[ばべるばいぶる]

真理子の聖書日記


このサイトを作りながら、聖書を読みながら真理子が考えたことです。
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[742] #738 レビ記16-18 投稿者=HK. J. 掲示日=2011/06/29(水) 04:37:40 ここから閲覧

兄妹相姦

・・・・・・うーーん、ちょーっと反応してしまいました。
アムノンとタマルっていう聖書の例もあることだし。「未遂」で終わるくらいの「ドキドキ」なら、けっこういろんなところで起きていそうな気がします。

ちなみに、このサムエル第二 13:6
「どうぞわたしの妹タマルをこさせ、わたしの目の前で二つの 【 菓 子 】 を作らせて、彼女の手からわたしが食べることのできるようにしてください」。

この【菓子】っていうのが、ヘブライ語で levivah っていうのですが、これ、lev という言葉の派生語です。lev といえば「心」です。なんでまた、こういう文脈で、ハート型の菓子なんか作るかねーーー。源氏パイみたいでうまそうでは ありますが。

[741] YouVersionのアドレス 投稿者=HK. J. 掲示日=2011/06/29(水) 04:20:41 ここから閲覧

http://www.youversion.com/bible

アドレスはこちらです。

[740] 聖書テキストのサイト 投稿者=HK. J. 掲示日=2011/06/29(水) 03:59:42 ここから閲覧

なんだか、表示の奇妙なところがたくさんあるサイトですが、「中文標準訳本」とか、日本語「リビングバイブル」、現代ヘブライ語の「リビングバイブル(新約部分のみ)」とかが閲覧できるサイトがありましたので、ご報告します。

中文標準訳本というのはどうもシンガポールの華僑が中心となって、現代の普通話の語彙と文法で聖書を中国語訳しようとして出来たもののようです。自分は本で買いましたが、ネット上で見られるのだったら、買わなくてもいいくらい、そんなには特徴のない訳です。

リビングバイブル現代ヘブライ語版は、どうもデータがかけているようですが、たぶん書物としては絶版なので、貴重です。たとえ、クリックして表示されない部分があったとしても。ヨハネの黙示録で「主なる神」が Elohim Ha-Shem とか書かれていて、たしかにユダヤ人向けに訳されていることがわかります。

[739] 列王記下11-15章 投稿者=真理子 掲示日=2011/06/28(火) 11:19:22 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=2ki&chapter=11&mode=0
 このところ王様があんまり変わってませんでしたけど、今日は王様の移り変わりだけで終わっちゃうわ。なにしろ北が滅ぶ寸前まで行きますもの。
 まず南。[731]で書きましたように6代目アハジヤが北のクーデターに巻き込まれて死んじゃいますと、母のアタリヤが南唯一の女王として即位します(南7。在位BC842-837)。そして王族をことごとく殺そうとするんですが(だって彼女自身は王族じゃないですから)、王子ヨアシ(ヨアシュ)だけはアハジヤの妹にかくまわれて無事。彼女はずいぶん暴君だったんですが、このヨアシを擁立した大祭司エホヤダ(ヨヤダ)がクーデターを起こしてアタリヤは殺され、ヨアシが即位(南8。BC837-800)。ここまでが11章。ヨアシは祭司たちが献金の横領をしているのを許さず直接献金を管理して神殿を修理します。こんなにいい王様だったのにクーデターを起こされて死んじゃいます。まったくヤハウェって頼りない神様ね。ここまで12章。
 北はエヒウ(イエフ)の死(王下10:35)後エホヤハズ(ヨアハズ。北11。BC815-801)が即位。スリヤ(アラム)との戦いの絶えない治世。死後は息子のヨアシ(ヨアシュ。北12。BC801-786)。あれ、2年間ほど、北もヨアシ南のヨアシって時期がありますわ。死後はヤラベアム(ヤロブアム)2世。北13。BC786-746。このとき預言者エリシャが死にます。死ぬときに王様に東向きに矢を何度も放てと言ったのに王様が3回しか放たなかったので「スリヤ(アラム)に勝てるのは3度だけ」と預言したというオマレつき。まったく死ぬまでうるさいじいさんね。ここまで13章。
 一方南は、アマジア(アマツヤ)が即位。南9。BC800-783。父を殺した謀反人どもを殺したものの、その子までは殺さなかったということで評価されております(王下14:6)。この規定は申24:16にあり、エレ31:30とかエゼ10:2とかでは「父がすっぱいブドウを食べたから子の歯が浮くなんてことはないだろ!」なんて書いてます。今じゃ当たり前ですが昔は珍しい規定。いや、今だって東電の家族が肩身の狭い思いしてるとかいろんな話ありますから昔をバカにできないわ。申命記の規定って新しい律法が多いんで、たぶんこの時代に「父は父。子は子」っていうのが確立して、エレミヤやエゼキエルはそれを宣伝してるんですね。あとエゼキエルにはエゼ18:10-13もあります。
 こういう近代的な考えのいい王様なんですが、北と戦争して負けるなど、実際の治世はさっぱり。謀反が起きて殺されちゃいます。死後は息子のアザリヤ(アザルヤ)が即位(南10。BC783-742)。
 15章に入っちゃいますが先回りしてアザリヤの話をします。この王様、王下15:13,30ではウジヤと書かれてますが同一人物です。なんでこういうふうに2つ名前があるのかわかりません。一般にはウジヤのほうが通りがいいです。いい王様なんですがらい病に感染しちゃいまして、子のヨタムが政務を代行し、ウジヤの死後は即位(南11。BC742-735)。
 北はヤラベアム(ヤロブアム)2世でしたね。この時期が北の絶頂期です。悪い王様なのに絶頂期なのはこれいかにというので、王下14:25-27ではうだうだとわけのわからない弁明をしてますね。列王記はヤハウェを信ずる王がいい王様で、実際の治世がどうかなんて関係ないんですよね。ここまで14章。
 その後はゼカリヤ(ゼカルヤ。北14。BC746。六ヶ月)、謀反で殺され、謀反人シャルム(北15。BC745。一ヶ月)。また謀反で殺され、謀反人メナヘムが即位(北16。BC745-738)。このころからアッスリヤ(アッシリア)に攻められます。謀反で殺され、謀反人ペカが即位(北17。BC737-732)。アッシリアに大々的に攻められて多くの民が捕囚されちゃいます。謀反で殺され、謀反人ホセア(ホシェア)が即位(北18。BC732-722)。この人が北の最後の王です。
 南はらい病のウジア=アザリヤが死ぬと、それまでも実質的に王だった子ヨタムが即位。次は子のアハズ(南12。BC735-715)。ここまで15章。ああ疲れた。

[738] レビ記16-18章(あるいは近親相姦考) 投稿者=真理子 掲示日=2011/06/28(火) 02:42:29 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=lev&chapter=16&mode=0
 なんか昨日はつかれちゃって、通読箇所のアップを忘れちゃったわ。
 昨日はシラ書4章もありましたけど、明日のシラ書5章とまとめちゃいますわ。

 レビ記18章って近親相姦の禁止を規定してますが、「私は主である」というリフレインが印象的ですね。クリスチャンにとってレビ記なんて全然面白くないんで、一般向けのレビ記の説教集なんか見ると、むりやりにこの「私は主である」というリフレインのところからありがたい信仰心を引き出そうとしてたり、苦労してますよ。
 同様に奇妙なリフレインがあるのが申27で、「民はみなアーメンと言わなければならない」というしつこいリフレインが印象的。あ、ここも近親相姦ネタだわ。
 うーむ、近親相姦のタブーって非常に重要だから、一つ一ついちいち「ほら、ほら、わかったか。ぼけっと聞いてるんじゃないぞ。居眠りしてるんじゃないぞ。あとから『聞いてませんでした』なんて言ってもダメだぞ。一つ一つ返事をしろ!!!」って強要されてる感じですね。

 キリスト教立川流を標榜するほどセックスにおおらかな(なにしろ牧師=私=が岩井志麻子さんなみにエロおばさんですから)うちも、さすがに兄妹でエッチしてもいいよ、父娘もOKよ、母子? いいんじゃないの? なんて絶対に言えませんよね。
 だから以下は、決して近親相姦を勧めてるわけじゃなく、一つの問題提起というだけなんですけど……

