[真理子日曜学校 - 真理子の生活と意見(フレーム表示) ]
 

私の愛したコンピュータ


 
  1. コンピュータのお話
     これからいくつかにわけて、真理子とコンピュータとの付き合いの歴史を書いていきます。
     パソコンの歴史に関するサイトはいくつかありますし、Wikipediaにもまとまっていますが、たった30年程度のことなのに、「もうこんなことが忘れられてる」っていうのがけっこうあります。ウソはないにしても、必要なことが抜けてると、当時を生きていた真理子の感覚とずいぶん違うなって感じるんですよね。
     こんなことを言うとは真理子もずいぶんオバサンになったってことですよね。真理子が初めてさわったコンピュータは、NEC PC-9801(以下98)でした。これが昭和57(1982)年だから、真理子が小5のとき。98は、それまでマイコンと呼ばれて実用的じゃなかった個人用コンピュータが、初めて実用的な「パソコン」になったものじゃないかしら。その意味では、真理子はパソコンの初めからの歴史をほぼ知っていることになりますから。
     長くなりますので、このページと次の「続・私の愛したコンピュータ」ではハードウェア(機械)の話、「プログラミング言語」ではソフトウェアの話、「ワープロ」ではワープロなどアプリケーションの話、「パソコン通信・インターネット」ではWEBやパソコン通信の話を書いていきます。

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  3. ソロバン
     コンピュータの話の前にソロバンの話をします。
     真理子は小学校低学年のときに一応ソロバンを覚えました。当時(70年代後半)はぎりぎりソロバンが現役で、どこの学校でも教えてたんですよ。
     電卓の価格破壊のキッカケになった12800円のカシオミニが1972年。私より10歳年上のだんなは今でもこのコマーシャルが歌えます。「足してもダメなら引いてミニ、掛けてもダメなら割ってミニ、答えイ・ッ・パ・ツ、カシオミニ」なんだそうな。さすがにこれは私も知りませんけど、そのくらい衝撃だったみたいです。
     70年代後半には電卓は2000円くらいになって、誰でも買えるようになってましたが、ぎりぎりソロバンも現役。金融関係に就職するならソロバンは必須なんて言われましたが、真理子が大学に入るころはもうすたれましたね。
     そんなわけでソロバンの技術はまるきり役立たずでしたが、小学生のころは好きでした。ソロバンの玉をぱちぱち動かしながら答えが出てくる過程って、「これってプログラムよね」って思いませんか? 特に、法(割る数)が2桁以上の割り算の玉の動かし方って、まさにアルゴリズムって感じです。こういうのが好きだったのが、後にパソコンに興味を持つきっかけになったと思います。
     ソロバンって、一言でいうと「人間を計算機にしてしまう機械」。ソロバン自体は計算能力なんて何一つなく、人間が玉を操作してやることによって計算ができるわけですから。ソロバンの達人はソロバンがなくても頭の中のソロバンをはじいて計算しちゃいますからね。真理子は今でも、「神様が存在するってどういうことか」を人に説明するのに、この話をします(→「聖書の読み方」)。
     もし私たちに子どもができたら、ぜひソロバンを習わせたいと思います。今でもSorobanなんていうのをパソコンの片隅に表示させてますもの。みなさまもぜひどうぞ。マウスで操作するほか、数値を入力すると、加減乗除と開平をアニメーションで計算してくれます。速すぎて何をしているかわからなければ、そろばん@Wikipediaを見れば、計算の仕方がよくわかるでしょう。

