入るに際して高い評価が得られるのでいいんですよ。 迫害と殉教を肯定する思想です。 もちろんこういう思想は、現実に迫害を受けている信徒に対しては慰めと勇気を与えるものです。同じく毒入り文書のヨハネ黙示録も、現実に迫害を受けている人には希望を与える薬なんです。ただし薬というのは、処方を守って正しく服用しないと毒になるのであって、1ペトは黙示録同様に、当時の時代背景を離れて一人歩きさせてはならない文書だと思います。 今にもライオンの餌食になってしまう人には、苦しみは一瞬であり、この苦しみが救いにつながるんだという教えも有効ですが、もしライオンの餌食にならずにすむ方法があれば、それを選択させてあげるのがいいんです。踏絵を踏めば助かるのなら「踏みなさい」と指導するのがよい神父・牧師だと思います。だって、神の国の生活も大事ですが、神の国に入るまでの今の生活だって大事じゃありませんか。 私はこういうふうに考えるので、いかなる形であれ、信徒に殉教を強いる教えは邪教だと思っているのです。その意味では初期キリスト教団は邪教。キリシタン時代のイエズス会も邪教です。 私はクリスチャンでありながら霊魂の輪廻説をキリスト教に持ち込んでいる異端者なんですが、輪廻説が便利なのは、神義論をうまく説明できちゃうことです。ヨブのような義人がどうして苦しめられるのか、それはヨブが前世で悪いことをしたむくいなんです。正しいことをしているのに苦しむことによって前世の悪業といううみを出しててるんです。たぶん来世はよい暮らしができるでしょう。逆に自暴自棄になって悪いことをやると、また来世で苦しむことになります。……というぐあい。 ところがこの思想の欠点は、現実の社会の矛盾にまるきり無力だということ。社会の矛盾に苦しむ人がいても全部そいつの前世の悪業なんですから、社会を改革しようという話にならない。 ユダヤ教やキリスト教はこういう意味での前世・来世を否定するから、現実の社会の悪を改革しようという思想も生まれてくるんですが、一歩間違って、神の国の話ばっかりしちゃうと、現世に無関心になってしまって、輪廻説同様の欠点が出てきちゃう。その典型が1ペトだと思います。 ●エズ・ギ3章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezg&chapter=3&mode=0 歴代誌、エズラ、ネヘミヤからのコピペでほとんどできているエズ・ギの中で、唯一正典エズラ記にない話が3-4章です。ここを楽しまないとあとは楽しい話は出てきません。 ダリヨス(ダレイオス)はユダヤ人を解放したクロス王より2代あとの王。ユダヤ人はせっかく解放されたのに、サマリア人たちの妨害にあって神殿建設が中断していました。これを打開するエピソードが3-4章の話。 王の身辺警護にあたっていた三人の若者が「この世で一番強い者は誰か」というクイズに答えます。 エズ・ギでは三人の若者が自発的にこのクイズを考えたことになってますが、でもクイズの正解者がさまざまな賞や特権を得られるわけですから、ちょっとおかしいですね。 この話はヨセフスの『ユダヤ古代誌』11巻にも入っていますが、ヨセフスはこの設定を改作して、ダリヨス王がこのクイズを出題して眠ったことになってます。これならツジツマがあいます。 最初の若者はお酒と書いて、みんなの前でその理由を説明します。酒は人間の理性を乱すことができるので強いというわけです。 |
[929] 使徒13-14章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/22(土) 11:28:06 ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=act&chapter=13&mode=0 今日のところは「パウロの第一次宣教旅行」です。 パウロの宣教旅行の地図は聖書地図なら必ず載っています。聖書のうしろのほうについていることも珍しくありません。口語訳聖書のもの(当時は別売り)は著作権が満了しておりWikisourceにアップされています。 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fb/JBS1956-B_map12.png まず行程だけたどりましょう。出発地はシリアのアンテオケ(以下、地名は全部口語訳聖書のもの)。そこから港町セルキアに出ます。セルキアというのは新共同訳聖書だとセレウキア。「セレウコス朝」の名前の由来の町です。 ここから船に乗ってクプロ(キプロス)に渡ります。島全体を巡回しますが、特に東海岸のサラミス、西海岸のパポス(パフォス)が言及されています。 さらに船でペルガ、今のトルコ南岸の港町に着きます。このあたりの地方はパンフリヤと言います。内陸に行ってアンテオケ。あれれ、出発地の名と同じですね。区別するためにピシデヤのアンテオケと言います。ここまでが13章。 さらに東へ行ってイコニオム。そこで迫害にあってルステラ(リストラ)、デルベへと逃げます。 使14:24では「ピシデヤを通過してパンフリヤにきた」とありますが、ピシデヤというのは「もう一つのアンテオケ」のあった地方名でしたし、パンフリヤというのはトルコ南岸の港町ですから、結局は今来た道を引き返したことになります。地名をいうときに都市名で言ったり地方名で言ったりしますから、土地勘がないとまるきり別の地名のように思ってしまいます。 そしてペルガの隣の港町アタリヤから船に乗ってシリアのアンテオケに戻って、これでおしまい。 今の国名でいえば、シリア→キプロス→トルコ→シリアというわけです。 旅行に出かけたのは、アンテオケ教会のバルナバたち、およびパウロです。パウロはこのときからサウロではなくパウロと呼ばれます。つまりはギリシア語派ユダヤ人たち、別の言い方をすれば、ペテロなどのイエス直弟子ではない人たちというわけです。 13章の最初ばかりか、この宣教旅行の最後つまり使14:26にもわざわざ「このアンテオケからであった」と強調されているのは、この功績はギリシア語派がやったことなのだということを強調しているのでしょう。 ただし、ギリシア語派とはいってもやっぱり彼らもユダヤ人です。基本的に彼らはユダヤ教の会堂で主にユダヤ人相手に宣教しているのです。ユダヤ教の会堂では安息日に礼拝して聖書を朗読して…という集会があったのです。まるでキリスト教の日曜日の礼拝ですね。というか、今のキリスト教の日曜日の礼拝って、ユダヤ教のこの形をまねたわけですけど。 そういう場がパウロは長々と演説するんですが、これって今のキリスト教の日曜日の礼拝に乗り込んでエホ証だの統一教会だのの話をするようなものですから、度胸がありますよね。ですから信じる人も多かったかもしれませんが反対する人も当然に多いので、迫害にあうというわけです。 彼らの武器は演説だけでなく、魔術師退治とか足の不自由な人のいやしなどであり、こういう奇跡はユダヤ人だけでなくギリシア人にもよくわかるので、信者が増え、彼らの話を聞こうとギリシア人もユダヤ教の会堂にかけつけるという形になっています。 ところで、使13:13で、パポスからペルガへ、つまりキプロスからトルコに渡ったときに、ヨハネという人物が脱落します。ヨハネという人は多いので区別するために使15:37では「マルコというヨハネ」と言ってます。このヨハネの脱落が後で(もう使15:37だって書いちゃいましたけど)問題になるので、ちょっと覚えておいてください。 キリスト教徒への迫害というと、クォ・ヴァディスに出てくるようなローマ帝国による競技場でライオンのえじきにさせるなどのイメージがありますけど、実は使徒行伝に出てくる迫害のほとんどはユダヤ人によるものです。こういうものが一人歩きすると、ユダヤ人はイエスを十字架につけたばかりかキリスト教徒を迫害した悪い奴らということになっちゃうのですが、今の私たちだって、礼拝のあいだに変な人たちが立ち上がって変な話をしたらやっぱり追い出すでしょう。そういうふうに私たちの立場を相対化して、視点を変えてみることができないと、聖書がユダヤ人差別文書になってしまうわけです。 使14:12で、ギリシア人たちがバルナバをゼウス、パウロをヘルメスと言ったというのは、英語聖書ではRSVからはZeus、Hermesになってますが、それ以前の聖書ではローマ神話の神名Jupiter、Mercuriusになってるので注意してください。Hermesは英語だとハーミーズ、フランス語だとエルメスと読むのでわかりにくいですがみんな同じです。こんどからエルメスみたらパウロと呼んであげましょう。 |
