[ばべるばいぶる]

真理子の聖書日記


このサイトを作りながら、聖書を読みながら真理子が考えたことです。
真理子修道会の修道女/修道士の方のみ書き込むことができます。

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[978] 詩編149-150編 投稿者=真理子 掲示日=2011/12/07(水) 07:15:33 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=skd&book=psa&chapter=149&mode=0
 詩編の一番最後150編は、「神を賛美せよ」のリフレインが印象的。
 角笛だの琴だの太鼓だのシンバルだの、いろんな楽器が出てくるので、私はてっきり中国の京劇みたいな感じだと思ってたんですが……
 実はここ、ストラヴィンスキーが『詩編交響曲』の第三楽章で曲をつけてるんですね。この曲、交響曲とはいってもカンタータのような声楽曲で全三楽章。第一楽章は詩38:13-14、第二楽章は詩38:2-4をテキストにしています。終楽章である第三楽章は、詩150全体を用いています。ではどうぞ。

(http://www.youtube.com/watch?v=ylVMaGYYafo)
 Youtubeにはほかにもこの曲がアップされているので聞き比べてほしいんですが、1つの動画におさまってるのと、歌詞が下に全部書かれているのとでこれを選びました。見ての通り、テキストはヴルガタつまりラテン語です。
 どんな感じでしょう。途中はにぎにぎしくなるものの、最初と最後はとても重々しいんで面食らっちゃいました。
 なお、LXX(七十人訳、ギリシア語訳旧約聖書)にはもう一つ、151編目の詩が収録されています。ヴルガタでは詩編本体とは切り離されて、最後の(新約聖書よりもあとの)付録に収録されています(詩1511)。来年度の通読ではこれもメニューに加えますが、今年度はメニューにありませんのでここでちらっと目を通しておいてください。

[977] エス6-10章、エズ・ラ16章 投稿者=真理子 掲示日=2011/12/06(火) 07:31:29 ここから閲覧

●エス6-10章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=skd&book=est&chapter=6&mode=0
[969]に引き続き、付加部分をつけた形で、あらすじをまとめてみましょう。

正典6章=王はハマンの前で、モルデカイが謀反を未然に防いだ功績をたたえる。
正典7章=酒宴の席でエステルは王に、モルデカイを死刑にするよう願い、その通りになる。
正典8章=アダルの月の13日に、ユダヤ人を襲おうとした民に対する復讐を行うよう全国に布告を出す
付加(8章の途中)=その布告文の内容
正典9章=全国で復讐が実行される
正典10章=モルデカイは王に次ぐ者に出世する。
付加=モルデカイの回想

 このように、後半部分にはあまり付加がありません。前半部分でユダヤ人殺害指示の布告文そのものが付加されたように、後半も復讐指示の布告文が付加されています。
 そして、この話の冒頭でモルデカイが夢を見たという付加部分に対応して、一番最後に、その夢の謎解きが付加されています。
 布告文の付加はどうでもいいんですが、最初と最後の付加によって、単なるプリムの祭の縁起でしかなかったこの話の宗教的意味が解明されます。ぜひこの付加部分をあわせ読みたいところです(エス・ギ15:4-14)
 エス・ギのときにも書きましたが、エステル記は後半の復讐シーンがあまりにすさまじいので嫌われています。が、それはお約束のシーンとして読むことにしましょう。怪獣をやっつけなきゃウルトラマンの話は成立しないんです。やっつけられる怪獣がかわいそうという話もたまには変化球として面白いんですけど、原則はウルトラマンの側に思い入れをして読まなきゃいけません。
 それに、現在のイスラエルでは、プリムの祭はエイプリルフールになっているらしいです。この話はそもそも史実じゃありません。エイプリルフール、ほら話として読めばいいんです。日露戦争で日本が勝利したときに、「樺太は南半分だけじゃなく全部日本の領土にしろ。いや、バイカル湖まで領土にしろ」と舞い上がった学者先生がいたらしいですけど、いつでもどこでもあるこの手の大言壮語なんです。

●エズ・ラ16章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezl&chapter=16&mode=0
 エズ・ラの最終章。せまりくる終末とわざわいの預言ですが、35節まではエズラ自身によるもの、そこから先は神様の言葉となっています。
 エズ・ラに似ているヨハネ黙示録は、一番最後は救いの話で終わります(今週金曜日に読みます)。そこに示された天国は私たち日本人にはいまいち有難い感じがしないかもしれませんが、ともかくも最後は有難い救いの話で終わります。それに対してエズ・ラはこわい話ばっかりで救いの話が少ないのが難点ですね。こわいこわいと思っていたヨハネ黙示録が、実はまだましだったんだということに気づきます。

[976] 申命記32-34章 投稿者=真理子 掲示日=2011/12/05(月) 05:19:38 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=deu&chapter=32&mode=0
 申命記の最後はけっこう読みごたえがあります。
 まず32章(43節まで)は死に際したモーセの祈りの詩。「主こそが真実の正しい神である。民が主を見捨てて他の神を拝むようになればかならず報復をする」と歌います。
 LXX(七十人訳。ギリシア語訳旧約聖書)にのみ存在する「詩歌(ᾠδαί、Odes)」という書があります。旧約・新約聖書の中にある詩を13編抜き出した書なのですが、その2章(詩歌2)にこの詩がそっくりおさめられています。
 33章ではモーセはイスラエルの十二部族をそれぞれ祝福します。ちょうど創49でヤコブが死ぬ前に十二人の息子に一人ひとり、お前はこういうふうになる、と言ったのに似ています。
 そして34章でモーセは死にます。享年120。最後まで目はかすまず気力も衰えなかったそうです。モアブの地に葬られましたが、墓がどこにあるかは誰も知りません。

[975] 3ヨハ(全)、エズ・ラ15章 投稿者=真理子 掲示日=2011/12/04(日) 11:15:03 ここから閲覧

●3ヨハ(全)
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=skd&book=3jo&chapter=1&mode=0
 読む価値がひとかけらもない、口汚い内ゲバの本。3×9=27(さんく・にじゅうしち)という、旧約聖書39書、新約聖書27書という数の覚え方をうまく成立させるためだけに正典に入ったのではと思うほどつまらない本です。

●エズ・ラ15章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=skd&book=ezl&chapter=15&mode=0
 エズ・ラ15-16章はキリスト教徒による後代の加筆。ローマ帝国の混乱と、キリスト教徒が各地で受けた迫害を背景に書かれているので、年代はずいぶん後。決定的なのが、エズ・ラ15:28-33の「アラビアの竜の民」というのが、AD3世紀中ごろに行われたパルミュラ軍とササン朝ペルシアとの戦いのことだとされているので、成立年代はそのころではないかと言われています。
 人々の行う不信仰の行いに対して主はもはや黙っておられず、数々の災難を引き起こして、この世を終末へとひきずりこむという話です。

[974] 使徒25-26章 投稿者=真理子 掲示日=2011/12/03(土) 09:14:39 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=act&chapter=25&mode=0
 パウロはカイザリヤのユダヤ総督ペリクス(フェリクス)のもとで二年間監禁されていましたが、ペリクスにかわって新しい総督フェスト(フェストゥス)が着任します。エルサレムのユダヤ人はフェストに「パウロをエルサレムに連れて来い」と訴えますが、フェストは即答せず、ユダヤ人の代表者にカイザリヤまで同行させ、裁判を開くからそこで訴えよと言います。
 パウロはエルサレム行を拒否し、ここカイザリヤで裁判をせよといい(使25:10)、さらにカイザル(ローマ皇帝)に上訴する(使25:11)と言います。たった1節でこんな矛盾したことを言うのはヘンですね。ルカの編集がへたくそなんでしょう。
 ユダヤ領主のアグリッパ王(アグリッパ2世。在位AD50-100)と妹ベルニケがカイザリアのフェストを訪問。フェストはパウロの件を持ち出し、パウロはアグリッパ王の前で演説します(26章)。この演説はほとんど22章と同様ですね。
 アグリッパ王もペリクスもパウロが無罪であると思っています。アグリッパ王は最後には「皇帝に上訴さえしなきゃ無罪放免なのに」と言うほどです。パウロはわざわざ茨の道を歩み、ローマへと向かいます。

[973] 黙示録12-17章、エズ・ラ14章 投稿者=真理子 掲示日=2011/12/02(金) 13:33:48 ここから閲覧

●黙示録12-17章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=rev&chapter=12&mode=0
 これでもか、これでもかと災難が続く黙示録は読んでて気がめいってきますが、12章に入ると様相が変わってきます。女だの大淫婦だのという話があまりに非現実的で、読めばすぐに、ああこれはローマ帝国の象徴なんだ、ローマ滅亡の予言をこういう象徴で表現してるんだってことがわかるからです。いまはもうなくなってしまったローマ帝国の滅亡の話なので、安心して読めるというわけです。
 何度も言いますが黙示録は滅亡の恐ろしさを読むのではなく、救いのすばらしさを読むべきです。私たちは生活の上でさまざまな困難に出会いますが、困難はみんな黙示録のようにがらがらと音をたてて崩れていき、最後にきっと勝利する、という確信と希望を与えてくれる本として読みましょう。

