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真理子の聖書日記


このサイトを作りながら、聖書を読みながら真理子が考えたことです。
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[900] 使徒7-8章、バルク書1章 投稿者=真理子 掲示日=2011/10/01(土) 11:31:34 ここから閲覧

●使徒7-8章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=act&chapter=7&mode=0
 殉教者第一号のステファノの話。ステファノの演説が長いのでポイントがわかりにくいですが、使7:48にあるように神殿を否定していること、そしてイスラエルの民がモーセ以来預言者にたてついてきた、先日はイエス様を十字架につけ、今回は使徒たちを迫害するのか、というところがみんなを怒らせたんですね。
 ところで、ステファノに対して怒りを発した群衆はいったい何者なのでしょう。
 前回6章冒頭では、弟子がギリシア語派とヘブライ語派(と書いてますが実はアラム語でしょう)に分かれてきたという話があり、ステパノはギリシア語派筆頭の弟子でした。
 そしてステファノを告発したのはギリシア語を話すユダヤ人だったのです。7章冒頭には大祭司が出て来ますが、彼はステファノ殺害には手を下していません。エルサレムの宗教当局者はステファノなんかどうでもよかったんです。
 8章になると、ステファノの殉教のあとにエルサレムの教会に大迫害があって、「使徒以外の者はことごとく、ユダヤとサマリヤとの地方に散らされて行った。」(使8:1)とあります。ということは、よく読んでください。「使徒は迫害を受けることなく無事だった」ってことなんですよ。使徒はアラム語派ですから。
 そんなわけでここまでは、ギリシア語派のユダヤ人の間の話だったのです。
 エルサレムはアラム語の町ですから、ギリシア語を話すユダヤ人というのはいろいろな地域からエルサレムにやってきた人たちです。しかも、神殿参拝のために一時的にやってきたのではなく、ここに住み着いているのです。どうしてかというと、この時代、「終末がせまっている、エルサレムにいたほうが救われやすい」という考え方があったのです。彼らはそういう、ちょっとイッちゃった人たちであり、普通のユダヤ人とは遊離した存在だったのです。

 さて、ステファノなきあと、ギリシア語派の筆頭はフィリポ(ピリポ)になります。エルサレムを追われてサマリアに行って宣教して功績をあげます。12節には、男も女も信じて洗礼を受けたとありますね。
 そこでペテロとヨハネは重い腰をあげてサマリアに向かいます。
 どうしてでしょうか。フィリポが宣教しただけではダメなのでしょうか。
 ダメなんですよ。
 16-17節には、フィリポの行った洗礼は主イエスの名によるものというだけで、聖霊は下ってなかった。聖霊を下すためにはペテロとヨハネが行かなきゃいけないみたいです。しかし、聖霊って本来の神様のものというか、三位一体ですから神様そのものじゃありませんか。それをペテロやヨハネが独占してるなんて! お前らそんなに偉いのか。5章のアナニヤ夫婦をポアした事件といい、やっぱりペテロは麻原彰晃化してますね。
 こんなふうに、使徒=アラム語派はエルサレムにとどまる一方、各地への宣教はギリシア語派によって行われた、ということをおさえておきましょう。

●バルク書1章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=bar&chapter=1&mode=0
 バルクというのはエレミヤ書32章以降に出てくる書記、いわばエレミヤの秘書として活躍した人です。バビロンに捕囚されたユダヤ人たちが、エルサレムに残っている人々に手紙を書き、わたしたちのかわりに祈ってくれ、という散文がバル3:8まで。そしてその後は詩になっています。

[899] ナホム書(全) 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/30(金) 12:23:28 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=nah&chapter=1&mode=0
 十二小預言書も後半に入りました。
 聖書の書名を覚える歌(浅見定雄式)
http://www.babelbible.net/mariko/bib.cgi?doc=song&course=bib
の2番、
2.イザヤ、エレ、哀、エゼ、ダニエル
 ホセア、ヨエ、アモ、オバ、ヨナ、ミ
 ナホム、ハバクク、ゼファニア書
 ハガ、ゼカ、マラキで39
の、ホセア~ミ(=ミカ)はアッシリア時代、ナホム~ゼファニアはアッシリア末期、ハガ(=ハガイ)~マラキはペルシア帝国時代となっています。こういうふうに預言者の時代がよくわかるのも浅見式の歌のすぐれたところです。
 冒頭の「エルコシ」というのがどこにあるのかはよくわかりません。
 ナホム書の内容は一言でいえばニネベの滅亡の予言です。ニネベというのはヨナ書では神様が助けようとしてヨナにデマ男になってもらった話で出てきましたが、アッシリアの都。史実としてのアッシリアの滅亡はBC612です。予言といっても実際には事後予言、つまり結果を知った上であたかも昔に予言したかのような体裁で書いたのかもしれませんし、本当に予言でも、滅亡しそうな状況が迫ってからのことでしょうから、この年(BC612)にかなり近い時代だと思われます。
 今日の神様はこわいです。なにしろ冒頭ナホ1:2で「主はねたみ、かつあだを報いる神」なんて出て来ますから。なにしろ出34:14によればヤハウェさんは別名「ねたみの神(エル・カナー אֵל קַנָּא)。新共同訳の『熱情の神』なんていうのは悪質な誤訳」というくらいで、とってもこわいんです。でもそれは、アッシリアが悪いことをしたからいけないんで、悪に対しては厳しく臨むというのも神様の大切なお仕事なんですね。

 翻訳の問題がある点を一つだけ指摘しておきます。
 ナホ2:8(BHSによる節番号。従来は7節)の冒頭の2語
וְהֻצַּב גֻּלְּתָה (ウ・ホゥッツァブ グルラタ)っていうところは意味が不明で、みなさんがんばってます。
 先頭のウはandという接続詞だからシカトして、ホゥッツァブっていのは、普通に考えると「彼はしっかり立てられる」という三人称単数男性形の動詞なんですが、次が三人称単数女性形なので、たぶん固有名詞なんでしょう。で、次のグルラタっていうのは「彼女は裸にされた」。だから、ホゥッツァブは裸にされた、が普通でしょうね。まあHuをホゥって書くのは私の流儀なんで(フって書くとみんなFuって読む)、一般には「フッツァブは裸にされた」。岩波がまさにこのとおり。
 ところが問題は、グルラタのほうを裸って書いてない訳が多すぎるってことです。KJV、RVなど往年の訳がそう。新改訳も「王妃は捕らえられた」。フラも、直訳だと裸だって注にわざわざ書いてるのに読み変えて捕囚にしちゃってる。ちゃんと裸って訳しているのはRSVはits mistress is stripped.(王妃は裸にされた)で、固有名詞を訳してないけど、これが人名だというのは推測でしかありませんから、まあいいでしょう。口語訳もその流儀。新共同訳は実質的にフラの後継だけど、「衣をはがれて」と書いてますね。

[898] 箴言31章、シラ書51章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/29(木) 09:44:30 ここから閲覧

●箴言31章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=pro&chapter=31&mode=0
 冒頭にあるようにお母さんの教え。その冒頭が「あなたの力を女についやすな、王をも滅ぼすものに、あなたの道を任せるな」というのはすごいですね。
 ついで「酒を飲むな」などのあと、賢い妻の話が10節以下最後までですね。
 箴言はことわざ集ということで雑然としたところがあり、中には女性蔑視と思えるようなくだりもいくつかありましたが、最後は賢い女性はかくあるべしという女からの意見を載せて、めでたく終了です。

●シラ書51章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=51&mode=0
 シラ書も今日でおしまい。
 冒頭の序文にあるように、シラ書の実質的な著者は、著者の祖父であるシラの子イエス、だからヘブライ語でいえば、エホシュア・ベン・シラでした。知恵を求める彼の生き方を祈りの中にまぜて、シラ書を結んでいます。

[897] 詩編120-121編 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/28(水) 16:39:18 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=psa&chapter=120&mode=0
 120編から134編までは「都もうでの歌」「都へ上る歌」などと訳されていますが、ヘブライ語ではשִׁיר הַמַּעֲלֹות、シール・ハマアロート。シールは「歌」、ハは定冠詞で、マアロートというのはעלה(アラハ。上る)の名詞形の複数にすぎません。だから「都」はないんですね。事実、新改訳でも「都上りの歌」と訳してるくせに、新聖書注解では「宮上りの歌」のほうが正しいなんて書いてます。さらには、これは都なり神殿なりに参詣するという意味ではなく、宮の階段を上りながら歌うのだとか(そしたらミサの昇階唱ですね)、内容的に前節の語句を尻取りのようにして発展していくのだとか、いろんな話があるみたいです。
 私は昔から、「神殿を参詣するために都へ上る集団が歌う歌」、つまりはワーグナーの「タンホイザー」に出てくるような巡礼の合唱とか、「雪山賛歌」みたいなものだと思ってました。
 こういうときの歌は、聖なる目的のために非常に清らかな感じになり、詩編にありがちな敵への呪いみたいなものはあんまり出て来ません。だから安心して読むことができます。

[896] 歴代誌下21-24章、シラ書50章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/27(火) 10:15:04 ここから閲覧

●歴代誌下21-24章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=heb&chapter=8&mode=0
[787]で作った「南北の王を覚える歌」、4-7番を掲げておきましょう。南の最初の王レハベアムからの流れの復習です。

