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真理子の聖書日記


このサイトを作りながら、聖書を読みながら真理子が考えたことです。
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[137] 詩歌7章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/23(月) 11:16:22 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ode&chapter=7&mode=0
 アザリヤの祈り。昨年度の[0:932]もご参照ください。
 もともとはダニエル書で燃えさかる炉に投げ込まれる寸前にアベデネゴことアザリヤが祈った祈りです。律法を守ろうとしなかったイスラエルの民を、神は邪悪な王、カルデヤ(新バビロニヤ)の王ネブカデネザルにわたすという非常に厳しい罰を与えましたが、どうかあわれみをもって助けてくださいと祈っています。

[136] 創世記24-27章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/23(月) 11:09:05 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=gen&chapter=24&mode=0
 昨年度の記事は[0:459]
 昨年もちらっと書きましたが、イサクの祝福の話。
 祝福というのは、それ自体は単なる挨拶です。いまの教会では、聖餐式のときに未受洗者は聖体(パンとワイン)を受けられない教会がほとんどですが、そのかわりに神父/牧師は祝福をしてくれます。未受洗者の頭の上に手をかざして何やらつぶやく形式です。
 ですから祝福だけだったら何回でもできるはずなんですが、ここは 創27:37「わたしは彼をあなたの主人とし、兄弟たちを皆しもべとして彼に与え、また穀物とぶどう酒を彼に授けた」というのがポイント、つまり神様の前で、ヤコブに一族の支配権と収穫をすべて与えると誓ったというのが祝福の内容なのであって、いったん神様の前で誓ったものを反故にできないという意味があります。
 エサウはエドム人、イスラエルの民の地より南に住む民で、エドム人はイスラエルの民と何かにつけて争いますが、その原因を説いた神話です。突っ込みどころがいろいろありますけど(たとえば、長子の権利が奪われた以上もう実質的に祝福もヤコブのものだとか)、神話ですからそういうものだと受け入れておきましょう。

 それから前回[115]創22:14のところですけど、アブラハムがイサクをささげようとしたところの地名は、יְהוָ֣ה יִרְאֶ֑הと言います。ヤハウェという神様の名前が入っています。ユダヤ人はこれをアドナイと読みかえますし、キリスト教の聖書のほうでも「主(the LORD)」と読みかえたり、あるいはエホバ、ヤハウェなどと読んだり、さまざまです。ではこのように、他の固有名詞の中に入ったものはというと、さすがに「主」には変えられないので、新共同訳やフラではヤーウェ・イルエですが、口語はアドナイ・エレ、新改訳はアドナイ・イルエと、アドナイに変えているのが面白いです。普通にヱホバを使っている文語はヱホバエレ、新世界はエホバ・イルエです。

[135] 2ニフ2章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/22(日) 09:19:36 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=2ne&chapter=2&mode=0
 ここまでのあらすじ。紀元前600年、ユダ王国滅亡を予言して迫害されたリーハイは荒野に逃れます。苦難の旅に息子たちはぶつくさ言い、時に激しい対立も起こりますが、四男ニーファイの強い信仰に支えられて、一行は荒野から船を作って約束の地へと渡りました。

 さて、リーハイが息子たちに順々にさとす場面の続きです。
 リーハイの息子たちの名を復習すると、レーマン、レミュエル、サーム、ニーファイ。そして荒野の旅の途中でもヤコブ、ヨセフという子をもうけます。苦しい旅の途中でもやることはやるのね。
 で、1章はレーマン、レミュエル、サームに。そして2章はヤコブに語っています。ちなみに次の3章はヨセフに語ります。
 で、ヤコブへの話ですが、まるでモルモン経版の陰陽説という感じで、すべてのことには反対のものがある。善があれば悪がある。救いのためには罪がなきゃいけない。あれれ、これって今日読んだロマ書の話に似てますね。[133]をごらんください。ひょっとしてこれってユダヤ教→キリスト教→イスラム教・モルモン教を流れる根本的な発想なのかしら?
 そしてアダムとイブの堕落についても、伝統的なキリスト教では、アダムの堕落によって人間は死ぬようになった(でも、まだ生命の木の実を食べてないからどのみち死ぬはずなんですけど)と否定的にとらえてますけど、「罪からの救済」というシナリオには不可欠のことだったのであり、むしろ人間の自由意志という積極的なとらえ方をしているのが面白い。そして、救済を選ぶか滅びを選ぶかも自由意志なんです。救済されるためには自由意志がなきゃいけないわけですね。

[134] 3イミ6章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/22(日) 08:52:02 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=3ic&chapter=6&mode=0
 イミタチオ3巻は、キリストと信者の対話になっている章が多く、ここもそうです。(キリスト)とか(信者)というのは原文にはありません。よく読めばそのことがわかるのでこうやって補う必要もないのですが、多くの訳本で補っているので私も補いました。
 修行をしていると、悪魔はさまざまな試練をしてきます。祈りなんかやめよう、聖書なんか読みたくない、信仰告白なんかテキトーに、ミサなんかばかばかしい…… そういう試練に立ち向かい戦いなさいと言っています。
 その一方で3節にあるように、信仰的な興奮・歓喜も実は幻想なので、こういうのにもしっかり抵抗しなきゃいけないんです。実はこれも試練なんですね。
 多くの教派では洗礼を受けたいといってもなかなか受けさせてもらえず、いろいろ勉強させたり、長い間教会に通わせたりしますけど、一時の興奮で信仰を始めた人は棄教してしまうことが多いということのようです。信仰をしているといいことも悪いことも起きますけど、そういうことを一通り経験してからでないとダメというわけですね。