●エズ・ラ14章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezl&chapter=14&mode=0
 エズ・ラは16章ありますが、15-16章はキリスト教徒による付加部分なので、とりあえずここで話が一段落します。
 第七の幻は今までのまとめ。エズラは後の世の人たちを教化するために書物を書き記そうとします。そこで人々を寄せ付けないようにして、速記者たちを呼んで、その前で四十日間語り続け、それを記録させます。こうして94巻の本が出来ますが、そのうち24巻を一般公開、あとの70巻を賢者のみ読む秘密文書とします。
 この24巻というのは旧約聖書を巻数として数えるときの伝統的なやり方で、具体的には、
   律法…創、出、レビ、民、申…5巻
   預言書…ヨシュ、士、サム、列、イザ、エレ、エゼ、十二小預言書…8巻
   諸書…詩、箴、ヨブ、雅、ルツ、哀、コヘ、エス、ダニ、エズ・ネヘ、歴…11巻
となります。つまり39書を、上下になっているサム、列、歴はそれぞれ1つとし(マイナス3)、エズラ記とネヘミヤ記は1つにまとめ(マイナス1)、十二小預言書はまとめて1つとし(マイナス11)、これでマイナス15となって、39-15=24という計算になるのです。
 ユダヤ教側で(旧約)聖書の内容が最終的に確立されたのが、ユダヤ戦争後、ちょうどエズ・ラが書かれたころになりますので、エズ・ラのこの部分は旧約聖書成立史として重要です。

[972] CGI不具合してました 投稿者=真理子 掲示日=2011/12/02(金) 06:05:47 ここから閲覧

 えっと、本日12/2未明から、ばべるばいぶる本体(聖書表示)と、この掲示板が表示されなかったと思います。原因はサーバーの不具合かと思ったら私のCGI(プログラム)ミスでした。
 今から30日後の日付を計算する部分にミスがあり、12/2-12/31の期間に誤動作する(無限ループになってしまっていつまでも終わらない)ようになってました。

 掲示板の中には、一度書きこむと、名前とかメアドを覚えられちゃうところが多いですよね。次からは、あら不思議、前に書いた名前やメアドがちゃんと表示されてるっていうの。
 それは、クッキーという機能を使ってるんです。あなたのパソコンのハードディスクの奥深いところ(具体的にどこかは、使ってるブラウザやOSによって異なります)に、その情報を記録しておいて、それを参照してるんです。
 で、クッキーを記録するためには、いつまで記録するかっていう期限を指示しなきゃいけない。でないと、ブラウザを終了したとたんに忘れられてしまいます。
 この指定が面倒くさいんです。今から30日間なら、30って指定したいところですけど、そうじゃなくて、日付で指定するんです。
 しかもその日付の書式が、Sun, 01-Jan-2012 05:48:10 GMT なんていう書式の文字列なんですね。こういう文字列を、自前で作り出さなきゃいけないんです。とっても面倒。
 そこで、今から30日後の日付と曜日を計算するプログラムを自前で書かなきゃいけない。私の書いたプログラムではこの部分にミスがあり、年をまたいだ瞬間に無限ループになるようになってました。
 30日後の日付が年をまたぐ、12/2以降に、不具合が出るようになってた。そこで本日未明からおかしくなったってわけです。

[971] 雅歌5-6章 投稿者=真理子 掲示日=2011/12/01(木) 09:19:22 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=son&chapter=5&mode=0
 5-6章は男側、女側が激しく交替しますので、ぼけっと読んでるとあわてます。新共同訳で読むと内容見出しがついてるのでわかりやすいでしょう。もっともばべるの修道会モードで出てくる新共同訳は、内容見出しを一切カットしているので、結局同じですけどね。
 内容見出しがない場合は、注意深く内容を読み取って、男側、女側を判断します。たまに合いの手で合唱が入るのにも注意です。

 5章は冒頭1節が男ですが、あとは女です。ただし9節は女たちの合いの手です。
 1節は「わが妹、わが花嫁よ」と言ってるから男だってわかりますよね。
 でも2節では、戸を叩く愛する者のセリフの中で「わが妹、わが愛する者」って言ってるわけですから女。
 9節は、「女のうちの最も美しい者よ」と呼びかけてるわけだから女じゃない。でも「あなたの愛する者(男)は~」うんぬんと言ってるわけだから男でもない。となると合いの手の合唱ってわけです。
 まあこんな感じで、注意深くじっくり読んで判断してください。
 文学なんですから、ナナメ読みは厳禁。耳でぼけっと聞いてるのもダメ。ちゃんと自分の口で朗読することです。そしたらわかります。
 ともあれ5章はほとんど女なんですが、2節に「眠っていたが心はさめていた」というわけですから、全体が夢の中の話です。裸になっちゃったのにカレが夜這いしてきたとか、帰っちゃったカレを夜の街に追いかけるとか、みんな夢の中の話。はい。女の子は妄想する動物なのです。こういう妄想を見て、私もまた妄想をふくらませるのです。中学生時代はほんとうにここ読んだだけでオナニーできました。

 6章はこんな感じ
  1節:合唱(女たち)
  2-3節:女
  4-9節:男
  10節:合唱
  11-12節:女
 5節を読むと、この女の子はずいぶん目のこわい子みたいですね。中東のほうの人たちって眼光が鋭いですからね。特にムスリマなんか、チャドルから顔だけ出してるんで、余計に目が強調されますから。

[970] 詩編146-148編、エズ・ラ13章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/30(水) 05:15:29 ここから閲覧

 えっと、昨日11/29 14:29に主人のお父様が進行性胆管ガンで逝去、享年78。そんなわけでこれから葬式でいろいろばたばたしますけど、なんとか聖書通読は続けていきます。

●詩編146-148編
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=psa&chapter=146&mode=0
 詩編の146編から最後までは、主をほめたたえる無記名の詩です。
 なんかどれも似ているのでどれがどれだかわけがわからなくなりそうですけど、交読文にも採られている146編だけはちょっと独特ですね。
 それは、地上の権力に頼るな。主こそが頼りなのだ、とうたいあげている点です。
 というわけで、キリスト教と政治権力とのかかわりの問題を、手短に考えてみましょう。

 昔からキリスト教は、特にプロテスタントは、反権力的なところっていうのがありますよね。大学時代にソ連が崩壊、ベルリンの壁がこわれた真理子にとっては、右だの左だのという枠組みはあんまり意味を持たないんですけど、まああえていえば左ってことなんでしょうか。
 真理子が定期講読を始めたキリスト新聞にも、「平和憲法を護れ」「再軍備絶対反対」なんて文字が、題字の左右に羽のはえた天使のように飛び交ってます。
 高校生時代に通っていたとある教会も、礼拝のなかで牧師が「こんどの選挙で革新政党が勝利しますように」なんて祈るの、へきえきしたわ。
 大阪のほうでは、独裁者との悪評名高い橋下くんが、入学式卒業式に日の丸君が代を強制するっていうんで、クリスチャンの先生方が反対なさっておられますね。

 ただ、こういう反権力的な姿勢っていうのが、本当にキリスト教それ自体の中から生まれたものなのかどうかが、真理子には非常に疑わしい。最近非常に左傾化している真理子ではありますが、正直へきえきしています。
 ずばりそれは、キリスト教が日本では少数勢力、絶滅危惧種だから、そういう態度をとっている、あるいはそういう態度をとれるってことなんじゃないかしら。
 もし日本がキリスト教国になって、十字架をあしらった国旗、「神よ天皇を護りたまえ」みたいな帝政ロシア時代みたいな国歌になったら、いま日の丸君が代強制に反対しているクリスチャンの先生方は、確実に橋下くん側につくんだろうなって思うわけです。「けっ、十字架なんかに敬礼できるかよ、キリスト教の支配にハンターイ」って叫ぶはねかえった先生方や生徒さんを弾圧する側に回るのよ。
 そういうほとんどありえない設定はさておくとしても、じゃ日の丸君が代強制に反対しているクリスチャンの先生方は、ご自分の勤務先の学校が甲子園で買ったときに、校旗校歌に反対するような先生や生徒さんが現れたとしたら、それを許せますか? それを許せるなら、クリスチャン先生方のやってる運動はホンモノだと認めてあげてもいいですけどね。
 反権力の姿勢はとてもかっこいいんですけど、それが真の反権力ではなく、単にいまの権力が非キリスト教的であるがゆえに反権力なのだとすれば、キリスト教はいつまでも少数勢力でいなければならないでしょうね。へたに多数派になって権力握っちゃったら、反権力できませんもの。いつまでも「日本のキリスト教人口は1%もない」と嘆いているほうがよろしいようですわ。
 むしろ正教会みたいに、どんなに少数派でも脳天気に「今上陛下のために主に祈らーん」て礼拝で祈ってるところのほうが、正直でいいわって思うんです。
 いや、権力にすりすりする姿勢も必要じゃないかしら。仏教、神道、新宗教の団体は、どこもたいてい政権政党にすりすりしてロビイストとしての存在をアピールしてきたと思うんですけど、日本のキリスト教諸教派はこれをやらないですよね。反権力だけでなくそういうこともやってかないといかんと思うんですけど。

