[真理子日曜学校 - キリスト真理自由教会(フレーム表示) ]
 

まずは和解を


 
  1. 今日の聖句
     マコ11:12-14,20-25
     せっかくのサイバー教会で、聖書をすぐに参照できるのですから、実際の聖句はこのリンクをクリックしてばべるばいぶるで見てください。以下、あらすじをまとめておきます。
     イエスがエルサレムについて、その郊外のベタニヤに泊まりました。翌朝、非常にお腹がすいたイエスがいちじくの木を見ました。葉はしげっていたのですが実が全然なっていません。季節はずれだったのですね。イエスは「永久にお前の実を食べるものがないように」と言い、弟子たちも聞いていました。翌朝見ると、そのいちじくの木は枯れていたので、ペテロは「先生がのろったいちじくの木が枯れてます」と言いました。イエスは弟子たちに、「祈りは何でもかなう」「誰かに恨みごとがあったらその人をゆるせ」と教えました。
     同様の箇所がマタ21:17-22にもありますが、今日はマルコのほうで考えてみましょう。

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  3. イエス様も間違った
     あまりに不可解なエピソードなんで注解書はごにょごにょとわけわからないこといろいろ書いてますけど、私は案外、イエス様はホントに腹いせで「チクショー、枯れちまえ」って言っちゃったんじゃないかと思っています。
     以前、mixiというところで「職場の人に呪いをかけてしまった」と言って悩んでいる人がいました。そこで私は「イエス様だって呪っちゃったことがあるんですよ」と、このエピソードを紹介して、これから申し上げるような私の解釈を書きました。それが「人を呪うな」というアドバイスになると思ったからです。そうしたら、ある狂信的なクリスチャンが、イエス様の悪口を言うのはけしからんと怒りのメッセージを書いてきました。じゃあなたはこの聖句からどういうメッセージを読み取るのかって聞いたら、「エルサレムに対する裁き」「十字架への道の備え」だの、注解書に書いてあるような語句を丸写しして、「長くなるからメールで答える」って書いてきました。私は待ってたんですけどちっともメールが来ない。そのうちこの人、自分の書き込みを削除しちゃいました。ですからいま証拠を出そうにも出せません。まあ、こういうこともあろうかと思って消す前に保存しておいたので、ここにさらし者にしてやってもいいのですが、そういう大人げないことはやめましょう。それこそ「人を呪うな」に反しちゃいますからね。書き込みが消されちゃったこともあり、この人のお名前も公開するのは控えておきます(が、何かあったらいつでも公開する用意がありますわよ)。
     でもね、イエス様だって人間だから間違うことだってあるんですよ。イエス様は神様であると同時に人でもあるんですよ。人である以上はご飯も食べればウンチもオシッコもするんです。そしてこういうふうに間違っちゃうことだってある。そういう方だからこそ私たちは従うことができるんですよ。まるきりの神様だったらあまりに恐れ多くて従えないじゃありませんか。

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  5. 空腹だった
     現に今日読んだ聖句には「イエスは空腹を覚えられた」とあります。ここは本当に人間くさいでしょ? イエス様がまるっきりの神様であれば空腹なんて覚えるはずがないんですから。
     ところで、聖書を読むときのコツを一つ伝授しましょう。こんなふうに「イエスは空腹を覚えられた」なんていう、ごくごく当たり前のことがさりげなく書いてあるときというのは、「猛烈に猛烈に、死ぬほど空腹だった」ぐらいに読んでください。聖書のような古典って、一句一語の重みが、現代の小説なんかと比べ物にならないくらい重いんです。だって昔は、文字を書くのが大変だったんです。パピルスのような破れやすく、そのくせ高価な紙です。本当に重要なことしか書かなかった。「空腹だった」なんていう当たり前のことを書いて紙を埋めるなんていうもったいないことはしない。文字に書き留めるほどに深刻に空腹だったということなのです。
     この日の前日はイエス一行はエルサレム郊外のベタニヤというところに宿泊しました。それは公共的なホテルなどではなくて支持者の家だったのでしょう。すると、突然13人の男の訪問を受けた家では食事の用意も十分にできなかった。イエスは弟子に多く食べさせ、ご自分はガマンなさった。まあそんな事情があったのでしょうか。

