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2024年3月29日(金) 通読(本日=エレ27-31,知18,クル-35回 明日=マコ15-16,1イミ18,クル-36回)

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節表示・修正口語訳(日本語R)+真理子のおまけ 解題
〔57年モルモン経〕アルマ書 第32章
第32章
貧い者たち、救いの道を聞く。アルマの賞讃と説教。信仰は信じたいと思う心から生じること。

アルマとその同僚たちは行ってゾーラム人の会堂かまたはその住家へ入り、神の道を宣べ始めたが、路傍に於てもまた説教をした。
そしてゾーラム人の中で力を尽して働いてから、貧しい人々の仲間の中でやや成功を収めた。この貧しい人々は、その着物が粗末であるので会堂から追い出され、
不潔な者と思われていたので、神を礼拝するために会堂へ入ることを許されていなかった。この人々は貧乏で同胞に人の屑と思われていたので、この世の品物に乏しく心が謙遜であった。
さて、アルマがオナイダと言う小山の上で人々に説教と談話をしていた時に、この世の品物に乏しくて心が謙遜であると今話をした者たちが多く寄り集って、
アルマの側近くへやってきた。そしてその仲間の頭がアルマに「私の兄弟であるこの人たちは、貧乏であるからすべての人に侮り嫌われている。どうしたらよろしいか。まことに、私たちはとりわけ祭司たちにいやしまれていて、祭司たちは私たちがひどい貧乏だからと言って、私たちが自分らの手で大いに苦労をして建てた私たちの会堂から追い出した。だから、私たちは自分の神を礼拝する場所がなくて困っている。どうしたらよろしいか」とたずねた。
アルマはこれを聞いて正面からこの男に顔を向けて、非常に喜びながらじっと見ていたが、この多勢の者たちが自分たちの受けた艱難のために、まことにへりくだって神の道に聞き入る用意をしているのを認めたので、
これまで説教をしていた多くの人々に話すことを止め、本当に悔い改める心になっているこの貧民の群に向って手をひろげ声をあげて、
「あなたたちの心はへりくだっていると見えるが、もしもそうならばあなたたちはさいわいである。
あなたたちの一人の同胞は今私に『どうしたらよろしいか。私たちは会堂から追い出されて神を礼拝することができない』と言った。
ごらん、あなたたちは自分の会堂の中でなければ神を礼拝することができないと思っているか。
さらに、あなたたちは一週間に一度以上神を礼拝してはならないと思っているか。
あなたたちは自分の会堂から追い出されたので、謙遜になっていよいよ知恵を得ることができるから、このように追い出されるのはかえってよろしいことである。あなたたちが知恵を得るのはきわめて大切である。あなたたちは追い出されたために同胞に嫌われ、きわめて貧しいためにへりくだる。あなたたちはまことに境遇に迫られて謙遜になっている。
しかし、やむを得ずに謙遜になっているからあなたたちはさいわいである。なぜならば、人が境遇からやむを得ずに謙遜となるとき、人は悔い改めようとする。悔い改める者はみな必ず憐みを受ける。憐みを受けて終りまで忍ぶ者は必ず救われる。
私はあなたたちが境遇からやむを得ずへりくだったからさいわいであると言ったが、神の道を聞いたから進んで真心からへりくだる者はなおさいわいであるとは思わないか。
まことに、真心からへりくだって自分の罪を悔い改め、終りまで忍ぶ者は祝福を受ける。本当にこのような者は、きわめて貧しいためにやむを得ずへりくだる者よりも、ひときわ多く祝福を受ける。
それであるから、へりくだることを強制されずに進んでへりくだる者はさいわいである。言葉をかえて言えば、心をかたくなにすることもなく、強いて神の道を説きすすめられなければこれを信じないと言うこともなく、進んで神の道を信じバプテスマを受ける者はさいわいである。
もし天からのしるしを自分に見せてくれるならば確に知って信じようと言う人は多くある。
しかし、このようなことは信仰であるか。いや、これは信仰と言うことではない。なぜならば、もし人が物事を知っているならばこれを信ずる必要のあるわけがない。すでにこれを知っているからである。
さて、神のみこころをよく知りながらこれを行わない人は、ただ神を信じてだけいる人、またはただ神を信じなくてはならない原因だけがある人で罪を犯す者にくらべていかにも多くのろわれるではないか。
あなたたちはこのことを自分で弁えなくてはならない。ごらん、私はあなたたちにはっきりと言うが、神の裁きは双方に同じであって、どれもみなその行いに応じて報いを受けるのである。
信仰については私がすでに話したように、信仰とは完全に物事を知ることではない。それであるから、あなたたちにもし信仰があるときには、まだ見ていない本当のことを待ち望む。
私はあなたたちにはっきりと言うが、神はその御名を信ずるすべての者たちに憐みをかけたもうから、あなたたちがまず神の言葉を信ずるように望みたもう。ねがわくは、あなたたちがこれを記憶するように。
神は天使によって男ばかりでなく女にも御言葉を伝えたまい、そればかりでなく、またたびたび賢人や博学の人の知識も及ばない御言葉を子供に与えたもう。
