[真理子日曜学校]
 

照る照る坊主

 

 
  1. ソースについて
     以下ご批判申し上げるのは、FEBCで2010年1月10日に放送された主日礼拝取材番組「全地よ主をほめたたえよ」で放送された、キリスト品川教会吉村和雄牧師の説教です。説教題は「キリストを離れず」。このリンクで音声が聞けるはずですが、リンク切れになるかもしれませんので、次に問題の箇所を文字起こししておきます。この音声の27分55秒〜32分13秒です。文字起こしのほうでは、スピーチであるがゆえの冗長な部分を適宜編集しました。

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  3. 説教内容
     先週の第一礼拝にお出になった方は覚えていらっしゃると思うんですが、その礼拝の中で私は子どもたちに、「みんなは照る照る坊主というものを作ったことがあるか」と聞きました。そうしましたらほとんど全員の子どもが「作ったことがある」と答えておりました。
     なぜそのような質問をしたかというと、そのときの第一礼拝の説教のテキストが、十戒の二番目「あなたはいかなる像も作ってはならない」という戒めについての箇所だったからです。「神様を見える形にしてはならない」あるいは「この世の見えるものを像にして神として拝んではならない」という戒めです。この戒めに一番深く関係のある風習が照る照る坊主であろうと思ったので、その話をいたしました。
     私も以前教会学校をしておりまして、ちょうど今頃の時期、日曜日の分級の中でバザーを準備をいたします。そして分級の終わりには「バザーの日がよい天候になるように」と、子どもたちと一緒にお祈りをしていたわけですが、ある日一人の生徒が私のところへ来て、「先生、私、照る照る坊主を作ったの」と言うのです。「どうしてですか。あなたは毎週この教会に来て礼拝の中で分級の後でお祈りをしてるじゃありませんか」というと「いや、お祈りだけじゃ心配だから」と答えていたわけです。
     こういうことというのは他愛もないことと言ってしまえば他愛のないことかもしれません。しかし、このことが福音に対して持っている問題は非常に大きいと私は思っています。
     確かに、その子のいうとおり私たちが祈り願うことがいつもその通り実現するわけではないんです。これは私たちみんな知ってることです。バザーのたびごとに「どうぞよい天候をお与えください」と祈りながら何度雨の中のバザーをしたかわかりません。でも私たちはそういうときに、主イエスの言葉を思い起こすわけです。私たちの祈りの言葉というのは、必ず天の父でいます神様が聞いてくださるという主イエスの言葉です。私たちが祈る言葉を神様がお聞きにならないということはないんだ。祈りの言葉は必ず聞かれている。私たちの願いを神様は知っててくださる。それでもなお雨になったとすれば、それは神様からのお答えなんだ。「雨の中でやってごらん」それが神様からのお答えです。ですから私たちは「はい、わかりました神様。今年は雨の中で力をつくしてやらせていただきます」と言ってバザーをするのです。
     でもそういうときに照る照る坊主を作るということは、そういう神様からのお答えをきちんと受け止めないということです。神様が何をお考えであろうが何をお答えであろうが、「神様私の願いはこれなんです」と言い立てることです。どうしてもこの願いを聞いていただきたい。願いを言うことよりも神様のお答えをきちんと受け止めないということが問題です。それは信仰のわざではない。
     確かに旧約聖書を読みますと、ヨブのように神様からの答えをすんなりと受け入れなかった人もいます。「はい、わかりました」とは言わなかった。でも彼は最後まで神様の答えを問い続けた。その真剣さは信仰者のものだと神様ご自身が評価をしてくださいました。ですから私たちはあんまり簡単に「はい、わかりました」とは言わなくてもかまわない。問い続けてもいいんです。でも神様からのお答えは神様からのお答えとしてきちっと受けとめなきゃいけない。それが信仰者である者の道です。ですから教会に来ている者たちはそういうものを作ってはいけないよと先週いたしました。