 近親相姦ってそんなにタブーですか?
 考えるのもおぞましいって思うかもしれないけど、その割に、エロビデオサイトなんか見ると、近親相姦ネタのAVっていっぱい作られてて、人気も高いらしいです。もちろんほとんどは演技なんでしょうけど、やっぱり近親相姦の設定って、殿方の心を刺激するんじゃないかしら?
 実は昨日は私たち夫婦も近親相姦をしてしまいましたわ。
 夫50妻40の私たちは、もう本能のおもむくままのセックスができない。完全に体力も性機能も衰えちゃったんで、あらゆるエッチな妄想をふりしぼらないとできないんです。そんなわけで最近は「成人合宿(童貞処女卒業講座)」 http://www.privatecare.jp/s-j.html の設定でやってみようとか、わが家はすっかりイメクラと化しております。
 日曜日にTwitterで私は、エフタの娘の話が腹立たしい(この掲示板で[460]で書いたことの蒸し返しです)とさんざん毒づいて、「実録エフタの娘」という日活ロマンポルノ風の脚本を書くわとまで言ってしまいました。
 真っ黒こげにされるまでの猶予期間2ヶ月の間に、聖書じゃ女友達とハイキングに行ったことになってるけど、実はそれはアリバイで、イスラエル全土を男漁りの旅をしていた! というのが梗概ですが、実際にこのネタでエッチをしてみようと主人に提案しました。
 すると主人は「じゃエフタになる」と言い出しました。
 えっ、それじゃ父娘の近親相姦じゃない!
 「それがいいんだよ。……パパ大好きよ。愛するパパのために私は犠牲になるわ。そのかわり、私もセックスを知りたいの。私の初めての人になって、お願い……とかね。ああ、考えただけでドキドキしてきた」ですって。お付き合いしましたわ。主人はさんざん興奮しておりました。
 私の家はいろいろわけありで父や母を憎みながら育ったし、兄弟もいなかったんで、近親相姦の衝動って私にはまるきりないです。父とは大喧嘩したきりいまだに音信不通でして、セックスしようなんて思いもよりませんわ。
 でも、子どものときに父親とほとんど恋人のようにスキンシップをする女の子ってけっこう多いから、ほうっておくと父娘相姦ってけっこう発生しそうよね。
 はっきり言って主人はマザコンです。主人のお母さまは死にましたから「マザコンでした」と言うべきか。昨日も「真理ちゃんごめん。このAVダウンロードして」と言うので見たら、母親が実の息子の筆おろし(童貞卒業)をさせるものでした。主人はそういう衝動が強いみたいです。そんなことだから恋人も作らず、私と出会う43歳までオナニー専門で生きてきたのね。

 そう。母子相姦がなぜいけないかというと、「それで間に合っちゃうなら結婚しようとしなくなっちゃうから」なんです。
 世間じゃ、近親相姦のタブーは「障害をもった子が生まれやすいから」なんて言ってますけど、はっきり言ってそれは後から発見された理由にすぎません。また、「自己と世界の関係が崩壊するから」なんていう説もありますね。つまり人間は、この人に対して私はこう、みたいな他者との関係の上に自己を規定していく。その基本が「この母に対して私は息子」なんで、これが崩れて男と女の関係になっちゃうと、世界が崩壊するっていうわけです。これもウソですよ。セックスしようと母子は母子です。しょせんは、性器を結合させるかどうかだけの話でしょ。母子でキスしただけで世界が崩壊します? バカも休み休み言ってほしいわ。
 結婚が家と家とのつながりだった時代は、女性は交換されるべきものですから、「商品には手を出すな」ってわけで、自分の家の女とエッチしちゃうと人の家にあげられなくなっちゃうからっていうのが、近親相姦のタブーの理由です。
 これが都市になると、人は一人ひとり住むようになる、せいぜい小さな核家族になっちゃう。だからそういう「女を交換する」必要がなくなっちゃうんで、タブーがなければ身近な女とやっちゃうようになるんです。メソポタミアもエジプトも都市文化の発達したところですから、近親相姦がいっぱい生まれてきたんでしょう。強いタブーを作って禁止しなきゃいけないほどに。
 バベルの塔の話、何が神様の逆鱗に触れたかというと、でっかい塔を建てようとする人間の思いあがりというだけじゃありません。創11:4,9を見てください。塔を建てると全地に散り散りにならずにすむらしい。それを神様が禁止し、人々を散り散りにしたのです。「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」(少しずつ言葉を変えながら創世記に5回も出てくる)というわけで、増えて「ばらばらになる」ことを神様は望んでいるんです。いろんな人と交わりながら、世界の隅々にまで広まりなさい、と。狭いところにじっとしてて近親相姦やってる場合じゃないぞってわけです。実際、アメリカへの移民って、血族の純潔を守るためにタブーに触れない程度に近親の関係の人と結婚するっていう人たちも多かったですから。
 そういうのが、レビ記18章や申命記27章の、近親相姦を一条一条しつこく「私は主だ」「アーメンと言え」と言いながら規定してる理由なんですね。

 近親相姦に興味を持ったアナタのために、ネットで気軽に読めるおかずを紹介しますわ。
 どちらも私たち夫婦がイメクラ風実演をして、けっこう盛り上がったものです。
   兄妹ネタ http://www.w-paper.com/chemie/experience/guestreport/lady/mai1.html
   母子ネタ http://web.thn.jp/foreveryouko45/0603kazoku/kazoku00mokuzi.htm の13から21まで
 ほら、どっちも興奮したでしょ? 女の私ですらドキドキしますもの。
 まあ、私はイエス様みたいに、想像するだけでも罪だなんて言いませんから、こういうのを見て、近親相姦って何だろうって考えてみてはいかがでしょう?

[737] コロサイ1-2章 投稿者=真理子 掲示日=2011/06/26(日) 10:12:34 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=col&chapter=1&mode=0
 コロサイというのは小アジアのフリギア、いまのトルコの内陸部、
http://uk.wikipedia.org/wiki/%D0%A4%D0%B0%D0%B9%D0%BB:Map_of_Epistle_to_Colossians.png
のKolosyってところです。
 エフェソ、フィリピ、フィレモンと並んで「パウロ獄中書簡」の1つですが、コロサイはどうも「なりすましパウロ」のようです。いずれにせよ、近くにあるラオデキア(上の図ではLaodycea)同様、苦しい状況の中で信徒たちが動揺しているようで、「お前たちのためにオレはがんばって戦っているのだぞ」(コロ2:1)と励ましています。
 また、他の獄中書簡もそうですけど、戦意が先鋭化しているところがあり、「人にだまされるな」とか「今までの律法なんかどうでもいいのだ」とか、煽りモードになっているのにご注意ください。
 それからコロサイの特徴は、キリストが大昔からいたのだ、という考え方を強調していることです(1章)。そもそもナマのイエスを見たことのないパウロは、キリストが私たちの罪のために死んでくださり復活した、という1点のみを強調するんですが、それじゃイエス様出現以前の人はどうなっちゃうのかってことになりますから、実はキリストは最初からいたんだ、という考え方を示しているんです。これはヨハネ福音書に特徴的な考え方ですけど、パウロ書簡の中にもそういう考え方があるんですね。あ、これって「なりすましパウロ」でした。実際、これがニセモノのパウロだって主張する人は、今の点がパウロの思想とは考えられないっていうことを根拠にしてるみたいです。

 あと、新約の外典に「ラオデキアの信徒への手紙」っていうのがあります。普通の聖書には入ってませんが、ラテン語訳(ヴルガタ)のおしまいに付録のようについてます。これがコロサイの姉妹編のような手紙ですので、ぜひお読みください。短いですから。
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=lao&chapter=1&mode=0