[133] ロマ書11-12章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/22(日) 08:43:54 コメントする ここから閲覧

 昨年度の記事は[0:458]
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=rom&chapter=11&mode=0
 ロマ11:32「神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである。」
 信ずるものは救われる。正しいものは救われるといいますけど、実はそれだけじゃなく、いったん不信仰、不従順な状態にならなくちゃいけない、いったん罪ある状態にならなくちゃいけないんですね。
 福音書では人の罪を許すことの象徴として、病気のいやしの話が出てきます。目の見えない人を見えるようにするとか。でも、考えてみれば、いくら神様イエス様だって、目の見える人の目を見えるようにすることはできません。目を見えるようにするためには、いったん目が見えなくなってくれなきゃ困るわけです。
 だから、人はいったん不信仰にならなきゃいけないんですね。
 特にそのために選ばれたのがユダヤ人であって、ユダヤ人が不信仰なのは、「いったん不信仰になる」役割を積極的に演じさせられている、というわけです。
 まあそんなわけで、世の人が不信仰なのも、神様の偉大なご計画。信ずる者は救われるから、愛を実践し、祈りなさい……というわけです。
 愛が大事よ、復讐なんかしちゃダメよというので、例の「復讐するは我にあり」 ロマ12:19という言葉も出てきます。
 これは、愛が大事という話もあるんですけど、パウロは終末がいますぐにでも来ると大まじめに信じていますので、そのときに神様がみーんな審いてくれるから、人間は何もやらなくていい、神様にまかせておけという発想でもあります。終末終末とさわいでいる人は、この世のことには無頓着になっちゃうんです。

[132] クルアーン12回 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/21(土) 11:39:28 コメントする ここから閲覧

 クル-12回。3章54-92節。
 「経典の民」(他の翻訳では「啓典の民」とも)とは、ユダヤ教徒やキリスト教徒のこと。
 イスラム教はユダヤ教やキリスト教を改良したものなので、イスラム教からはユダヤ教やキリスト教に親近感があるのですが、逆にユダヤ教やキリスト教の側からは「何だ?あいつらは!」とけむたがられます。
 それはちょうど、キリスト教とモルモン教の関係も同じです。モルモン教は自分たちをキリスト教の一派とみなしていますが、キリスト教のほうは絶対にこれを認めないでしょう。新たなものをつけくわえてできた宗教では、新しい宗教は「おれたちは古い宗教を改良した(つまり古いものを必ずしも否定しない)」のに、古い宗教のほうは頑強に新しい宗教を否定する。それはユダヤ教とキリスト教の関係だって同じです。
 私がこのサイトで、クルアーンやモルモン経を読んでいるのは、ユダヤ人の気持ちを味わう訓練なんです。われわれがイスラム教やモルモン教に感じているうさんくささを、たぶんユダヤ教はキリスト教に対して感じているんです。

 今日のところで言ってる議論は、ユダヤ教やキリスト教がイスラムに対してぐちゃぐちゃ言っていることへの反論ですが、67節にあるように「アブラハムはユダヤ教徒ではないしキリスト教徒ではない」というところが面白い。
 ではアブラハムは何かというと「服従者」なんです。そこのルビを見ればわかるように、服従者とはムスリム、つまりイスラム教徒なんですね。この場合のムスリム=イスラム教徒とは、イスラム教成立以後のイスラム教徒という意味ではなく、もっと広い意味で用いられています。イスラムの教えを聞いたことのない人でもイスラム教徒である可能性があるような、「神を信じるもの」みたいな意味で用いているのです。

[131] 1イミ6章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/21(土) 11:29:20 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=1ic&chapter=6&mode=0
 短いですが味読すべき文章です。
 「情愛にふける」とタイトルにありますが、実際には「欲望のままに生きる」ことです。人に対する愛でもモノに対する愛でもカネに対する愛でも、愛=執着が欲望を生むわけですから。
 たとえ欲望が満たされたとしても、心の平和には少しも役に立ちません。というのは、新たな欲望が必ず生まれるからです。その意味では「欲望は決して満たされることがない」と読み変えてもいいでしょう。
 だからこそ欲望に従うのではなく欲望をおさえることこそ、真の平和を得る道だというのです。

[130] マタイ14-16章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/21(土) 11:24:48 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=mat&chapter=15&mode=0
 昨年度の記事は[0:455]
 いろいろ書きたいことがあるのですが、とりあえず16章を中心に書きます。
 イエスは病人の癒やしを中心としたさまざまな奇跡を行いますがそんなものは余技でしかありません。イエスにとってしるしとは「ヨナのしるし」つまり自分が死んで三日後によみがえることによって人々の罪を救うということです。
 しかし、人々はイエスの癒やしを見て、彼はヨハネの再来(14章でヨハネは死んでいます)とかエリヤとか預言者だとか評しています。それは当の弟子たち、ペテロもそうだったのです。
 ペテロが「あなた(=イエス)はキリストだ」と告白したのでイエスは喜び、天国のかぎを授けようとか、教会を建て(てその長にし)ようとか言うのですが、イエスが「私は迫害されて死んで三日後によみがえる」と説くと、ペテロはそれに反対します。つまりペテロにとっては、イエスは単に病人の癒やしをするからキリストであったのに過ぎず、なぜイエスがキリストなのかを全然理解していなかった。そこでイエスは「サタンよ下がれ」と一喝し、オレの弟子になるなら迫害を恐れてはならないと教えるのです。
 でも、イエスの死と復活によって世の人すべての罪が許されたんなら、弟子までが十字架を背負う(迫害・殉教を覚悟する)必要なんかないじゃんと思うのですが、マタイ福音書が書かれた当時の教会は、ユダヤ教側のみならずローマ帝国からの迫害も始まっていましたから、それでこんなセリフをイエスに言わせているんです。
 福音書というのはイエスの言行を忠実に記録したものではなく、イエスの言行という体裁で当時の教会が信徒に言いたいことを表明しているものだということを絶えず念頭に置いて読むことです。