●エズ・ラ13章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezl&chapter=13&mode=0
 第六の幻は、海から風がおこって天の雲とともに飛んでくる人の幻。彼はこの世を破壊し、誰も彼に立ち向かえません。彼こそ主が長いこと準備しておられた救い主であり、終末に地上の悪をすべて滅ぼしてくれるというわけです。
 終末の救いは破壊と表裏一体なのですね。エズ・ラやヨハネ黙示録に見られる終末の光景はとってもこわいんですけど、そういう破壊を経てはじめて救いがもたらされるのですから。黙示文学を読むときは、こわいところをではなく、救いをこそ読み取るようにしましょう。

[969] エステル記1-5章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/29(火) 03:20:35 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=est&chapter=1&mode=0
 私たちはすでに、付加部分のついた外典のエステル記を読んでいます。その付加部分を取り去ったのが正典のエステル記(一部、付加部分のとりはずしに際して違いが出てくるところがありますけどね)。
 ですから付加部分があるかないかで、この話がどう変わってくるか、それを点検することにしましょう。

付加=モルデカイがユダヤ人にふりかかる運命を暗示した夢を見る。モルデカイは王の暗殺をもらう宦官を告発
正典1章=アハシュエロス(クセルクセス)王の命令に背いたワシテ妃をしりぞける
正典2章=かわりにユダヤ女のエステルが王宮に入る。エステルの義父モルデカイは王の暗殺をねらう守衛を告発
正典3章=王のお気に入りの臣下ハマンはモルデカイを憎み、ユダヤ人抹殺をたくらむ。
付加(3章の途中)=王の名によるユダヤ人抹殺のための布告文
正典4章=モルデカイとエステルは王への工作を計画
付加=モルデカイとエステルの祈り。王の部屋に入るシーンの迫真の描写!
正典5章=エステルは強引に王の部屋に入り、王の心を得ることに成功

 こうしてみると、正典だけではただのあらすじになってしまうところを、布告文を挿入したり、祈りのシーンや王の部屋に向かうシーンを迫真の描写!?で描くことで、外典のほうはより面白い話になっていることがわかります。なお、冒頭の夢に対応した謎ときが外典では最後に入っています。最初と最後に夢の話が出てきて、全体の統一感を出しているわけですね。
 さらに、正典には神だの主だのという言葉が一つも出て来ない(検索してみてください)のですが、外典の付加部分には祈りのシーンだののところでいろいろ出てきます。そのことによって、外典はより宗教文書らしくなっている。逆に正典は宗教文書っぽくないということになります。
 まあ、プロテスタントの方々も、エステル記は付加部分のついた外典をお読みになったほうがよろしいんじゃないかしら。どーせエステル記のような激しい復讐譚は、教会の説教じゃ使わないでしょ?

[968] 申命記29-31章、エズ・ラ12章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/28(月) 10:17:45 ここから閲覧

●申命記29-31章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=deu&chapter=29&mode=0
 29章からは律法そのものというより、約束の地を前にして、いままでのしめくくりとこれから約束の地に入るにあたっての心がまえを述べている、律法全体のまとめのような部分になります。
 イスラエルの民に律法が与えられ「ちゃんと守れよ」というわけですが、29章では、守れば幸せになるというより、守らなければ主ののろいを受けるぞという脅し文句になっています。「守れば幸せ」より「破れば罰」のほうがざっと三倍ほどあった前章28章からの流れですね。
 そして「守れば幸せ」のほうは30章に書かれています。ここで強調されているのは、申30:11「この戒めは、難しいものではなく、遠いものではない」。遠い他人事ではなく、自分のことなんだよ。「この言葉はあなたに、はなはだ近くあってあなたの口にあり、またあなたの心にあるから、あなたはこれを行うことができる」申30:14んだから、ちゃんと守りなさいよと教えています。
 そして31章。モーセは年老いて(120歳!)、約束の地に入れないと神様から言い渡されています。そして後継者のヨシュアにバトンタッチをします。

●エズ・ラ12章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezl&chapter=12&mode=0
 前章の第五の幻の解説。
 ダニエルが幻で見た第四の王国というのは、ダニ7:7にあるものです。ダニエル書は前半がおとぎ話のような突っ込み所満載の迫害物語だったのですが、後半は黙示録になります。この話は[814]で書きました(たいしたことは書いてないので見なくていいです)。
 わしは、本文にははっきり書かれていませんが、ローマ帝国です。たとえばエズ・ラ12:23の「三人の王」というのは、フラウィウス朝(AD69-96)の三人の皇帝のことなので、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B9%E6%9C%9D
ずいぶん新しい時代のことを書いているのです。もう時代は新約の時代です。
 ローマ帝国というとすぐにキリスト教の弾圧を思い浮かべますが、弾圧されたのはキリスト教だけではなくユダヤ人もユダヤ戦争(AD66-73)の敗戦により苦難の状況にあったのであり、ローマの滅亡とユダヤ人の復興をこのような黙示録の形で期待しているのです。

[967] サーバーダウン 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/28(月) 09:45:05 ここから閲覧

本日1:30ごろから6:30ごろまでサーバーがダウンしておりました。
なお、障害のおしらせにつきましては、
http://home.b00.itscom.net/manduuka/
でおしらせしております。当サイトの中に設置したのでは意味がありませんのでドメインが違いますが、もしお気に入りに登録していただけるのでしたら登録してみてください。
また、当サイトと同じサーバーを使っているサイトを閲覧してみて、そちらもダメのようでしたら、サーバーダウンであると思ってください。具体的には、エロサイトで申し訳ありませんが、
http://www.w-paper.com/chemie/home.html ちょっとHなちぇみーのお部屋
がまったく同じサーバーを使っておりますので、こちらもダメならば、ああサーバーダウンだと思ってください。
私たち夫婦がいきなり交通事故で死亡ということでもない限り、このサイトは存続させます。かりに休止しなければならない事態に追い込まれた場合は事前におしらせしますので、サイトが閲覧できないから閉鎖されたのだとお考えにならず、単なるサーバーの障害だと思ってください。

[966] 2ヨハ(全) 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/27(日) 10:04:59 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=2jo&chapter=1&mode=0
 1ヨハがキリスト教のエッセンスが凝縮されたような手紙だったぶん、2ヨハ、3ヨハはカスです。もうエッセンスも出尽くしちゃったんでしょうか。とばしてもいいほどなんですが、一応読みます。
 それでも6節あたりまではキリスト教のエッセンスといいますか、しぼりかすが出てますね。とっても美しい言葉が続きます。
 が、7節は口汚い内ゲバになってしまう。
 これ、7節以下はホチキスで止めといたほうがいいんじゃないかしら。あ、でもたいていの聖書では、2ヨハって1-2ページにおさまってしまうんで、ホチキスで止めたらほかも読めなくなっちゃうわ。
 A「真理子は純粋だけどエロい」、B「真理子はエロいけど純粋だ」なら、Aは批判でBはほめ言葉ですよね。世の中、後のもののほうが印象に残るのです。だからおやめになった中日の落合監督なんか、現役時代はシーズン前半はちんたら、後半に数字をあげてたじゃないですか。これが逆だったら来年の年俸が落ちるんです。
 そんなわけで2ヨハは前半と後半が入れ替わっていれば、まだよかったように思います。

[965] 使徒23-24章、エズ・ラ11章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/26(土) 12:13:13 ここから閲覧

●使徒23-24章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=act&chapter=23&mode=0
 パウロは議会で、彼を告発したユダヤ人たちと勇敢に戦いますが、一部の過激派がパウロを何としても殺せといきまきます。そこでパウロの身柄を拘束しているローマ兵たちは、エルサレムではなくカイザリヤのローマ総督のもとに護送します。
 途中のアンテパトリスを経てカイザリヤに至る行程は、土地勘がないとポカンとしますが、
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/1f/JBS1956-B_map11.png
を見ていただければおわかりのとおり、かなり遠いです。空港のあるテルアビブまでの倍くらい。エルサレムからアンテパトリスまでが56キロ、そこからカイザリアまで35キロらしいです。東海道線でいえば、夜の間にアンテパトリスまでというのは、東京から藤沢くらい行く感じ。カイザリアまでは東京から真鶴の手前ぐらいまでです。昔の旅人は日本橋を出発して第一日目の宿泊は戸塚です。私はこの行程を歩いたことありますが、保土ヶ谷でギブアップしましたからね。夜の間にアンテパトリスまでというのは、戸塚よりずっとずっと先の藤沢まで行くわけですから、かなり飛ばしましたね。
 さて、総督のペリクスは、この裁判がらちがあかないので引き伸ばしにかかります。そうすればユダヤ人も納得するしパウロからもカネをもらえるので、二年間ものんびりした監禁状態にしておきます。
http://www.asahi-net.or.jp/~zm4m-ootk/pauronenpyou.html
の年表によればAD56-58。
 なお、世にいう「獄中書簡」のうちパウロの真筆と思われるフィリピとフィレモンは、このときではなく、もっと前のエペソ(エフェソ)での二年間(53-55)で書かれたと言われています。エペソでの二年間といえば、使徒行伝では19章に相当します。あれ、パウロってエペソで投獄されてたんでしたっけ? 実は使徒行伝にはこのことが書かれていないんですね。すると、福音派のように聖書無謬説をとる人は、パウロが投獄されていたのはこのカイザリアと後のローマ。カイザリアの二年間はのんびりした監禁状態なんで、ローマで書いたんだろうということにしています。新聖書注解ではそうです。しかし福音派以外の学者は、この時期に使徒行伝に書かれていない投獄があったのだろうとして、獄中書簡の執筆時期をエペソとするのが普通です。

