[真理子日曜学校]
 

料理と宗教書


 
  1. 宗教書を料理にたとえると
     真理子は料理が大好きなんで、料理の話を始めたら終わらないです。だけどさすがに真理子日曜学校を料理教室にするわけにはいかないんで、ここでは宗教書を料理に見立てた話をすることにしましょう。
     というのは、真理子は先日、mixiの某コミュニティを(実質的に)追い出されたんですよ。そこはとあるキリスト教系古典宗教書のコミュで、私は例によってばりばりのリベラルですから、リベラル路線で感想を書いてたわけです。そしたら管理人(本業はとある単立教会の牧師よ)がカチンときたみたいで、「この本は書き手が意図しているようなキリスト教の修養をしながら体で読まねばならず、教養主義的に読むべきものではない。料理の本を読んでおきながら料理を作らないというのが愚かしいのと一緒だ」とか、わけのわからないことを言い出したわけです。私もカチンと来て「およそあらゆる本は書き手の意図と異なる読み方が可能だし、それができるような本こそがよい古典だ」とか応戦。そしたら「誰かこのコミュの管理人を引き受けてくれないか」とか言い出すから、嫌気がさしてやめてしまったんです。
     しっかし、やめるんならもう少し何かいろいろ書いてからやめればよかったわ。特にカチンときたのが料理の話をしてたことね。誰に向かって料理の話なんかしてるのよ。そんなこと言ったらさ……ま、この続きは下に書くこととして、この事件をきっかけに、宗教書を料理にたとえるって発想は悪くないわね、と思ったのが、このページの執筆のきっかけになったわけです。

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  3. 聖書はまるごと一匹の魚
     まず聖書を料理にたとえるとすれば、まるごと一匹の魚かもしれません。お隣さんが釣りが大好きで、よく釣った魚をくれるんですけど、まるごと一匹の魚ってさばくの大変なのよね。うろこ落として三枚におろしてって。私は苦もなくできますけど、スーパーに行けば魚は切り身の状態で売ってるし、まるごとの魚もおろしてくれるサービスはどこでもやってる。だから魚を三枚におろせない主婦って多いわよ。
     で、聖書ってそういうまるごとの魚の状態だと思うんですよ。これをそのまま読めっていうのはしんどい。特に旧約聖書は魚というより生きた豚か鶏かもしれない。生きた魚の頭を包丁で勢いよくパーンと切れる私でも、さすがにそういうのはつぶせないわ。
     だから世の中には聖書をうまくさばいた本が多いし、よく売れる。日本じゃ「聖書ものにハズレはない」というくらい、聖書の解説書ってよく売れるらしいです。それは昔からそうなんで、ヨセフスの『ユダヤ古代誌』は聖書のアンチョコとして、ひょっとしたら聖書以上によく読まれたんじゃないかっていうくらい読まれたらしく、ある意味で聖書の代用にもなってる。たとえばヘロデが洗礼者ヨハネの首を切ったときに踊りを踊った娘の名前は、聖書には書いてません。サロメという名前はヨセフスの本に出てくるわけです。聖書ネタの文学や音楽は、聖書がネタというより、ヨセフスがネタになってると思ったほうがいいくらい、よく読まれたらしいですね。

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  5. アレンジできなきゃ主婦じゃない
     さて、魚をうまく三枚におろせたとして、料理がはじめての人はともかく料理本に書いてるとおりの分量と手順とで作るのが無難です。
     でも、だんだん慣れてくると、自分でアレンジができるようになります。レシピの食材がないからといっていちいちお買い物に出てるようじゃ主婦失格で、冷蔵庫の中の食材だけで間に合わせるようにしなきゃ。
     付け合せのクレソンがなかったら小松菜で代用するなんていうのは誰でも思いつくと思いますが、果ては「豚肉がなかったら鶏肉で」「練りゴマがなかったらゴマドレッシングで」などという大胆なアレンジも平気でできるようになります。こうなるとレシピというのは単なる発想のヒントでしかありません。
     とはいえ、毎日料理してると発想が貧困になって同じようなものしか作らなくなるので、私も必ず料理番組は見ます。日本テレビの3分クッキングがシンプルなだけに一番こういう応用がききますね。他の料理番組は凝りすぎててアレンジしにくいものが多いです。とはいえ放送時間の11時45分ってたいていお買い物に出てたりするのでネットで動画を見ることが多い。最近の料理番組はこういうことができて便利ですね。これでますますラジオ派の真理子はテレビ見なくなっちゃうわけです。地デジになるならテレビやめようかと思うほどテレビ見ないです。
     もちろんあまりにアレンジしすぎると大失敗をすることもあります。レシピはアレンジしていい部分と絶対に守らなきゃならない部分とがあるんですよ。こういうのは経験をつんで体得するしかないです。

