真理子の聖書日記
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このサイトを作りながら、聖書を読みながら真理子が考えたことです。
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[594]出エジプト記17-20章
投稿者=真理子
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掲示日=2011/04/11(月) 11:47:53
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=exo&chapter=20&mode=0
20章は出エジプト記のもう一つのヤマ場。ひょっとしたら旧約聖書全体のヤマ場かもしれません。
なにしろ、十戒をさずかったわけですから。
ところで、十戒ってどれとどれで10なんでしょうか?
「〜ならない」という形になってるのは出20:3-17で、15節ぶんあります。節くぎりなんてどうせ後世の人が便宜的にやったことですから無視していいんですが、それだけに、区切り方がいろいろ考えられそうですね。原文には「1 2……」という番号が振られているわけではありませんし、そもそもこれが10個の「べからず集」だということさえどこにも書かれていません。
法律の文章っていうのは、一条一文主義っていうのがありまして、一文で書かなきゃいけません。この原則を破っている重大な例として、日本国憲法第9条第2項
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
があります。これでは、政府のある行為が9条2項違反だとして、前半に違反するのか、後半に違反するのかが不明確になります。通常であれば、「国の交戦権は」以降は、9条3項としなければいけません。
この考え方からすると、出エジプト記20章の文章は、法律としてはまるきり失格ですよね。
で、15節の内容を10にまとめるわけですから、このうち5節は、「そこで区切っちゃダメ」としなきゃいけません。
内容を読むと、5、6、9、10、11節は、絶対にそこで区切れるはずがありませんよね。
じゃ3/4-6/7/8-11/12/13/14/15/16/17で決まりじゃない!
そう思ったら、そうではないんですね。
カトリックとルター派は、3-6節を一気に1とし、逆に17節をむりやり「他人の妻を欲するな」と「他人のモノを欲するな」とわけるんです。
3「おいら以外に神はない」と4-6「偶像を作るな」という話を1つにまとめちゃいたいんですね。
この2つを1つにまとめると、「偶像はダメよ」が強調されなくなります。聖像を作るのが好きなカトリックとしてはそういう区切り方が都合がいいわけですね。逆にカルヴァン派のような厳格なプロテスタントとか、正教会なんかだと、偶像はダメっていうのを強調したいので、ここを分けるわけです。
正教会ってイコンがいっぱいあるじゃないかって思うかもしれませんが、全部2次元でしょ? 立体はダメだけど平面は偶「像」じゃないっていうのが正教会の考えです。
真理子の主催する「キリスト真理自由教会」は、平面画像も立体画像もOKなのに、なぜか区切り方がカルヴァン式ですね。
http://www.babelbible.net/mariko/opi.cgi?doc=tencmnd&course=church
だって17節を2つにわけるのって不自然ですもの。
私は「偶像=1つの見方にとらわれる」ととらえているんで、それでいいんです。
ところで、出17の、モーセが手をあげてるときだけイスラエルが優勢になるんで、みんなでよってたかってモーセの手をささえていたっていうの、情景を想像するとマンガ的で、私いつも爆笑しちゃうんですけど。
[593]2コリ1-3章、1マカ15章
投稿者=真理子
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掲示日=2011/04/10(日) 12:49:51
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●2コリ1-3章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=2co&chapter=1&mode=0
日曜日に読み続けている新約聖書の手紙類。今日からは「コリント人(コリントの信徒)への第二の手紙」(以下「2コリ」)です。
しかし、2コリは内容や文体から判断して、実は複数の書簡が複雑に編集されたものだという、きわめて説得力に満ちた学説があります。岩波から出ている新約聖書では、その説にしたがって順番が入れ替えられているほどです。それは次のとおりです。
序=二コリ1:1-2
A=二コリ2:14- 二コリ3 二コリ4 二コリ5 二コリ6 二コリ7:1-4
B=二コリ10 二コリ11 二コリ12 二コリ13
C=二コリ1:3- 二コリ2:1-13 二コリ7:5-
D=二コリ8
E=二コリ9
一応ここでは、現行の順番で読んで行きますが、たえず上記のことを念頭において、いまA〜Eのうちのどれか、Cみたいに分断されているものは、以前はどういう話だったか、などを明らかにしたいと思います。
本来一つじゃなかった手紙が一つの手紙であるかのように偽装されているんで、どういうときに書かれたかなどという背景は、それぞれの部分を読んで推測するしかありません。
まず二コリ1:1-2は、最終的に2コリを編集した人が「全体の序文」としてつけたもので、本来はそれぞれの部分にこの手の序文がついていたものと思われます。
そして二コリ1:3- 二コリ2:1-13は「Cの前半」になります。
パウロさんたちはずいぶんひどい迫害にあってるみたいで、そんな中でマケドニヤ行きに出発します。懸命に生きている姿がうかんできて、これはなかなか感動的です。ちょうど今みたいにたいへんな災害のあとに読むと、慰められるところです。
なお、二コリ2:4でパウロが「多くの涙をもってあなたがたに書きおくった」という手紙が、Bであるとされています。
それから二コリ2:14-以降、しばらくはAになります。口語訳ではいきなり「しかるに」なんていうので始まりますが無視してください。順接だか逆接だかなんだかよくわからず意味不明につかわれる「??」(デ)をそう訳してるだけです。私なんかよく「で、」とギリシア語の発音そのままに訳したりします。
こっちは突然にキリストを「かおり」として表現したかと思うと、「文字なんかどうでもいい。律法なんかどうでもいい。大事なのは霊なんだ」と言ってます。これだけではなんだかよくわからないので来週の分を読んで考えましょう。
●1マカ15章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=1ma&chapter=15&mode=0
前章でペルシア(メデア)につかまっちゃったデモトリオの子のアンテオコスが、シモンと和睦をしつつ、勢力を回復します。するとアンテオコスはてのひらを返したようにユダヤを攻撃しはじめます。