[真理子日曜学校]
 

自動車運転免許


 
  1. 実は運転免許ヲタ
     えっと、これが真理子の運転免許証なんですけど、われながらなんかやたら持ってますね。
     大型、中型(8t未満。これは旧制度の「普通」の読み替えね)、大特、大自二、原付、け引、大二って、まあ要するに公道を走る自動車は全部乗れるってことですね。
     持ってない免許は大特二種とけん引二種のみ。まあ、大特二種なんて今の日本で必要なことってあるのかしらって感じ。けん引二種の必要なトレーラーバスなんて西東京バスの「青春号」しかないわ(神奈中バスなんかにある連節バスは、会社内部的にどうしてるかは別として、切り離しができないので本来はけん引二種不要)。
     てなわけで、真理子は実は隠れ運転免許ヲタだったりするので、これらの免許取得にまつわる私の半生を記して置こうかしら。

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  3. はじめての免許
     こんな真理子もはじめての免許取得は遅かったのよ。昭和63(1988)年2月10日っていうのがそれ。これ26歳。しかも取ったのは原付よ。
     このころ真理子は現在の横浜市青葉区に引っ越したのね。そしたら坂がやたら多いわりにバスの本数が少ない。こりゃスクーターでもなきゃ生きてけないわっていうので免許を取りに行った。
     それまで住んでた世田谷区は、道がやたら狭く一方通行や袋小路に満ちあふれていて、今の私ですら車じゃ行きたくない。だから「一生運転免許証なんか要らないわ」って思ってたのよ。
     しかも、運転免許証を申請するには代書屋に頼んで申請書を和文タイプしてもらわなきゃならないなんて聞かされてたんで、めんどっちーなって思ってたのよ。昔は申請書の文字をそのままコピーして免許証作ってたから、へたくそな文字で書くとはねられてたのよ。実際はもうこの頃は申請書は手書きでもOKになったんだけど、昔の習慣から試験場前には代書屋がずらっと並んでて、まだ代書屋に頼む人が多かったわね。
     ともあれ原付だから50点満点の学科試験のみで、もちろん即合格。取得時講習はもう必須になってたけど、原付の取得時講習は試験場で即日でやってくれるので、その日には免許証が手に入ったわ。
     それまでは「写真のついた身分証ってパスポートくらいしかないからいろいろ不便だったけど、これで今後は何かあったらこの免許証を身分証として出せばいいんだ。便利だわ」って思ってた程度だったけど、取得時講習で実際にスクーターに乗ったら面白くなっちゃったのよ。家の近所を乗り回すだけじゃつまらなくなって、箱根越えてみようとか、成田空港行ってみようとか、スクーターでツーリングしてたら、あまりに乗り回しすぎてエンジン焼き付かせちゃった。50ccのスクーターでリミッターぎりぎりの60キロで飛ばしまくってた(これ違反ね)から仕方ないんだけど。
     以来、もっと大きなバイクに乗りたいって思って、他の免許を取るようになったのよ。

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  5. 普通一種
     そんなわけで昭和63年当時の私は、バイクに夢中だったので、バイクの免許を取ることしか頭になかったんだけど、「クラッチの扱いに慣れるためには普通免許も取ったほうがいい」「普通と二輪と取るなら先に普通をとったほうがいい(二輪→普通だと、普通を取るときの学科試験が免除されなかった)」などいろいろアドバイスされて、先に普通免許を取ることにしたの。当時はまだまだオートマ限定は珍しく、免許取るならたいていマニュアルだったから。
     これは近所の公認教習所で取ったんだけど、今思うとあんまりいい教習所じゃなかったなあ。方向変換や縦列駐車の課題ではなぜか道端にゴルフボールが転がってて、「このボールが窓のこの位置に見えたらハンドルを切って…」なんて教えてたのよ。現実の公道にゴルフボールが転がってるわけないじゃん。そんなことよりちゃんと考え方を教えなきゃダメ、応用がきかないのよ。実際、その後の私は、大型でも大型二種でも、バックの課題には苦労することになった。クラッチもそうだった。この教習所でヘンに半クラッチを多用するクセをつけちゃった私は、やっぱりその後いろいろ苦労することになった。
     ともあれ普通一種が取得できたのは上の写真にあるとおり昭和63年6月15日ね。はじめて原付を取ってから早くも4ヶ月後には普通免許も取得したのだ。

