[真理子日曜学校 - 真理子の生活と意見(フレーム表示) ]
 

聖書の読み方


 
  1. ではどうするか
     「聖書無謬説に反対します」の終わりのほうで「聖書は取り扱い注意」と書いたわけですけど、では聖書はどう読めばいいのでしょうか。真理子にもまだ答えは出ていないのですが、とりあえず今のところの考えを書いておきます。

  2.  
     
  3. 聖書にはウソがあることを認めよう
     およそ書かれたものは事実そのものではありません。現実世界は無限です。無限のことををありのままに書こうとすれば、やっぱり無限の文字を費やさねばなりません。ですから何が重要であり何が重要でないかという書き手の価値基準にしたがって、重要なものをとり重要でないものを捨てる。この段階で書かれたものはすでに事実そのものではなくなるわけです。さらに、重要だと思って選択したものを強調すればするほど、書かれたものはウソになっていきます。
     聖書だって書かれたものである以上、事実そのものではありえず、どうしたってウソになります。それは全く当然のことです。まずは「聖書にもウソがある」ことを素直に認めましょう。

  4.  
     
  5. でも信じられてきたことは真実
     では、ウソは価値のないものなのでしょうか。必ずしもそうとはいえません。たとえ事実に即した言説でも、誰も知らず、あるいは知っていても信じず、人々を動かさなかったのであれば、そんな言説はなかったも同然です。逆に、事実を誇張したりゆがめたり、あるいは全く事実に基づかないことであっても、それが広く知られ信じられ、人々を動かしたのであれば、それは人類の精神史上重要な言説ということになります。井沢元彦さんが『逆説の日本史』など著書のあちこちで何度もおっしゃっているように、「××が事実であると信じられてきたかどうか」は「××は事実か」と同等に、いやそれ以上に重要なのです。特に宗教という精神文化ではなおさらです。
     たとえば、今の人にはなじみがないかもしれませんが、昔の人には百円札の肖像画でおなじみだった板垣退助が、暴漢に襲われたときに言ったとされるせりふ「板垣死すとも自由は死せず」は、昔は小学校の教科書にさえ載っていました。が、後にこれが新聞記者の創作であるという有力な説が出され、今ではほとんど載っていません。しかしこのせりふが板垣の人物をよく表し自由民権運動の象徴として当時広く宣伝され、それが日本の民主主義を育成したのですから、この言葉は歴史上非常に重要であるといわざるをえません。
     今の日本史の教科書にはあの有名な聖徳太子の肖像も足利尊氏の肖像も(下図)本人でないという説が有力となり、載ってないらしいです。しかし、これらが聖徳太子や足利尊氏の肖像だと信じられてきた歴史を尊重すれば、「伝聖徳太子」「伝足利尊氏」としてでもちゃんと載せて教えるべきだと思うのですが、いかがなものでしょう。
     
     

  6.  
     
  7. 頭の中にのみ存在していても「実在」する
     関連していうと、「ある」というのは実際に見える形をともなって「ある」というあり方だけでなく、頭の中にのみ存在するあり方だってあります。
     たとえば、ソロバンの達人は実際のソロバンがなくても計算ができるようになります。見ていると指先を動かしている人もいますし、それすらしない人もいますが、いずれにせよ頭の中に描かれたソロバンのタマをはじいているのです。
     この人に向かって、「ソロバンは実在しない。あなたは単に暗算をしているだけだ」と言っても全く無意味です。これは「暗算」とは違うのです。頭の中にちゃんとソロバンがあるのであって、その人はあくまでソロバンを用いて計算しているのです。

  8.  
     
  9. だから神様もイエス様もいる
     この考え方からすれば、イエスにまつわるさまざまな奇跡は、それが事実かどうかは別として(事実ではないでしょう)、それが信じられてきたこと自体は誰にも否定できません。
     歴史のイエス様は復活もせず、熱烈な信徒が死体を持ってっちゃっただけだと思います。たぶんその信徒はあの世でイエス様から怒られているに違いありません。「お前がヘンなことしたから復活信仰が起こっちゃったぞ。どうしてくれるんだ」なんてね。でも復活信仰が猛然と巻き起こり、わずか数十年で大ローマ帝国じゅうにキリスト教が広まっちゃったことは、誰も否定のできない歴史の事実です。そして当時の信徒、いや現代の信徒にとっても、ソロバンの達人の頭のなかにソロバンが実在しているのと同様に、神様やイエス様が実在しているのです。

  10.  
     
  11. 何がいいたいのかをマクロ的にとらえる
     ですから聖書の個々の記述自体はウソであってもかまわない。そういうウソによって聖書の筆者が何を私たちに伝えているのかが重要なのです。フィクションというウソによって人生の真実を描くなんて、文学でごく当たり前にやってることじゃありませんか。聖書だってそういう読み方をすればいいのです。
     しかし、言うは易く行うは難しで、聖書の一つ一つの箇所について、文字通りにとらえるのでなく、そこにこめられたメッセージを読み取るのは、大変難しい茨の道です。さまざまな人生経験を経ないと答えが出ないことのほうが普通です。真理子も時々、「ファンダメンタリストのほうがどんなにお気楽かしら? 最初からすべて事実っていう結論が出てるんだから。コジツケなんていくらだって出来るし」なんて思ったりするほどです。
     でもあえて真理子は茨の道を通ります。
     聖書を読むことは、真理子の人生を賭けた戦いなのよ。

  12.  
     
  13. 疑問を持ちながら読み、おかしいことはおかしいと言う
     聖書にはウソ、誇張、思い違いなどがいっぱいありますし、書かれた当時の慣習や通念に従って、差別も偏見もいっぱいあります。また、語り継がれ書き写されるうちに、伝言ゲームのように間違いが多数混入しましたし、複数の文書が一つにまとめられるということもありましたし、しかもそれがヘタクソな編集なために意味が通じなくなっている部分もあります。
     聖書って所詮そんなもんだと思っていれば、読んでいくうちに疑問な点にぶちあたっても「またか」という感じで気楽に接することができるでしょう。おかしいことは「おかしい」と堂々と言えるでしょう。そういうふうに言うことは、あなたの信仰とは決して矛盾しないはずです。聖書は、全体としては汲めども尽きない真理の源泉ですけど、個々の部分にはいっぱいヘンなところがある本なんですから。
     ただし、その疑問を忘れないで覚えておくことにしましょう。あなたがさまざまな人生の経験を経ていけば、そして何度も何度も聖書を読み返していけば、ひょっとしたらその疑問は解決するかもしれませんから。でも、無理に解決しようと牽強付会のコジツケをすることはやめましょう。

  14.