4.南はユダ族、エフライム
治める王様レハベアム
アビヤム、アサ、ヨシャパテと経て
北と同名ヨラム立つ

5.南のアハジヤ北に行き
ヨラムを見舞ってみたものの
エヒウのクーデターに巻きこまれ
母のアタリヤ即位する

6.北はエヒウにエホヤハズ
南はアタリヤ殺されて
ヨアシが立ってみたものの
北もヨアシが即位する

7.南はアマジア、次ウジヤ
病気でヨタムに交代す
北はヤラベアム、次ヨタム
おんなじ名前になっちゃった

 代下21。南の王はヨラム(南5。849-842)。北もヨラムで、在位年代も同じです。列王記でいえば王下8:17-22。歴代誌は北をシカトしますから、列王記下のほうは1-7章の北の話をびゅんびゅん通過して8章にまでなっちゃいましたね。
 読み比べてみると、南ヨラムの死の状況が列王記には書かれておりません。内臓が出る病気ですか。先日、主人のお父様がヘルニアつまり脱腸で手術したという経験を持つ私には、ひとごとではありませんわ。それにしても、「お前は悪いことをしたから脱腸になって死ぬぞ」というエリヤの手紙はえげつないわ。私、こういうの見ると、昔の創価学会を思い出しますのよ。人が重い病気にかかると、それは謗法(他宗教を信仰している罪)のせいだ、題目をあげなさい、なんていうんです。いまは公的にはあんまりそういう指導しませんけど、やっぱり末端の会員は、昔とった杵柄で、そういう話をする人多いですからね。だから私は創価はイヤなのよ。創価ってあれだけカネ持っていながら、病院を一つも作らないんですよ。病気は全部宗教で治ると思っているんでしょう。
 代下22。即位したアハジヤ(南6。842)は北ヨラムを見舞いに行き、スリヤ(アラム)との戦闘にも参加しますがそこで負傷、さらにエヒウのクーデターに巻き込まれて死んでしまいます。在位はたった1年。この話は王下8:24-29および王下9です。
 アハジアの死後は母のアタリヤ(南7。BC842-837)が南唯一の女王として即位。お母さんということは彼女自身は王族じゃないわけですから、王族をことごとく殺そうとします。王子のヨアシだって殺そうとしますけど(孫なのに!)、エホシバにかくまわれて無事。このエホシバはアハジヤの妹であり、祭司エホヤダ(ヨヤダ)の妻。
 代下23。祭司エホヤダはクーデターを起こしてアタリヤを殺し、かくまっていたヨアシが即位(南8。837-800)。列王記では王下11になります。
 代下24。列王記では王下12です。ヨアシは祭司たちが献金の横領をしているのを許さず直接献金を管理して神殿を修理します。こんなにいい王様だったのに、スリヤ(アラム)に攻められるうえ、クーデターを起こされて死んじゃいます。
 列王記のほうではそういう事実を単に記すだけでしたが、いい王様が不幸にあって死んだとあっては歴代誌は困りますので、一つの事件を記します。
 祭司エホヤダの死後、人々はアシラと偶像を崇拝するようになります。それを祭司エホヤダ子ゼカリヤが非難すると、人々が石でうって殺します。死ぬ間際にゼカリヤがヨアシ王を呪います。これがヨアシ王の不幸の原因だというのです。

●シラ書50章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=50&mode=0
 大祭司シモンの話は旧約聖書正典の時代より後なので、聖書のほかのところにまったく話がありません。外典ならば一マカ13になります。こういう外典の引照は新共同訳続編つき引照つき聖書を見てもいい加減で、シラ50一マカ13というのはまったく書かれていません。外典の引照情報はまだまだ蓄積がないんでしょうか。

[895] 申命記1-3章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/26(月) 09:54:22 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=deu&chapter=1&mode=0
 申命記というタイトルは説明が必要です。
 まず「申」は、主人のサイトで公開している「WEB支那漢」(民国時代の小学生向けの字典を文語の日本語に翻訳した「支那文を読む為の漢字典」という名字典をWEB公開したもの)

http://www.seiwatei.net/chinakan/chinadsp.cgi?gif=342
重なり。一再陳述するを「申説」といふが如し

とありますとおり、「かさねて」という意味があるのです。つまり「再度の命令」というわけです。
 [786]およびその下の785で書きましたとおり、南のヨシヤ王(南16。BC640-609)が即位しますの時代に大祭司ヒルキヤが宮殿を工事していたら昔の律法が出てきました(王下21)。読むと、あらまあ、ユダヤ人がいかに主の律法に反する政治と暮らしをしているかがよくわかりました。これは大変というので政治改革、宗教改革を行ったんですね。
 もちろん実際には、この時代に創作した律法を、昔の本だと宣伝したというだけの話だと思います。
 [786]で「ユダヤ教は三度作られた」と書きましたが、一度目がこの時代です。それ以前のイスラエルでは、ヤハウェなんてたくさんある神のうちの一人にすぎず、バアルだのアシェラだのと一緒に拝んでいたのです。ヨシヤ王の時代に、ヤハウェを奉ずるグループが力を得て、宗教の統一をはかり、団結を強化しようとしたのですね。
 ですから、ヤハウェに関するこれまでの律法も、この時代に新たに追加されたものもこきまぜて、「もう一度命令しておくからちゃんと守りなさい」というのが申命記というわけです。
 申17:18に「この律法の写しを」うんぬんとありますが、これをLXXがδευτερονόμιον(ゼフテルロノーミオン)、ヴルガタがDeuteronomium(デウテルロノミウム)、どちらも「第二の律法」と訳され、これが書名になりました。バルバロなんかは「第二法の書」なんて呼んでます。誤訳にしてはあまりにうますぎるので、意図的なものかもしれません。
 今日読むところは申命記の前置きのような部分です。もうシナイ放浪の間の事件はほとんど民数記で終わってしまい、申命記の中で起こる事件の時間的長さはほんの一瞬です。砂漠を放浪してきたイスラエルの民の第一世代は、モーセを含めて、約束の土地に入れないことになってしまいました。例外はカレブとヨシュアだけでしたね。だからモーセも約束の地を前にしてもうすぐ死にます。今日読むところ(ホントは次の4章まで)はモーセの告別の説教と言えます。読むと、民数記で起こった事件の経過を振り返っていますね。
 以後は来週になりますが、5-28章が律法の本体、そして29-34章が結びということになります。

[894] ヘブル8-10章、シラ書49章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/25(日) 10:57:28 ここから閲覧

●ヘブル8-10章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=heb&chapter=8&mode=0
 私たちにとって教会っていうのは手ぶらで行くところであり、そのときのふところ具合によっていくばくかのおカネを献金するところです。神社なんかも手をあわせて、小銭を入れて、パチパチ手をうって、それでおしまい。
 ところがこの時代は、神様のところへ行くのは手ぶらでいってはダメなんです。シラ35:6「手ぶらで主の前に出るな」とあるとおりです。モーセ五書に記された規定にしたがっていろんな動物や鳥や穀物をいけにえとしてもっていかなきゃだめなんですね。
 なんだか血なまぐさいですけど、今日読むところ(ヘブ9:16-17)でも「遺言っていうのは遺言する人が死ななきゃ有効にならない」という、なんだかわけのわからない理屈を述べて、契約っていうのは犠牲の血を流さなきゃ有効にならないと言ってます。
 手紙の中には神殿破壊の話は一言もありませんから、執筆はAD70の神殿破壊の前だと思われます。いけにえをもって神殿にお参りして祭司にいけにえを殺して血を流してささげてもらうという考えを当然の前提として、イエス様の役割を説明しようとするので、とてもわかりにくいです。
 さて、8-10章はいままで書いてきたわかりにくい説明のまとめです。イエス様は大祭司であり、いけにえをささげて神にとりなしをする人物です。ところが現実には祭司が別にいるのですから、イエス様は別の任務をおびた祭司ということになります。神様がいままでの契約を捨てて新しい契約を結んだのです。ヘブ8:8-12エレ31:33の自由な引用です。
 この新しい契約では、イエス様はご自分の肉体をささげることによって、私たちの罪をすべてクリアしてくださることになっています。今までの契約でも雄牛ややぎの血を流しましたが効果は限定的でした。しかしイエス様の犠牲の効果は無限、永遠だというわけです。
 こんなふうに従来の「いけにえをささげるお祈りのしかた」になぞらえてイエス様の役割を説明したあと、10章後半からは、もうそういうやり方はおしまいになった(だって効果は永遠ですもの)んだから、「そんなことより信仰だ」と、信仰の大切さを説くようになります。
 実は現代の説教でヘブル書がひきあいに出されるとすれば、10章後半からじゃないでしょうか。いよいよ現代人にもわかりやすい部分になります。……ということで、続きは来週。

●シラ書49章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=49&mode=0
 ヨシヤ、エレミヤ、エゼキエル、十二小預言者、ゼルバベル、エシュア、ネヘミヤと、時代が新しくなります。なぜかエズラがないんですけど。
 その後、話は突然エノク、ヨセフ、アダムと、創世記の世界に逆戻りしてしまいます。ここでイスラエル史の概観が終了します。
 エノクは創5:24で、(死んだのではなく)「神が彼を取られたので、いなくなった」という謎めいた書き方をされています。私は今でも、ここを読むと怖くてゾクゾクと来るんですけどね。なんか不気味じゃありませんか、まさに神隠し。でも昔から、エリヤと並んで「生きながら天にあげられた」という肯定的な評価をされています。

[893] 使徒行伝5-6章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/24(土) 11:43:28 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=act&chapter=5&mode=0
 ペテロの率いる教団に入るためには、財産はすべて売り払ってそのおカネを教団に寄付しなければなりませんでした。
 もっとも使2:44-45ではまるっきり私有財産がないかのように書かれているのに、使4:32では、「その持ち物を自分のものだと主張するものがなく、いっさいの物を共有にしていた」つまり、共有ではあるけど一応「その持ち物」はあるみたいです。これ、微妙に違う書き方で、加藤隆先生は、私有財産についての考え方がだんだん変化してきたんだと言ってますけど、よくわかりません。いずれにせよ、持ち物はあっても共有みたいです。
 ところが5章に入ると、自分の資産を売ったのに一部しか教団に献金しなかったアナニヤという人物があらわれます。彼に対するペテロの追及はすさまじい限り、オウムの麻原も真っ青の恐ろしさ、なんと夫婦ともどもポアされてしまいます。こわいですね。カルトですね。
 私はこの話、ヨシュ7のアカンさんという、分捕り品をちょろまかしたあかん人の話とパラレルなものを感じます。あのときもイスラエルの民は思わぬ敗戦をし、これは誰か悪いことをした奴がいるんじゃないかと内輪の犯人さがしで犠牲になった人ですね。
 現在のペテロの教団もユダヤ教の体制側から攻撃をされている。4章でもペテロとヨハネは拘留されたし、5章後半でも使徒たちがつかまっちゃいます。
 こういうときに内部の誰かを犠牲の羊にしてみんなで内ゲバして血祭りにあげて結束を図るというわけです。ああ、恐ろしいわ。
 6章では、ギリシア語派の弟子とヘブライ語派の弟子との対立という新たな問題が起こります。内輪もめウォッチングの好きな真理子はもうどきどきよ。次回が楽しみだわ。