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  7. 二輪
     でも当時の私はバイクに夢中だったので、普通免許を取ったら二俣川(神奈川県の運転免許試験場)の帰りにさっそく二輪教習やってる教習所に寄って、二輪免許取得を開始したのよ。
     当時のバイク関連の免許制度は、50ccが原付。それ以上が「二輪」。そして二輪免許が小型(125ccまで)、中型(400ccまで)、大型(無制限)に分かれていたけど、この区別は「眼鏡等」と書かれた免許条件のところに書かれるのみだったので免許としては全部「二輪」でした。そして小型と中型は教習所でOKだけど大型は試験場でないとダメだった。
     ちなみに今はこのうち小型と中型が「普通二輪」、大型が「大型二輪」となり、免許が全く別物になった。そして大型も教習所で取れるようになり、スクーターだけ乗りたいという人のためにどの車種も「オートマ限定」ができるようになりました。
     二輪免許は約1ヶ月、7月には取得でき、さっそく400ccのバイクを買っていろいろツーリングしてるうち、でっかいバイクにも乗りたくなっちゃったのよね。
     大型二輪は当時は試験場でしか取ることができなかったので、試験場には受験者があふれかえってた。技能試験窓口前にたむろしている半数以上が大型二輪だったんじゃないかしら。その割に合格車は少ないから、「日本の免許制度で一番難しい試験」なんて言われてたけど、でもそれは受験者がやたら多かったせい。今にして思えば特に難しくない。ヘタクソな私でさえ5回で合格したもの。他の車種はもっとかかったわ。
     二輪が難しいのは、コースをしっかり覚えてなきゃいけないせい。試験官が同乗してくれるわけではないので、自分でコースをしっかり覚えてないといけないのよ。しかも二輪のコースなんてちまちました所内をあっちへ曲がりこっちへ曲がりと複雑怪奇。しかも二俣川はコースが3種類もあってどれに当たるか直前までわかんないんだから。
     当時はバイク屋やメーカーが主催する講習がいろいろあって、そういうところで練習しながらなんとか合格。これが平成元(1989)年2月。年号が変わっちゃったけど、初めての免許からちょうど1年で、大型二輪まで来た。「日本の免許制度で一番難しい試験」の割に、合格したらハンコが押されるだけ。新たな免許の取得じゃなくただの限定解除なんだもの。次の書き換えのときに「自二車は中型に限る」とかいう但し書きがなくなる形だったのよ。

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  9. 大型
     その後は免許取得なんて遠ざかってたけど、平成14(2002)年に勤めていた会社が傾いて放り出され、それを機に好きなバイクを使ってバイク便を始めました。でもとてもきつい仕事だったので、トラックでもやるかなって、大型の教習所に通い始めました。当時の大型は中型のない時代で、試験車両は今でいえば中型相当。試験場で今の大型を見たけど真理子には運転できそうにない。いい時代に取得したものだわ。
     このときは上で書いたように、普通免許のときのいい加減な教え方のツケが見事に降りかかってきた感じで、ギアチェンジはへたくそ、車両感覚全然ナシ、かなり苦戦した。第一段階なんか規定の倍かかったもの。
     途中でケガをして3ヶ月入院・通院をするなどしたけど、なんとか教習期限ぎりぎりに取得。これが平成14年の10月。

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  11. 大特
     大型免許の教習所を卒業して試験場で免許を交付されたとき、今のうちなら大型の車両感覚も残ってるから大型二種も取ってみようと思っちゃったのが免許ヲタ道の始まり。
     昔は路上試験があるのは普通一種だけだったけど、平成14(2002)年には原付、小特、大特(含二種)、けん引(含二種)、二輪を除くすべての免許が所内→路上の二段階になった。大型の教習所も所内と路上と両方で試験したもの。
     久しぶり(13年ぶりだわ)に試験場の技能窓口行ったら、二輪の受験者はほとんど見かけなくなったわね。教習所で取れるようになった上、仕事には関係ないからね。
     そのかわり大型二種、普通二種がやたら多かった。この時代は二種も教習所で取れるようになっていたんだけど、不況のどん底でみんな仕事がないから、カネはないけどヒマのある人ばかり。だから試験場で取ろうとするのよ。バスもタクシーも乗務員募集広告をばんばん出してるから、みんな取りたがるのよ。
     やっぱり二種は難しくなかなか合格しない。しかも受験者が多いから不合格だと次は1週間後って感じだった。ヒマをもてあました私は、その間に大特やけん引も取ってみようと、同時に三種目トライしてたのよ。
     けん引は車がまるきり思い通りにならなかったけど、大特は見よう見まねでやってたらうまく運転できるようになって、試験場で合格しちゃった。それでも6回かかったわ。まあ、一切教習所に行かなかったんだからまあまあじゃないかしら。これが平成14(2002)年の12月。

