[真理子日曜学校 - 真理子の生活と意見(フレーム表示) ]
続・私の愛したコンピュータ
- コンピュータから夢が消えた
「私の愛したコンピュータ」で書いたあたりまでは、コンピュータに夢があった時代でした。今にして思えば実用性には乏しかったけど夢がありました。このページでは、コンピュータが実用的な文房具になりきってしまった時代からあとの話をします。
- CP/M
今のパソコンは電源ONでハードディスクにインストールされたWindowsが起動して、その上でいろんなアプリケーションが動くわけですけど、昔はハードディスクを持っている人は少なかったので、フロッピーから立ち上げたんです(初代の98って、ハードディスクからの立ち上げが不可能だったんですよ)。フロッピーは必ず2台必要で、1台はシステムとアプリケーション用、もう1台がデータの読み書き用というのが一般的な使いみちでした。
98を含めて、昔のパソコンは電源ONですぐBASICが起動するタイプで、原則としてBASICでプログラミングする以外に使いみちのないマシンでした。フロッピーが接続されていなければカセットテープしか記録媒体はありません。フロッピーが接続されていれば、起動用フロッピーからフロッピー読み書きのための拡張命令用ルーチン(DISK-BASICと言いました)を読み込むというものでした。
いくつかの先進的なマシンでは、フロッピー管理や基本入出力のシステムをDOS(Disk Operating System)というシステムプログラムとして独立させて、その上でBASICやその他の言語、アプリケーションを動作させる形をとっていました。このようにすると、そのDOSさえ別機種用に書き換えれば、その上のソフトは全く同じですみます。これだと一つのソフトが数多くの機種で動作するので、数多くのすぐれたソフトが開発され販売されました。
PC-8001などに使われていた8ビットCPU用のDOSとしてはCP/Mが広く使われ、この上で動くさまざまなプログラム言語やワープロ、表計算、データベースなどのアプリケーションが売られていました。98はCPUが違うのでこれらのソフトは動きませんでしたが、98でCP/Mソフトを動作させるための8ビットCPU(Z80)ボードも存在し、なにを隠そう、真理子のおじさんも使っていたので、真理子もCP/M用ソフトではいろいろ遊びました。
実はこれらのソフトをアーカイブしているサイトがあるんですよ。Commercial CP/M Software Archive.html。Windows用やマック用ののCP/MエミュレータがVectorにあるので(Windows用ならCP/M program EXEcutor for Win32がおすすめ)、それを使って動かしてみてください。当時の実機よりはるかに高速に動作することでしょう。80年代前半の雰囲気を味わっていただけるのではないでしょうか。
- MS-DOS
98の16ビットCPU用にCP/Mを移植したCP/M86というものもありましたが、むしろマイクロソフトのMS-DOSが一般的になりました。もともとはIBM-PC用のDOSでしたが、98をはじめとして同じCPUを使ったマシン用にも売られました。かつて高機能なソフトがCP/M上で動いたように、多くのソフトはMS-DOS上で動くようになりました。一太郎も、Lotus 1-2-3も、まずMS-DOSが立ち上がって、その上で動いたでしょ?
