[真理子日曜学校 - キリスト真理自由教会(フレーム表示) ]
 

真理は私を自由にした


 
  1. 真理は私を自由にした
     当キリスト真理自由教会の命名は、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」ヨハ8:38から来ています。国立国会図書館の受付カウンターには、この聖句のパロディ「真理がわれらを自由にする」が掲げられています。当サイトのトップページ真理子日曜学校ではさらにひとひねりして「私は真理を知った。真理は私を自由にした」を掲げてあります。二人称命令形の十戒を一人称の私の誓い「十の誓い」としたように、イエス様の「あなたがたは~するだろう」という二人称複数未来形を、「私は~した」という一人称単数現在完了形に改めることによって、聖句が実際に我が身に成就し、私は真理を知って解放されたのだという喜びの告白としています。

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  3. 信仰の立場としてのリベラル
     誰だ? そこで「真理自由って、真理子はばりばりのリベラルだっていう意味だ」なんて言っている人は?
     まあ、「真理」というところは私の名前にひっかけているので、まり、しんり、どちらの読み方も許容してますし(この件については後述)、たしかに私の聖書の読み方はばりばりにリベラルですし、事あるごとに聖書無謬説を目の敵にしてますからね。
     ところで、「リベラル」って何でしょう? 聖書無謬説をとる方々にとって「リベラル」というのは、他教派の、自分たちの気に入らない主張にのべつ幕なく用いている罵倒語なのではないかと思うところもありますが、本来は神学的な立場でしかありません。つまり神学を普通の学問同様に、ひたすら理性だけを用いて進め、信仰的な立場や教派の立場を持ち込まないということです。昔はともかく現代では、およそ学問をする態度はそのようなものでなければならず、極めて当然のことです。
     であるがゆえに、リベラルというのは信仰の立場にはなりえないと思っています。実際、世にリベラル派と呼ばれる教派はなく、単に「信仰的でない神学を許容している教派」という程度の意味あいでしかありません。そもそも信仰を学問に持ち込まないのがリベラルなのに、それを信仰にしてしまったらもはやリベラルではありませんし、そもそも信仰というのは理性の領域ではありません。
     しかし、それをふまえたうえでなお、当教会は、「ぎりぎり最後の一線までリベラルな、つまり学問的、理性的な営為によって神をとらえようとする」ことを、信仰のスタンスとします。
     それこそが、神なき現代人にとって受け入れやすい信仰だと思うからです。
     聖書無謬説は決して古代の思想ではなく、そういう考え方をする人が現代に生きているわけですから、十把一からげに「現代人は~」といえないのでしょうが、理性的思考にどっぷりつかった大方の現代人にとって、聖書の記述をそのまま信じろだの、奇跡を信じろだのというのは、まるきり無理なことです。少なくとも私はそうでした。奇跡の記述を中心とした聖書のいくつかの部分は、まるきり荒唐無稽なものであり、こんなものを信じなければいけないのならクリスチャンなんかやってられないし、信じろというのならばキリスト教はとんでもない淫祠邪教だと思っていました。そんな中で、遠藤周作さんが一連の著作の中で描く、「奇跡なんか何一つできず、人の悲しみを一緒になって悲しんであげることしかできず、みんなからばかにされあざけられながら、人の罪を背負って十字架にかけられて死んだ」イエス像に限りない慰めを感じ、だからこそ私はイエス様を信じることができるのだ、と思ってキリスト教の世界に入った私にとっては、最後の最後ぎりぎりまで、理性的に神やイエス様をとらえようとしてはじめて、最後にぴょこんと「理性を捨てて信仰の世界へとジャンプすること」こそが信仰なのです。
     別の言い方をすれば、神話的な要素をはぎとられ、理性によってとらえられた神やイエス様が、私たちにとって救いであるとはどのようなことなのかを問い直すこと、それが信仰であると思います。
     そしてこれは、私だけではなく、大方の現代人にとって極めて受け入れやすい信仰だと確信しております。だからこそ私は、あえてリベラルな立場でものを言うのです。

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  5. 伝統を大切にする
     そして「真理」は、「まり」と読むことで、私の名前にもなるのですが、マリア様の名前にもなります。そこで、当教会が提案するもう一つの立場、「聖書以外の伝統的習慣を大切にする」が出てきます。
     プロテスタント教会はカトリックの歴史を否定するために「聖書のみ」を強調しました。そのことは確かに、当時腐敗していたカトリック教会への批判として有効であったと思います。しかしこれを強調しすぎると、キリスト教はキリスト教でなく「聖書教」になってしまいます。
     クリスマスを12月25日に祝うことをはじめとして、キリスト教には数多くの「聖書に基づかない」習慣があり、プロテスタントでも一部の急進的な教派を除いては、そういう習慣を受け入れているのが現状です。そして私はそのことをいいことだと思っています。
     聖書は所詮は紀元2世紀までに成立した古代の文書にすぎません。ですから「聖書のみ」を強調することは、現代人を一足飛びに2世紀の世界へとタイムスリップさせて、それ以後の教会の歴史、知的営為の歴史をまるきり否定することになります。
     当教会では、聖書以後に発展した教会の歴史やさまざまな考え方を柔軟に取り入れていきます。
     そして、その一環として、聖書に基づかない諸聖人への信仰を取り入れます。その象徴がマリア信仰であり、それを「真理」にひっかけているのです。

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