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  7. 私の解釈
     さて、私の解釈です。
     人間イエス様は、ホントに腹いせで「チクショー、枯れちまえ」って言っちゃったんですよ。そしたらホントに枯れちゃった。イエス様は非常にばつが悪くなって、弟子たちに「神様を信じなさい。祈りは何でもかなうんだよ」といってごまかしちゃったというわけです。
     このエピソードは上にも書いたようにマルコにもマタイにもあります。新約聖書は、マタイ、マルコという順番に収録されているので、マタイが先に書かれたような気がしますが、実はマルコが先です。マルコのヘンな点を書きあらためながら、今は失われた「Q資料」と呼ばれる資料も加味して、マタイやルカが書かれたんですね。だからマタイ、マルコ、ルカで共通するエピソードを見るときは、マタイやルカを先に見ちゃうとさまざまな余計な操作がされている可能性があるので、まずはマルコを見るというのがコツです。
     今回はマルコとマタイにあるのですが、マタイを見ると、上に書いたマコ11:12にある「イエスは空腹を覚えられた」という部分、マコ11:25にある「誰かに恨みごとがあるならゆるせ」という部分がありません。イエス様がいちじくを呪うなんてマズいと思ったのか、マタイはこういう部分を省略することによって、このエピソードはホントじゃないんだ、比喩的・象徴的なものにすぎないのだと、ごまかしたわけです(でも、ごまかすぐらいなら書かなきゃいいんだけどね)。しかし、マタイが省略しちゃったところを読むと、比喩的・象徴的に読む余地はない。はっきり「空腹だった」とあるんだし、実際に呪っちゃったからこそ、「おいらはうっかり呪って枯らしちゃったけど、こんなことしないで、恨みに思ったらゆるしなさい」という話になるわけです。
     聖書無謬説の立場ではこういうマズいエピソードはごまかしちゃうのかと思ったら、『新聖書注解』(いのちのことば社)を見たら、ホントにあったエピソードだと思え、と書いてありました。意外にすがすがしい態度で好感が持てます(笑)。むしろリベラル系の『新共同訳聖書注解』(日本基督教団出版局)のほうが象徴的なものだとごまかしてます。
     また、昔は印刷技術がありませんでしたので、聖書は何度も何度も書き写されて伝えられたわけです。すると写し間違いも起こる。そこである写本と別の写本で記述が違うときに、どちらがオリジナルだったのかを考える。一概には言えないのですが、一つのコツとして、ヘンな記述のほうがオリジナルではないかと考えてみるというのがあります。ヘンなものを妥当なものに書き改めるのは当たり前だが、妥当なものをわざわざヘンな形に書き換える人はいないからです。この観点からも、イエス様のいちじくの呪いは、ホントのエピソードだった可能性が高い。

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  9. 呪いがかなっちゃったら
     しかし私たちにとってより重要なのは、いちじくの呪いのエピソードがホントかどうかというより、ここからどういう教えを読み取るかということです。
     考えてみれば、私たちはしょっちゅう人を呪っていませんか? たとえば車を運転してて、強引に割り込んできた車があったとします。「こいつ、死んじまえ」ぐらいのこと、思ったりしません? 私なんかしょっちゅうですよ。思ったっていいんですよ。そんなこと思うなっていうのが正しい教えかもしれませんが、人間は罪深いですから、どうしても怒っちゃう。事故が起きたら大変ですから、悪いことを見てニコニコしてろっていうほうがどうかしてます。人間、怒ることも必要なんです。
     しかし、どうでしょう。「こいつ、死んじまえ」と思うだけでなく、それをついつい口に出してしまったら。それを同乗していた子どもたちが聞いちゃったら。そして次の瞬間、この車がホントに事故を起こして、運転手が目の前で死んじゃったら、どうします?
     論理的に考えれば、運転手の死と「こいつ、死んじまえ」と言ったこととは、何の関係もありません。でもそう割り切れますか? 「ママ、ホントに死んじゃったよ」とぶるぶる震えてる子どもたちの前で、あなたは何て言いますか?
     いちじくが枯れたのを見た弟子たちの気持ちはたぶんこの子どもたちの気持ちと同じだったんじゃないでしょうか。無視するにはあまりに衝撃的なエピソードだったので、こうやってマルコやマタイに残っちゃって、今に受け継がれているんです。
     だから人を呪っていいことなんて一つもないんですよ。その人がホントに死んじゃったら、せいせいするどころかむしろとても恐ろしくなると思います。呪いがかなうことはなくても、人を呪っている姿というのは、けっして美しいものではありません。醜さしか見えません。