[736] ルカ19-20章、シラ3章 投稿者=真理子 掲示日=2011/06/25(土) 23:56:53 ここから閲覧

●ルカ19-20章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=luk&chapter=19&mode=0
 あらまあ、私としたことが、今日の通読箇所のアップを忘れてましたわ。早くアップしないと日付が変わっちゃう。
 でも、今日のところは見事にマタイ、マルコと共通していて、まるきり初めて読むエピソードはありません。だからコメントするのも気がひけます。そう思ってるうちにずるずると深夜になっちゃったってわけです。
 前に言った気もするんですけど、とりあえず一つだけ。
 ルカ20:27以降、「7人兄弟と次々と結婚した女は、最後の審判以後は誰のおかみさんなのか?」って話。これ一見「復活ってありうるかどうか」という話のようにとらえられますけど、実は「天国での生活のありよう」という話として読めます。
 キリスト教の公的見解では、死んだら陰府というところで待機、最後の審判のときにみんな召集されて一人ひとり裁かれ、不合格ならそれっきりおしまい。合格なら天国(神の国)で永遠の生命が得られる、というのが死後のありようです。不合格の場合には地獄に行くという見解もあります。
 この死生観に真理子は異議を唱えて「キリスト教輪廻説」を説いているわけですけどね。やれ、最後の審判を一斉にやったら何千年もかかっちゃうから死後随時やってるんだろうとか、天国で永遠の生命なんて退屈でしょうがないから、この世への生まれ変わりのほうがありがたいとか。
 でも、実をいうと、死後の世界がどんなものかっていうのは、聖書の中でさえ統一見解がありませんし、この箇所をイエス様の発言のように、妙に生活観のない感じでしか説明されていません。
 ルカ20:37-38によれば、アブラハム、イサク、ヤコブは「現に生きている」なんていう、ずいぶんバカげた説明もなさっておられますね。

 実のところ、聖書およびキリスト教で保証されているのは、「死んだらそれっきりじゃないよ」ということだけなんだろうと思います。神様とイエス様による救済によって、次のステージがあるよ、ということだけ。その次のステージがどのような形になるのかは、ちっとも語られておりません。
 とりあえず、今考えてもわからない、そのときになってから考えればいいじゃないのってことなんでしょう。

●シラ3章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=3&mode=0
 シラ3:12-13「子よ、老いた父を助けよ。父が生きている限り苦労をかけるな。たとえもうろくしたとしても大目に見てあげなさい。自分が若さの絶頂にいるからといって父を辱めるな。」
 いまこれちょっと頭痛いです。主人のお父様、ボケが進行してて、この先介護が大変になりそうですから。シラ3:21「自分には難しいことを追い求めるな。自分の手に余ることを詮索するな。」で介護放棄しちゃいたいわ。

[735] エゼキエル書25-30章 投稿者=真理子 掲示日=2011/06/24(金) 10:19:30 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=eze&chapter=25&mode=0
 このあたりは、エジプトを除けば、今はもうない国や民族の滅亡の予言なんで、ぴんときませんね。
 25章のアンモン、モアブ、エドムは東隣、ペリシテは西隣の民族で、今までも何度か出てきました。26章以後のツロというのは新共同訳ではティルスとなっています。フェニキアの都市国家です。
 この時代、新バビロニアはますます勢力を強め、いろいろな国を飲み込んでいきます。ユダ王国も滅亡寸前。
 エジプトは結局新バビロニアに滅ぼされることはありませんでしたが、続くペルシア帝国には滅ぼされ、その後は一時的に独立を回復することはありますが、以後はギリシア人王朝になり、ローマになり、イスラムになりと、他国に支配されていることのほうが多くなります。その意味では、30章最後の「エジプト人を散らす」という預言は当たってるんでしょうかね。
 あとは日付の換算を載せておきます。
 エゼ26:1「第十一年の第一日」=たぶんBC586。月が書いてないのでその下はわかりませんし、BC587かもしれません。
 エゼ29:1「第十一年の十月十二日」=BC587/1/6
 エゼ29:17「第二十七年の一月一日」=BC571/4/26
 エゼ30:20「第十一年の一月七日」=BC587/4/29

[734] 箴言10章、シラ書2書 投稿者=真理子 掲示日=2011/06/23(木) 15:47:43 ここから閲覧

●箴言10章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=pro&chapter=10&mode=0
 箴言はここからはほとんど前後の脈絡のないことわざ集になりますので、おもしろいことわざを何か一つ二つとりあげる形式にします。
 今日は箴10:4。「手を動かすことを怠る者は貧しくなり、勤め働く者の手は富を得る。」
 働かざる者食うべからず、に通ずる思想というわけですね。
 そもそも「反社会学講座」によれば、この「働かざる者食うべからず」って、聖書の言葉らしいです。 http://pmazzarino.web.fc2.com/lesson6.html  へえ、そうなんだ。別のところには、レーニンがパウロの言葉を引用したものらしいですが、よくわかりません。ちなみに 二テサ3:10です。「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」。あ、でも2テサって「なりすましパウロ・アカウント」なんですけど。
 孟子に「心を労する者は人を治め、力を労する者は人に治めらる。人に治めらるる者は人を養い、人を治むる者は人に養はる」、つまり知的労働者は人を使い、人から仕えられる。肉体労働者は人から使われ、人に仕えねばならないってわけでして、だいたいこんなふうに昔は一生懸命働くやつはろくなもんじゃないって考えが一般的だったと思うんですが、箴言に勤勉を説くことわざがあるっていうのがちょっと意外です。だって聖書の思想って基本的に、労働は刑罰ですから。アダムがエヴァにそそのかされなければエデンでラクして過ごせたのに、楽園を追われて労働をしなきゃいけなくなったわけですからね。

●シラ書2章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=2&mode=0
 シラ書も脈絡のないことわざ集のようなところがありますが、今日のところは「試練を覚悟せよ」というところで統一がとれてます。
 以前ここでも、そしてTwitterでも、「殉教を美化するような宗教は邪教だ」って叫びました。信者を生かしてこそ宗教なんで、信者に死を強要しちゃいけません。ここは殉教を強要してませんけど、試練を覚悟しろっていうのは殉教の美化につながるので警戒します。
 単に、「神様に祈っても祈りがなかなかききとどけられないことがある」ってことならいいんですけどね。たしかにヤハウェさんは、なかなか祈りをきいてくれませんから。

[733] 詩編81-83編 投稿者=真理子 掲示日=2011/06/22(水) 11:06:19 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=psa&chapter=81&mode=0
 82編は読めば読むほどわけのわからない詩ですね。たぶん、ヤハウェさんの一神教が成立する以前の多神教的宗教観に基づく詩なんでしょう。
 つまり、神様がいっぱい住む天国で、われらがヤハウェさん(ただし原語はヤハウェじゃなくエロヒムです)が怠慢な天使たちに怒りを発してるんですね。お前たちが怠けているから正しい人が苦しんだり悪者が栄えたりという誤審が多いんだ、というわけですね。5節の「彼ら」とはそういう頼りない天使たち。暗い中をふらふらしてるだけでちっとも頼りにならない。
 そこで作者のアサフさんはいう。「天使たちよ、お前たちはたしかに神々かもしれないが、そういうとんでもない神々は人間のように滅んじまうぞ。さあ、真の神様、目覚めてください。こういうおバカな天使なんかを使わないで、すべての民を直接さばいてください」ってわけです。
 なんか、スゴいですね。よくもこんな反聖書的な詩が聖書に収録されたものですね。考えれば考えるほど不思議でなりません。
 なお、新共同訳では6節をわかりやすく「あなたたちは神々なのか」と疑問文で訳してます。逆に最後の8節「あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう」がわかりにくい。そもそも「嗣業」って業界用語でして、クリスチャン以外には通じません。いや、クリスチャンでも通じないんじゃないでしょうか。「先祖伝来、代々受け継がれた、土地や職業の総体」ってことです。昔は職業は世襲で、しかも無産階級は少なく、たいていは土地だの家畜だの何らかの資産をもとでとして仕事をしたわけですから。ここは「持ち物・管轄」くらいがいいんじゃないんでしょうか。

[732] シラ書1章 投稿者=真理子 掲示日=2011/06/21(火) 11:16:11 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=skd&book=sir&chapter=1&mode=0

