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真理子の聖書日記


このサイトを作りながら、聖書を読みながら真理子が考えたことです。
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[868] RSVのサポート 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/04(日) 20:39:16 ここから閲覧

当ばべるばいぶるでRSVのデータの閲覧とダウンロードを開始しました。RSVは日本では著作権が切れていますが、外国では切れてない国が多く、いまいちデータが多くありません。当サイトのものが一番完全だと思います。えへん。

[867] フィレモンへの手紙 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/04(日) 10:11:38 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=phm&chapter=1&mode=0
 新約聖書中の一番短い本。
 著者はパウロ。こんどはホンモノ。というより、ホンモノのパウロの書簡はこれでもうおしまいです。
 聖書の中で短い本といえば新約の2ヨハ、3ヨハとか、旧約だとオバデヤとか。
 短いのに聖典に入ったってことはとっても重要だという気がするんですが、聖書に限ってはそうではなく、むしろ、なんでこんなものが聖書に入ったの?っていうのが多いです。
 フィレモンに関しては賛否両論。
 内容は、フィレモンのところから逃亡してきた奴隷のオネシモをパウロがかわいがっていたんですが、獄中にいるパウロはもはやオネシモを使ってあげられず、主人のフィレモンに送還する。ついては、私だと思って大事にしてやれ、なんか悪いことをしたら責任は私がとる、と弁護します。
 この手紙に奴隷解放の思想を読み取るか、単に「お前、奴隷を虐待してないか? こいつをもっと大事にしてやれ」というだけの手紙と取るか。そのあたりはそれぞれでしょうけど、私としては、パウロの意図はともあれ(たぶん馬鹿パウロのことだから奴隷解放なんていう意図はさらさらなく、単に個人的な願いでしょうし、8節じゃ「キリストの名において命令したっていいんだけどさ」とずいぶん尊大な言い方までする困ったじいさんですけど)、現代のわれわれにとって意味のある読み方、部下を大切にしなさいという読み方をしてもいいと思います。でなきゃあまりにつまらない手紙じゃありませんか。

[866] ヨハネ19-21章、シラ書38章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/03(土) 06:04:01 ここから閲覧

●ヨハネ19-21章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=joh&chapter=19&mode=0
 ヨハネ伝は今日でおしまいです。
 何度も言いますが、ヨハネではイエスの死は過越の日の前日です。19章では14、31、42節でしつこくそう書いています。ですから最後の晩餐の食事も、ヨハネはパンとかぶどう酒とか何を食べたかが書かれていませんでした(12章)が、もしパンがあったとすればイーストが入っていてもよくなります。東方教会ではこれを根拠に、聖餐でのパンにイースト入りのものを使います。
 さて、ヨハネはイエス様の行状をネタに自分の言いたいことを勝手に言うという印象がありましたが、イエス様が復活してからの話はヨハネが一番長いです。マルコなんかもともとは墓石がころがっててイエス様の遺体が行方不明になっていたということしか書かれておらず、その後の話は加筆でした。マタイとルカもあんまりリアリティの感じられない話がちょこっと載ってるだけ。ところがヨハネは2章ぶん使っていろいろ書いており、しかも、今までの話にない詳しさとリアリティがあったりします。ヨハネにとっては、復活してからのイエス様を描くのが重大な関心事だったのでしょう。
 中でも有名なのはトマスがイエス様の手のクギのあとやわき腹の傷をみないと信じないといって、それを確認した話。
 21章ではペテロに対してイエス様が「私を愛するか」という質問を3度もなさっています。しかも原文で読むとその動詞が違う。
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&bible1=nalxx&book=joh&chapter=21&mode=0&direction=0
1番目と2番目がアガパオー、3番目がフィレオーです。よく、キリスト教の愛はアガペーだっていうアガペーに由来する動詞を使ってたのに、3番目だけは友愛を意味する動詞になっちゃってるんで、いろいろヘンな解釈をする人もいるようです。が、ヨハネにとってはたぶんどちらも違いはなく、単に、3回同じ動詞を使うと単調だからということなんじゃないでしょうかね。こういう繰り返しのとき、まるきり同じ語を使うのが好きな民族もあれば(インドはそうみたい)、少しずつ違う語を使うのが好きな民族もある。現代の英語話者は同じ語を使うのを嫌うので、シソーラスなんかを使って少しずつ違う語を使います。そういう発想なんじゃないかしら。
 一番最後、イエス様のなさったことを全部書きとめたら世界もそれをおさめきれないという話。生きてる間だけの話だったらそんなのウソでしょうが、復活して今もいろんなところで人知れずいろんなことをなさっているのだとすれば、そうかもしれません。ひょっとしたらそういう意味で書いてるんじゃないかしら。文法的には「なさった」にあたるεποιησενはアオリスト(過去)ですから無理がありますけど。

●シラ書38章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=38&mode=0
 最初のほうはお医者さんの話。医者にもちゃんとかかれよって。
 当たり前だと思うかもしれませんけど、信仰に熱心だと医者にかからずに信仰で治そうとする人がいます。昔は、病気が罪の結果だから病気が治ることが罪が赦されたって発想ありますからね。福音書にもそんな話がうじゃうじゃ出てきて私はなんだかなって思うんですけどね。
 信仰してたって病気にはなるんだから医者にかかればいいんです。
 でもその逆に、現代の医療はあまりに宗教的な要素を無視してますけど、なだいなださん『神、この人間的なもの』とか、一連の宗教に関する著作を見てると、実は宗教と医療って深い所でつながってるんで、それを無視しちゃいけないんですけどね。
 だから多くの宗教が病院もやってる。もちろんその病院に入ったからって信仰を強要されることはありませんけど、やっぱり宗教と医療は切っても切れない関係のはずなんですね。
 ただ、日本ではそれがそうじゃない。たとえば創価学会なんかあれだけの大きな教団で、政党まで持ってるのに、病院を一つももってない。そこらへんまだまだ「病気にかかるのは信仰が足りないから」という悪い意味で信仰と医療を混同してるような気がします。いったん、信仰は信仰、医療は医療と切り離した上で、やっぱり切り離せないっていうんならいいんですけどね。

[865] アモス書5-9章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/02(金) 08:47:32 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=amo&chapter=5&mode=0
 アモス書後半は最後の審判の預言です。まるでヨハネ黙示録そっくりの終末の光景が展開していきます。
 ところで、ヨハネ黙示録といえば苦ヨモギ。これがロシア語でチェルノブイリだというので、原発事故が起こったときにみんな終末を思い浮かべたっていうんですけど……
 実は、アモス書の今日の部分、アモ5:7アモ6:12にも出て来ます。
 ヘブライ語ではみんなלַעֲנָה(ラアナ)。黙示録はもちろんBHSの対象外ですけど、各種ヘブライ語訳ではやっぱりこう訳されてるみたいです。
 これがロシア語のいわゆるシノド聖書(聖書協会なんかでロシア語聖書として売ってるやつです)でどう訳されてるかというと、

полынь(パルイニ。ニガヨモギ)
申29:17 (オリジナルは18節) 箴5:4 エレ9:14 (オリジナルは15章) エレ23:15 哀3:15,19 黙8:11

отрава(アトラワ。毒物)
アモ5:7

горечь(ゴリチ。にがいもの)
アモ6:12

 というわけで、チェルノブイリという語はちっとも使われてないんですね。
 そもそも、チェルノブイリというのは、ホントはчернобыльник(チェルナブイリニク)みたいに、おしまいにникってつけないとヨモギの意味にならないみたいです。そもそも日本で一番使われている博友社の辞典だと載ってないわ。
 アモス書はなぜか毒とか苦味というふうに訳されていて、ヨモギですらないんですけど(公道ないし公義という抽象的なものをそれに変えるからってことだからかしら)、一般的にはヨモギ類の総称がполыньで、чернобыльникはそのうちのある品種らしいです。
 まあそれでも、一般的には、黙示録のヨモギはチェルノブイリってことで理解されてるみたいなんですけどね。
 ヨーロッパ人やユダヤ人はヨモギ食べないのかもしれませんけど、日本人には草餅のための重要な食材。日本人にとっては終末の光景もまた楽しいかもしれませんわね。