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  11. 神の子であることを自覚
     呪いというのはネガティブな祈りなので、呪いがかなったということは、祈りがかなったということです。マタイはそちらの方面ばかりを強調しています。
     イエス様がいちじくを呪うとホントに枯れてしまったというのは、それがいいことか悪いことかは別として、少なくとも自然を支配しうるような人間離れした能力です。そう思ったからこそ弟子たちの記憶に残ったわけですからね。
     そして、イエス様もご自身が神の子であることを決定的に気づいたのではないでしょうか?
     この聖句では、いちじくは葉がしげっていたけれども実のなる季節ではなかったとあります。いちじくは夏に茂り、実は秋にみのります。ここは過ぎ越しの祭り直前なので春。実どころか葉すら茂っていなかったのではないでしょうか。おそらくホントは、これは夏におこったエピソードなのであって、それをマルコが無理やりこの場面に挿入してしまったのでしょう。
     ではなぜマルコは、そんな不自然な編集をしたのでしょうか? この場面が、イエス様の十字架の死の直前だというところにカギがあります。
     私が常日頃からいうように、現実のイエス様は、処女から生まれるというような超自然的な生まれ方はしなかったし、神の子であるという自覚も希薄だったでしょう。が、このエピソードによって、自分が神の子であるというのを再確認したのですね。そして、その確信を胸に、十字架へとまっしぐらに進んでいったというわけです。

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  13. まず和解せよ
     さて、最後です。最後には、人を恨んじゃったらどうするかが書かれていましたね。どうするんでしたっけ?
     イエス様のことだから「そういう悪いことをしちゃったら、まず神様に祈りなさい。神様は何でもゆるしてくれます」と言いそうな気がしますけど、そうじゃないでしょう?
     25節にあるように、、「先にその人をゆるしなさい」なんです。仲直りのほうが先。
     新共同訳や新改訳では、次の26節は後代の付加として削除してありますが、そこには「その人をゆるさなかったら神様もあなたをゆるさない」という厳しいことまで書いてあります。
     また、マタ5:23-24をご覧ください。「だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい」
     「兄弟」というのは、聖書特有の言い方で、別に血がつながっていなくてもかまいません。「同胞」「友人」程度に読み替えてください。「祭壇」だの「供え物」だのというのは、現代では「神にお祈りをする」と読み替えるといいでしょう。
     こんなふうに、、「神様にお祈りするより先に仲直りしなさい」と言っているわけです。しかも「仲直りしてからでなければお祈りする資格がない」という厳しいことまで言ってます。
     クリスチャンの中には、何かマズいことがあると「私は罪びとです。神様どうかおゆるしください」なんてことを、人前で言ってしまう人がいます。ブログや掲示板を見るとそういう言葉が満ちあふれてます。これは一種の開き直りであり、とても反感を買う行為です。祈りなんかしてる場合じゃありません。まずは行動してください。
     お祈りはその後です。仲直りできたら感謝のお祈りをしてください。それでも仲直りできなかったら、そのときはじめて、「私の罪によってケンカになってしまいました。仲直りしようとしましたがどうしても仲直りできないんです。どうしましょうか?」と、問いかけの祈りをしてみてください。それからいったん時間をおいて、もう一度仲直りの努力をしてみてください。それがかなうかどうかは、神様のみこころ次第です。

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