 シラ書というのは、「ベン・シラの知恵」とか「集会書」という言い方もされます。
 箴言のようなことわざ集なのですが、箴言以上に前後の文脈のないぶつぶつとしたことわざ・格言なので、引用が非常にラク。そこで、伝トマス・ア・ケンピス作『キリストにならいて』でもさかんに引用されています。
 中学時代に聖書に興味を持った真理子は、聖書の入門書のつもりで『キリストにならいて』を読み始めたのですが、「なんだ? この集会書って???」。そう、最初に真理子が手にしていたのは、プロテスタント向けの外典(続編)ナシのバージョンだったんですね。真理子はぎりぎりで口語訳で育った世代ですから。
 新共同訳が出たのは1987年。真理子が高校1年生のときでした。もちろん買ったのは続編つきのほうです……といいたいところですが、実はうっかり続編ナシを買っちゃったんです。新共同訳はカトリックとの共同翻訳で続編も入ると聞いてたんで、新共同訳なら何でも続編がついてると思ったら、続編ナシ版も出すなんて知りませんでした。表紙もまるっきり同じなんでまぎらわしい。あわてて続編つきも買いました。このころから真理子は聖書にお金の浪費をするようになったわけですね。
 冒頭に長々とした序文がついてます。通常は第1章の前に序文としてつけるものですが、ばべるばいぶるでは面倒くさいので第1章第1節に強引にくっつけました。序文についてる番号は節番号というより、ゲッティンゲン版の行番号に過ぎませんから、無視してかまいません。
 この序文は原著者の孫が書いているのですが、おじいさん、つまりこの本の原著者の名前はイエスっていうんですね。あのイエス様と同名ですよ。『キリストにならいて』がさんざんこの本を引用しているのは、ひょっとしたらそういう理由もあるかもしれません。聖なるあの方と同じ名前の人が書いたからって。
 でも、新共同訳だとイエスス。これっておかしくないですか。新共同訳の前の共同訳が、ギリシア語の主格形をそのまま固有名詞表記に使ったもんだから、イエス様の名前がイエススになっちゃってごうごうたる非難を浴びたんです。「イエス(プロテスタント)でもイエズス(カトリック)でもイイスス(正教会)でもない、この3つの中をとるとはさすが共同訳」みたいな皮肉もあびました。そこで新共同訳では従来のものに戻したんですね。カトリックには譲歩してもらって、イエスにした。じゃここだってイエスにすりゃいいじゃん、って思いますけどね。
 そんなわけで原著者の名前はイエス。ヘブライ語で書いたって書いてますから、ヨシュアって呼んだほうがいいかもしれませんけどね。あ、ヨシュア=イエスって、常識ですよね?
 それを孫のベン・シラさん(シラの子ってわけです)が苦労してギリシア語に翻訳した裏話が、この序文です。エジプトというのは具体的にはアレクサンドリア、現イスカンダリアですね。ユダヤ人もいっぱい住んでたんで、そういう海外ユダヤ人向け、あるいはホントに外国人向けに、この本をギリシア語に翻訳したというわけです。そして、同じように翻訳された七十人訳聖書の一書としておさめられたというわけですね。

[731] 列王記下6-10章 投稿者=真理子 掲示日=2011/06/21(火) 10:52:16 ここから閲覧

 シラ書1章もありますがまずは列王記下6-10章の話だけ。

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=2ki&chapter=6&mode=0
 エリシャのエピソードの続き。
 時代は南北ともにヨラムという名前の王が在位しております。区別するときは、王下8:16のように、北=アハブの子ヨラム、南=ヨシャバテの子ヨラム、などと言います。
 北は9代目(在位BC849-842)、南は5代目(在位BC849-842)。在位年代はWikipediaのものをそのまま流用しています。Wikipediaだと在位年代がまったく同じですね。でも列王記だと、南ヨラムの即位=北ヨラムの5年目です(王下8:16)ので矛盾があります。
 列王記の記述を単純計算して年表を作ってみればすぐわかるのですが、計算が合いません。暦が違うんだろうとか、「第何年」という言い方が在位の開始年を含む含まないという違いだろうとかいろいろいわれております。まあだいたいこのあたりだと適当に読んでください。
 6章7節までの「水の中に落としてしまった大切な斧を拾い上げてあげる奇跡」以外は、イスラエルとスリヤ(シリヤ。新共同訳や新改訳ではアラム)との戦いの中でのいろいろな奇跡が続きます。

 南はヨラム王のあと、アハジヤ(アハズヤ)王が即位します(南6代目。BC842)。たった1年しか在位していないのは、次にご紹介するエヒウのクーデターのときに北ヨラム王のお見舞いに来てまして、かわいそうにクーデターに巻き込まれて殺されちゃうんですね。その後どうなるかは11章のお楽しみですが、お母さんのアタリヤが即位しちゃうんです。

 北の話に戻します。北はアハブの子ヨラムの世が続いているのですが、バール神崇拝をやめないので、神様は将軍エヒウ(エフー、イエフ)にクーデターを起こさせます。もちろん神様には口がなく言葉は通じませんので、預言者エリシャに謀反をそそのかせるわけです。
 エヒウは先代王アハブの妻イゼベルを残虐にも突き落として殺します。このときのイゼベルのことば「主君を殺したジムリよ、無事ですか」(王下9:31)は、列王記上16章にある、七日天下のジムリの話です。謀反人のお前なんかどうせジムリのようになるのさ、という挑発ですね。
 その後エヒウはアハブ家の一族をみんな殺して北10代目として即位します(842-815)が、血がつながってるわけじゃありませんから、実質的に新しい王朝ですよね。
 エヒウは北王国唯一の名君ということになっていますが、それはバール神崇拝を一掃したためですね。列王記の作者にとっては、実際の政治なんかどうでもよく、ヤハウェさん以外の神を追放すれば名君なんですね。やり方がすごいですよ。バール神のおまつりをするぞとバール神の祭司をだまして呼び寄せてみなごろしですからね。なんだかなぁ。
 ホント、ヤハウェっていうのは罪深い神様ですよね。こんな血なまぐさい神様の宗教がキリスト教だのイスラム教だの世界宗教になって今に至るまで続いてるから、世の中に戦争が絶えないんです。バール神が広まったほうがよっぽど世界は平和だったんじゃないかと思うことがしばしばですわ。
 そして笑っちゃうのは、そんなエヒウもその後はヤハウェさんを見限って別の神様を崇拝しちゃうんですよ。ヤハウェさんが全知全能なんてホントかしら? よっぽどヤハウェさんって人を見る目がないみたいですね。いじけたヤハウェさんはこのころから、北王国そのものを滅亡に導こうと画策するようになりましたとさ。
 エヒウの死後はエホヤハズ(ヨアハズ)が北11代目として即位(815-801)。

[730] レビ記13-15章 投稿者=真理子 掲示日=2011/06/20(月) 12:26:27 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=lev&chapter=13&mode=0
 ふだん旧約聖書なんか、ましてレビ記なんか開けもしないクリスチャンが、にわか律法学者になって引用したがるのがレビ記15章です。
 ほうら、精子が出ちゃったら夕方まで汚れるんだよ。だからオナニーなんかしちゃだめよ!
って。
 こういうのを私は「聖書のつまみ食い」と呼んでおります。何か自分の気に食わないものを禁じたいとき、聖書を探して、それらしい箇所を探して来るんですね。
 そういう人は、聖書を信じてるんじゃなくて、自分の信じてるもののために聖書を利用してるだけなんです。聖書が先なんじゃなく、聖書が後。

 オナニーなんて、いま男性はまるきり罪悪感ないでしょうし、女性もそうなりつつあるんじゃないでしょうか。でも少し前までは、女性がオナニーをするなんて口が裂けても言えませんでしたし、主人が中学生のころ、昭和40年代あたりまでは、男性でも罪悪感を抱く人が多かったらしいです。だいたいこういうのって、まず男性のタブーが破られて、しばらくして女性に波及して来るのよね。
 それでもいまだに男性のオナニーを罪悪視する方がいらっしゃるようで、そういうときにクリスチャンが引き合いに出す聖書の箇所が、このレビ記15章というわけです。

