[真理子日曜学校 - 聖書の言語入門(フレーム表示) ]
【17世紀英語コース】

Good morning論争


  1. Good morning論争とは?
     論争といえるほどの応酬があったわけではないのですが、一応この話題にもふれておきましょう。ここでも敬称をすべて略します。
     副島隆彦が『英文法の謎を解く』(ちくま新書. 以下S1)で、Good morning.などの挨拶のもとの文が、You have a good morning.であると説明したことに端を発します。
     これに対して渡部昇一が『英文法を撫でる』(PHP新書. 以下W)の冒頭で、著者や書名を書かずに引用し、ドイツ語のGutenグーテン Morgenモーゲン.などの例をあげながら、実はこれが、I wish you a good morning.という祈願文の略であるということを説明しました。
     これに対して副島は『続・英文法の謎を解く』(ちくま新書. 以下S2)で、まるまる一章分(第2章「英文法とドイツ文法の関係について考える」)をあてて反論しました。議論の応酬としてはこれで終了です。


  2. 論争の経緯と争点(1)
     
     何度も議論の応酬があってこそ論争だという考え方からすると、応酬が2往復もしていないのでは論争といえないかもしれません。
     それに両者とも議論の仕方が拙劣で、論争としては面白みがありません。
     副島説のポイントは次の2点に要約できるでしょう。
    1. Good morningの前にはhaveが省略されており、Good morningはhaveの目的語になっている。
    2. Good morningとはもともとはYou have a good morning.という直説法現在の平叙文である。
    副島自身が書いているのは1.のみであり、2.は渡部の反論があってはじめて見えてくるポイントです。
     ですからこの説に反論するならば、本来は、
    1. good morningの前に省略されているものはhaveではない
    2. Good morningは直説法現在ではない
    ということを言えばいいわけです。
     が、渡部の反論は、1.でも2.でもない奇妙な話から始まります。渡部は、「この説を読んで憶(おも)い出したことがあった」と、学生時代の思い出を語ります。学生時代に寄宿していた寮の友人が、アメリカ人の舎監にGood morningといいながらたたき起こされ、「Good morningじゃないよ、Bad morningだよ」とぼやきながら洗面所に向かった、というエピソードをあげて次のように論を展開します。この友人はGood morningをIt's a good morning.と解釈したようだが、ドイツ語のGuten Morgen.が4格(対格)の語形であるから英語のGood morningも対格であり、It's a good morning.というのは正しくない。正しくはI wish you a good morning.という祈願文なのであり、だからBad morningといったら呪いの言葉になってしまうのだ、I wish you a good morning.は、「英語でも丁寧に言いたい時には」「言うこともある」(W-p.21)形であると、「大昔から、決まった形式になっている言い方なのである。つまり九世紀末頃のアルフレッド大王の時代から文献的に証拠のある確立した言い方である」(W-p.24)というのです。
     しかしこの話はGood morningが対格だということをいうに過ぎませんから1.ではありません。副島のYou have a good morning.だってgood morningは対格になっています。対格の話なんか長々としている場合ではなく、直前に省略されているのはhaveではなくwishなのだということを論証しなければならないのに、I wish you a good morning.という正解は、なんの論証もなくポツンと登場するにすぎないのです。
     渡部のこの反論によって、上記2.、つまりGood morningは実は祈願文なのだが、副島はそれに気づいていない、という論点が見えてきました。しかし祈願文であればいいというのであれば、たとえば、I hope you have a good morning.とか、May you have a good morning.などのように、haveを用いた祈願文も作れるのですから、それらではなくI wish you a good morning.が元なのだということを示さねばなりません。文献的に証拠があるというのならそういう証拠を一つでもあげればいいのですがそれもありません。文献的に確かめるすべのない一般読者は、「渡部はひょっとしたら文献的な証拠をあげられないから、このように相手説への批判でないものを批判であるかのように見せかけるあくどい手口を使っているのではないか」とかんぐってしまいます。


