真理子の聖書日記 真理子の聖書日記

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[586]Re:ヨブ記33-34章
投稿者=福井啓介
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掲示日=2011/04/07(木) 20:27:24
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まだ洗礼も受けていない新米修道士です。大好きなヨブ記も大団円を迎えるには、やはり38章以下を待たないといけないようですね。コメントを期待しています。

「神議論」という言葉は初めて聞きました。「もし神様が善なる愛の神であり、この世のすべてのことは神の計画だというなら、どうして悪があるのか。どうして、何も悪いことをしていない人が、神様を信じている人が、こんなむごたらしい目に合わなくちゃいけないのか、本当に神様っているのか? もしくは神様は善なる愛の神なのか?」っていう理屈はシェンキェーヴィチの「クォ・ワディス」でローマの審美学者ペテロニウスが落ちた罠にそっくりですね。いつまでたってもサタンの用意してる誘惑の罠なのかな〜。でもすぐ後で「たしかにそういうふうに理性で考えたら」って書いてるじゃないですか。天のお父様(神でも主でも、呼び方はどうでもいいけど)を「人間の枠」に押し込めようとするのはよくないと思います。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)「私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」(ヤコブ3:2)神はとことん身をやつして、人間の世界まで下りてきて、不完全きわまりない「言葉」なるものを操って私たちに聖書という戒めの口承をお与えになりました。それだけでも感謝だと思います。また、この世に悪がはびこる責任を神に押し付けるのもよくないと思います。神は全く正しい霊なる存在です。人間も最初は神に似せて聖い霊として造られたのです。だから「人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった」(創世記2:25)。ところが蛇の誘惑に惑わされた二人は、コロッと罪を犯してしまうのです。そして「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつもわるいことだけに傾くのをご覧になっ」(創世記6:5)て、「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜や空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」(創世記6:7)東日本大地震や原発の被害に遭われている方々には申し訳ないことですが、この太古の世界が、神の前にへりくだることを忘れた「ヒューマニズム」思想のはびこる現代社会と重なって見えませんか?「悪」があるのは「人間の罪」の責任だと思います。そしてそれは私の罪でもあるのです…。

えらく長くなっちゃいました。新米のくせに分をわきまえてませんね。また書きます。神の恵みと平安が、日本の、世界の皆様の上にありますよう、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

[585]ヨブ記33-34章
投稿者=真理子
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掲示日=2011/04/07(木) 10:41:33
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=libj&book=job&chapter=33&mode=0
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=libj&book=job&chapter=34&mode=0
 例によって口語訳聖書じゃなくリビングバイブルです。本来は修道会IDでログインをしないと出てこないんですが、直接URLのパラメータで指定すると一般でもアクセスできます。そのかわり前章、次章というボタンが誤動作すると思いますので、それぞれの章について直接上のリンクをクリックしてください。

 不毛な議論を締めくくるべく、真打登場と思われたエリフですが、こうやってしゃべり始めてみると、なんか今までの議論とほとんど変わりないですよね。神様は絶対に正しいんだからヨブのように「おれは絶対に正しい」と言い張るのは間違いだというわけですからね。「どこが悪かったのかわかりません。改めますので教えてください」と言いなさいってわけです。

 本当はこのことはヨブ記の最後に書こうかと思ってたんですが、地震のあと、一部ネットでは神義論がやかましいんで、神義論に対する私の考えを書いておこうかしら。
 神義論っていうのは、もし神様が善なる愛の神であり、この世のすべてのことは神の計画だというなら、どうして悪があるのか。どうして、何も悪いことをしていない人が、神様を信じている人が、こんなむごたらしい目に合わなくちゃいけないのか、本当に神様っているのか? もしくは神様は善なる愛の神なのか? という論議です。
 たしかにそういうふうに理性で考えたら、神様っていないか、気まぐれなお方か、全知全能ではないかでしょうね。
 私やだんなの家族が信じ、私は(たぶんだんなも)イヤでやめてしまった創価学会は、最近はどう考えてるのか知りませんけど、信仰は現証だなんていいますから、正しい信仰をすればいいことがあるし、逆に不幸に見舞われたのならその信仰は間違いだという考えをします。だから、信仰をしたおかげでこんなに幸せになりましたという「体験発表」を重視するんですよね。キリスト教でいえば「あかし」です。
 でも、信仰を持ったのに不幸に見舞われることは、よくあることなんじゃないかしら。「うちの宗教は、そんじょそこらの低級なご利益宗教じゃない」っていうなら、そのことを認めなきゃね。
 長くなってきたので続きは来週のヨブ記のところで書きますが、とりあえず予告をしておくと、信仰っていうのは「信ずればいいことがある」んじゃなくて、「悪いことが起こったときに頼れるもの」なんじゃないかと思います。罪のない人が不幸になる現実を認めた上で、たとえそういうことがあっても信仰があればへこたれないっていうのが、信仰の効用じゃないかしら。じゃ続きはまたこんどね。