[真理子日曜学校 - 真理子の生活と意見(フレーム表示) ]
聖書無謬説に反対します
- 聖書無謬説
真理子は聖書が大好きなのですが、だからといって聖書を絶対視したりしません。聖書には神のすばらしい真理の教えがある一方で、誤りも偏見も暴力もある、でも、だからこそ聖書は奥深くすばらしい、というのが真理子の考えです。でもなかなかこういう考え方を認めてくれる教会や牧師様にめぐり合いません。キリスト教の各教派の考えは、どれも真理子に合いません。だから真理子は長いことクリスチャンにならず、「自由な立場を貫くんだ」なんて言って来たし、あげくの果てには自分で教会を作っちゃったわけですね。
私の考えに合わない各教派の考えの中でも特に「困ったちゃんたちね」と真理子の顰蹙を買っているのが、「聖書は誤りなき神のみことば、絶対の真理」と主張する人たちです。この立場をとる教派は決して一つだけではなくちょこちょことあるので、特定の教派名をあげることはしません。以下まとめて「聖書無謬説」と書くことにします。
- 聖書をろくに読まない人たち
聖書無謬説は進化論をはじめとする現代科学のさまざまな学説を否定したりして世の嘲笑を買っていますが、その程度のことならば真理子は「ただのバカよね」とほうっておきます。だいたい、聖書の個々の箇所がすべて事実であり、奇跡がすべて実際に起こったことだなんて大真面目に主張するとしたら、現代人はドン引きです。こんな人たちがいると、キリスト教全体が怪しげでカルトな淫祠邪教だって思われるんじゃないかと心配になります。
それにもまして真理子が許せないのは、聖書無謬説を唱える人に限って聖書をろくに読んでいないってことなんです。
聖書を虚心にしっかり読めば、創世記冒頭の創造神話からして矛盾してるし、4つの福音書が記すイエスの記事だって矛盾してる。イエスが死んだ時ですら、ヨハネと他の福音書では記述が違ったりします。無謬説が出てくるはずがないと思うんですけどね。なんで「モーセが書いた申命記」にモーセが死んだ話が出てくるんですか。イザヤ書の前半と後半が異なる時代背景のもとに書かれていることがどうして読み取れないんですか。 もっとも、聖書無謬説も1世紀以上の歴史があります。彼らも決してバカではありません。ティンデル聖書注解のように、批判がほとんど不可能なまでに完成度の高い注解書が作られておりますので、決してあなどれません。不用意に批判すると逆にやりこめられてしまうことでしょう。さしあたりは徹底的に無視するのが賢明かもしれません。その一方で、彼らの考えもいずれしっかり研究する必要があるとは思います。
- 聖書は差別に満ちた暴力的な本
聖書にはすばらしい話にまじって、偏見や暴力に満ち溢れてもいます。たとえばパウロは徹底した女嫌い、女性差別論者です。だからアメリカの聖書無謬信者の中には男女同権に反対する人たちだっています。それならそれで論理は一貫していると思うんですが、聖書無謬信者のみなさんはみんな女性差別論者ってことでいいんですか?
いや、女性差別だけならまだかわいいほうです。マタ27:24-25でマタイが心無くもイエスの死の責任をユダヤ人に帰する記事を書いています。でもイエスの十字架上の死は神の予定ではなかったのですか。イエスが十字架にかけられなければキリスト教だってなかったんですよ。マタイはローマからの弾圧を回避するため、イエスの十字架の死の責任はピラト(=ローマ)にはなく、責任をユダヤ人に一方的に帰しているに過ぎません。聖書を虚心に読めばこんなことは誰でも読み取れるはずなのに、聖書を盲信する人々はこの記事を根拠としてユダヤ人を迫害し続けたのです。いったいこの記事のおかげでどれだけのユダヤ人がむごたらしく殺されたことでしょう。聖書無謬論者はこのことをどうお考えなのですか?
- 取り扱い注意
こうしてみると確かに聖書は人々を動かす力に満ち溢れた本です。よくも悪くも。聖書のおかげで多くの人が救われた一方で、聖書のおかげで多くの人が死んでいった。真理子はだからこそ聖書におどろきと畏敬の念を抱き、聖書を愛してやまないのです。そして、聖書の力をよく知っているからこそ、聖書を盲信してはいけない、読み方と使い方を誤ってはいけないと痛感しているのです。
では聖書をどう読めばいいのか、真理子にもまだ答えは出ていないのですが、とりあえずの答えをページを改めて書きます。
- 事実を論ずる場では容赦しません
「聖書の読み方」に移る前に一つだけ。百歩譲って、信仰の立場で聖書無謬説を唱えるだけであれば、どんな信仰を持とうとご自由ですから真理子もとやかく言いませんし、こちらからもお近づき申し上げないだけのことです。が、事実を論ずる場で聖書無謬説に立つものは容赦しません。たとえば学問的な論文とか、聖書事典などの場で書くものは、教派の立場をこえて事実かどうかが問題になりますので、「イザヤ書が複数の著者によるものと認めない」とか「モーセ五書は本当にモーセが書いた」とか「パウロ書翰はすべてパウロが書いた」などという説を、説得力ある論拠なく単に信仰的立場で表明しているような論文、参考書、事典、およびその著者に対しては、当サイトのいろいろなページを利用して容赦なく批判します。真理子を怒らせると恐いのよ。
仏教学のほうはとっくに宗派を超えた研究・交流がなされており、学問的な場で書くものは宗派の主張に反する内容もいっこうにかまわないということになっているのですが、どうもキリスト教の神学のほうはいまだに護教論が多いので困ったものです。