[真理子日曜学校 - 真理子の生活と意見(フレーム表示) ]
真理子の召命
- 召命日
真理子が召命、つまり神様に呼び出されて「クリスチャンになれ。教会を作って牧師になれ」という使命をいただいたのは、2010年2月10日のことです。2、1、0とキレイに数字の並んだ日ですね。
それまでの私は、「広義のクリスチャン」だの「洗礼は受けていないけどクリスチャン」だのと称することはあっても、こういう言い方が誤解を与えることを恐れて、アンケートなどで宗教を書くときには仏教徒と自称してきました。外国だとけっこうあるんですよ。韓国なんか全然宗教と関係ないショッピングの会員登録で宗教書く欄があったり(書かなくてもいいんですけど)。ばべるばいぶるや真理子日曜学校でも、それからmixiなどの掲示板類でも、「私はクリスチャンじゃない」とか「クリスチャンではないお気楽な立場で」とか書いてきました。
しかし、2010年2月10日以降は、真理子日曜学校の一角に、サイバー単立教会「キリスト真理自由教会」を建立し、その牧師に就任、しかも自らに対して堅信礼(当教会は洗礼ぬきの堅信が入信儀式です)を与えて信徒となりました。宗教団体の信徒になる前に教師になっちゃったというのもヘンな話ですけどね。
ともあれ、誰が信徒で誰が教師であるか、その資格の認定は宗教団体の内規で決めることであり、国家資格も何もありませんから、これは詐称、僭称ではありません。ウソ偽りなく私はクリスチャンであり、牧師です。
「洗礼・堅信は教派にかかわらず一度きりですので、信徒となった以上、既存他教会の洗礼は死ぬまで絶対に受けません」……と思ってましたけど、その後に某教会で洗礼を受けちゃいました。2012年4月8日のことです。でも私の意識としては、この2012年4月8日が受洗日というより、やっぱり2010年2月10日が受洗日なのよね。
- 神の声を聞いた
では2010年2月10日に何が起こったか、なんですけど。
きっかけはmixiのとあるコミュで、ムスリマ(女性イスラム教徒のことね。ムスリムの女性形です)の方に「同じ神様です。なかよくしましょう」と書いたことに、とある愚か者がからんできたことです。神を信じていない者がそういうのはOKだが、クリスチャンがそう言うのは許せないそうです。そんな、立場がどうあれ、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の神様が同じであることは、高校の世界史でも習う常識だし、クリスチャンが書いているキリスト教入門書でも平気で書いてあることなんですけど、世の中にはそういう常識の通じない愚か者も多いのですね。
何度か論戦するうち、私は例によって、洗礼を受けていない以上、誤解を与える文脈ではクリスチャンを自称しませんので、そのように書いたら、私のことをウソツキだとからんできました。ウソなんかついていないんだけどね。そいつが勝手に誤解しただけ。
この人はいろいろなところで「バカクリ」「ニセクリ」「ウソクリ」などと、クリスチャンに対する罵倒語を常用する人で、今まではそういうのを第三者的な傍観者的立場でニヤニヤしながら読んでいたのですが、彼からからまれたことで、なぜか「私はクリスチャンだ」という意識が猛烈にわいてきました。クリスチャンでもないのにそいつに対する猛然とした怒りがわいてきまして、「じゃそのバカクリっていうのを請け負ってやろうじゃないか。もうこれからは仏教徒だとかクリスチャンじゃないなんて自己韜晦するのはやめよう。クリスチャンを自称しよう」という気になったんです。
これが神様の声なのでしょう。「真理ちゃん。君がクリスチャンだということは私がちゃんと知ってるよ。さあ、教会を作って牧師になり、信徒になりなさい。世の中には教会から排除された人がいっぱいいるから、真理ちゃんなりのやり方で、福音を宣べ伝えなさい」と言われたのです。
そうするとその愚か者は、いわば私に洗礼を授けてくれた大恩人ということになります。まさに火のバプテスマですわね。手荒な形という意味でも、マタ3:11 ルカ3:16に書いてあるような意味でも。
- 教会から排除された人々
教会から排除された人っていうのは、私みたいに、既存の教会の牧師様がたから受け入れてもらえないような独特な考えをもっている人というのもあるんですが、たとえばGID(性同一性障害)なんかの方もそうよね。
実は真理子は性同一性障害、男に生まれましたけど、心は女です。いろいろな教会に遊びに行っても、やっぱり教会のハードルは高いと感じます。ハッキリと拒絶されたことも何度もありますし、一応礼拝に参加させてくれたにせよよそよそしい感じ、けむたがられてる感じを受けます。そういうのが重なると、自ら教会との間に壁を作ってしまう。ともあれそんなこんなで教会に行きにくい人も多いだろうし、サイバー教会ってけっこう需要があるんじゃないかと思うんです。