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2024年4月25日(木) 通読(本日=箴1,ユディ8,アル8 明日=エレ47-52,バル3,クル-43回)

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節表示・修正口語訳(日本語R)+真理子のおまけ 解題
〔57年モルモン経〕ニーファイ第三書 第28章
第28章
十二弟子の一人一人、その心の願いを聞き届けられる。三人の選ばれた弟子、主が栄光を具えて降りたもうまで地上にとどまる。三人の者に驚嘆すべき顕れが起る。三人の者、死も災も力を及ぼすことのできない者とされる。

イエスはこう言ってからその弟子たちに向って「われが御父の所へ昇りて後、汝らはわれに何をせられんことを願うか」と一人一人にたずねたもうた。
弟子たちはただ三人の者を除くほかどれもみな「われらが人生相当の年を重ねて死ぬ時がくると汝がその王国にまします所へ早く上れるように、汝がわれらに任命したもうた教会の務めがその時に終ることを願いたてまつる」と答えた。
するとイエスはこれに答えて「汝らはかかることをわれに願うによりてさいわいなり。さらば汝ら七十二才とならば、わが王国のわがもとへ来りて、われと共に安息につけ」と言いたもうた。
それから、ほかの三人の弟子たちに向って「われが御父の所へ昇りて後、われが何を為さば汝らの願いにかなうや」とたずねたもうた。
すると三人の者は思い切ってその願いをイエスに言えず、心の中に苦しんだ。
すると、イエスは三人の者に向って「見よ、われは汝らが心に思うことを知る。汝らは、ユダヤ人がわれを十字架にかけし前、われが福音を伝えし間にわれと共にありしわが愛するヨハネがわれに願いしと同じことを心に願う。
故に汝らはひときわさいわいなり。何とならば汝らはいつまでも死の味いを知らず、またわれが天の権と力とをたずさえわが栄光を具えて降る時には、一切の事御父のみこころのごとくに成就すれど、その時になるまで汝らは生き永らえ、その間に御父が世の人に為したもうすべての事を見るべき故なり。
また汝らは決して死の苦痛を感ぜず、われがわが栄光を具えて来る時に、汝らはまたたく間に、その死すべき肉体を持つ者より不死不滅の者に変られ、必ずわが父の王国に入りて祝福を受くべし。
またこの肉体をもちて生き永らう間にも苦痛を覚えず、また世の中の人の罪悪につきて憂い悲しむ以外には何の憂いも悲しみもなかるべし。汝らは世界の存在する間人々をわれの所へつれ来らんと望みたれば、われは以上のごとき恵みを汝らに与えん。
されば、汝らは喜びに満ちあふれてわが父の王国に座を占め、御父がわれに完全なる喜びを与えたもうたるごとく、汝らの喜びもまた完全なるべし。また汝らはわれと同じ者になるべし。われは御父と同じ者なり。われと御父とは一つの神会を成す。
聖霊は御父とわれとのことを証し、われの故に御父より世の人に与えらるるなり」と仰せになった。
イエスはこう言って、この世に生きのこるはずの三人を除いてほかの弟子たちに、一人一人イエスの指を触れてから立ち去りたもうた。
ここに於て、天が開けて三人の弟子は天に上げられ、筆にも言葉にも尽せぬことを見聞きした。
ところが三人の者はこの見聞きしたことを口に出すなと止められた。実はこのことを口に出す力を与えられなかった。
三人の者が天で見たり聞いたりした時に、三人はその肉体のままであったか、または肉体を離れていたか、かれら自身はこれを知らなかったが、神のものが見えるためには自分たちの身が変ったように、すなわちその肉体が不死不滅の状態になったように感じた。
この三人は地上に於て教えを宣べ伝えたが、その天に於て見たり聞いたりしたことは、天で受けた命令があるからこのことを伝えなかった。
この三人はその身の変った日から、死ななくてはならぬ者であったか不死不滅の者であったか私はこれを知らない。
私がこの三人について知っているだけを言うと、伝えられた歴史によれば、この三人は地の面をめぐって民に道を宣べ伝えた。そしてすべてその道を信ずる者にバプテスマを施してこれを教会に加えたが、この時バプテスマを施された者はみな聖霊を受けた。