[864] 箴言25章、シラ37章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/01(木) 05:47:54 ここから閲覧

●箴言25章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=pro&chapter=25&mode=0
 ユダの王ヒゼキヤというのは、南の13代目の王様(BC715-687)。詳しくは[768]をごらんください(あんまり詳しくもないけど)。今週、民数記で読んだモーセの青銅の蛇は、その後長らく偶像崇拝の対象になっていたのですが、それをうちこわすなど、宗教浄化をしています。宗教浄化っていっても、もともと浄らかだったわけじゃありません。実際はユダヤでは昔は偶像もOK、ヤハウェさんは数ある神々のうちの一人でしかなかったんで、だんだんヤハウェさんの一神教および偶像忌避が確立していったわけです。それをいかにも、もとからそういう状態だったんだって描くのが列王記なんですね。実際にはヒゼキヤさんは、ユダヤ教をその後の偶像忌避の形に近づけていった王のうちの一人ってことなんです。そういう仕事を大々的にやるのは3代あとのヨシヤ王なんですが、その先駆者ということでしょうか。
 そんな中でこのことわざも、ソロモンのことわざという触れ込みで記録されたんでしょう。
 実際の内容は雑多なんですが、蜜に関する話が二つ出てくるのが面白い。箴25:16,27。どっちも食べすぎ注意ということですが、単に蜜の話でなく、やりすぎ注意ということになっています。

●シラ37章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=37&mode=0
 例によって、章の途中でもかまわずだんだん話題がかわっていくんですが、最初のほうの友達論は面白いです。特にシラ37:11の「めかけのことを正妻に相談するな」で始まるところが。

[863] 原発を「女」と呼んで 投稿者=真理子 掲示日=2011/08/31(水) 16:26:30 ここから閲覧

 このところ『ふしぎなキリスト教』と並んで私がTwitter上で敵意をむき出しにしてきたのが、キリスト新聞社のこの記事
http://www.kirishin.com/2011/08/201193.html
 原発を「女」と呼んで、という非常に気になる見出しを掲げておきながら、本文にはなんにも解説がなくて「詳しくは紙面で」。詳しくは紙面でったって、キリスト新聞なんか近くのコンビニで売ってるわけじゃなし、何か気になるし、そのうちだんだん腹がたってきた。
 そりゃないでしょ。何かしらヒントを書いてくれなきゃ、この見出しだけで判断するしかない。
 よく東スポがこの手を使いますよね。昔あった例では、「マイケル、妹とSEXしたいなぁと発言」のSEXの下に折り目が来るようになってて、駅の売店に並んだときには「マイケル、妹とSEX」しか見えなくなってる。買ってみたらなあんだ、という感じ。
 そういう手みたいですごくイヤ。
 あまりに頭に来たので、そのうち国立国会図書館に行ったときに調べて、もしヘンなこと書いてたら思い切りTwitterで攻撃してやろうと思ったんですが、定期購読の前に1回だけ見本紙を送ってもらう制度があるみたいなんで、それを利用して取り寄せてみました(2011/9/3号)。

 結論からいえば、やっぱり、原発を女と呼んでるのは、それ自体をとれば女性差別なんですよ。
 この記事は「雑誌を読む」というので、いろんなキリスト教系雑誌の記事の紹介。ここでとりあげられているのは、「百万人の福音」9月号。大谷心基さんという牧師が、京都のホームレスから聞いた話。顔色の悪い50代前半の男性。仲間は、こいつは悪い女にひっかかって病気をうつされた、と言う。その人がいよいよ入院した後に、実は原発で働いていたということがわかる。それで、原発を「女」と呼んで、なんです。原発で働いていたことを彼らの隠語で女と呼んでいた。
 だから、彼らの中にはやっぱり女性蔑視があるんだけど、こういう状況をふまえてはじめて、この記事は差別性のない、やりきれない現実の一つの断面をうつしとったすばらしい記事ってことになるわけです。
 紙媒体のキリスト新聞では、原発を「女」と呼んで、という見出しのすぐ隣に記事の本文が来ているので、ああそういうことかというのがわかります。しかし、記事本文を切り離してこの見出しを一人歩きさせたときに、とんでもない誤解を招くわけです。いや、誤解じゃない。形としてはこのような「女」という語の使い方はまぎれもなく女性蔑視ですから。

 だから、新聞社がWEBサイトを作るとき、記事を全部出しちゃうと紙の新聞が売れなくなるから小出しにするのはいいのよ。その「小出し」の仕方が問題なの。この記事は4つの雑誌記事を紹介して、そのうち2つぶんを見出しに書いてある。紙媒体では百万人の福音の、原発を「女」と呼んで、でも誤解はないけど、小出しにするWEBサイトでは別のものに差し替えるべきです。でなきゃこの部分だけでも全部出す。でなきゃ、最初からWEBサイトを作ることを見越して、紙媒体でも別の見出しをつけておくべきだった。
 キリスト新聞のこの号では、2面に「ホームページ作成は慎重に」なんて見出しもある。この言葉、そっくりキリスト新聞にお返しするわ。

 さあて、どうしようかしら。キリスト新聞って高いのよね。1部250円もするわ。3ヶ月3700円。今後もこういう問題記事が載るかもしれないから、批判的に購読してみようかしら。Twitterのフォロワーが必ずしも支持者とは限らず、不穏なツィートをしてないかどうか監視する意味でフォローする人だっているのと同じよ。とりあえず監視の意味で購読してみるわ。

[862] ネットの『ふしぎなキリスト教』批判に対する著者2氏の見解 投稿者=真理子 掲示日=2011/08/31(水) 07:04:24 ここから閲覧

 8/30の夜、池袋ジュンク堂で、『ふしぎなキリスト教』の著者、橋爪大三郎、大澤真幸氏のトークイベントがありました。このところこの本に関してはTwitterで間違いが多いとかなり批判がよせられており、
http://togetter.com/li/150577
アマゾンの書評でも批判がよせられています。
http://www.amazon.co.jp/%E3%81%B5%E3%81%97%E3%81%8E%E3%81%AA%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%A9%8B%E7%88%AA-%E5%A4%A7%E4%B8%89%E9%83%8E/dp/4062881004
 このことについてどう思うのか、私が行って問いただしてみようと思ったのですが、急病でダウン、かわりに私の愛する主人が聞いてきてくれました。以下は両氏の見解です。


橋爪大三郎
 ネットでの批判がたくさんあるということなのですが、私個人の一般的な立場で申し上げると、この本の中にもいろいろなタイプミスとかいい間違いとかがいくつかありました。それは第2刷、第3刷そのほかで訂正ております。今後もそういう、明確な誤りが発見されれば、機会をとらえて訂正いたします。
 次に、たくさんあると言われている誤りの種類なんですけど、もし、考え方の違い、意見の違いということをもって誤りだとおっしゃるのであれば、それは誤りにはならないのではないかと思います。意見の違いと誤りは違います。もし誤りに類するものであれば、ご指摘いただければ個別に考えるんですけど、私が見ている限り、誤りに類するものはもうあんまりないはずです。
 もうちょっと言うと、これはどういうものかというと、今までみんなが印象派の絵をかいていたところに、例えばゴッホが女の絵をかいたら、目がまがってるじゃないかとか、鼻がこんなわけないとかいう印象をお持ちの方もいるかもしれないけど、それも真実の姿です。真実の姿を伝えるために、今までの表現方法や論理と違ったものをあえてデフォルメして、デフォルメっていうのは基準があるからデフォルメっていうけど、より正しく提示していくということなんですね。
 それを楽しんでくださる方もいるかもしれないし、それを困ったことだとお考えの方もいるかもしれない。そういう問題ではないかと私は思っております。