でも、欧米ではIBM-PCとその互換機のシェアがあまりに大きくなり、実質的にIBM-PC互換機以外は存在しない状態になったので、MS-DOS用ソフトとはいっても実際にはIBM-PC専用になってしまいました。ですからそういうソフトを買ってきて98のMS-DOSで動かそうとしても動作しませんでした。IBM-PCのエミュレータもあるにはありましたが性能が低くて、動かないソフトも多数あって実用的ではありませんでした。
同じことが98のソフトにも言えました。98用ソフトの多くはMS-DOS上で動いてはいましたけど、みんな98専用の機能をがんがん使ってしまうため、他機種のMS-DOSでは動作しませんでした。かつてのように、CP/Mさえ動けばどんなマシンの上でも動作するという形にはならなかったんですね。
「私の愛したコンピュータ」で書いたように、NECは互換性を重視したり、ソフトメーカーに情報を流したりしてソフトを育てたので勝利したというところがあります。他のメーカーもソフトに力を入れればよかったのに。くだらないゲームソフトは少なくても、主要なビジネスソフトさえ動けば、同じMS-DOSだから少なくともデータだけは互換性があるので、同機種をそろえなきゃダメということにはならなかったはずですから。
ともあれ、欧米ではIBM-PC、日本では98の一人勝ちという状況が続きました。
- ハードディスク
アメリカでは早々とハードディスクが普及して、フロッピーはAドライブ1台だけになっちゃいましたけど(Bドライブって5インチフロッピーの名残りなのよ、知ってました?)、日本ではどうかすると80年代じゅうはハードディスクなしでもやっていけました。ですから98は必ずフロッピーが2台ついてました。1台がDOSとワープロなどのアプリ立ち上げ用、もう1台がデータ保存用。かな漢字変換の辞書もフロッピーをガチガチとアクセスしていて、それが遅くてイヤなら、メモリを増設して、メモリをフロッピーにみたててそこに1台目のフロッピーの内容をまるごとコピーするなんていうのがはやりました。これをするためにはコピープロテクトが邪魔なので、コピープロテクト解除のテクニックは、昔のユーザーの生活の知恵でした。
90年代になってようやくハードディスクも必需品になりましたけど、DOSの時代はハードディスクは不便でした。メニュープログラムを自分で書いたり、ユーティリティを使ったりしましたけど、各アプリがいろいろ身勝手な設定をしちゃうことが多く、1つのアプリを終えたあとは結局はDOSを再起動しないと他アプリを使えないこともしばしば。ですからこの時代のハードディスク・ユーティリティって、ハードディスクをたくさんの領域に分割してそれぞれにアプリをコピーして、必ずリセット・DOS再起動でアプリを起動するようになっていました。パワーユーザはそんなのイヤがりましたので、アプリのインストーラを信用せず、パスをはじめさまざまな環境変数を設定してプログラムを起動するバッチファイルを自分で書いたりしたものです。
Windows3.1が出たとき、当時はDOSを起動してからWindowsを起動したんですが、パワーユーザは「ウチのWindowsはヤケに遅い」と悩んだものです。Windowsのインストーラを信用せず、自分勝手にいろいろやると遅くなっちゃうんですね。このころからパワーユーザも、おとなしくアプリのインストーラを使うようになりました。そもそもWindows上のアプリは、インストーラ使わなきゃ絶対にインストールできませんからね。他のマシンにインストールされたファイルをコピーしても動かない。これでコピープロテクトも意味がなくなり消えていきました。
- IBM互換機
ずっと98を使い続けていた真理子も、今使っているのは98じゃありません。Windowsマシンです。みなさん、Windowsマシンって、実はIBM-PCの互換機なんですよ。そのことを忘れかけていませんか?