 でも、レビ記15章のどこに「自慰」なんて書いてあるのかしら? 精子をもらしちゃったらこうこうとは書いてますけどね。
 じゃ、女性は関係ないですね。じゃ私は誰はばかることなくオナニーに励むことができますわ。よかったわ。
 私の2つ上の世代ぐらいで、女性運動やってた人は、オナニーの講習会とかやったそうですよ。自分の体を知ることが女性解放の第一歩ってわけです。そもそも女性は体の構造上、自分の性器が見えないし、他人のだってよく見えませんから、性器の構造に無知な子って多いんですよ。男性は自分のおちんちんが見えますから理解しにくいかもしれませんが、肛門ならわかるでしょ? 肛門って、見えないですから、病気でもしない限り見ないですますことができますんで、汚いところだし、見たくないし触れたくないって男性、多いんじゃないですか。女性はそれを自分の性器に対して感じてるんですよ。そんなんじゃダメ。まずは自分の性器を観察し、他人の性器を観察し、構造を熟知し、どこをどうすると気持ちいいか、なんてことを勉強しあったらしいです。
 女性はともかく男性はどうでしょう。
 ゆうべうちの主人に取材したところ、主人の精通、すなわちはじめての射精体験は、オナニーだったらしいです。主人は夢精って一回もしたことがないらしい。
 小学校5年生のある日、両親の外出中に、裸になっておちんちんをいじってたら、急に強烈な尿意を催した。トイレに行こうとするんだけど間に合わない。あ、もらしちゃったと思ったら、それはおしっこじゃなくて白いものだったのでびっくりした、というのが主人の射精初体験。
 あれ、そうすると、そのころ主人がしていたオナニーは、射精を意図したものじゃなかったってことですよね。
 そんな主人も40歳を過ぎたころから性能力がすっかり減衰し、オナニーをしても射精に至らず、疲れてやめてしまうなんてことのほうが多くなったらしいです。
 ということは、たとえ男性であっても、オナニー=射精ととらえるのは誤りだってことですよね。
 じゃレビ記15章なんてまるきり関係ないじゃありませんか。
 16節はともかく18節は「女と寝て精を漏らす」んだからこれは普通のセックスですね。じゃレビ記を根拠にオナニーを禁止する人は、セックスも禁止するんでしょうか。少子化に歯止めがかからないわね。最後の審判より人類の滅亡が早そうよ。
 そもそもレビ記15章は、「~するな」じゃなく「~したらこうしろ」なんですよ。禁止なんかしてない。女性の生理の話もいろいろ書いてますが、生理を止めることなんかできないわけですからね。

 長くなりましたが、そんなわけで、世の殿方、オナニーをなさりたければご自由にどうぞ。

 あと、13-14章はらい病関係の話。最近は「らい病」という言葉自体が差別用語とされていますし、レビ記は明らかにらい病と関係ないものまでらい病扱いしてますから(13章47節以下、「衣服のらい病」なんていうヘンなものが出て来ます)、新共同訳では普通のらい病を「重い皮膚病」、衣服のらい病を「かび」と訳し、新改訳では一律に「ツァラアト」としてます。
 でも、聖書は差別の時代に書かれた本、科学の知識が乏しかったころに書かれた本なんだから、差別のニオイのこもった「らい病」という訳語を、衣服のかびに対しても一律に使うっていうのが、正しい方法だと思います。

[729] ピリピ(フィリピ)3-4章、知恵の書19章 投稿者=真理子 掲示日=2011/06/19(日) 12:43:55 ここから閲覧

●ピリピ(フィリピ)3-4章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=phi&chapter=3&mode=0
 3章はユダヤ人に対して敵意をむきだしにしている部分。くれぐれも、こういうところは「当時は仕方がなかったのよね」という読み方をしていただくようお願いします。
 だって今のキリスト教だって、私のような乱暴者が乱入して、「最後の審判なんてウソよ、随時やってるのよ」とか「天国と地獄は同じところよ」などと自説を宣伝したら、みんな怒るでしょ?
 当時のキリスト教はユダヤ教系カルト的新興宗教だったんだから、ユダヤ人から攻撃されても仕方ないんです。逆にキリスト教徒がユダヤ人に敵意を燃やしても仕方ないんです。

●知恵の書19章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=wis&chapter=19&mode=0
 知恵の書は今日でおしまい。このところずっとそうですけど、出エジプトにおける神のイスラエルの民の救済をうたいあげております。

[728] 死体とはげたか 投稿者=真理子 掲示日=2011/06/18(土) 20:56:57 ここから閲覧

 そうそう。この話を書くのを忘れたわ。
 ルカ17:37の「死体のあるところには、はげたかが集まる」っていうのは、ヘンなたとえなんでぎょっとしますけど、最後の審判がどこで行われるかという問いへの答えなんですから、「どこででも」ってことですよね。
 私は常々、最後の審判は随時(死んだらすぐ)。そしてその結果行く神の国は実はこの世(つまり輪廻する)って考えているんですが、ルカ17:21に「神の国はこことかあそことか言えずあなた方の中にある」ってあるのがその根拠になるかと思います。実は今生きているこの世界が、心のもちようによっては神の国なんですよ。

[727] ルカ17-18章 投稿者=真理子 掲示日=2011/06/18(土) 20:41:19 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=luk&chapter=17&mode=0
今日のところは書く気分がのらないわ。なぜって、いろんなエピソードが語られてるんだけど、全部どこかで私が書いたことばっかりのような気がしますから。
 18章の裁判官の話はまだだったかもしれませんね。でもこれってすごいヘンなたとえですよね。これじゃまるでお祈りをする私たちがクレーマーみたいじゃありませんか。「本当にうるせえばばあだだなぁ。適当に願いをかなえて追い払うか」みたいに神様に思われてるのかしら。いくらなんでもこれってたとえがひどくありません? イエス様。
 イエス様も今の私と同じ、気が乗らなかったのかもしれませんわね。

[726] エゼキエル19-24章、知恵の書18章 投稿者=真理子 掲示日=2011/06/17(金) 11:03:25 ここから閲覧

●エゼキエル19-24章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=eze&chapter=19&mode=0
 全国のエログロ大好きな皆様、お待たせいたしました。聖書の中で一番グロに近いエロい文章が今日の部分です。ケン・スミス著(山形浩生訳)『誰も教えてくれない聖書の読み方(KEN’S GUIDE TO THE BIBLE)』では、エゼ23:20の文章をどう訳しているかで、その聖書の翻訳の忠実度を示していますから。とりあえず日本語訳だけ対照しておきましょうか。
文語訳
彼らの戀人に焦るその人の肉は驢馬の肉のごとく其精は馬の精のごとし
口語訳
その情夫たちに恋こがれた。その人の肉は、ろばの肉のごとく、その精は馬の精のようであった。
新共同訳
彼女は、ろばのような肉をもち、馬のような精をもった者の側女であることに欲情を燃やした。
新改訳
ろばのからだのようなからだを持ち、馬の精力のような精力を持つ彼らのそばめになりたいとあこがれた。
関根
彼女はその男妾を慕いつづけた。その陽物はろばのそれのようで、その精は馬のそれのようであった。
フラ
ろばのような肉を持ち、馬のように精力の強い彼らの愛人として、彼女は情欲を燃やした。
岩波
彼女は、その肉体がろばの肉体、その男根が馬の男根であるような彼らの情婦なることを恋い慕った。
新世界
そして彼女は,その身体の器官が雄ろばの身体の器官のような者,その生殖器が雄馬の生殖器のような者たちに所有されるそばめに倣って欲情を燃やしつづけた。

 こうやって比較してみると、クリスチャン側からは意図的に改ざんしているときわめて評判の悪い、エホバの証人の新世界訳が、一番忠実な気がするんですけどね。
 昔から世の男子諸君は、辞書を買うと真っ先にsexとかエッチな単語をひくらしいですが、みなさんも聖書をお買い求めの際は、まずはエゼキエル書23章20節をごらんくださいませ。
 言ってることは、姉妹=北王国&南王国みたいに、何が何の比喩かを全部ベタにばらしてますんで、わかりやすいと思います。
 あと、20章の日付は、BC591年8月13日になります。第二次捕囚(最終的なユダ王国の滅亡)はBC587ですから、それよりちょっと前です。

●知恵の書18章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=wis&chapter=18&mode=0
 出エジプトの奇跡のエピソードを掲げて、神の正しいさばきを書いております。

[725] 箴言8-9章 投稿者=真理子 掲示日=2011/06/16(木) 10:16:36 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=pro&chapter=8&mode=0
いま平行して外典の「知恵の書」読んでますけど、どっちがどっちだかわかんなくなっちゃうほど似てますね。簡単にいえば、知恵っていうのは神様をおそれて神を生活の規範にすることだと思うんですけど、どうかすると知恵=神じゃないかしら。だって知恵のところに神っていれても通ってしまう箇所も多々ありますもの。
 まるきり印象でものを語りますけど、イエス様による救済なんていうのを抜きにしてユダヤ教がそのまま進化していくと、最初は人にかなり近いイメージで、きわめて怒りっぽい火の神様だったヤハウェさんが、だんだん思想の進化の過程で「知恵」のような抽象化されたものになっていくんだろうなって思います。