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  7. 宗教書もアレンジが大事よ
     で、聖書を含めて世にはさまざまな宗教的エッセーがあふれてます。こんなの買ってるときりないので図書館で間に合わせたり、ブックオフの105円コーナーのほうで買ったり、そもそもあんまり買う気もおきなかったりするものが多いですけどね。
     こういう宗教書の読み方も上記のようなレシピのアレンジと同じです。大切なのは料理の素材ではなく精神。宗教的な修養のあり方って、キリスト教も仏教も何も実はあんまり変わらないんですよね。だから必ずしもキリスト教の本だけじゃなく、他の宗教の本も参考になるし、むしろ宗教的エッセーって、意図的に他教派・他宗教の本を読んだほうが参考になることが多いんじゃないかって思います。まあ私は「神仏習合」を理想としてますからね。
     これが、冒頭で書いたおバカな牧師への答えです。例えば『キリストにならいて』のような、中世カトリックの修道士のために書かれた本でも、カトリックに限らず他教派でも読めるし、他宗教の人だって読めます。果ては経営者のための本(本屋でマネジメントのコーナーいくとけっこう宗教書ありますもんね)としても読めるかもしれない。その場合は「キリストに」はならえないわけですけど、それでもいいんですよ。そういう多様な読み方ができるのがいい古典ですから。

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  9. 宗教にとって調味料とは
     料理はどんなにアレンジしてもここぞという本質というか基本がありますよね。それは調味料かしら。料理は素材で決まるようで、実は素材はいろいろアレンジできる。肉のかわりに豆腐ステーキとかできるけど、バターや生クリームを使うかぎりフランス料理で、逆に醤油を使っちゃったらもはや日本料理よね。
     だから調味料だけはちゃんとしたもの使ったほうがいいわよ。イイカゲンな作り方してても、ちゃんと中国の醤油と中国の酢と中国の酒つかったら中華料理になっちゃう。最近はネットの通販でいろんな食材が手に入るから、調味料だけは入手の手間をはぶいちゃダメ。
     韓国は植民地時代に日本から刺身の文化が入ったんだけど、コチュジャンつけて食べるのよね。韓国人に言わせればコチュジャンつけるのが魚の味がよくわかるんだそうな。私なんかウェッと思うけどね、魚はやっぱり醤油じゃなきゃ味がわからない。コチュジャンなんかつけたら全部コチュジャン味になっちゃう。韓国料理ってみんな唐辛子とニンニクで画一的な味。
     でもヨーロッパ人に言わせれば、日本料理はどれも醤油の味で画一的だって思うらしいです。私たちは醤油をつけてこそ食材の味がわかるって思うけど、食材の味そのものなら何もつけないか、せいぜい塩だけでいいはず。なのに醤油をつけたほうが食材の味がわかると思ってるのは、韓国人がコチュジャンをつけたがるのと同じなのね。私たちにとって醤油というのは食材にふれるための一種の基本的尺度、フレームなのよね。
     宗教で醤油にあたるものって何かしら。法華は南無妙法蓮華経、浄土は南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏っていったら法華じゃなくなるかしら。じゃキリスト教では? イエス様が祈りは長々とやらずこうやれといって教えた主の祈りがあるのに、みんなべらべら長々とお祈りしてますよね。礼拝を離れて修養になるとホントに自由みたいで、カトリックの神父様は禅を修養に取り入れている人も多いらしいです。そうすると祈りの形式っていうのは少なくともキリスト教では素材のほうであって醤油ではなさそうね。三位一体も東方の一部じゃ認めてないし。最終的には「イエス様を唯一の救い主と認める」ことかな。これを抜かしちゃったらキリスト教じゃなくなっちゃうかもしれないわね。どんなに諸宗教を習合しても、「イエス様が唯一の救い主」という一点がしっかりしてればキリスト教だって気がします。
     一口にキリスト教といっても、種々雑多な考え方を含んでおり、どれが本当にキリスト教の根本で、どれがどうでもいいことであるかがよくわからなくなっていますが、こんなふうにふだんからいろいろな宗教の考え方に接していると、キリスト教のアイデンティティが見えてきます。

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