[真理子日曜学校 - 真理子の生活と意見(フレーム表示) ]
聖書を比較する
- なぜこんなサイトを?
たとえクリスチャンであっても普通の人は聖書なんて1種類しか持ってないと思うんですけど、真理子は昔から聖書のコレクターでした。高校時代にすでに口語、文語、新改訳を持ってましたから。人からは「クリスチャンでもないのにそんなにいっぱい買うなんて」とからかわれたものです。それが昂じて今ではいろんな聖書を比較対照するサイトまで作っちゃうんですからね。
もちろん、真理子が語学ヲタだからさまざまな言語の聖書を集めてるんですけど、現代日本語だけでもいろいろ持っているわけですから、それだけが理由じゃありません。
真の理由は、「いろんな種類の聖書を読み比べることこそ、真理子の聖書の読み方だから」だと思います。
- 原文だからいいというわけじゃない
聖書の場合、「原文」というものが果たして実在するのかどうかは大いに疑問です。著者の自筆原稿なんて1字も残っていません。写しに写され、写し間違いが多数混入した写本しか存在しません。ギリシア語の新約聖書もヘブライ語の旧約聖書も、その原文といわれるものは、多くの学者が大変な努力を集積してそうした写本を吟味し再構成したものでしかありません。特に旧約聖書の場合、イエスや弟子が見ていたものは、たとえヘブライ語であったにせよ今のものとは違う可能性がありますし、新約聖書の著者たちが見ていたものはギリシア語に翻訳されたものかもしれません。
仮に原文なるものが実在したとしても、原文さえ読めば足りるわけではありません。原文の言語が文法的に不明確な場合は、翻訳のほうが意味がよくわかるということがありえます。
たとえばギリシア語では、単純疑問文は平叙文とまったく同形であり、読むときはイントネーションで、書くときは疑問符の有無で区別しますが、昔の写本では疑問符はないほうが普通なので、あらゆる平叙文は疑問文である可能性が発生します。たとえばマコ15:39の隊長さんの「まことに、この人は神の子であった」は「本当にこの人は神の子だったのかよ?」という、否定のニュアンスの強い疑問文である可能性もしばしば指摘されています。いずれにせよこういうところは、平叙文と疑問文の区別がはっきりしている言語に翻訳されることによって、意味がより明快になるわけです。
- 完全な翻訳なんてない
その一方で、翻訳は一つの解釈でしかありません。上記のマルコの言葉を平叙文と解釈するのか疑問文と解釈するのかは、最終的には翻訳者の解釈で決定されるのであり、別の解釈による別の訳が成立する可能性を秘めているわけです。
聖書の翻訳は長い歴史の成果の上にたって行われるわけですし、集団作業も珍しくありませんから、普通の本に比べれば誤訳は非常に少ないと思いますが、「誤るのが人の常」というわけで誤訳の可能性は絶えずあります。意図的な、あるいは無意識による曲解もあるかもしれません。
新教出版社から出ている聖書ワークブック『GOOD NEWS 新約聖書』『EXODUS 旧約聖書』(どちらも福島旭著)では、同一の箇所の日本語訳を多数掲げて、どれがいいかを考えて「自分訳」を作るコーナーがあります。こういうことをすると翻訳によって解釈が分かれている部分が素人にも一目瞭然です。ギリシア語もヘブライ語も知らず、いや英語すら知らなくても、翻訳を比べて直感で自分訳を作ると、案外それが真実の訳になるかもしれません。
- 翻訳の歴史を尊重
新約聖書はイエスや弟子たちが用いなかったギリシア語で書かれるというふうに、旧約聖書もキリスト教の聖書になるにあたっては七十人訳というギリシア語訳が主に用いられたように、その当初から翻訳と切っても切れない関係があります。翻訳の歴史は、真理子が繰り返し畏敬の念を表している「聖書にはヘンなところが多数あるが、そういうヘンな部分をも正しく受け継ごうとしてきた先人たちの努力」そのものです。だから真理子はばべるばいぶるを作って、そういう歴史を追いかけつつ、さまざまな翻訳を比べることで聖句の真実に迫りたいのです。