[892] ミカ書(全)、シラ書48章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/23(金) 13:25:26 ここから閲覧

●ミカ書
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=mic&chapter=1&mode=0
 ミカ書は全7章。一気に読んじゃいます。

7.南はアマジア、次ウジヤ
病気でヨタムに交代す
北はヤラベアム、次ヨタム
おんなじ名前になっちゃった

8.北はゼカリヤそのあとは
シャルム、メナヘム、ペカ、ホセア
みんな謀反で即位して
国まで滅んでしまったわ

9.アハズ、ヒゼキヤ、マナセ、アモン
ヨシヤ、エホヤハズ、エホヤキム
エホヤキン、ゼデキヤと即位して
南も滅んでしまったわ

 いきなり「南北の王名を覚える歌」から始まりました。なんで7~9番を長々とあげたかというと、ミカの時代は「ユダの王ヨタム(南11。BC742-735)、アハズ(南12。BC735-715)、ヒゼキヤ(南13。BC715-687)の世」とあるわけですが、この間に北が滅んじゃうわけですね。それを知ってほしくて長々とあげました。「ユダのアハズ王のときに北が滅ぶ」と覚えておくのもいいかしら(ちょうど歌の9番冒頭です)。
 ミカはミカヤと表記されることもありますが、今週の火曜日に読んだ代下18に出てくるイムラの子ミカヤとは別人です。
 このように、実際に北王国の滅亡を目の当たりにしたミカですから、ベースとしては「悪いことやっとると神様が怒ってエルサレムだって滅ぼしちゃうぞ」という警告と滅亡を預言しているんですが、その一方で救いの預言もしています。それはミカ2:12-13ミカ4ミカ7:8-20ですね。このあたりはバビロン捕囚つまり南の滅亡後に書かれたと言われています。つまりは紀元前6世紀(500年代)ですね。そんなころまでミカが生きてるはずがないので、つまりは別人が書いたってことですね。これはほぼ定説で、福音派御用達の新聖書注解でも反論せずに書いてるほどです。人によっては4章以降すべてを「第二ミカ」としてるほどです。

 ミカ書はマタ2:6で、救い主イエス様がベツレヘムから出る根拠として引照されています。また、エレ26:18ではミカの預言ミカ3:12が名指しで引用されています。また、ミカ4:1-3イザ2と、細かい語句の違いを除いて実質的にまるきり同じです。イザヤのほうが先輩ですからミカがパクったんでしょう。いや、預言者の言葉は神様の言葉のはずですから、神様が手抜きをしたのでしょう。
 こういう参照関係を知るのが「引照」なんですけど、引照情報っていうのは、単に同じような語句が出てくるっていうだけじゃなく、はっきりと引用されているっていう情報が知りたいことが多いんですよね。聖書の引照ってあれもこれもいっしょくたに書いてありますから、はっきり引用されているものは太字とか、わけてほしいです。これを知るためにはデジタルのテキストデータで「 」を検索して、そこの引照データを見ることなんで、私も早く引照データを入力しなきゃいけないって思うんですけど、引照データって文字が小さくて、急速に目がババァになった私にはつらいのよ。誰か助けて。どっかにそのままパクれる引照データないかしら?

●シラ書48章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=48&mode=0
 エリヤとエリシャ、北の滅亡と、南のヒゼキヤの話。3節の「空を閉ざし」たというのは干ばつの話、「三回火をふらせた」というのは王上18:38(異教の預言者たちとの対決)と王下1:10,12(アハジヤ王の派遣した五十人隊を二度にわたって火で滅ぼしたこと)です。死者を生きかえらせたというのは{1ki;17:17-24}、太陽が逆戻りした話は王下20:11およびイザ38:8。列王記で読んだ話を思い返しながら読みましょう。

[891] 新通読表作成、この掲示板について 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/23(金) 12:06:12 ここから閲覧

 来年度以降の通読表を作成しました。
http://www.babelbible.net/bible/dspcalen.cgi
で、本年12月12日以降のメニューが新しくなってます。ポイントは、

2行目(外典・イミタチオコース)
 月曜日から金曜日までが外典。外典はLXXとヴルガタに入っているすべての書。
 土曜日と日曜日はイミタチオ。
 年末はちょっと「年末調整」。外典がちょっと足りなかったので、以下を追加。
  ・アリステアスの手紙
  ・ヤコブ原福音書
  ・トマスによるイエスの幼児物語
  ・コリントの信徒への第3の手紙
 これらはばべるのデータには入れず、テキストファイル(HTML)で作成。

3行目(モルモン経、クルアーンコース)
 金曜日と土曜日はクルアーン、年の後半は木曜日もクルアーン
 その他の曜日はモルモン経

 来年度はこの通読にあわせて、外典とイミタチオは「真理子のおまけ」を作成していきますけど、クルアーンまで手が届くかどうか。モルモンは口語訳モルモン経そのまんまですし、クルアーンは大川先生の訳をそのまま掲げちゃうかもしれません。

 それからこの掲示板は、本年12月12日からはデータを一新して[1]から始めます。毎年通読表のスタートとともにデータを一新します。ただし過去のデータは残します。どこかからリンクされているといけないので、今後は
http://www.babelbible.net/bbs/bbs.cgi?year=2012
みたいな感じでyearオプションをつけることにしようと思います。このオプションがなければ今までのデータを表示します。

[890] 箴言29-30章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/22(木) 12:47:03 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=pro&chapter=29&mode=0
 いよいよ箴言もあとわずか。31章でおしまいです。
 なお、LXXでは29章の次がいきなり31章。30章がどこへ行ったのかと思ったら、1-14節が箴24:23のあとに、15-31節が箴24:34のあとに割り込んでいます。印刷媒体のものだとそうなっているのですが、章・節番号はマソラのものに対応したものが振られています。そのせいで、電子媒体
http://www.bibelwissenschaft.de/online-bibeln/
などで配布しているものは、マソラの順番になっちゃってるので、このことに気づかずに終わってしまいます。

 さて、分断された30章の後半の15-31節は、「~が三つある。いや四つあってそれはトンデモナイ」というレトリックが出て来ます。これはシラ26:5とかシラ50:25にも同工異曲のものが出て来ます。ユダヤ人のすきなレトリックなんでしょう。まねしてみると面白いかも。
 そのうちの箴30:19の四つめ、つまりこの上なく不可思議なのは「男が女に会いに行く道」。どこをどうやっていくのか知らないけど、いつの世でも男は女を求めて塀を乗り越えたりするわけですね。
 そこで使われている「女」のヘブライ語がעַלְמָה׃、アルマーと読み、若い女の意味。こうやって男が夜這いに来るくらいですから、たぶん処女ではないでしょう。しかし、イザヤが「おとめが身ごもって男の子を産む」とイザ7:14で読んだところも、このアルマーでした。これをLXXがπαρθενος(パルテノス)という「処女」という単語で訳しちゃうから、マリア様の処女懐胎伝説ができちゃったわけです。では箴30:19ではどう訳してるかというと、単数主格に直せばνεοτης(ネオティス)、ただの「若い女」です。同じLXXなのに訳語が不統一ですね。イザヤ書がこう訳しておけば、処女降誕の話ができなかったかもしれませんね。

[889] ちなみにクルアーンとモルモン経の章数は 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/22(木) 12:16:03 ここから閲覧

 ちなみにクルアーンとモルモン経の章数は、クルアーンが114章、モルモン経が245章あります。ですから足すと359で、これを1日1章読めば、ほぼ一年間でまわせます。
 ただしクルアーンは長い章と短い章の差がはげしいので、昔からjuz'という単位で読んでいくのが普通です。それはWikipediaの
http://en.wikipedia.org/wiki/Juz'
に書いてあります。これが30とか60という単位なので、あんまりよろしくない。

 あ、60日周期のHizbをさらに2分すれば120章ぶんになって、モルモン経とあわせると365。これはすばらしいわね。どこかで1つまけば、364になるわ。ちょっとこれは考えておきます。まあ、再来年の課題にしようかしら。

[888] 来年からの通読表リニューアル 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/22(木) 12:06:53 ここから閲覧

 いま当サイトで使用している聖書通読表は
http://www.bible-reading.com/bible-plan.html
のサイトのものをそのまま借用しています。旧新約聖書(外典除く)を364日で読むというプログラムで、1996/1/1からスタートして毎年1-2日ずつ開始がずれて、次回は2011年12月12日から始まります。
 外典は、新共同訳にのってる書が合計で181章、これは2倍すると362なので、2日に1章読むことにすれば、最後に1回だけ休むとちょうどこのサイクルにのっかります。現在はそのようにスケジュールを組んでいます。だから外典は1日おきに1章ずつとなっています。
 ところが聖書の外典は新共同訳に載ってるもののほか、LXXやヴルガタには
  マカ3、マカ4、詩歌(Odes)、詩編151編、ソロモン詩編、ラオデキア人への手紙
があり、これが合計59章あります。これも何とか読んで行きたいところです。
 今年は、外典の通読にあわせて、真理子独自訳(真理子のおまけ)を作成してきました。独自訳というと聞こえはいいですが、実は既存のいろんな訳のつぎはぎです。えへ。
 来年は、上記のマカ3~ラオデキアも通読スケジュールに入れて、「真理子のおまけ」を作成していきたいと思います。
 さてそうすると、新共同訳収録外典が181章、その他の外典が59章ですから240章。364日ぶんにするためにはあと124章ぶん、どこかから持ってこなきゃいけません。
 当サイトでは聖書以外に、クルアーン、イミタチオ(キリストにならいて)、モルモン経をサポートしていますが、クルアーンやモルモン経をメニューにいれると抵抗のある人も多そうなので、キリスト教の参考書としてイミタチオを入れることにしましょう。これが全114章ですから10日あまりますが、そこで何を読むかはその時期が来てから考えることにします。