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  5. おじさんにだまされて
     小5にして98をさわり始めた真理子は何者かっていぶかしくお思いの方も多いことでしょう。
     15歳年上の私のおじさんがパソコンが好きで、出たばっかりのNEC PC-9801を買ったんです。おじさんは社会人。しょっちゅうパソコンをいじってた。
     で、「真理ちゃん、遊びに来いよ」なんて誘われて、おじさんの家で98をさわったということなのです。
     「真理ちゃんも英語好きだろ? 英語好きなら今からタイプライター覚えるといいよ、これ、タイプライターのかわりになるからさ」なんて、キーボードの練習させたんです。すぐに私はタッチタイピング覚えて、かなり早く打てるようになった。すると、「じゃ、お小遣いやるから、この雑誌のこれ、打ち込んどいてよ」なんていうんです。
     今の人には想像も付かないかもしれないけど、当時のパソコンって、BASICなどのプログラミングができなきゃ使えなかったんです。ソフトも少なかったし、ゲームはいいとしても実用ソフトは使い物にならなかったし。
     パソコン雑誌がいろいろ出てて、長いプログラムリストが掲載されてるんです。そしてそれをみんなそれを手で打ち込んだんです。今ならそんなのネットのサイトからダウンロードできますけど、やっとテープやフロッピーで供給するサービスが始まったってころでした。当時は雑誌の自主規制で紙以外の材質を使った附録をつけることが禁止されてたので、別売りだったり申し込み制だったりで、申し込もうとしても「品切れです」「サービス期間終了です」なんていうこともしょっちゅう。だからおじさんはうまいこと言って、真理子に入力の仕事をさせたわけですね。
     おじさんの家はすぐ近くだったんで、ひまさえあれば行って、リスト打ち込んでたわ。おじさん独身だったし、カギまでもらっちゃった。けっこういいお小遣い稼ぎになりました。そのおかげで聖書も買えたんです。うちは創価学会だから、謗法払い(ほうぼうばらい)って言って他宗教のものなんか買ってくれるはずない。聖書は自分のお小遣いでこっそり買うしかないもの。

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  7. 夢を売る機械
     おじさんは、女の私にはコンピュータなんかわからないだろうから英語で釣ったつもりだったんでしょうけど、私は私で、実はパソコンに興味はあったんです。ちょうど98が出た昭和57年に、NHK教育テレビで「マイコン入門」っていう番組があって、「マイコンってこんなことができるんだ」って面白がって見てましたから。機種はNEC PC-8001。そういうテレビを見ていたので、パソコンってどうやって使うものなのか、何ができるのか、だいたい知ってました。
     でも今にして思えば「何ができるのか」じゃなく「何しかできないか」ですよね。漢字だって使えないんですから。価格だっていろんなものをそろえたら100万円をはるかに超えますからね。周辺機器なんか今の感覚からするとケタが2つ違いますよね。でも「今は不便だけど周辺機器を買い足したりソフトを開発したりすれば便利になる」みたいな、不思議な夢がありました。
     そうそう、このころはパソコンじゃなくてマイコンっていう呼び方のほうが普通でした。本当はマイクロコンピュータの略なんでしょうけど、マイ・コンピュータの略だとも思われていました。たとえば安田寿明さんの『マイ・コンピュータ入門』(講談社ブルーバックス。1977)なんかはわざとそう解釈してた。これ、ワンボード・マイコン時代の本なんで今の人には何書いてるかちっともわからないと思うんですけど、この時代の人の夢やロマンがぷんぷんしてますから、古本屋にあったら読んでみるといいですわよ。オフィスや研究所にしかないコンピュータなるものを自宅で持てるようになったっていう、夢を与える名前だったんですね。
     ワンボード・マイコンっていうのは、たとえばTK-80みたいな、基盤にCPUやメモリやらをハンダ付けして作るキットです。後に完成品も市販されるようになりましたが本来はキットでした。技術屋さんがこれを自作して、「コンピュータってこういうものなんだ」っていうのを勉強したんですね。
     これが出たのが昭和51(1976)年で真理子が5歳のとき。さすがにこの時代のことはリアルタイムには知りません。おじさんの家にころがってて、プログラムリスト打ち込みのバイトをしながらこれで遊んでました。
     2000年に榊正憲『復活! TK-80』(アスキー)っていう本が出て、Windowsで動くTK-80のエミュレーションプログラムがついてます。実機とは比べ物にならないほど速く動作します。今の人からすれば、何が面白いのかさっぱりわからないと思いますし、当時の私にすら「何これ? 何にもできないじゃない!」っていう大人のおもちゃでした。あ、こういう書き方するとエッチですか? でも、こんなので9万円ちかくしたんですから大人しか買えないですよね。
     チラシみてわかるように「無限の可能性を秘めた身近か(ママ)なマイクロコンピュータ」。そう、まさに夢だけを売る商品だったんですね。でも、今の人にこういう夢がありますか? 昔の人はこういう夢を持てたんですよね。真理子の世代からこういう夢が持てなくなっちゃったんですね。おじさんたちがうらやましいです。

