真理子の聖書日記 真理子の聖書日記

このサイトを作りながら、聖書を読みながら真理子が考えたことです。
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[721]殉教はダメよ、たかが宗教じゃない!
投稿者=真理子
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掲示日=2011/06/12(日) 10:38:40
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 [719][720]に関連しまして、最近エロ化と異端化の道を驀進中の当サイトですけど、聖なるペンテコステの日に私の基本的な考えを書いておきますわ。
 私は、殉教を美化する宗教は邪教だと思ってます。
 創価学会というきわめて排他的な息苦しい宗教の信者の家に生まれた私は、つくづくそう思います。私が父親と音信不通なのは、大学卒業のときに父の反対をおしきって結婚したということもあるのですが、創価の信仰を私が捨てたからです。いまだに母親のお墓には父の家に見つからないようにこっそりお参りしてますもの。なんだってこんな苦労をしなきゃいけないのかしら。
 ひどい拷問にあって死んだ豊臣政権〜江戸時代のキリシタンたちは、なんだって死ななきゃいけなかったのかしら。踏絵なんかいくらだってふめばいいじゃん。イエス様やマリア様の図柄の足つぼマッサージなら効果がありそうよ。いつからキリスト教は偶像崇拝になったのかしら。聖像なんてしょせんは偶像っていう正しい信仰を教えなかったイエズス会の宣教師は、つくづく罪深い連中だと思います。
 ずっと地下で信仰を守った生月島なんかの隠れキリシタンの信仰は、もとのキリスト教とは似ても似つかぬものになっちゃって、明治になってもカトリックには復帰しなかったわけですけど、それだったら最初からマリア観音みたいな感じで仏教の一宗派みたいな生き残り策をとれなかったのかしら。
 そうやって神仏習合しておいて、少しずつ正しいカトリックの信仰に軌道修正していけばよかったのよ。いや、そもそも西欧のカトリックの形に固執することだってないの。日本風に変容させたっていいじゃない。世界にはコプト教会とかアルメニア教会とかマロン派とか、キリスト教のバラエティがいっぱいあるんだから。仏教だってインド、ビルマ、チベット、中国、日本、みんな違うじゃない。
 たかが宗教なのよ(されど宗教なんだけどさ)。人を生かすことを考えず、死ぬことを美化して何が宗教なのって思います。

[720]ペンテコステと多言語
投稿者=真理子
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掲示日=2011/06/12(日) 09:33:07
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 今日はペンテコステです。日本ではまだ馴染みがないかもしれませんが、キリスト教ではクリスマスや復活祭と並ぶ大きなお祭りです。
 もともとユダヤ教では過越祭50日後に五旬祭というお祭りがあったんですが、過越祭の翌日(ヨハネだと翌々日なんだけど)にイエス様が復活しちゃいましたので、キリスト教徒にとっても復活49日後てことになります。復活が日曜日ですからこの日も必ず日曜日になります。
 で、この日に使2のように、空から舌が何本もべろべろべろと使徒たちの頭上に降りてきてぺろぺろぺろ、そしたらみんな突然外国語能力が身についていろんな言葉をしゃべるようになりました。これが世界への宣教の始まり。キリスト教会の始まりってことになるんです。
 舌がべろべろって気味悪いですけど、仕事能力の象徴が手、知力の象徴が頭、移動能力の象徴が足……、日本では言語能力の象徴は口ですけど、泰西では舌なんですね。
 いろんな言語をしゃべるようになったのが教会の始まりってわけで、キリスト教は当初から多言語的なんですね。
 そして、多言語といえばもう一つ、創11のバベルの塔の話が有名です。当サイト「ばべるばいぶる」はこちらから名をいただいてるわけですけどね。
 この両方のエピソードに共通することって何でしょうか。
 「いろんな言葉をしゃべろっていうのが神様の意思だ」ってことなんだと思います。
 バベルの塔の話は、「人間の思いあがりに対する警告」みたいにも読めますけど、創11:4を読むと、「有名になろう(=思いあがり)」だけでなく「全地に散らされることのないようにしよう」とあるのに注意してください。
 神様は、人間の団結を望んでないんです。いろんな違いを持ちながら全地に散らばることを望んでるんですよ。同じ言葉をしゃべって同じ文化をもって同じところにかたまるのは罪なんです。
 最近の震災・原発事故の話でいえば、バベルの塔の話は、原子力の火という制御不能のものに手を出す人間の思いあがりというふうにも読めますけど、むしろ、「がんばろう日本」「絆」みたいな、団結をことさらに強調するうっとうしさへの警告みたいに私は考えてます。
 むしろ、みんなばらばらになりましょうよ。
 同じことを考えてたら、みんなで間違った方向に進んじゃうかもしれませんよ。ネズミの集団自殺みたいに。
 そしてこんどは世界への宣教の話。
 神様は、イスラム教のときにはアラビア語だけで宣教することを望んだようですが、このときには世界のいろんな言語で宣教することを望んだのです。
 言語が違うってことは文化が違うってことですから、キリスト教は、世界のいろんな地域の実情に応じた多様なあり方で宣教しなさいってことなんだと思います。これだけが正しいっていうんじゃなく、いろんなあり方があってよい。
 特に日本では、自然の中に神を見る考え方とか、和をもって尊しとなすとか、セックスに対してとてもおおらかとか、本来のキリスト教にはないいろんな要素があるんで、こういうのを積極的にとりいれていかなきゃいけないんじゃないかしらって思ってるんです。
 そんなわけで私は、偶像にもおおらかだし、セックスにもおおらかだし、そういうキリスト教のあり方を模索しているんです。