[真理子日曜学校 - 真理子の生活と意見(フレーム表示) ]
死生観
- 真理子が一番ひっかかっていること
このサイトのあちこちで真理子は「私も一応洗礼を受けているクリスチャンだ」「イエス様を唯一の救い主と信じている」など、いかにもクリスチャンのようなことを言っているくせに、他方では「キリスト教の考えに違和感がある」「仏教の経典だとすんなり心に入ってくる」だのと言っております。
我ながらずいぶん矛盾したやつですけど、実はただ1点だけ、どうしてもキリスト教の考え方になじめず受け入れがたい点があるんです。まあ、この1点以外にもいろいろあるんですが、そんなのは瑣末な枝葉末節のことに過ぎません。重大なところで1点あるのです。実を言うと真理子が長らくクリスチャンにならないできた最大の理由がこれなのであり、「聖書の読み方が無神論的だから」「牧師とケンカするクセがあるから」などは、つまらない理由でしかありません。
その1点とは、「死生観」です。
どんな宗教でも死をどう見るかは一大問題です。よくユダヤ教や儒教は徹底した現世主義であり死後の問題は考慮外だと言いますがそんことはありません。宗教はつまるところは「死をどう見るか、どう向き合うか」だと思います。
それほどに重大な死生観について、キリスト教の考え方になじめないというのが、真理子が長らくクリスチャンにならなった理由でした。
- 真理子の死生観
まずは真理子の信じている死生観を書いておきましょう。- 輪廻転生はあります。人は死んでしばらくすると(49日後という話もありますが)どこかで赤ちゃんとして誕生します。
- ですから当然前世も来世もあります。この場合の来世というのはキリスト教やイスラム教でいう「最後の審判後の天国の永遠の生」じゃなく、あくまでこの世における別人格としての新たな生ということです。
- 念のためいうと前世の記憶は絶対にありませんし、今の記憶や心が来世に持ち越されることも絶対にありません。だからオカルト系で「前世の記憶がある」なんて言ってるのは全部ウソです。私たちはなんとなく、人は精神と肉体とからなり、精神=自己だと思ってますけど、実はそうじゃなくて、自己って肉体とも精神とも別なんです。なぜなら自分の精神って客観視しようと思えばできるじゃないですか。「あ、私、今、我を忘れて怒ってるわ」とか。客観視できるってことは自己じゃないんですよ。
- 現世でいいことをすると因果応報で来世ではよりましなスタートを切ることができ、逆に現世で悪いことをすると来世では不幸な生まれ方をします。どうかすると人間に生まれない可能性もあります。これが人間不平等の起源ですね。
というわけで、ポイントは輪廻転生を信じてるってことですね。
念のためいうと、これはいろいろな宗教が言ってることをもとに真理子が組み立てたオリジナルな死生観です。たとえば仏教では自己はないことになってますので、上記3.は仏教の考え方じゃありません。しっかし、仏教も輪廻を説くんですけど、自己がないってことになると、輪廻する主体って何なのかしら?
真理子はこのように考えているので、死は全然コワくありません。しばらくしたら新たな生がスタートするのですから、死は一種のリセットですね。ただし、人生進退窮まったからといって安易に自殺すると、それは悪いことなので、次に人間に生まれなくなる可能性があります。人間に生まれないといいことができないので、その次の生で人間に生まれる可能性も非常に低くなりますので、自殺はやめときましょうね。
ついでながら日本の仏教はどうか知りませんが、本来の仏教では輪廻を苦であると考えます。真理子は「生まれ変われるから死はコワくない」と思うのですが、仏教では「生まれ変わるってことは、また死ななくちゃいけないからイヤだ」なんで、だから輪廻のスパイラルから脱出することが悟り・解脱・成仏なんです。この点でも真理子の考え方は必ずしも仏教的とはいえません。
- キリスト教の死生観
だいたいどの教派にも通用するキリスト教の死生観をまとめておきますと、- 人間は神から息を吹きかけられて生きるものとなりました。
- 本来は永遠に生きられるはずだったのですが、罪を得たことにより、必ず死ぬものとなりました。
- 死んだ人は必ず陰府(よみ、と読みます。シャレではありません)に行きます。ここは地獄ではありません。地獄が刑務所だとすれば陰府は拘置所。最後の審判をずっと待ち続けるのです。
- 最後の審判によって救済された人は天国(神の国)に行き、永遠に生きます。救済されなかった人は永遠に死にます。人によっては地獄と表現することもあります。
- リセットの機会があったほうがいいわ
さて、輪廻転生をくりかえし、しかもそのことに希望を見出すような死生観からすると、キリスト教の死生観には共感できなくなります。
だって、救われて永遠のいのちが与えられたとして、それってうれしいことですか? 永遠に生きるのって、とても苦痛じゃないですか? 「永遠に」ですよ。たとえばどんなに年老いて体がいうことをきかなくなっても、どんな苦しい病気にかかったとしても、死ねずに永遠に生きるなんてぞっとしませんか。あれ、永遠のいのちが与えられたときにはこういう肉体的束縛ってないのかしら。そうだとしてもですよ、永遠に生きたら、やりたいことはすべてやりつくしちゃって、とっても退屈しちゃいませんか?
それだったら、定期的にリセットを繰り返し、新たな人生をスタートさせるほうがよくないですか?
- 結局は時間観の違い
こうしてみると、真理子の死生観とキリスト教の死生観の大きな違いは、つまるところ時間観の違いなのでしょう。
キリスト教では救われたとか永遠のいのちとか言いますけど、その先がどうなるのかって全然教えてくれませんよね。これはちょうど、神が天地を創造されるよりも前はどうだったのかっていうのが一切説明されていないのと同じですね。ユダヤ教やキリスト教の時間観って、小林秀雄が「過去から未来に向かって飴のように延びた時間という蒼ざめた思想(ぼくにはそれは現代における最大の妄想 と思われるが)」と批判したようなものなんで「はじめにの前はどうなの?」「おわりの後はどうなの?」ってことが説明できない。
一方、真理子のような輪廻転生のベースになっている時間観は円環時間、つまり始めも終わりもなく繰り返し繰り返し繰り返すってものですね。こういうほうが真理子にはなじめます。
- 多くの日本人もこう考えているのでは?
真理子長いこと、がクリスチャンになることをためらっていた本当の理由は、キリスト教の死生観・時間観に納得がいかないからなんです。ほかにもいろいろありますけど、どれもどうでもいいことに過ぎず、これこそが大きな理由です。
そして、多くの日本人も、真理子の死生観と全く同じではないにせよ、漠然と同じような考え方をしてるんじゃないでしょうか。死が一種のリセットで生まれ変われるからこそ、安易に自殺しちゃうわけです。
キリスト教がなかなか日本で広まらない理由はいろいろ指摘されますけど、死生観の問題が大きいかなって思います。
- とりあえず強引に折り合いを
しかし困りましたわ。
「真理子はクリスチャンじゃない」なんて言ってるうちは、こんな死生観を開陳していてもよかったんですけど、私も一応「キリスト真理自由教会」というサイバー単立教会を作って牧師のまねごとをしていますし、一応某教会で洗礼も受けてクリスチャンになってしまいましたから、いつまでもこんな死生観を言ってると異端認定されてしまいますわ。まあ単立教会ですから異端でもいいのかもしれませんけど、あまりにキリスト教の教義と離れちゃうのも考えものです。強引に折り合いをつけちゃいましょう。
その折り合いをつけた結果については、「当教会の提案する死生観@キリスト真理自由教会」をご一読ください。