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真理子様 > いろいろ書きましたが、まとめると、私は{mar:14:21} > > たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう。 > > を、次のように解釈しているのです。 > > おいらが十字架にかかって死ぬのはさ、旧約聖書に書いてあるとおりなんだが、考えてみたらユダくんはかわいそうだよな。だって、おいらを裏切って、史上最大の裏切り者ってことでみんなからののしられる大悪人になることが、決まってたってわけだからさ。かわいそうに。ユダくんはこれを知ったら嘆くだろうね。「おれは最初から救われない裏切り者として創造されてたってわけか。そんな。生まれてこなけりゃよかったよ」ってさ。 > > イエス様が「あいつ、おれを裏切るなんて、生まれてこなけりゃよかったぜ。ったく!」のように、自分にとってよくなかったという意味で言ったんなら、イエス様とも思えないひどいせりふってことになりますが、上のように考えれば、至極当然ですよね。 > 「生まれてこなけりゃよかった」って、絶望感をあらわす定型句みたいなもんですよ。{job:3:3}以降の「わたしの生れた日は滅びうせよ……」っていうのと同じでしょ? > だから実は、岡野さんがこの部分を、イエス様の理不尽な言動の例として出しているのは、私は反対です。至極当然のせりふなんです。 > でも、私思いますに、ユダくんは裏切ることで自分の役目をまっとうしたわけですから、いまごろは「いやぁご苦労さま。あのときは大変だったねぇ。首つって痛かったか? まぁこっちは手にクギを打ち込まれて痛いのなんのだったんだから、かんべんしてくれよ」とかイエス様に言われながら、一緒に酒でも飲んでるんじゃないかって思うんですけど、やっぱりユダさんって救われないほうなのかしら? > > こんなふうに、すべての出来事があらかじめ神に予定されていたと考えるのを「予定説」と言います。特に、最後の審判で神様に救われる人と、救われない人とは、本人が知らないだけであらかじめ天地創造の昔にもう決まっていると考えるのが、カルヴァンの予定説です。 > 神様が全知全能だとすれば、この説は至極当然、きわめて論理的に導き出せますよね。 > ところがこうなると、「じゃ、あの津波で多くの人が犠牲になったのも予定されてたのか。死んだ人はみんな罪びとだったのか」なんていう話になるので、困ってしまうわけです。 > > 長くなるので結論だけ書きますけど、私は、神様の救いを確信できる、希望のもてる文脈・場面だけで予定説を唱えればいいと思ってます。 > たとえば今回の災害で多くの人がお亡くなりになったのはたいへんにいたましいことですけど、つらい復興の中で人々が連帯するようになったとか、人のあたたかさを感じて希望が持てたとかいうときには「やっぱり神様っているんだわ」「これも神様の試練だったんだわ」と素直に思えるでしょう。それで希望が持てるでしょう。 > そういうふうに、希望を持つためにだけ予定説を持ち出せばいいんです。 > > いま木曜日に読んでるヨブ記も、ヨブは最後の最後で救われます。ハッピーエンドで終わります。でも「じゃ第1章あたりで死んじゃったヨブの家族や召使たちはどうなるんだ。彼らには救いがないじゃないか」なんていうことを詮索しないことです。 > それと同様に、災害でおなくなりになった人がどうだったということを詮索せず、生き残った私たちが希望を持てたときに、「この災害は神様の試練だった」と思えばいいじゃないですか。
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