[129] クルアーン11回 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/20(金) 12:10:46 コメントする ここから閲覧

 クル-11回。第3章15-53節。
 第3章のタイトル「イムラーン家」がここで出てきます。イムラーンというのはマリヤ(聖母マリヤですよ)の父親の名です。マリヤはマリアとも表記され、むしろ現代ではマリアのほうが一般的だと思います(カトリックは昔からそうです)が、ここでは口語訳聖書のマリヤでいきます。

 ところで、新共同訳になってカトリックは従来のイエズスを放棄してイエスという名を受け入れたという大譲歩をしたとよく言われますが、よーく見てみると、マリヤはカトリック式のマリアになりました。譲歩ばかりをしてるわけじゃないんですね。

 マリヤの父親も母親も聖書には全然出てきませんが、母親はキリスト教圏ではアンナという人だったと言われています。主人のお父様がずっと入院していた聖マリアンナ医科大学病院、マリアンナというのはマリヤ+アンナですが、まるで一人の名であるかのようにして女性名に使われたりします。
 で、父親はキリスト教圏ではヨアキムということらしいですが、イスラム教のほうではイムラーンということになっています。
 ところで、洗礼者ヨハネの父親ザカリヤも登場してきますが、マリヤの育ての親ということになってますね。

[128] 知恵の書6章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/20(金) 11:51:02 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=wis&chapter=6&mode=0
 昨年度の記事は[0:681]
 一言で要約すれば「王たちよ、知恵を学べ」。王権は神から与えられたものであり、知恵を学べば神に近づけるからです。
 本来、聖書の考え方は王の支配に消極的です。神様の前にはみんな平等、王は神様だけなんです。ところがイスラエルに王朝が生まれると、ダビデやソロモンは王権を強化するためにヤハウェ神を利用することを考え、もともと移動式の幕屋にしか住まわれないヤハウェ神のために神殿を作りました。以後は王権は神から授けられたものということになります。知恵の書の王権神授説も基本的にこの考え方に基づいています。

[127] イザヤ書29-33章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/20(金) 11:35:05 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=isa&chapter=29&mode=0
 昨年度の記事は[0:454]
 29章のアリエルというのはエルサレムです。P&Gから出ている洗剤の名前じゃありません。ちなみに英語ではまるきり同じスペルですが、ここから命名されたのかどうかは不明です。イザヤがなんでこんな呼び方をするのかはよくわかりません。何かの隠語なのでしょうか。
 あ、この話は昨年しましたね。うーん、昨年しなかった話は何かしら?
 イザ30:6の「ネゲブの獣」はユダ王国のことを言っているようです。ネゲブというのはイスラエル南部の砂漠地帯ですね。そもそもネゲブ(נֶגֶב‎)って「南」って意味ですよ。覚えておきましょう。
 ここはユダ王国がエジプトと同盟しようとすることを批判しているのですが、エジプトに行く使節はネゲブを通るからなんだそうです。
 ちなみに先日1/12ウジテレビ(フジテレビの間違いじゃないわよ。私にとってあの放送局はウジテレビなんです)放送された「池上彰スペシャル~宗教がわかればニュースのナゾが解ける~」で言ってましたが、第二次大戦後のパレスチナ分割案でイスラエルが人のほとんど住めないネゲブ砂漠を確保したのは、ここからウランが産出されるという情報を握ってたからなんだそうです。

[126] 2ニフ1章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/19(木) 10:46:26 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=2ne&chapter=1&mode=0
 ニーファイ第二書はニーファイ第一書の話の続きです。
 第一書の最後でニーファイは真鍮版を兄たちに読み聞かせ、主を信じて正しい道を歩めとさとしますが、兄たちは快くありません。
 そこでお父さんのリーハイが再びさとします。
 この約束の地は、正しい人には祝福されるが、服人には呪いの地である。今まで何度もニーファイに助けられたことを思い出して、正しい道に歩めと言っています。