では98ユーザーの私がどうしてIBM互換機に乗り換えたかっていういきさつを書きましょう。
IBM-PCの初代が出たのは1981年でしたけど、1990年にソフトだけで日本語使用可能なDOS/Vが出て、日本でIBM互換機が広まったのは実質的にはここからですね。
そのころ健闘していたのが東芝のJ-3100、特にノートパソコンのダイナブックでした。このころは98のソフトもみんなMS-DOSで動くようになっていて、DOS/Vとはフロッピーが相互に読み書きできましたから、乗り換えや併用はラクでした。98用ビジネスソフトもDOS/V版がいろいろ出たので、IBM互換機でも不便はなくなりました。
- Windowsの登場
IBM互換機が98を放逐したキッカケは、なんといってもWindowsでしょうね。
昔はWindowsって、Excelについてくるものだったんですよ。98の表計算ソフトとしてよく使われていたのはマイクロソフトのMultiplan、ただしこれ、グラフを描く機能がなかったので、だんだんLotus 1-2-3にとってかわられちゃいました。ExcelはMultiplanの後継ソフトですけど、そもそもマック用ソフトだったので、IBM-PCや98で動かすためには、MS-DOSをマック風に変身させなきゃいけなかったんです。それで開発されたのがWindowsでした。このころのWindowsはMS-DOSを立ち上げてからwinリターンで起動したんですよ。ただしメモリをがんがん増設してないと動かなかったし、ハードディスクも必須だし、Excel以外には動くソフトは絶無だったんで、Excelを使わなければ無関係でいられましたね。
90年にWindows 3.0、92年にWindows 3.1が出て、やっとWindowsがまともに使えるものになりました。画面もマックと遜色がないキレイなものになったし、Wordをはじめいろんなソフトも出るようになりました。
画面がキレイかどうかはどうでもいいことでしたけど、同時にいろんなソフトを立ち上げて、データのやり取りが自由自在になったのが衝撃でした。昔はアプリケーション間でデータをやり取りするのが大変で、テキストファイルなり何なりに書き出して読み込ませたり、それでもうまく変換できなくてプログラムを自作することもしばしば。少ないデータなら手でメモして打ち込み直したほうが早かったかも。それが自由にコピペできるようになったわけですからね。
グラフィックデータを文書に入れるのもラクになり、図の入った文書もラクに作れるようになりました。図の入った文書はDOSの時代から作れはしましたけど、いろいろ制約があって大変でしたから。
- 消えていった98
Windowsが普及してくると、Windowsを快適に動かせるかどうかがパソコン選びの決め手になっていきました。ここで初めて98が不利になったんですね。
98って、グラフィックが640×400ドットで16色。これを変更しちゃうと過去のソフトが動かなくなるのでずっとこのままでした。毎年新しいモデルは出るんですが、CPUを速いものにしたりという微妙な変更だけで、画面はずっと640×400ドット。ところがWindowsは最低でもVGAの640×480ドットで、外国のソフトは当然それを前提にしてますから、画面の下の80ドット分のところにボタンを配置されちゃうとボタンが押せなくなっちゃう。
そしてこのころから、台湾製をはじめとする激安のパソコンが出回り始めると、スピードも早くメモリをふんだんに積んだパソコンが、98よりはるかに安い値段で手に入るようになっちゃった。そんなわけでこのころから、98を見捨ててIBM互換機に乗り換える人が多くなりました。
ずっとおじさんの家でパソコンを使っていた真理子は、大学合格祝で98(RA21)を買ってもらい、学生時代はこれを使ってました。94年に卒業、卒論をWordで作っていたのですが(この話は「ワープロ」で)、98のWindowsのあまりの遅さと画面の狭さに閉口し、Windows3.1を快適に動かすために秋葉原の無名ブランドのマシンを買ったのが、真理子のIBM互換機事始めでした。
あ、マハーポーシャじゃないですよ。あのころはオウム真理教が資金稼ぎのためにマハーポーシャっていうパソコンショップを運営していて、秋葉原では白い服着た方々がヘンな手つきでチラシ配ってましたね。
Windows95が出るとFMV買って、Windows98が出るとまた無名ブランドのマシンを買いました。OSをアップグレードするといろいろ不具合が出たり、遅くて使いものにならなくなったりっていう実例をいろいろ見てたんで、「OSはアップグレードしない。最初からインストールされてるマシンに買い換える」というのが真理子の信条です。