●エズ・ラ11章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezl&chapter=11&mode=0
 第五の幻の実質的開始が11章冒頭です。
 わしとししが出てくるのですが、わしには翼が12、頭が3つもあり、いままでのと違ってあんまりリアリティーがないですね。まあ、幻にリアリティーを求めるのもヘンな話ですけど。これは12章にあるように、わしがローマ、ししがメシアの象徴で、いままで起きたこととこれから起きることをこういう形で説明しているのです。

[964] 黙示録7-11章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/25(金) 06:11:44 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=rev&chapter=7&mode=0
 6章から、七つの封印→七つのラッパ→七人の御使い、という構成。本日のところは七つのラッパでおしまいです。七つ目になったからこれで終わりかと思いきやまた新たな七つが始まるというわけで、わざわいが際限もなく続く感じを与えます。最初から二十一と言われるよりはるかにしんどいですね。
 この間、たとえば6章のように救いの話もあるんですけど、わざわいの話のほうがはるかに迫力があるので圧倒されてしまい、まるで、黙示録はわざわいの話ばっかりで救いが全然ないかのようなイメージが与えられます。
 そのわざわいの話も、大人になってしまえば、いろいろ突っ込みどころが満載で楽しめるのですが、子どものころはとてもこわく感じます。誰でしたっけ、とある作家が、子どものころにお寺にかかっていた地獄絵図を教材に「悪いことをしたらこうなる」と教えられてそれがとてもこわかったという話を書いていましたけど、子どもにこういう脅しをかけると薬が効きすぎてしまうことがあります。黙示録はそういう意味ではPG-12ないしR-15ですね。子どもに見せるときは取り扱い注意です。
 私も中学生のときに読んで、とてもこわかったです。
 しかもメシアンの『世の終わりのための四重奏曲』という、まさに本日の部分に着想された曲を聞きながら読んだので、不気味なサウンドとあいまってとてもこわかったです。この曲はフランスの作曲家メシアンが捕虜として収容所にいたときに作曲、演奏された曲で、ピアノ、クラリネット、ヴァイオリン、チェロという風変わりな楽器は、たまたまこの楽器の奏者がそろっていたから選ばれたというもの。冒頭はこういう曲。

(http://www.youtube.com/watch?v=hybAbTbh5wY)
本日の七つのラッパに相当するところはここ。

(http://www.youtube.com/watch?v=TmCbWBZDk4k)
 収容所にいる人にとってはこういうのが希望だったのでしょうけど、平時に聞くとなんかこわい。
 だから黙示録ってそうなんですよ。この本は非常時には希望なんですけど平時にはこわいんです。たぶん非常時は現実がはるかに悲惨なんでわざわいの話より救いの話が光って見えるんでしょうね。平時はその逆。やっぱり平時は黙示録は取り扱い注意よ。
 なお、三番目のラッパのニガヨモギの話(黙8:11)はアモス書のところで書きました([865])のでごらんください。ロシア語聖書ではここがチェルノブイリとなっているという話は俗説です。もっとも、アダムとイブの「りんご」の話と同様に、チェルノブイリの事故のときにみんなが真っ先に思い出したのがこれだという点では、間違いじゃないんですけどね。

[963] 雅歌3-4章、エズ・ラ10章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/24(木) 11:21:00 ここから閲覧

●雅歌3-4章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=son&chapter=3&mode=0
 やっぱり雅歌の作者は女かしら。でなければ、女のツボをよく心得た方のようですね。
 第3章の1-5節。恋人を捜し求めて夜の街をさまよう女の話は、女の私にはとてもせつなくて、胸がジーンときます(うん、別のところもジーンとくるよ)。なお、6-11節はソロモンの婚礼の行列への賛歌で、全然違う話です。
 ところが第4章の、男が愛する女をたたえる歌は、なんかすべて外してる気がする。
 いや、私だけでなく主人にも聞いてみたんですが、やっぱりそう。
 目が鳩で、髪がやぎの群れで、歯が羊の群れで、首がやぐらで、胸が鹿なんて化け物だぁ。
 合格したのは、唇が赤い糸で、ほおがざくろってところ、それから舌に蜜があるとか、衣の香りの話とか(においフェチなんです)。あとは、泉ってあそこか?ですって。そうかもしれないわね。
 やっぱり胸は「ごむまり」(萩原朔太郎『恋を恋する人』@月に吠える)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000067/card859.html
じゃなきゃダメだそうです。(でも私、そんな胸ないけど)
 どうもこういう比喩の感覚っていうのは、時代や国境を越えるのが難しいみたいで、ぴんと来ないですよね。

●エズ・ラ10章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezl&chapter=10&mode=0
 話の切り方が悪いですね。
 例の、三十年間たってやっと子宝に恵まれた女の話の続きです。
 せっかく結婚したのに、息子はその夜に死んでしまったと、この母は嘆きます。
 それに対してエズラが、そんな嘆きよりも国が滅んだ嘆きのほうが大きいと叱ると、女は消えて天使ウリエルが出てきて、いまの女の話はイスラエルの歴史の話だと解説をします。
 ここで第四の幻の話はおしまい。60節(実質的に次章)からが第五の幻です。

[962] 詩編143-145編 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/23(水) 07:12:18 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=psa&chapter=143&mode=0
 今回の3編はどれも素直な祈りで、安心して読めますね。
 ……と思ったら、143編の最後は「敵を断ち、あだをことごとく滅ぼせ」ですか。困ったわ。でもこのくらいは許してあげないと、詩編150編は9割がた不合格ですけどね。
 まあ、こんなことにめくじらをたてるのは、詩編の正しい読み方じゃないんでしょう。し編のほとんどはダビデの詩ということになっている。ダビデは王様で、戦争が本職なんだから、どうしても戦争の話になってしまう。敵を滅ぼせうんぬんというのは単なる比喩であり、現代人は、仕事の上での困難を打開してください程度に読みかえればいいのでしょう。

[961] ネヘ10-13章、エズ・ラ9章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/22(火) 10:58:09 ここから閲覧

●ネヘ10-13章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=neh&chapter=10&mode=0
 エズラ記の最後は、異民族と結婚したカップルの強制離婚の話という、われわれ異民族にとってはなんとも後味の悪い話で終わりました。
 じゃネヘミヤ記はというと、やっぱりそうなんですね(13章)。
 しかもこんどは、ソロモンの例をひきあいに出して、なぜ異民族との結婚がいけないのかを語る。つまり、異民族の女たちは別の宗教を持ち込んできて罪を犯させるからというのですね。
 特にアンモン人、モアブ人はダメだという(ネヘ13:1)。この規定自体は申23:4に書いてあり、すでに読んだところです。私が[953]で私生児の話をしたときです。私生児の件の次に書いてありました。
 どうしてアンモン人とモアブ人だけ特別なのかというと、[858]に書きましたように、民数記22-23章で、バラムという占い師をやとったからだというのです。でもこの件は失敗し、バラムは逆にイスラエルを祝福してしまいます。そういう結末もネヘミヤは知ってるのに(ネヘ13:2)、律法を忠実に守って強制離婚をさせます。
 ヘンな話よね。異民族との結婚を禁じるというなら、バラムの話ではなくその次の話をすべきなのです。[869]にも書いたように、民数記25章で、イスラエルの民がモアブの娘たちとエッチなことをしはじめて、異教の神々を拝んだ話をすればいいのに。自分たちの悪を言わず人のことばかりいうのは、フェアじゃありませんわ。
 バビロン捕囚を経て、諸国の民と同化して消えてなくなっていてもおかしくなかったユダヤ人が、民族として団結するためには、このようにして異民族との結婚を厳しく禁じなければならなかった。この時代の特殊事情と読みたいところです。

●エズ・ラ9章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezl&chapter=9&mode=0
 救われる者は少数だという天使にエズラが反論する話は25節まででおしまい。
 ここからは新たな話(第四の幻)になります。
 エズラは、祖先たちは律法を守らなかったけれど、律法は永遠で滅びることはない、と演説のような祈りをします。すると、三十年間たってやっと子宝に恵まれた女が現れます。この話は次章に続きます。

[960] 申命記26-28章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/21(月) 09:59:24 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=deu&chapter=26&mode=0
 27章の「~者はのろわれる。民はみなアーメンと言わなければならない」のリフレインは、要するに「くたばっちまえ、アーメン」ね。

