真理子の聖書日記
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[754]ルカ21-22章(あるいは礼拝入場料制度の提案)
投稿者=真理子
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掲示日=2011/07/02(土) 13:04:11
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=luk&chapter=21&mode=0
さて、ルカ福音書もいよいよヤマ場。イエス様が逮捕され死刑判決を受けるシーンです。
でも、もうこれ3回めですからね。さすがに飽きてきたので、今日はこの話はしないのよ。
今日とりあげるのはルカ21:1-4。貧しいやもめがレプタ(今なら50円玉かしら)を2枚入れる光景をイエス様が目撃して、あの女は生活費全部を入れたのだ、と説明するシーン。
この場合は、この神殿をイエス様が仕切ってるわけじゃないし、もう納めちゃったのを横目で見て、弟子たちに説明してるだけだから、いいんですけどね。
もしイエス様の教団にこの女がやってきて、レプタ2枚を差し出したとしたら、イエス様も弟子たちも、受け取りを固辞しなきゃだめよ。「おばあちゃん、こんなに出さなくていいのよ。おばあちゃんがこれ出しちゃったら、おばあちゃんは今晩何を食べればいいの?」ってね。
今日のこの言葉、牧師さんが説教にとりあげるとしたら、ほら、真心からたくさんのお金を出せばイエス様に認めてもらえるんですよ、みたいに使いそうですよね。
まともな牧師さんなら、今日のこの言葉は「イエス様はこういいますけどね、よい子のみなさんは真似しちゃダメですよ」って、警告しなきゃダメですよ。
以前、FEBC聞いてたら、全盲のゴスペルシンガー、大和田広美さんが、初月給を全部教会に献金したという話を聞いてのけぞったことがあります。なんでも、初物は何でも、その一部を主に捧げねばならないという聖書のどこかに書いてある話を、全部を捧げると思っていたらしい。全部献金しちゃったら生活できない、どうしよう、と思っていたら、お父さんから思わぬお小遣いをもらったので、これで献金ができると喜んで、献金しちゃった。
大和田さんはこういう天然ボケなところが魅力なんですけど、彼女の教会の牧師は、おおよしよしと受け取ったのかしら? 断られたという話を彼女がしてないところを見ると、たぶん受け取ったのね。だとすればまったくろくでもない牧師だわ。
牧師なら大和田さんがどういう境遇でどういう収入状況かは知ってるはず。それに不釣合いな多額の金を持ってきたら、ちゃんと面談をして、どこからこのお金を持ってきたのか、これを出して本当に生活できるのか、ということを確認しなきゃダメ。もし彼女が誤解をしているんなら、ちゃんとその誤解を解かなきゃダメ。「悪いけどこのお金は受け取れない」って固辞しなきゃダメよ。
かねがね私は、「殉教を美化する宗教は邪教」「多額の献金を美化する宗教は邪教」と言っております。
いわゆるキリスト教系カルト教団は言わずもがな、キリスト教を標榜している教会だって、邪教に片足、いや両足突っ込んでるところは多いわよ。
こういう教会に見学に行ったら、有り金全部献金しなきゃ解放してもらえそうにないから、こわいですよね。
まあ、もちろんこれは誇張で言ってるんですけど、でも、多くの人が教会に遊びに行けない理由って、実はこれなんですよ。もちろん帰りの交通費を含めて有り金を全部献金しろって言う教会はないと思いますけど、ああ、礼拝の献金のときに、いくら払わなきゃいけないんだろうって、こわいんですよね。
思うんですけど、教会の礼拝が入場料制度だったら、どれだけ入りやすいかわかりません。
1回1800円(割引なしの映画料金)くらいにして、そのかわり、礼拝中もあの怖い怖い黒い袋なんか回さない。牧師への個別の相談は、弁護士への法律相談に順じて30分5000円。結婚式はいくら、葬式はいくら、はっきり決めちゃう。
そのほうが、気軽に入れるんですよ。
お金に困ってる信者の方は、こっそり裏口から入れてあげるとか、スタッフ扱いするとか、いろいろやり方あるじゃありませんか。
[753]悪訳の見本「現代訳」
投稿者=HK. J.
掲示日=2011/07/02(土) 11:05:11
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自分も実は、読みやすそうだと思って、もっていますが、なんだか、肩透かしを食わされたような、意味を薄めてしまったような、物足りなさを感じます。
読みやすいことは読みやすいのですけど、なんだか聖書を読んでいるのではなくて、聖書の「要約」を読まされているみたいな感じ。特に旧約部分はそう。わかりにくい、なじみにくい、ヘブライ語の文学的な雰囲気が、すっかり抜けてしまって、骨と皮だけの魚のてんぷらを食わされているような感じ。
っていうか、彼にしたら、新約聖書部分のほうはすごく敷衍しているので、旧約のほうは手を抜いているのかもしれませんね。
かといって、通読に適しているかと言うと、この訳で「イメージ」がついてしまうと、他の訳を読んでも解釈が現代訳にひきずられてしまって、尾山さんの呪縛から逃れられなくなってしまいそうです。
同じパラフレーズなら、リビングバイブルのほうがずっと健全な気がします。個人訳じゃないし。