大澤真幸
 率直にいうと私はネットをほとんど見ていません。若干は知ってます。教えてくださる方もいるので。でも体系的に研究して見てはおりません。ただ、知ってる限りでいうと、本の趣旨を勘違いなさっているんじゃないかなと思うこともあります。でもそれもちゃんと見てからでないでないと申しませんが、結論からいえばそういうことです。
 ある意味でうれしいですよ。ネットで評判にしてくださるということは。1997年でしたか、加藤典洋さんの『敗戦後論』という本が出たとき、ものすごく批判する人がいて、ぼくもそれなりに異論もあったし感動したところもあるし両方だったんですけど、ぼくが予想している以上に反論や批判がたくさんあった。加藤さんがそれで不愉快な思いをされた可能性もあるんだけど、ぼくははたから見ていてちょっとうらやましくて。
 どうしてかというと、そこまで反論するということは、よほどその人たちの琴線にふれたってことなんですよね。そうじゃなかったらぼくなんか無視しますから。そんなに熱心に反論してくるなんて、いいなって思いました。ぼくはだから加藤さんの本が出たときに、加藤さんの本ってぼくが予想しているよりもっと偉大なんだって、改めて思ったんですね。だからそうやっていろいろ(批判が)出るのはいいんじゃないですかね。ぼくの知ってる限り、重要な本はほとんどたいてい批判のほうが多いです。集中砲火的に批判されなかった本で偉大な本ってまずないです。だからそれはそれでちょっとうれしいんですが。
 ただですね、やっぱり基本は、この本に対して本当にご不満のある場合は、ご自身もちゃんとした本とか論文とかを書いて、これより説得的なものになればこんなものは退けられるに決まっているんですから、これ以上の内容を書けばいいんじゃないかと思います。そういうものが出てきたら私もそれを読んで、ああ、この本の歴史的使命は終わったんだなと思うときもあるのではないかと、そうなれば非常にうれしい、よりいっそううれしいと思います。

[861] 詩編111-113編 投稿者=真理子 掲示日=2011/08/31(水) 06:05:07 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&bible1=bhs&book=psa&chapter=111&mode=0
 今日の詩は3つとも「主をほめたたえよ」で始まります。「主をほめたたえよ」ってハレルヤです。新共同訳や新改訳だとそう訳してますが、口語訳はなぜかそう訳してませんね。
 ハレルヤって聖書にいっぱい出て来そうで、実は詩編と黙示録にしか出て来ません。新共同訳や新改訳はどちらもそう訳しているのに、口語訳は、黙示録はハレルヤと訳し、詩編はそう訳してません。旧新約の連絡がうまくできてないみたいです。
 ついでながら新世界訳ではハレルヤって訳さないんですね。旧新約とも「あなた方はヤハを賛美せよ!」です。なんででしょう?
 今日は右側にヘブライ語のBHSをつけました。111編と112編は実はいろは歌なんですね。各行の冒頭がヘブライ語の22の子音、
א
ב
ג
ד
ה
ו
ז
ח
ט
י
כ
ל
מ
נ
ס
ע
פ
צ
ק
ר
ש
ת
で始まるのです(各行つなげちゃうと右から左に流れるのでとりあえずこのままにしておきます)。
 哀歌もそうでしたね。でも哀歌みたいに22節になってると「もしや」と思いますけど、今回みたいに複数行がまとめて一つの節になってると、翻訳で読んでる限り絶対に気づきませんよね。いや、ぼけっとしてるとヘブライ語で読んでても気づかないかもしれません。いろは歌になってるところは全部そう書いてほしいですね。
 いろは歌については、前に哀歌のところで書きましたけど([672])、こういう形式にのっとるからこそ感情が強まるってことがあるようです。形式的なものは感情にとぼしく、自由な形式のものこそが自然な感情の吐露だって現代人は考えますけど、そうじゃないみたいです。
 3つとも交読文にはとられてませんけど、内容的にはこういうものこそ交読文に入れるべきじゃないでしょうか。111編の最後「主を恐れることは知恵のはじめ」って箴言にもあったような名文句もあるし、3つとも主は私たちを守り幸せにしてくれるっていう、おめでたい内容じゃありませんか。13編の最後「子を産まぬ女」ってところは私はギクっとしますけどね。早く私をお母さんにしてちょうだい。

[860] 歴代誌下1-5章、シラ書36章 投稿者=真理子 掲示日=2011/08/30(火) 07:22:48 ここから閲覧

●歴代誌下1-5章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=2ch&chapter=1&mode=0
 歴代誌は下に移り、今週と来週でソロモンの治世の話です。
 すでに見たように歴代誌は王様ばんざいで、スキャンダルは一切報じません。王上3には、政略結婚で異教の女とも結婚したとか、例のソロモン版大岡裁き(っていうかこちらが本家のはず)の遊女の争いとかがありました。王上11には偶像崇拝も許容したとか、反乱がいろいろ起きたとかありますが、そんなものは一切書きません。ダビデの計画した神殿の建設を実行にうつした話を中心に、ひたすらいい王様として描きます。今日のところはほとんどこの話しかありませんね。

●シラ書36章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=36&mode=0
 31章以来ギリシア語写本の章節がぐちゃぐちゃしていてやっと36章で正常化します。その関係で、ゲッチンゲン版LXXでは14節と15節がありません。うちのLXXはドイツ聖書協会のラーフルズ版なのでこのあたりの処理がちょっと違います。外典は底本によって章節がまちまちでなかなかうまく対応しません。
 ただ、シラ書は同じ章の中で突然内容が変わったりします。
 22節まではお祈りですが、そのあとは食べ物の話や女の話。「食べ物だったら何でもいいとはいえおいしいものとそうでないものとがある」という23節と対応して、「女はどんな男にも身を任せるがいい女とそうでない女の違いはある」っていうの、意図はわからないでもないですが、ちょっとひどくないですかね。え、お前はどんな男とも寝るじゃないかって? そんなことないわ。私にも選択権はあるのよ。

[859] うつたふvsうたふ 投稿者=真理子 掲示日=2011/08/29(月) 20:07:39 ここから閲覧

 明治訳新約、使徒まで校正おわってアップしました。
 明治訳は明治37年版を底本とし、明治14年版と異同があるときに〔37|14〕みたいな形で入力してます。具体的には明治訳を|(全角)で検索していただくといいでしょう。マタイの主の祈りが14年と37年とで違いますからね! ときどきそういう重大な翻訳の改訂があるんですけど、たいていは仮名遣いとか表記の問題。
 使徒では「訴」とか「訟」を、明治37年では「うつたふ」と読んでるのに、明治14年では「うたふ」と読んでます。言海をひくと
http://www.babelbible.net/genkai
どっちもあるみたいですね。使徒は後半でやたらこの語が出てくるのでそのたびにこういう形で入力したんでうざったくて仕方なかったです。
 じゃ福音書はというと、こっちは明治14年でも「うつたふ」とふってます。担当者が違ったのかしらね。それを明治37年では統一したんだ。
 こういうのって、誤りとして訂正しちゃってもいいんでしょうけど、誤りも一つの言語的事実だと思うと、おいそれと直せなくなります。これだけ大々的に違うものは、残しておこうと思います。

 あとは、明治37年で「船具」、明治14年で「舟具」となってて、さっそく〔船具|舟具〕としようとして、虫の知らせで明治37年の他の版を見ると「舟具」となってる。たまたま見ていた版だけ違ってたみたいです。こういうこともあるんで気が抜けないです。

