[真理子日曜学校 - 真理子の生活と意見(フレーム表示) ]
聖書の言葉狩りに反対します
- 聖書の言葉狩りに反対します
真理子の考える聖書の読み方に入る前に、ついでながら書いておきます。
20世紀後半からの困った風潮として、差別語、不快語の言い換えという問題があります。
すべて言葉は文脈によってはじめて意味をなします。文脈ぬきの差別語なんてありません。差別語とされる語を使っていても差別の意図のない美しい文章は書けますし、邪悪な人なら差別語を一切用いないで差別に満ち溢れた文章を書くことが可能です。差別語の機械的な排除を真理子は言葉狩りだとみなして反対します。
しかもこともあろうに、言葉狩りを聖書の翻訳でやることには徹底的に猛烈に反対します。なぜなら何度も繰り返しているように、真理子の聖書信仰の根幹は「聖書にはウソも悪徳も差別も満ち溢れているけど、そういう部分を編集せずに受け継がれてきた歴史の重みに敬意を表する」ことだからです。千何百年間もこのような形で大切に受け継がれてきた聖書の言葉を、たかがこの数十年の風潮に合わないからといって安易に変えてしまうなんて、あなたはいったいどういう資格で神様の言葉を勝手に変えようとしているのですか? まったく神をも恐れぬ不信心なやからです。
ついでながら言葉狩りは日本だけの風潮ではなく、世界的にいろいろあるようです。アメリカの例については田川建三『書物としての新約聖書』にいろいろ書いてあります。神様に仕えるクリスチャンでも神様の言葉を大切にできない、20世紀はそういう罪深い末世なのでしょう。
- 言葉に鈍感なクリスチャン
「言葉狩りに反対」「聖書には悪徳も満ち溢れている」話はさんざんやりましたので、あと1点、別の視点から聖書の言葉狩り問題を考えてみましょう。
言葉狩りに賛成(あるいはしぶしぶ承認)の立場の意見としてよく聞かれるのは、「差別語を使うことによって知らず知らずのうちに差別の心が生まれてしまう」というものです。
たとえば「障害者」問題。昔はこれ、「障碍者」と書かれており、これが漢字制限によって「害」というおぞましい漢字に変えられてしまったのはまことに問題であり、知らず知らずのうちに障害者を害悪ある者とみなす考えが生まれてくる、という主張があります。クリスチャンの書いた文章の中にも、「障害者」でなく「障碍者」ないし「障がい者」と表記しているものがちらほらあります(実例をあげようと思いましたがブログなどの一時的なものが多いのでリンク切れになる可能性が高く、ご面倒様ですが検索エンジンで「障がい者 キリスト教」などとして検索していただくのが確実です)。
この書き換えの愚かさについてはわき道にそれるのでこのページの末尾であらためて論ずるとして、奇妙なのは、そういう言葉に敏感なお方々が、聖書の中にある鈍感な訳語にはまことに鈍感である、ということです。
たとえば「罪」。人間をすべて罪びととみなす考えにつまづくキリスト教入門者も多いらしく、「キリスト教でいう罪っていうのはね、人間が知らず知らずのうちに神様から離れてしまうことを言うんですよ」などという説教をよく聞きます。じゃぁそう言えばいいじゃない。「はぐれ癖」とか。それを「罪」と言い続けるのは、「障碍者」を「障害者」と書いて無頓着なのとおんなじじゃない?
