真理子の聖書日記
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[751]エゼキエル書31-36章、シラ書6章
投稿者=真理子
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掲示日=2011/07/01(金) 06:08:50
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●エゼキエル書31-36章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=eze&chapter=31&mode=0
31章はBC587年6月21日、32章は1-16節がBC585年3月3日、17節からがBC586年4月27日。33章21節はBC585年1月8日になります。なんだって時間順に編集してくれなかったのかしら?
BC587年になりますとユダ王国は完全に滅んでしまいます。バビロン捕囚というのは2回にわたって行われ、1回目のBC597年にエゼキエルは捕らえられてバビロンに来ております。その10年後に、故国が完全に滅び、エルサレムも滅んで神殿も破壊されたという話を聞くことになるわけです。
エゼキエル書というと、このところ訳文を比較しているエゼ23:20みたいなエログロも多数あったり、1章みたいなUFOまがいの話があったり、なんだかおっかないおどろおどろしい本というイメージがありますが、33章からは一番美しいところです。
故国が完全に滅ぶという絶望的な状況の中でも希望を失わず、こんどは神様自身が牧者すなわち支配者となった助け出してやるぞというわけです(34章)。
バビロン捕囚っていうのはけっして遠い昔の出来事ではありません。今回の震災や原発事故で、いつなんどき私たちは住みなれた土地を逐われるかもしれないということを見せ付けられました。そして避難先で、故郷はもう二度と人の住めない状態になったと聞かされたら…… そんな中で、私たちは、かつてのユダヤ人のように希望を持つことができるでしょうか?
●シラ書6章
http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=sir&chapter=6&mode=0
最初のほうは友人関係のことわざが並んでいます。
10節は、新共同訳の「食事のときは友であり」のほうが原文に近いとは思いますが、ごはんを食べさせてくれそうなときに近寄っていくという意味にとってしまうと、8節とほとんど同じになってしまいます。そうじゃなくて、同じ食卓で食事をするような親しい間柄でありながら、という意味だと思いますので、真理子のおまけでは「同じ釜の飯をくらいながら」としておきました。
ユダヤ人は異邦人と一緒に食事しちゃいけなかったわけで、それを乗り越えて異邦人とともに食事をしていいかどうかというのが、使徒行伝ではキリスト教がユダヤ教から脱皮していったきっかけになったわけです。
[750]Re[3]:#726 エゼキエル23:20
投稿者=真理子
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掲示日=2011/06/30(木) 19:33:12
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もうちょっと訳例を追加しておきましょうか。
●バルバロ
また、ろばのような肉をもち、種馬のような精をもつその好色漢に、ふたたび、かの女は恋いこがれた。
バルバロは旧新ありますけど、この部分は同じです。厳密にいえば、「ふたたび」のあとの「、」が新のほうはありません。肉がこの場合性器であることが不明確であること、そして、男に恋しているととっているのが難点です。
●尾山(現代訳)
たくましい男のそばめにでもなって、その男に体をもて遊んでもらいたいと願った。
●リビング
[19-20]それでもいっこうに懲りもせず、さらに淫行をほしいままにし、エジプトで売春をした若いころの愛人たちを思い出し、よりを戻して淫行を重ねた。
ねぇ、何とかしてよ、これ。新世界訳を改ざん訳っていうんならこういう手合いなんか改ざんも改ざんじゃない。リビングバイブルは超訳をうたっているからまあこんなもんでしょうけど、尾山さんかんべんしてよ。尾山さんのいうdynamic equivalenceってこういうことなの? 困ったわ。これって超訳、しかも悪い意味の超訳なんじゃないかと思うんですけど。