[724] 詩編78-80編、知恵の書17章 投稿者=真理子 掲示日=2011/06/15(水) 18:20:08 ここから閲覧

●詩編78-80編。
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=psa&chapter=78&mode=0
 78編は「詩で読むイスラエルの歴史」。もっとも77編もそれっぽいところがありますね。ひょっとしたらつながってるのかもしれません。79編は「詩で読むエルサレム陥落」。

●知恵の書17章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=wis&chapter=17&mode=0
 悪いことをやった「彼ら」に対する神の罰が語られていますが、具体的には出エジプトの時のエジプト人に対するものです。

 ごめんなさい。ちょっと気が乗らなくてたいしたことが書けませんでした。

[723] 列王記下1-5章 投稿者=真理子 掲示日=2011/06/14(火) 11:33:54 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=2ki&chapter=1&mode=0
 今回の範囲では歴史はあんまり先に進みません。
 北7代目暴君アハブ(在位BC869-850)の死後、アハジヤ(850-849)が即位。ところが欄干から落ちたキズがもとで死にます。それをエリヤが予言するというひとまくもあります。その後は弟のヨラム(849-842)が即位。この時代、南はヨラム(849-842)。南北で王の名が同じっていうのがやっかいですね。在位年まで同じだわ。でも一応列王記では、南ヨラムの2年目に北ヨラムが即位ってことになってます。
 エリヤは生きながら神様によって天にあげられます。人類史上死ななかったのはエノク(創5:24)とエリヤのみ。イエス様だって一度は死んだんですからね。
 さてエリヤの弟子のエリシャに関する奇跡がいろいろ書かれていますけど、あれ、死んだ子を復活させたり(しかも人払いをして)、パンを多くの人に分け与えたり、どっかで読んだことありますね。福音書のイエス様の奇跡って、このエリシャ物語のパクリなんじゃないかと思うことがあります。

[722] レビ記10-12章、知恵の書第16章 投稿者=真理子 掲示日=2011/06/13(月) 11:40:19 ここから閲覧

●レビ記10-12章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=lev&chapter=10&mode=0
 いろいろ言いたい事があるんですけど、本当に神様って男なのねっていう腹立たしい話だけ書いておきましょう。
 それは12章です。
 ねえ神様。なんで子どもを産んだ女は汚れるの? 血の清めだかなんだか知らないけど、男の子なら7+33=40日、女の子なら14+66=80日もじっとさせててさ、清めあけには子羊と鳩、あるいは鳩2羽を持ってかなきゃいけないなんて。
 私、出産に健康保険が適用されないだけでも腹立たしいのに(一時金は出るけど事後ね。つまり40-50万円ほど用意しとかないと子を産めないのよ)、こんなことさせられるんじゃ、ユダヤ教で子ども産めないわ。
 思うんですけど、なんかユダヤ教って血のけがれに敏感ですよね。いろいろなことで出血するたんびにああしろこうしろと。女なんか血を見慣れてるからちょっとやそっとの出血なんかでじたばたしませんけど、男はちょっと出血すると動揺するのよね。渡辺淳一の『鈍感力』に書いてた話ですけど、これだけ出血したら生命の危険があるっていうラインを超えて出血しても女ってけっこう生き延びるらしいです。男はちょっと出血しただけで死んじゃうので、中をとってラインが設定されてるみたいですけど。

 あ、出産したら絶対にけがれるわけですから、けがれっていうのは避けられないんですよ。
 律法、特にレビ記に「こうこうこうしたらけがれる」ってあるからと言って、それを避けなきゃいけないってことじゃないんです。けがれたらこうしろというだけのことです。男性なら「射精はけがれ」っていわれたら、じゃオナニーは控えようかってことになるかもしれませんが、「生理はけがれ」「出産はけがれ」なんて言われたって、女は生理の血を止めるわけにはいきませんもの。

●知恵の書第16章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=wis&chapter=16&mode=0
 神様がいかに偶像崇拝の民に罰を与え、イスラエルの民を恵んできたかですが、具体的にあげられているエピソードは出エジプトの話ですんで、敵というのはエジプト人のことです。「真理子のおまけ」ではそれをはっきり書いておきましたけど、他の訳では不明確です。

[721] 殉教はダメよ、たかが宗教じゃない! 投稿者=真理子 掲示日=2011/06/12(日) 10:38:40 ここから閲覧

 [719][720]に関連しまして、最近エロ化と異端化の道を驀進中の当サイトですけど、聖なるペンテコステの日に私の基本的な考えを書いておきますわ。
 私は、殉教を美化する宗教は邪教だと思ってます。
 創価学会というきわめて排他的な息苦しい宗教の信者の家に生まれた私は、つくづくそう思います。私が父親と音信不通なのは、大学卒業のときに父の反対をおしきって結婚したということもあるのですが、創価の信仰を私が捨てたからです。いまだに母親のお墓には父の家に見つからないようにこっそりお参りしてますもの。なんだってこんな苦労をしなきゃいけないのかしら。
 ひどい拷問にあって死んだ豊臣政権~江戸時代のキリシタンたちは、なんだって死ななきゃいけなかったのかしら。踏絵なんかいくらだってふめばいいじゃん。イエス様やマリア様の図柄の足つぼマッサージなら効果がありそうよ。いつからキリスト教は偶像崇拝になったのかしら。聖像なんてしょせんは偶像っていう正しい信仰を教えなかったイエズス会の宣教師は、つくづく罪深い連中だと思います。
 ずっと地下で信仰を守った生月島なんかの隠れキリシタンの信仰は、もとのキリスト教とは似ても似つかぬものになっちゃって、明治になってもカトリックには復帰しなかったわけですけど、それだったら最初からマリア観音みたいな感じで仏教の一宗派みたいな生き残り策をとれなかったのかしら。
 そうやって神仏習合しておいて、少しずつ正しいカトリックの信仰に軌道修正していけばよかったのよ。いや、そもそも西欧のカトリックの形に固執することだってないの。日本風に変容させたっていいじゃない。世界にはコプト教会とかアルメニア教会とかマロン派とか、キリスト教のバラエティがいっぱいあるんだから。仏教だってインド、ビルマ、チベット、中国、日本、みんな違うじゃない。
 たかが宗教なのよ(されど宗教なんだけどさ)。人を生かすことを考えず、死ぬことを美化して何が宗教なのって思います。

[720] ペンテコステと多言語 投稿者=真理子 掲示日=2011/06/12(日) 09:33:07 ここから閲覧

 今日はペンテコステです。日本ではまだ馴染みがないかもしれませんが、キリスト教ではクリスマスや復活祭と並ぶ大きなお祭りです。
 もともとユダヤ教では過越祭50日後に五旬祭というお祭りがあったんですが、過越祭の翌日(ヨハネだと翌々日なんだけど)にイエス様が復活しちゃいましたので、キリスト教徒にとっても復活49日後てことになります。復活が日曜日ですからこの日も必ず日曜日になります。
 で、この日に使2のように、空から舌が何本もべろべろべろと使徒たちの頭上に降りてきてぺろぺろぺろ、そしたらみんな突然外国語能力が身についていろんな言葉をしゃべるようになりました。これが世界への宣教の始まり。キリスト教会の始まりってことになるんです。
 舌がべろべろって気味悪いですけど、仕事能力の象徴が手、知力の象徴が頭、移動能力の象徴が足……、日本では言語能力の象徴は口ですけど、泰西では舌なんですね。
 いろんな言語をしゃべるようになったのが教会の始まりってわけで、キリスト教は当初から多言語的なんですね。
 そして、多言語といえばもう一つ、創11のバベルの塔の話が有名です。当サイト「ばべるばいぶる」はこちらから名をいただいてるわけですけどね。
 この両方のエピソードに共通することって何でしょうか。
 「いろんな言葉をしゃべろっていうのが神様の意思だ」ってことなんだと思います。
 バベルの塔の話は、「人間の思いあがりに対する警告」みたいにも読めますけど、創11:4を読むと、「有名になろう(=思いあがり)」だけでなく「全地に散らされることのないようにしよう」とあるのに注意してください。
 神様は、人間の団結を望んでないんです。いろんな違いを持ちながら全地に散らばることを望んでるんですよ。同じ言葉をしゃべって同じ文化をもって同じところにかたまるのは罪なんです。
 最近の震災・原発事故の話でいえば、バベルの塔の話は、原子力の火という制御不能のものに手を出す人間の思いあがりというふうにも読めますけど、むしろ、「がんばろう日本」「絆」みたいな、団結をことさらに強調するうっとうしさへの警告みたいに私は考えてます。
 むしろ、みんなばらばらになりましょうよ。
 同じことを考えてたら、みんなで間違った方向に進んじゃうかもしれませんよ。ネズミの集団自殺みたいに。
 そしてこんどは世界への宣教の話。
 神様は、イスラム教のときにはアラビア語だけで宣教することを望んだようですが、このときには世界のいろんな言語で宣教することを望んだのです。
 言語が違うってことは文化が違うってことですから、キリスト教は、世界のいろんな地域の実情に応じた多様なあり方で宣教しなさいってことなんだと思います。これだけが正しいっていうんじゃなく、いろんなあり方があってよい。
 特に日本では、自然の中に神を見る考え方とか、和をもって尊しとなすとか、セックスに対してとてもおおらかとか、本来のキリスト教にはないいろんな要素があるんで、こういうのを積極的にとりいれていかなきゃいけないんじゃないかしらって思ってるんです。
 そんなわけで私は、偶像にもおおらかだし、セックスにもおおらかだし、そういうキリスト教のあり方を模索しているんです。