[858] 民数記21-24章 投稿者=真理子 掲示日=2011/08/29(月) 06:52:00 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=num&chapter=21&mode=0
 エドム人が通行を許可してくれなかったために迂回するイスラエルの民。でもその割には、このあたりとの部族との戦いで勝ったりもしてるんですね。
 エドム人には勝ち目のなかった彼らも、モアブ人にはずいぶん脅威だったみたいです。
 そこでモアブの王バラクは、占い師バラムを呼び寄せます。こいつらを呪ってくれというわけですね。ところが神様がバラムのところにあらわれて、行っちゃいかんという。それでもバラクからぜひ来いと乞われたので向かおうとすると、ろばがなかなか動こうとしない。ろばをぶったたいているうち、神様の使いがバラムの前に現れる。ここまで来たんだから(とは書いてないけど)、どうせだからちゃんとバラムのところへ行って、彼らを呪うことなんてできませんとか言わせようってわけですね。実際、バラムはバラクの前で、イスラエルを呪うどころか祝福し、今後の周辺諸国の運命を預言して帰っていきます。
 なあんかばかばかしい話。くだらない作り話ね。もちろん神話なんて全部作り話なんだけど、もっとましな話を作りなさいよって感じです。

 でも今日の話は、一箇所、まったく読み過ごせない重大問題があるんですね。
 21章でエドムを迂回していた民がぶつぶつ言うので神様が蛇を放って民を殺し始める。あわてた民がモーセにとりなしを依頼、神様はなんと、蛇の像を鋳造して仰ぎ見させたら民は助かる、と指示し、そのとおりになります。
 何これ? これって偶像崇拝っていうもんじゃないの? 神様がじきじきに十誡破らせちゃダメじゃないの? いくつか注解見ても、神様のこの指示の問題性を誰も言わないのよね。神様が言ったから何でもいいわけ?
 実際この青銅の蛇は、その後も長くイスラエルの民の守護神になります。代下18:4を読むと、南王国のヒゼキヤ王(南13。BC715-687)の宗教浄化のときにアシェラ像なんかと一緒にうちこわされています。
 実のところは、イスラエルの民が昔から信仰していた、蛇よけの蛇の像の話を、あとから聖書に取り込んだんでしょうけど、まったくヘンな話だわ。

[857] テトス(全)、シラ書35章 投稿者=真理子 掲示日=2011/08/28(日) 07:42:54 ここから閲覧

●テトスへの手紙1-3章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=tit&chapter=1&mode=0
 1テモ、2テモ、そして今回のテトスで「牧会書簡」がおしまいです。いずれも、初期キリスト教団の運営に関する話題が主となった書簡。著者はパウロということになってますが、すべてなりすましです。
 テトスは短いので今日1日ですべて読んでしまいます。
 他の信者を指導する立場にある監督は生活をしっかりしろ、異端に注意しろ、信者にはこう応対せよ……、言ってることは今でも通用するような教えで、それだけに、人によってはとてもつまらなく思うかもしれません(わざわざ聖書に書いてなくたって誰でもこう思うしね)。ただ、当たり前のことを当たり前に言うっていうのも大事なことですからね。だって人間、当たり前のことがえてして出来なかったりするものですから。
 しかし今日のテトスは、著者の意図しなかったところでとても有名になってしまった部分がある、その意味ではトンデモ本の定義どおりのトンデモ本と言えるでしょう。トンデモ本の定義はWikipedia参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%A2%E6%9C%AC
 テト1:12-13。クレタ人はみんなうそつきだ、とクレタ人の預言者が言ってるのは正しい、というくだりです。ここがいわゆる「クレタ人のうそつき」という自己言及のパラドックスとして論理学関連の本で非常に有名になっています。
 テトスのいう預言者とは、BC600ごろのクレタ人哲学者エピメニデスのことです。だから預言者といってもユダヤ教・キリスト教関係じゃありません。昔のえらい人がこういう有名なことばを言った、程度に読みましょう。
 私たちはついつい、「絶対の真理は存在しない」とか言っちゃいます。私も「わかりやすい教えはすべてうさんくさい」とか言っちゃいますけど、それが自分自身にもふりかかってくるとパラドックスになっちゃいます。聞き手は心の中で、こいつおバカなことを言ってる、とあざ笑っていることでしょう。
 私たちは人のことしか見えず、自分のことはついつい見落としてしまうので注意、というふうに思っておきましょう。

●シラ書35章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=35&mode=0
 神様に祈るときはてぶらではいけません。ちゃんと献金をしましょう。すばらしい言葉ですね。何かというと献金献金、十分の一持ってこいっていう牧師、あちこちにいますよね。そういう牧師はマラ3:8なんかを根拠にするんですけど、もっと直接的にズバリ書いてるのがシラ書35章じゃありませんか。マラキ書なんかよりシラ書35章を全部週報に書いたらいかがですか。あ、もっともこういう牧師さんはたいていプロテスタントの単立教会とか弱小教派で、しかもこちこちの聖書無謬だったりしますから、外典なんか読ませないかもしれませんけどね。残念でした。

[856] 明治訳の入力状況 投稿者=真理子 掲示日=2011/08/27(土) 22:24:05 ここから閲覧

 今年はヘボン没後100年という記念の年なので、ヘボンさんのかかわった明治訳新約のテキスト化にとりくんでいます。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネときて、ちょっと頓挫していましたが、やっと使徒が終わりました(19章以降の校正がまだですけど)。やっと半分を越えたというところですね。なんとか年末までには全部できるかしら。
 なお、ヘボンさんの個人訳のマタイ、マルコ、ヨハネっていうのがありますが、これは別の方がテキスト化にとりくんでWikisourceにアップずみです。そのうち拝借します。

[855] ヨハネ16-18章 投稿者=真理子 掲示日=2011/08/27(土) 07:15:08 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=joh&chapter=16&mode=0
 いよいよ受難のシーンに入ります。
 受難といえば、バッハの受難曲。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと作ったらしいんですが、今残ってるのはマタイとヨハネだけ。エヴァンゲリスト(福音史家)と呼ばれるナレーター役の歌手が福音書を原則として省略したり改変したりせず歌い(せりふの部分は別の歌手がうたったりします)、要所要所でオリジナルの歌詞に基づくアリアや合唱曲が入るという構成の曲ですね。
 演奏時間はマタイがおよそ3時間、ヨハネがおよそ2時間。長い曲ですが、音楽がすばらしいので、あんまり長さは感じません。
 さて、ヨハネがどうして短いかというと、逮捕・裁判・処刑の話しかないからです。
 マタイだとその前に、香油大量ふりかけ事件とか、最後の晩餐の話があります。
 ところがヨハネでそれらを含めようとすると、12章から始めなきゃいけません。途中に大演説がありますからね。この大演説を全部マタイ受難曲ののりでうたったら、4時間半くらいかかっちゃうかしら。その大演説だって、何言ってるんだかよくわからない、ドラマ性の全然ない説教ですから、アリアもはさめない。たぶん聴衆はみんな眠っちゃうんじゃないでしょうか。
 ですからヨハネでは、香油事件も、それから晩餐の話もナシです。まあ、ヨハネの場合は何を食べたかという話がなく、足を洗うという話だったわけですけどね。
 ちなみに、当時の食事ってみんな寝ころがって食べたんです。自分の口や食べ物のすぐ隣にお隣さんの足がごろん。だから足を洗わなきゃいけなかったんですね。

 さて、今日は大演説が2章ぶん、そして逮捕・裁判の話。
 逮捕・裁判の話はマタイ、マルコ、ルカで読んだから、やっぱり大演説の内容書かなきゃいけないかしら。
 でも、私バカだから、ヨハネ先生の話がちっともわからないわ。
 この大演説って、いま読んでる旧約の箴言とか、外典のシラみたいに、ぶつぶつ区切って短い標語、警句、み教えとして壁にでも貼っておくのに便利な語句がちりばめられてるんですけど、全体としては何を言ってるかよくわかんない。
 それなら、ぶつぶつ区切って、部分的にとりあげましょうかしら。
 じゃやっぱり産みの苦しみの話かしらね。ヨハ16:20-22。私は子を産んだことはないし、将来的にも産むことはないと思うんですけど……
 産みに限らず、人間、いろんな不安や困難に立ち向かうことってあります。たとえば不始末をしでかして、怒ってる相手の家に謝りにいかなきゃいけない、とか。その時が来るまではどうしようどうしようって悩むんですけど、ええいと開き直っていくと、案外すんなりいくことも多い。そして終わったら、ビールがおいしいんです。だからイエス様も、マタイでは「明日のことで思いわずらうな」マタ6:34みたいに言ってくださるんです。これは私の最大の信条です。
 そのヨハネ版がここかしらね。苦労はあってもそれは一時的で、乗り越えれば楽しみがある。そう考えてお気楽に生きましょう。