[125] トビト記6章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/19(木) 10:43:22 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=tob&chapter=6&mode=0
 昨年度の記事は[0:398]
 トビヤは悲しむ母を置いて出発します。テグリス(チグリス)川でつかまえた魚の心臓・肝臓・胆汁を取り出して保存、これがあとで悪魔退治に役立ったり眼病の薬になったりするのです。
 そして同行している天使ラファエルはトビヤに、同族のラグエルの家のサラと結婚するよう勧めます。
 ところで親戚というのはどのくらいの親戚かわかりませんが、一応「父の家系」ですよね。そういう近い親戚だとトビヤとサラはいとこ同士ぐらいの近い関係になるはずです。近親婚はダメなんじゃないの?
 その一方で、血族を守るのに一番いい方法は近親婚です。外部の血を入れるとどんどん薄くなって血族の意味がなくなります。
 彼らはナフタリ族、ナフタリ族は北王国滅亡後に他民族と同化してなくなってしまうのですが、それは他民族との結婚をしたからです。
 エズラ記やネヘミヤ記にあるように、ユダヤ人はバビロン捕囚後に異民族との結婚を禁止してしまいますが、そうでもしなけりゃ民族が保てないわけですね。
 トビト記が近親婚を奨励しているのは、部族を守り血族を守るにはそれが一番だという発想なのでしょう。

[124] ヨブ記11-12章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/19(木) 10:34:47 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=job&chapter=12&mode=0
 昨年度の記事は[0:451]
リビングバイブルのヨブ記もあわせてお読みください。
http://www.biblica.com/uploads/pdf-files/bibles/japanese/ot/job.pdf
 ここはナアマびとゾバルの意見とヨブの反論。
 ナアマというのはユダの中央丘陵地帯にあった町の名なので、この人は真正のユダヤ人ですね。
 そもそもヨブ記はイスラエルの民の住む地からちょいと離れたところの出来事ということになっています。ヨブの住むウヅは所在がよくわかりませんが、 ヨブ1:3に「東の人々」とあるようにカナンの地よりは東で、 ヨブ1:17ではカルデヤびと(バビロニア人)が突然襲ってくるのですからやっぱり東です。
 最初の友人エリパズはテマンびと。これはエドムですからカナンの地の南。二番目のビルダデのシュヒびと(シェア人)はまるきりわかりません。
 このようにヨブ記の主人公と舞台がきわめて国際的なのは、もともとヨブ記が別の言語からの翻訳や翻案ではないかという説まで生んでいます。実際、ヨブ記の言葉は非常にわかりにくく、だから今までいろいろ書いたような翻訳上の問題が出てくるのです。
 内容的にいえば、ヨブ記が国際的だということで、ヨブ記の提示する問題がユダヤにとどまらずきわめて普遍的だということが強調されています。創世記も、アブラハム登場以前は「人類の誕生・堕落」などきわめて普遍的な問題で、それだけにとても読みやすく共感しやすく人気があります。ヨブ記もそういう意味で人気があるのでしょう。

[123] 1ニフ22章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/18(水) 09:52:32 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=1ne&chapter=22&mode=0
 ニーファイ第一書はこれでおしまいです。
 2章ぶん費やして真鍮版に刻まれたイザヤ書をニーファイは兄たちに読み聞かせた後、これの解釈を始めます。
 イスラエルが世界各地に散らされた後、約束の地には異邦人がイスラエルの子孫を伴ってやってきて強大な国家を作り、自分たちの子孫がこの異邦人国家に支配されてしまいます。この終わりの日には悪はすべて滅ぼされる、ということのようです。

[122] 1マカ6章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/18(水) 09:38:43 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=1ma&chapter=6&mode=0
 昨年度の記事は[0:565]
 ユダヤ人に改宗を強制しエルサレムにゼウス神殿を建ててこの戦争の発端となった王、アンテオコス・エピパネスが死に、子のアンテオコス・エウパトルが即位します。同じアンテオコスなので注意してください。歴史書では前者をアンテオコス4世、後者を5世という言い方もします。
 父王のエピパネスのほうはあちこち遠征をしており、死んだときもペルシヤに遠征中でした。そこで同行していた側近のピリポに後継を依頼しました。ところがこの国の政治は王族のルシアにまかせており、エウパトルを即位させたのはルシアでした。いずれにせよエウパトルが王になったんだから問題ないと思いきや、ピリポが軍を率いてペルシヤから戻り、ルシアと内戦になってしまうのです。
 ルシアはユダと激しい戦いをしていたのですが、それどころではなくなってしまい、ユダと和議を結びます。もっとも城壁を築くかどうかでトラブルがあったようですが、一応和議が成立します。

[121] 詩編15-17編 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/18(水) 09:22:22 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=psa&chapter=17&mode=0
 昨年度の記事は[0:449]
 今日もYoutubeにアップされた動画を見ましょう。
 今日はすべてダビデの歌・祈りです。

●15編。神の国に行ける人の条件です。
 まずは讃美歌になっているものから。

(http://www.youtube.com/watch?v=X4KcOX6hKlU)
 次はギターの弾き語り

(http://www.youtube.com/watch?v=4ZyxZ4xloKs)
 例によってkinotoriさんのプレゼン。歌が誰だか書いてませんけど北京語ですね。

(http://www.youtube.com/watch?v=ZiQKr7rGgm4)

●16編。神様への信頼を詠んだダビデの歌。
 ユダヤ教の歌を見つけました。

(http://www.youtube.com/watch?v=4_STmAInMXM)
 それからこれは、アイルランドの教会の、Harbor Of My Heartという歌。3:35あたりから始まります。きれいな曲。

(http://www.youtube.com/watch?v=enHQKDKhLxA)
 kinotoriさんのプレゼン。こんどは韓国語ですが、소지섭(ソ・ジソプ)さんの「カインとアベル 愚かな愛」という歌らしいです。

(http://www.youtube.com/watch?v=HhE37IhguR8)