私の愛する同胞よ。あなたたちは苦しめられ、追い出されたから、どうしたらよいかと私にたずねるけれども、ねがわくは、私が事実によらないであなたたちを裁くと思ってもらいたくない。
私が前に言ったのは、あなたたちがみな境遇からやむを得ずへりくだっていると言うのではない。私はあなたたちの中にどのような境遇にあっても進んでへりくだる人々のあることを確に信じている。
信仰と言うことについて私はすでに言った。信仰と言うことは、完全に物事を知ることではない。今私の言っている言葉についてもその通りである。すなわち、信仰が始めから完全に物事を知ることでないと同じように、私の言葉の確なこともあなたたちは始めから完全には知ることができない。
しかし、あなたたちがもし目をさましてふるい立ち、その能力をつくして少しなりとも信じながら私の言葉を実際にためしてみるならば、たとえ信じようとする望みを起すだけでもよい。しかし、私の言葉の一部分でも受け入れるほどの信仰ができるようになるまで、この望みを育ててゆけ。
今、神の御言葉を種子になぞらえて話すと、あなたたちが一つの種子を自分の心の中に蒔くとき、もしもその種子が真理の種子すなわち善い種子であって、あなたたちが不信心の心でこの種子を抜きとったり、主の「みたま」に逆らったりすることがなければ種子は次第に胸の中でふくれ始めるであろう。そこで、あなたたちは種子がふくれ始めることを感ずると、次のように思う。すなわち、これはまことに善い種子、善い言葉に違いなく、私の心を大きく開き、私の理解力を増し、私はようやく好い味を感ずると。
ごらん、このようにしてあなたたちの信仰と言うものが増すではないか。さよう、増すけれどもまだ完全に知ると言うほどではない。
種子が大きくふくれて芽を出し、ようやく成長する時になると、あなたたちはこのように生えて出るから必ず善い種子であると認めるに違いない。
さて、あなたたちはここでこの種子が本当に善い種子であることを確に知っているか。その通り、確に知っている。それは、すべて種子は自分と同じ実を結ぶからである。
従ってもし種子が生えるならばこれは善い種子であるが、生えないならば善い種子ではないから捨てられる。
今、あなたたちは実際にためして種子を蒔き、その種子が大きくふくれて芽を出し生え始めたから、その種子が善いことを知るに違いない。
さてあなたたちがこのように知るのは完全な知識であるか。その通り、ただこのことのみに関しては完全であるから、このことに関するあなたたちの信仰と言うものは眠っている。これはあなたたちがすでに知識があるからである。神の言葉がすでにあなたたちの心を大きく開き、種子のように芽を吹き出したのであるから、あなたたちは自分の理解力が増し、自分の頭が開けてくることを感じて知っている。
それならば、知識はすなわち真実なことではないか。その通り、明らかな光であるから真実である。およそ光は明らかに悟ることができるものであるから善であって、その善であると言うことはあなたたちが知らねばならぬことである。今、あなたたちはすでにこの光を経験したのであるから、あなたたちの知識は完全であるか。
いやそうではない。あなたたちは、ただ種子の善し悪しを試みるために、種子を蒔いてみることにだけ信仰を用いたのであるから、その信仰をすててはならない。
種子から生える木が生長し始めると、あなたたちは『さあ、この木が十分に根を下ろして生長し、私たちのために実を結ぶようによく注意して養い育てよう』と言うが、今あなたたちがよく注意してこの木を養い育てるならば、根を下ろして成長し実を結ぶであろう。
これに反して、もしあなたたちが木をほっておいてこれを養い育てることに心を配らなかったならば、根がつくことなく、太陽が出てこれを照らしこれを熱するならば、根がないから枯れてしまうであろう。このときあなたたちはその木を抜いて捨てるのである。
しかし、木がこのように枯れるのは種子が悪かったためでもなく、また実がなったときその実が悪いためでもない、その土地が荒地であってしかもあなたたちが木を養い育てないためである。それであるから、その実をとることができない。
これと同じわけで、あなたたちがもしも信仰を以て言葉の実るときを待ち設けながら言葉を養わなかったならば、決して生命の木の実をとることはできない。
しかし神の御言葉である木が生え始める時からその実の生る時を待ち設けながら勉めはげんで、気長によく信仰を以てこれを養うならば、その木は根を下ろして永遠の生命を生ずる木になるであろう。
このように、あなたたちが心の中に神の御言葉の根がつくように勉めはげみ、厚い信仰を以て気長に御言葉を養い育てるならば、やがてその言葉の実をとって腹に満ちるまでそれを食い、もう飢えることなく渇くこともないであろう。この言葉の実は最も貴重であってあらゆる甘いものよりも甘く、ある白いものよりも白く、あらゆる清いものよりも清い。
私の兄弟たちよ、その時になってあなたたちは、自分のために木が結ぶのを待ちながら尽した信仰と勤勉と忍耐に対する報いを受けるであろう」と。

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