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【17世紀英語コース】

宣誓論争


  1. 宣誓論争とは?
     昭和51(1976)年、元首相の逮捕にまで至った空前の汚職事件、ロッキード事件。事件の経過が逐一報道されさまざまな話題や流行語を生んだ中、一つ大きな話題になったのは、「宣誓と偽証」の問題でした。そもそもこの事件が明るみになったのは米上院多国籍企業小委員会の公聴会におけるロッキード社副会長コーチャン氏の証言でしたが、その後日本の国会で行われた証人喚問では多くの証人が、流行語にもなった「記憶にありません」という逃げ口上とともに証言拒否したり偽証したりし、日米の違いがあらわになりました。そこで、「アメリカ人は神の前で宣誓をした以上は不利なことでも偽証はしないが、宗教オンチの日本人は平気で偽証する」といった俗説が行われたりもしたのです。こういう中で起こったのが「宣誓論争」です。


  2. 論争の経緯
     では、この論争の経緯を簡単に振り返っておきましょう。以下、敬称をすべて略します。
     佐伯真光(相模工大)が諸君1976/5に発表した『早合点、日本人ウソツキ説』中で、アメリカの宣誓のことばを紹介、次のように訳しました(要点のみ)。
    Do you solemnly swear that all the testimony you will give in this proceeding will be the truth, the whole truth and nothing but the truth, so help you God?
     「この公聴会で私がおこなう証言が真実であり、真実のすべてであり、真実以外何ものをもつけ加えたものでないことを、私は厳粛に誓います。そのために神がお助け下さるように」と、あなたは誓いますか
    これに対して山本七平が週刊文春1975/4/22『早合点はどちらか』で、「イエスが山上の垂訓で『いっさい誓うな』と言ったのだからキリスト教徒は誓うはずがない。swearは『誓う』のではなく『祈り誓う』と訳すのだ」と応酬、以後さまざまなメディアでやりとりをしたというものです。通常このような論争はお互いの応酬が続くうち、勝負がはっきりせずに自然消滅するものですが、この論争では山本七平が松本道弘にレフェリー役を依頼、松本道弘が「人と日本」1976/1『勝負あった!佐伯/七平論争』ではっきりと「佐伯の勝ち、山本の負け」を宣告したという、明確な形で勝負がついたという異例の展開をしたことで話題となりました。
    なお、この論争の経緯は本多勝一編『ペンの陰謀』(潮出版社)に再録されましたが、この本が山本七平批判本であったために、収録にあたって本多勝一が、上記松本道弘の文章のうち、敗者山本七平をフォローした部分を何の断りもなく削除して掲載したという、なんともアンフェアな後日譚があります。


  3. 論争の争点(1)
     この論争の発端は山本が「イエスが『いっさい誓うな』と言ったのだからキリスト教徒は誓うはずがない」と考え、しかし現実には多くのキリスト教徒が誓っているという矛盾を解決するため、英訳のDo not swear at all.という文章をDo not / swear at / all. と区切り、イエスが禁じたのはswear at つまり何か神様や聖なるモノにかけて誓う誓いなのだ。swearそのものには「祈る」という意味を載せている辞書があるので、何かにかけて誓うのはダメだが「私が正しいことを証言できるよう祈る」ような誓いならいいのだ、という理屈を考え出したことにあります。
     これに対して佐伯は
    1. Do not / swear at / all.と区切るというのは、not ~ at all という熟語を知らない証拠である。
    2. swear = 祈る という語義は今では廃れてしまったものである。
    3. 多くのキリスト教徒は、イエスの「いっさい誓うな」という言葉を律法ではなく誓いの濫用をいましめたにすぎないと解釈しているので、平気で誓っているのである。
    4. クエーカーなど一部のファンダメンタリストは「いっさい誓うな」を守っているので誓わない。かわりにaffirm(断言する)という言葉を使う。だからアメリカの宣誓文の中には、swearができないクエーカー対策のために I swear or affirm ~と、swearのかわりにaffirmを用いる宣誓文を用意しているところもあるほどだ
    などという形で整然と反論、山本はこれに対して有効な反論をできずに終始しました。