●17編。悪い人々に苦しめられている正しい人が自分の潔白を神様に訴えて祈ります。
 ピアノ伴奏で男女が歌ってます。これはきれいな曲。

(http://www.youtube.com/watch?v=wb4j_roHR3E)
kinotori

(http://www.youtube.com/watch?v=R6M_0OA6hQI)
 歌っているのは胡美芳さんという和歌山県生まれの中国人歌手なんだそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E7%BE%8E%E8%8A%B3

[120] 1ニフ21章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/17(火) 12:26:54 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=1ne&chapter=21&mode=0
 もう直しましたけど、昨日の[117]のタイトルは21章じゃなく20章でしたね。
 20章に引き続き、イザヤ書ほとんどそのまんまの引用です。細かく点検してないけど、今回は固有名詞も含めてどんぴしゃじゃないかしら。たとえば12章のサイニム(Sinim)というのは、翻訳の関係でイザヤ書と違う場合があります(口語訳聖書だとスエネ。RSVはsyene)が、KJVではどちらもSinimですからどんぴしゃです。
 なんでこんなふうに2章ぶんもイザヤ書をまるまる引用したのかというのは、次の22章=1ニフ最終章をお楽しみに。

[119] シラ書6章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/17(火) 12:18:06 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=6&mode=0
 昨年度の記事は[0:751]
 前半は友人関係のことわざがいっぱい並び、後半は知恵・教訓の大切さ。その関係は必ずしも明確ではありませんが、36節に「悟った人を見かけたらひんぱんに訪問せよ。彼の玄関の敷居をお前の足ですり減らすほどに」とあります。知恵に身につけて自分を高める最良の方法は、知恵を持った人と付き合って彼の意見に耳を傾けること。ひとりよがりはダメよというわけです。

[118] 士師記1-6章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/17(火) 12:10:51 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=jdg&chapter=1&mode=0
 昨年度の記事は[0:447]
 ヨシュアによるカナン侵入から、サウル(在位BC1020-1004)による王国建設までの間、イスラエルには王がなく、聖書で「士師」「さばきつかさ」などと呼ばれるリーダーが治める時代でした。
 具体的にいつかというのは、王上6:1に、ソロモン王4年(BC958)神殿建設開始が、「イスラエルの人々がエジプトの地を出て後四百八十年」とあることから、出エジプトがBC1438。40年間荒野にいたということは、ヨシュアのカナン侵入はBC1398ということになります。そうすると、多めに見積もっても378年(BC1398マイナスBC1020)となりますが、士師記に出てくる年代を全部足すと410年になるのでいまいち整合性がありません。だいたい大ざっぱにそのあたり、BC14-11世紀のころと考えておきましょう。もっとも、出エジプトの年代は、エジプトのラムセス2世の時代(BC1290-1224)ではないかという話もありますので、歴史書としての聖書の正確さはあんまり求めないほうがよさそうです。

 さて、士師記には士師が12人登場します。とりあえず順に覚えちゃいましょう。
 例によって鉄道唱歌の替え歌で

オテニエル、エホデ、シャムガル、
デボラ、ギデオン、トラ、ヤイル、
エフタ、イブザン、エロ(ン)、アブドン、
サムソン加えて十二人

 いまいち歌いにくいですね。エロンのところはンを抜かすか、ロンを一気に歌わないと歌えません。
 で、この12という数字にびびっときたあなたは聖書の発想が頭にしみついた人です。そう、大雑把にイスラエル十二部族の各部族から一人ずつなんですよ。

(ユダ→シメオン)オテニエル
(ベニヤミン)エフデ
(言及ナシ→アシェル)シャムガル
(ナフタリ)デボラとバラク
(マナセ)ギデオン
(イッサカル)トラ
(マナセ→ルベン)ヤイル
(ガド)エフタ
(ユダ)イブザン
(ゼブルン)エロン
(エフライム)アブドン
(ダン)サムソン

 ユダ族が2回出てくるなど不整合もありますが、シメオンはユダに併合されていたなどの屁理屈をこねくりまわすと、一応一部族一人ということになっているんです。このあたりも、士師記の史実性を疑わせるところです。

 さて、ヨシュアのカナン侵入でカナンは全部イスラエルの民のものになったかというと、未征服地もいろいろあります。そして士師記の時代になるとヨシュア記のような戦争はもう行われません。先住民族と共存し、時には(しょっちゅう!)支配されてしまいます。
 そう、それが真相だったんです。実際にはイスラエルの民は先住民族と時には共存、時には対立、時には支配被支配という形で生きてきました。そして、ヨシュア記~列王記の史観によれば、イスラエルが国を失ったのはイスラエルがヤハウェを捨てて他の神々を信ずるようになったからであり、その神々とは共存している他民族の神々、つまりは他民族と共存し影響を受けてしまったこと、他民族を滅ぼさなかったことがイスラエルの滅亡の原因だという史観があるのです。
 士師記ではしょっちゅう「イスラエルの人々は主の前に悪を行い、自分たちの神、主を忘れて、……そこで主はイスラエルに対して激しく怒り、彼らを○○に売りわたされた」というフレーズが繰り返されます。たとえば 士3:8-9。これが士師記の時代のリアルな状況であり、本来はヨシュア記のように殺して殺して殺しまくるべきだったのだ、だけどそれはできなかったと言っているのです。

