真理子の聖書日記
真理子の聖書日記
このサイトを作りながら、聖書を読みながら真理子が考えたことです。
真理子修道会の修道女/修道士の方のみ書き込むことができます。
掲示板運営方針(必読)
検索語[] ヒット数983
[796]1テサ4-5章、シラ14章
投稿者=真理子
メールを送る
掲示日=2011/07/17(日) 10:11:25
ここから閲覧
●1テサ4-5章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=1th&chapter=4&mode=0
馬鹿パウロの生活指導。
もちろん「清い生活をしろ」という指導が悪いわけではありませんが、馬鹿パウロの邪悪な点は、一テサ4:15にあるように、この愚かな男が、自分が生きている間にキリストの再臨=最後の審判がやってくると信じて疑わない、というところにあります。
つまり彼のいう清らかな生活をしろというのは、すぐに終末がやってくるんだから、それまでに罪を犯しちゃうと元も子もなくなる、ということなのです。
いわば「週明けには健康診断があるから、今週末は酒を控えておくか」という発想。
いや、それだけならいいんですけど、いまでも怪しげなカルト教団が(キリスト教の中の一部の教派もこれに近い主張をしたりすることがあります)、終末が近いとかいって、どうせお金は役に立たなくなるんだから献金しましょうとか、大学進学はやめろ、仕事はやめろと言ってるでしょう。パウロの指導はまさにこれなんです。
はっきり言います。当時のキリスト教団は怪しげなカルト教団です。
別の言い方をすれば、自然発生的でない創始者のいる宗教は、どこもかしこも、当初は怪しげなカルト教団から出発して、だんだん穏健な団体になっていくってことなんですけどね。
そういう穏健な団体になってからは、当初の過激な主張っていうのは、割り引いて解釈すべきなんで、ここも割り引いて解釈すべきところです。
清らかな生き方をしろというのは言うは易いですが、人間、生きてくためにはいろいろ汚れたこともしなきゃいけません。それに目をつぶって、清らかに生きろというのは、人生の重要な一面を故意に無視する、きわめてゆがんだ思想であると思います。
実際、イエス様は、汚れた生き方しかできない人々、罪を犯さねば生きていけない人々の側にたってくださったのではないのですか?
今日のところは、そういう根底の思想の邪悪さを除けば、少なくとも表面的には、紙に書いて壁に貼っておくのにふさわしい美しい教訓に満ち溢れていますから、そういう表面的な使い方にとどめておくことです。
●シラ14章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=14&mode=0
死んだらお金も快楽もなくなっちゃいます。苦労してお金をためても、使うのは(息子かもしれませんがしょせんは)他人です。適度な範囲で楽しい人生を送ることです。
[795]ヨハネ1-2章
投稿者=真理子
メールを送る
掲示日=2011/07/16(土) 10:32:27
ここから閲覧
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&bible1=guetz&book=joh&chapter=1&mode=0&direction=0
福音書は今日からヨハネによる福音書です。
ヨハネ福音書は、はじめて日本語に訳された聖書ですね。ギュツラフ訳(1837)。中国で活躍したドイツ人宣教師。3人の漂流漁民から日本語を学んでヨハネ伝を翻訳、シンガポールで出版しました。
聖書を全部翻訳するのは大変なので、旧約は後回しにしてまず新約からとか、新約全部も大変ならまず福音書からとか、重要だと思われる書から翻訳するのが普通ですが、ヨハネ伝が最初だってことは、4つの福音書の中ではこれが一番重要だと思ったのでしょうか。
1章を読んでおわかりのとおり、光だの闇だの、非常に哲学的なんですけど、ここに出てくるイエス様は、かなりいっちゃってますよね。2章なんか、実のお母さんにむかって「おなご、おまえ、わしとともになにをせるか」(ギュツラフ訳)はないでしょう。私なんかこういわれたらばしばし平手うちしてやりますわ。
ヨハネに出てくるイエス様は教えの権化という感じで、血が通っていない。後にいろいろ出てきますが、びっくりするほど残酷なことも平気で言ったりしたりします。
こんなふうに非常にクセのある福音書なので、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)のイエス様に親しんでいる人にはとてもとっつきにくいのですが、逆に、理屈をこねくりまわしたい人、オカルト・神秘が好きな人など、いっちゃってる方にはヨハネのほうが面白い。そんなふうに人を選ぶ福音書です。
冒頭の「はじめに言葉があった」はとても有名。結局この言葉ってイエス様なんですよね。
イエス様を神格化すると、じゃイエス様出現以前の人たちは救われないのかってことになっちゃいますけど、それに対抗して、実はイエス様は世の最初からいたという考え方があります。たとえば創世記では、一神教の神様がなぜか「われわれ」などという言葉を使っているところがありますが、それを根拠に「ほら、実は神様の隣にはイエス様もいるんだ」なんて言ったりするんですね。
そういう考えが、ヨハネの冒頭にも反映しています。
ギュツラフの「はじまりに、賢いものござる。この賢いもの、極楽とともにござる…」なんていうのは、日本語になってないという批判が多々ありますけど、じゃ今の訳の「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった」がわかりやすいかというと、全然そんなことはありません。ケセン語の山浦玄嗣先生は「初めに在ったのァ、神様の思いだった。思いが神様の胸にあった」と、解釈をまじえた意訳をしています。そのくらいにしないとわからないところ。それを考えれば、ギュツラフもけっこういい線いってると思うんですけどね。神様というと白いひげをはやしたおじいさんみたいな人格神をイメージしてしまう人にとっては、極楽くらいに言ったほうがむしろいいんじゃないかしら。