[719] ピリピ(フィリピ)書1-2章 投稿者=真理子 掲示日=2011/06/12(日) 09:06:04 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=phi&chapter=1&mode=0
 bit.lyによるURL短縮、意味ないんでやめますわ。
 フィリピというのはマケドニア南西部の地名。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%94
 いま、バカ亭主が「ギリシアを子どものおちんちんに見立てると寒くて縮こまった袋の後ろの付け根って書けよ」と茶々をいれてますが、まあそんなところです。でも、男性器に見立てるならインドシナ半島のほうがはるかにリアルじゃないかしら。
 ところでこのウィキペディア、見出しが「ピリッポイ」ですね。古典ギリシア語だっていうならまだいいんですけど、「現在の都市フィリッポイ」「日本語聖書の訳語慣行ではピリピ、フィリピとも」って書いてるのは読み方がウソですよ。これじゃまるでフィリピというのがウソ読みのような気になりますけど、οιは現代ギリシア語ではオイじゃなくイなんです。だからフィリピでいいんですよ。
 ふだんから古典ギリシア語を読むときに現代語式に読まないから、こんなウソを書くんです。

 で、前回のエフェソ、今回のフィリピ、次のコロサイ、ちょっと飛ばしてフィレモンをまとめて「獄中書簡」と言います。パウロが獄中で書いたというわけです。もっとも前回のエフェソと次のコロサイはパウロのなりすましが書いた手紙ですけどね。
 この中で、フィリピが一番獄中らしい書き方かもしれません。1章なんか、キリストの名において死ねるならうれしいんだけど、生きてたほうがもっと宣教できるし、なんて言ってますものね(フィリ1:21-25)。
 人間、獄中で戦うとずいぶん思想が先鋭化するようで、フィリ1:29なんか、「苦しみだって神の恵みだ」なんて言ってますね。こういう言葉を信じて初期のキリスト教徒はどんどん殉教してったんでしょうか。映画『クォ・ヴァディス』みたいに競技場でライオンの餌食になったりね。複雑な気分だわ。だってローマなんか皇帝崇拝さえやれば異教の信仰には寛容な国だったのよ。その証拠にミトラス教とかマニ教とかペルシア起源の宗教が特に迫害もされずに流行したじゃない。キリスト教もそんな感じでローマとなあなあで広める道だってあったと思うのに。これは馬鹿パウロの罪よね。
 使16:9-15に、パウロがフィリピに行ったいきさつが書かれておりますので、あわせてお読みください。
 フィリ2:6-11は、パウロの考えに基づくキリスト教の根本的な考えがうまくまとまっているところなんで、よく引き合いに出されます。

[718] 不正な家令の話 投稿者=真理子 掲示日=2011/06/11(土) 10:39:38 ここから閲覧

 わけのわからない話を読むコツは、変な解釈をしようとせず、できるだけそのまま読むってことなんだろうと思います。
 つまり、どうせ悪いことをやるんだったら、世のため人のために悪いことをしろ。そうすれば、いざというときにもみんなから助けてもらえるだろうっていう、このとおりの意味なんでしょう。
 そして、8節の「この世の子らは光の子よりも利口だ」がパンチのある言葉です。悪人のほうが「いい人」より利口だぞ、異教徒のほうがクリスチャンより利口だぞ、ぐらいに読んでもいいんじゃないですか。
 ヘンに道徳にとらわれちゃうと、「悪い」ことができなくなっちゃう。それは果たして世のため人のためになることなのかってわけです。
 最近の例でいえば日本赤十字社に寄せられた義援金の件でしょう。日本赤十字社じたいが親方日の丸、お役人的なところなんでしょうけど、被災者に公平に義援金を配らなきゃいけないという言い訳をしながら何もせず、義援金をためこんでしまう。いざ配ろうってときには必要性が薄れちゃうというわけです。義援金なんて必要なときにパッとあげなきゃいけないんだから、不公平になってでもばんばん配ったほうがよかったんですよ。
 いいことをするのにみせかけの正義なんかいらないってことなんでしょうね。

 ところで、この話はみんなわけがわからないと思っているようで、これに関してするどい解説をしたところはアクセスが多いみたいですね。たとえばここ。
http://blog.livedoor.jp/ladybird_689/archives/51388599.html
http://blog.livedoor.jp/ladybird_689/archives/51636635.html

 それから、ケセン語の山浦玄嗣さんは、「不正の富」について、これは「白い雪」みたいな強調的形容なのであって(赤い雪なんて存在しない)、そもそも富っていうのは不正なうさんくさいものであって、そういうものでも使いようなんだ、と解釈しています。

[717] 放蕩息子の話 投稿者=真理子 掲示日=2011/06/11(土) 09:57:40 ここから閲覧

 まずルカ15章の放蕩息子の話。
 これととても似ているのが、創世記4章のカインとアベルの兄弟の話です。
 カインもアベルもささげものをしたのに、神様はなぜかアベルのほうをひいきする。そこでカインはアベルを殺してしまいます。人類最初の殺人は兄弟殺しというわけですね。あ、当たり前ですね。だって世の中にはアダム、エヴァ、カイン、アベルの4人しかいないんですから、この時点で殺人をやるなら絶対に肉親殺しになってしまいます。そのくせカインのざんげの中で「わたしを見つける人は孰でもわたしを殺すでしょう」とかあるからには、世界にはこの4人以外の人がいるらしい。どこから来たのかしら?
 それはそれとして、この話を読むとき、そもそも発端は神様のえこひいきなんだから、神様が悪の種をふりまいたように見えてしまう人が多いんじゃないかしら。
 なんで神様はこういうえこひいきをするのか、創世記のほうには書いてませんけど、ルカの放蕩息子の話には最後に書かれてます。
 神様は実はちっともえこひいきをしてないんですよ。神様としては、放蕩息子のお兄さんにもちゃんと恵みをふりまいてるつもりなんです。たぶんカインにもそうだったのでしょう。でも、受け取る側がそう思えなかったってことなんでしょう。
 私がよく言う話ですけど、最後の審判で救われて天国に行ったとして、周りを見渡すと、「あ、あそこにいるあいつ、とんでもない悪い奴なのに、なんで救われてるんだよ!」なんていうことがいっぱいおきるのでしょう。それに耐えることができない人にとっては、天国は実は地獄にほかならない。天国と地獄って客観的には同じ所なんですよ。
 だから、自分より悪い奴が救われるということ、放蕩息子が祝福されるということ、自分のささげものには見向きもされないのに他人のささげものをほめられるということ、こういうことに耐えられるような人が、天国に行く資格があるってことなんだと思います。
 これはなかなかできないことですね。私なんか絶対に天国に行けないわ。