 あと、いろいろ書きたい事もありますが、長くなるので別の機会に。

[117] 1ニフ20章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/16(月) 11:14:50 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=1ne&chapter=20&mode=0
 ちょこちょこと細かな字句の異同はありますが、イザ48とまるきり同じです。どちらも22節。節ごとにちゃんと対応できるほど同じですね。
 違いを見て行くと、たとえば4節の原文の青銅が、1ニフは真鍮になってたりします。よくよく真鍮が好きですよね、JスミスJrは。真鍮って五円玉の金属で、貧者の金(きん)と呼ばれるほど金に似た輝きですから、青銅とはずいぶん違います。
 イザヤ書といってもここは第二イザヤで、時代はバビロン捕囚期。ニーファイはバビロン捕囚の直前なんで、真鍮版の上にこんなものが書いてあるはずがないのですが、まあそれはおいといて、イザヤ書のほうは、バビロン捕囚が罪の結果であるとし、そしてやがて許されて故郷に戻れることを説いています。
 1二フのほうはバビロン捕囚の前ですから当然同じようにバビロン捕囚とそこからの解放ということでもあるのですが、もっと後の時代のユダヤ人の離散(考えてみれば、JスミスJrの時代にはイスラエルという国はありませんでしたからね)と救い、はては全人類の救いを予言しているということのようです。

[116] 詩歌6章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/16(月) 11:03:03 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ode&chapter=6&mode=0
 ヨナ2:2-9の、ヨナが魚の腹の中で祈った祈りです。
 祈りは数あれど、ここまで奇抜なところで祈った祈りはそうそうありません。
 津波にのまれたときとか、地下の炭鉱に閉じ込められたときとか、落ちていく飛行機の中とか、そういう絶体絶命の状況の中で、ひとはどんなことを思うのかしら。ヨナのようにこういう祈りをすることってできるのかしら。
 とてもとてもこんな祈りなんかできないって思いますけど、その一方で、意外にできるのかなとも思ったりします。いや、こういう祈りができる人が助かるってことなのかもしれない。軍隊のサバイバル訓練なんかじゃ、決してあせらず、できるだけくだらないことを考えてるんだそうで、そういうことができる人が助かるんだそうです。

[115] 創世記20-23章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/16(月) 10:56:38 コメントする ここから閲覧

 昨年度の記事は[0:444]
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=gen&chapter=20&mode=0
 昨年は22章の、アブラハムがイサクをささげようとする話をとりあげたんですが、今年も性懲りもなくとりあげます。
 昨年は問題だけ出して答えを書かなかったので、今年はいまのところの私の答えを書いてみます。

 アブラハムがようやっと授かった一人子であるイサクを犠牲にしようとしたことで子孫であるイスラエルの民が救われるという話は、神様が一人子であるイエスに死を賜い復活させることで全人類の罪が救われたという話ときわめて似ています。もちろん細かな違いはいろいろあります。たとえばアブラハムの場合は神のために一人子をささげようとしたのにイエスの場合は神みずからがなさる、それからアブラハムのほうは罪のゆるしの話がありません。そういう違いはいろいろあるものの、この話はイエス様の話ときわめて似ています。
 さらに、この事件のあったモリヤの地( 創22:2)は、まったく特定はできないのですが、伝説的にはエルサレムの神殿のあったモリヤ山だとされています(ちなみにサマリア人はゲリジム山とする)。 代下3:1でははっきりと神殿のある山だということになっていますが、これは南王国の歴史観なのでそうなっています。そうすると、きわめて近い場所で同じようなことが行われたというわけで、なおさら似ているということになります。
 こういうふうに考えると、旧約の救いがイサクの犠牲寸前話によって、新約の救いがイエス様の死と復活によってもたらされたわけで、まことにめでたい話というわけですが、その一方で、当初ここを読んだときに感じた、なんとも言えない不快なモヤモヤを忘れてはならないと思います。イエス様の死と復活だって、考えてみればきわめて残酷な話なわけで、「ヤハウェくん、あんた何考えてるのよ。こんなむごい面倒なことしないでさっさと降りてきて『全人類を救う』と宣言すればそれですむじゃん」と思ったりします。
 私たちはついついイエス様の事件のむごたらしさを忘れてしまう。たとえば十字架だって、今ではおしゃれなペンダントにしたりピアスにしたりしますけど、考えてみれば刑具ですから、ギロチンをペンダントにするようなものだと思えば悪趣味ですよね。プロテスタントみたいに聖堂におしゃれなシンプルな十字架なんか飾らないで、カトリックみたいに悪趣味な血みどろのイエス様の像をちゃんとつけた十字架を置くっていうのは、これはこれで意味のあることだと思うんですけどね。

[114] 1ニフ19章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/15(日) 09:19:17 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=1ne&chapter=19&mode=0
 【ここまでのあらすじ】紀元前600年ごろ、リーハイはユダ王国の滅亡を予言したので迫害されて荒野に追われます。このときリーハイには四人の息子がいましたが、レーマンら上の二人は悪い人、ニーファイら下の二人はいい人です。息子たちは神様のお告げでいったんエルサレムに戻ってユダヤ人の歴史が書かれた真鍮版を手に入れます。そして結婚相手にイシマエル家を選び、両家はともども荒野を旅し、苦しい旅の途中でイシマエルは死んでしまいます。やっと海岸に到着、ニーファイはここで船を作り、一同はそれに乗って約束の地に到着します。これらの事件の過程でレーマンらは事あるごとにニーファイに反発、不平を言ったりニーファイをいじめたりします。