(http://www.youtube.com/watch?v=cd6g-kdxOvI)
 この曲は当時小学校4年生だった私に衝撃を与えました。キリスト教っていうのはこういう宗教なんだって、いまだに私の思考の根底を規定しているかもしれないわ。SUGARは実質的にこの1曲だけ飛ばして消えてっちゃいましたが、キリスト教の本質が愛なんかじゃなく「くたばっちまえ」なんだと鋭くえぐった功績で、宗教学史に不滅の功績を残しましたわ。
 28章は要は「律法を守るといいことがある、破ると悪いことがある」ですけど、悪いほうが2倍くらい分量がありますね。これでもかこれでもかと脅してくるのは迫力というかすごみがありますね。
 私の育った創価学会は、日本の仏教の中でも一番過激な日蓮宗の、さらにそのまた過激なカルト教団・日蓮正宗からスタートしてまして、ここはきわめて一神教的、キリスト教的な性格のあるところです。日蓮は絵心がなかったせいで、文字をずらずら書いた曼荼羅を本尊にして拝ませているんですが、右肩には「若脳乱者頭破七分」(この宗教を誹謗する奴は頭が七つに割れるぞ)、左肩には「有供養者福過十号」(供養する人は福がいっぱいくるぞ)という申命記28章的な標語が書かれています。いま創価の連中は日蓮正宗と別れたため、同じく日蓮正宗から離脱した栃木の浄園寺に安置されている、江戸時代の日寛という管長の書いた曼荼羅をコピーして拝んでいます。この曼荼羅は草書体なのでこの二つの標語が読みにくいですけど、でもハッキリ書かれています。
 まあ、こういう罰(ばち)論を強調する宗教ははっきりいってカルトよね。信者の自由な退会を阻止しているんですもの。申命記28章もカルトっぽいわ。
 ちなみに日蓮の真筆の曼荼羅は100幅ほどあるんですけど、この二つの標語はほとんど書かれていない。これを書いてるのは日蓮正宗・創価学会のものだけらしいです。

[959] 1ヨハ4-5章、エズ・ラ8章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/20(日) 10:58:30 ここから閲覧

●1ヨハ4-5章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=1jo&chapter=4&mode=0
 神は愛であると強調し、最後は「偶像を避けなさい」で終わる1ヨハは、前回も書いたようにまさにキリスト教のエッセンスが凝縮されたような手紙。分厚い聖書を読むのがめんどくさければ、とりあえず1ヨハだけ読んでおけば模範的なクリスチャンになれそうな、便利な本です。
 一昨日、「神」が「紙」に聞こえるといって批判した讃美歌87B「恵みの光は」
http://www.geocities.jp/asakusa_kyokai/song87.html
は、一応一ヨハ4:8に基づいているようです。

 聖書のデータをパソコンで読める「J-ばいぶる」は、Accessのデータベース形式になっているのですが、一番最後のデータがGod is love.になっています。こういうふうに一番最後におしまいのしるしを入れておくというのはよくあることで、当ばべるばいぶるのデータはend of file.という味もそっけもない文を入れています。こういうのを入れておくとプログラミングが楽になるんです。たとえばマタイ福音書を全部処理しろなんていうときには、「書名がmatの間はこれこれをやれ」でいいんですが、一番おしまいの書(ばべるばいぶるの場合はモルモン経のモロナイ書になります)の場合「書名がmniの間は……」とすると、ファイルのおしまいになってエラーが起こります。そこで「ファイルがおしまいにならず、かつ書名がmniの間」というような条件判定が必要になる。おしまいに無関係なデータを1行入れておけば、「ファイルがおしまいにならず」という条件が不要になるのでラクなんです。

●エズ・ラ8章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezl&chapter=8&mode=0
 ほんの少しの人しか救われないことをよしとする天使=神にエズラは反論します。罪を犯した人のことではなく苦しみながら律法を守った人に目をとめてくれ、悪人を許してこそ神の憐れみ深さなのではないか、というわけです。種をまいたって全部発芽するわけじゃないという神に対して、人間を種扱いするのかとエズラが反論するあたりは傑作ですね。

[958] 使徒21-22章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/19(土) 08:25:42 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=act&chapter=21&mode=0
 第三次宣教旅行の続き。例によって
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fb/JBS1956-B_map12.png
を頼りにたどりましょう。
 いまはアジア州のエーゲ海に面したミレト(ミレトス)にいるのでした。
 そこから小島のコスに渡り、さらに南側の島のロドス(これがロードス島だ、踊ってみよという、マルクスの引用(*)で有名な島です)、また大陸のパタラ、ここからピニケ(フェニキア)地方への船に乗り、クプロ(キプロス)を横目で見ながらツロ(ティルス)へ。ここから陸路でトレマイ(プトレマイス)、カイザリヤ経由でエルサレム(17節)というわけですが、註解書などでは使21:26で旅行がおしまいとするのが普通です。
(*) http://blog.goo.ne.jp/motoyama_2006/e/d81392c6d9d4772bea7cc6640dcabfa8

 ツロで、カイザリヤで、人々はパウロにエルサレムへ行かないように引き止めるのですが、パウロの決意は固く、エルサレムに向かいます。
 なお、21章は冒頭から「わたしたち」とあります。このように地の文に1人称が出てくるのは、1章冒頭を除けば、使16:10-17使20:5-15使21:1-18使27使28:1-16で、まるで著者のルカが同行しているかのような書き方になっています。本当に同行していたのかもしれませんし、フェイクかもしれません。
 さて、エルサレムに到着したパウロは、案の定ユダヤ人たちの迫害を受けます。混乱を収拾しようとしたローマ兵にパウロは身柄を拘束されますが、パウロは民衆にヘブライ語(実際にはアラム語でしょう)で演説をします。この演説を聴いてますます民衆は激昂、ローマ兵はパウロをむちで打とうとしますが、パウロは自分がローマ市民であることを説明し、ローマ兵のパウロへの待遇が変わります。

 で、この演説中の興味深い点として、パウロが自分の召命体験を語るところで、

使22:9
わたしと一緒にいた者たちは、その光は見たが、わたしに語りかけたかたの声は聞かなかった。

と言うのですが、これが

使9:7
サウロの同行者たちは物も言えずに立っていて、声だけは聞えたが、だれも見えなかった。

と矛盾するのですね。これじゃまるきり逆じゃありませんか。また、

使26:14
わたしたちはみな地に倒れましたが、その時ヘブル語でわたしにこう呼びかける声を聞きました、『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげのあるむちをければ、傷を負うだけである』。

を見ると、声を聞いたのがサウロ(パウロ)だけととれますので、これも矛盾かもしれません。

 こういう矛盾に対して各註解書がどういう説明をしているか、それを点検するのが私のひそやかな楽しみなんですが、私は逆に、こういう矛盾があるからこそ、これはすべてパウロがしゃべったことそのまんまなんじゃないかというリアリティを感じるんです。あまりにつじつまがあってるとかえって作為を感じます。人間、以前のことはそんなに覚えていないものですし、そのときどきの都合や心の興奮状態に応じて微妙に違ったことを言うのが普通だと思いますから。ウソというのではないにせよ、人は自分のことを語るのも、いろいろな虚構を弄するものです。

 ちなみにNIVおよび新改訳は、
使9:7 The men traveling with Saul stood there speechless; they heard the sound but did not see anyone.
同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。
使22:9 My companions saw the light, but they did not understand the voice of him who was speaking to me.
私といっしょにいた者たちは、その光は見たのですが、私に語っている方の声は聞き分けられませんでした。

のように、矛盾を解決すべく、使9:7のほうでは光を見えなかったんではなくお互いを見えなかったんだとし、使22:9のほうでは声が聞こえなかったのではなく、聞き分けられなかった、聞いて理解できなかったんだと、小細工を弄しています。NIVや新改訳のような聖書無謬説では、こういう矛盾は堪えがたいのだと思いますが、パウロ自身の混乱ないし意図的な改変だとすれば、こういう小細工をすべきではないと思います。

[957] 黙示録1-6章、エズ・ラ7章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/18(金) 10:37:21 ここから閲覧

●黙示録1-6章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=rev&chapter=1&mode=0
 旧約聖書の預言書を読んできた金曜日、ネタがすべて終わってしまいましたので、残りの5回で新約聖書のヨハネ黙示録を読みます。
 著者は、その昔は使徒ヨハネだとされてきましたが、もちろん違います。内容的にはキリスト教会が広くローマ帝国から迫害されていますが、キリスト教がローマ帝国の当局から迫害されるようになったのはネロ帝(在位54-68)以後です。使徒行伝に書かれている迫害はユダヤ教側からのものですからね。迫害が厳しかったドミティアヌス帝(81-96)のころの執筆だと考えられております。
 だいたいヨハネの口癖は、「昔から神を見た者は一人もいない」ヨハ1:18 一ヨハ4:12ですけど、その割に黙示録の著者は神を見てるようですからね。
 で、黙示録の著者が見た神のお姿は4章にいろいろ書いてありますが、黙4:7には4つの生き物があり、しし、雄牛、人、わし。これはエゼ1:10で出てきた神様の姿と同じです。ここから、四福音書の記者を描くときに「マタイ=人、マルコ=しし、ルカ=牛、ヨハネ=わし」のイメージで描く習慣ができています。
 さて、黙示録にはいろいろ怖い話がいっぱい出てくるのですが、そういうのを書いていると長くなるので、ここは変化球で、今日のところをネタにした美しい曲を聴きましょう。
 F.シューベルトの『ドイツ・ミサ曲』D872の5曲目、Zum Sanctus。
http://ml.naxos.jp/track/166416
の19番目で試聴できます(会員登録しないと最初の30秒だけ)。歌詞は次のとおりです。