[928] ハガイ書(全)、エズ・ギ2章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/21(金) 11:09:05 ここから閲覧 |
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●ハガイ書(全) http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=hag&chapter=1&mode=0 ハガイ書は時代がハッキリしています。冒頭、ダリヨス(ダレイオス)王の二年というのは、BC520にあたります。 ソロモン王以後のイスラエルの歴史は、 BC922 南北分裂(く(9)に(2)は2つに分裂す、と覚える) BC722 北滅亡(北はちょうど200年間存続) BC587 第二次バビロン捕囚で南滅亡(だからい(5)わ(8)な(7)いこっちゃない、と覚える。 ちなみに第一次はこの10年前のBC597) BC538 捕囚が解かれる(バビロン捕囚は第一次から数えて70年間) と覚えるといいでしょう。 日本の朝鮮半島支配は、1910/8/29-1945/8/15なので、35年よりちょっと短いんですが、開始年を1と数える数え年方式だと36年間になるので、韓国ではよく「日帝36年」なんて言ったりします。その伝でいえば、バビロン捕囚はエレミヤの預言(エレ25:11-12またエレ29:10、エズ・ギ1:55にもありましたね)に従ってよく「七十年」と呼ばれるので、第一次から数えたほうがいいでしょう。 捕囚が解かれたのは、捕囚をおこなった新バビロニアが(アケメネス朝)ペルシャ帝国に滅ぼされたからですが、聖書に出てくる王たちの名前は、 クロス(キュロス) BC550-530 カンビセス(カンビュセス) 530-522 ダリヨス(ダレイオス)1世 522-486 アハシュエロス(クセルクセス)1世 486-464 アルタシャスタ(アルタクセルクセス) 464-423 ダリヨス(ダレイオス)2世 423-404 です。例によって聖書がウソをついていることがあるので(たとえばエズ1:1によれば捕囚の解除はクロス王元年=550のはずですが、実際は538年ですから)、聖書の記述とは矛盾することがあります。そもそもエズラ記って、またそのときに言いますけど、王の順序を間違えてたりしますからね。 また、元年を含める含めないという流儀の違いで1年ズレることは珍しくありません。 で、ハガ1:1に戻りますが、捕囚が解除されて人々が帰還してしばらくは、政治的にはユダ(ユダヤ)総督ゼルバベル、宗教的には祭司ヨシュアという、二権分立的な指導体制になります。この二人の名前はビッグネームなので覚えておいてください。ゼルバベルはシャルテル(シャルティエル)の子、ヨシュアのほうはヨザダク(ヨツァダク、エホツァダク)の子という父称がよくつきます。オサマ・ビンラディンの「ビンラディン」に相当するものです。ビンラディンって「ラディンの子」ですから姓じゃないんですよ。 イエス様のご先祖の名前がマタイ冒頭とルカ3章に延々と書いてますけど、ゼルバベル(ゾロバベル)って出てきますよね。これがこの人です。だからゼルバベルはダビデの家系ということになります。ソロモンの家系かどうかはマタイとルカで違いますけど。 そろそろハガイ書の話。1章では神殿建設がなかなか進まないので、神様がじれったく思って催促しております。ハガイ、ゼカリヤ前半、マラキは基本的にこういう内容なので、浅見定雄先生はまとめて「歯がゆい(=ハガイ)ぜ(=ゼカリヤ)、まだか(=マラキ)!」と覚えさせています。 これが6/24(現在の暦で8/29)。2章では一ヵ月後の7/21の預言。出エジプトのときのことをあげながらゼルバベルとヨシュアをせっついています。そして9/24(12/18)。この日はダブルです。昔の民はけがれていたが、これからは今日以後のことだけ考えろ、と言ってます。昔の罪はチャラにしてくれるみたいです。そしてこんどは総督ゼルバベル向けに、お前をフォローしてやるぞと激励して終わります。 なお、次のゼカリヤ書の冒頭は、まるっきり同じ年の8月ですから、神様は6・7・9月にハガイ、8月にゼカリヤと、ふたまたをかけて言葉を託していることがわかります。 ●エズ・ギ2章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezg&chapter=2&mode=0 平行箇所はエズ4。神殿建設が敵の妨害にあって中断されるという話。正典エズラ記のほうでは敵の正体が不明ですが、エズ・ギのほうではサマリヤ人のせいにしています。 |
[927] コヘレト5-6章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/20(木) 10:12:54 ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ecc&chapter=5&mode=0 今日の5-6章は大きく入れ子になっています。 5章。最初は言葉のむなしさ。学生時代、キリスト教に関心をもっていた私が、どうしてもなじめなかったのが、人前でのお祈り。どうしてみんなあれだけ心のうちをべらべらと口に出して言えるんだろう。私なんかとても恥ずかしくてできない。キリスト教系のサークルや教会での集まりで、みんなで順繰りにお祈りする機会も多かったんだけど、祈れば祈るほど「適当に言っておけばいいや」と、ウソつきになってしまう自分に気がついて、教会とも縁遠くなってしまいました。そんなときに見つけて支えにしていたのが、マタ6:7-13のような「異邦人のように長々と祈るな。祈るときには主の祈り」だったんですけど、もう一つはコヘレトのこの言葉です。 7節(旧8節)からは富のむなしさ。お墓におカネは持って行けないっていう言葉がありますが、そのコヘレト版がコヘ5:14。人間は裸で生まれ、裸で死んでいくんです。 6章は今の話の続きといえます。どんなに財産を与えられ、地位を与えられても、病気になったり死んでしまったりすれば、結局その財産や地位を自分が享受することはできず、人のものになってしまいます。 そして6章最後はまた、言葉が多ければむなしいことも多い、と、ふたたび言葉のむなしさ。 結局言葉がむなしいというのも財産がむなしいというのも、神様の前では人は有限なものなのだということにつきています。どんな言葉を言っても人間は不完全なので実行できずに終わってしまったり、財産も使えずに寿命を終えてしまうということです。 |
[926] 詩編128-130編、エズ・ギ第1章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/19(水) 13:41:06 ここから閲覧 |
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●詩編128-130編 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=skd&book=psa&chapter=128&mode=0 今日のところではなんといっても130編「深き淵より」。どん底の状態でこそ主に切実に祈る様を簡潔に力強くうたいあげています。 これはルターの詩によるコラールが有名で、讃美歌1-258、讃美歌21-160などに入っています。讃美歌1-258は歌い出しが「深き淵より」でないのでわかりにくいですが、MIDIファイルを作ってみました。 http://www.babelbible.net/music/muse/h01258.mid (MIDI) http://www.babelbible.net/music/muse/h01258.mus (Muse) 歌詞表示機能のあるMIDI再生ソフトを使うと、歌詞を表示します。 バッハの曲ではカンタータ38番、それからオルガンコラールのBWV686、687に使われています。687の例は次で聞けます。 