真理子の聖書日記 真理子の聖書日記

このサイトを作りながら、聖書を読みながら真理子が考えたことです。
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[862]ネットの『ふしぎなキリスト教』批判に対する著者2氏の見解
投稿者=真理子
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掲示日=2011/08/31(水) 07:04:24
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 8/30の夜、池袋ジュンク堂で、『ふしぎなキリスト教』の著者、橋爪大三郎、大澤真幸氏のトークイベントがありました。このところこの本に関してはTwitterで間違いが多いとかなり批判がよせられており、
http://togetter.com/li/150577
アマゾンの書評でも批判がよせられています。
http://www.amazon.co.jp/%E3%81%B5%E3%81%97%E3%81%8E%E3%81%AA%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%A9%8B%E7%88%AA-%E5%A4%A7%E4%B8%89%E9%83%8E/dp/4062881004
 このことについてどう思うのか、私が行って問いただしてみようと思ったのですが、急病でダウン、かわりに私の愛する主人が聞いてきてくれました。以下は両氏の見解です。


橋爪大三郎
 ネットでの批判がたくさんあるということなのですが、私個人の一般的な立場で申し上げると、この本の中にもいろいろなタイプミスとかいい間違いとかがいくつかありました。それは第2刷、第3刷そのほかで訂正ております。今後もそういう、明確な誤りが発見されれば、機会をとらえて訂正いたします。
 次に、たくさんあると言われている誤りの種類なんですけど、もし、考え方の違い、意見の違いということをもって誤りだとおっしゃるのであれば、それは誤りにはならないのではないかと思います。意見の違いと誤りは違います。もし誤りに類するものであれば、ご指摘いただければ個別に考えるんですけど、私が見ている限り、誤りに類するものはもうあんまりないはずです。
 もうちょっと言うと、これはどういうものかというと、今までみんなが印象派の絵をかいていたところに、例えばゴッホが女の絵をかいたら、目がまがってるじゃないかとか、鼻がこんなわけないとかいう印象をお持ちの方もいるかもしれないけど、それも真実の姿です。真実の姿を伝えるために、今までの表現方法や論理と違ったものをあえてデフォルメして、デフォルメっていうのは基準があるからデフォルメっていうけど、より正しく提示していくということなんですね。
 それを楽しんでくださる方もいるかもしれないし、それを困ったことだとお考えの方もいるかもしれない。そういう問題ではないかと私は思っております。

大澤真幸
 率直にいうと私はネットをほとんど見ていません。若干は知ってます。教えてくださる方もいるので。でも体系的に研究して見てはおりません。ただ、知ってる限りでいうと、本の趣旨を勘違いなさっているんじゃないかなと思うこともあります。でもそれもちゃんと見てからでないでないと申しませんが、結論からいえばそういうことです。
 ある意味でうれしいですよ。ネットで評判にしてくださるということは。1997年でしたか、加藤典洋さんの『敗戦後論』という本が出たとき、ものすごく批判する人がいて、ぼくもそれなりに異論もあったし感動したところもあるし両方だったんですけど、ぼくが予想している以上に反論や批判がたくさんあった。加藤さんがそれで不愉快な思いをされた可能性もあるんだけど、ぼくははたから見ていてちょっとうらやましくて。
 どうしてかというと、そこまで反論するということは、よほどその人たちの琴線にふれたってことなんですよね。そうじゃなかったらぼくなんか無視しますから。そんなに熱心に反論してくるなんて、いいなって思いました。ぼくはだから加藤さんの本が出たときに、加藤さんの本ってぼくが予想しているよりもっと偉大なんだって、改めて思ったんですね。だからそうやっていろいろ(批判が)出るのはいいんじゃないですかね。ぼくの知ってる限り、重要な本はほとんどたいてい批判のほうが多いです。集中砲火的に批判されなかった本で偉大な本ってまずないです。だからそれはそれでちょっとうれしいんですが。
 ただですね、やっぱり基本は、この本に対して本当にご不満のある場合は、ご自身もちゃんとした本とか論文とかを書いて、これより説得的なものになればこんなものは退けられるに決まっているんですから、これ以上の内容を書けばいいんじゃないかと思います。そういうものが出てきたら私もそれを読んで、ああ、この本の歴史的使命は終わったんだなと思うときもあるのではないかと、そうなれば非常にうれしい、よりいっそううれしいと思います。

[861]詩編111-113編
投稿者=真理子
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掲示日=2011/08/31(水) 06:05:07
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&bible1=bhs&book=psa&chapter=111&mode=0
 今日の詩は3つとも「主をほめたたえよ」で始まります。「主をほめたたえよ」ってハレルヤです。新共同訳や新改訳だとそう訳してますが、口語訳はなぜかそう訳してませんね。
 ハレルヤって聖書にいっぱい出て来そうで、実は詩編と黙示録にしか出て来ません。新共同訳や新改訳はどちらもそう訳しているのに、口語訳は、黙示録はハレルヤと訳し、詩編はそう訳してません。旧新約の連絡がうまくできてないみたいです。
 ついでながら新世界訳ではハレルヤって訳さないんですね。旧新約とも「あなた方はヤハを賛美せよ!」です。なんででしょう?
 今日は右側にヘブライ語のBHSをつけました。111編と112編は実はいろは歌なんですね。各行の冒頭がヘブライ語の22の子音、
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で始まるのです(各行つなげちゃうと右から左に流れるのでとりあえずこのままにしておきます)。
 哀歌もそうでしたね。でも哀歌みたいに22節になってると「もしや」と思いますけど、今回みたいに複数行がまとめて一つの節になってると、翻訳で読んでる限り絶対に気づきませんよね。いや、ぼけっとしてるとヘブライ語で読んでても気づかないかもしれません。いろは歌になってるところは全部そう書いてほしいですね。
 いろは歌については、前に哀歌のところで書きましたけど([672])、こういう形式にのっとるからこそ感情が強まるってことがあるようです。形式的なものは感情にとぼしく、自由な形式のものこそが自然な感情の吐露だって現代人は考えますけど、そうじゃないみたいです。
 3つとも交読文にはとられてませんけど、内容的にはこういうものこそ交読文に入れるべきじゃないでしょうか。111編の最後「主を恐れることは知恵のはじめ」って箴言にもあったような名文句もあるし、3つとも主は私たちを守り幸せにしてくれるっていう、おめでたい内容じゃありませんか。13編の最後「子を産まぬ女」ってところは私はギクっとしますけどね。早く私をお母さんにしてちょうだい。