 さて、約束の地についてどうなったか興味津々ですが、話はいったんここで終了、ここから1二フの最後までは話はちっとも進展しません。
 ニーファイは金で版を作り、今までの経験を書き記します。そして、昔の預言者のことばをひいたり、例の真鍮版に書かれたユダヤ人の歴史を読んだりしながら、兄たちを正しく導こうとします。
 ここで出てくる預言者ゼノスというのは、モルモン経にしか出て来ない預言者。モルモン経を全文検索しても素性がよくわかりません。モルモン教のアンチョコ「福音の原則」を見ても載ってません。
http://lds.org/library/display/0,4945,8865-1-4828-12,00.html
 モルモン教の教材は本屋に行ってもなかなかない。実は教会のサイト
http://www.ldschurch.jp/
に行くと全部無料でPDFなどで読めるんですけど、こういう「ゼノスって誰」みたいなことを調べる辞典がないので苦労します。

[113] 3イミ5章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/15(日) 08:50:25 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=3ic&chapter=5&mode=0
 今日のは長いですね。
 イミタチオ版「愛の賛歌」「愛ってなあに」です。
 これだけいろいろ言われると正直へきえきしてしまいますが、特に7節を中心にしっかり読んでおきましょう。

[112] ロマ書9-10章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/15(日) 08:45:48 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=rom&chapter=9&mode=0
 昨年度の記事は[0:443]
 義とされる(=救われる)(=最後の審判に合格して神の国で永遠の生命を得られる)条件を縷々説明しています。
 いままでは、神様に選ばれたイスラエルの民であり、ユダヤ教の律法をしっかり守る者が義とされると言われてきました。
 が、まず「イスラエルの民」であるということ、つまり血統的な条件は義とされる条件ではなく、信仰が条件なのだと言っています。
 たしかに神は、たいそう気ままに、自分勝手に、救われる者と救われない者を選んでしまいました。まるで陶磁器が土をこねて、あるときはきれいな食器に、あるときは便器にしてしまうように。便器にされちゃった土はたまったものではありませんね。
 でもちゃんと神様は、救われない者を救うという奇跡のパフォーマンスを演じてくれるので、選ばれなかった人にも大いにチャンスがあるんです。
 そう、パフォーマンス(パウロの表現では「神の栄光」ね)です。最初からみんな救われることにしちゃうと、神は愛であるということがわからないじゃないですか。救われないはずの人を救うことを示してこそ愛だということがわかるってものです。
 そして、律法はしょせん完全に守ることはできないので、律法を守るという条件では義とされないと言っています。
 では、信仰とは何かというと、口ではイエスが主であるとみずから告白すること、心では神がイエスを復活させたと信じること、これが条件です。

 これがパウロの論理。いろいろ突っ込みたいところもあるのですが、やめときましょう。もう上のまとめでねちねちといやみを言っちゃいましたから。

[111] クルアーン10回 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/14(土) 10:40:43 コメントする ここから閲覧

 クル-10回。2章277-286節および3章1-14節。
 長い長い2章もようやく終わりですね。
 前回に引き続き取引の話。間違いが起こらないように取引には必ず記録し証人を立てよと言ってますが、「利息を放棄しろ」「債務者が困ってたら待ってやれ、できれば帳消しにしろ」と言ってるのがクルアーン的ですね。
 クル3:13に書いてある戦いは、624年(イスラム暦2年)のバドルの合戦で、こういう奇跡が起こったんだそうです。

[110] 1イミ5章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/14(土) 10:34:34 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=1ic&chapter=5&mode=0
 聖書は学問や修辞を学ぶためのものじゃなく、わたしたちの魂をゆさぶる宗教的真理をさぐるために読むものであり、学問的な目的ではなく信仰によって、謙遜の心、素直な心で読まねばならないし、聖書の解釈にあたっては聖者たち、先輩たちの意見をしっかり聞きなさい、ということです。
 最近、教会に通いはじめたんですけど、ついつい牧師の説教に???と感じてしまい、引照で聖書の他の箇所を点検したり、聖書辞典をひいたりと、説教中に内職をしてしまうので集中できません。私はどうも救われないわ。
 赤ちゃんは幼児洗礼を受けられますけど、大人が洗礼を受けるには、いろいろ勉強会に出席しなきゃいけない。するとたぶん牧師先生の言葉に反発してケンカ別れになっちゃうんだろうな。
 変にいろいろ聖書を勉強したことで、かえって信仰に入れない。
 信仰に入るためには素直な心にならなきゃいけない。いままでたくわえた聖書の知識を全部捨てて無にならなきゃいけないのかしら。
 福音派さんみたいに、聖書を素直にそのまま信じちゃえばいいのかしら。

 いや、違うわ。今日のイミタチオの1節最後「誰が書いたのかにはこだわらず、何が書かれてあるかに注意しなければならない」。そうよ。イザヤ書はやっぱり最低3人の著者がいるのよ。パウロの手紙の半数はニセモノよ。福音派は聖書無謬説だからこういうこと言うと怒るけど、イミタチオの著者も「誰が書いたのかにはこだわらず」って言ってるでしょ!