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  13. 大型二種
     そうこうしてるうち、高校の非常勤講師の職にありつくことができ、昼間に試験場に通うことができなくなって、大型二種とけん引の取得は断念しました。
     しばらく高校の先生をしてたんですけど、平成17(2004)年、もう42歳で、正教員になる道も見えて来ず、若くて元気な子たちにぶつかっていくエネルギーが失せたことを痛感した私は、教員の道をあきらめて、まるきり違う仕事をしたくなった。それがバス運転士だったのよ。冬休み→3学期って授業が少なくあんまり忙しくないので、大型二種をやってる教習所に通って、3年前のリベンジで免許を取得しました。それが上の写真にある平成17(2004)年2月9日。
     でもバス会社ってかなり狭き門。不況でみんな受験するのよね。結局採用されず、とりあえず食べるためにタクシー会社に入ることにしました。タクシーは辞める人が多いので随時採用してるし、まず不合格にならないから。大型二種があればそれでタクシーもできるのよ。

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  15. けん引
     タクシー会社には9年勤務。この間に私の性同一性障害の症状がひどくなり、日常的にも女でいたいと思うようになって、平成25(2013)年1月に手術を受けました。
     翌平成26年4月からは神学校に入るためにそれまでは仕事をしてようと思ったのですが、女性ホルモン投与で疲れやすくなったことと、どうしても戸籍を変えたくなったことで、仕事を7月に辞めました。戸籍を変えたら運転免許証も乗務員証も健康保険もみんな変わりますからね。会社も私を女として雇用しなければならなくなる。それは会社もイヤだし私もイヤです。女にはなりたいけど、そしたら新天地で生活したいのです。男として暮らしてきた社会で女になるのは照れくさいですから。
     戸籍上の名前はは平成25(2013)年8月に変わったのですが、運転免許証の有効期限はあと2年ある。それまでは、オモテに男性名、ウラにハンコが押されて真理子という名前が記される、なんとも決まりの悪い形になります。まあ、役所や銀行などに改名の届け出をするのには、この免許証を出せばイッパツなので、これはこれで便利なのですが、やっぱり男性名は消してしまいたい。
     免許証をわざと紛失して再交付を受ければ書き換わりますが、そういう不正はしたくない。それに、再交付された免許証って見る人が見ればイッパツでわかるんです。免許証番号の末尾が0じゃなくなりますから。カッコ悪いんです。
     そんなわけでこれを機会に、今まで全然取得できなかったけん引にチャレンジしようと、とある自動車学校に入校しました。もちろん公認校ですから、卒業すれば技能免除、試験場では目の検査だけです。
     最初に最低料金の122955円を払って教習開始。いろいろ免許を持ってるし、運転の仕事をしてきたので、まるきりつまずかずにとんとん拍子に進み、卒検前の最後の見極めまで来た。これを突破して卒検に受かれば免許取得です。
     しかしここでつまずいてしまった。方向変換(バック)が全然できなくなっちゃったんです。おまけにこのときに当たった教官がそろいもそろって私には不親切の極みとしか思えないような教え方をした。いや、厳しく教えられるならいいんです。怒鳴られてもいい。運転は命にかかわる仕事なんだから。でも怒鳴りもせずにたんたんと「はいやり直し、はいやり直し…」の連続。あのう、これだけやり直しをしてるってことは、私はなんか根本的な誤解をしているはずなんです。教官だったらそれを見抜いて、どうすればいいのか適切にアドバイスしてくださってよろしいのではないかしら。そう思ったらこの教習所への不信感が噴出し、あと1時間+卒検というこの段階で教習所を見限って通わなくなっちゃった。
     そして二俣川の試験場で取ることにしたんです。さすがに教習所でダブり分を含めて17時間くらい乗ってますから試験場でも落ち着いて運転できるんですけど、バックはなかなかできないし、意外なところでミスをして試験中止の繰り返し。でも二俣川の試験官はよほどヒマなのか、試験が終わったらああだこうだといろいろアドバイスしてくれる。それが教習所の教官よりはるかに親切でした。
     結局ヘタクソな私は10回も受けてやっと合格。費用は「受験料3050円+貸車料1550円」×10回+交付手数料2050円=48050円もかかっちゃった。免許証を書き換えるという趣味的な事のために171005円も散財しちゃいました。
     でも教習所代がまるまるムダになったとは決して思ってません。教習所で練習しなければそもそも試験場合格はなかったと思います。いろいろ得がたい体験をしました。試験場ではいろんな仲間も増えましたし。
     真理子は決して教習所をバカにしたりはしません。ろくに練習もせず試験場に行くくらいならしっかり教習所で取ったほうがいいと思っています。が、こういうこともあるので、要は自分にとって何が本当に必要なのかを考えることです。