 そんなわけで来年からの通読表は、外典は毎日になり、上記マカ3~ラオデキアと、イミタチオが入ってきます。

[887] 二人じゃない!!!! 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/21(水) 08:31:45 ここから閲覧

 [882]で、ついうっかりしてしまったことがあるので、補足しておきます。
 使徒行伝3-4章で、足を癒やされた男がその後もペテロとヨハネにつきまとい、一緒につかまっちゃう話。釈放された後について私が、

最後は二人だけが教団に帰ったことになってますが、たぶんこの人を引き取らざるを得なかったんじゃないでしょうかね。

と書いたのは間違い、というより、使4:23を多くの日本語訳が「二人」と訳しているのに私がひっかかってしまったことです。
 実はこれ、原文は「二人」って書いてない。単に動詞に三人称複数語尾がついてるだけ。ついでながら21節に2回出てくる「二人を」もαυτουςですから単に「彼らを」です。
 だから、これは二人ではなく三人である可能性も高いんです。
 文語訳では「彼ら」と訳しているのを、口語訳、新共同訳、新改訳はわざわざ「二人」と、解釈をまじえた訳にしちゃってるんですね。
 この点を加藤隆先生も指摘しておられるんですが、私はつい忘れてしまいました。
 少なくとも、23節は「彼ら」と訳しちゃダメ。演説から拘留のシーンなら、二人と訳すのもいいかなってところです。19節の「ペテロとヨハネ」は原文もそうなってますからね。

 ついでに他の訳を見ておくと、
彼ら(○)……正教、新世界、田川(21節は「ペテロたち」だけどそれなら合格)、岩隈、新和訳(21節の「脅しをかけられた」ほうは「二人」だけどまぁいいか)、宮平
二人(×)……ラゲ、バルバロ、塚本、フラ、岩波、リビング、柳生、現代
その他……エマオ(21節は彼ら、23節は二人。それじゃダメじゃん)

[886] 詩編119編、シラ書47章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/21(水) 07:49:19 ここから閲覧

●詩編119編
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=psa&chapter=119&mode=0
 今日は1つだけ、と思ったら、これがやたらに長い詩。
 いままでの詩編(112、113編)や哀歌など、アルファベットで始まる詩というのがありましたが、今回もアルファベットによる詩。しかも各22文字で始まるものが実質的に別の詩になっている、つまり119編は、これ自体が22編の詩集になっているのです。
 ですからまとめて通読するというより、気にいったところだけを読むというほうがいいのではないでしょうか。
 たとえば、あなたのお名前の頭文字で始まるところだけを読むというのはどうでしょう。ここをあなたのお守り歌にするのです。
  ア行=アレフ[A,O](詩119:1-8)またはアイン[E](詩119:121-128)
   ※「い」の人はヤ行へ。「う」の人はワ行へ。
  カ行=カフ[K](詩119:81-88)またはコフ[Q](詩119:145-152)
  ガ行=ギメル[G](詩119:17-24)
  サ行=サメク[S](詩119:113-120)
   ※「し」の人はシン(詩119:161-168)
  ザ行=ザイン[Z](詩119:49-56)
  タ行=テス[T](詩119:65-72)またはタウ[T](詩119:169-176)
   ※「つ」と[C]の人はツァデー(詩119:137-144)
  ダ行=ダレス[D](詩119:25-33)
  ナ行=ヌン[N](詩119:105-112)
  ハ行=ヘ[H](詩119:33-40)またはヘス[H](詩119:57-64)
  バ行=ベス[B](詩119:9-16)
  パ行(F含む)=ペ[P](詩119:129-136)
  マ行=メム[M](詩119:97-104)
  ヤ行=ヨード[Y](詩119:73-80)
  ラ行=レシ[R](詩119:153-160)またはラメド[L](詩119:89-)
  ワ行=ワウ[W](詩119:41-48)
   ※Vの人はバ行またはワ行へ。
   ※Xの人はその発音に従ってカ行、ガ行、ザ行などへ。
 そんなわけで私・真理子のお守り歌はメム(詩119:97-104)というわけですね。律法と戒めを守っていきたいと思いますわ(性生活関係を除く)。

●シラ書47章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=47&mode=0
 ダビデ、ソロモン、レハベアムの話。便利ですね。シラ書を読んでおけばサムエル記や列王記を読む必要がないですね。

[885] 歴代誌下16-20章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/20(火) 17:17:48 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=2ch&chapter=16&mode=0
 前回に続きアサ王の話と、次のヨシャパテ王の話。
 16章に出てくるラマというのは何かと思ったら都市の名前。都市を築くことで防衛の拠点にしようというわけです。
 前回の14-15章では、王上15によればアサの治世は戦争が絶えなかったとあるのに、歴代誌のほうでは国が平穏だったという矛盾がありました。面倒でもしっかり列王記と読み比べて、書かれていることをそのまま鵜呑みにしないことです。
 今日のところでは、いい王だったはずのアサが、気に入らない預言者ハナニを投獄したこと。これは列王記にはまったくありません。それから、足の病気の話は列王記にありますが、そのときに「主を求めず医者を求めた」ことを非難するのは歴代誌だけ。病気になったら医者よりもお祈りって、昔の創価学会じゃあるまいし、歴代誌の編者はとんでもない奴ですね。
 17章以降は次のヨシャパテ(南4。在位BC873-849)。この王様もいい王様ということになっていて、代下17:6では「高き所とアシラ像をユダから除いた」とあるんですけど、そのわりに代下20:33では「高き所は除かず」とあります。同じ本の中で矛盾があるっていうのは困ったものですね。王上22:44では除かなかったとあるので、やっぱり除かなかったのでしょう。
 列王記ではアサの話が15章、ヨシャパテの話が22章ととんでいるのは、その途中に北の話が入っているからです。歴代誌は北をまったくシカトしているのでしたね。そのおかげで重要なエリアやエリシャの話がすっぽり抜けてしまっています。
 さて、メインの話は、ラモテ・ギレアデをめぐる戦い。すでに王上22で読みましたけど、復習の意味でもう一度読みましょう。
 この時代、北はアハブ王でした(預言者エリアとアハブ王はセットにして覚えましょう)。アハブ王はヨシャパテに、一緒にラモテ・ギレアデを攻撃しようと持ちかけます。ラモテ・ギレアデというのはもともとガド族の土地。ガド族・ルベン族・マナセ族の半分は、イスラエルが約束の地に入る直前に、もうここでいいやというのでフライングして土地を得ちゃったわけですね。だからヨルダン川の東部の辺境地帯です。申4:41-43では、うっかり殺人を犯した人が逃げ込む町に指定されています。
http://bit.ly/rhHwyl
 この時代はアラム(口語訳聖書ではスリヤ)に支配されているのですね。
 御用学者ならぬ御用預言者がどんどん攻めろというのに対し、ミカヤは消極策。このあたりは今も変わらないなって思います。
 結局この戦いで北のアハブ王は戦死。しかも誤発弾じゃなかった誤発矢で死ぬという情けない死に方をします。
 19章のヨシャパテ王の治世は新しい話。りっぱな裁判官を置いたという話です。
 20章の話も列王記にありませんでした。モアブ、アンモン人に大勝利したという話です。

[884] 民数記33-36章、シラ書46章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/19(月) 10:27:23 ここから閲覧

●民数記33-36章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=skd&book=num&chapter=33&mode=0
 民数記は今日でおしまい。
 また最後にはなんか反乱が起こったのかと思ったら、たいした話もなく、いままでのまとめで終わります。イスラエルの民がエジプトを出発してからどういうルートをたどったか。そして各部族にどうやって嗣業の地がわりあてられたか。
 ついでながら「嗣業」っていうのは、ヘブライ語のנַחֲלָתֹ(ナハラト)、ギリシア語のκληρονομία(クリロノミーア)の訳語なんですけど、まるっきりの聖書業界用語で、一般には用いられていません。私はできる限り使わないようにしています。たとえば同時に読んでるシラ書ではうまい具合に今日のシラ46:1シラ46:8に出てくるのですが、真理子のおまけ(口語訳聖書を選ぶと出て来ます)「代々受け継ぐ」みたいに変えてしまいました。
http://blogs.dion.ne.jp/goodnews/archives/cat_341919-1.html
を読むと、聖書の「嗣業」という訳語を痛快に批判しています。やっぱり日本語と意味の異なる「知恵」をとりあげて、一律にわけのわからん語で訳すのは「知恵」(賢い決断ができる能力で、経験と知識から、人に良いアドバイスが出来る能力)が欠けている、と。
 「嗣業」っていう言葉を使い始めたのは大正改訳なんですね。明治訳では「産業」などです。新約のほうじゃ大正改訳で使ったっきり、口語訳では「遺産」だの「財産」だのそのときの状況でいろいろ訳しわけるようになっちゃった。ところが旧約のほうでは「嗣業」が生き残り、新共同訳でも使われています。こんなヘンな語は将来の訳では追放してほしいわ。
 それはそれとして、ルートの話とわりあて地の話。
 実はこれがよくわからない。今までの話にない地名が出てきたり、矛盾してたり、今のどの地なのかよくわからなかったり、ちっともまとめとして役に立たない。そういう話は注解書を見ると必ず書いてあります。