[716] ルカ15-16章、知恵の書15章 投稿者=真理子 掲示日=2011/06/11(土) 09:37:49 ここから閲覧

●ルカ15-16章
http://bit.ly/lVm1jp
 ここはルカの中で一番おもしろいところですね。
 15章は放蕩息子の話です。
 で、この話の主人公は放蕩にふける弟のほうじゃなく実はお兄さんのほうなんですね。
 なにしろ、お父さんと一緒に毎日毎日まじめに働いていながら、ちっともお父さんからほめてもらえない。かわりに悪事を重ねる弟のほうは、お父さんから怒られるどころか祝ってもらえるんですからね。いったいどうしてなんでしょう?
 そして16章もヘンな話です。横領が発覚しそうになった家令が、もはやこれまでと思ったのか、横領のしほうだい。ところがほめられちゃうわけですからね。
 こんなふうに、聖書にはときどき、いや、けっこうひんぱんに、わけのわからない話が出てきます。
 仏教の経典にはあんまりこういうヘンな話ってないんじゃないかしら。いえ、創価なんか仏教だと思ってないんでシカトしますけど、岩波文庫から出てる『ブッダのことば』(スッタニパータ)とか『真理のことば』(ダンマパダ)とかちらちら読んでも、こういうヘンな話に出会った経験はありません。すらすらっと何のひっかかりもなく入ってくる。蒸し暑い日のビールみたいなものです。
 それに対して聖書っていうのは、こういう毒が随所にあって、なかなか苦労します。私の嫌いなゴーヤみたい。まあでも、子どものころに全然食べられなかったセロリが、今では中華料理を作るときにはたいていいれちゃうほど好きになったように、時がくれば私もゴーヤが食べられるようになるかしら。
 で、私が聖書を愛してやまないのは、こういう点なんです。すんなり入ってくる言葉もいいんだけど、こういうにがい言葉の意味をずっと考え続けながら生きていくっていうのも、面白いじゃありませんか。

 え、おまえの解釈はって? 長くなりましたんで改めて書きますわ。

 ちなみに16章後半はわかりやすいですね。わからん奴には何をいってもダメ。地獄に投げ込まれないとわからないんです。この期に及んでまだ原発推進とかいってる青森とか佐賀の知事なんか、福島みたいに永久の廃墟にならない限り、わからないんだろうなぁ。でもそうなってからじゃ遅いんだけど。

●知恵の書15章
http://bit.ly/jLlHMR
 偶像はダメよの続きです。前回に続きつまんないのでシカトします。

[715] エゼキエル書13-18章 投稿者=真理子 掲示日=2011/06/10(金) 12:10:05 ここから閲覧

http://bit.ly/jvufXV
 エゼキエル書はイザヤ書やエレミヤ書にくらべて視覚的で、ヘンな比喩をいってもイエス様とはちがって質問される前に先手をうって「これはこの意味、あれはあの意味」と解説してくれるのでわかりやすいですけど、それでも内容的には「お前ら罪を犯してると滅びるぞ」ですから、他の預言書とあんまり変わりませんね。え、エゼキエルはもう捕囚されてるって? エゼキエルは第一次捕囚で連れてかれた人なんで、この時点でまだユダ王国は残ってるんです。その点を頭にいれてお読みください。
 16章のように、ユダの民を娘にたとえる話なんかでも、意味バレバレで書いてくれるので、とてもわかりやすいです。しかし私のパパも私のことをこんなふうに思ってるかしらね。一生懸命育てたのにエロ女になりやがって、学生時代にヘンな男にひっかかって、オレの反対を押し切って結婚しやがって、いわんこっちゃない、すぐ離婚したじゃないか、とかね。まあそういうことが私にありまして、いまだに父とは勘当状態で音信不通。母は私が高校生のときに死にました。
 18章のことわざは、エレミヤにも出てきましたね。エレ31:29。古代においては一族郎党みなごろしみたいな刑罰が多かったでしょうから近代的ですが、これを裏返せば、「滅びるとすればそれは自分の罪なのであって先祖の罪じゃない」というわけです。逆に先祖か悪でもいいことをすれば挽回可能というわけです。
 原発もそうですね。今までの推進の歴史が悪いんじゃなく、今の私たちが悪いんです。逆に、今の私たちが悔い改めて原発のない社会を作るべきなんです。

[714] もしドラ 投稿者=真理子 掲示日=2011/06/09(木) 20:46:26 ここから閲覧

 映画を見に行ったんで感想書いておきますね。
 映画は小説をほぼ忠実に映画化した感じなんで、小説を読んだ人は映画見ると退屈かも。逆に小説を読んでない人は映画はそこそこ面白かったんじゃないかしら。そういう人は小説読む必要ないです。
 原作の着想の面白さは、野球部の顧客を観客でなく部員や監督や高校など高校野球にかかわるすべての人と定義したこと。普通ならこれらって従業員ですからね。だからマーケティングと称して部員一人ひとりが何を考えているかの調査から始まる。
 世の中には、生半可に経営学を取り入れた効率的な経営をするあまり、従業員を馬車馬のように働かせてポイって会社が多いですよね。従業員を幸せに出来ずに何が経営なんだろうって思いますが、そのアンチテーゼみたいでけっこう好感が持てました。
 映画を見た人は一部とってもバカバカしいシーンもあったかもしれませんが、もともとがリアリズムの小説じゃないんだからこれはこれでいいんじゃないかしら。
 だから主演俳優たちの演技が大根でいいんですよ。ほら、歌舞伎の子役って「とーとーさーまー、かーかーさーまー」とか、平板に甲高い声でしゃべるでしょ。あれは、演技をさせたってヘタに決まってるんだから一切演技をさせないっていう約束事なんですよ。そんなもんです。だから前田敦子の演技がヘタくそでもいいんです。こういうのはTwitterに書くと炎上しそうなんでここに書くのよ。
 それだけに、せめて高校生らしい姿で出てほしかった。前田さんも峯岸さんもスカート丈が長すぎよ。こんなの20年以上前に絶滅してるわ。それともこれって20年前って設定なの? それに部員が全員長髪っていうのがいただけないわ。野球部といったらボウズじゃなきゃダメよ。

[713] 箴言7章、知恵の書14章 投稿者=真理子 掲示日=2011/06/09(木) 12:22:46 ここから閲覧

●箴言7章
http://bit.ly/mErvMR
 前回に引き続きまたまた遊女ネタですね。
 普通、女性は売春に否定的だと思いますが、私は必ずしも否定的ではありません。積極的に肯定もしませんけどね。たまたま私の親友に風俗やってる子がいるということもあるんですけど、人間の本性に深く根ざしたものだと思うので、いつでもどこでもさまざまな形で必ず存在すると思うから。
 わき道になりますが、だからこそ売春は公認して、そのかわりしっかり場所と方法を決めて封印するほうがいいと思います。今、歌舞伎町の浄化作戦のせいで風俗が小岩に流れて住民が迷惑してるっていう話を「5時に夢中!」でやってました。ちゃんと封印しないからそういうことになっちゃうんです。
 元に戻ります。昔日本が貧しかったころは、人身売買のような形で強制的に売春させられた女性が多かったようですけど、それは人身売買が悪いんであって売春が悪いわけではないと思ってます。この二つはしっかり分けて考えなきゃいけないと思ってます。
 で、そういう形で売春と人身売買を分けて考えたとき、売春という行為において女が被害者だとは全然思っていないからです。売り手が強いか買い手が強いかは、そのときどきの状況なんで、一概に言えないんじゃないでしょうか。
 女性を買いに来る男性のほうが哀れな場合だってあるでしょう。
 それが今日の箴言7章。22節、あたかも牛が、ほふり場に行くように、ドナドナドーナードーナーってわけです。笑っちゃいますね。

 ところで、「ドナドナ」って原曲はプロテストソングなんですよ。市場にひかれていく牛に対して「反抗してごらんよ」と呼びかける歌なんです。日本では安井かずみさんの訳詞のせいでそういう毒がきれいに抜けちゃってますけどね。こういうことはよくあることなので要注意です。

●知恵の書14章
http://bit.ly/iIBy3B
 相も変わらず「偶像はダメよ。むなしいよ」ネタ。
 聖書とかクルアーンで語られるこういう議論って、そっちのほうがむなしい気がします。だって、偶像が人の作り物でむなしいなんてことみんな百も承知じゃない。偶像を拝む人は、神様のような目に見えないものをイメージする手がかりとして偶像をとらえているわけです。そういうところを批判せず、子どものようなバカバカしいレベルで批判するから、偶像崇拝がなくならないんじゃありませんの? カトリックなんか実質的に偶像崇拝ですから。あ、もちろんうちは異端教会ですから偶像賛成ですよ。