[真理子日曜学校 - 聖書の言語入門(フレーム表示) ]
【バチェラーのアイヌ語コース】

口上

 

  1. バチェラーってどんな人
     ジョン・バチェラー(またはバチラー。John Batchelor)、1854/3/20-1944/4/2。英国サセックス(Sussex)郡アクフィールド(Uckfield)村生まれ。英国国教会(聖公会)の宣教師として北海道に赴任、宣教師として布教にあたる一方、医師・教育者としても、アイヌの学校を設立したり、自邸内に無料のアイヌ専門病院を設立したり、アイヌのために活躍、アイヌの父として慕われました。
     アイヌ語にも造詣が深く、新約聖書をアイヌ語に翻訳して1897年に横浜で出版、これはいまでも日本聖書協会から格安の値段(2500円+税)で復刻出版されています。また『アイヌ・英・和辞典』を出版(第1版1889、第2版1905。ここまで北海道庁から出版。第3版1926教文館。第4版1939岩波書店)、これは今は岩波書店から復刻されていますが、26250円もするので(古書相場もこんな感じ)、真理子にはちょっと手が出ませんわ。著作権は切れてるので図書館で全部コピーしてネットにさらしちゃいましたわ。「バチェラーWEB蝦和英(かわいい)辞典」がそれです。
     なお、この(紙媒体の)辞書での表記が「バチラー」なので、アイヌ語研究者はバチラーと表記することが多いです。当「聖書の言語入門」では日本聖書協会の表記であるバチェラーのほうでいきます。


  2. バチェラーのアイヌ語とは
     バチェラーの辞書はアイヌ語の文法概説をも含む唯一の本格的辞書として高く評価され、アイヌ語畑以外の研究者の間ではアイヌ語資料として、たとえば日本の地名をアイヌ語で解釈したり、アイヌ語と他言語との比較資料に使われたりされてきましたが、後にアイヌ語の研究が進むにつれ、実に不正確な辞書であることが明らかになってきました。
     特に知里真志保は著書『アイヌ語入門』(1956。北海道出版企画センター)の中で「欠陥が多いというよりは、欠陥で出来ている」「暴力的にでっち上げた幽霊語がすこぶる多い」などと手厳しい批判をしています。
     現在岩波書店から復刻されている版の巻末には、田村すず子の『バチラーの辞典について』という論文が掲載されていますが、この知里の批判を是とする一方で、貴重な資料とも評価し、どのように取り扱えばよいかという注意点を述べています。その結論として、他の本と併用しながら利用するように注意を喚起しています。
     このようにバチェラーの辞書の評判は今ではすこぶる悪く、アイヌ語研究史を書く上でも、ほんの申し訳程度に言及される程度です。
     まして聖書の翻訳は、完全に無視されています。三省堂の『言語学大事典』のアイヌ語の項(田村すず子)は、87ページにも及ぶアイヌ語の概説ですが、この中にはバチェラーの辞書の話はちらっと書いてますが、聖書の話は一言も載っていないほどです。ユーカラなどのアイヌ語口承文芸ならともかく、洋モノである聖書の翻訳、まして文法もろくに理解できなかった人の翻訳なんて、バカバカしくて扱えないということなんでしょう。
     19世紀英国に端を発した聖書格安頒布運動によって、聖書は世界のあらゆる言語に翻訳されました。今まで文字のなかった言語のためには、文字を考案してまで翻訳したんで、言語によっては「唯一の出版物が聖書」という状況だったりします。しかし残念ながら、そのような翻訳聖書の中には、所詮は外国人である宣教師たちによってかなりイイカゲンな訳し方をされたものもあり、しかも困ったことに、いったん活字になってしまった以上、それが規範として一人歩きしてしまい、その言語の本来のあり方をゆがめてしまったと批判されるものも少なくありません(このあたりの事情は、田川建三『書物としての新約聖書』(勁草書房)p.493-501を併読くださいませ)。
     バチェラーのアイヌ語聖書もそういう翻訳なのでしょう。だからバチェラーの聖書でアイヌ語を勉強するのはよくないのかもしれません。


  3. 「聖書アイヌ語」宣言
     しかし真理子は、こういう事情を踏まえてもなお、バチェラーの聖書のアイヌ語は「書き言葉としてのアイヌ語」として学ぶべき点があると思っています。ユーカラの出版など学問的研究以外で、これだけまとまった量のアイヌ語文献なんて他にないじゃありませんか。
     バチェラーのアイヌ語は確かにヘンかもしれません。が、これは一種の文語だと思えばいいのです。文語と口語の乖離なんて世界のあらゆる言語に存在する現象です。現実の話し言葉を「正しい言葉」とするならば、世界中のあらゆる文語は所詮「ヘンな言葉」なのです。KJVの英語だって実はギリシア語聖書やヘブライ語聖書の直訳に基づくヘンな表現が数多くあるのですが、KJVがひろく愛読されているうち、いつの間にかそれが英語の標準的表現になってしまったのです。歴史のifとして、北海道&千島&樺太にアイヌ人キリスト教国家が建国され、バチェラーの聖書が広く使われたら、ひょっとしたらバチェラー聖書のアイヌ語がアイヌ文語の標準になったかもしれないのです。そういう空想をしたらとてもわくわくしませんか?
     そんなわけで、当聖書の言語入門では、アイヌ語研究者から徹底的に無視されているバチェラー聖書のアイヌ語を、「聖書アイヌ語」「教会アイヌ語」「文語アイヌ語」と位置づけ、あえて勉強してみたいと思います。


  4. 真理子も手探りです
     実は真理子は北海道生まれなんですが、北海道にいたってアイヌ語なんて、よっぽど意図しない限り全然見聞する機会はありません。真理子のアイヌ語は、STラジオ アイヌ語ラジオ講座とか、中川裕/中本ムツ子『CDエクスプレス・アイヌ語』(白水社. 2004)などで勉強したものにすぎませんし、それらの本で説明されているアイヌ語とバチェラーのアイヌ語との間には乖離があります。ですから真理子も手探り状態で、ひょっとしたら間違いも多いかもしれません。ご指摘を賜れば幸いです。