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2024年4月20日(土) 通読(本日=ルカ5-6,1イミ21,クル-42回 明日=二コリ11-13,3イミ21,アル4)

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節表示・修正口語訳(日本語R)+真理子のおまけ 解題
〔57年モルモン経〕アルマ書 第42章
第42章
アルマひきつづきコリアントンに誡命を与える。正義と憐みとを説き明す。生命の木。現世は試みの世。霊の死と肉体の死。悔改めと贖いと律法と罰と、これらはみな必要である。

「わが子よ、私はこのほかにまだお前の心が乱れて解らないことがあるのを認める。それは罪人を罰する神の正義についてである。お前は罪人が不幸な境涯に置かれることを正しくないと思っている。
しかしわが子よ、私はこのことを汝に説き明そうと思う。主なる神は私たちの始祖をエデンの園から放逐して、その肉体の出て来た土をたがやさせたもうた後、生命の木を守るためにケルビムと四方八方に動いて焔を吐く剣とをエデンの園の東の端に置きたもうた。
人がもはや神のように善悪を弁えるようになったから、手を出して生命の木の実も食い、永遠に生きることのないように、主なる神はケルビムと焔を吐く剣とを置いて実を食べることをお許しにならなかった。
これから見ると、悔い改めるための時期、すなわち試しの時期が人に与えられたことは明らかである。この試しの時期は人が悔い改めて神に事えるべき時期である。
アダムが、もしもすぐに手を出して生命の木の実をとってこれを食ったならば、悔改めの時期はなくなって神の御言葉のように永遠に生きながらえ、そのために神の御言葉は空しくなり、偉大な救いの計画は無効になったであろう。
しかし見よ、人は死ななくてはならぬと定ったから、生命の木から切りはなされて地上から死んで行かなくてはならぬものとなり、永遠に神のもとからさまよって堕落した者となった。
それであるから私たちの始祖が、肉体の上からも霊の上からも主の御前から切り離され、自分の思うままをする者になったことが明らかである。
その時すぐに人を肉体の死から救うのは、人に幸福を与える偉大な計画を破壊してこれを無効にするのであるからその必要がなかった。
霊はいつまでも決して消え失せることのできないものであったから、始祖の堕落は肉体の死ばかりでなく霊の死までもあらゆる人類に及ぼした。霊の死とは人が主の御前から断ち切られることである。それであるから、霊の死からあらゆる人類を救うことは必要であった。
しかし、世の人は生れながら肉の欲とみだらな欲とに満ち、また悪心のある者となったから、この試しの時期は世の人が用意をする時、すなわち準備の時期となった。
わが子よ、忘れるな。もしも贖い救う計画がないならば(これを棄てるならば)人の肉体が死ぬとその霊は主の御前から断ち切られるので、すぐに不幸となるのである。
人が自分の不従順によって自らに招いた堕落の状態からこれを救い出す方法はなかった。
従って、正義から言えば、人がこの試しの時期すなわち準備の時期に悔い改めると言う条件がなければ贖い救う計画を成就することはできない。この条件なしには、正義の働きを捨てずに憐みを施すことはできない。もしも正義の働きが棄てられるならば、神は神たる資格がなくなるのであるから、正義の働きを棄てることはできないのである。
それであるから、あらゆる人類は堕落して正義の手の中にあったことが明らかである。まことに、その正義は神の正義であって、人類を神の御前から永久に断ち切ったものである。
憐みの計画は、身代りによる罪の贖いが行われない中は成就すべきものではなかった。それであるから、神は憐みの計画を成就させるためと正義の要求に応ずるためと、また自らが完全で正義の憐み深い神であるために、自分が代って世の人の罪を贖いたもうのである。
さて霊の生命のように永遠の幸福の計画の反対に、霊の生命のように永遠の罰が定めてなかったならば、人は悔改めをすることができなかった。
なぜならば、人が罪を犯さなかったならば、どうして悔い改めることができようか。律法がなかったならばどうして罪を犯すことができようか。罰を定めなかったならば、どうして律法があり得ようか。
始めに罰が定められ、正しい律法が立てられたから、この律法があるために人は良心にとがめられて悔いるようになった。
もしも律法がなく、人殺しをする者を死刑に処すべしと言う律法がなかったならば、人は人殺しをしたとて死刑にされることを恐れないであろう。
もしも罪を禁ずる法律がないならば、人は罪を犯すことを恐れないであろう。
それであるから、もしも律法がないならば、罪を犯す者があっても正義も憐みも共にその者に力が及ばない。その者に力が及ばなければ正義も憐みも共に何のためになるであろうか。
しかし、律法があるから、これにつけて罰が定めてあるばかりでなく悔改めもまた許されている。憐みは悔改めを要求する。そうでなければ、正義は人に要求して律法をきびしく行い、律法はこの者に罰を与える。もしそうでなければ、正義の働きは空しくなり、神は神たる資格がなくなるのである。
しかし神は神たる資格を失いたまわずに憐みは悔改めをする人々に及ぶ。このような憐みは身代りの贖罪が生ずるものであって、身代りの贖罪によって死者の復活が起り、死者の復活によって人は神の御前に復ることができる。このようにして、人は律法と正義とにより、それぞれの行いに従って裁判されるために、元の通りに復されて神の御前に行くのである。
ごらん、これによって正義はその一切の要求を満すことができ、憐みを受けるに足る一切の人々に憐みが及ぶ。それであるから、真心から悔い改める者のほかには誰も救われることができない。
お前は憐みが正義の働きを奪うことができると思うか。私は自分で答えよう。いや、少しも奪うことができない。もしそうでないならば神は神たる資格がなくなるのである。
このようにして、神は創世の前から定めた永遠の大みこころを成就したもう。このようにして、人の贖い救われることと亡びと不幸とは生ずるのである。
それであるからわが子よ。来たいと思う者は誰でも来て生命の水を自由に無料で飲んでよろしい。また来たいと思わない者は誰でも来ることを強制されない。しかしこの者は終りの日にその行いによって報いを受ける。
この者がもしも悪を行おうとし、生涯の内に悔い改めないならば、神が定めたもうた回復の法に従って罰を受ける。
今わが子よ。私はこれからお前がこれらのことについて心を悩まさず、ただ自分に悔改めをさせるような心配を以て自分の罪について心を悩まして欲しい。
わが子よ。私はお前がまた神の正義にそむかないように切に望む。どのようなささいなことでも、神の正義にさからって、自分の罪を弁解しようとしてはならない。むしろ、神の正義と憐みと寛容とを自由にお前の胸の中に往き来させて、自分の心を地にひれ伏すばかりにへりくだらせよ。
今わが子よ。お前はこの国の民に神の道を宣べ伝える務めを神から任ぜられている。さあ行って、この偉大な憐みの計画がこの国の民にも及ぶように民が悔改めをするため、誠実に真面目に神の道を宣べ伝えよ。ねがわくは、私が言った通りに神がお前に恵み下したまわんことを。アーメン。」

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