●シラ書46章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=46&mode=0
 イスラエル史のまとめの続き。ヨシュアとサムエルの話が主で、途中の士師がほとんど省略されちゃってるのが面白いです。聖書無料頒布のギデオン協会の名の由来になってるギデオンとか、もっといろいろとりあげればよかったのに。

[883] ヘブル書5-7章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/18(日) 09:09:47 ここから閲覧

●ヘブル書5-7章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=heb&chapter=5&mode=0
 今日のところはメルキゼデクという人物がさんざん言及されていますので、知らないと何のことだかよくわかりませんね。
 彼は創14に出て来ます。創世記14章は冒頭にやたらたくさんの王名が出てきて頭がオーバーフローしてしまいますが、古代の大戦争で、アブラハム(当時アブラム)の甥ロトが捕虜になってしまう。それを取り戻すためアブラムが大活躍します。このときにサレム(どうも今のエルサレムらしい)の王であり神の祭司であるメルキゼデクがやってきてアブラムを祝福するという話です。
 次に出てくるのは詩110。冒頭は口語訳聖書や新共同訳聖書だと「主が主に語った言葉」というのでとっても紛らわしいですが、神様がダビデの主人に告げた言葉というので、あなたはメルキゼデクの位にしたがって祭司である、と出て来ます。もともとこのダビデの主人って誰を指すのかよくわかりませんが、キリスト教のほうでは来るべきメシアつまりイエス様のことだとされています。イエス様はメルキゼデク・タイプの祭司だというのですね。
 もともと祭司っていうのはレビ族、しかもアロンの家系でないとなれません。ところがアロン以前の創世記を読むと、祭司にして王というすごい権力をもった人(イスラエルでは祭司が王をかねるってことはありませんでしたから)が登場する、それがメルキゼデクだっていうわけです。
 イエス様はダビデの家系つまりユダ族ですから、王にはなれても祭司にはなれません。ところがヘブル書の著者はイエス様を祭司だと言いたいので、王であり祭司であり、もちろんアロンの家系でもなんでもない人が昔いた、それがメルキゼデクだというので、イエス様はそういうタイプの祭司なんだよと言いたいわけです。
 私たちにはどうでもいいといえばどうでもいいんですけど、もともとガリラヤ出身のイエスをなんとかダビデの家系だと強弁するために人口調査だの一時的にベツレヘムに旅しただのという伝説を捏造したマタイやルカのことを考えれば、これは大問題なんでしょうね。
 まあ私たちとしては、イエス様は過去の大祭司なんかよりももっとすごい祭司だ、というメッセージを読み取っておくことにしましょう。だって私、おバカなんですもの。耳がにぶいんですもの。こういう難しい話、わかんないわ。牛乳を飲んでるのがふさわしいみたいですもの(ヘブ5:11-14)。

[882] 使徒3-4章、シラ書45章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/17(土) 07:29:33 ここから閲覧

●使徒3-4章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=skd&book=act&chapter=3&mode=0
 ペテロとヨハネが神殿に行ったところ、足の不自由な男がいました。2人は彼をいやし、彼は歩けるようになりましたが、そのあとペテロが長々と演説をぶったためにつかまってしまいます。役人、長老、律法学者、大祭司たちの前で堂々と尋問に答えるペテロのようす、足をいやされた男もそばにいたので、信じちゃう人々も多く、彼らは何もできず、せいぜい「今後はこんなことしちゃダメだ」というのみで、釈放するしかありませんでした。二人は教団に戻ってこれを報告しました。
 使徒行伝は、そのときどきの教団の運営体制、とくにおカネの話に着目しながら読むと面白いのですが、ここでは指導者がペテロとヨハネであること、けっこう教団は裕福だということに着目しましょう。みんな土地だの畑だの家屋だの、ともかく全財産を売り払って教団に参加し、一切のものを共有し、必要に応じて誰にでも分け与える体制だったからです。
 さて、この場面について千葉大学の加藤隆先生は面白い見かたを提示しています。最近ではNHKラジオ第二放送のカルチャーラジオでこの話をしていました。「新約聖書」とその時代@amazon
 足をいやされた男の件は、よく読むと、いろんな疑問がわいてきます。足をいやした話が3章なのに、途中の演説や拘留のシーンをはさんで使4:22で思い出したように「この人は四十歳あまりの人だった」と出て来ます。あらまあ、この人はペテロやヨハネと一緒に一夜を明かした、つまり一緒につかまっちゃったんですね。
 足を治してもらったんだからさっさと帰ればよかったのに、使3:11のように二人につきまとっちゃったために、一緒につかまっちゃったわけです。
 では、どうしてこの人は二人につきまとったのでしょう。
 よく読むと、この人は「足を治してくれ」なんて一言もいってません。施しを乞うた、つまり「カネをくれ」と言ったのです。ところが二人は「おカネはない」と言って足を治しちゃうんですね。でもおカネがないなんてウソですね。教団はかなり裕福だったようですから。
 これらの謎を明快に説いたのが加藤先生。
 ズバリ、ペテロとヨハネは、やんなくていい余計なことをやっちゃったんですよ。彼を困らせるようなことを。
 この人は足が治って、その瞬間はびっくりして神を賛美したのですが、たいへんなことに気づきます。もはやこの人は施しを受けることができなくなっちゃったんです。そりゃそうでしょう。歩けるようになっちゃったんですから。
 最後の「40歳あまり」がここできいてきます。平均寿命の短かった昔のこと、この人は今でいったらもう55歳くらいでしょうか。いまさら職業訓練なんかできません。施しを受けられなくなって、どうやって生活しろっていうんでしょうか。
 これが、彼が二人に長々とつきまとった理由です。
 「足を治してくれてありがとう」じゃないんです。「余計なことをしやがって、どうしてくれるんだ」なんですよ。
 最後は二人だけが教団に帰ったことになってますが、たぶんこの人を引き取らざるを得なかったんじゃないでしょうかね。
 福音書を見ると、イエス様のいやしの話がいろいろ出て来ます。最初はすばらしいと思って読むんですけど、だんだんうざったくなってきませんか? まるで身体障害が罪であるかのように(当時の人たちの感覚は実際にそうだったんでしょうけどね)、そして、身体の障害が治れば万事解決したかのように記述する福音書は読んでて本当に腹がたちます。私はどうも神様の救いのリストには入ってないようですね。
 これに痛快にパンチを浴びせてくれたのが、この使徒行伝3-4章なんですね。いやしゃいいってもんじゃないんです。いやしたらいやしたで、その後の生活も保障してあげなきゃダメなんですよ。人間は経済的な動物なんですから。
 ともかく物事をリアルに読むこと、特におカネの話としてとらえることの大切さを、使徒行伝は教えてくれます。

●シラ書45章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=45&mode=0
 モーセとアロンの話。モーセはともかく、アロンの祭服のきらびやかさをこれでもかこれでもかと強調するのが面白い。昔の人にとってきらびやかな祭服ってこういう意味があったのね。

[881] ヨナ書(全) 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/16(金) 10:22:08 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=jon&chapter=1&mode=0
 十二小預言書の中でヨナ書は異色の書。面白い物語の形式をとっています。今日を逃すとあとは面白い日はありません。
 ヨナ(アミッタイの子)という人物は王下14:25に出て来ます。たぶん同じ人でしょう。北王国のヤラベアム2世(北13。BC786-746)の時代の人。このときが北王国の絶頂期で、領土が一番拡大したときでした。
 ニネベというのはアッシリアの首都。世界史の教科書にも出てくるほどの有名な町です。ヨナはアッシリアの悪を告発するよう神様から命ぜられますが、ヨナはこれを嫌ってタルシシへ逃げようとします。スペインつまり西の果ての町。世界の果てまで逃げようとしたんですね。単にかったるかったわけではありません。逃げようとしたのには理由があります。それは後でわかります。
 ところが乗った船が大嵐にあいます。神様に逆らったヨナがこのわざわいの根源だというので海にほうりこまれ、大きな魚にのまれ、そこで三日三晩をすごします。これがイエス様が処刑されて三日間陰府に下ったことの象徴だとするのがマタ12:40です。
 この魚の名前はヨブ40:25(昔の章節だと41章冒頭)に出てくるלִוְיָתָןだとされています。リヴヤタン。このページで発音が聞けますね。
http://ja.forvo.com/word/%D7%9C%D6%B4%D7%95%D6%B0%D7%99%D6%B8%D7%AA%D6%B8%D7%9F/
 ふつうはわにと訳しますが大蛇だという話もありよくわかりません。ギリシア語ではδρακωνと訳されています。ドラコン、龍ですね。
 ラテン語ではleviathan。これはヘブライ語そのまんまですね。英語ではリヴァイアサンという発音になります。ホッブズ(1588-1679)の著書(1651)にそういう本がありますね。人間は自然状態だとみんなが敵対しちゃうんで、自然権を政府に譲渡してその混乱状況を避けようとするのだ、というので絶対王政を擁護した本です。その政府をこの怪物にたとえています。
 画像はleviathanで検索するといろいろ出て来ます。たとえば
http://frontiersofzoology.blogspot.com/2011/05/doctor-shukers-leviathan.html
 さて、無事に魚の腹を脱出したヨナは、40日後にニネベが滅びるぞと預言します。
 ところがニネベの人たちは改心して斎戒沐浴、沐浴はしてないかしら、ともあれそのおかげで滅亡は回避されてしまいます。
 これをヨナは不満に思い、神様に抗議したところ、神様はとうごまの奇跡をおこされてヨナをたしなめます。暑い日にとうごまの木を成長させて暑さをしのぐ陰を作ったかと思うと枯らしてしまう。お前がこのとうごまの木さえ惜しむようにわしはニネベの住人を惜しむのだ、という話で終わります。