[854] アモス書1-4章、シラ書34章 投稿者=真理子 掲示日=2011/08/26(金) 06:13:55 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=amo&chapter=1&mode=0
 今回と次回はアモス書。
 冒頭にアモスの出身地がテコアだと書かれています。普通にはエルサレム南東8キロほどのところにある寒村だと言われていますが、実は北のガリラヤのあたりじゃないかという話もあり、よくわかりません。いずれにせよアモス自身は北王国で活躍した預言者です。時代は南のウジヤ、北のヤラベアム(2世)だと書いてます。[787]の王名を覚える歌では、7番の
  南はアマジア、次ウジヤ
  病気でヨタムに交代す
  北はヤラベアム、次ヨタム
  おんなじ名前になっちゃった
のあたりですね。次の8番で北が滅びますから、だいたい紀元前8世紀中ごろというわけです。実際、ヤラベアム2世(北13)の在位はBC786-746、ウジヤ(南10)の在位はBC783-742です。
 「地震の2年前」って、地震なんてあったのかって思いますよね。列王記にはそんな話はちっともなかった。この地震は旧約聖書ではあとはゼカ14:5で「ウジヤの世」にあった地震という形で言及されてるだけです。たぶんBC760年ごろと推定されています。
 1章と2章では、各国に対して、「三つのとが、四つのとがのために~罰してゆるさない」と、どういう罰を与えるかを述べています。3ないし4ってことじゃなく、3+4=7ってことみたいですね。
 そしてアモスは北で活躍した人ですんで、北の首都サマリヤや聖所べテルの滅びを預言します。

●シラ書34章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=34&mode=0
 空想のむなしさと、旅の効用の話が主。確かに旅で得たいろんな経験って役立ちますね。ただし私はアジアばっかりで、ヨーロッパって行ったことないです。

[853] ギリシア語、ラテン語辞典に文法をサポート 投稿者=真理子 掲示日=2011/08/25(木) 11:00:50 ここから閲覧

うちのサイトのギリシア語辞典
http://www.babelbible.net/bagster/bagster.cgi
とラテン語辞典
http://www.babelbible.net/lewis/lewis.cgi?mode=lewis
にそれぞれ文法書をサポートしました。ヘブライ語辞典
http://www.babelbible.net/davidson/davidson.cgi
に文法をつけたところ、やっぱりそういうほうが便利だと思ったので、文法書をオンラインで読めるようにしてみました。

[852] 箴言23-24章 投稿者=真理子 掲示日=2011/08/25(木) 10:56:24 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=pro&chapter=23&mode=0
 例によってさまざまな分野のことわざが混在していますが、それぞれに面白いですね。
 箴23:1からしばらく続く、偉い人との食事は注意せよという話。
 箴23:13子どもは笞でたたいても死なない。笞でたたけば命を陰府から救う(逆に、きびしくしつけないと、さばきのときに困る)という話。
 箴23:20あたりからの、酒飲みや肉好きの一とは付き合うなという話。
 箴23:23、真理・知恵・教訓・悟りはカネで買え。つまり勉強や情報の入手にカネを惜しむなという話。
 箴23:27からの、遊女に注意という話。
 箴24:1からの、悪い奴をうらやむなという話。
 ……いろいろありますね。どこに興味を持つかで、あなたはこういう人だっていう性格判断ができそうですね。

 で、私がとりあげるのは箴24:16、正しい者は七回倒れても起き上がるが、悪い者はわざわいでほろびる、という話。
 逆にいえば、神様を信じても七回は倒れることがあるってことですね。
 信仰の効用は、ご利益が出ることじゃなく、たとえヨブのようにどんなに不幸に見舞われても絶望しない、自分であらゆる不幸を背負うんじゃなくて神様まかせに出来ちゃうってことなんでしょう。そして、これは遠藤周作さんの受け売りですが、信仰を持つと、「死ぬのがこわい、と人前で叫びながら死んでもOKになる」。つまり自分の人生の全責任を背負うことなく、弱さをさらけ出してもかまわなくなる。弱さをさらけ出して、あとは神様お願いって言えるようになるってことなんでしょうね。

[851] 詩編108-110編、シラ書33章 投稿者=真理子 掲示日=2011/08/24(水) 10:10:25 ここから閲覧

●詩編108-110編
 詩編というとダビデの歌ばっかりという気がします(実際「聖詠経」という名で出版されている正教会の詩編は、冒頭にダビデの肖像が描かれてまして、これが突っ込みどころ満載で思わず爆笑してしまう。
http://www.babelbible.net/pdf/orjpsa.pdf#page=5
 でも実際にはダビデの歌は、30番台あたりまでと、60番台あたりに集中していて、その他のところにはあまりありません。
 今回はたまたま3つ並んでます。次は138編まで出て来ません。
 108編。詩編の歌ってどれも似てるなと思ったら、なんと、前半1-6節(節番号は当ばべるばいぶるの、BHS、新共同訳方式。従来のものは[ ]囲みで書いてあります)は57編2-6節、後半7-14節は60編7-14節。まるっきりそのままです。もっとも原文では接続詞(ו)があったりなかったりという違いがありますが、翻訳の加減ではまるっきり同じになっちゃいますね。
 ところがこういう違いをしっかり訳し分けた翻訳があるんです。それはなんと、KJV。
 橋本功先生によれば、KJVっていうのは実はできる限り原文に忠実たらんとした訳なんですよ。もともとのKJVはFrakturというドイツ風亀の子文字ですが、原文にない語を補った場合はそこだけローマン体になってます。現代の印刷媒体ではイタリックにして区別してます。もっともうちのデータを含めてネットデータではこの区別のあるものはめったにないと思います。どこかでそういう区別してるのを見かけましたけどね。もう一度探してデータ差し替えようかしら。
 語順だってヘブライ語の語順に出来るだけあわせたような英語の語法を用いたりする。もっとも英語の用法にちゃんとそういうのがある場合に限っての話ですけどね。
 今でこそKJVって格調高い文で英語の模範となったみたいな説明ありますけど、出た当初は猛烈にヘンな英文だと思われたんじゃないかしら。みんなが使ってるうち、これが標準になったんです。
 KJVを見ると、たとえば
詩108:6 Be thou exalted, O God, above the heavens: and thy glory above all the earth;
詩57:6 Be thou exalted, O God, above the heavens; let thy glory be above all the earth.
みたいに、もとが接続詞(ו)ナシ、108編がアリというのをちゃんと表現してるんですよね。まったくすごいです。

 110編はイエス様がたとえばマタ22:44で「メシアはダビデの子じゃないぞ。ダビデがメシアを主と呼んでるんだからさ」という話で引用してる詩です。何も知識ナシで読むとポカンとする詩ですが、けっこう新約で引用箇所の多い詩ですね。詩編に限らず、旧約聖書は引照つきのもので読んで、新約でどういう使い方をしているか(その場所を開けるのが大変なら、せめて新約への引照が多いか少ないかだけでも)を参照しながら読むといいでしょう。

●シラ書33章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=33&mode=0
 最後のところで召使の使い方の話になっております。どんどん仕事を与えて怠けさせるなとありますが、最後には「高い金を出して買ったんだし、逃げられたらかわりを探すのが大変」というので、あんまりいじめるなという話にもなっています。日本人はこのかげんがうまくできないので、海外駐在員の奥さんが現地の家政婦をうまく扱えないという問題があるみたいです。すぐに自分でやっちゃうんで、「あの家の仕事はラクよ」となめられるんだとか。

