[真理子日曜学校 - キリスト真理自由教会(フレーム表示) ]
当面の目標
- 説教
当キリスト真理自由教会はサイバー教会ですので、洗礼、聖餐はおろか日曜礼拝すらすることができません。でもそれではあんまりなので、真理子が聖書のあちこちやキリスト教、宗教一般について感じていることを説教風にしたてていきましょう。
これを60個くらい書きためれば、教会暦に従って「今日は○○の主日だからこの説教読んでね。読んだらお祈りしてパンとウェルチジュース(ワインでもいいんですけど)飲んでね」という形で日曜礼拝をすることができますから。
- さしあたりのテーマ
さしあたりのテーマとしては、いろんな教会の牧師さんが、たぶんこんなところは絶対にとりあげないだろうなっていう、聖書のヘンな部分をとりあげていこうと思います。
イエス様もけっこうヘンなことを言ったりやったりしてるんですよね。いちじくの木を呪ってみたり、家族は敵だと言ってみたり。またパウロはパウロで女嫌いの困った奴だし。そういうところでは注解書もごにょごにょ書いてごまかしてたりしますけど、当教会ではあえてそういう部分をとりあげてみたいと思います。
だからと言って、当教会も、異端ギリギリ(すでに十分異端!?)ではあっても一応キリスト教会を標榜しております。聖書やイエス様や神様を誹謗する気は毛頭ありません。見かけ上は辛口かもしれませんが、根底には神様への愛とイエス様への信頼に満ちあふれております。
これってとっても難しいんですよ。よくとりあげられる、いかにもすばらしそうな箇所について説教するほうがはるかにラクです。逆に「いちじくの木の呪い」とか「家族は敵だ」なんてイエス様が言ってる部分、どうしようかって悩んじゃいますもん。こういうところをとりあげて説教するのって茨の道ですよ。
でも真理子はあえてそういう部分にチャレンジします。「狭き門より入れ」(マタ7:13)なんていうみことばもありますしね。真理子の生きてきた53年間の人生をかけて、考えに考えに考え抜いて、そういうヘンな部分と格闘した結果、さしあたり今はこう考えている、という考えを書いていきますわ。
- 一味違う教会をめざして
当教会はさまざまな理由で教会にいけない人のための安らぎの教会であると同時に、既存の教会に飽き足らない人のための教会、ちょっと変わった考えにも触れてみようという人のための教会です。ですからあえて独自色を出すために、さしあたりは「聖書のヘンな部分シリーズ」からはじめ、いろいろなテーマで説教を書いて、最終的には教会暦に従って再構成していきたいと思っております。お楽しみに。
- 聖書を手助けなしに読むのは難しい
切り身になってスーパーで売られている魚しか料理したことがない人は、釣りの好きなお隣さんに魚をプレゼントされると当惑してしまうかもしれません。悪戦苦闘しているうちにぐしゃぐしゃになっちゃうかもしれませんね。料理の得意な方は魚を三枚におろすなんて苦もなくできるでしょうけど。
私はよく「聖書というのは魚まるごと一匹みたいなものだ」と言うんです。聖書って読むのが難しいんですね。ホントは「生きている鶏一匹だ」ぐらいに言いたいんですけど、まあ、コツさえ飲み込めば聖書を読むのも少しは簡単になりますので魚ぐらいにしておきます。
旧約聖書なんか、豚食べちゃいけないとかヘンなことがいっぱい書いてるし、新約聖書だってマタイの冒頭なんか名前ずらずらですよね。何も知らない人がはいと言って聖書を渡されても、つまずいちゃう危険性がかなりあります。だから宣教運動で聖書を配るのって、注意深くやらないとかえって有害なんじゃないかって思います。
むしろあげるんならば、切り身になった魚、つまり、聖書やキリスト教についてやさしく解説した解説書とか、宗教的なエッセーなどのほうがはるかに役に立つと思います。そういうのは、魚を三枚におろすような料理の醍醐味はないかもしれないけど、料理に失敗する、つまり、つまずく危険性も少ないと思いますから。
- イエスはなぜわがままなのか
そんな聖書の解説書の中で、ぜひみなさんにぜひおすすめしたいのが、岡野昌雄『イエスはなぜわがままなのか』(アスキー新書 2008)です。今日読むいちじくの木の呪いのエピソードを含め、福音書に書かれたイエス様のヘンなエピソードばかりをとりあげたものです。しかしこの本はけっしてイエス様を誹謗するものではありません。著者の岡野先生はフェリス女学院という立派なキリスト教系の学校の学院長をしておられる方ですから。
この本のすばらしいところは、性急に答えを出そうとしていないことです。聖書にはときどきこういうわけのわからないところがあるけれど、それがどういうことなのか悩んでごらんなさい、それが神と向き合うことなのですよ、と教えてくれる、大変すばらしいキリスト教入門書にしあがっています。
当面私も、聖書のヘンな部分をとりあげてその意味を考えていこうとするので、この本に紹介されているエピソードと同じところを扱うことも多いでしょう。私の答えは一つの可能性でしかありませんし、私自身が今後生きていくうちに考えを改めることだってあるかもしれません。みなさんもぜひ、私の答えを一つのヒントととらえるだけにとどめ、ぜひご自分で考え続けてみてください。