 ヨナ書は面白いうえ、外国人であるニネベ、しかも北王国はアッシリアに滅ぼされちゃうわけですから敵ですよね。敵をも神様は救われるのだというお話です。
 アイヌに伝道したバチェラーは、聖書をアイヌ語に翻訳、新約・詩編に加えてヨナ書を翻訳しました。おとぎ話のような面白さに加え、外国人を神様が救うという話は、アイヌに読ませるのに最適だと思ったのでしょう。

 さて、ヨナ書のポイントは、おとぎ話なのか、神様の命令から逃げちゃダメということなのか、外国人をも神は救うってことなのか。
 私はヨナの不満の理由だと思います。
 ニネベが救われたことが不満だってことなんですが、外国人が救われたのが不満なんでしょうか。
 そうじゃないと思います。
 ヨナは結果的にウソつき、デマ男になってしまったんですよ。それが不満なんです。たぶん。
 破滅を予言(未来のことだから予言も預言も同じに使っちゃいますね)する人のパラドックス。
 その予言はハズレることが望ましいんです。彼はデマ男扱いされるのが望ましいんですよ。
 でも、私たちはウソつき呼ばわりされたくなくて、破滅の予言があたることを、心のどこかで望んでいませんか?
 たとえば福島第一原発の事故で、数年後に子どもたちが甲状腺ガンをいっせいに発病して、「それ見たことか、だからオレは半径80キロ以内はみんな避難しろって言ったんだ」とか。
 ホントは、ガン患者が一人も出ないのが望ましいんです。半径80キロ以内はみんな避難するというのがムダだったという結果に終わるのが望ましいんです。
 デマ男になることを恐れては、預言者になれない。まったく預言者ってつらい仕事ですよね。世界の果てまで逃げたくなるわ。

[880] 箴言28章、シラ書44章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/15(木) 10:00:27 ここから閲覧

●箴言28章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=pro&chapter=28&mode=0
 ここは個別にいろいろ面白いことわざがありますが全部略して次の話。
 8節。「利息と高利とによってその富をます者は、貧しい者を恵む者のために、それをたくわえる」。暴利をむさぼったって結局その財産は別の人に渡っちゃうよ、だから暴利をむさぼるなってことだと思いますが、逆に「世のため人のためにお金もうけをすることは吉」ととってもいいと思います。もうけることは罪じゃありません。
 それよりなにより、冒頭の「利息と高利」っていうの、私がレビ25:36でひっかかってた「利子も利息も」じゃありませんか! [849]参照。

מַרְבֶּה הֹונֹו בְּנֶשֶׁךְ [וּבְתַרְבִּית כ] (וְתַרְבִּית ק) לְחֹונֵן דַּלִּים יִקְבְּצֶנּוּ׃

ですから、レビ記で「利子」と訳していたבנשをこちらでは「利息」と、レビ記で「利息」と訳していたבתרביתをこちらでは「高利」と訳しています。こちらのほうがわかりやすいですね。
 新共同訳の引照つき聖書でレビ25:36を見ても、箴言のこの箇所への引照が入ってない。逆に箴28:8を見ると、レビ記への引照が記載されてるのよ。知ってるんならレビ記のほうにもこの引照を記載してよ。まったくいじわるね。
 聖書の翻訳って多くの人が分担してやるわけですけど、レビ記と箴言だったらまず同じ人がやることはないでしょうね。訳語の統一がなかなかはかれない。でも適切な引照があればなんとかなるわけです。
 ウェストミンスター信仰基準の第1章9項にいわく、

聖書解釈の無謬の規準は、聖書自身である。従って、どの聖句の(多様ではなくて、ひとつである)真の完全な意味について疑問のある場合も、もっと明らかに語る他の個所によって研究し、知らなければならない。二ペト1:20-21、{act15:15-16}
The infallible rule of interpretation of Scripture is the Scripture itself: and therefore, when there is a question about the true and full sense of any Scripture (which is not manifold, but one), it must be searched and known by other places that speak more clearly.

というわけで、聖書のわかんないところは聖書で調べるっていうのが鉄則、だから引照って大事なんですよね。なんでも中国にも「経を以て経を解く」という言葉があるらしく、経書の注はできるだけ同じ書物の他の箇所から取る、どうかすると文体までその書物のものに似せるっていうのが、エレガントな注の書き方らしいです。

●シラ書44章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=44&mode=0
 ここからしばらく、イスラエル史のおさらいになります。44章はエノク~ヤコブ。創世記を思い出しながら読みましょう。

[879] 詩編117-118編 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/14(水) 09:49:44 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&bible1=bhs&book=psa&chapter=118&mode=0&direction=0
 117編はあっけなく終わってしまいますね。
 その117編2節に出てくる言葉をちょっと変形した「そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」というのがリフレインされているのが118編。詩編の各詩の区切りなんてけっこういいかげんですから(実は先週の114と115はヴルガタやLXXだと一つ(113)で、逆に116が114と115に分割されるという感じです)、まとめて一つと考えてもいいかもしれません。
 ヘブライ語だと
כִּי לְעֹולָם חַסְדֹּו
キー・レオラム・ハスドー
という感じになります。最初のキーは接続詞として「なぜなら」とか、引用の「~と」とか、また「まことに」みたいにも使います。私は引用の「と」だと思いますけど、Geseniusはbecause(なぜなら)の意味にとってますね(p.392)。KJVはbecauseだしRSVはforだし、英語国民はそうとる傾向があるのかしら。
 新共同訳の文体はあんまり朗読にふさわしくないと悪評ふんぷんで、日本聖書協会は「標準訳」なんていう新しい訳の作業に入ったみたいですけど、ここを「慈しみはとこしえに」と簡潔に訳してます。結局キーの解釈を投げたんではないかと思うんですけど、朗読CDで聞いてると、これはこれでとってもきびきびしてていいです。口語訳の中では最高じゃないかしら。念のためいろいろ比較してみます。

口語訳:そのいつくしみはとこしえに絶えることがない
文語訳:そのあはれみはとこしへにたゆることなしと
新改訳:「主の恵みはとこしえまで」と。
新世界:「その愛ある親切は定めのない時にまで及ぶからである」と。
フラ:ヤーウェのいつくしみはとこしえにきわまりない。
岩波:まことに、かれの恵みはとこしえに
関根:その憐れみは永遠につづくと。
バルバロ:“その愛は永遠”(新しいほうだと最後に「と」がつく)
尾山:主の愛は永遠に続く
光明社:その御憐憫(おんあわれみ)の世々に存することを
正教:其(その)憐(あはれみ)は世世にあればなり

一つ一つ口に出してみてください。いかに新共同訳の「いつくしみはとこしえに」が口調がいいか。5・5っていうリズムがきいてますね。こんなこともあるんですね。
詩編はとくに、朗読したときの美しさを追求して訳してほしいわ。

[878] 歴代誌下11-15章、シラ書43章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/13(火) 04:25:12 ここから閲覧

●歴代誌下11-15章
 王国の南北分裂後の1-3代目、レハベアム、アビヤム、アサの治世の話です。
 [787]の「南北の王名を覚える歌」では4番の

南はユダ族、ベニヤミン
治める王様レハベアム
アビヤム、アサ、ヨシャパテと経て
北と同名ヨラム立つ

ですね。なんでいきなり4番かというと、1-3番は北の王様だからです。歴代誌は北をすっかりシカトしてますからね。
 [787]では「ユダ族、エフライム」なんて書いてますが大間違いです。エフライムは北で、ユダが南の代表ならエフライムが北の代表部族ですね。
 北の滅亡後は十部族は消滅し、実質的にユダ族がイスラエルの民全体になってしまったので、以後は「ユダヤ人」がイスラエルの民全体を表すようにもなったんですが、ベニヤミンも小さいながら一応存在します。パウロがそうですね。
http://www.logos-ministries.org/old_b/2chr11-13.html
を読むと、パウロがベニヤミンを誇りにしてるのは、ユダ族=イエス様で、ユダ族につきしたがったベニヤミン族というところに「イエス様につき従うこの私」という考えがあるからだ、みたいなことを書いてますが、フィリ3(上のページ2章って書いてますが3章の間違い)見てもそんなこと書いてないじゃん。単に自分の出自をいってるだけじゃん。
 もう一つ上のページのおバカな点。歴代誌を読めば「失われた十部族」というのが根拠がないなんて書いてますが、その根拠は十部族の人たちもごく一部は南にやってきたってことらしい。あのー、部族が失われるって、人間が消滅することじゃありません。部族としてのアイデンティティが消滅することなんですけど。私だって先日、オバデヤのところでは[874]「エドム人なんて今はいない」なんて書きましたが、もちろん昔エドム人だった人たちの子孫は、あのあたりのあちこちにうじゃうじゃいることでしょう。歴史のある時期にエドム人がいっせいにこの世から消えたなんてことじゃないんです。

 さて歴代誌下14-15章では南3代目のアサの話。宗教浄化をして国が平穏だったなんて書いてますが、あれれれ、王上15:16には、戦争が絶えなかったなんて書いてますわよ。どっちが正しいんでしょうね。普通の人は先に列王記を読んじゃいますから、「歴代誌がウソ」になるんでしょうけど、ひょうとしたら列王記のほうがウソだったのかもしれません。
 でも歴代誌のほうが旗色が悪いのは、歴代誌は基本的に「いいことをした王様の治世は平和」という虚構をできる限り貫き通そうとしている点。ソロモンはいいことをしたので平和って言ってますが、いろんな悪政や反乱の話は書いてない。南北分裂の原因はソロモンの政治に民が不満だったからでしょ? でも歴代誌は悪い王様レハベアムに責任を全部なすりつける。こういう点があるから、歴代誌は信用がおけないんですよね。