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  9. ソフトの少なさに泣いた98
     おじさんがパソコンを買うっていうんで、PC-8001か、その上位機種のPC-8801にするのかなって思ったら、買う直前に98が出まして、どうせ高い買い物をするんだからっていうんで、それにしたみたいです。
     Windows時代の前はパソコンといえば98っていう時代が長く続きましたけど、実は98の出始めのころって、ソフトがなくて泣きました。いえ、真理子は泣かなかったけど、おじさんが泣いてましたね。「あーあ、8801にしとけばよかった」なんてしょっちゅう言ってましたもの。
     Windowsの今は想像もつきませんでしたけど、当時はパソコンが違うとソフトが動かなかったんです。今のゲーム機の状況をもっとひどくした感じかしら。
     たいていはBASICっていう言語で動いていたんですけど、これが機種ごとに違うんですね。当時はフロッピーが高価だったのでカセットテープも多かったですが、どっちにしろ記録形式が機種ごとに違うので他機種用のものは全く読めず、雑誌に印刷されたプログラムを手で打ち込むしかありません。
     他機種用のプログラムとはいえ、BASICで書かれていれば、INPUTとかPRINTとかIF~THENとか基本命令は同じですから動く可能性はあります。でも機種ごとにいろいろ拡張機能があって、そういうのを扱う命令が動かない。たとえば当時の98には音楽を出す機能がなかったので、他機種用のプログラムにある音楽命令は抜かして入力。98のグラフィックは640×400ドットだったけど、他機種はたとえば640×200だから、縦方向の座標は2倍して入力……など、あちこち書き換えながら入力して、それで動けばいいけど、たいていは細かいところの微妙な違いがたたって動作しなかったです。
     さらに、当時のパソコンはとても遅かったので、少しでも動作を速くするため、BASIC言語以外に機械語というコンピュータが直接理解できる16進数の数字だけの命令を作ってたりすると、それを解読して書き換えなきゃいけないわけです。おじさんも苦労してたけど、私もプログラムリスト入力のバイトをしながらそういうのを覚えちゃいまして、「ここはこうしたほうがいいんじゃないの?」とかアドバイスしてあげました。中学生のころってそういうのが苦もなく身に付くんですよ。
     ともかくこのときの経験で、パソコンに関しては、一番売れているもの、周囲にいろいろ教えてくれるユーザーが多いものを買わなきゃダメということをたたきこまれました。まさに「長いものには巻かれろ」です。

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  11. ソフトを重視したNEC
     それでもNECは、日本で一番、ソフトを重視したメーカーじゃないでしょうか。過去のソフトができる限り動くよう、互換性をとても重視していました。
     98が出る前に売れていたPC-8801は、その前のベストセラーマシンPC-8001と99%互換性のあるモードがあり、よっぽど特殊な裏ワザをしたソフトでない限り、8001用のソフトがそのまま動作したんです。これってまるで、2つのマシンを一緒に売るような工夫ですよね。そんなことまでして互換性を保証したんです。
     98も、BASICだけならば8801や8001のソフトがそのまま動きました。もっとも、BASICだけのプログラムって猛烈に遅かったので、たいていのソフトは機械語を併用してました。98は8801や8001とCPUが違うので、機械語を使われちゃうと動かないわけです。ですからたいていのプログラムは動かず、あんまり意味なかったです。だから上のような苦労をしたんです。それでもなんとか互換性を高めようっていうのは、バカバカしいまでに涙ぐましい努力だったといえるでしょう。
     98が出てしばらくすると、「内部を独自に解析した」と称する本が、別の出版社やソフトメーカーから出されました。実はこれってNECがソフトメーカー向けに流した内部資料に基づいてるんですね。NECから直接出すといろいろ差しさわりがあるので、他の出版社が出すのを黙認したという形です。ソフトメーカーはそういう内部資料を基にソフトを作るし、一般ユーザーもそれを参考にプログラミングして、作ったソフトを雑誌に投稿したりした。そんな感じでソフトが増えたんです。これで98のソフトは多くなったんです。
     でもものごとは両刃の剣といいますか、この互換性重視が、後にアダとなったんですね。当時のソフトハウスも一般ユーザーもプログラミング技術がヘタクソだったので、みんなハードウェアに依存したプログラムを書いちゃう。たとえばこの当時のグラフィック画面は640×400ドットでしたけど、そう決めてかかったプログラムをみんな書いちゃうので、画面の解像度を高くしたマシンを出しても、そのマシンではソフトが動かない。実際、NECはその後、98のグラフィック画面を1120×750ドットにした上位機種を出しましたけど、既存のソフトが動かないんで売れませんでした。結局NECはこの後ずっと、当初の98の規格に固執したマシンを出し続けたので、Windows時代になると生き残れなくなっちゃったんですね。この話は次の「続・私の愛したコンピュータ」で。

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