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  17. 運転のコツって
     このページにたどり着いた方の中には、試験場で運転免許を取ろうとしてなかなか合格せず、何か合格のコツはないかと思っていらした方もいるかしら。残念ながら「そんなコツはない、小手先のコツじゃなく根本に戻れ」というのが、試験場や教習所でこれだけいろいろ免許を取得するうちに得た真理子の結論なのよ。「ここでハンドルをこう回して…」みたいな具体的な操作術っていうのは結局は役に立たない。
     けん引でバックに失敗すると、ちょっと戻ってそこからやったほうがはるかに成功率が高いのに、元の位置まで戻っちゃう人が多い。理想的な初期状態からのハンドルさばきしか知らないからです。でもこれをやるとたいてい失敗する。臨機応変に、現状から一番ラクな方法で目的を達成したほうがいいのです。
     それができるためには、運転の根本は何か、それを実現するためにはどうするかってことを考えるのよ。
     運転の根本とは、
     
    1. タイヤの位置とライン取りに注意する
    2. ハンドルの動きはタイヤの動きと直結しない
    3. ではどうハンドルを動かせば結果的にタイヤが目的のラインを通るかを考える
     ってこと。
     まず、受験者は車体の位置に気を取られるものですけど、本当に重要なのはタイヤの位置とライン取りなんです。タイヤさえコースに入っていれば車体が大きくはみ出しても、少なくとも試験場では安全に通行できるはずなんです。大型やけん引では前輪が運転者のおしりの後ろになるので、曲がるときには思い切って前に出なきゃいけない。S字走行なんか自分自身はコースの外にはみ出すような感じになります。現実の町中ではそれじゃ対向車や道路外の施設に激突するかもしれませんが、少なくとも試験場ではそんなことがありません。狭い教習所なんかで、対向車が邪魔だなと思ったら(交差点で左折するのに前に出たいけど、不幸にして左から他の車が来ちゃったとか)、止まればいいだけの話です。まあ、あとはバックの課題のときに、車体がポールに当たらないかどうかをせいぜい気をつけるだけです。
     大特は後輪操舵なので方向変換では思い切って後ろまで下がってからハンドルをいっぱいに切らねばなりませんが、動かない前輪のコースを考えながらやればそう難しいものではありません。
     そして、ハンドルを回さなきゃ車体の方向は変わりませんけど、ハンドルの動きはタイヤの動きに直結しないということを悟ることです。たとえばけん引のバック、ハンドルを回してできるのはヘッドと車台との角度を変えることだけなんです。この角度を折ったり伸ばしたりりすることで「結果的に」車全体を目的の方向に動かしていく。その際にヘッドの車輪が縁石に当たりそうになったらすかさずそれを回避するためハンドルを戻す。当たらなくてすみそうになればふたたび大きく切る…などをこまめにやるってことです。
     あとは、「切り返しの1回目は減点なし」「エンストも最初の1回は減点なし」みたいな特典をめいっぱい行使して、ミスを恐れない。けん引の切り返しなんて最低1回は切り返すものぐらいに考えてやりゃいいんです。がんばってください。

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