[真理子日曜学校 - 真理子の生活と意見(フレーム表示) ]
 

真理子の立場

 

 
  1. 生活と意見
     「生活と意見」というのはもちろんローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』のホントのタイトル『紳士トリストラム・シャンディの生活と意見(The Life and Opinions of Tristram Shandy, Gentleman)』からいただいたものです。伊藤整の『得能五郎の生活と意見』『伊藤整氏の生活と意見』をはじめ、ネットで「生活と意見」で検索するとずらずらずらっと出てくるように、「○○の生活と意見」は一つの系譜になるほどの伝統的タイトルですから。
     もっとも「生活」というのは誤訳と言い切っていいでしょう。「生涯」のほうがいいし、せいぜい「人生」というところです。たとえばダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』の正式タイトルはThe Life and Strange Surprising Adventures of Robinson Crusoe. これを「ロビンソン・クルーソーの生活と奇しくも驚くべき冒険」なんて訳したらおかしいでしょ? 絶対に「生涯」です。選挙前の政見放送の「経歴と政見」にちなんで、「経歴」と意訳してもいいほど。ただし、「生活と意見」という訳がもう定着してるので、ぶつぶつ言いながらも従います。
     ちなみに私の卒論タイトルは『宗教小説としてのロビンソン漂流記』。この小説ってけっこう聖書の引用が多くて、宗教小説としても読めちゃうんですね。というより、通俗小説ってけっこう安直に聖書を引用するものが多いから、キリスト教的伝統のない日本人には、「あれ、これって宗教小説?」っていう気になっちゃうってことなんですけどね。
     もともとこのコンテンツは、私の独特な聖書観をつけてこのサイトの総合案内を書くだけの予定だったんですけど、ネットを見てるうち、あまりにもトホホなクリスチャンが多いんで、もう少し私の考えを多角的に書いて置かねばと思って、いろいろ内容を増やしてきたものです。そうすると聖書だけでなく生活に関することが多くなりますので、「生活と意見」というタイトルにしたわけです。

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  3. 真理子の立場
     真理子はクリスチャンです。キリスト者です。
     しかし、このようにハッキリと言い切ることができるようになるまでは、いろいろ葛藤がありました。なぜなら、真理子は長いこと洗礼を受けることをためらっていたからです。私の独特な聖書への考え方を受け入れてくれる教会にめぐり合ったことがなく、教会を訪問しても牧師先生とケンカになるか、雰囲気になじめないかで終わってしまうからです。
     既存の教派・教会の考えにとらわれず、聖書やキリスト教についてヘンだと思ったことをごまかしたりツジツマあわせしたりせずに率直にヘンだと表明したい。その思いから、研究機関としての真理子日曜学校、およびそこでの研究に基づいた信仰生活を提案する場としてのキリスト真理自由教会を創ったのです。

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  5. 真理子流の聖書の信じ方
     真理子は聖書を信じております。ただしそれは、ファンダメンタルな方々がしているような、聖書の一字一句すべてを神の霊感が反映された誤りも矛盾もないものとして信じているというような信じ方ではありません。
     聖書は決して神様が書いたものではなく、人間が書いたものです。仮に書いたときに神様の霊感が働いたとしても、不完全な生き物である人間はそれをそのまま受け止めて書き留めることはできず、いろいろな間違いやゆがみが生じてしまいます。さらにそれが書き写し書き写しされていくうちに、伝言ゲームのように書き誤りが起こったり、書き写した人の主観で表現が変わってしまったりという過程を経てきたのが、いま私たちが目にしている聖書です。
     ですから聖書には誤りや矛盾がいっぱいあります。
     しかし真理子にとって興味深いのは、そういう誤りや矛盾をも、浅はかな考えで書き換えたりせず、そのまま受け継いできた聖書受容の歴史です。創世記冒頭の矛盾した2つの創造神話、4福音書のさまざまな矛盾、さまざまな悪徳、新約聖書によって一部(しかしかなり多く)が否定された旧約聖書……、こんなものは適当に編集したり切り捨てたりしたほうが、キリスト教にとってははるかに好都合なはずなのに、あえてそのまま受け継がれている。こういうところに真理子は不思議さと面白さと由緒深さを感ぜざるをえません。これこそが真理子が聖書を愛してやまない点なのです。
     この意味で真理子は聖書を「信じて」いるのです。

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  7. 真理子の嫌いなこと
     ずばり「聖書の盲信」に反対します。キリスト教各教派の考え方はできる限り尊重しようとは思いますし、信仰上の立場として聖書を誤りなき神のみことばなどと称するのはご自由ですし、そういう方の考え方をも学ぼうとは思うのですが、それを盲信するような言動だけはハッキリと反対しておきます。聖書には誤り・矛盾・悪徳・差別が満ち溢れています。そういったものに目をつぶったり、こじつけたり、強弁したり、あげくの果てには「差別的な表現」を書き換えたり…… 聖書を絶対の真理と信じている人ほどこのような聖書への裏切り行為をしているのが現実です。真理子こういう人たちをみると、聖書を信じているといいながら聖書を大切にしないとんでもない偽善者であると感じます。このような方々は当真理子日曜学校、キリスト真理自由教会には来ないでどっかへ行ってください。この件については改めて論じます。

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