真理子の聖書日記
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このサイトを作りながら、聖書を読みながら真理子が考えたことです。
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[720]ペンテコステと多言語
投稿者=真理子
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掲示日=2011/06/12(日) 09:33:07
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今日はペンテコステです。日本ではまだ馴染みがないかもしれませんが、キリスト教ではクリスマスや復活祭と並ぶ大きなお祭りです。
もともとユダヤ教では過越祭50日後に五旬祭というお祭りがあったんですが、過越祭の翌日(ヨハネだと翌々日なんだけど)にイエス様が復活しちゃいましたので、キリスト教徒にとっても復活49日後てことになります。復活が日曜日ですからこの日も必ず日曜日になります。
で、この日に使2のように、空から舌が何本もべろべろべろと使徒たちの頭上に降りてきてぺろぺろぺろ、そしたらみんな突然外国語能力が身についていろんな言葉をしゃべるようになりました。これが世界への宣教の始まり。キリスト教会の始まりってことになるんです。
舌がべろべろって気味悪いですけど、仕事能力の象徴が手、知力の象徴が頭、移動能力の象徴が足……、日本では言語能力の象徴は口ですけど、泰西では舌なんですね。
いろんな言語をしゃべるようになったのが教会の始まりってわけで、キリスト教は当初から多言語的なんですね。
そして、多言語といえばもう一つ、創11のバベルの塔の話が有名です。当サイト「ばべるばいぶる」はこちらから名をいただいてるわけですけどね。
この両方のエピソードに共通することって何でしょうか。
「いろんな言葉をしゃべろっていうのが神様の意思だ」ってことなんだと思います。
バベルの塔の話は、「人間の思いあがりに対する警告」みたいにも読めますけど、創11:4を読むと、「有名になろう(=思いあがり)」だけでなく「全地に散らされることのないようにしよう」とあるのに注意してください。
神様は、人間の団結を望んでないんです。いろんな違いを持ちながら全地に散らばることを望んでるんですよ。同じ言葉をしゃべって同じ文化をもって同じところにかたまるのは罪なんです。
最近の震災・原発事故の話でいえば、バベルの塔の話は、原子力の火という制御不能のものに手を出す人間の思いあがりというふうにも読めますけど、むしろ、「がんばろう日本」「絆」みたいな、団結をことさらに強調するうっとうしさへの警告みたいに私は考えてます。
むしろ、みんなばらばらになりましょうよ。
同じことを考えてたら、みんなで間違った方向に進んじゃうかもしれませんよ。ネズミの集団自殺みたいに。
そしてこんどは世界への宣教の話。
神様は、イスラム教のときにはアラビア語だけで宣教することを望んだようですが、このときには世界のいろんな言語で宣教することを望んだのです。
言語が違うってことは文化が違うってことですから、キリスト教は、世界のいろんな地域の実情に応じた多様なあり方で宣教しなさいってことなんだと思います。これだけが正しいっていうんじゃなく、いろんなあり方があってよい。
特に日本では、自然の中に神を見る考え方とか、和をもって尊しとなすとか、セックスに対してとてもおおらかとか、本来のキリスト教にはないいろんな要素があるんで、こういうのを積極的にとりいれていかなきゃいけないんじゃないかしらって思ってるんです。
そんなわけで私は、偶像にもおおらかだし、セックスにもおおらかだし、そういうキリスト教のあり方を模索しているんです。
[719]ピリピ(フィリピ)書1-2章
投稿者=真理子
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掲示日=2011/06/12(日) 09:06:04
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=phi&chapter=1&mode=0
bit.lyによるURL短縮、意味ないんでやめますわ。
フィリピというのはマケドニア南西部の地名。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%94
いま、バカ亭主が「ギリシアを子どものおちんちんに見立てると寒くて縮こまった袋の後ろの付け根って書けよ」と茶々をいれてますが、まあそんなところです。でも、男性器に見立てるならインドシナ半島のほうがはるかにリアルじゃないかしら。
ところでこのウィキペディア、見出しが「ピリッポイ」ですね。古典ギリシア語だっていうならまだいいんですけど、「現在の都市フィリッポイ」「日本語聖書の訳語慣行ではピリピ、フィリピとも」って書いてるのは読み方がウソですよ。これじゃまるでフィリピというのがウソ読みのような気になりますけど、??は現代ギリシア語ではオイじゃなくイなんです。だからフィリピでいいんですよ。
ふだんから古典ギリシア語を読むときに現代語式に読まないから、こんなウソを書くんです。
で、前回のエフェソ、今回のフィリピ、次のコロサイ、ちょっと飛ばしてフィレモンをまとめて「獄中書簡」と言います。パウロが獄中で書いたというわけです。もっとも前回のエフェソと次のコロサイはパウロのなりすましが書いた手紙ですけどね。
この中で、フィリピが一番獄中らしい書き方かもしれません。1章なんか、キリストの名において死ねるならうれしいんだけど、生きてたほうがもっと宣教できるし、なんて言ってますものね(フィリ1:21-25)。
人間、獄中で戦うとずいぶん思想が先鋭化するようで、フィリ1:29なんか、「苦しみだって神の恵みだ」なんて言ってますね。こういう言葉を信じて初期のキリスト教徒はどんどん殉教してったんでしょうか。映画『クォ・ヴァディス』みたいに競技場でライオンの餌食になったりね。複雑な気分だわ。だってローマなんか皇帝崇拝さえやれば異教の信仰には寛容な国だったのよ。その証拠にミトラス教とかマニ教とかペルシア起源の宗教が特に迫害もされずに流行したじゃない。キリスト教もそんな感じでローマとなあなあで広める道だってあったと思うのに。これは馬鹿パウロの罪よね。
使16:9-15に、パウロがフィリピに行ったいきさつが書かれておりますので、あわせてお読みください。
フィリ2:6-11は、パウロの考えに基づくキリスト教の根本的な考えがうまくまとまっているところなんで、よく引き合いに出されます。