http://www.ayaori.net/music/portfoli/mp3/old/o410.htm ●エズ・ギ第1章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=skd&book=ezg&chapter=1&mode=0 エズ・ギの書名については[925]をごらんください。 エズ・ギは、ユダ王国が滅んで民がバビロンに捕囚され、そこから帰還して神殿を建設するまでの過程を描いたものですが、実は歴代誌下・エズラ記・ネヘミヤ記の内容の焼きなおし。ほとんど内容が同じなので、エズ・ギの真理子のおまけでは、歴代誌やエズラ記からコピペした部分もあるほどです。もとの3書を読むよりも内容がよくまとまっていて(たとえば今日の1章は歴代誌下では35-36章ぶんですから)、面白いエピソードも追加されているなど、こちらのほうが面白く、ヨセフスもユダヤ古代誌ではこちらのほうを参考にしているほどです。 さて、昨日おあずけにしておいた内容です。 ヨシヤ(南16。BC640-609) エホヤハズ(ヨアハズ。南17。BC609) エホヤキム(ヨヤキム。南18。BC609-598) エホヤキン(ヨヤキン。南19。BC598-597) ゼデキヤ(南20。BC597-587) ヨシヤは過越祭を復活させて盛大に祝います。また宗教浄化をします。ところが政治的には重大なミスを犯します。つまりエジプト王(エズ・ギでは名前がありませんがネコ王)と無謀な戦いをして負けてしまうのです。エズ・ギではなんとなく王の体力が弱ったことになっていますが、歴代誌のほうではエジプト軍の射手にうたれたことになっています。王はあわただしく戦地から帰還するとエルサレムで死にます。 ところが話はこれで終わりません。エジプトは次に即位したエホヤハズを認めず廃位させエホヤキムを立て、ユダ王国に罰金を課します。 こんどは新バビロニヤ(カルデヤ)のネブカデネザル(ネブカドネツァル)がユダ王国を攻め、エホヤキムをバビロンに連行、ついで立ったエホヤキンもバビロンに連行してしまいます。これが第一次バビロン捕囚。 ゼデキヤの滅亡のくだりはエズ・ギや歴代誌は、宗教的に主にそむいたことをあげていますが、列王記下24章ではネブカデネザルへの服従をやぶって反抗したことをあげています。エルサレムは徹底的に破壊され、民の多くは殺され、生き残った者も多くはバビロンに連行されてしまいます。これが第二次バビロン捕囚。 こうして七十年間、捕囚の苦しみが続きます。 それにしても思うんですが、捕囚時代の外国での民の暮らしが聖書にほとんど書かれていないのが不満です。わずかにエゼキエル書とかダニエル書とかエステル記とかトビト記あたりで想像するしかありません。エズ・ギも2章ではいきなりペルシャ帝国になって民が解放される話になってしまいます。 |
[925] エズラ記をめぐる書名の話 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/19(水) 10:47:43 ここから閲覧 |
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新共同訳で新たに採用された旧約聖書続編(外典)の「エズラ記(ギリシア語)」「エズラ記(ラテン語)」という奇妙な名前、たしかにヘンですけど(だってどのみち日本語に訳されてるじゃないの!)、私は支持します。だってこの二書にまつわる各聖書の書名はいままで大混乱状態で、私はいまだに間違えます。 しかもこの問題は続編のみならず正典のエズラ記、ネヘミヤ記もまきこんでいるのです。 このさい、ちょっとまとめておきましょう。 なお、( )つきの書名は長くなるので、以下、エズラ記(ギリシア語)はエズ・ギ、エズラ記(ラテン語)はエズ・ラと略し、この新共同訳の書名が各聖書でどうなっているかというのを聖書別にまとめます。 ●BHS BHSはヘブライ語原典ですから当然正典しかありません。 エズラ記=エズラ記・ネヘミヤ記(連続) ネヘミヤ記=〃 ヘブライ語聖書では長らくエズラ記とネヘミヤ記というのは1巻の本でした。もともとからそうだったかどうかは異論がある(たぶん本来は別)ものの、1書のような2書のような、微妙な関係です。そんなわけでBHSのp.1430では、エズラ記のあとにいきなりネヘミヤ記が連続しています。 ●LXX 七十人訳と呼ばれるギリシア語訳聖書です。ΕΣΔΡΑΣはギリシア語としてはエスドラスと読みますが、訳すときは「エズラ」でいいと思います。また、Αʹ、Βʹみたいに右肩にʹがついているのはアルファベットじゃなく数字ですので、A(エー/アルファ)、B(ビー/ベータ)のままにするのはかえってマズいです。 エズラ記=第二エズラ記の1-10章(ΕΣΔΡΑΣ Βʹ(1-10)) ネヘミヤ記=第二エズラ記の11-23章(ΕΣΔΡΑΣ Βʹ(11-23)) エズ・ギ=第一エズラ記(ΕΣΔΡΑΣ Αʹ) エズ・ラ=なし LXXではエズラ記とネヘミヤ記はまとめて第二エズラ記となっています。LXXを訳した時点でヘブライ語聖書でもこの両者が一つであった証拠です。そしてその前にエズ・ギが「第一エズラ記」として入っています。つまりはエズ・ギのほうが重要なんですね。エズ・ギはエズラ、ネヘミヤとかなり内容が共通しているので、ほとんど似たような本が二つ連続していることになりますが、まあ列王記と歴代誌、マカベア第一・第二みたいな例もあるし、いいのかもしれません。 ●ヴルガタ ラテン語聖書です。ラテン語聖書には他のバージョンもあるのですが、いまは実質的にこれがラテン語訳聖書の代名詞ですね。なお、Ezra(e)はドイツ聖書協会のヴルガタの表記ですが、Esdra(e)とかEsra(e)と表記されることもあります。ていうか、うちを含めて、聖書を掲載しているサイトって、タイトルはいい加減だったりしますからね。 エズラ記=第一エズラ記(Liber Ezrae I) ネヘミヤ記=第二エズラ記(Liber Ezrae II) エズ・ギ=第三エズラ記(Liber Ezrae III) ※付録 エズ・ラ=第四エズラ記(Liber Ezrae IVないしIIII) ※付録 エズラ記とネヘミヤ記をはっきり分けたのはヴルガタです。はっきり分けたと言っても、サムエル記の上下みたいなもので、現行のドイツ聖書協会の本では改ページなく続いているんですが、一応別物ということになっています。 ヴルガタには付録というのがあって、新約聖書よりも後に、カトリックで偽典とされた本、マナセの祈り、エズ・ギ、エズ・ラ、詩篇151、ラオデキア人への手紙が、この順に入っています。新共同訳の旧約聖書続編にはエズ・ギ、エズ・ラ、マナセの祈り、が入っているのですが、これらはカトリックでは偽典とされているので、カトリック版の聖書、たとえばバルバロとか光明社とかフランシスコ会訳には入ってません。「新共同訳」というとプロテスタントの人はついつい「共同した相手はカトリックのみ」と思ってしまいますが、実はこれらを使っているのは聖公会(一応プロテスタント)なんですね。 LXXとは第一、第二という付番のしかたが大きく異なります。ここからが大混乱のはじまりはじまり。 ●聖公会続編 戦前は「旧約聖書続篇」、戦後は「アポクリファ」という名前で、聖公会が出した続編のみの本。 エズ・ギ=エズラ第一書 エズ・ラ=エズラ第二書 この二書はなぜか冒頭に載っているのですが、付番の仕方が似てるようで違うようで、これまた混乱のタネになっています。 ●教文館・聖書外典偽典 新共同訳聖書が出るまでは、旧約外典を読もうとすれば教文館の「聖書外典偽典」を読むしかなかった(一応聖公会のアポクリファは出てましたし、講談社から部分訳はありましたけど)のですが、これがまたヘンな流儀です。 エズ・ギ=第一エズラ書 エズ・ラ(3-14章)=第四エズラ書 一、四という付番は、もともとの出典であるLXXとヴルガタに即しているといえば理屈は通りますが、問題は教文館の聖書外典偽典は最初の2章と最後の2章をカットしていること。これは、この4章が後代(キリスト教時代!)の加筆だからという理由で、学問的な訳ではまま見受けられる流儀です。しかもこのとき、最初と最後のそれぞれ2章を独立した本扱いして、しかもその言い方が、 エズ・ラ(1-2章)=第二エズラ記 エズ・ラ(3-14章)=第四エズラ記 エズ・ラ(15-16章)=第五エズラ記 だったり、 エズ・ラ(1-2章)=第五エズラ記 エズ・ラ(3-14章)=第四エズラ記 エズ・ラ(15-16章)=第六エズラ記 だったりと、これまた混乱のきわみになっています。 そんなわけでエズラ記をめぐる外典偽典の呼び方は混乱のきわみ。番号で呼ぶのが混乱のもとなんですね。内容に即して「エズ・ギ=エズラ記・三人の若者版」「エズ・ラ=エズラ記・黙示録版」なんていうのが誤りがないんですが、タイトルが長くなるし、タイトル捏造というそしりを受けてしまいます。ここは新共同訳のエズラ記(ギリシア語)、エズラ記(ラテン語)というのが無難だと思うので、今後はこの書名が定着することを切望します。 |