●シラ書43章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=43&mode=0
 自然の造化の妙に神様の姿を見るというのは、昔からよくある手ながら、いちばん簡単に神様を実感できる方法です。『ツリー・オブ・ライフ』でも途中長々とそういうシーンがあります。私なんか5回も見ちゃった。
 ちなみに、『ツリー・オブ・ライフ』がよくわからなかったという人は、次のページが一番するどい読みをしているのでご紹介します。ばりばりネタばれしてますのでご注意を。
http://movieandtv.blog85.fc2.com/blog-entry-264.html

[877] 民数記29-32章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/12(月) 10:30:02 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=num&chapter=29&mode=0
 29章は新年祭の話。[784]で書いたように、ユダヤ暦の新年は7月から始まるんです。
 30章は誓いの話。似たような話がレビ27申23にもありますが、実際にこういう食べ物断ちみたいなことを伴う誓いっていうのがどの程度行われていたのかよくわかりません。実は聖書にも具体例がないんですね。唯一あるのが例の士11:30-40。エフタの娘の話ですよ。私が旧約聖書中で一番ふんがいしているあれです。お父さんがバカな誓いをたてるもんだから娘が処女のまま死ななきゃいけなかった。ヤハウェもヤハウェ、お前そんなに処女がいいのかっていうあの話です。こうしてみると誓いっていうのはしょーもないですね。イエス様の言うとおり(マタ5:34)、いっさい誓うな。ミ・オモーサイ・オーロス、Do not swear at all.ですわ。なお、昔、山本七平さんの宣誓論争っていうのがありましたが、この件については、
http://www.babelbible.net/lang/lang.cgi?lang=en&doc=en_swear&mode=frame&imode=0
をごらんください。

 さて、ここからがまた民数記らしいキナ臭い話です。
 31章。ミデヤン人と戦って勝利、大虐殺をします。ここでいうミデヤン人とは25章でいうモアブ人のことで、例のハニートラップです。イスラエルの民はミデヤン娘の色香にはまって神様の怒りにふれて24000人も死んじゃった、その復讐というわけで、子どもだろうと容赦はしません。男は殺し、女も非処女は殺す。ただし処女とはこれからエッチをするので生かしておく。モーセもえげつないですね。

 でも、そんなに処女っていいのかしら。私、はじめてのとき、相手がヘタクソだったんでなかなか入らず苦労したんですけど。最後にはじれったくなって自分から相手の上に乗っかって騎乗位でやっと入りました。私らしい処女喪失でしたが、おかげで相手からは、お前処女だって言ってたのウソだろう、血も出てないじゃないかと言われる始末。そうです。世が世なら私は処女の証拠を出せずに石打ち刑になる身(申22)なの。私みたいな魔女は聖書に殺されちゃうのよ。そんなわけで、聖書で処女論議が出てくるたびに私はむかむかします。
 ついでながら源氏物語で、光源氏が正妻の葵の上と最初なかなかうちとけられなかったっていうの、あれたぶん、セックスがうまくいかなかったってことの婉曲表現なんじゃないかしら。源氏もさまざまな女性と、特に六条御息所からの性のてほどきをうけてやっと葵の上を愛せるようになって夕霧を産んだってことじゃないかしら。男も女も、はじめてのセックスは、経験豊富な人からてほどきを受けるのがその後幸せになる気がします。
 エロチャンネルのパラダイスTVでやってる「処女喪失」シリーズ、処女の素人さんが出演の応募して、経験豊富な男優さんに処女を卒業させてもらえるという番組ですけど、女の子たちがみんな本当に幸せそうな表情してて「よかったね」ってこちらも幸せな気分になれる番組です。私もああいう処女喪失をしたかったです。

 で、32章。こんどはルベン(レウベン)族とガド族がうじゃうじゃ言ってきます。家畜も多いし、ここに定住しようよ。もう約束の地なんかいいよ、というわけですね。
 こういうところ、福音派系の解説を見ると、教会でみんなで一つのことをやろうとしているときに数人のものが反逆したり挫折したりすると全体の一致を乱して教会の成長を止めるっていうんですけど、私はそういう読み方をしたくないです。人にはそれぞれ事情があるんで、途中であきらめて目標を過小修正するってことはよくあること。そういう弱い人の側にたってくれるイエス様の愛が、モーセにはちっともないのよね。

[876] ヘブ1-4章、シラ42章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/11(日) 06:14:26 ここから閲覧

●ヘブ1-4章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=heb&chapter=1&mode=0
 ヘブライ人への手紙。著者は不明。伝統的にはパウロとも言われますが、早くから疑いも多く寄せられています。だいたいパウロだったら手紙の冒頭や最後やその他あちこちに自分の名前をちりばめるはずですけど、この手紙には一つも名前が出て来ません。だからこそ聖書無謬説の方々は、今までのニセ・パウロの手紙については「パウロが書いたなんてウソだ」と言うと怒るのですが、これについては怒りません。そういうふうに言ったとしても聖書本文に間違いが出てくるわけじゃありませんから。
 題名のとおり、ヘブライ人つまりユダヤ人にイエスこそがキリストであることを説明するために、旧約聖書のあちこちを引用しながら説明した手紙です。福音書でいえばマタイみたいな感じ。4つの福音書のなかでマタイが一番読みやすいと思う人は、この手紙も読みやすいかもしれません。

 とはいえ、冒頭はなんか難しいですね。しかも4章ぶんもわりあてられているので大変。大ざっぱには、イエス様は神の御子であり、いままでの預言者や御使いよりもえらく、もちろんモーセよりもえらい、私たちを救う大祭司であるってことなんですけど、ここでは話を第4章にしぼります。
 著者は私たちが救われること、神の国に入ることを「神の安息に入る」と言ってます。でもこの約束は、私たちが悪いことをすると反故にされてしまう可能性があります。3章に書いてあるように、そして月曜日に民数記を読んできたように、イスラエルの民は砂漠の行軍が大変だ大変だとぶつぶつ言って反乱を起こしたりしたので、結局エジプトを出発した第一世代はヨシュアなどの例外を除いてみんな約束の地に入れなかった。
 では、神の安息に入れないような悪いことって何かというと、4章によれば、それは安息日を破ることらしい。ポイントはヘブ4:4-5ですが、前半の「7日目に休んだ」はもちろん創2:2、また出20:11です。後半の「彼らを安息に入らせない」は、またここでなんて書いてますけど全然違うところ、詩95:11です。この人にとっては旧約聖書に書いてあれば全部同じところなのかもしれませんが、もともとは、エジプトを脱出したイスラエルの民が四十年間さまよったあげく、約束の地に入れなかった話です。それを安息日と結びつけるのもずいぶん強引ですが、いずれにせよ著者は大まじめにこう主張しているわけです。
 神様が休んだ日に休まないようなやつは、最終的な神様の休み=救いにあずかれないぞ、というわけですね。ユダヤ人が、殺すなかれみたいな重要な十戒を平気でやぶるのに、安息日みたいなどーでもよさそーなものを守ろうとする意味が、なんとなくわかってきました。

●シラ書42章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=42&mode=0
 前章と反対に、恥じてはいけない、やることをためらってはいけない、積極的にやりなさいという話。いろいろ面白いことが書かれてますけど、最後には言いたい放題、14節「徳のある女より悪い男のほうがましだ。女は恥辱と不評をもたらす」みたいに女を悪者にするのはなんだかなぁ。
 で、15節以降はシラ書のあらたなステージに入り、主の作った自然や過去のイスラエルの歴史を回想しながら主の偉大さをたたえるという内容に入っていきます。

[875] 使徒1-2章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/10(土) 07:58:12 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=act&chapter=1&mode=0
 土曜日は福音書を読んできましたが、今日からは使徒行伝。聖書によっては「使徒のはたらき」「使徒言行録」「初代教会」など変わったタイトルをつけています。
 著者はルカ。冒頭にあるように、ルカ福音書の第二巻というわけです。ルカ自身はこの2巻の著作を何とも呼んでいません。ということはルカ福音書を「福音書」なんて一度も呼んでいませんし、使徒行伝を「使徒なんたら」とも呼んでいないわけです。このことは田川先生がいろいろ言ってます。特に今週やっと出た使徒行伝では(p.679)、使徒行伝の著者が一度もパウロのことを「使徒」と呼んでない、呼ぶとしても例外的にバルナバと列挙して呼んでいるだけだ使14:4,14ということを指摘しています。
 いずれにせよイエス様の言行については情報源が4つもあったのですが、使徒たちのことは、書簡の一部にちらちらと出てくることを丹念に読むというのもありますが、基本的に使徒行伝を読むしかありません。

 さて、復活したイエス様はしばらく地上に滞在していたのですが、40日めに天にのぼっていってしまいます。ウルトラマンの3分間よりははるかに長いとはいえ、この地上は、一度死んだ人にとってはよっぽど住みにくいのでしょう。今でも教会ではこの日を祝いますが、木曜日になるためあんまりはでなことはしません。ここから後にいうペンテコステまでは親分がいないわけでして、弟子たちはさぞや不安だったことでしょう。カトリックではこの9泊10日間は連夜のお祈りをするらしいです。
 そんな中で欠けた12人めの弟子を選任。しかし、使1:18のペテロの発言によれば、ユダはずいぶん悲惨な死に方をしたようですね。そういえばルカ福音書ではユダの最期の話は書かれておりませんでした。あとはマタ27:3-5によれば首吊りらしいんで、かなり矛盾してますね。たった数日しかないのに、もうこうやって話には尾ひれがついてしまうようです。
 で、第2章になるとペンテコステ。弟子たちに聖霊が降臨して、いろんな言語をしゃべりはじめます。その画像は
http://mmbox.seesaa.net/article/109686664.html
だとかわいいんですけど、リアルに考えたらべろべろって汚そうですね。日本人は言語活動の象徴を「口」といいますが、あちらさんは「舌」ですからね。
 で、このいろんな言語、地名のようにも読めますが、文脈的には言語リストですね。当時の世界の言語一覧表みたいになってるんですが、ユダヤというのははあるのに、肝心のギリシア語がないっていう話を加藤隆さんが指摘しています。そのくらい、エルサレムではギリシア語のほうが当然で、むしろヘブライ語・アラム語のほうが珍しかった(ガリラヤ出身の弟子たちはなまりがひどくて標準的なことばがしゃべれなかったという意味もあると思います)ってことですね。
 さあて、これで弟子たちは力を得て宣教を始めるのですが、2章の最後によれば、当初は原始共産制。もちものは全部共有、必要に応じて分け与えたようです。財産全部出せなんてこれはカルトですねぇ。もっともこの制度はすぐに崩壊、使徒行伝の中でも少しずつ変化していきます。こういう教会の経済体制に着目しながら読むというのも面白いものです(これも加藤隆先生の視点)

