[真理子日曜学校 - 聖書の言語入門(フレーム表示) ]
【日本語文語コース】

口上

 

  1. どんな言葉?
     「日本語が聖書の言語なのか?」「日本語は外国語じゃないだろう!」という声が聞こえてきそうですね。確かに日本はキリスト教国とはいえませんが、それでも本格的な聖書翻訳が始まってから100年の歴史がありますので、日本語も一応「聖書の言語」の仲間に加えてあげてもいいのではないでしょうか。
     日本語聖書といってもいろいろありますが、文学者に圧倒的な支持を受けているのが文語訳聖書です。1954/1955年に翻訳された『口語訳聖書』の文体が非常に評判が悪かったので(丸谷才一の痛烈な批判が有名です)、文学者が聖書を引用するときは、いまだに文語訳聖書を用いることが多いようです。
     まあ作家先生が文語聖書を好むのはご自由ですが、今ではまともに古文を教えない高校が多いという事実にお気づきなのでしょうか。今どきの若者にとっては文語なんて読む気がさらさら起きないし、無理をして読んだとしても、「求めよ、さらば与えられん?」ああ、「求めたらサヨウナラ、与えられません」となりかねません。
     「ギリシア語やヘブライ語なんかより、いや英語なんかより、文語訳聖書だってわかんねえよ」という方のために、文語のコースを開設しなければいけないんじゃないかしら。そう思ってこのコースを作ってみました。
     文語といってもいろいろな文体がありますが、ここでは明治・大正期に聖書の翻訳に用いられたに文体にしぼります。その特徴は2つ。1つは「漢文訓読文体であること」、もう1つは「自由で奇抜なルビの多用」です。


  2. 漢文訓読文体
     明治時代の文語文の特徴は漢文の書き下し文のような文体だということです。じゃ普通の文語よりはるかに難しそうって? 逆です。はるかにやさしいのです。
     漢文訓読は中国語の文語文を一定の規則にしたがってかなり機械的に日本語に置き換えて読む手法です。いわば「中国語翻訳ソフト」といえるものです。今の翻訳ソフトの吐き出す訳文だって、技術の向上でけっこう立派な文章が出てくるかもしれませんが、それでもきまりきった単純な語法しか使わないのでいろいろぎこちないところがあるじゃないですか。漢文訓読もそうで、漢文訓読文体では非常に限られた語法しか出てこないのです。
     だから高校の古文の先生が文法問題を作るときは、漢文訓読文体の文章を嫌います。だって単純な問題しか作れないんですもの。
     語彙もそうです。難しい漢字を使った語は一見とっつきにくそうで、どうとでもとれるようなあいまいな語は少なく、現代の文章語に通じるような意味の明快な言葉が多いので、読めさえすれば非常にわかりやすいのです。まして、次項で説明する「ルビの芸術」によって、わかりやすい訓読語があてられていることが多いので、漢字のところだけ見ると恐ろしそうでも、ルビを頼りに読んでみると意外にわかりやすいものです。


  3. ルビの芸術
     明治から終戦まではすべての漢字にルビをふった出版物は珍しくありませんでした。するとルビは、漢字を知らない子ども向けの補助物という意味合いを越え、もっと積極的なものとなっていました。すべての漢字にルビをふるわけですから漢字制限などは必要なく、どんなに難しい漢字も使用することが可能です。また、歌舞伎の外題に見られるような奇抜なルビをふって、本体の漢字とのギャップを楽しむなどという芸術的効果も生むものだったのです。
     聖書もやはり、ほとんどすべての漢字(普通の読み方をする漢数字を除く)にルビがふられています。ルビを見なければ音読は不可能であり、ルビは本文の補助物ではなく本文の一部といってよい重要な存在です。
     なお、この「ルビの遊び」については、現在高校で教えられている漢文ではほとんど行われていないところなので、高校の漢文しか知らない人は、そのあまりの自由な読み方にびっくりすることでしょう。


  4. 用字法
     突然ひらがな、同じ語をあるところでは漢字で書いたかと思うと同じ文の中でこんどはひらがなで書いたりという具合に、文語聖書の用字法は一定ではありません。たとえば「汝の造られし處なんぢの生れし地」(エゼキエル21:30)。こういうのは「汝=なんぢ」という一種のルビとして機能させているのかもしれません。後半を「汝」と書いてしまうと、その直前の「處」とくっついてしまって読みにくいということもあります。そういういろいろな配慮で用字を選んでいるので、この語は絶対に漢字、この語はひらがな、という具合に統一できない事情もあるのです。


  5. おかしな文法
     文語聖書には正式な文語文法からするとおかしな言い方が時々出てきます。特に明治訳の旧約聖書に多いです。明治訳の時代には学校文法が整備されておらず、江戸時代以来の漢文訓読で行われてきたさまざまな変種が生き残っていたのでしょう。たとえば次のとおりです。
    1. 死ねる……正しくは「死ぬる」
    2. 用ゐべき……正しくは「用ゐるべき」ないし「用ふべき」
    3. 悪しし……正しくは「悪し」
    4. 植ゆる……正しくは「植うる」
    5. なせし……正しくは「なしし」
    6. えば……正しくは「ゑば」
    7. をる(終止形として eze:31:13)……正しくは「をり」
    なお、現在売られている文語訳聖書ではこれらの表現を改めているばあいがあります。


  6. 読むのに役立つ辞書
     「文語って古文だろ? じゃ古語辞典を買ってこなきゃダメ?」。いえ、逆に古語辞典は不向きです。というのは古語辞典は平安時代の女流作家の文体を標準とする和文体のものを読むためのものであり、語彙もそのような純日本のものに限定されているので、明治・大正の文語文を読むのには必ずしも適しません。
     おすすめなのは明治・大正期に出版された国語辞典。「そんなの売ってるのか」と思われるかもしれませんが、実は近代日本初の国語辞典である大槻文彦編『言海』が、ちくま学芸文庫で復刻されて2310円というけっこう安い値段で売られています。当・真理子日曜学校でもWEB版を作りました。WEB言海をお使いください。
     現代の国語辞典も使えます。特にいいのがベストセラー辞典である『広辞苑』。この辞書は現代語の国語辞典の代表のような顔をしていますが、実は「現代語も載ってる古語辞典」といえるほどに古語に強く、むしろ現代の文を読むときに注意が必要な辞典です。というのは、語義を古代→現代という歴史順に並べているので、最初に出てくる意味が必ずしも現代の用法でないということが多く、逆に昔の文を読むのに役立つのです。
     なお、現代の国語辞典で文語を読むときは、歴史的仮名遣いを現代仮名遣いに直してひかねばなりませんから注意が必要です。