[924] 歴代誌下33-36章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/18(火) 10:04:43 ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=2ch&chapter=33&mode=0 今日で歴代誌は終了です。 9.アハズ、ヒゼキヤ、マナセ、アモン ヨシヤ、エホヤハズ、エホヤキム エホヤキン、ゼデキヤと即位して 南も滅んでしまったわ 南北の王名を覚える歌の最後の部分。ヒゼキヤの話が前回でおしまい。 今日はマナセ王から。ついでですから王名を列挙しておきます。 マナセ(南14。BC687-642) アモン(南15。BC642-640) ヨシヤ(南16。BC640-609) エホヤハズ(ヨアハズ。南17。BC609) エホヤキム(ヨヤキム。南18。BC609-598) エホヤキン(ヨヤキン。南19。BC598-597) ゼデキヤ(南20。BC597-587) 33章。マナセは南の最悪の王とされています。せっかくヒゼキヤが行った宗教浄化を無に帰し、バアルだのアシラだのを敬ったり、占いはやるわまじないはやるわ人身御供はやるわ、ありとあらゆる悪事を行います。 基本的に王下21と同じなのですが、歴代誌のほうでは、マナセが一時的にバビロンに連行されたことが書かれています。 次のアモンのときにクーデターが起こり、アモンは殺されてしまいますが、民はこのクーデターを支持せず、反乱した者たちを殺してアモンの子ヨシヤを即位させます。 34章。ヨシヤは宗教浄化を行い、大祭司ヒルキヤとくんで、主の宮から律法の書が発見されたというふれこみで、律法の徹底をはかります。「ユダヤ教は三度作られた」([786])で書いたように、それまでのイスラエルの民の信仰ははっきりいってさまざまな神を信仰していたのであり、ヤハウェはそのうちの一つでしかなかった。だからマナセがやったことは決して悪いことじゃありません。それがだんだんとヤハウェ中心の一神教の形に構築されていったのであり、その最初がヨシヤ王の時代というわけです。 ヨシヤ王の話は王下22にも書かれていますが、列王記になく歴代誌にしかない話としては、35章の「過越祭の復活」ですね。ユダヤ教の重要なお祭りである過越祭はヨシヤ王のときに盛大に執り行われ、以後つづいていくのです。 で、歴代誌下は35章・36章とあるのですが、みなさんしっかり読んでおいてくださいね。解説のほうはここで打ち切ります。え、なんでかって、実は明日読むエズラ記・ギリシア語の冒頭1章が、ほとんどそっくり歴代誌下35-36章なんですよ。ですから話は明日にまわします。 |
[923] 申命記10-12章、ベルと竜 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/17(月) 13:50:55 ここから閲覧 |
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●申命記10-12章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=deu&chapter=10&mode=0 10章。十戒をもう一度与えられたときの話ですが、9章には、約束の地を前に一部の民がひるんだ話があったので、時間的には前後しています。 心をつくして主に仕えることに加え、寄留の他国民を愛することを説いています。 11-12章。そして約束の地を前にして、律法を守ることを強調しています。内容は例によって、アシラ像などの先住民の神を拝んではならないということのほか、肉は食べてもいいが血は飲むなということが強調されてます。 血を飲むなんて野蛮で残酷なことは私はやらないですって? 私たちが肉の味だと思っている味の大半は、実は血の味なんですよね。血を全部抜き取った肉って、香りのついてないビーフジャーキーみたいなもの。ちょうど、冷蔵庫に賞味期限後数日間おいてあった肉がこんな感じになりますわ。 こんな律法をキリスト教が無効にしてくれたことを神に感謝いたします。 しかし思うんですけど、申12:29-30で、先住民を滅ぼしつくしたんなら、ふつうはそんな先住民の宗教なんかに関心持たないでしょうに、どうしてヤハウェくんはバアルだのアシラだのに過剰なまでに警戒するんでしょう? そして、どうしてイスラエルの民は、何度も何度も主の前に悪とされることを行い、バアルだのアシラだのにころぶんでしょうか。 ここは一つ発想を転換してみましょう。「イスラエルの民が悪に傾きやすい」んじゃないんです。バアルとかアシラっていうのは、うるさくて荒ぶるヤハウェくんなんかより何十倍も何百倍も魅力ある神様なんですよ。でなきゃ民が信仰するはずがありません。 最近思うんですけど、ユダヤ人がさっさとヤハウェくんを見限ってバアルとかアシラを信じるようになっていれば、キリスト教やイスラム教のありようもずいぶん変わったものになり、世界はもっと平和になっていたかもしれない、と。こういう挑発的なことも言ってみる私。 ●ベルと竜 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=dnb&chapter=1&mode=0 ダニエル書のもう一つの補遺。ヴルガタではダニエル書14章になります。 バビロニア人の信仰していたベル神と竜神の正体をあばく話ですが、ペルシアの支配になってからというのがミソで、たぶんバビロニアのままだったらそもそもダニエルが活躍する余地もなく、神様のカラクリが暴かれやすい環境ができあがった上での話なんですね。 それにしてもこの話はバカですね。実際にモノを食べられないからニセモノの神だっていうなら、ヤハウェだってそうでしょうが。ヤハウェなんかモノ食べられないから燔祭のいけにえは真っ黒こげになるまで焼いて、その煙を嗅ぐことしかできないんですよ。レビ記見るといけにえのおさがりを誰が食べるかっていうことが細かく決められているじゃありませんか。 後半、ダニエルがししの穴に投げられる話は、ダニ6と同工異曲で面白くありません。補遺をやるならもっと別の話を創作してほしかったわ。 |
[922] ヤコブ書4-5章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/16(日) 11:41:51 ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=jam&chapter=4&mode=0 今日のところは新約聖書の中でも過激なまでに人に行動をうながすスローガンに満ちあふれています。スローガンを書いて壁に貼っておきたい人にはとても便利なところです。適宜ことばを変えながらまとめますと、 ・欲望から戦争が起こる。ヤコ4:1 ・求めないから得られないのだ。 ヤコ4:2 ・世間におもねるのは神への敵対だ。 ヤコ4:4 ・神に従い悪魔に立ち向かえ。 ヤコ4:7 ・笑ってないで苦しめ、喜んでないで悲しめ、泣け。 ヤコ4:9 ・仲間の悪口を言うな。 ヤコ4:11 ・高慢は悪だ。 ヤコ4:16 ・やるべきことを知っててやらないのは罪だ。 ヤコ4:17 ・金持ちにはわざわいが降りかかる。 ヤコ5:1 ・主の来臨は近い。耐え忍べ。 ヤコ5:8 というような感じです。将来「聖書おみくじ」を作るときは、ヤコブ書からばんばんとっちゃいますわ。 山本七平キラー、統一協会キラーの東北学院大学の浅見定雄先生、年をとるごとにどんどん左翼的・過激になっていくのを、昔の私は不思議だと思ってましたが、今の私がそうですわ。原発にしろ格差デモにしろ小沢暗黒裁判にしろ、腹立たしくてしかたない。日本なんか滅んでしまえ、金持ちはみんな滅んでしまえ、貧乏な私たちは何も失うものはないのよ、なんて思ってますもの。そういう私がヤコブ書を読むと血沸き肉踊りますわ。 「笑ってないで苦しめ」については、この時代の人たちは笑いを敵視したみたいですね。悪魔から出るものだと。そういえば、福音書にはイエス様が笑った話が一切ないので、修道院では笑いが禁じられていたとか。でもよくよく見ると、実はイエス様って、今でいえばビートたけしみたいな感じの人で、かなりブラックユーモアのきつい人。実はキリスト教は健康的な笑いにもブラックな笑いにも満ち溢れているのです。宮田光雄『キリスト教と笑い』(岩波新書)を読みましょう。絶版みたいなんで修道会に入れてます。 |