Heilig, heilig, heilig, heilig ist der Herr! 聖なるかな×4、主は!
Heilig, heilig, heilig, heilig ist nur er! 聖なるかな×4、彼こそは!
Er, der nie begonnen, 彼にははじめがなく、
Er, der immer war, 彼はいつもおられた。
Ewig ist und waltet, 永遠にいらっしゃり、統治なさり、
Sein wird immerdar. いつまでもおられる。

Heilig, heilig, heilig, heilig ist der Herr! 聖なるかな×4、主は!
Heilig, heilig, heilig, heilig ist nur er! 聖なるかな×4、彼こそは!
Allmacht, Wunder, Liebe, 全能、驚き、愛、
Alles ringsumher! すべてが彼をとりかこむ。
Heilig, heilig, heilig, heilig ist der Herr! 聖なるかな×4、主は!

 これはもちろん黙4:8からとられた歌詞ですね。
 「あ、聞いたことがあるぞ」という人は、プロテスタント教会に行ったことのある人でしょう。毎回の礼拝のほとんどで歌われる讃美歌546がそれですね。

(http://www.youtube.com/watch?v=7BVxxWnGd6M)
 シューベルトはカトリックなのになぜかプロテスタント教会の讃美歌になってるのが面白いです。カトリックのSanctusだと2音節、日本語の「聖なるかな」は6音節で、そのまま歌詞をつけるのが困難ですけど、シューベルトのドイツ・ミサ曲だとHeiligをたくさん繰り返しているので歌詞がつけやすかったんでしょうか。

 ところで、讃美歌546の歌詞の「今いまし」っていうところ、中学生のときに聞いて以来、私にはいまだに「いまいまし」って聞こえるんですけど。ヤハウェくんがいかにいまいましい神かってことですね。これは作詞者がタコなんです。「今」っていうのはアクセントが最初にあるんだから、上昇音形のところに使うとおかしいんです。
 同様に、讃美歌87B「恵みの光は」
http://www.geocities.jp/asakusa_kyokai/song87.html
は、登場するすべての「神」が上昇音形のところに割り当てられているので「紙」のように聞こえます。これも中学生のときに聞いて以来、私はいまだに違和感があります。
 作詞家っていうのはすぐれた音楽家でもなければいけません。プロの作詞家なら絶対にこういうことはせず、メロディーに矛盾しないアクセントの言葉を持ってくるものです。昔の歌謡曲は曲先(きょくせん)っていって先に曲を作ってあとから歌詞をあてはめたんで、音楽がしっかりして、歌いやすいものだった。中国語のポップスもそういうのが多いです。よく中国語は歌にすると声調が消えて理解不能になるっていいますけど、すぐれた作詞家だと、うまーくメロディーと矛盾しない声調の文字をあてはめるので、そんなことないんですね。考えてみれば中国の作詞法って宋代の詞なんかからそうですからね。一字一字全部平仄が決まってる。
 讃美歌は当然ながら曲先なのに、こういう問題のある歌が多いっていうのは困ったものです。

●エズ・ラ7章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezl&chapter=7&mode=0
 怒涛の139節! 長いですね。でもその割に内容はあんまり多くないので、すっと読めます。訳は大変でしたけどね。
 天使ウリエルは、川を通って海に出る例と、狭い道を通って都に行く例をあげて、救いの前には苦難があることを説きます。そしてそのさばきの日の様子をおどろおどろしく教えます。
 これに対してエズラは、それじゃほんの少しの人しか救われないと反論しますが、天使は、「貴重なものは少数なのだ」と、貴金属の例をあげて教えます。
 こんな感じで、死んだらどうなるかというのを段階別に示したり、人間は身代わりに病気になったりご飯を食べたりできないように、さばきのときも人のための祈りは通用しないと言ったり、いろんな話が出てきて面白いです。が、ヨハネ黙示録と違って、こっちのエズラ黙示録は、エズラがけっこう神に反論したりしているところで、単に受動的じゃないところが面白いんです。

[956] 雅歌1-2章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/17(木) 10:50:12 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=son&chapter=1&mode=0
 雅歌は、ユダヤ教では過越祭第八日目に読むための文書として、特定の日に読むための五つの文書・メギロート(ルツ記、雅歌、コヘレト、哀歌、エステル記)の中に入っています。
 ヘブライ語ではשִׁיר הַשִּׁירִים(シェール・ハシェリーム)という雅1:1の冒頭二語がそのままタイトルとされています。歌の中の歌ということで、英訳聖書のSong of Songsというのはこれをそのまま訳したもの。日本では漢文訳聖書のタイトルの「雅歌」が定着しています。
 雅1:1はそのあとに、אֲשֶׁר לִשְׁלֹמֹה(アシェル・レシェロモ。ソロモンによるところの)という語があるので、昔から著者はソロモンだとされてきました。いくらソロモンが賢い王様だってこんなエッチな詩は作れないでしょうし、時代的にももっと後の時代だと考える説が多いです(ソロモン時代という説もありますが)が、いずれにせよ、ソロモン作と考えられたことで、こんなエッチな詩が堂々と正典の仲間入りをしているわけです。顔をしかめる人も多い一方で熱烈なファンも多く、紀元2世紀のユダヤ教の指導者ラビ・アキバも大ファンで、彼の鶴の一声で最終的に正典入りしたとも言われています。
 私ももちろん雅歌は大好きです。教会に行って、牧師の説教がつまんなかったりすると、必ずここを開けて読んでいました。中学高校生時代は雅歌を読んでオナニーしたこともあるほどです。いくらエロくても男性にとってはオナニーのおかずにはならないと思いますが、女性にはけっこう妄想をかきたたせてくれるんですよ。作者は女性のツボを心得ているようです。
 キリスト教のほうでも雅歌の扱いには困って、キリストが花婿で教会が花嫁だとか、いろんな比喩説を持ち上げておりますが、実はけっこう雅歌ってマリア関係の聖歌のネタになってるんですよ。たとえばこれ。

(http://www.youtube.com/watch?v=XUqdpFYTatI)
 モンテヴェルディの『聖母マリアの夕べの祈り』の第3曲。ちょうど今日の部分ですが、歌詞は聖書どおりではありません。次のとおりです。
Nigra sum sed formosa filia Jerusalem エルサレムの娘よ、私は肌は黒いけど美しい
Ideo dilexit me rex, 王は私を愛して
et introduxit in cubiculum suum,et dixit nihi ご自分の部屋に呼んでこう言われました
Surge,amica mea,et veni わたしの恋しい人よ、立ってこちらにおいで、
Jam hiems transiit,imber abiit et recessit, もはや冬は去り、嵐は遠ざかった
flores apparuerunt in terra nostra, 地上に花は咲きみだれ
tempus putationis advenit 収穫の時が訪れる
 マリア像もときどき真っ黒い肌のものがあるらしいですが、雅1:5の「私は黒い」に基づいているんです。

[955] 詩編140-142編、エズ・ラ6章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/16(水) 11:46:03 ここから閲覧

●詩編140-142編
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=psa&chapter=140&mode=0
 今日の部分はなんか盲点になってますね。交読文にも入ってないし、讃美歌も作られてないみたいです。
 しかし、それは140-142編がつまらないということを意味しません。これら3編がどれも、敵に攻められるなど危機に陥った人が神に助けを求める祈りだという、内容的な理由じゃないでしょうか。よっぽどキリスト教が弾圧されているとかいう危機的状況でない限り、みんなで唱和する内容じゃないですよね。
 でも、個々人の人生ではこんなことよくあるでしょう。むしろ、人が神を一番頼りにしたい状況じゃないでしょうか。ふつうの人は平和なとき、順風満帆なときは、神様のことなんか忘れちゃいますからね。
 その意味では、ここにあげた詩はどれも切実で、何か危機に陥ったときには開けて読んでみるといいでしょう。