[850] 歴代誌上25-29章 投稿者=真理子 掲示日=2011/08/23(火) 05:36:41 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=1ch&chapter=25&mode=0
 ダビデはレビ人のアサフ、エドトン、ヘマンをはじめとする聖歌隊を組織します。
 水曜日に詩編を読んでいますが、いままで50、73-83編が「アサフの歌」でした。ダビデやソロモンはいいとして「アサフって誰?」と思っていた方は、ここで謎がとけたわけですね。聖書のいろいろな箇所を速読していくと(あまりにチンタラと読むと前に読んだところを忘れてしまう)、聖書の全体像が把握できるばかりか、こういう疑問がだんだん解けてきます。
 アサフはレビ人であるばかりか、コラびと、つまり月曜日に読んだ民数記で反乱を起こしたコラの子孫というわけです。レビ人の中でも祭司の家系ではないのでこういう反乱を起こしたわけですが、その子孫は聖歌隊だの門を守る係だの、せんべいを造る係(代上9:31のマタテヤ)だのに任命されたというわけです。
 さて、「名簿を読む楽しみ」が27章まで続いた後、28章でダビデは「私は軍人として多くの血を流したので神殿建設を神様から許されなかった」と、後継者ソロモンに神殿建設を託します。列王記ではソロモンを後継者にするにあたって一波乱あったことが書かれていましたが、歴代誌ではそんなこともなく、どこかの独裁国家のようにめでたくめでたくすんなりと王位が継承され、歴代誌上がここで終わります。

[849] Davidson/Gesenium Hebrew Lexicon 投稿者=真理子 掲示日=2011/08/22(月) 16:28:33 ここから閲覧

 当サイトのヘブライ語辞典、
http://www.babelbible.net/davidson/davidson.cgi
最初はDavidsonだけだったんですけど、説明が足りないなって思いましたんで、Geseniusの辞典のPDFをInternet Archiveからダウンロードして、2つの辞典をサポートしてみました。
 さらに、Geseniusには巻末に英語索引がありますし、Geseniusの辞典をもとにPorterという人が作った英へ辞典もありますんで、そこらへんもサポート、
 文法を見たいなという人のために(辞書には最低限でも語形変化表は必要です)、Davidson序文部の文法説明と、Geseniusのヘブライ語文法も見られるようにしました。
 いつの間にか、なんとヘブライ語関連の4冊の本を読めるCGIになっちゃいましたね。
 これも、Internet Archive http://www.archive.org/ で配布しているPDFがきれいだからです。これをJPGに変換して簡単なインデックスをつければ、すぐにこういうものができちゃう。これが国立国会図書館の近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/index.html じゃだめ。ここのPDFは画質がひどすぎるもの。
 ただ、Internet Archiveは、ときどきスキャンに失敗してるページがそのままになってるので、油断できません。ちゃんと紙媒体の辞書を持ってないと危ないです。今回、このためにGeseniusを買いましたもの。

 で、さっそくGeseniusで利子(נשך)と利息(תרבית)をひいてみました。([797]参照)
 すると、利息のほうは、語根のרבהのところではなく、תרביתのところに説明がありましたが(p.873)、interest, usuryというだけで、あんまり説明がありませんでした。
 これに対して、利子のほうは(p.570。ただし語根の動詞のほう) since not only lending on usury, but even receiving interest wad supporsed to mark a sordid person and an oppressor of the weak つまり、高利をつけて貸すばかりか、ふつうの利子をつけて貸すことさえも、金に汚く弱いものいじめをする奴とみなされるから、とあります。だからやっぱり利子と利息は、ふつうの利子か高利かという違いなんでしょうね。でもGeseniusのほうは、利子のほうにこの説明があるので、どっちが高利にあたるのかよくわかりません。
 辞書が2つあっても、なかなかすぱっと明快に解明しないものですね。

[848] 民数記17-20章、シラ書32章 投稿者=真理子 掲示日=2011/08/22(月) 09:18:49 ここから閲覧

●民数記17-20章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=num&chapter=17&mode=0
 17章に入ってもコラの反乱の話が続きます。
 ヨエル書同様、ここもBHSの章区切りが従来と違うのです。従来は17章前半、コラの一件が終息するまでを16章としていたのです。内容的にはそのほうがふさわしい気がします。
 まあ、いい機会ですから復習しましょう。
 コラはレビ族です。レビ族は祭司の仕事をする部族ですが、レビ族ならば誰でも祭司になれるわけではなく、アロンの一族と決まっています。そこで、モーセ=アロン体制に不満を持つ人たちが、コラを筆頭にして「なんでお前たちだけがいつも命令するんだ?」と反乱を起こしたわけです。
 これに対して神様はいろいろなしるしを出して、アロンを支持していることを示します。そして民のうちに疫病をはやらせます。規模があまりにひどいので、モーセとアロンがなんとかとりなしのための罪のあがない(また「あがない」というわかりにくい言葉! この場合は香をおカネとして支払って、民の罪を神様が罰する権利を買い取ろうというのです)をして、なんとか神の罰は終息します。
 ついでに「あがない」というわかりにくい言葉が民18:15-17にありますので先回りして見ておきましょう。初モノは全部神様のものなのでささげなければいけないのですが、人間の初モノを真っ黒こげにするのはマズいので(って、このとんでもない神様は、昔アブラハムにイサクをささげろなんて意地悪を言ったくせに!)、あがなえというのです。ただし、牛と羊とヤギは必ず現物と言ってます。この「あがない」は、本来は神様のものなんだがかわりにカネで買い取れ、ということですね。
 さて、昔も今も17章である、現16節以降の話。神様は、アロンこそが祭司だということを居超するため、アロンの杖に花やアーモンドの実をつけるという奇跡を行います。主の幕屋に近づけるのは祭司職だけで、同じレビ族でも他の者はみんな祭司職(アロン一族)に仕えていろんな仕事をするのだよ、そのためにレビ族は土地を持たないのだよ、と定めます。
 20章。イスラエルの民は死海のはるか南方、カデシュというところにいます。
 Wikisourceでは口語訳聖書時代に出た「聖書地図」というパンフレットのような地図が、著作権が切れたというので全部画像になってますね。便利ですから見ましょう。
http://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:JBS1956-B_map02.png
 この地図で死海の南西方向に茶色の山があり、そのあたりに「チンの荒野」と書いてあります。現在地はそのあたりです。口語訳聖書ではカデシという表記ですが、それも見えますか?
 ここで民がまた「水がないぞ」と反乱を起こそうとしたので、神様はモーセに水の出し方を教えます(民20:8)。ところがよく読むと、モーセは神様の命令どおりにやってるようで、実はやってないのです。岩に命じろと言ってるのに岩をたたく。これがどうやら神様のしゃくにさわったようです。
 それに、新改訳や新世界訳ではハッキリ訳しているのですが(ほかではよくわからない)民20:11で、このときとった杖は「彼の杖」つまりモーセの杖なんです。原文では「彼の」という人称接尾語がここだけハッキリ書いてあります。どうも、アーモンドをみのらせたアロンの杖じゃなくモーセの杖を使ったことも、よけいに神様のしゃくにさわったようです。そんな! そもそも杖で打っちゃいけないっていうんなら、モーセの杖だろうとアロンの杖だろうとどっちでもいいでしょうに。
 いずれにせよ、神様は一応水を出してくださいますが、この間違いの代償として、なんと一同は、約束の土地に入れなくなってしまいます。
 例の地図では現在地の右側にエドムと書いてありますが、エドム人が通行を拒否したので、彼らは大きく迂回するはめになります。その途中のホル山(谷を越えた東側)でアロンが死んでしまいます。

●シラ書32章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=32&mode=0
 前半は宴会の作法。こんな話が聖書に出てくるなんて面白いですね。大学時代に聖書研究会なんていう人たちとお付き合いをしてお酒もいろいろ飲みましたけど、こういうのを読み合わせてからいけばよかったわ。あ、ほとんどプロテスタントだったからシラ書なんか読まないか。