[874] オバデヤ書、シラ書41章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/09(金) 07:40:59 ここから閲覧

●オバデヤ書
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=oba&chapter=1&mode=0
 旧約聖書中一番短い書。たった1章。たった21節しかありません。
 先日の日曜日は新約聖書中で一番短いフィレモンの手紙を読みました。私たちは、こんなに短いものが聖書として採録されたってことは、山椒は小粒でもぴりりと辛いみたいに、なにかすばらしいものが凝縮されているんだろうって思うわけですけど、見事に裏切られてしまいました。奴隷解放みたいに猛烈に拡大解釈しないと、何これみたいな内容でしたよね。
 今回のオバデヤ書もまさにそう。
 時代は諸説あります。新聖書注解は、エルサレムが攻撃されていたときにエドムが敵対していた時期という手がかりから、南5代目ヨラム王(849-842)のころだろうということにしています。
 で、今も見たように、イスラエルの民の宿敵エドム人に対する預言がオバデヤ書。悪いことをしたエドム人が滅びて、イスラエルの捕囚の民が解放されて王国が栄えるという話です。
 でも、エドム人なんて今はいないですし、そんな昔の民が滅びる話なんか読んでもおもしろくありません。拡大解釈したところで「悪い奴は滅びる」というような話でしかありませんからね。
 旧約聖書がつまらないときは、引照つき聖書で読んで、新約のどこで参照されているかを調べながら読むという手がありますけど、オバデヤ書はあまりにつまらなすぎて、新約でもいっさい参照されていません。
 しかたがないので、旧約聖書の他の部分との関係で読んでみたところで……
 エドム人というのはエサウの子孫ということになっています。エサウというのは創世記25章で出てきましたね。おなかがすくあまりヤコブに赤い豆スープをねだって長子権を放棄しちゃう。でもヤコブだってその後、汚い手を使って父イサクから祝福を奪っちゃうわけですから、どっちもどっちじゃん。
 エドムの中心都市はテマン。テマンといえばヨブ記のテマン人エリファズ、第一の友人として出てきました。あの人もエドム人だったわけですね。
 ……うーむ。つまらないわ。
 まあ、聖書の記述の意味がわからなかったり、反感を抱いたり、つまらないと思ったときに、一番いいのは「ほうっておく」ことです。今はつまらなくても、将来ひょっとしたら面白く読めるときが来るかもしれません。そうなるまではヘンな解釈をせずに正直に「つまらないや」と思っておけばいいんです。

●シラ書41章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=41&mode=0
 後半は次章とセットで「恥じよ」シリーズ。こういうことはやめましょうという話がいっぱい続いてます。
 個人的には「父母の前での不倫を恥じよ」がぎくっときます。いえ、私のエロぶりが父母にばれたということはないんですが、以前申しましたかしら、私、学生時代につきあっていた人と卒業とほぼ同時に、父親の反対をおしきって結婚しまして(もうこのときは母は死んでおりました)、すぐ離婚しちゃったんですね。別にこのこと自体は不倫じゃないんですけど、それまでも憎み続けていた父と、以来音信不通ですから。私にも後ろめたさがあるのかもしれません。

[873] Re:箴言26-27章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/08(木) 19:59:24 ここから閲覧

違ったわ。

Davidson(p.248)をよく見たら、 יָחַד(最初のほう)はKal動詞つまり基本動詞で、これだとto be sharp、sharpened、つまり基本形で受身になり、יַחַד(後のほう)がヒフィル体でto sharpen、つまり能動体。

だから前半が受動、後半が能動っていうのがいいってことですね。
すると合格は岩波と新世界というわけですか。

[872] 箴言26-27章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/08(木) 11:20:24 ここから閲覧

http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=pro&chapter=26&mode=0
 雑多なことわざが並んでいるところはまとめようがないので、いくつか気に入ったものをとりあげるしかありません。今回は思い切って一つにしぼります。

 箴27:17 「鉄は鉄をとぐ、そのように人はその友の顔をとぐ。」(口語訳)

 ケンカなのか切磋琢磨なのか、いずれにせよそういうことですよね。
 で、なにげなく新改訳を見ると、

 鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。

 あれれ、受身になってるわ。どっちが正しいの? というわけで、今日はこの点にしぼります。
 まずはいろいろデータを並べておきます。

 BHS:בַּרְזֶל בְּבַרְזֶל יָחַד וְאִישׁ יַחַד פְּנֵי־רֵעֵהוּ׃
 文語:鐵《てつ》は鐵《てつ》をとぐ 斯《かく》のごとくその友《とも》の面《かほ》を研《とぐ》なり
 フラ:鉄は鉄を研ぎ、人は友の心を磨く。(注:「心」は文字どおりには「顔」。教育を与える方法は友人と共に切磋琢磨することである。箴13:20参照)
 新共同:鉄は鉄をもって研磨する。人はその友によって研磨される。
 岩波:鉄は鉄によって磨かれる。人はその友の顔を磨く。(注:「磨く」と訳した二つの語は、マソラ本文の母音符合を変更した結果。「切磋琢磨」の意味に解した)
 関根:鉄が鉄を鋭くするように、人はその友の機智を鋭くする。(注:機智は原文「顔」)
 新世界:鉄はまさしく鉄によって研がれる。同じように,ひとりの人が他の人の顔を研ぐ。
 リビング:鉄で鉄を打つと火花が散るように、友だち同士の熱のこもった議論は、互いの刺激となります。
 KJV:Iron sharpeneth iron; so a man sharpeneth the countenance of his friend.
 RSV:Iron sharpens iron, and one man sharpens another.

 こうして見ると、顔をどう意訳するかというポイントもあるようですが(ちなみにKJVのcountenanceは「顔色、顔つき」)、それも無視して受身かどうかの話にします。岩波の「マソラ本文の母音記号を変更」なんてビビっときますものね。でも、そしたらちゃんと解説してほしいんだけど。訳者の勝村弘也さん。

 問題となっている動詞は、יָחַד(ヤハド)です。2番目に出てくるほうは目をよくこらして見るとיַחַד。これは最初のほうが休止形という形で、句読点が来たために母音が変化しているんです。テキストによってはיֳחַדとなっていることもあります。そっちのほうが正しいかもしれません。読み方もたいした違いはありません。
 で、יַחַדというのは、たまたま「みんなこぞって」とか「結合」という副詞として使われる名詞とまったく同形ですが、חָדַד(ハダド)のヒフィル体・未完了・3人称・単数・男性形で、「鋭くする」という意味をもった動詞です。ヒフィル体というのは、PaQaR(P,Q,Rが子音)という基本形動詞に対して、hiPQiyRという形をとる派生動詞です。
 未完了・3人称・単数・男性形ではyaPQiyRつまりヤフィールみたいな感じになりますが、今回の動詞はひとくせもふたくせもあるイヤなもの。第一子音がחつまり喉音のものはくせのある変化をし、さらに第二子音と第三子音が同じというのも悪質な変化をします。ここらへんになると簡単な文法書だと割愛されてたりします。私もうまく説明できません。Davidson(p.307)を信頼しましょう。
 この分析が正しければ、これを受身に訳すのはダメで、能動で訳さなきゃダメです。
 岩波や新世界が最初のほうを受身にしているのは、 בְּבַרְזֶל(ベ・ヴァレゼル)が「鉄によって」「鉄を用いて」だからなんでしょう。
 いずれにせよ、両方能動体にするか、前半受身・後半能動体にするかというところですね。

[871] 詩編114-116編、シラ書40章 投稿者=真理子 掲示日=2011/09/07(水) 20:16:38 ここから閲覧

●詩編114-116編
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=psa&chapter=114&mode=0
 114編。口語訳だとわかりにくいですが、ヨルダンというのはヨルダン川。その流れが退いたというヨシュア記での奇跡の話。海が逃げたほうは例の出エジプト記の話です。山や小山(他の訳では丘)が踊ったというのは契約をもらったときの地震の話(出19:18)です。神はわれらに契約を与え、おどろくべき奇跡をおこなってくださるという話です。
 115編は信者には大事かもしれませんがつまらない詩。偶像とわれらの神とはどう違うかという話です。偶像は人間が金属で作ったもので口があっても語れない…なんて陳腐な批判です。昔の偶像崇拝は本当にそういうくだらないものだったかもしれませんが、時代がたって人々は、偶像は神様のような目に見えないものを見えるようにするかりそめのシンボルにすぎないという理屈を編み出しましたので、いまやキリスト教でも平気で偶像使ってます。
 116編は冒頭2節を見ると神様への信頼を高らかにうたった詩なのかと思いますが、メインテーマは後から出てくるかもしれませんので注意です。どうもこの人は死を目前にして、神様に「救って下さい」と言っているらしい。私はいまわのきわにこんな祈りを祈れるかしら。

●シラ書40章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=40&mode=0
 後半、AもBもいいんだけど、もっといいのはCだ、というリフレイン。19節では名誉より妻だと言ってます。わかった? ダーリン?