●エズ・ラ6章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezl&chapter=6&mode=0
 エズラ黙示録ことエズラ記・ラテン語。第二の幻(エズ・ラ5:21から)の途中です。
 この世は老年期を迎えており、終末は近いのでした。
 6章に入ると天使ウリエルは、神がこの世を作った最初から終末を考えていたと明かします。ではこの世がいつ終わり、次がいつからはじまるのかというエズラの問いに、ウリエルは、世の終わりと世のはじめは、ヤコブがエサウのかかとをつかんでいたように、連続していると明かします。
 キリスト教に輪廻説をもちこもうと画策している私は、ここを根拠に、終末は次のステージの始まりで、円環のように時は繰り返していくのだと主張します。
 そして終末のこわーい話をして第二の幻は34節でおしまい。ふたたび七日間の断食を経て、第三の幻が始まります。これはエズ・ラ9:25までなのでけっこう長いです。
 とはいえ幻本体は7章以降。6章にはエズラの長々とした質問しかありません。エズラは天地創造の過程をひきあいに出しながら、この世は人間のために創造されたのに、どうして人間は世を相続できないのかと、神様(実際には天使ウリエルですが)に詰め寄ります。

[954] ネヘミヤ記5-9章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/15(火) 10:40:49 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=neh&chapter=5&mode=0
 時代としては前回同様にアルタシャスタ(アルタクセルクセス)王の20年で、BC445年ということになります。
 8章は、「エズラ記ダイジェスト」ことエズ・ギの9章(最終章)で読みました。一部名前の異同や数字の違いがありますが基本的に同じです。
 ところで、正典エズラ記とネヘミヤ記を単純に「エズラ記→ネヘミヤ記」という時代順だと思ってしまうと混乱するので整理します。
 実際には、
  A.神殿の建設(BC515完成)
  B.城壁の建設
  C.エズラの帰還と律法の復興(BC445)
  D.異民族強制離婚
という順序になっているのです。それを、正典エズラ記およびエズ・ギはA→C、ネヘミヤ記はB→Cのように記しているのです。
 今日のところ(8章)で「あれ、またエズラが出てきて律法を朗読してるぞ。この話は前に出てこなかったっけ」と混乱すると思いますが、このように考えればいいと思います。
 さらに私は、実はAとBも同時進行だったと思ってます。城壁も作らないうちにごりっぱな神殿を作るなんておかしいですからね。

 さて、5-7章はネヘミヤの独白体なので「わたし」とあったらネヘミヤです。苦しんでいる民のために利子を禁止したり、抵当にとられた畑を返させたり、奮闘しています。
 7章の帰還者リストはエズラ記2章と同じです。
 8章はすでに読んだエズ・ギ9章とほとんど同じ。
 9章はエズラがイスラエルの歴史を振り返りながら祈っています。そういえばエズラ記9章もそうでしたし、ダニエル書9章もそんな感じです。みんな9章なのは偶然の一致ですが面白い現象ですね。

[953] 申命記23-25章、エズ・ラ5章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/14(月) 12:07:12 ここから閲覧

●申命記23-25章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=deu&chapter=23&mode=0
 前回の「処女の証拠」に続き、今回のも私にとっては聞き捨てならないトンデモ律法なんだわ。
 そんなわけでほかを全部無視して次の一点だけ書きます。
 それは申23:3(旧2節)「私生児は主の会衆に加わってはならない。その子孫は十代までも主の会衆に加わってはならない。」というやつ。
 まず、冒頭の「私生児」(口語訳)は、新改訳だと「不倫の子」、新共同訳だと「混血の人」で、全然違うのにびっくりします。この混乱の原因は原語のמַמְזֵר(マムゼル)が多義語であるせい。Davidsonだと(珍しくこのままの形で載ってます)bastard; according to the Mishna(Jebamoth) the offspring if adultery or incest; De.23.3; Zec.9.6. Etymo. uncertainなんて書いてますね。Geseniusは(面倒くさいので引用しませんがp.480左下です)さらに比喩としてforeignerというのをあげています。申命記では「私生児」と訳している口語訳聖書もゼカ9:6では「混血の民」と訳していたりするので、どういう文脈であるか、とくにこの律法が定められた時代背景を考慮しないと訳せない、やっかいな単語です。
 いずれにせよ、時代の社会的通念上、望ましくない生まれ方をした子は、会衆に加われない、と考えるのが一番無難ですね。
 エズラ記・ネヘミヤ記時代みたいに異邦人との結婚が禁じられて強制離婚させられた時代なら「混血の人」でもいいのかもしれませんし、神殿娼婦、神殿男娼がいた時代なら、エッチの結果としてできた子つまり私生児ということになるのかもしれませんしね。

 さて、私の生まれた家にはいろいろ恥ずかしい事情がございまして、私は両親を憎みながら育つことになりました。
 法律的には私は何の問題もなく両親の一人娘ってことになるんですが、私の母は不倫をしていました。人づてに聞いたところ、相手は住んでいた地区の創価学会の幹部みたいです。父も女を作って家にあまりよりつかず、たまに会うと事あるごとに私に「お前はおれの子じゃない」なんて言う始末。本当にそうなのか母に問い詰めたんですが、「お前が高校を卒業したらちゃんと答えてあげる」と言ったまま、私が高校を卒業する直前に、秘密をあの世に持ってってしまいました。
 私は高校卒業と同時に家を飛び出し、大学卒業と同時に父の反対をおしきって前の夫と結婚、すぐに離婚してからは、父親とも音信不通状態です。ちゃんと生きてるのかしら? まあたぶん生きてはいるんだろうな。もし死んだら新しい奥さんが遺産を相続するのに「相続人として娘の真理子というやつがいるぞ」ってことになって、絶対に連絡が来るはずだし。あ、でも結婚もせずに野垂れ死んだら、連絡が来ないかも……。
 そんなわけで世が世なら私も「私生児」「不倫の子」ということで、主の会衆には加われないわけですね。
 あ、だから私は教会になじめないんだ。どこの教会に行ってもケンカになってしまうのは、ヤハウェくんが行く先々の教会で妨害しているのね。ヤハウェくんにうまくしてやられましたわ。

 イエス様も、マリヤの子であることは確かながら、ヨセフの子じゃないわけですから、私と同じ私生児ってことですよね。でも先日Twitterでそう主張したらぐちゃぐちゃと反論する人がいっぱい。なんでイエス様が私生児じゃいけないのかしら? そりゃ昔なら大スキャンダルでしょうが、いまどき私生児だからって差別しなくたっていいじゃありませんか。
 この条文の次の申23:4には、「アンモンびととモアブびとは主の会衆に加わってはならない。彼らの子孫は十代までも、いつまでも主の会衆に加わってはならない。」ってあるのよ。てことはダビデ王だって4分の1はモアブなんだから主の会衆に加われないじゃん。
 ダビデ王もイエス様も経歴に傷があるってところに、私は神様のご計画を感じるんですけどね。

●エズ・ラ5章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezl&chapter=5&mode=0
 前に言ったようにエズラ記関連の外典偽典の呼び方は混乱のきわみ、それはてんでんばらばらに番号で呼ぶからいけないので、だから私は新共同訳の「エズラ記・ギリシア語」「エズラ記・ラテン語」という呼び方を支持します。
 ただ、これもそっけない言い方なんで、愛称をつけるとすれば、エズラ記・ギリシア語は「エズラ記ダイジェスト」、エズラ記・ラテン語は「エズラ黙示録」というのがいいんじゃないかしら。
 そんなわけで「エズラ黙示録」の5章。
 19節までが前回の続きで、天使ウリエルによって、終末のさばきに関する神の計画が示されました。
 そして七日間の断食のあと、またウリエルが現れて、次の教えが示されます。
 こんなふうにエズラ黙示録ことエズラ記・ラテン語は、合計7つの幻が、途中に断食(このとき、今回のように地上の人々とエズラとの話しあいがはさまることがあります)をはさんで展開されるという構成になっているのです。
 第二の幻はエズ・ラ5:21からエズ・ラ6:34まで。5章では、この世がもう老年期を迎えていて、終末が近いことが示されます。

[952] 1ヨハ1-3章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/13(日) 06:17:52 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=1jo&chapter=1&mode=0
 ヨハネの手紙は3つありますが、2つめと3つめは短いうえに実にくだらない手紙で、よくもまあこんなものが正典に入ったものだと思います。実質的に1ヨハだけですね。
 ヨハネ福音書同様に使徒ヨハネが書いたとは思えませんが、考え方が似ているので、同じ著者、ないしヨハネ系の教会内で作られた文書ということなのでしょう。
 私ははっきりいってヨハネ福音書は苦手で、光だ闇だ真理だとなんかイッちゃってるなという気がするんですが、こういう考え方に慣れてくれば、思想が前面に押し出されているぶん、わかりやすく信仰の指針になりやすいんだと思います。マタイ、マルコ、ルカよりヨハネが好きだっていう人、けっこういますからね。相性の問題もあるかもしれません。
 ヨハネの手紙も同様で、一部の極端な意見を除けば、とてもわかりやすい。
 キリスト教のエッセンス(ただしヨハネ的なものだけ)が凝縮されてる感じ。聖書のほかの本は読まなくてもここだけ読めばとりあえずは間に合っちゃう感じがします。
 実は私、高校時代に初めて行った教会で初めて聞いた説教が、一ヨハ3:13-16でした。「すべて兄弟を憎む者は人殺し」という言葉に、なんかずいぶん極端だなと思いながらも、妙なインパクトを受けました。「兄弟のためにいのちを捨てるべき」という、殉教をすすめているところが気に食わないものの、いまでもこの部分は懐かしく思います。
 でも、ここを説教するなら、その次の一ヨハ3:17-20あたりのほうがすんなり入るような気がするんですけどね。あの牧師は過激だったからな。お祈りのなかに政治的発言が多かったし。でも今の私もそうかしら。原発だのTPPだのでずいぶん過激になってるわ。