[109] マタイ11-13章 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/14(土) 10:23:41 コメントする ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=mat&chapter=11&mode=0
 昨年度の記事は[0:441]
 この部分の問題は昨年いろいろ書いたので、今日はこの話にしぼります。
マタ13:55
「この人は大工の子ではないか。母はマリヤといい、兄弟たちは、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。」
 これ、マルコとルカに平行箇所があるんですが、
マコ6:3
この人は大工ではないか。マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここにわたしたちと一緒にいるではないか」。こうして彼らはイエスにつまずいた。
ルカ4:22
すると、彼らはみなイエスをほめ、またその口から出て来るめぐみの言葉に感嘆して言った、「この人はヨセフの子ではないか」。

似てますけど微妙に違う。しかも重要な点が違います。
 マタイとマルコではマルコのほうが先、しかも違いがあるときはマルコがよりオリジナルに近い形であり、マタイやルカは捏造というのが聖書学のイロハですので、
  マルコ:イエスは大工。父はわからん。
という真相が、後に
  マタイ:イエスは大工の子。
  ルカ:イエスはヨセフの子。
と捏造されたということになります。
 つまり、イエスは私生児だと思われていたということになります。
 以前こういう話をmixiやtwitterでしたとき、やたら反発をしてくる人がいたんですけど、昔はともかく21世紀に生きる人が私生児という表現にそんなに反発するとは不思議ですね。
 法的、社会的な身分や認知はともかく、正式なだんなさんであるヨセフの子じゃなかったらそれは私生児だと言っていいんじゃないかしら。私はそういう意味で「私生児」という言葉を使ってます。
 たとえば私は、戸籍的には音信不通になった父親の子なので私生児ではありませんが、母の不倫相手の子である可能性が非常に高いので(両人とも死んで真相不明。父親はしょっちゅう「お前はおれの子ではない」と私にあたった)、私生児だと思っています。
 そもそも、イエス様が神の子だっていうなら、それは私生児だってことじゃありませんの?
 私生児の私は、イエス様が私生児だったということに、特別な思いいれをしているのかもしれませんけどね。

 マルコはイエス様の誕生物語をまるきり語りません。マルコは、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたときに聖霊を受けて「神の子」になったと考えているからです。
 そもそも「神の子」というのは古代では王様の称号です。王権神授説です。王は神の子孫だから人を支配していいんです。当初、イエスはユダヤ教的な「神の国=神に支配されるユダヤ人の国」を再興する政治的な救い主と思われていたので、ダビデ王の血をつぐ者であり、当然ながらダビデ王家の故郷であるベツレヘムで生まれたはずと思われたわけです。でも現実にはイエス様は「ナザレのイエス」というくらいでナザレで生まれています。ケセン語聖書の山浦先生にあやかっていえば、日本を再興する天皇家のご落胤が大船渡で生まれちゃったようなものです。
 そこでマタイは「一家はベツレヘムにあり、イエスもベツレヘムで生まれたが、迫害のためナザレに移住した」、ルカは「一家はナザレにあったが人口調査でベツレヘムに一時滞在しているときに生まれちゃった」というつじつまあわせをしているんです。「ダビデ王家の血筋だから神の子だ」と考えるマタイやルカにとっては、イエスはどうしてもベツレヘムで生まれてもらわなければ困るし、ヨセフの子でなければ困るんです。
 ところが、ギリシア文化の影響を受けた地方に布教をしていくと、ギリシア神話では神様が人間と交わって子を産むみたいな話は特に珍しくないので、「神の子」というのが文字通りの意味に解釈された。イエス様の実の父がよくわからず、私生児だといううわさもあったことが、ここで有利にはたらき、文字通りの「神の子」だって話になったわけです。
 つまり、マタイやルカの処女懐胎神話や、この箇所の「大工の子」「ヨセフの子」というのは、ギリシア的な「神の子」と、ユダヤ教的な「ダビデ王家の血統」をなんとか両立させようとする(でも両立には失敗してる。マタイ冒頭は、あれだけ長々系図を書いておいて、実はヨセフの子じゃなく神の子だから関係ない、というズッコケになってる)工夫というわけです。

[108] クルアーン9回 投稿者=真理子 掲示日=2012/01/13(金) 12:55:12 コメントする ここから閲覧

 クル-9回。2章253-276節。
 ここはほぼ一貫して、「ほどこしをしなさい、利息をとっちゃダメ」で統一されてます。
 各宗教が経済についてどういう見解をとっているかは、保坂俊司さんの『宗教の経済思想』(光文社新書)が面白いです。
http://toyodasha.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post_cad4.html
は批判的に紹介したブログですが、参考になりますので掲げておきます。
 基本的にイスラム教は利子を禁じています。大川周明先生の文語訳では「高利」と訳しています。高利の利子はダメだけど低利の利子ならOKと思われたのでしょうか。でも基本的に利子はダメなので、銀行も独特な形態での営業になります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%A0%E9%8A%80%E8%A1%8C
 利潤は否定されてないので、なんとか利子を利潤の形にしようとするわけですね。
 上にあげた保坂俊司さんの『宗教の経済思想』は、冒頭にビル・ゲーツの話をとりあげています。慈善団体を作って7億5千万ドルの寄付をしたというものですね。保坂先生はこういうのをキリスト教の観点から説明しようとしています。
 人間、死後の世界までお金を持ってけませんからね。だったら施しをして、最後の審判を有利にしたほうが賢いんです。施しをするというのは、「死後にお金を持っていく」唯一の道かもしれません。