[921] 使徒行伝11-12章、スザンナ 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/15(土) 13:34:50 ここから閲覧 |
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●使徒行伝11-12章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=act&chapter=11&mode=0 使11:28に、預言者が預言したききんがクラウデオ帝のときに起こったとあります。このききん自体は特定できないようですが、クラウディウス帝の在位が41-54年。さらに、12章ではヘロデ王による迫害と王の死が語られており、このヘロデとはヘロデ・アグリッパ1世(実際には王ではありませんがユダヤ・サマリアなどの統治権があったのは41-44年)ですので、そのころの話ということになります。 さて、今日のポイントはズバリ「クリスチャンの誕生」。つまりはキリスト教の誕生ということになります。使12:26「このアンテオケで初めて、弟子たちがクリスチャンと呼ばれるようになった」をめぐって読んでみたいと思います。 あれ、今までの話はキリスト教の話じゃなかったのでしょうか? そういうことになります。 キリスト教はある日突然できあがったのではなく、ユダヤ教の中の特異な派(ここでは便宜的にユダヤ教キリスト派と呼ぶことにします)が発展してできたものです。その発展が連続的であるために、どこからキリスト教なのかというのが非常に言いにくいのですが、せっかく聖書にこう書いてあるんですから、とりあえずここからということにしましょう。 では、キリスト教と、ユダヤ教キリスト派との違いは何なのでしょうか。 ズバリ、異邦人への伝道ということになります。 6章で、弟子たちが、ヘブライ語(実際にはアラム語)をしゃべる使徒を中心としたグループと、ギリシア語をしゃべるグループとに分かれてきたという話がありました。殉教者第一号のステパノはギリシア語派であり、このときに多数の弟子が迫害されますが、実はこれはみんなギリシア語派の弟子なのであり、ペテロなど使徒を中心とするアラム語派の弟子は無害だったんです。 そしてこれら迫害されたギリシア語派の弟子のその後が今日の使11:19にあります。彼らはピニケ(フェニキア)、クプロ(キプロス)、アンテオケなどさまざまな場所に行きましたが、そこにいるユダヤ人にしか宣教しません。ところがその中に、例外的にクプロ(キプロス)人やクレネ人がいて、彼らがユダヤ人以外のギリシア人に宣教して、異邦人信徒が増えたのです。こうした異邦人の多い教会がアンテオケに誕生、最初は例の、畑売り払いのバルナバが指導者として派遣されますが、手に余るようになり、サウロ(パウロ)を探し出して二人で指導します。 このグループが「クリスチャン」と呼ばれるようになったというわけです。 通俗的なキリスト教入門書には、パウロをもってキリスト教の開祖であると書くものがあります。高校の世界史や倫理の教科書、参考書類にもそういうものがあります。これに目くじらをたてて、パウロ一人が創始したのではなくほかにもキリスト教を作った人はいる、キリスト教の開祖は「教会」なんだ、ということを言う人がいます。 ユダヤ教キリスト派がいつからキリスト教になったか、その発展が連続的であって区切りがないことにこだわってしまうと、「キリスト教はいつ生まれたかわからない」という物言いが正解になるでしょう。しかしそれは私に言わせればクソ正解であり、ハッキリいって誤答です。それでは、いつ生まれたかが本当にまるっきりわからないヒンドゥー教や神道との区別がつかなくなります。それらとは違い、キリスト教は「いつ生まれたかは厳密には言いにくいけどだいたいこのあたりから」という起源はあるんです。連続的で切れ目のないものを留保をつけてばっさりと切ってしまうということは、歴史学ではよくあることです。 同様に、パウロ以外にもさまざまな人がキリスト教の成立にかかわったことをとらえて、パウロを開祖とすることに異を唱える意見もあります。しかしこれも私に言わせればクソ正解・誤答です。キリスト教の成立、ユダヤ教との決別にパウロが一番大きくかかわったことはパウロの書簡によって明らかです。パウロだけじゃないんだよねという留保をつけて、とりあえずビッグネームとしてパウロをキリスト教の開祖と呼ぶのは、許される適切なデフォルメです。 そう、デフォルメなんですよね。 このところ私は、『ふしぎなキリスト教』の橋爪大三郎を批判し続けています。間違いの多い本を出しておきながら、私の本は学術書ではなくデフォルメであり、批判する人は読む点を間違えている、とうそぶいています(キリスト新聞10/15)。 しかしデフォルメというのは、今日私が書いたような「パウロはキリスト教の開祖」みたいな書き方のことを言うんで、真実をえぐりだすためにあえて不正確な書き方をするというものです。カエルの心臓をいきなり見せつけられても、気味が悪いだけで何がなんだかわからない。それを、動脈を赤、静脈を青、単純なポンプのような形に図示することではじめてよくわかるのです。 これに対して事実の間違いはデフォルメというには値しないし、えぐり出されたものが本質と違うものになってしまってはデフォルメではない。橋爪はそこのところをわかっていないようです。 さて、アラム語派の筆頭、使徒の筆頭、ペテロの話ですが…… 実はペテロも10章で異邦人コルネリオとその近親者、周囲の人たちに宣教してるんで、そのことに対する弁明を11章前半でしています。もっともこれはアンテオケ教会のように組織的なものではなかったので、やっぱり「クリスチャン第一号」の称号はパウロ・バルナバの教会の信徒に与えられるものでしょう。そのペテロがヘロデ・アグリッパ1世に捕らえられ、主のみ使いによって助け出され、逆にヘロデが死んでしまうというエピソードが12章です。 ●スザンナ http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=dns&chapter=1&mode=0 正典では12章までしかないダニエル書は、前半6章まではおとぎ話のような奇跡物語などで楽しませてくれますが、後半はよくわからない黙示文学になってしまいます。それじゃ面白くないというのか、LXX(七十人訳ギリシア語訳聖書)およびヴルガタ(ラテン語聖書)では、ダニエルにまつわる「すざんな」「ベルと龍」の二つの物語を採録しています。なお、LXXではダニエル書と別扱いでダニエル書の前にスザンナ、後にベルと龍を独立しておさめているのに対し、ヴルガタではスザンナをダニエル書13章、ベルと龍をダニエル書14章としています。 水浴中の美女スザンナとエッチをしようとしたエロ長老2人は、拒否されて逆にスザンナを姦通の罪で告発、死刑になる寸前にダニエルが助けるという話。 この話を描けば堂々と女性のヌードが描けるので、美術でもいろいろとりあげられています。 http://artmight.com/jap/gallery/search/(keyword)/susanna Googleの画像検索でSusannaを検索してみてください。 最近、陸山会と小沢一郎さんの裁判のあまりのひどさに、日本の司法は死んだと思っています。ダニエルさん助けて。 |