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  5. 照る照る坊主は神様の答えの拒絶ではない
     上記の説教のポイントを晴天祈願に即してまとめれば「晴天を祈願するのはいい」が「雨天だったらそれは神様の答えとして受け入れよ」というわけです。
     あれ、照る照る坊主って晴天を祈願するためのものなんじゃありませんの? いつから照る照る坊主は、雨を晴らすものになってしまったのでしょう?
     照る照る坊主を作って晴天を祈願するのは、今度のバザーのときに雨を降らせずよい天気にしてくださいと神様にお願いしているだけです。決して神様の答えをきかないのではありません。早い話、照る照る坊主を作っても雨が降ってしまったときに、「雨の中でバザーをやってごらんなさいというのが神様のお考えなのだな」と思えばそれですむ話です。

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  7. キリスト教では偶像を作ってよい
     それから、キリスト教はいつから偶像禁止になったんでしょうか? 仮にあなたの教会(単立教会ってことは独自に教義を立てているのでしょうから)の教義では偶像禁止かもしれませんが、キリスト教全体としては、カトリックや正教会に見られるように、さんざん聖像が描かれています。プロテスタントだって十字架くらいは聖堂にあるでしょう。知らない人が見たら「十字架という偶像を拝んでいる」ように見えるかもしれませんよ。
     もちろんこれらの聖像等は、神様そのものではなく神様をおぼえるためのシンボルに過ぎないというスタンスなのですが、イスラム教ではこのようなものも偶像扱いしますので、あんまり説得力はありません。
     実は、キリスト教では偶像を作ってもいいんですよ。なぜなら旧約のあらゆる律法は効力を失っているからです。その証拠に十戒の次の次の戒律(そうそう。この先生は偶像禁止を「二番目」と数えてますけど、カトリックやルター派じゃ「一番目のB」つまり「他に神を作るな」と一緒にしてますから、エキュメニカルな真理子は何番目ってハッキリ言わないようにしておりますのよ)の「安息日」をあなたの教会では守っているのですか?
     「偶像禁止」の次は「神の名を唱えるな」ですけど、これもキリスト教では効力がないので、聖書学者たちは安心してヤハウェとかヤーウェとか書くんです。
     こんなふうに、たとえ十戒という基本中の基本の律法であってもキリスト教の立場からは効力はないのです。もちろん「殺すな」「盗むな」あたりは生きているのでしょうから、「効力はない」のではなく「守るかどうかは吟味せよ」ということなのですけどね。

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  9. 照る照る坊主は神ではない
     じゃ一番目(これはどの教派でも一番目だわ)の「他の神があってはならない」はどうかというのですが、この戒律を守ったとしても照る照る坊主は神とはいえません。早い話、照る照る坊主を作った子どもたちは、照る照る坊主に「私たちを罪から救ってください」なんてお祈りしたりしないのです。百歩譲って神だとしても、単なる雨よけしかできない弱い神様です。こんな照る照る坊主1体で威光がゆらいでしまうとすれば、万軍の主もこの教会にあってはずいぶん落ちぶれたものです。

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  11. 伝統的な慣習に寛容な信者を育てよう
     前項の末尾あたり、そろそろ、「それは真理子さんのようなルーズな宗教観を持つ人の意見であり、立場が違う」という声が聞えてきそうですので、そろそろ私の立場をより明確にしましょう。
     他宗教に対して極端に不寛容な教団に育ち、その考え方にうんざりしている真理子は、「照る照る坊主禁止」のような考え方を非常に偏狭だと感じます。こういう教育をしていると、「知人の葬式は仏教だから私は行かない」など、宗教に潔癖すぎて実生活に支障をきたすような人(ネットではけっこう見かけます)に育ってしまうのではないかと心配です。むしろ伝統的な習慣を大切にすることを教えたほうがいいのではないでしょうか。
     どんな教義を立てようとご自由ですし、照る照る坊主禁止などという偏狭な教えを言う教会には近づかなければいいだけの話なのですが、晴れを願って照る照る坊主を作った子どもがあまりにかわいそうですので、一言申し上げることといたしました。

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