  4. 論争の争点(2)
     論争が泥沼化するうち山本の反論中のさまざまな英文の読み誤りが暴露されるに至ったのですが、これはその一つ。
     上記の文末、so help you God? というところを山本は「助けよ、汝を、神よ」と訳し、チャーチ委員長が神に対して、you(コーチャン)が正しい証言ができるように助けよ、と要求しているのだ、と解釈しました(週刊文春1976/6/17『誓いと祈りの珍説を排す』)。これに対して佐伯は、
    1. so help you God.というのはDo you solemnly swear that ~ という間接話法の文の中に入っているので、本来は so help me God. である。
    2. so help me God. は祈願文であり、主語はGod、動詞はhelp(仮定法現在)。「神も照覧あれ」という宣誓文の最後につく決まり文句にすぎない。
    と反論。山本が間接話法も祈願文も知らないことが暴露されてしまいました。


  5. 真理子の総括
     論争の経緯と争点は上記のとおりで、松本の判定にもあるように山本の勘違いによるこじつけであったことは明白だと思います。
     ただ、この論争には真理子日曜学校として教訓にしなければならない点があり、あえて山本に同情(弁護ではありません)する形でそれを指摘しておきたいと思います。
     その一つは「聖書=キリスト教でもなければ、聖書=欧米人の思考様式でもない」ということ。聖書には誤りもあれば矛盾もあり、キリスト教は必ずしも聖書に書いてある通りの教えを説いているわけではないし、クリスチャンは決して聖書どおりの生き方をしているわけではない、聖書に「いっさい誓うな」と書いてあってもクリスチャンは平気で誓っている、ということです。これこそ真理子が真理子日曜学校のいろいろなところで書いている「聖書とキリスト教(クリスチャン)の奥ゆかしい関係」なのです。聖書には誤りもあれば矛盾もある。だから聖書そのままの生き方はできない。だからといって聖書を勝手に書き換えたりすることなく、ヘンな記述もそのまま残して受け継いでいる、ということなのです。「聖書にこうあるからキリスト教(クリスチャン、欧米人…)はこうなのだ」という議論の危うさを改めて指摘しておきたいと思います。
     もう一つは、語形変化の乏しい英語の文章を読む上での危うさです。so help me God. は、ドイツ語ならdeSo wahr mir Gott helfe. (dehilfeじゃなくて)、ラテン語なら laSic me adjuvet Deus. (laadjuvaじゃなくて)というわけで、命令法と接続法の違いは語形を見れば一目瞭然。ところが英語では命令法も接続法(にあたる仮定法現在)もどちらも動詞の原形そのままで、区別がつきません。そこでうっかりしてしまうというわけです。
     佐伯は、当時の学習指導要領を根拠に「話法の転換は中学三年、祈願文は高校二年までに習うことになっている。not ~ at allという熟語を知らなかったことを考え合わせると、山本氏の学力は中学三年程度であろう」(東京大学新聞1976/10/18)とからかっています。しかし最近の学習指導要領は、1976年当時から比べてかなりやさしくなっており、話法の転換は中学では習わないのです。どうかすると祈願文は高校で習わない可能性もあります。今の大学生にso help me God. を文法的に説明せよといっても、ほとんど全滅なのではないでしょうか。
     最近の英語教育の(真理子からすれば)誤った風潮として、実用一点張りで、「現実の生きた言葉を学ぶ」ことを旗印に、祈願文だの倒置だのという古めかしい表現を教えなくなっています。しかし、この宣誓文は1976年に読み上げられたもの。現代の文章でも古めかしい表現が化石のように残っていたりするのです。いまだに聖書は17世紀のKJVから引用するなどという人も珍しくありません。だからこういう古めかしい表現もしっかり教えておかないと、山本のうっかりを誰も笑うことができなくなるのではないでしょうか。