[951] 使徒19-20章、エズ・ラ4章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/12(土) 09:22:56 ここから閲覧

●使徒19-20章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=act&chapter=19&mode=0
 第3次宣教旅行の続きです。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fb/JBS1956-B_map12.png
の地図を頼りに行程をたどりましょう。
 なお、パウロの生涯についてうまくまとめた年表を発見しました
http://www.asahi-net.or.jp/~zm4m-ootk/pauronenpyou.html
ので、私たちも便利に使わせてもらおうと思います。

 使18:23ではじまった第3次宣教旅行。ただしここは「ガラテヤおよびフルギヤの地方を歴訪」とあるだけで、具体的な話はありません。実質的に19章からスタートとなります。
 行程をたどると、エペソに2年間いて、マケドニヤを通ってギリシヤ本土に3ヶ月、再びマケドニヤ経由でピリピから対岸のトロアスに行き、エーゲ海の海岸をつたってアソス、キヨス、サモス、ミレトまでが本日19-20章の範囲です。

 エペソでパウロはさまざまな奇跡を行い、多くの信者を獲得します。パウロの使ったてぬぐいを病人にあてただけで悪霊が出ていくなんて、なんか怪しいカルト教団的ですけどね。
 魔術師たちが本を焼き捨てたというのは、キリスト教史上初の焚書ということになりますね。
 ところが偶像を作っていたデメテリオという職人が、パウロのしていることは営業妨害だというので、反対運動を起こし、ひと騒動持ち上がります。
 エペソを離れてエーゲ海をたどる途中、トロアスではパウロの話を聞いてる途中に転落事故を起こした青年の息をふきかえさせるということもありました。
 パウロの目的地はエルサレムです。ペンテコステまでにはエルサレムに行きたいというので急いでいます。そこでエペソの長老をミレトに呼び出して(そう距離はありませんから)、エルサレムで自分は迫害を受けることだろうと予言し、もう二度と君たちとは会えないだろうと涙の別れをします。
 律法を否定するパウロに対してはエルサレムのユダヤ教徒たちは厳しく迫害してくるでしょうし、エルサレム教会のペテロとも関係が悪化しているので、パウロをちゃんと保護してくれるかどうかもわかりません。そんな中をあえてエルサレムに向かうパウロの決意が感じられます。

●エズ・ラ4章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezl&chapter=4&mode=0
 ここからはエズラと神様との対話です。もっとも神様はじかにエズラと話をしません。話をしているのは天使ウリエルです。もっともウリエルの口ぶりはまるで神様おんみずからがしゃべっている感があり、実質的には神様と考えていいと思います。
 選ばれた民であるはずのイスラエルがなぜ苦しむのかという問いに、終末のさばきには万事が解決すると神様は答えます。ではそれはいつのことなのかというので、話は次章へと続きます。

[950] マラキ書(全) 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/11(金) 10:09:05 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=mal&chapter=1&mode=0
 十二小預言書の最後のマラキ書。3章しかないので今日で全部読んじゃいます。口語訳聖書など昔の聖書ではマラ3:19以降を4章としていますけどね。
 金曜日は預言書を読んで来ましたがこれで全部終わり、今年度の通読計画は12/11まであるので、残り5回は預言書のかわりに新約聖書のヨハネ黙示録を読むことになります。
 マラキというのは「わたしの使者」という意味なので、固有名詞ではない、あるいはニックネームであるという考え方もあります。実際、エズラ記・ラテン語の1章(日曜日に読みました)の最後エズ・ラ1:39では、十二小預言書の預言者の名前が列挙されているのですが、マラキだけは「主の使いとも呼ばれたマラキ」というヘンな言い方をしています。たぶんエズラ記・ラテン語の著者もニックネームだと思っているのでしょう。
 第2章はわかりにくいですが、妻を離縁しておきながら他の神に仕える異邦人の女と結婚するような行為を非難しています。これはエズラ記やネヘミヤ記に出てくる異邦人の妻を強制離婚させる話と関連していますので、マラキはこの時代、つまり紀元前5世紀の中ごろということになります。ハガイやゼカリヤが帰還直後、つまり紀元前6世紀末のゼルバベル・ヨシュアの二権分立時代でしたから、マラキは本当に預言者の時代の一番最後の預言者ということになります。
 マラキ書がよく引き合いに出されるのは、金の亡者と化した一部のとんでもない牧師が「什一献金しろ」というとき。マラ3:8,10を根拠にするのです。
 そして一番最後のマラ3:23-24。終末の直前に預言者エリヤをつかわす、という話。エリヤは生きながら天に上げられた人ですので、生きながらつかわすことができるのでしょう。イエス様の時代の人々はこの話が頭にこびりついていたので、洗礼者ヨハネに「あなたはエリヤですか」(ヨハ1:21)ときいてみたり、イエス様のことをエリヤだといったり(マコ8:28ルカ9:8,19)していますし、イエス様自身も自分をエリヤになぞらえるような説教をしたり(マタ11:10-14マタ17:10-12)しています。十字架上でエリ、エリ(わが神、わが神)…と言ったのを「エリヤを呼んでいる」(マタ27:47,49マコ15:36-37)と聞き取った人もいるという話もあります。
 キリスト教の旧約聖書(続編なし)ではマラキ書が旧約の一番最後に来て、次のページが新約聖書のマタイでイエス様の話になるので、なんかうまくつながっているような錯覚をします。でも実際には450年も断絶があるわけです。日本でいえば戦国時代からいきなり21世紀にとぶようなものです。この間にもユダヤ人にはいろんな事件が起こったので、旧約外典(続編)を正典と認めない立場の人も、読物としてだけでも旧約外典、特に1マカ、2マカは目を通しておくべきでしょうし、シラ書などでこの当時の人々の考え方を知っておくべきです。

[949] コヘ11-12章、エズ・ラ3章 投稿者=真理子 掲示日=2011/11/10(木) 09:39:37 ここから閲覧

●コヘ11-12章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ecc&chapter=11&mode=0
 コヘレトは今日でおしまいです。
 むなしいむなしいとぶつぶつつぶやいてきたコヘレト、最初は「聖書にこんな東洋的無常観みたいな本があるなんて」と新鮮なおどろきを持って読んだあなたも、このあたりまで来ると、しつこさに食傷しているかもしれません。
 なんでこんなにむなしいむなしいというのか、その真意は今までも時折示されていました。たとえば今回のところではコヘ11:5にあるように、不完全な人間には完全な神様のわざを知ることができないからです。神様の前では人間の不完全さ、無力さを思い知るしかないので、むなしさを感じるわけです。
 宮台真司がいろんなところに書いてる言葉に、日本はまかせておいてぷーたれる、というのがあります。日本人は政治家に一切をまかせてしまい自分では何もしようとしない、そのくせ文句だけは言う、というわけです。でも私にいわせれば、ぷーたれるというのはまかせていることの裏返しじゃないかと思うんですけどね。政治家が信用できない国では自分で何でもやるしかないからどんどん政治に参加するわけですからね。
 まかせておいてぷーたれることでは、エジプトを出たあとのイスラエルの民はその典型で、ヤハウェくんは何度もぶちきれてしまいましたけど、あれだって民はヤハウェくんを頼るしかないからぷーたれてたんだと私は思います。ヤハウェくんはもっと度量を示したほうがよかったのではないでしょうか。
 コヘレトもそうなんで、むなしいむなしいとぷーたれてるのは、根底に神様への信頼があるからなんで、そういう信頼はコヘレトをよく読めばにじみ出てきています。
 コヘ12:8は、冒頭の言葉のくりかえし。
   伝道者は言う、「空の空、いっさいは空である」と。
 たぶんもともとこの本はここで終わっていたんだろうと思います。最初と最後が同じ言葉なんてしゃれてるじゃありませんか。ただ、これだとあまりに救いがないと思った後の人が、そのあとの6節ぶんを付け加えちゃったんだろうと思います。なんかとってつけた感じですからね。

●エズ・ラ3章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=ezl&chapter=2&mode=0
 ここからがエズ・ラ本体。「都が滅んで三十年、わたしはバビロンにいた」というのは、一応バビロン捕囚から三十年めに、捕囚されたエズラがバビロンにいたという設定になっていますが、実際にはずっとずっとあと、イエス様よりもあと、AD70のユダヤ戦争でエルサレムが破壊されたあと、エズラがローマにいたということです。ヨハネ黙示録でもそうですけど、バビロンというのはローマの隠喩です。もちろん史的エズラがこんな時代に生きてるはずがないので、そういう設定ということ。
 エズラはユダヤの荒廃を見て、どうして選ばれた民であるユダヤ人がこんなめにあわなくちゃいけないのかと、神様にくってかかるように祈ります。