Windows98が出たときに、これを動かすのにふさわしいパソコン規格(もちろんIBM互換機の規格よ)っていうのが提唱されて、その名前がなんとPC-98。あれ、どこかで聞いたことある名前ですね。そう、NECのPC-9801ととっても紛らわしい名前ですよね。NECとしては一刻も早くIBM互換機を出したかったんだけど、98を見捨ててIBM互換機にするっていうと日本は大パニックになるので、1998年という絶好の機会を待って、わけのわからないどさくさのうちに98を引退させたってわけです。
一応Windows98までは98用が出ましたけど、それが98用Windowsの最後になりました。これで98はあっという間になくなりましたね。
- マックに振り向きもしなかった理由
「女の子だったらマックに興味はなかった?」なんてよく聞かれます。たしかにマックはデザインがステキですよね。でも私は見向きもしませんでした。理由はやっぱり「長いものに巻かれろ」ですよ。マックが出たときから今に至るまで、マックは一度たりとも「一番売れているマシン」の地位を獲得したことがありません。ですから買わない。それだけです。
今ならパソコンは一家に数台あって当たり前、うちなんか4台あって、ルータのコネクタがふさがってるわ。ですからそのうち1台くらいは別の機種にしてもいいかもしれません。実際、この4台のうち1台はLinuxを入れてますから。でもそれは、Linuxが無料で手に入るからです。マックにしたらソフトをまるきり買わなきゃダメじゃないですか? そんなの高い買い物です。
ともあれ、98にどっぷりつかってきた真理子には、マックはまるきり別の世界でした。パソコンの経験が何もなかったら、最初からマックだったかもしれませんね。
そして、私の周囲に存在したマックユーザーが、ことごとく、自分のマシンを自慢する鼻持ちならない傲慢ないじめっ子で、98やらIBM互換機やらDOS/VやらWindowsやらをバカにするイヤなヤツだったのも大きな理由でした。なぜかマックユーザーにはこういうモンスターがかなり高い確率で発生しますよね。もちろんそれはマイナー機種であるがゆえの劣等感の裏返しにすぎないし、たぶんアップルの姿勢自体にそういうものがあって自然と伝染するのでしょう。98やIBM互換機ばっかり使ってきた私はさんざんマックユーザーにバカにされたので、コンピュータはむろんのことiPodもiPhoneも見向きもしません。絶対にアップルの製品だけは使うまいと心に誓ってますもの。私が使ってるアップルの製品って、QuickTime playerとSafariくらいかしら(どっちも無料)。
- おカネの話
80年代前半は、パソコンをフルセット買うと100万円の出費でした。ソフトも高価で、ワープロの松が128000円。なんて高いんでしょう! 後に、松を開発した管理工学研究所の方が書いたエッセーに、「どういう値段をつけていいかわからず、とりあえずつけた値段」なんて書いてありました。なんてイイカゲンなんでしょう!
でも実際にこの時代はソフトは高かったのです。上に書いたCP/Mのソフトでいえば、英文ワープロのWordStarは168000円、dBASE IIは268000円、エディタのWordMasterも3万円台、言語のコンパイラはだいたい5万円~10万円というところでした。そう思うとダウンロードする手がふるえてきます。
そう、パソコンを趣味にすると、収入のすべてをコンピュータにもってかれても不思議はありませんでした。それだけの出費をしてもかまわないというほど魅せられた人にしてはじめて使える「夢を売る機械」だったというわけです。
実際、パソコンが普及して、夢を売る機械じゃなくなっちゃうと、どんどん安くなりましたよね。80年代後半の98は50万円台(フルセットでね。以下同)、90年代前半のIBM互換機は30万円台、90年代後半は20万円台で、今じゃ安ければ5万円前後、かなりいいスペックのものでも10万円台。それでソフトまでみんなついてくる。
そう、ソフトは最初からインストールされてるものになりました。「パソコン1台ごとにソフトを1本買え」とソフトメーカーは言いますが、それができるのはWindowsだけ。Windowsはともかく買わなきゃパソコン動きませんから。あとはMicrosoft Officeみたいに売れ筋ソフトだとマイクロソフトも強気の値段をつけてますけど、これだってOpenOfficeみたいに無料互換ソフトですませることができる。無料ないし安いソフトがネットからダウンロードできます。ブラウザは無料、言語も無料です。
かつてソフトが高価でコピーが横行した時代に、評論家は「実務で使うことを考えたら決して高くはない」とソフトメーカーを擁護し、「日本人はハードにお金はかけるのにソフトにお金をかけようとしない」と批判しましたが、ソフトはできれば無料、少なくとももっと安くというのが自然の感覚なんですよ。そして今こそそういう状態になったというわけです。