[847] 2テモ3-4章 投稿者=真理子 掲示日=2011/08/21(日) 05:46:27 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=2ti&chapter=3&mode=0
 3章は、終わりの時にはいろんな悪い奴が出てくるという話から始まりますが、終わりの時というのは漠然とした未来ではありません。
 今でも「すぐにでも終末が来る」と説く教派があります。私にいわせれば、そういう教派はカルトで要注意。終末なんていつ来るか誰にもわからないのに、なんで「すぐに来る」ってわかるのか。もちろん、すぐに来る可能性だったあるわけですけど、それを強調すると、じゃ仕事もしても意味がない、大学に行っても意味がない、お金を持ってても意味がないっていうんで教団に巨額の寄付をする……ってことになるわけですから、これこそがカルト教団の悪いやり方なんですね。1999年7月に終末が来ると信じていたうちの主人みたいに人生を棒にふりますよ。
 でも、実は初期のキリスト教団はそういう意味でいえばカルトなんです。すぐに終末が来ると本気で信じてます。パウロなんか死ぬ寸前まで、自分は死なない、つまり死ぬよりさきに終末が来るって信じてましたもの。
 ですから3章なんかも、漠然とした未来ではなく、実は現在のことと読むべきなんです。
 いろんな悪い奴が出てきますけど、6-7節みたいに女をいっぱい囲う人もいたんですね。エロい人は昔も今もいつでもいます。
 悪い奴も多い。迫害も多い。そんな中で、聖書に親しみなさいというのが3章ですね。もちろんここでいう聖書というのはいまでいう旧約聖書。当時から聖書の「逐語霊感説」ってあったんですね。

[846] 足を洗うといえば 投稿者=真理子 掲示日=2011/08/20(土) 05:45:31 ここから閲覧

 私はずっと誤解してたんですが、洗足学園という学校がありまして、足を洗うっていうからてっきりヨハネ13章だと思って、キリスト教系の学校なんだと思ってましたが、
http://www.senzoku.jp/new/index.html
ぜんぜんそういう話がないんで、無関係なんですね。
 今は川崎市の溝の口にあるんですがもともとは目黒区にあり、そこの洗足という地名からとったみたいです。
 その洗足も、本来は千束でして、現に大田区側にある駅は北千束なんて書いたりします。「本来」と言いましたが、じゃ洗足というのがまったく間違いかというと、これはこれで複雑な歴史があるみたいですね。
http://xwin2.typepad.jp/xwin2weblog/2010/04/senzoku_senzoku_00.html
 足を洗ったのも日蓮さんみたいです。
 まあ、日蓮さんの教えは日本の各宗派の中ではキリスト教っぽいところがありますから、似たような伝説が生まれるんでしょうか。

[845] ヨハネ13-15章、シラ書31章 投稿者=真理子 掲示日=2011/08/20(土) 04:54:47 ここから閲覧

●ヨハネ13-15章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=joh&chapter=13&mode=0
 「最後の晩餐」ですが、ヨハネの場合はパンもぶどう酒も出て来ません。何を食べたかはちっとも書かれておらず、かわりに足を洗う話になっています。
 プロテスタントの教派の中には飲酒を罪悪視するところがあって、当然ながら聖餐ではぶどうジュースを使うんですが、でもそれは聖書にのっとってないんじゃないのかという批判を受けたり、なかなか大変ですね。
 聖書自体には飲酒を罪悪視する記述はありません。べつに聖書に書いてなくたって独自にそういう教義をたてたっていっこうにかまわないと思うんですが、その一方でプロテスタントの大前提として「聖書のみ」というのがありますから、えてしてこういう考えの方は聖書をこじつけ解釈する傾向があります。たとえば、
http://lambofgodministries.tumblr.com/post/7918898065
 しかし、もし福音書が4つも正典とされず、ヨハネだけが残っていてあとは残ってなかったりしたら、教会の聖餐式の様子もずいぶん変わっていたかもしれませんね。いや、「聖餐」ではなく、みんなで足を洗いあっていたかも。殿方の場合、もしかわいい女の子の足を洗うことになったらさぞや興奮なさることでしょうね。これじゃミニスカで教会に行けないわ。
 ちなみにうちの主人は、平和島にあるスパのプールでエクササイズの時間に、若い女性とペアを組まされて、お互い足をマッサージするなんてことをしたそうで、すごくドキドキしたと言っておりました。私の足なんかじゃちっとも興奮しないくせに。ぷんぷん。
 先週も言いましたように、ヨハネはここからが長い。実際にはこの足洗いから逮捕、処刑まで一気に同じ日に行われてるんですが、14-17章で大演説をぶつんです。
 ちなみにこの日はというとヨハ19:14、過越の日の前日というわけです。他の福音書では過越の日です。間違えないでほしいのは、曜日はどちらも金曜日なんですが、それが過越の日当日だったのか前日だったのかが異なるんです。過越の日というのはニサン月14日ですからヨハネだと13日というわけです。これは月の満ち欠けで決まりますから曜日は関係ありません。暦の計算をすれば、毎年毎年過越の日が何曜日だったのかがつきとめられますので、イエス様の死の年が変わってくることになりますし、最後の晩餐の食事にもしパンが出ていたとすれば、ヨハネではそのパンにイーストが入っていてもかまわないということになります。そんなわけで日付問題はけっこういろんな問題に波及します。
 さて、大演説の話。今日の範囲14-15章では、ヨハ14:6「わたしは道であり、真理であり、命である」とか、ヨハ15:1「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」とか、いろいろ名セリフが出てきます。これらの名セリフはぶつぶつとそこだけを切り出すとすばらしいんですが、全体を通読すると逆に何がなんだかわけがわからなくなってしまうことでしょう。まあ、ヨハネの書くことですから、誰にもよくわからないんです。

●シラ書31章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=31&mode=0
 前章末から続いて食事の話です。面白い話がいろいろありますのでまずはじっくりお読みください。
 27節の「適度に飲みさえすれば、酒は人にとって命のようなもの」なんていうのは、酒を禁じる教派に見せたいところですね。あ、プロテスタントは外典認めないんだった。
 ところでここから36章までは、ギリシア語写本の順序がぐちゃぐちゃになっていまして、ラテン語訳だのヘブライ語訳だのに従って再構成された部分です。もっとも本として市販されたりネットでデータが出回ってたりするLXXは、ラーフルス版(ドイツ聖書協会)もゲッチンゲン版も、もうすでにそういう処理がなされていますので、あんまり気にする必要がないかもしれません。

[844] Re:BHSの章節分け 投稿者=真理子 掲示日=2011/08/19(金) 16:33:36 ここから閲覧

 私も今朝まで忘れてました(笑)。だってヨエル書なんて読まないもの、ふつう。
 BHSの章節分けとそれまでの聖書の章節分けとの違いは、かねてからデータベース化しております。たとえば口語訳聖書のZIPファイルの中に入ってるchcol.ut8というファイルがそれです(以下、「新旧対照データベース」と言います)。.ut8 というのはUTF-8コードで書かれたテキストファイルという意味ですが、この場合は漢字が入ってるわけじゃありませんから普通のテキストファイルと同じです。
 BHS以前の旧約聖書のデータを持ってくるときには、この新旧対照データベースの情報によって章節番号を読み変えたうえでBHSとのリンクチェックをして、エラーが起こったところを点検して、その聖書独自の新旧対照データベースを作成したり、本文にちょこちょこと修正を加えたりしているのです。
 でも、ヨエル書はどの聖書も自動処理だけで例外がなくうまくリンクしちゃうんで、昔は3章今は4章なんてこと、すっかり忘れておりました。