[920] ゼパニヤ(ゼファニヤ)書(全) 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/14(金) 06:03:07 ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=zep&chapter=1&mode=0 前回のハバククと違って、ゼパニヤ(ゼファニヤ)はデータがしっかりしてますね。時代はヨシヤ(南16。BC640-609)王の時代。ゼパニヤはヒゼキヤ(南13。BC715-687)王の子の子の子の子というわけです。ヒゼキヤは今週歴代誌で読んだとおり、北滅亡直後に宗教改革をし、ヨシヤも南王国末期に宗教改革をした王様です(→[786]。ユダヤ教は三度作られた)。 ところがヨシヤ王のあとほどなくカルデヤこと新バビロニヤが攻めてきて南も滅びエルサレムは破壊されちゃうわけですから、まったくヤハウェくんはありがたみのない神様ですね。 この矛盾を解決するため、ヨシヤの先々代マナセ(南14。BC687-642)があまりに悪い王様だったので、この時点で南の滅亡は決定されたという理屈を立てているのが王下23:26、また、ヨシヤの宗教改革にもかかわらず、それが民になかなか浸透せず、バアルを拝み続けていた人が多かったという理屈もたてられており、それが今日読むゼファ1:4の「バアルの残党」うんぬんというところに出てきます。 そんなわけで神様は南を滅ぼすことを決定しています。「主の日は近いぞ」というのがゼパニヤ書のテーマ。十二小預言書の中ではヨエル書同様に主の日の光景を預言した本です。 黙示録的にこれでもかこれでもかと書かれておりますが、それでもゼファ2:1-3のように、まだ間に合うぞ、今からでも主を求めれば、怒りの日にもかくまってもらえるかもしれない、と説きます。 ユダの民が散らされるばかりか諸国民も滅ぼされる、そういう激しい主の日にかくまってもらった結果はというと、ゼファ3:10以降、わたしが散らした人たちもまた戻ってきて、「柔和にしてへりくだる民」(ゼファ3:12)だけが残り、エルサレムは回復する、というわけです。 こういう救いの喜びを強調するために、主の日のおそろしさが強調されているわけです。ヨハネ黙示録なんかもそうですけど、滅びの光景のおどろおどろしさばかりを見るのでなく、救いのすばらしさのほうに着目したほうがいいのでしょう。 |
[919] コヘレト3-4章、アザリヤ 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/13(木) 11:25:45 ここから閲覧 |
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●コヘレト3-4章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ecc&chapter=3&mode=0 3章1-8節は、いろいろなものに時がある、と言っています。徒然草155段の「世に従はん人は、先づ、機嫌を知るべし」 http://www.e-t.ed.jp/edotori3901/kk-tuyo3test.htm みたいで親近感がわきますが、コヘレトのほうは結局11節の「人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない」、つまり神のわざが永遠であるのに対しすべてのものは一時的なものでむなしい、ということを言っています。チャンスを生かして活用せよとか、時機を見ることが大切だとかいうのとは違います。こんな話が15節まで。 ついで、この世は不正だらけだという話がありますが、これも神のさばきの正しさとの対比です(16-17節)。そして、なんで不正が横行するかというと、人間は知性をもっていてもそんなものはむなしく、結局動物と変わらないということを神様から思い知らされているのだと説きます。 4章。さばきの不正ばかりでなく、つまり社会的な差別もあり、死者のほうがうらやましい、いや、まだ生まれない者のほうがうらやましいと言います。 そして、この世の苦労はむなしく、富もむなしく、権力もむなしく、権力者への人気もむなしい、と、世のさまざまなものを否定していきます。 そんな中で興味をひくのは、「一人より二人がいい」と説く8-12節。最後は毛利元就の三本の矢の話みたいですね。むなしいものだらけの中でも、人と人とのつながりというのは大事らしいです。 ●アザリヤの祈りと三人の若者の賛歌 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=dna&chapter=1&mode=0 ここから3回はダニエル書の補遺。まず今日の部分は、正典ダニエル書のダニ3:23とダニ3:24の間にはさまります。 カルデヤ(新バビロニヤ)の王ネブカデネザルの宮廷に仕えるユダ族のダニエル(ベルテシャザル)、ハナニヤ(シャデラク)、ミシャエル(メシャク)、アザリヤ(アベデネゴ)。彼らはカルデヤ名でそれぞれ( )内のように呼ばれています(今日の部分で、地の文ではカルデヤ名、祈りの中では本名が出てきますので、対応を知っておいてください)。ダニエルを除く3人は、ネブカデネザルの作った金の像を拝まないというので炉に投げ込まれますが、何も起こらず助かります。 その、投げ込まれてから助かるまでが、正典では何も書かれていないのですが、そこを埋めるのがこれというわけです。 内容的には、アベデネゴことアザリヤの祈り、それから炉に投げ込まれてからの三人の祈り、その途中につなぎの文が入っています。そのつなぎの文を除いた祈りは、詩歌7と詩歌8にそのまま転載されています。 三人の祈りのほうは、執拗なリフレインが印象的。もちろん炉の中でこんな長々とした祈りというのは非現実的なんですが、それを言ったら炉から生還するのだって非現実的なんで、ここは歌舞伎的な鑑賞法で、三人の役者の屋号でもかけながら「たっぷり!」と楽しむところです。 |
[918] 詩編125-127編 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/12(水) 13:18:17 ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=skd&book=psa&chapter=125&mode=0 今回のところでは何と言っても、127編の「主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい」でしょう。教会の新築とかリフォームのときに歌われるための歌が数多く作曲されています。ラテン語の歌い出し、Nisi Dominusで検索するといいです。代表的なのはモンテヴェルディのVerpro(聖母マリアの夕べの祈り)におさめられているもの。 (http://www.youtube.com/watch?v=BL_jF3AI9M8) 例によって3節は「嗣業」っていう業界用語が入っててわかりにくいですけど、「子どもは神からさずかったたまもの」くらいに読めばいいと思います。 交読文にも入ってますが、次の128編とセットにして、結婚式のときに読むものにしてるみたいですね。そのくせ今の「子は神から賜った嗣業」がカットされてたりします。ヘンなの。 |
[917] ヤコブ 投稿者=HK. J. 掲示日=2011/10/11(火) 20:47:55 ここから閲覧 |
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ややこしい、ヤコブの件ですが、英語の中の聖書の人名は、ギリシャ語・ラテン語・フランス語経由が多い中で、ヤコブは、みょうなことに、ヘブライ語的な読み方が旧約のほうで、「擦り切れた」ような崩れた形が新約のほうで定着してしまいましたね。 フランス語だと、Jacques で、ヤコブの跡形もありません。これが、英語のJack になるわけですが、フランス語のつづりでは語尾に-sが付いているのが、わずかに、ya"aqob >> Iakobos >> Iacobus と変化する中でくっついた -s を残していて、妙です。 最近のフランス語圏での聖書翻訳では、とくに共同訳では、旧約部分の人名・地名は、ヘブライ語聖書の綴りに従って、ヘブライ語風な言い方をするようになってきているようで、Traduction Oecumenique de la Bible や、la bible en francais courant などでも、比較的ヘブライ語風に(k、q、tzを残した綴り)するのが多いようです。 その流れに追随して、ものみの塔の新世界訳フランス語版も80年代の改定の時に、旧約聖書の書名、とくに十二預言書の書名がラテン語風な Abdias などからOvadyaに変わっています。日本語版は「主権者なるエホバ」とかが手直しされただけで、ほとんど改訂らしい改訂をしていないのと対照的。訳者の力量が、フランスと日本では差があるのでしょう。 |