  3. 論争の経緯と争点(2)
     さて、副島の反論です。当初の文がたとえ副島の勘違いであったにせよ、上記のように渡部の批判にはボロがいろいろあるのですから、これを突けば副島は論争を有利に展開させることも可能でした。しかし副島の反論が実に拙劣で、痛々しいまでにしどろもどろでした。
     まず、「英文法とドイツ文法の関係について考える」という仰々しいタイトルながら、実際は渡部への反論にすぎず、英語とドイツ語の比較の話に発展させることができていません。
     そして反論は結局、「I wish you a good morning.などという表現はきいたことがない」の一点張り、英語話者の友人数人に電話してきいてみたが、誰もわからなかったというご苦労なエピソードまで掲げて、「私は語源的に溯って、古英語、中世英語まで言及までするつもりはない」「英語圏の国々で今現在使われているごくふつうの英語を日本人は学べばいい」と主張するだけなのです。
     Good morning.が祈願文であるということに当初気づいていなかったことはどうやら認めたようで、「もし私に間違いがあったとすれば、それは、I hope you have a good morning.のI hopeを書き忘れたことである」(S2-p.35)と書いています。が、渡部はI wish~の論拠を挙げていないのですから、このミスを認めた上で、やはり省略されているのはhaveであり、もとはI hope you have a good morning.ないし、May you have a good morning.である、というような展開にすれば、もう少し格好のよい反論になったのではないでしょうか。
     渡部は副島を、Good morning.をYou have ~と解釈するようでは、「この著者の学歴は存じ上げないが、英語を学問としてやったことがないことは確かである」(W-p.14)などと揶揄しています。たしかに副島は経歴的には英文法の専門家ではありませんが、さすがにこの程度の知識はあります。実際S1では、第8章で仮定法を扱ったり、第9章ではドイツ語の接続法と比較した箇所もあります。ですからもっと堂々と渡部の指摘に反論してもよかったはずなのですが、専門家でないことが副島にはよほどの弱点だったのでしょうか、必要以上にしどろもどろになってしまった感があります。
     おまけとして実に痛いミス。S2-p.37で「与格(dative ダーティヴ)」などと書いています。dativeならデイティヴでしょうに。ドイツ語の話なんだからドイツ語読みだという逃げも通用しません。ドイツ語ならDativ(ダーティフ)ですから。


  4. 真理子の総括
     言語学の研究態度には通時的(歴史的)研究と共時的研究の2つがあります。歴史的研究に終始していた19世紀までの言語学に対して、ソシュールが「共時的研究の優位」を掲げて以来、言語学では「いまの言語のありよう」を記述し分析するのが主流になりました。今の英語教育がいまを重視するのもそのあらわれかもしれません。副島の結論「いまの英語のみを学べばいい」というのもこの立場であるとすれば是認できるところです。
     しかしその一方で私たちはよく「○○という言い方は正しいの?」と疑問に思い、それを調べるために辞書を使ったりします。が、正しいだの間違いだのというのは規範があってこそであり、その規範とは「過去にどう言われてきたか」です。つまり正しいだの間違いだのという議論は実は言語の歴史的研究を前提にしているのです。
     同様に「○○という言い方は××の省略だ」という言い方もそうです。もともと長かった表現が省略されたのですからこれも歴史的な思考です。
     ですから共時的研究の立場に立つなら、正しいだの間違いだのという議論や、○○の省略という議論をせず、あくまでいまある形を肯定すべきなのです。現に共時的研究ではをする言語学ではそうしています。
     だから副島は、「いまの英語のみを学べばいい」というのならば、「Good morning.はYou have a good morning.の省略だ」などという議論をそもそもすべきではなかったのです。もしそれをしたいのならば渡部のいう通時的研究、つまり古英語やドイツ語などとの比較という方法論を受け入れなければならなかったのです。
     それにしても真理子は「いまのありよう」だけを重視する共時的立場をとても浅はかだと感じます。それも大事かもしれませんがもう少し通時的立場の復権も必要だと思います。なぜって、言語というのは、「みんながこう言っている」という法則にのっとってしゃべるものであり、そのみんなというのは、結局は過去に属するものです。だから言語ってそもそも歴史的なものではないかしら。


  5. 指摘されていない間違い
     なお、S1についてはこれ以外にもまだまだ指摘されていない間違いがありそうな気がします。真理子が気づいたところでは、第1章「なぜ、日本人は英語がへたなのか」中、マレーシア語について書いた部分がデタラメです。p.9-10でマレーシアの言語事情を紹介しているのですが、マレーシア語のことを「バハサ・マレーシア語」という奇妙な書き方をしています。バハサというのは「~語」なのですから、これではSumidagawa Riverというような同語反復になってしまいますし、バハサというマレーシア語を使うならばマレーシアのところもマレーシア語で「バハサ・ムラユ」と呼んでほしいです。次にこのマレーシア語を、「30年ほど前」につくった「人造国語」と規定し、企業どうしでやりとりする英語の書類を日常語に翻訳するための媒介となるような、日常語とは違う人工的な言語のように書いていますが、これはうそっぱち。マレーシア語で30年前に起こったこととしては、1977年の正書法の改正(実質的に同じ言語であるインドネシア語との統一がはかられた)ということでしょうか。もちろんどんな言語でも、日常的な場での言葉に比べてよそいきの場での言葉は「人造的」になるのは確かですが、それだけの話でしかありません。そして最後に、このマレーシア語が「単語と単語の並び方は、なんと英語とほとんど同じなのである」が決定的な間違い。マレーシア語は「被修飾語・修飾語」の語順になります。早い話、上の「バハサ・ムラユ」とは「語・マレーシア」ということです。これでは英語とまったく逆ではありませんか。
     副島はこの部分について、「東京外国語大学名誉教授岡田英弘氏の『日本史の誕生』(1994年、弓立社刊)から教えられた」(S1-p.18)と、受け売りだと白状しています。真理子は同書を見ていないのでなんともいえませんが、たとえ同書の間違いをそのまま受け継いだにせよ、副島の不用意さは責められるべきでしょう。