またこの三人の者は教会に属していない者たちのために牢屋へ入れられた。しかしこの牢屋は裂け砕けて三人を閉じこめることができなかった。
また三人は地の中に埋められた。しかし、かれらが神の言葉をもって地に命ずると、神の能力によって地の中から救い出された。それであるから、三人を閉じこめるほど堅固な穴を掘ることはできなかった。
三人は三度まで炉の中へ入れられたが何の害も受けなかった。
また二度まで猛獣のおりへ入れられたが、あたかも子供が乳を呑む小羊と遊ぶように猛獣と遊んで何の害も受けなかった。
このように三人がニーファイの全国民の中を経めぐって、その地のいたる所の民にキリストの福音を宣べ伝えたから、民は心を改めて主を信じキリストの教会に加わった。このように、その時代の人々はイエスの言葉通りに恵みを受けた。
さて、私モルモンはこのことを書きしるすことをしばらくやめよう。
見よ、私はいつまでも死の味を知らぬあの三人の名前を書こうとしたが、主がこれを書くなと言いたもうたから、その名前は世の人々に示すべきではないと認めてこれを書かない。
しかし、私はかれらに逢ったことがある、またかれらが私に導きと恵みとを授けたこともある。
この三人はいつか異邦人の中に行くにちがいないが、異邦人はかれらを知らぬであろう。
ユダヤ人の所へも行くが、ユダヤ人もかれらを知らぬであろう。
主のみこころにかなう時になると、この三人はその望みを遂げるためと、自分らのもつ神の賜物である感化の力によって、あの散り散りになったイスラエルのすべての支族およびあらゆる国民、あらゆる血族、あらゆる国言葉の民、およびあらゆる人々に導きと恵みとを施して、その中から多くの者をイエスの所へ導くことができる。
この三人は神の使のようであって、この三人の者がイエスの御名によって御父に祈って願うときには、心のままに誰にでも現われることができる。
それであるから、あらゆる人間が必ずキリストの法廷に立たねばならぬあの大きな未来の日がこない内に、この三人の者は驚嘆すべき大事業をする。
裁判の日がくる前に、かれらは異邦人の中にもまた驚嘆すべき大業をする。
あなたたちが、もしキリストが為したもうた驚嘆すべき業を皆のせているすべての聖文をもっているなら、以上述べたことが必ず事実になることをキリストの御言葉によって知ると私は思う。
イエスの御言葉と、イエスが選びたもうて世につかわされた人々の言葉に聞き従わない者は禍である。イエスの御言葉とそのつかわしたもうた人々の言葉とを受け容れない者は、イエスも受け容れないのであるから、終りの日にイエスはこのような者を受け容れたまわない。
このような者はむしろ生れない方がよかった。このような者が、怒りを起したもうた神の裁きをのがれることができると思うか。この神は世に救いを来らせるために、一度世の人の足の下にふみつけられることを甘んじたもうた。
さきに私は、イエスが選びたもうた者、すなわち天に上げられたあの三人の者について、かれらが清められて、死ななくてはならぬ者から不死不滅の者になったかどうか知らないと言った。
しかしそれを書いてから、主に祈ってたずねたところ、もし三人の弟子の体に或る変化がなければ、かれらはついに死ななくてはならないと教えたもうた。
すなわち三人が死なないようにその体に変化があって、その変化によって三人は世の中にある罪悪のためでなければ、苦痛も悲しみも感じないようになった。
しかし、この変化は終りの日に体に起るはずの変化に匹敵するものではなかった。ただかれらがその肉体のまま清められて聖なる者になっただけの変化であるが、サタンはかれらに勝てず、また誘惑ができず、地上のどのような力もこの三人には効がなかった。
キリストが裁判をなしたもう日までこの有様で生き永らえ、さてその裁判の日になるとなお大きな変化を受けて御父の王国に迎え入れられ、いつまでもその国を出ることなく、永久に神と共に天に住むのである。

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