あとは「心の貧しい人は幸いである」(マタ5:3)。日本語で「心の貧しい人」っていうと「度量が小さい人」とかいう意味になって原語の意味とかなり違うので「心が満たされていない人」みたいに意訳したほうがいいとも思うんですが、意訳はよくないという意見や、これはこれで定着しているのだから変更不要という意見もあります。真理子も「正しい意味を知ってて心の貧しい人というならそれはそれでいい」とも思います。が、だったら「障害者」だって、「害って書いてるけど害って意味はないんだよ」と思って使えばいいじゃないですか。
このように聖書にだってキリスト教にだって、誤解を招きやすい用語はいろいろあるんだから、言い換えよっていうならまずは足元のこういうところから言い換えればいいのにそれをやらない。兄弟の目にあるおがくずを見て自分の目の中の丸太に気づかない(マタ7:3)というのは、クリスチャンも同様よねって思います。
- 聖書に差別があることを認めよう
新共同訳や新改訳のように多くの教会で現役で使われている聖書は、教会にはいろんな考えを持った人がいるので、論議を招きそうな差別語を使えないっていう、やむをえない事情はわかります。
が、もし聖書の言葉狩りを「やむをえない必要悪」という意識なく、一字一句が誤りなき神の言であるから差別語が入っていてはいけないなどと、ファンダメンタルな立場からやっているのだとすれば、ますます真理子は徹底的に反対します。
ちゃんと聖書を読みましょう。聖書には差別がいっぱいあります。パウロや初代教父たちの書翰の中に見られる女性蔑視は女性として耐え難いものです。言葉狩りをするんだったらまずはこういうところから徹底して狩ったらいかが? 旧約聖書も新約聖書もかなり薄っぺらくなっちゃうことでしょう。持ち運びには便利になるかもしれませんけど、私だったらそんな聖書、ありがたくも何ともないわ。
また、レビ記ではハンセン病以外に、明らかにハンセン病でないカビのようなものまで一緒くたにツァラアトとしています。それは、当時の誤った科学的知識によって書かれているのです。聖書を科学の書だとでも思っている人は、こういう点からも言葉狩りをしたくなるのでしょうが、聖書を読むときには言葉の背後に込められたメッセージをこそ「真実」とすればいいのであり、レビ記の医学知識のように事実レベルでは誤りがいっぱいあることを認めるべきです。そして、ハンセン病もカビも一緒くたに、呪われたおぞましい病気と考えてきた歴史の重みを尊重すべきです。それこそが真に聖書を尊重することなのです。
- 現役聖書の言葉狩りの跡
新共同訳、新改訳、口語訳などの現役聖書の言葉狩りの跡は、それぞれまとまっていますので参照してください。- 口語訳
- 新共同訳
- 新改訳(改訂前の表現ナシ)
当ばべるばいぶるのデータは、口語訳はこの言葉狩りを行う前の段階になっています。新共同訳、新改訳は、言葉狩りされたものが現在通用している文になっている以上、わざわざ元に戻すことはしません。適宜この表を見てください。
- なぜ「障がい者」への書き換えが邪悪か
おまけで、上記に書いた「障碍者」「障がい者」などの表記への批判をしておきます。
まず「碍」は実は「礙」の俗字であり、漢語大詞典にも載ってません。「礙」は「行く手をはばむもの」という意味があり、何か行動をしたいのに体にそれを阻むものがあってできない人という意味で「障碍者」という語が生まれたものと思われます。しかしそれだったら「障害者」だって、何か行動をしたいのに体にそれを阻む害悪があってできない人、というわけですから、何ほどの違いもありません。いくら「障害者」という表記をしている人だって、障害者自体を「害なる者」なんて思っていません。害はその人自体でなく、その人の意志をはばむものが害だと言っているのです。当たり前の話です。
百歩譲って「害」という観念がよくないとしても、言葉って音声です。文字は二次的なものです。「しょーがいしゃ」と発音している限り、「がい」の部分を「害」だと感じるのが日本語を母語とする者の正常な感覚です。
「障害者」を「障がい者」と書いたり、何だかよくわからない「障碍者」と書いたりしたとしても、「がい」の部分で「害」を感じることは消えはしないし、かえって事態を隠蔽するものだと思います。アダムの昔から人間は、食べるなといわれるから食べたくなってしまうものですし、ネットから消されてしまったものほど見たくなってしまうものです。2文字目を奇妙な表記にしてしまうことで、かえって怪しい雰囲気をかもし出し、差別を助長すると思うのは、真理子だけですか?