[916] 偶像 投稿者=HK. J. 掲示日=2011/10/11(火) 20:32:08 ここから閲覧 |
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形ある人間製の「神」を大事にするというのは、神道の「依り代」(よりしろ)に近いのだと思います。 偶像それ自身には、あくまでもモノでしかないのですが、そのモノを通じて、人間と超自然の存在者とが直接コンタクトできるようになるという発想があるのだと思います。 そういうことを言うと、キリスト教の教えの、見えない聖霊によって見えない神に祈るという礼拝の仕方を否定することになるのが、異教徒との区別が付けがたいことになって、ダメということなのでしょうね。 ユダヤ人・古代イスラエル人は、聖所とその中にあるもの以外、目に見えるものに頼って、神(超自然の存在)と直接コミュニケートすることを禁じられていたのではないでしょうか? 同じ理屈で、サウル王がエンドルの霊媒師を通じてサムエルの霊と交信しようとしたのも、偶像ではないけれども、許されているやり方以外の方法で、超自然の、しかも目に見える形で現れる霊とのコミュニケーションを試みたからYHWHの神の視点では、アウトだったのでしょう。 |
[915] 歴代誌下29-32章、エレミヤの手紙 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/11(火) 11:03:07 ここから閲覧 |
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●歴代誌下29-32章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=2ch&chapter=29&mode=0 9.アハズ、ヒゼキヤ、マナセ、アモン ヨシヤ、エホヤハズ、エホヤキム エホヤキン、ゼデキヤと即位して 南も滅んでしまったわ 南北の王名を覚える歌の最後の部分。今回はヒゼキヤですが、なんと32章まで延々と4章ぶんこの人の話が続きます。南北の王の治績をかけ足でおいかけてる列王記でも、18-20章まで3章ぶん費やしています。非常に重要な王様というわけです。なにしろ王下18:5によれば、「彼のあとにも彼の先にも、ユダのすべての王のうちに彼に及ぶ者はなかった」というくらいですから。 列王記のほうをかいつまんでいうと、 ヒゼキヤの治世6年目にアッスリヤ(アッシリア)の王シャルマネセルがサマリアを落とし、北が滅びます。その後、アッスリヤの次の王セナケリブ(センナケリブ)がユダ王国を攻め、ヒゼキヤは大金を払いますが、アッスリヤは攻撃の手を休めません。ヒゼキヤがエジプトを頼りにして抵抗をしているからです。エルサレムを包囲したアッスリヤのラブシャケは投降を勧告(このときユダ王国側は、ヘブライ語で言うと民もわかっちゃうからアラム語で言え、なんていうお願いをしたりします)。ヒゼキヤは預言者イザヤに助けを依頼、お祈りをすると、主の御使いがアッスリヤの陣営で185000人も兵士を殺し(実際は疫病でも発生したのでしょうか?)、難を逃れます。ついでにセナケレブ王が謀反で殺されちゃうという落ちもつきます。 ヒゼキヤは死ぬときもイザヤに助けを求めます。イザヤは難色を示しますが、その後イザヤに主の言葉が臨み、ヒゼキヤを助けよう、ついてはそのしるしに時間を戻らせよう、と言います。 列王記のほうはこの2つのエピソードしかありません。 こんどは歴代誌のほうです。 29章。ヒゼキヤは即位するとさっそく(第一年の一月!)先代アハズ王がけがしてしまった神殿を浄化、神殿のいけにえが回復します。 30-31章。ついでヒゼキヤは過越祭を復興します。ユダのみならずイスラエルなどからも大勢の人が参加します。 32章。アッスリヤの攻撃の話と死に際してイザヤの助けを願う話。この章は上記の列王記の話と同じですが、日時計(時間)を戻らせた話はハッキリ書いていません。あと、治水工事をしたという話は歴代誌特有事項です。 ●エレミヤの手紙 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=let&chapter=1&mode=0 ヴルガタ(ラテン語訳聖書)ではバルク書6章。バビロンに連行されていく民に対して、あっちには偶像が多いから気をつけろと警告したエレミヤの手紙という体裁で、偶像のむなしさを延々と説きます。要は、偶像なんて人間が作ったものに過ぎず、何もできないものなんだよ、ということ。 旧約聖書やクルアーンなどで展開されてるこの手の偶像批判ですけど、現代人にとっては逆にバカバカしすぎて批判になってないという気がします。いくら古代人だって、偶像に命があると思って祈っていたはずはありません。 仏教徒は仏像を拝むので偶像崇拝ってことになってるらしいですが、仏像が即仏様であるなんて思っていません。以前に韓国語の勉強で見た映画『達磨と遊ぼう』、ヤクザたちが山寺に逃げ込み僧侶たちといざこざを起こすのですが、やがて信仰心に目覚め、仏像の掃除を始める。ところが不注意で仏像をこわしてしまう。若い僧侶たちが「やっぱりあいつらを追い出せ」というのに対して住職が「お前たちは仏像に魂があると思ってるのか」とたしなめるシーンがありました。偶像崇拝者だってこのくらいのことは知ってます。偶像は目に見えない神など超自然的なものを目に見える形にしたシンボルにすぎないと思ってます。ただし、だから粗末に扱っていいというわけではなく、シンボルであるがゆえに丁寧に扱う必要はあるんですけど。 一万円札と同じ。これ自体はただの紙切れですけど、一万円という交換の機能を持つシンボルであり、紙切れだからといって粗雑に扱ってしまうとおカネに対してルーズになってしまうので丁寧に扱ったほうがいい、というようなものです。 そんなわけでキリスト教では偶像は重要です。東では「立体的な像は禁止」ってことになってるみたいですが、西では立体的なものもOK。信仰に役立てています。 |
[914] 申命記7-9章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/10(月) 11:30:59 ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=deu&chapter=7&mode=0 7章はヤハウェくんの「荒らぶる神」ぶりをよく示してますね。これから入る土地には7つの民がいるから殺して殺して殺しまくれ。何の憐れみも示してはならない。おいらがこいつらをお前たちの手に渡したんだから、「かわいそうだから助けてあげよう」なんていうのはヤハウェくんへの裏切りになるのです。情け容赦なく殺しまくらねばならないのです。ああ怖いわ。 そして8章では、これから入る土地がいかにすばらしいかの宣伝になるのですが、申8:3の「人はパンだけでは生きず」というのが、例のイエス様の荒野での試練のときのセリフ(マタ4:4)の出典になってます。この言葉は普通、芸術とか文化とか腹のふくれないものだって必要だ、という話で使われますけど、もともとは「人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるため」に「マナをもって、あなたを養われた」という文脈で使われているのです。佐藤優は、「稼ぎに追いつく貧乏なし」つまり「パンがなくったっていざとなれば神様はマナをふらせて救ってくださるさ」という意味だとしてますが、それもちょっと違う気がする。その前には、おまえたちが本当においらの命令を守るかどうか、神様は40年間おまえたちを試みたっていう話があるじゃないですか。だから生かすも殺すも神様しだい、神様が生きろといえばわれらは生き、死ねといえば死ぬ。パンによって生きるんじゃなく、神様の命令・意志によって生きるんだってことです。 9章は、モーセが律法を賜ったときに民が裏切って偶像を作っちゃったことの回想ですが、「四十日四十夜、主の前にひれ伏し、パンも食べず、水も飲まなかった」っていうのは、都合3回なんですね。律法を賜る前(申9:9)、民が偶像を作っちゃった後(申9:18)、そしてずっと下って、約束の地を前にして民がひるんで裏切っちゃったとき(申9:25)というわけです。イエス様の四十日の試練というのも、こういうモーセの試練の延長にあるんですね。 |