 LXXやヴルガタの詩編の編番号が違うのは有名ですけど、こういう番号の違いって何とかしてほしいです。面倒で面倒でしかたありません。
 詩編も、編番号が違うだけならいいんですけど、詞書が長いときにBHSは詞書から1とするんです。あまりに長いと詞書だけで2節分とっちゃうからあとが全部ずれる。じゃ詞書は全部1としてるかっていうと、分けてないところもけっこう多い。こういう不統一はやめてほしいです。
 ネットで出回ってる聖書データでは、この詞書の部分をごっそり抜かしちゃってるものがあるので、紙媒体で確認して手入力することもしばしばです。ハワイ語聖書がそうだったので頭をかかえました。たまたまPDFが手に入りましたけど、それがまた不鮮明。ハワイ語知ってれば多少不鮮明でも正しく入力できるんでしょうけど、こっちはさすがにハワイ語は知らない。いえ、興味があるのでいずれは勉強したいなとは思うんですけどね。外国には「ありがとうございます」と書こうとして「めいがとりニザりまゐ」みたいな怪しい日本語になってる看板ありますけど(香港にもありませんか?)、さぞかしそんな具合になってることでしょう。

[843] BHSの章節分け 投稿者=HK. J. 掲示日=2011/08/19(金) 07:02:31 ここから閲覧

知りませんでした!! ヨエル書が、3章の訳と、BHSに従った4章の訳があるなんて。

で、メシアニック用の旧約・新約 全ヘブライ語の聖書の、BHS旧約を見たら、3章は5節でおしまいで、mishpat ha-shem al ha-goyim という小見出しをつけて、4章になってました。

この小見出しは、BHSにはないのですが、どこに由来するものなのか、不明です。新共同訳と比べてみたら、新共同訳は2章の頭に「主の怒りの日」という小見出しがありますが、BHSメシアニック版にはありません。そのほかは、同じ意味の小見出しです。

由来が気になります。

[842] ヨエル書1-4章 投稿者=真理子 掲示日=2011/08/19(金) 05:10:29 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=joe&chapter=1&mode=0
 ヨエル書は4章まででおしまいですのでこれで全部です。しかも4章に分かれるようになったのはBHS以降、日本語の代表訳でいえば新共同訳以降でして、口語訳も新改訳も3章どまりです。旧第2章を2つに分けるかどうかという話で、分けなくても全32節しかないんですから、実質的に3章ぶんの分量しかない短い預言書です。
 時期に関する語が全然ないんですが、2章冒頭で「シオンで」うんぬんとありますし(エルサレムの別名です)、十二小預言書はだいたい時代順ということになってるので、南北王朝期(紀元前8世紀)の南王国、エルサレムにいた人だと思われます。
 世の終末の恐ろしい光景の予言もあるので、トンデモ系の本でもときどき取り上げられます。たしか五島勉さんもどっかで言及してたような。
 しかしこれはキリスト教にとってはもう一つの特別な意味があるんです。
 旧約聖書の預言書は、それ自体を読むとおどろおどろしくてよくわかりませんが、むしろ新約聖書のどこで引用されているかを見るといいでしょう。牽強付会を含めてキリスト教徒が旧約の預言書をどう読みどう利用したかということです。
 するとヨエル書は使2:16-21で使われています。ペンテコステでみんながヘンな言葉を話し始めたので、酒に酔っ払ったのかと思われたのですが、これはヨエル書の預言どおりなんだというわけで、終わりのときに神様が聖霊をすべての人にそそぐ、ということだったというわけです。
 BHSはどういうつもりか知りませんが、旧2章を使徒で引用されてる箇所からざっくり分断して新3章にしちゃったというわけです。
 こうすると、ヨエル書の旧3章、新4章も、こわい情景なのではなく、神様の救いなんだということがわかります。私たちにはそう読めないかもしれませんが、そう読まれてきたってことですね。

[841] 箴言22章、シラ書30章 投稿者=真理子 掲示日=2011/08/18(木) 04:07:05 ここから閲覧

●箴言22章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=pro&chapter=22&mode=0
 口語訳聖書では冒頭が「令名は大いなる富にまさり」とありますが、令名というのは名誉とか名声とかいうことです。口語訳聖書というと丸谷才一の批判によって悪文のきわみという印象がありますが、実は直前までは文語体だったものをほぼ機械的に口語に直したものだという裏話があります。明治に旧新約が文語で訳されたあと、大正になって新約だけが改訳されました。実は旧約の改訳も進行し、ほとんど終わっていたところに、戦後になってもう文語でもあるまいというので急遽口語に直したのが「口語訳聖書」だというのです。ですから最近では、むしろ文語の香りをそこはかとなく漂わせた格調高い文だと、評価が変化しています。最近というのは新共同訳が出てからですね。そのくらい新共同訳の文体がひどいということなんでしょうか。
 でも丸谷才一など多くの作家たちの批判は、一部は口語訳聖書の文体の欠点そのものを突いてはいるものの、多くは単に慣れの問題という気がします。文語訳聖書に慣れた人にはそりゃ違和感あるでしょう。私は口語訳聖書で育ったので、新共同訳に違和感あります。こんどは2016年をめどに「標準訳」という、もっと典礼にふさわしい格調高い文章で訳したものを出すらしいですけど、たぶんこれも悪評ふんぷんよ。
 話を戻すと、箴言のところは口語訳聖書の中でも特に文語のニオイがぷんぷんしているところです。新共同訳や新改訳と比べてみるとよくわかります。

●シラ書30章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=30&mode=0
 ここは教育論と健康論。父を恨んで育ち、今は子がいない私には教育は語れないんですけど、24節の「うらやみと怒りは寿命を縮める。うれいは老化を早める」は、心しておこうと思います。なお、次の25節の食べ物の話は、次の章に続きます。シラ書の章の区切りは適切さを欠いてるところがありますね。

[840] 詩編105-107編 投稿者=真理子 掲示日=2011/08/17(水) 05:08:12 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=psa&chapter=105&mode=0
 3つとも「主に感謝せよ」という言葉で始まる歌。
 105編と106編はイスラエルの歴史をふまえた歌です。何も知らないとポカーンという感じですが、月曜日に読み進めてきた律法の内容を思い起こしながら読むとよくわかってきます。
 105編は創世記、出エジプト記に出てきたさまざまな故事をふまえていますが、うずらの話は先週の民数記に出てきたところです。あれ、うずらが飛んできたのはいいけれど、それを食べ切らないうちに疫病がおそったんでしたよね。そういう話がちっとも出て来ませんね。
 そう思いながら106編を読むと、こちらは民のおかした悪行に対して神様が罰を与える話。105編が神様の恵みの話ばかりでしたから、両者は一対になっています。

[839] 歴代誌上20-24章、シラ書29章 投稿者=真理子 掲示日=2011/08/16(火) 05:34:42 ここから閲覧

●歴代誌上20-24章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=1ch&chapter=20&mode=0
 ダビデは年老い、ソロモンに神殿建設を託して後継者に任命します。そして祭司とレビ人を集めて任務を定めます。
 と、まとめてしまえばこれだけなんですけど、例によって書かれていない話がありますね。
 サムエル記、列王記はダビデのスキャンダルもはっきりと描くのですが、歴代誌は基本的にはダビデ礼賛、悪いことは書きません。
 たとえばソロモンが後継者になるにあたって、決して順風満帆だったわけじゃありません。昔の王家はどこもそうですけど、今の日本の皇室みたいに皇位継承順が自動的に決まるなんてことはないので、後継者争いが熾烈なんです。列王記上によればアドニヤが後継者になろうとして反乱を起こしますが、ソロモン王の母バテシバ(バトシェバ)の尽力もあってソロモンが即位、アドニヤは殺されたのでした。そんな話はちっともありません。
 ただしダビデの人口調査の件、サムエル記下24章にある話は、こちらにもちゃんとあります。人口調査といえば、いま月曜日に読んでいる民数記も人口調査の話があり、なんでこれが神様の心にかなわなかったのか、いろいろ理屈をつけて説明する人がありますけど、ちっともわかりません。

●シラ書29章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=29&mode=0
 隣人を援助してやれ、金はちゃんと返せ、という話です。
 昔は人に金を貸してもなかなか返してもらえなかったらしく、トビト記にある昔の借金を返してもらう話なんかはむしろ例外的なことだったみたいです。
 冒頭の金を貸してやれというのも、同胞から利子をとることは禁じられてますんで、むしろ「援助してやれ」ということで言ってます。