[913] Re[2]:詩篇117のリフレイン 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/09(日) 18:45:13 ここから閲覧 |
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そういえば、新共同訳朗読CDの詩編はFEBCの吉崎恵子さんです。 http://www.febcjp.com/main/index.html 新共同訳朗読CDは、朗読者名を明かすと諸方面にさしさわりがあるのか、みんな匿名ですけど、吉崎さんは昔FEBCの放送中にリスナーから突っ込まれて告白していました。 たぶん列王記も吉崎さんだと思います。 |
[912] ヤコブ書1-3章、バルク書5章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/09(日) 07:39:35 ここから閲覧 |
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●ヤコブ書1-3章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=jam&chapter=1&mode=0 今まで読んできた手紙はパウロの作ったもの。もちろん中には、現在の聖書学ではパウロ作でないとされるものも半数ほどありましたし、ヘブル書みたいに当初からパウロ作というのが疑われ続けてきたものもありましたが、そういうものも含めて何かしらパウロ作ということになっていたものでした。 ここからは、100%パウロの作ではない手紙です。 「ここからは」と言いましたが、東方正教会では新約聖書の順序が違い、使徒行伝の次がヤコブの手紙で、ユダの手紙のあとにローマ人への手紙などパウロ作とされる手紙が来ます。パウロ作→非パウロ作が西方の流儀、非パウロ作→パウロ作が東方の流儀です。順番なんてどうでもいいじゃないかというかもしれませんが、パウロの活躍を記した使徒行伝のあとにパウロ作の手紙を読むと、パウロの偉大さがかなり強調されるのに対し、東方の流儀ではパウロの役割がかなり相対化されます。 では西方も一枚岩かというとそうではありません。ルターが順序をいじくったのです。ルター訳聖書では新約の最後のほうは、1ヨハ→2ヨハ→3ヨハ→ヘブル→ヤコブ→ユダ→黙示録という順序になっています。最後の4書をルターが嫌ったのです。ルターは「聖書のみ」なんて言うくせに、けっこう聖書に批判的で、彼の考えでつまらない、くだらないとされる書を最後に持ってっちゃったのです。 ヤコブ書をルターが嫌ったのは、ヘブル書と同じく、イエス様をあまりに強引に旧約の枠組みにあてはめてしまってちっとも福音的でないということです。ヘブル書は、11章がよく説教ネタになりますが、そこまではイエス様を大祭司としたいあまり、じゃなんでイエス様はレビ族じゃなくユダ族なのか、ユダ族から大祭司が出ていいのか、という、どーでもいい話を延々としていました。ヤコブ書は、律法重視、行い重視の姿勢が強すぎて(ヤコ2:24みたいに)嫌ったみたいです。 ヤコブ書は、英語圏ではThe General Epistle of Jamesのように「ジェームズ書」になります。ヤコブがなんでジェームズになるのか、一応言語学的な発音変化で説明がつくらしいんですが、あまりに違うのでびっくりします。じゃ旧約に出てくるヤコブはというとJacobなので、英語では、旧約(新約で引用されたものも含む)=Jacob、新約=Jamesという使い分けがなされています。 来年度(本年12/12)の通読からは、ばべるばいぶるでサポートしているすべての書。イミタチオとかクルアーンとかモルモン経も読みます。モルモン経にはThe Book of Jacobっていうのがあるんですね。日本語ではモルモンのThe Book of Jacobを「ヤコブ書」と訳すのでたいへん紛らわしく、新約のほうを「新ヤコブ書」なんて言ってます。紛らわしい書名にしやがって、しかも聖書のほうを「新」とするなんてけしからん、と思いますけど、英語民にとってみれば、JacobとJamesは全然違うので、そんな意識はまるでないでしょう。 ●バルク書5章 http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=bar&chapter=5&mode=0 最後はかなり短いですが、エルサレムに民が帰還して栄光が回復したさまを高らかに歌い上げて、バルク書は終了。もっともカトリックでは、あさって読む「エレミヤの手紙」をバルク書6章としています。 |
[911] Re:詩篇117のリフレイン 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/08(土) 18:49:20 ここから閲覧 |
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117って、ヴルガタやLXXの番号でいう117ですよね。BHSだと118ですよね。 あ、HK.J.さんってたしかカトリックの大学でしたっけ。なら117と言ったほうが親しみがあるわけですね。 |
[910] 使徒9-10章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/08(土) 14:38:31 ここから閲覧 |
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=act&chapter=9&mode=0 9章はパウロの回心。キリスト教徒を迫害し続けてきたパウロ(当時はサウロという名前ですけど)にイエス様が現れ、目が見えなくなります。そしてこんどはアナニヤの所にイエス様が現れ、彼の手引きによって目が見えるようになります。「目からうろこが落ちた」という表現の出所です。 アナニヤというのは5章で麻原ペテロにポアされてしまった人物と同じ名前ですが、特にそのこととの関連はなさそうです。逆に、パウロのもとの名のサウロというのはちょっと意味ありげ。ダビデ王の前の王と同じ名前ですね。二人ともベニヤミン族でした。 ところでパウロは後になってこのときの体験をべらべらしゃべるのですが、そのたびごとにちょっと違ったことを言ってます。それは出てきたときに指摘しますが、とりあえずここでは使9:7の、同行者たちはイエス様の声を聞いたが姿を見なかった、ということを覚えておいてください。 ちょっと前まで迫害をしていた人物を仲間と認めるにはさぞや抵抗があったと思いますが、使9:27のバルナバ(使4:36で畑を売り払って教団に献金した人物)の手引きで受け入れられます。 9章後半はペテロのいやしの行為が2件書かれていますが、最初のほうのアイネヤは中風。これって差別語なんですかね。「ちゅうぶ」でも「ちゅうふう」でも変換できないわ。DHCから出ている聖書『聖書から差別表現をなくす試行版』では、「体が麻痺し」になってるわ。 10章はコルネリウスへの伝道の話。彼はローマ人で、ユダヤ教への改宗者でもなく、割礼も受けておらず、まるっきりの異邦人。そういう人物への伝道ということで、キリスト教が単なるユダヤ教イエス派から独立した宗教へと発展していきますが、食事の問題や交際の問題など、今後出てくるいろいろな問題の前兆がここで出てきます。 |
[909] ハバクク 投稿者=HK. J. 掲示日=2011/10/07(金) 23:27:54 ここから閲覧 |
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mixiに「ハバクク書がみつからない!」というコミュがありますが、わたしの場合、聖書すべての中でもっとも好きな聖句は、ハバクク3:17,18です。 クリスチャンでも、「ハバクク」という名前を知らない人もいるようですが、マルティン・ルターが再発見した「義人はその信仰(誠実さ)のゆえに生きる」というローマ人への手紙の中での引用部分が、実質、宗教改革のきっかけになったことを知ったら、ハバクク書の重要さが見直されてもよいのではないかと思います。 |